西澤 晋 の 映画日記

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2010年 04月 26日

ボディ・ターゲット(1993) ☆☆☆

f0009381_22464323.jpg監督:ロバート・ハーモン
脚本:ジョー・エスターハス
    レスリー・ボーエム
    ランディ・フェルドマン
撮影:デヴィッド・グリブル
音楽:マーク・アイシャム

出演:
ジャン=クロード・ヴァン・ダム
ロザンナ・アークエット

        *        *        *

これって、『シェーン』か何かを現代に置き換えたのかなあ・・???

実はジャン=クロード・ヴァン・ダムの映画のなかではかなり好きなほう。でも、彼のファンの人がみたら退屈かも。特に彼のアクションをみせようという映画ではない。ジャン=クロード・ヴァン・ダムでなくても出来る作品なのだが、それをあえて彼でやってしまったのがなかなかよかった。イメージ的にはハリスン・フォード『刑事ジョン・ブック/目撃者』に近いかもしれない。

この映画のポイントはやっぱりロバート・ハーモンな地味な演出だと思う。この人、『警察署長 ジェッシイ・ストーン』シリーズで実にいい仕事をしているのだが、その10年前にこの映画を撮っている。 個人的には『警察署長 ジェッシイ・ストーン』のほうが雰囲気が好きなのだが、この映画もそんなに悪くない。ただ、なんで主人公が囚人で、護送中に逃亡したって設定にしなくはいけなかったのだろうか??? ただの流れ者でもこの話は十分出来上がるのに、あえて逃走する囚人にする必要性があったのかどうか・・はなはな疑問である。しかし、やっぱりハーモンの演出は個人的には好感がもてる。
そしてこの映画のもっと素敵なところはロザンナ・アークエットだろう。若い頃のこの人はよかった。この映画でも子持ちの未亡人を演じているが、時折ヌードも披露してくれる。細身のくせに乳房はおおきく、ビジュアル的に実にさまになる。個人的には大好きな女優さんなのだが、作品には実にめぐまれなかった人だと思う。

<あらすじ>
囚人護送車が事故で横転し、数名決囚が脱走するという事件がおきた。そのなかにサム・ギレン (ジャン・クロード・ヴァン・ダム)もいた。彼は単身山中に逃げ込んだ。山に潜んだ彼をみつけたのは、ムーキーとブリーという子供だった。この接近遭遇はなんだか『ET』のような雰囲気があった(苦笑)。二人の子供はクライディ・アンダーソン(ロザンナ・アークェット)という女性の子供であり、彼女は、農場を営む若い未亡人だった。
しかし、アンダーソン一家の暮らす地域一帯は、悪徳開発業者フランクリン・ヘイル(ジョス・アックランド)によって土地開発が急速に進行し、土地譲渡を拒むクライディら反対派住民にダンストン(テッド・レヴィン)を中心とするボディガードたちを使い、執拗ないやがらせをし、なんとか土地から出て行かせようとしていた。
サムはヘイルの手下たちがクライディ母子を恐喝する現場に遭遇、彼らを叩きのめしたことでアンダーソン家の納屋を借りることになった。しばらくして、ヘイルによる住民への説明会が開かれるが、その夜、反対派の農家が何者かに放火される。
一方クライディにお思いを寄せる保安官ロニー(エドワード・ブラッチフォード)は、、サムがクライディの家に住み込んでしまったことが気に入らない。ヘイルに買収されているロニーはサムを激しく痛めつけた。サムはクライディの手厚い看護を受け、やがて次第に惹かれ合っていた2人は結ばれた。ところがロニーがサムの前科をクライディにばらしてしまう。サムはクラウディの前から姿を消した。しかし警察はサムを見逃さなかった。バイクで逃げようとするサムを騎馬警官隊が追跡する。その頃、クライディ家へヘイル一味が侵入する。警官隊の追跡を逃れたサムは、クライディの家へもどり、ヘイル一味とを倒した。そしてサムは3人に見送られながら警察に連行されていくのだった。

by ssm2438 | 2010-04-26 22:46
2010年 04月 26日

サイボーグ(1989) ☆☆

f0009381_22215145.jpg監督:アルバート・ピュン
脚本:キティ・チャルマース
撮影:フィリップ・アラン・ウォーターズ
音楽:ケヴィン・バッシンソン

