主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

<   2010年 02月 ( 50 )   > この月の画像一覧

f0009381_171421100.jpg監督:ペニー・マーシャル
脚本:ナット・モールディン/アラン・スコット
撮影:ミロスラフ・オンドリチェク
音楽:ハンス・ジマー

出演:
デンゼル・ワシントン (ダドリー)
コートニー・B・ヴァンス (ヘンリー・ヒックス)
ホイットニー・ヒューストン (ヘンリーの妻ジュリア)
グレゴリー・ハインズ (不動産業者ジョー・ハミルトン)

        *        *        *

神の使いで地上に降りた天使のデンゼル・ワシントンだったが、プリースとの妻ホイットニー・ヒューストンに惚れてしまうも、自制心を保ちながらさりげなく人助けして帰っていく話。

私の大好きなペニー・マーシャル監督作品なれど・・、これはもうちょっとだったかな。悪い話ではないのだけど、どうにも一人の歌手のプロもみたいな映画になってしまうとなんか楽しくなかった。ホイットニー・ヒューストンの歌のシーンがやたらとあって、そこは飛ばしてなんとか終わった。いつもたのしませてくれるペニー・マーシャルのなかではちょっと期待はずれのほうに入ってしまった。

この映画のポイントは、牧師を助けるために使わされた天使だが、さりげなくその妻に恋してしまい、ささやかなわがままを楽しみつつも、冷めかけていた二人の関係を修復し、地域に愛を再び植えて受けて帰っていくというところ。さりげなく人妻に恋するダドリーがなかなかチャーミングで素敵だ。

<あらすじ>
クリスマスまであと1週間。聖マシュー教会の牧師ヘンリー・ヒックス(コートニー・B・ヴァンス)は、老朽化した建物を再建し、住民の心も離れがちな現状を改善すべく日夜奮闘していたが、見も心も疲れ果てていた。そんな彼の祈りをきいて神が天使を地上に送った。
ヘンリーの迷惑顔もよそに教会に居ついてダドリー(デンゼル・ワシントン)は、さりげない真心と、ささやかなマジックで人々の心に暖かい灯をともしていく。しかし教会は地域出身の不動産業者ジョー・ハミルトン(グレゴリー・ハインズ)に奪われようとしていた。彼はそこを更地にしてショッピングモールを建設する予定だった。そんなハミルトンに屈服するヘンリー。納得いかないヘンリーの妻ジュリア(ホイットニー・ヒューストン)はヘンリーにも冷たく当たる。ヘンリーもそんな戯言にか回っている暇はなく、地域への奉仕活動で忙しく、なんとか仲直りにだドリーがセッティングしたジャズクラブでのダンスも、キャンセル。ダドリーにエスコートを任せてしまう。二人の思い出のジャズ・クラブで彼女はだドリーと楽しい時間をすごしたようだ。しかし、ヘンリーはそんなだドリーに嫉妬しはじめる。
クリスマスの日、教会の最後のミサへハミルトンを招いたのはダドリーだった。かれは教会の暖かさを知り手を引くと約束する。信者と喜ぶヘンリーとジュリアは、ダドリーに気付かず我が家へと向かう。彼らの記憶からダドリーは失われたのだった。その様子を見てダドリーも仕事が完了したことを悟り一人立ち去っていくのだった。
by ssm2438 | 2010-02-28 17:14 | ペニー・マーシャル(1943)

最後の初恋(2008) ☆☆

f0009381_12551864.jpg監督:ジョージ・C・ウルフ
原作:ニコラス・スパークス
脚本:アン・ピーコック/ジョン・ロマーノ
撮影:アフォンソ・ビアト
音楽:ジャニーン・テソリ

出演:
リチャード・ギア (ポール・フラナー)
ダイアン・レイン (エイドリアン)
スコット・グレン (ロバート)

        *        *        *

画作りはとてもいい感じ

離婚して二人の子供を育てているダイアン・レイン。時折元夫のとのころに子供たちはお泊りにいくことになっている。その週末も子供たちを送り出したダイアンレインは、海辺にある小さなペンションを5日間だけ代わりに管理して欲しいと友人から頼まれ、ノース・カロライナのアウター・バンクスにある小さな町ロダンテに向かう。そこを訪れた唯一の客リチャード・ギアとのロマンスを描いた映画。
アフォンソ・ビアトの画面はすこぶる素晴らしい。望遠の画面がやたらと効いていて、ドラマチックな雰囲気をかもし出してる。だいたい浜辺にぽつんとたつペンションというだけですでに映画としてなりたっている。このペンションを望遠で撮るだけで気持ちがいい。
お話はかなりスタンダードで、お行儀のいいメロドラマといった感じ。原作は『メッセージ・イン・ア・ボトル』ニコラス・スパークス。・・・しかし、どうもこの人の書くお話は理性がききすぎていて、魂が理性を突き抜けるもにならない。図式的な感情処理なので、ハーレクインロマンス的な感じがする。どちらかというと感情移入するというよりも、見せられるタイプの映画だ。