出演:
ジャン=クロード・ヴァン・ダム (ギブソン)
デボラ・リクター (ナディ)

        *        *        *

ジャン=クロード・ヴァン・ダムはサイボーグじゃないよ。

こんなタイトルだからてっきりジャン=クロード・ヴァン・ダムがサイボーグなのかとおもったら大間違い。サイボーグのいうのは、人類絶滅を救うための情報をインプットされた女性のことで、彼女を守る役がジャン=クロード・ヴァン・ダム。
演出的にはかなりショボイ。映画マニア君が、その辺の流行の映画をみてつくったような映画。セルジオ・レオーネの『ウエスタン』でもあったが、幼い子供にロープをもたせ、その子が力尽きたら父親のクビがつられる・・というエピソードがここでも使われている。ジャン=クロード・ヴァン・ダムもよくこんな映画にでたものだ。ま、そこが彼のいいところでもあるのだけど。
B級マニアには受けるかもしれない作品だが・・、普通に見ると低次元の演出にいらつくかもしれない。

<あらすじ>
最近戦争の末、荒廃した近未来。生き残りの兵士ギブソン(ジャン・クロード・ヴァン・ダム)は、パールという女性をた助けたことから、その一帯を支配するギャング集団パイレーツに追われることになる。彼女は疫病治療の最後の希望である、その治療法をデータ化した電子チップをイ保存するために自らサイボーグとなった女性だった。
そのパイレーツの首領フェンダー(ヴィンセント・クライン)は、かつてギブソンの恋人を殺した相手でもあった。ギブソンは、途中の村でナディ(デボラ・リッチャー)という女性といっしょになる。一度はパイレーツの連中に捕まり、荒野に張り付けにされるギブソンだが、執念でそこから帰還、フェンダーと対決する。彼を倒したギブソンはパールを仲間のもとに送り届けた上で、ナディと共に再び野蛮な世界に一歩を踏みだすのだった。

by ssm2438 | 2010-04-26 22:23
2010年 04月 26日

ペーパー・チェイス(1973) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

f0009381_17115363.jpg監督:ジェームズ・ブリッジス
脚本:ジェームズ・ブリッジス
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:ティモシー・ボトムズ
    リンゼイ・ワグナー
    ジョン・ハウスマン

     *     *     *

リンゼイ・ワグナーつながりでもうひとつ。私の大好きな『ペーパーチェイス』『ふたり』とともに見たくて見たくてしかたがなかった映画であるが、こちらは幸いにしてVHSが発売された。20代の頃の私はこの映画をレンタルビデオ屋で見つけてどれだけ幸せになったことか。しかし、そのときはこの映画の価値など理解してもいなかった。ただ若き日のリンゼイ・ワグナーが出てる映画というだけしか興味はなかったのだが、みてみて驚いた。良い!! 恐ろしいまでにツボだった。いろんな意味でツボにはまった。

まず第一に、私はお勉強映画というのがけっこう好きだ。本作品は時代が時代だけにアンチ権力、アンチ権威的な匂いもしないではないが、それでもそれと戦うには最低限度の力をつけなければ何も出来ない。それを見せ付けてくれる。実力がなければなにもいえない世界。何かを主張したいのなら実力をつけなければならない。その厳しさがきちんと描かれていてることがとってもうれしかった。