医師ポール・フラナー(リチャード・ギア)は頬に腫瘍のある女性患者の手術中に、彼女を死なせてしまい、その患者の夫ロバート・トレルソン(スコット・グレン)に医療ミスで訴えられている。そのトレルソンから手紙をもらい、彼に会いにきていたのだ。しかし彼を家を訪ねると、その息子はポールのジャガーに蹴りを入れて追い返してしまう。その週末にはハリケーンが近づいてきており、エイドリアン(ダイアン・レイン)は食料を買い込んでいた。その食料品店で、トレルソンとフラナーの噂話を耳にする。
そのトレルソンがペンションにやってきた。ポールは手術と、患者の死にの原因について説明するが、トレルソンは「妻の目は何色だったか覚えているか?」と問う。答えられないポール。トレルソンは黙って帰っていった。そのやり取りをみていたエイドリアンは「彼は悲しみを知って欲しくて着たのよ。名のにあなたは自己弁護ばっかり」とポールの態度を非難する。
ポールにとって患者が誰であるかなどということは関係のないことだった。手術というのは作業であり、その中には対処不可能は事態も起きる。しかし、妻を失ったトレルソンにとっては最愛の人を失ったのだ。その心のすれ違いが、トレルソンを訴訟をおこさせ、怒りの表現にしていたのだ。

このあたりが、実にこのニコラス・スパークス原作の記号的なところなんだよね。私が想像するに医師というものは、それを作業として行い、死というもをそれ避けられない現実として受け入れなければやっていけないものだと思う。一般人が死に直面するのはそれほど多くないが、医療関係者にとっては日常茶飯事であり、それの総てに感情移入していては精神も身体ももたないはずだ。ゆえに医療ミスの裁判に関してはかなりの確立で医者が保護されている。これは手術に責任を感じすぎるとそれ自体の執行に不手際が生じかねないからだろう。手術を依頼する側もそれを理解して、手術に踏み切っているものだ。
そこを「おまえは感情移入してないからけしからん」というのは、登場人物の怒りのモチベーションにするのは浅はか過ぎると思う。このニコラス・スパークの原作にはそういうところが多い気がする。そしてこの映画のなかのそれぞれのキャラクターの行動のモチベーションが実に記号的なのだ。

f0009381_12545866.jpgハリケーンの夜を二人でなんとかやり過ごしたポールとエイドリアンは、再びトレルソンの家にいき、感情移入するべき相手として言葉を交わす。別にそれぞれが非難と弁護のがなりあいをするわけではなく、トレルソンは妻への想いを静かに語り、ポールはそれ静かに聴き、オーバーな表現をするわけでもなく「アイムソーリー」と言葉を搾り出すだけだった。
やがてハリケーンが通り過ぎたお祝いに町のパーティが行われ、その夜ポールとエイドリアンはお互いを求めあう。そしてポールは息子のいる南米へ旅立っていく。それからのエイドリアンの生活は輝きをとりもどしてきた。ポールからとどく手紙をまち、以前あきらめた工芸家としてのものづくりもはじめてみる。娘とのギクシャクもすこしづつ取れていく。そしてポールが帰国するという日、二人はあのペンションで逢うことにしていた。しかし彼は来なかった・・。翌日彼の息子マークが訪れ、父ポールの死を告げて遺留品を残していった。その中にはエイドリアンから届いた手紙とまだ出されていない一通の手紙があった。その手紙には、帰国したらエイドリアンと彼女の子供たちと一緒に暮らしたいという想いがつづられていた・・。
by ssm2438 | 2010-02-28 12:56

イルマーレ(2006) ☆☆☆

f0009381_2223496.jpg監督:アレハンドロ・アグレスティ
脚本:デヴィッド・オーバーン
撮影:アラー・キヴィロ
音楽:レイチェル・ポートマン

出演:
キアヌ・リーヴス (アレックス)
サンドラ・ブロック (ケイト)

        *        *        *

韓国版のオリジナル『イルマーレ』をハリウッドに移植した映画なれど・・・とっても良かった。原作自体がありえないファンタジーなのだが、ネタとしてとてもいい物語なのだろう。アメリカで作られたこの映画も全然普通にみられた。
時間軸を越えて展開するドラマだが、この映画の最大の魅力は、二年後を生きているサンドラ・ブロックのほうが、これから何が起きるかを知っている。そして2年前を生きているキアヌー・リーブスのほうが、その日、何処にいたかさえ判ればサンドラ・ブロックに、会えること、でも2004年の彼女はキアヌーのことを知らない。この不自由さがいいころあいでファンタジーをさりげなく感動的な物語にしている。まさに発想の勝利の映画だ。

ただ、サンドラ・ブロックの2年前にキスした相手が交通事故で死んだのをみとったにもかかわらず気付かないのか? ましてやそれが、アレックスだとなぜ気付かない? というか、この辺はオリジナルでもなかっただんどりだったので、やっぱりサンドラ・ブロックのバースデイ・パーティでキスするイベントは不要だったと思う。あるいは・・・交通事故で死んだ男のくだりになんらかの誤訳が発生してるのか? これがオリジナルの英字字幕をみないことにはなんともいえないのだが・・・、後発な映画ならもうすこしタイム・パラドックスは整理してほしかったなあ。つくるんならもっとなにか別の、心のふれあいの場面にできなかったものか・・。
しかし、その段取りは不自然だったが、それ以外は見せ方も良かったし、きわめて納得のできる映画になっていた。韓国版のオリジナルと比べても、どちらもとてもいい出来だったと思う。