第二に、リンゼイ・ワグナーがやっぱり美しい。私が知っていた彼女は『バイオニック・ジェミー』の彼女であり、この映画はそれより何年か先につくられている。がゆえに私がそれまで知っていた彼女よりも若いのだ。残念ながらグラマーなたいぷではないが、それでもかのじょがもつゴージャスさは十分にかもしだされていたし、どんな服装をしてみ素敵だった。そして彼女が出ている映画が「良い映画」だったってことがうれしかった。

そして第三にゴードン・ウィリスの画面。この映画ほど「氷のフィルター」をつけた感じの映画はないだろう。キングスフィールドの講堂、冬の公園やスタジアム、レッドセットの棚。とくにこの図書館に代々保管されているという教授のノートが保管してあるレッドセットの棚。あの赤さは素敵だ。この映画はキューブリック『2001年宇宙の旅』とさりげなくリンクしていると感じるのだが、あのコンピュータHALとこの映画のレッドセットの棚は実に同じ空気を感じる。もちろん作っている当事者はそんなことはきにかけてもいなかっただろうが、偶然にしてもあの同じように冷たく赤いあの感じは素敵だ。

最後に、そこに描かれている人間性。どうも私はあのくらいの人間と人間の距離感がすきらしい。ちかすぎてべたべたするのもあんまり好きではないし、かといって離れすぎてクールすぎるのもいまいち好きになれない。ちょっと距離をおいたつながり・・というのだろうか。あの空気感が好きだ。
結局のところ、この映画のもってる空気感が肌にあうのである。

そしてもうひとつ記しておきたいことがある。この映画実はイングマル・ベルイマンがシナリオを書いた『もだえ』と実にシチュエーションがにているのだ。こちらはラテン教師なのだが、『ペーパーチェイス』に出てくる完全無欠の歩く法律キングスフィールドは、あのラテン教師がベースに違いないと勝手におもいこんでいたりする。


この物語は主人公のハート(ティモシー・ボトムズ)はハーバード大学法学部の学生、そんな彼もキングスフィールド(ジョン・ハウスマン)の講義初日にその甘さをしたたかにうちのめされる。寮に帰るとトイレにはいり絶叫を便器にぶちまける。一筋縄では蹴落とされることを初日に心にきざむことになったハートは、向かいの部屋の血筋のよさげなフォード、巨漢で傲慢な部分があるベル、のちにアリーマイラブでアリーの父親役をやるケビン、常にマイペースでスマートに総てのことをこなしていくアンダースンたちとスタディグループをつくる。そこでは各自が講義の担当を決めてその講義に関しては責任を持ちノートをまとめ、テスト前にはそれを交換しあう約束をかわす。そのなかでハートはあえて強敵キングスフィールドの契約法の担当に自ら名乗りをあげる。

彼らにとって<女>は禁物だといわれている。女に割く時間があれば勉強したほうがいい。ペースの乱れが総てを台無しにしかねない。ハートもそれをわきまえてこつこつを勉強していくうちにキングスフィールドの講義でも徐々に頭角をあらわしてく・・が、ある晩ピザを買いにでかけたよるスーザン(リンゼイ・ワグナー)と知り合い付き合うようになると、勉強のペースがみださてていく。そして実は彼女がキングスフィールドの娘であることにきづく。
この物語の基本構造は、人間性ゼロの法律マシン=キングスフィールドと人間性の必要性をとくちょい甘のスーザンとの間でゆれるハート・・・という構成になっており、結局のところ人間性をもちつつキングスフィールドの知識も得る方向性でまとめあげている。

勉強のほうも少しずつ落ちこぼれていくものも出てくる。ケビンもその一人だ。
キングスフィールドのクラスにおいてはソクラテス方式の講義が行われている。Q&A、Q&Aの繰り返し、そのなかから自分なりに体系的にまとめ思考することを養っていく。しかしケビンは写真的記憶力にたより、思考することを得意としなかった。それがそれまでの彼の勉強スタイルだったのだろうがここではまったく通用しない。ことごとく総てのテストで落第点をとり、仲間からも大事にされない存在になり、自殺をはかろうともする。それは未遂に終わるが最終的には挫折して大学をさることになる。

一方と意外と大胆な行動力をみせるハートは早朝の図書館に忍び込み、一般には閲覧することが出来ない教授たちがのこしたノート=レッドセットを覗き見ることに成功する。そこで発見したものは・・・、自分たちが受けている講義とまったく同じ内容がそのノートにかかれているという事実だった。キングスフィールドの講義内容も彼自身のアドリブではなく、彼がうけた講義の転写でしかないのだ。その棚に並ぶレッドセットと呼ばれるノートはまるでデータとしてのこされたコンピュータのメモリのようであり、人から人へと受け継がれながら未来へおくられていく進化しないデータでしかないのだ。

そうしてキングスフィールドの思考体系を理解しつつあるハートは、講義のあとに呼び止められ、彼自身の仕事を手伝ってくれないかと要請をうける。認められた感をもったハートはその仕事を引き受けるが、その反面スーザンとのデートをすっぽかすはめになる。結果はハートの手に余る仕事であり、期限までに間に合わせることが出来なかったハート。もう少し時間が欲しいと申し出るが、キングスフィールドの言葉は冷たく「すでに上級生に頼んだ、君のはもう不要だ。帰って休め」と言うだけのものだった。

父は人間的な感情では付き合えない人なのだというスーザン、しかし何かしら期待をかけてもらっていると信じているハート。最終試験においても猛勉強のすえ高得点をえる。最後の講義の後「あなたの講義は素晴らしかった。おかげで力がついたと思います」と一言感謝の言葉をつたえるハートだったが、キングスフィールドの言葉は「・・・・君はだれだったかな」。その法律の伝道師はハートのことなど記憶すらしていなかったのだ。

成績が発表されるまでの間、ハートとスーザンはとある岬で休暇をとていた。そしてとどけられる成績通知書。ハートは中味を読まずにそれで紙ヒコーキを作り、海に向けてそれを飛ばし、それは波間に消えていった。


私が思うに、男という生き物は<認められたい生き物>なのだ。どんなに努力して自分が自分を認めたとしても、自分以外の誰かに認められなければその努力むなしいと感じる。
この物語は、<認められたい>と思い、それに挑んだが、その相手は認める能力すらないメモリーマシンだったというある種の悲劇なのだが、しかし、それは実際の世界ではここまで徹底的に認められないことはないまでも多かれ少なかれあることであり、その認められるための努力がその人を作っていくのだと思う。

PS:このキングスフィールドの演技でジョン・ハウスマンアカデミー助演男優賞を獲得した。

画像あつめてきました。
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by ssm2438 | 2010-04-26 03:29 | ゴードン・ウィリス(1931)
2010年 04月 25日

冬の光(1962) ☆☆☆

f0009381_10565856.jpg監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:ヨハン・セバスチャン・バッハ

出演:
グンナール・ビョルンストランド (牧師・トーマス)
イングリッド・チューリン (女教師・マルタ)
マックス・フォン・シドー (漁師・ヨナス)
グンネリ・リンドブロム (ヨナスの妻・アンナ)

        *        *        *

現実をファンタジーで理解していかなければならない牧師の苦悩・・・

「神の沈黙」三部作の2本目。ちなみに一作目は『鏡の中にある如く』、三作目は『沈黙』。しかし物語的にはまったく関連性はなく、あえてこのくくりを3本の映画にほごこすことはないと思っているのだけど・・・。しかし、そもそもこの「神の沈黙」とはいったいなんなのだろう? 