<あらすじ>
2006年、医師としてシカゴの病院で働くことになったケイト(サンドラ・ブロック)は、湖岸に立つガラス張りの一軒家から引っ越すことになる。出発の日、荷物をまとめたケイトは郵便受けに次の住人へのメッセージを残す。
2004年、湖の家に引っ越してきたのはアレックス(キアヌ・リーブス)という青年建築家だった。彼の家庭は家庭をみず仕事に没頭した父のせいでバラバラになってしまった経緯があり、父の経営する事務所で働くのは拒んで他の事務所に所属していた。その家に引っ越してきたアレックスは郵便受けにあった奇妙な手紙を見つけた。ケイトの残した手紙を不思議に思いながら、アレックスは返事を出す。しばらくして返事が返ってきた。しかしその手紙には腑に落ちないことが書いてある。そして二人はその郵便箱が2年間の隔たりを越えて通じ合ってるタイムトンネルだと気付く。なかなか現実を受け入れることができずにいたが、ケイトの手紙どおり季節外れの雪が降り、どうやら同じ犬を飼っているらしいことから、この奇妙な事実を受け入れざるを得なくなる。それからというもの、戸惑いながらもふたりは手紙を書き始めた。
先にアレックスが2004年のケイトに会うチャンスを得た。ふとしたきっかけで知り合った男が、ケイトの彼氏であり、ケイトの誕生パーティにそのとき付き合っていた彼女と一緒に招待されたのだ。複雑なきもちでそのパーティにデ出席したアレックス。2004年のケイトには彼氏がいて、しかも自分のことは知らない。どう接するべきか判らないアレックス。パーティを抜け出し、外で一人でいるとケイトが出てきてしばらく話し込む。なんとなく親しみを感じた二人は中から流れてくる音楽にあわせてダンスをし、キスまでしてしまう。しかしそのシーンをケイトの彼氏にみられてその場は気まずいまま終了。そのあと二人は手紙でケンカをしたが、会いたい気持ちは押さえられないアレックスは、2年後に『イルマーレ』というレストランで会うことにする。アレックスは2年後の今日に予約を入れる。
2006年のケイトはそのレストランで待っていたが、彼は来ない。その2年の間に何があったのかわからないが、とにかく彼は来なかった。運命を知ったケイトは、アレックスに最後の手紙を書いて文通をやめる決意をした。
その手紙のなかで、バレンタインデイにある男の人が交通事故にあい、患者として運ばれてきたが死んでしまったことを引き合いにだして、「きっと彼には待っている人がいたはず。でも、私はこのままあなたを思い続けたら私を待っていてくる人は誰もいないまま死んでしまうことになる。私は現実の世界で生きるからもう手紙は書かないで」と伝えた。

そして元彼とよりを戻して新しい新居のリフォームを依頼しにある建設会社を訪れると、そこにはアレックスの建築画が飾ってあった。「この画を描いた人は?」と聞くと、1年前のバレンタインデーに死んだいう。その話をきいてあわてて駆け出すケイト。車を飛ばしてかつて過ごした湖畔の家のポストまで車をとばし、「その場所に来ないで、2年待って」と手紙をだす。返事は来ない。祈る思い出そのポストに泣き崩れるケイト。そこに車のおとが近づいてくる・・・・。
by ssm2438 | 2010-02-27 22:24

25年目のキス(1999) ☆

f0009381_21141725.jpg監督:ラージャ・ゴスネル
脚本:アビー・コーン/マーク・シルヴァースタイン
撮影:アレックス・ネポンニアシー
音楽:デヴィッド・ニューマン

出演:ドリュー・バリモア

        *        *        *

どこまでも痛い映画だった・・・

ギャグのセンスも悪いし、ドリュー・バリモアが高校生にばけて高校生の実態を潜入ルポといのもかなりむりがあったような・・。そこで入っていけなかったのであとはひたすら痛いドリュー・バリモアを見せられるだけだった。後半なんとかみられるようになったが、とにかく前半の痛いドリュー・バリモアの高校生姿が耐えられない。

名門新聞社のコピー・エディターのジョジー(ドリュー・バリモア)にやっと記事を書くチャンスがまわってきた。それは高校に潜入して今どきのティーンの実態をレポートするというもの。なんとか高校生のふりして(信じられないことに他の生徒は彼女が高校生であると信じている・・ありえない!?)高校にはいるも、あまりに痛い。見かねた弟ロブ(デイヴィッド・アークエット)は同じ高校に入り込んで、ジョジーが「イカした女の子だ」と噂を流す。ジョジーは高校の英文学の教師サム(ミシェル・バルダン)に好意を抱き、サムもジョジーにひかれ、て行く。だが、自分が潜入記者だと告白せざるをえなくなり、サムは記事のために利用されたと思い込み破局。おまけに競合紙に、ジョジーの潜入ルポのことがすっぱ抜かれる。ジョジーは、25年間もキスしたことがなかった自分が、高校生活を再び経験して成長したこと、サムヘの愛を記事にして公開する告白する。そしてサムはジョジーへキスするために再び現れる。

・・・久しぶりに「見るだけ時間の無駄」を実感した映画だった。
by ssm2438 | 2010-02-27 21:24
f0009381_12175951.jpg監督:安田公義
原作:柴田錬三郎
脚本:星川清司
撮影:牧浦地志
音楽:斎藤一郎

出演:
市川雷蔵 (眠狂四郎)
成田純一郎 (片桐高之)
東京子 (小波)
丸井太郎 (十太)

        *        *        *

『眠狂四郎』は60年代に愛された赤毛の剣士である。クールにして非情、無欲にして残酷。『ゴルゴ13』から殺しの以来という能動的に作業部分を除けば、ほぼ眠狂四郎になるのではないだろうか。原作は「週刊新潮」に連載された柴田錬三郎の同名小説。

時は、無類の色好みで50人もの子をなしたと言われる11代将軍・家斉の治下。世に背を向けて孤独の中に生き、不敗の秘剣・円月殺法を振るう眠狂四郎は、転びバテレンのイルマンが黒ミサで大目付の娘をはらませ、その結果生まれたという出生の秘密があった。つまりハーフである。ゆえに江戸時代にはめずらしい赤毛でありすらりと背が高く、どこか日本人離れした妖艶さがある。そういえば『ゴルゴ13』のデューク・東郷もがロシア人の血が入った1/4入っているらしい。