私なりに解釈すると、神のいうファンタジーが機能しない問題を映画にしている3本ということになる。神の名において説教しようとしても無駄なこと・・、それがこの3本のテーマなのだと思う。
ベルイマン自身は、ウプサラの司教の息子として生れたが、父とはまるっきり相容れなかった。ベルイマンの母は出産の際にスペイン風邪にかかっており、ベルイマンは生まれたときすでに瀕死の状態で、このためベルイマンは幼少時は非常に体が弱く、常に病気がちで、依存心が強く、学齢に達しても登校しようとしない子供だったそうです。そんなベルイマンを父のエーリックは、暗いクローゼットの中に閉じ込めたり、笞で打ったりと、非常に厳しい体罰でしつけたそうです。結局ベルイマンは19歳の時に家出、その後4年間、両親と会うことはなく、父との確執は大人になってからも消えることはなく、悪性腫瘍で倒れた父を見舞うこともなかったといいます。この父への反発と、父の職業だった牧師とい仕事(宗教)への不信感が、その後のベルイマンの映画をとる基本原理になっているしょう。
私にいわせるなら、ベルイマンの映画は父に対する復讐だったのでしょう。ベルイマンの映画にはこの父の亡霊がいつくもでてきます。それはあるときは母になり、あるときは姉になり、あるときは神父になり高圧的な態度をとってきます。しかしこの映画では、いつもの高圧的な父の亡霊は影をひそめ、逆に父の哀れさを強調しているといえるでしょう。
本作のなかでは、中国の原爆実験のあと、書くの潜在的な恐怖に悩む男が牧師に相談するのだけど、そんな問題牧師に解決できるわけがありません。もちろん解決することなんか誰にも出来ないのだけど、牧師というのは、ファンタジーで人の心を癒すのが仕事です。しかしその仕事すら出来ない哀れな牧師さん・・、そんな主人公を描いたのがこの映画なのです。

1963年度国際カトリック映画局グランプリ受賞、同年ウィーン宗教映画週間最優秀外国映画賞を受賞。

ちなみに、原爆の潜在的恐怖映画としては、黒澤明の『生きものも記録』タルコフスキーの『サクリファイス』などがあるが、正直なところどれも面白いとはいえない。ただ、他の2作が巨匠の映画なれど全然つまらないのに対して、この『冬の光』はまだ脳内刺激的に面白い。
世間には宗教を必要とする人がいて、それはアニオタがアニメを必要としているよなもで、ゆえにそれを配給する側もくだらないと分っていてもやめさせてもらえない現実がある。人のころは笑えないな・・・。

<あらすじ>
冬のスウェーデン、小さな町の日曜日の朝。無事ミサを終えた牧師トマス(グンナール・ビョルンストランド)は、漁師の妻のカリン(グンネリ・リンドブロム)から話を聞いて欲しいと言われる。彼女の夫・ヨナス(マックス・フォン・シドー)が中国も原子爆弾を持つというニュースを新聞で読んで以来、核戦争の恐怖でふさぎこんでいるというのだ。しかしトマスは最愛の妻に先立たれてから失意のどん底にあり、彼らの悩みを真剣に聞いて上げられる状態ではなかった。
そんなトマスのことをあれこれと気遣ってくれているのが、地元の小学校の女教師マルタ (イングリット・チューリン)だった。しかし彼女の愛は押し付けがましく、息苦しい思いさえしていた。
再び訪ねて来たヨナスと向きあったが、常識以上のことは何もいえず、ヨナスには何の力にもならなかった。ヨナスはそれから間もなく、河辺でピストル自殺で命を絶った。一方マルタも、彼の煮えきらない態度に決断を迫り、ヒステリックな言葉のやりとりかわすことになる。
それから数時間後、礼拝堂にたつトマス。しかしそこには町の人はだれもきいない。それでも型通りの式を進めていく牧師トマス。たった一人の聴聞者は別れたばかりのマルタだった。

ファンタジーで世界を解釈することにした彼、どこまでそれを貫くしかない。たとえむなしくてもそうするしかないのが彼の人生なのだろう・・・。三つ子のたましい・・というが、ベルイマンの父への憎しみと復讐心を感じる映画だった。
・・・しかし、なんでこんな宗教に懐疑的な映画に、宗教関係の団体は映画賞をあげたのだろう? ・・・わからん。

by ssm2438 | 2010-04-25 10:57 | I ・ベルイマン(1918)
2010年 04月 23日

鏡の中の女(1975) ☆☆

f0009381_23274339.jpg監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:チェービー・ラレティ

出演:
リヴ・ウルマン (精神科医・エニー)
エルランド・ヨセフソン (産婦人科医・トーマ)
グンナール・ビョルンストランド (祖父)

        *        *        *

ベルイマン映画なれど・・・、これは新鮮さを感じなかったなあ。

とりあえずいつものねたを配置し、物語として一本にした・・という感じ。しかし、感情部分の説得力が余りにないので、イベントだけがいつものベルイマンしてる感じで、どうにも物語りが心に定着しなかった。ベルイマンファンの私でもこういう現象におちいるのだなと、ちょっと残念なきがした。

この映画は、一応よくある心の謎解きモノなのだが、その起点となるのが、養父母から受けた幼児虐待の記憶。主人公のエニー(リヴ・ウルマン)は子供の頃良心をなくし、祖父母によって育てられたが、そこでの祖母の虐待によるトラウマとなっているというもの。ただ、これ自体がそれほどのインパクトがなく、とってつけたような理由付けになってしまってるのがいたい。主人公が精神科医にもかかわらず、別の精神科医もどき(本編では産婦人科にを相手に話すことになる)を欲するシチュエーションになるのだが、内面を告白するシーンが必要なら、その相手を精神科医にすればいいいのであって、本人を精神科医に設定すること自体がどうも意味をもたないというか、見る側にしてみればなんだかしっくり来ない感じ。
いろんな意味でご都合主義で出来てる感がぬぐいきれない映画だった。。。

<あらすじ>
ストックホルムの総合病院の精神療法医エニー・イサクソン(リヴ・ウルマン)は、家族にも恵まれ、何不自由なく生活していた。そんな彼女は、幼ない頃両親を事故で失ない、その後は祖父母に育てられたのだった。しかし、祖父母からは子供の頃虐待をうけており、大人になっったいま、なんとか祖父母と仲良くしようとするが、心の中ではそれを拒絶する願望があったりする。そんなストレスを常にかんじていたエニーだった。そして病院では、マリヤの話を聞いていたが、一向に快復する様子がなく医者の無力さを感じていた。
主任医師の家で開かれたパーティで、エニーはトーマ(エルランド・ヨセフソン)という婦人科医と知り合い、食事を誘われる。承諾したエニーは二人で明け方まで語りあった。

『ある結婚の風景』のカップルの再現だが、こちらは今ひとつ深みを感じなかった。とどのつまりは、子供の頃の幼児虐待を原点として、そのことをあたかもなかったかのようにふるまることでなんとか自己を確立してい彼女だったが、それが彼女の人生総てに無感動な状態を引き起こしていた・・というものなのかな。本質をみることなく、ありきたりの処理でなんとか社会との摂政をおこなってきた彼女だったが、そんな人生よりも、傷ついて心がいたい人生であっても、やっぱり本質をみていきたいな・・というベルイマンのメッセージを感じる映画。なので物語の背骨はきちんとしていると思う。しかし・・・ちょっと作り損ねたイージーな映画になってしまった。残念。

by ssm2438 | 2010-04-23 23:29 | I ・ベルイマン(1918)
2010年 04月 21日

ラブソングができるまで(2007) ☆☆☆

f0009381_23312268.jpg監督:マーク・ローレンス
脚本:マーク・ローレンス
撮影:ハビエル・ペレス・グロベット
音楽:アダム・シュレシンジャー

出演:
ヒュー・グラント (アレックス・フレッチャー)
ドリュー・バリモア (ソフィー・フィッシャー)
ヘイリー・ベネット (コーラ・コーマン)