『眠狂四郎』は確かにキャラクターとしては人をひきつけるある種の毒はもっているのだが、いかんせん本人の目的意識はないので、その辺がドラマとして弱い。本人が目的意識を持たないということは、巻き込まれ型のドラマにしかならないからだ。これが『ゴルゴ13』みたいに、人殺しの依頼なんぞを請け負っていたらもうすこしメリハリのついたドラマになっていたのではないかと思った。
さらに、狂四郎はけっこう女を犯すのだが、画としてそれほどのアピールがあらうわけではない。これが『御用牙』みたいなサービスエッチシーンでもあれば少しは見る気がするのだろうが、今の若い人たちが見たいとおもう映画ではないだろう。

家斉は、天明6年(1786年)家治(50歳)の急死を受け、天明7年(1787年)に15歳で第11代将軍に就任した。しかしまだ若すぎたため実質的に実権を行使したのは老中の松平定信であった。この時代は先の)家治の時代に老中だった田沼意知の文化がまだ反映している。
田沼意知は、それまでの農業依存体質を改め、重商主義政策を実行に移した。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を株仲間として公認、奨励して、そこに運上・冥加などを課税した。町人資本による印旛沼・手賀沼の干拓事業、さらに長崎貿易を推奨し、特に俵物など輸出商品の開発を通じて金銀の流出を抑えようとした。また、蘭学を奨励し、工藤平助らの提案によって最上徳内を蝦夷地に派遣し、新田開発や鉱山開発、さらにアイヌを通じた対ロシア交易の可能性を調査させた。商業に重点をおいた重商主義で町人の文化は急激に発達、初期資本主義が構築された。しかしその反面賄賂が横行、政治腐敗が横行していた。
賄賂により政治腐敗さへなければ、この時代は文化的にはとても歓迎された時代だったのだと思う。

これを改めるために松平定信が老中になった行ったのが寛政の改革。松平定信は政治の健全性を優先し、都市部に出てきた農民を帰国させ、引き締め財政をめざした。しかしこれは経済政策としては失敗作であり、せっかく田沼意次時代に健全化した経済がだめになった。しかも、緊縮財政で政治腐敗を取り除こうとしたが、これもほとんど機能しなかった。正論だけを語った政治家だったとしかいえないので、私としては評判わるくとも田沼意次のほうが正しかったと思う。
本編でも、都市部に出てきた農民がたむろする橋の袂に集まった仮設集落でおきる殺人事件から物語が発展する。時代背景はさりげなくフォローされているのだなあっと関心した。

こんな時代を舞台にしたドラマも意外と多い。『鬼平犯科帳』も松平定信時代(家斉前期)のドラマである。『大岡越前』はこの前の時代であり『遠山の金さん』はこのあとの時代になる。昔NHKでやった『天下御免』は田沼意次時代の平賀源内を主役したテレビドラマだった。


<あらすじ>
将軍家斉の庶子の一人片桐高之(成田純一郎)は、川原で飢饉で地方から避難して来た百姓の老人相手に新刀の試斬りを行った。それを目撃した狂四郎(市川雷蔵)は高之の使いの女小波(東京子)に案内されて川舟へ呼び出され、仕官にすると勧誘される。さらに高之は狂四郎の愛刀無想正宗に興味を持ち、譲って欲しいと言う。話を断った狂四郎は、高之側近の剣客戸田と居合いの勝負を挑まれ、相手の右腕を斬り落した。高之は「その名刀夢想正宗、必ず手に入れる」と言い、狂四郎は「覚えておこう」と答えて去った。
一方父親を高之に殺された農民の太十(丸井太郎)は高之への仕返しをたくらみ、高之の言い名づけである小波を誘拐しようと試みる。しかし失敗、まだ幼女のその妹を連れてきてしまった。狂四郎はその妹は返しに小波を犯してしまう。怒る高之は川原の難民たちの掘っ立て小屋を襲いこれを馬で引き倒し、十太を捕まえ、手打ちにしようするが、狂四郎が現れ、自分の身と愛刀無想正宗と引き換えに十太を許すことを進言、狂四郎は囚われの身となる。
牢のなかの狂四郎をヤリで殺そうとする高之の母松女だが、これお人質にとった狂四郎は牢から脱出、寝技ですんで心を奪われていた小波が無想正宗を奪い返してくれる。
高之に先の川原で最終決戦を挑む狂四郎は、これを切り倒し終劇となる。
by ssm2438 | 2010-02-27 12:20
f0009381_1435931.jpg監督:ノーマン・ジュイソン
脚本:アラン・R・トラストマン
撮影:ハスケル・ウェクスラー
編集:ハル・アシュビー
音楽:ミシェル・ルグラン

出演:
スティーヴ・マックィーン (トーマス・クラウン)
フェイ・ダナウェイ (ビッキー・アンダーソン)

        *        *        *

こっちは銀行強盗だ!

ビジネスマンとして成功者のトーマス・クラウンは、スリルをもとめて趣味として銀行強盗をおこなうダテ男。その銀行強盗の事件にあった銀行が契約していたのがフェイ・ダナウェイの保険会社で、調査員として彼女が派遣されてくる。そしてふたりの心理戦がはじまる。

その昔飛行機の中でみた『トーマス・クラウン・アフェア』、・・・あれ、どっかでみたようなストーリーラインだなって思ってよくよく考えてたら『華麗なる賭け』のリメイクだった。でもオリジナルの「銀行強盗」という設定を「美術品強盗」に変更してあったので、実は最後まで気がつかなかった。しかし・・さすがに本家の設定は銀行強盗なので、少々シチュエーション的にシリアスです。当時はアメリカン・ニューシネマの時代で銀行強盗が映画のなかでやたらとはやった時代ではあるが、あんまり主人公に共感がもてないかな。あと画面分割をつかったマルチ画面がうざい! これを映画でやられると、まるでテレビみたいなショボさを感じてしまう。当時のお洒落をねらったのだろうが、あんまりいただけない。
・・しかし、そうはいってもなかなか見せる演出をしていた。二人がチェスをするシーンはかなり好きだ。手つきはまなざしだけでフェイ・ダナウェイを美しく演出している。すがノーマン・ジェイソン、さりげなく実力者である。個人的にはフェイ・ダナウェイにはあんまり魅力を感じないのだが、この映画の彼女はきれいだった。
撮影のハスケル・ウェクスラーも私の好きな撮影監督の一人。音楽はミッシェル・ルグランなので懐かしい60年~70年代の臭いがする。
ただ・・、グライダーは『トーマス・クラウン・アフェア』のほうが良かったかな。さすがに白で翼が長く、とても見栄えが良かった。この辺は60年代のデザインなのでしかたがないだろう。
余談だが、『あしたのジョー2』で矢吹丈と白木葉子がハワイの浜辺をバギーで走るシーンがあるが、きっとその映画の二人がバギーを走らせるシーンがそのモデルだろうなってずっと思っている。

<あらすじ>
ボストン。昼間の顔は大金持ちの実業家のトーマス・クラウン(スティーヴ・マックィーン)、しかし、彼は満ち足りた生活では得られないスリルをもとめて銀行強盗を実行する計画を立て実行してしまう。クラウンは奪った金に自分の金を足して、ジュネーブの銀行に預金した。被害を受けた銀行が加入していた保険会社調査員のビッキー・アンダーソン(フェイ・ダナウェイ)を派遣する。実業家クラウンがあやしいとめぼしをつける。付き合うようになったクラウンとビッキーはスリリングな恋愛を展開していく。
クラウンは、もう一度最後の冒険を試みて、その後南米に逃げる決意をし、それをビッキーに打ち明ける。計画は前の時と同じように実行され、成功したかに見えたが・・・。
by ssm2438 | 2010-02-26 14:35 | H・ウェクスラー(1926)
f0009381_1052578.jpg監督:ボビー・ファレリー/ピーター・ファレリー
脚本:ローウェル・ガンツ/ババルー・マンデル
撮影:マシュー・F・レオネッティ/グレッグ・ル・ダック
音楽:クレイグ・アームストロング

出演:
ジミー・ファロン (ベン)
ドリュー・バリモア (リンジー)

        *        *        *

バーニー・ウィリアムスがセンター守ってる!?

昔見た試合を別の角度から見せられるとなんだか感動するなあ。松井秀喜がヤンキースに入って二年目の年だ。この年テキサスからA・ロッドが移籍してきて、グレイ・シェフィールドA・ロッド、松井で3人そろってホームラン30本・100打点以上を記録した年。ジェイソン・ジオンビーがあんまり機能しなくて、ほとんど松井にその立場を取って代わられてた。対するレッドソックには、カート・シリングペドロ・マルチネスがいて、1番にジョニー・デーモンデビット・オルティスマニー・ラミレスが3番4番を打ってた。懐かしい。
そんな2004年のシーズンと平行してドラマはすすんでいく。

これはなかなかの拾い物だった。『メリーに首ったけ』とか『ジム・キャリーはMr.ダマー』とか、ファレリー兄弟の映画というのは個人的にはまったく好きではないのだけど、これは以外にも良かった。いつものバカ騒ぎだけじゃなくて、きちんとラブコメとしても成立してる。とても理性の聞いた映画なのだ。主人公のジミー・ファロンは無類のレッドソックス・ファンだが、ドリュー・バリモアと付き合うようなると、必要彼女と一緒にいることを優先させる。ドリュー・バリモアも球場に行けば周りの雰囲気をこわさないように、試合を楽しむ努力をしている。決して「やめろ」とは言わない。立場が違う二人がなんとかお互いのことを思いあって、少しづつ自分を抑えて二人でいることを優先しようとする。その辺りがこの映画のリアルであり、愛すべきところかな・・。

ちなみにタイトルは意味不明。前作の『25年目のキス』にかこつけて無理やり「キス」って言葉を入れ込んできてるようだが、原題は「フィーヴァー・ピッチ」、・・・熱い投球? 『グリーンモンスターを愛する人々』とか・・、なんかフェンウェイパークがらみのタイトルにしてほしかったなあ。