        *        *        *

思わぬ拾物だった。
80年代に一世を風靡したミュージシャンの「アレックス(ヒュー・グラント)。しかし今はジリ貧、そんな彼に舞い込んだ人気歌手への作曲の仕事。しかしすっかり曲作りから遠ざかっていて、作詞に悪戦苦闘。そんな時、観葉植物の手入れに来ていたアルバイトのソフィー(ドリュー・バリモア)が口ずさむフレーズを耳にしたアレックスは、「この娘だ!」と思い、彼女に作詞を依頼する・・という話。そこから恋愛もほのかに進行しつつ、頑張りながらふたりで曲を仕上げていく話。

コーラ嬢のインド風アレンジのエピソードがなければもっとよかったのに。あそこが物語をダメにしたなあ。あのエピソードを使わずに、なにか別のエピソードでストーリーを悪い雰囲気に降る流れが作れればこの映画は実にいいラブロマンス映画になっていたのに。ありがちな世界観の話だが、ショービジネスにおける最大のテーマは、観客にこびないと売れないし、こびると自分がなくなっていくい・・。それはアニメ業界でも、映画業界でも音楽業界でも一緒。これは永遠のテーマだね。

全体の流れとしてはとても素直な映画で、いかにもヒュー・グラントのラブコメといった感じ。『25年目のキス』で地に堕ちていたドリュー・バリモアだが、この映画ではぴっかぴかに輝いていた。

<あらすじ>
1980年代に爆発的な人気を誇ったバンドのボーカルだったアレックス(ヒュー・グラント)は、今ではすっかり落ちぶれジリ貧状態。そんなアレックスにカリスマ歌姫、コーラから新曲を提供して欲しいというオファーがあったのだ。コンサートが二週間後に迫ってるため、曲作りにかけられる時間は僅かしかない。厳しい条件にしり込みしながらも曲作りにチャレンジするアレックス。作詞がうまくいかないアレックス、そんな彼のアパートに鉢植えの世話に来ていたアルバイト女性がつぶやいたフレーズがアレックスの心を捉えた。彼女の名前はソフィー(ドリュー・バリモア)。元々彼女は有望な作家の卵だったにもかかわらず、失恋の痛手から今は書くことをいっさいやめてしまっていた。彼女の元カレは大学の教授で、彼が書いた小説は、自分にいいよってきた娘に人生をダメにされる男の話だった。その内容の主人公はまさにソフィーであり、こともあろうにその本が大ヒット、映画かもされるという。それ以来何も書けなくなってしまったソフィーだが、アレックスの熱意にまけて二人で歌作りをはじめる。
出来上がった局は二人とも満足の行くもの。しかしコーラはその曲をインド風味に変えるという。納得のいかないソフィーだが、仕事としてあきらめるしかないというアレックス。そして二人は仲たがい。コンサートに招かれた二人だが、ソフィーはステージに立つことを拒否する。やがてコーラのコーンサーとが始まり、新曲の作曲者としてアレックスが紹介される。彼は「気味なしではやっていけない」という想いをこめた曲を披露。さすがにダサい作詞だったか、ソフィーなその歌詞に感動し、アレックスをよりを戻すことにする。コンサートではコーラが新曲を発表、その曲は当初の予定通りのデュエット曲で、インド風味な味付けはなされてなかった。どうやらアレックスがコーラを説得したらしい。コーラとアレックスはその曲を熱唱、曲が終わることには、舞台の袖でアレックスがソフィーを抱きしめていた。

by ssm2438 | 2010-04-21 23:32
2010年 04月 21日

哀しみのベラドンナ(1973) ☆☆

f0009381_20144686.jpg監督:山本暎一
原作:ジュール・ミシュレ
脚本:福田善之/山本暎一
作画監督:杉井ギサブロー
音楽:佐藤允彦
ナレーター:中山千夏