<あらすじ>
2003年の10月、ボストン。自分と同様の野心を持つ男としかつきあったことのないリンジー(ドリュー・バリモア)は、数学の得意な高校生たちの職場見学を受けるが、そのときの引率教師ベン(ジミー・ファロン)にデートを申し込まれ付き合い始める。ユーモアのセンスにあふれたベンは学校でも人気者の教師だったが、そのウィットな性格はリンジーの心も癒すことになる。しかし彼女の女友達は、なんであんなにいい人なのにいまだに独身なんだ?と疑問を持ち、なにかしら怪しい趣味があるのではないかと疑いはじめる。
年が明けた2004年。親にもベンを紹介したいと思うようになったリンジーは、故郷のボルチモアに3月に一緒に行こうとベンをさそう。しかしベンは、ボストン・レッドソックスのキャンプを観にフロリダに行くので、ボルチモアへは行けないと言う。シーズンが始まるとさらにベンの本性が浮き彫りになっていく。しかしそれ以外はとっても人のいい彼なのでリンジーもなんとか彼に歩み寄ろうと努力する。リンジーのそんな歩み寄りを見ているとベンも社会性をしめすようにな。ふたりが少しづつ自分をさえつつ二人でいることを構築していこうとする。
その日はレッドソックとヤンキースの試合の日でも、リンジーの友達の誕生パーティに付き合う。帰り道にニュースを耳にすると、ヤンキースの松井 秀喜が2本のホームランを放ち、8回までに0-7でレッドソックスボロ負け。それほど気にする様子もみせず、しかし二人とも少しづつ自分を抑えながら幸せそうな雰囲気につつまれて、リンジーの部屋に着くとこれまでにないような気持ちのいいセックスをする。二人がその余韻に浸っているとベンの友達から電話がかかってくる。
なんとレッドソックスが9回に8点をいれて大逆転したというのだ(実際そういう試合があった)。ニュースをつけると、街ではレッドソックス・ファンが大騒ぎしている。こんな世紀の試合を見逃すなんて・・・とベンは自己嫌悪、やりきれない怒りを爆発させる。
「ボクは23年間レッドソックスを愛してた、君に23年も愛した何かがあるのか?」
レッドソックスを愛するように、いつかは自分のほうを愛してくれると期待していたリンジーには耐えられない出来事だった。

東地区の優勝はヤンキース。レッドソックスもワイルドカードでプレーオフ進出が決まった。それぞれの相手を倒したレッドソックスとヤンキースは再びア・リーグチャンピオンをかけて激突する。リーグチャンピオンシップは7試合、しかし最初の3試合で負けたレッドソックスには後がない。4試合目の試合会場、周りのレッドソックスファンに裏切り者と呼ばれなが、ベンの叔父から受け継いだシーズンシートの権利を売る契約書にサインしようとしている。手が震えてサインできないベン。電話でそれを知ったリンジーは、昇進パーティの会場からフェンウェイパークに向かう・・。既にチケットは完売、なんとかダフ屋からチケットを買って入場するが、それが外野席。ベンがいるシーズンチケットはベンチのすぐそば内野席。外野席に入ったリンジーは試合中のグランドに飛び降りフィールドを駆け抜ける。係員が止めに入る。「売ってはダメ」と伝えるためにフィールドを駆け抜けるリンジーであった。

3-4とレッドソックスが1点ビハインドの9回裏、代走で出てきたデイブ・ロバーツ(沖縄出身で、母が日本人のハーフ)が決死の二盗を決める。これで落ち着きを失ったヤンキースの守護神、マリアーノ・リベラビル・ミューラーに同点タイムリーを浴びる。試合は延長戦に突入し、デビッド・オルティスが劇的なサヨナラホームランを放ち、レッドソックスがやっと1勝目を手にする。そのあとも3連勝しなんとリーグ優勝。
ワールドシリーズはナ・リーグを圧倒的な力で勝ちあがってきたセントルイス・カージナルズ(ベンチに田口壮もいた。余談だが『巨人の星』にでてくるアームストロング・オズマはこの球団に属していた)。リンジーがフィールドを横断した試合からレッドソックスの勢いは止まらない。カージナルスも4タテでついにバンビーノの呪いから解き放たれたのだった。
by ssm2438 | 2010-02-26 10:54

背徳の囁き(1989) ☆☆☆

f0009381_931854.jpg監督:マイク・フィギス
脚本:ヘンリー・ビーン
撮影:ジョン・A・アロンゾ
音楽:マイク・フィギス/他

出演:
リチャード・ギア (デニス・ペック巡査)
アンディ・ガルシア (レイモンド・アヴィラ捜査官)
ローリー・メトカーフ (エイミー・ウォーレス捜査官)
ナンシー・トラヴィス (レイモンドの妻・キャスリーン)
ウィリアム・ボールドウィン (ヴァン・ストレッチ)
フェイ・グラント (ヴァン・ストレッチの妻ペニー)

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善悪を語る映画ではない!

ビデオ発売時のタイトルは『インターナル・アフェア/背徳の囁き』。原題がインターナル・アフェアーズ(=内務調査)。

この映画が公開された当時は、リチャード・ギアが悪玉をやったということでさりげなく取りだたされていたが、私の見たところ別に悪役をやっているわけではない。対するアンディ・ガルシアが善玉をやっているわけでもない。ただ、この二人には共通点があって、どちらも同じくらい非道なキャラなのだ。この映画では、どちらもが人の弱みにつけこん、自らの目的を果たしていく。

アンディ・ガルシアは、人の<理性>をマニュピレートするのが上手い非情な内務捜査官。捜査対象相手に、「お前はこうすべき人間だろう、もしそれが出来なかったら、お前は首になるぞ。女房子供も郎党に迷うぞ。年金もパーだぞ。そうなりたくなかったら誰がやってるのか言え」みたいに、その捜査対象人物が、社会に所属しているが故の責任や義務、そしてパニッシュメントをちらつかせて情報を引き出していく。彼にかかれば、その相手は、しゃべっても破滅、しゃべらなくても破滅・・である。
一方のリチャード・ギアは、人の<欲望>をマニュピレートするのが上手い悪徳警官。こちらは人の根本的な欲望、「お金が欲しい」とか「女が欲しい」「安定が欲しい」という、そういった欲望をちらつかせて人々をマニュピレートし、自らも私腹を肥やしている。ゆえに、アンディ・ガルシアと違って、こちらは他の警官仲間からも信頼が厚い。アンディ・ガルシアの場合は、正論を強請してくるので、周りからは嫌われている。
そんな仲間からの人望も厚いリチャード・ギアと分らず屋の内務捜査官アンディ・ガルシアの対決がこの映画の醍醐味となる。このキャラクターの描き別けのポイントが把握できなければ、この映画はただの警察内部の腐敗に挑む正義感の強いアンディ・ガルシア主演の刑事ドラマってことになってしまう。要注意!

監督は、『リービング・ラスベガス』でガツンな映画を一発撮ってくれたマイク・フィッギス。ただ、ほかの作品は特にすごいものがあるわけではない(苦笑)。イギリスのミュージシャンでもある彼は、音楽も同時にこなすことが多い。ただ、不思議なもので、音楽も自分で書く映画監督さんって、不思議とまったく印象のない音楽をつくる(苦笑)。自分が書けたたとしても、音楽は別の人に任せたほうが不思議といいものになる気がするのだが・・・。
あと、撮影はジョン・A・アロンゾ『未来警察』『ブルーサンダー』など、サスペンス系もしっかりとしたメリハリ画面つくってくれるし、『チャイナタウン』のようにシックな色合いも出せる。個人的には大好きな撮影監督の一人。

<あらすじ>
ロサンゼルス市警では、麻薬販売にも通じているデニス・ペック(リチャード・ギア)という警官を中心に腐敗が進行していた。しかし彼は仲間からは信頼が厚く、なかなか尻尾をださない。内務捜査班レイモンド・アヴィラ捜査官(アンディ・ガルシア)とエイミー・ウォーレス捜査官(ローリー・メトカーフ)は、そロス市警の内務調査を依頼され、手始めにレイモンドの警察大学時代の友人ヴァン・ストレッチ(ウィリアム・ボールドウィン)の調査にかかった。彼は麻薬依存症にかかっていた。そして彼の妻ペニー(フェイ・グラント)もデニスの毒牙にかかり彼と情事を重ねるようになっていた。浪費家のヴァンの金の出所は、デニス・ペックの斡旋するアルバイトによって得ていることをつきとめた。レイモンドは、「誰が関与しているのかを話せば、懲戒免職の勧告は取り下げる」と伝える。しかしヴァンはそれを断わったが、そのことを知ったデニス・ペックは、レイモンドが守りたい者=妻キャスリーン(ナンシー・トラヴィス)をさりげなく恐怖させ、レイモンドをけん制する。
ある夜、パトロール中にヴァンが射殺された。レイモンドは犯人を捕まえ、デニスに頼まれてヴァンを殺したことを聞き出すが、その男も警察の狙撃隊に殺された。さらにデニスは、レイモンドに彼の妻キャスリーンと浮気したことをほのめかし、レイモンドの心をかき乱す・・。こうして、人の感情をマニュピレートするリチャード・ギアと、人の理性をマニュピレートするアンディ・ガルシアの戦いは激化していく・・。

蛇足ながら、キャスティングでちょっと気になるのがフェイ・グラントだろう。この映画に出る前『V(ビジター)』という宇宙人の地球侵略に対抗するテレビシリーズが作られて大ヒットし、その続編『V2』も作られたが、その地球側のレジスタンスのリーダーをやっていたのが彼女。敵の宇宙人に捕らえられて服を脱がされ(残念ながら白いボディスーツは着たまま)精神的な拷問を受ける、個人的にはとてもわくわくさせてもらった。そんな彼女がこの映画ではヌードもちらりと披露してくれている。『V(ビジター)』を見ていて、彼女のファンだったという人には必見の映画だろう。
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by ssm2438 | 2010-02-24 09:06
f0009381_19304171.jpg監督:ルイス・マンドーキ
脚本:ロナルド・バス/アル・フランケン
撮影:ラホス・コルタイ
音楽:ズビグニエフ・プレイスネル

出演:
アンディ・ガルシア (夫マイケル)
メグ・ライアン (妻アリス)

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私が女だったらこのアンディ・ガルシアは愛さない

監督は『ボクの美しい人だから』『メッセージ・イン・ア・ボトル』『エンジェル・アイズ』のルイス・マンドーキ。この人『エンジェル・アイズ』はけっこうよかったのだけど、『ボクの美しい・・・』ははずした。『メッセージ・・・』は完全にはみたことないのでちょっとわからない。演出力とかかなりこまかなメンタルを描ける人だと思うのだけど、どうも方向性がなかなか合わない監督さん。個人的にはこの映画のアンディ・ガルシアは生理的に好かんかった。
脚本もみてみると、ロナルド・バスはこれまた私の好きな『ヒマラヤ杉に降る雪』を書いている。他にも『レインマン』などあるのだからメンタル系の得意なひとだと思う。
これだけ、出来る人がそろっているのに、なにかイマイチ気持ちよくない映画だった。
ちなみに音楽は『ふたりのベロニカ』ズビグニエフ・プレイスネル。うひょおおおおおおお!!である。でも本編の映画音楽にはそれほどインパクトは感じなかった。
おまけにラブコメの女王メグ・ライアンなので、どう考えてもハズレはなさそうなのだけど・・・はずした。

アリス・グリーン(メグ・ライアン)は元教師、マイケル・グリーン(アンディ・ガルシア)とパイロット。子供は2人リいる。一人はアリスの先の夫との間に生まれた子で、もうひとりはマイケルとの間に生まれた子だ。確かに複雑な環境ではある。さらに夫はフライトで不在の時が多い。
しかし、マイケルの優しさは表面的なものであり、アリスにとっては、怒れないけど、不満を感じることが非常におおい。そんな不満を紛らわすためにアリスは酒に溺れていく。そしてマイケルが気付いた時には既に日常生活も困難な重度のアルコール中毒患者となっていた。
マイケルはアリスをリハビリテーション・センターに入院させせ、仕事をかかえつつ家事や育児の激務に神経をすり減らす。アリスは回復し退院したが妻をかばい、負担をかけまいとする夫の思いやりが逆にアリスを追いつめていく。マイケルの行為や発言は、アリスのプライドをさりげなく傷つけるものなのだ。2人はある日大ゲンカ、マイケルは家を出た。再び酒に溺れるアリス。はなればなれの生活が続き、やがてマイケルのデンバー転勤が決まった。マイケルがアリスのリハビリセンターを訪れた時、アリスの体験スピーチをが始まる・・。

・・・・これで仲直りですか・・???って感じでした。
多分この映画、二人ともミスキャストだと思うな。メグ・ライアンはまだいいけど、アンディ・ガルシアは全然ダメだった。なにをやってもうそ臭い。そのうそ臭さが前半部はいいんだけど、最後までうそ臭いので、そんな奴とまたひっつくか???って印象だった。
by ssm2438 | 2010-02-23 19:31
f0009381_17132921.jpg監督:クシシュトフ・キェシロフスキー
脚本:クシシュトフ・キェシロフスキー
    クシシュトフ・ピエシェヴィッチ
撮影:スワヴォミール・イジャック
音楽:ズビグニエフ・プレイスネル

出演:イレーヌ・ジャコブ (ふたりのベロニカ)

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共感するもがまったくないのに嫌いになれない不思議な映画

・・・なんなんですかね、この映画は???? 描かれていること総てが総て、私の求めているものとは反対のモノばかりなのだ。

まずこの基本設定。ポーランドとフランスで生まれた同じ誕生日、同じ時間に生まれた、同じ容姿をもつ女ベロニカ。この設定自体に現実のモノとして共感できるものはまるでない。完璧なファンタジーなのだ。
この二人のベロニカは、二人とも音楽に才能がある。しかしポーランドのベロニカは心臓に問題を抱えていたのか、舞台の上で倒れて死んでしまう。ポーランド・ベロニカの死に、ある種のとてつもない喪失感を感じたパリ・ベロニカは、音楽をやめてしまう。これもはなはだ理解できない。というか、そんなんで辞めてほしくない!でも、辞めてしまう。話のはじめにパリ・ベロニカには“H”をする相手が出来たが、すぐに別の男=人形使いの男に魅了されていく。そんな尻軽女ぶりを見せ付けるなよ! その人形遣いも、「ちょっと実験してみただけ」・・ですか? はあ~~~~~ん???? そんな男、好きになりますか?

結果的にここで描かれたパリ・ベロニカは、・・・一言で言うなら、根性なしの、自分の価値観(男に対しても、人生にたいしても)を持たない尻軽女でしかない。この映画は孔子や孟子の教えのような人生教訓を語るような映画ではない。せっかくファンタジーを規範にしたのなら、ファンタジーだからこそ描ける真実というのがありそうなものだけど、そういう類のものでもない。ただひさすらクシシュトフ・キェシロフスキーが自分の妄想を映画にしただけの映画といっていいだろう。
なのに、この映画は、それでも見ている人の心をひきつける何かがある。そこに何かしらの愛がある。なんなんでしょうね、これは???? 

で・・強引に答えをさがしてみた。
・・・・これって、もしかしたら、自らが封印した自分のアンチテーゼへの愛なのかなあって思った。この映画はそういう意図のもとに作られている・・という意味ではなく、クシシュトフ・キェシロフスキーが、つねにそういう感性をもちあわせているのではないかな・・となんとなく感じる。

つまり、人は誰しも二面性を持ち合わせている。頭のなかでは「強くならなければいけない」と状況分析するとそういう答えが出てくるが、反面「弱いままでいいじゃないか」というかんがえある。しかし、現実世界で「「つよくなる」を選択した以上「弱いままでいいじゃないか」は水面下に葬り去ることになる。それは反対かもしれない。「強くならなければいけない」を葬った人もいるだろう。さらにそんな「強い」とか「弱い」といったような白黒つけられないようなものもあるだろう。とにかく、今の自分を存在させるために封印したもの。それは常に自分の意識の中には存在するのだけど、生き方としては表面化しない、いやさせないようにする。それは心の引き出しの奥にそっと隠されたままになる。しかし、それは確かに存在している。たとえ表面化させないとしても、それも愛すべき自分の一部であることには違いない。それも自分なのだ。

f0009381_17135324.jpg・・・キェシロフスキーは、この映画にかぎらず、そういう潜在的に隠されたものに触れる瞬間を映画にしているように思う。感じることで、心の中に存在するその何かを手繰り寄せていくような映画。だから、きっとこの映画は、愛すべき映画なのだと思う。

ポーランド・ベロニカの父のアトリエや、おばの家に行く途中に車中からみた赤いレンガ屋根の教会(?)、これらがパリ・ベロニカの潜在意識の中にあることが語られるとぞわぞわぞわってしてしまう。そして、最後、大地からそびえる樹にふれてみるベロニカ。どああああああああっと湧き上がってくるズビグニエフ・プレイスネルの音楽・・・、まさに訳のわからない感動がだあああああああああああああああっっとあふれる映画だ。

この映画は、クシシュトフ・キェシロフスキーの映像とズビグニエフ・プレイスネルの音楽が、見る人に、その人の理性に隠された潜在意識の自分を愛することを今一度思い起こさせる、恐るべき映画だ!
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by ssm2438 | 2010-02-23 17:16 | K・キェシロフスキー(1941)