声の出演:長山藍子/高橋昌也

        *        *        *

シュールな映画だが・・・面白くはない。しかし、「この映画知ってる?」って誰かにいってみたくなる映画。

『千夜一夜物語』、『クレオパトラ』に続く虫プロ=ヘラルド映画提携のちょっとアダルト・テイストなアニメの三作目。先の2本よりはさらにシュールな絵作りになっている。クリムトような雰囲気かな。ちょうど60年代のフランスチックは雰囲気をイラストにして、それをたまに動かしたりする感じの映画。日本のアニメというより、ヨーロッパのアニメに感覚はちかいかな。絵も当時の60年代のフランス文化をみるようなイラスト画で、一枚絵をみるとしたら実にいい感じの絵。ただ、時間軸で流してみるとつまらないと感じるのが正直な感想だろう。予告編だけみていれば十分ともいえる。人には奨めてはみたいが、自分が全部みるとなるとしんどい映画(苦笑)。
私がアニメーターをはひめてしばらくしてこの映画を見たのだが、全部みるのは正直つらかった。当時は勉強と思ってみたのだが、頭の中で「これは良いんだ」と思いたい自分と「これってやっぱりつまらんぞ」って思う自分とが葛藤してなかなか答えがだせないような映画だった。
シュールといえば聞こえはいいが、表現手段として手抜きを「らしく魅せた」といっても過言ではない。これ全部それらしいアニメーションでやったら果たして見ている人を説得できたか・・?といわれるとかなり疑問だ。これはこの程度でおわらせているからアーティスティックな雰囲気があるのであって、たぶん、正面切ってやったらはずれてただろう。見る人の「贔屓目加味」の映画だろう。

・・・しかし、これから映像業界に進みたい人は、一度はみておいてほしい映画のひとつだ。

<あらすじ>
中世フランスの美しい農村。ジャンとジャンヌは結婚式を挙げた。当時のしきたりとして、結婚の儀には、領主のもとへ貢ぎ物を送るというのが習わしになっていた。金貨を献上しに行ったジャンとジャンヌだったが、領主はジャンヌの魅惑的な姿態と清楚な美しさ欲情をかきたてられ、ジャンヌの肉体をもとめた。一晩領主のなぐさみものになったジャンヌは翌朝、無惨な姿で城から帰って来た。
一方、村では飢饉が広まり、領主の無暴な重税取り立てにより人人は苦しんだ。ジャンの家では、ジャンヌとジャンヌの糸を紡むぐおかげでなんとか税金を払えていた。そんなジャンヌを村人はねたみの目でみていた。一方ジャンは、税金の取立て役に任命されていたが金は思うように集まらず、領主の怒りを買い、左の手首を切り落されてしまった。
ほとんどの男たちが出兵してしまった後で、ジャンヌは村の経済を一手に握ってしまった。戦争から帰って来て人々もジャンヌを尊敬した。しかしそれに怒った領主は、ジャンヌに魔女の烙印を押した。村から逃れたジャンヌは原野をさまよった。その頃、ヨーロッパ全土を黒死病が襲った。ジャンヌがベラドンナという毒草から作った薬で救われた。ジャンヌのもとへ人々が押しよせた。一方、城にも黒死病はしのび寄った。領主はジャンを使って何とか、毒落しの製造法を聞き出そうとしたが、ジャンヌは堅なに拒否した。ジャンヌは火あぶりの刑を宣告された。十字架にはりつけにされたジャンヌに火がはなたれた。思わずジャンは、刑場にとび出て領主に罵倒を浴びせた。その瞬間、槍がジャンの胸をつらぬいた。苦しげに虚空をつかむジャンの姿に、炎につつまれたジャンヌの表情がかすかに動いた。「ジャン」といったのかもしれない。
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by ssm2438 | 2010-04-21 20:15
2010年 04月 20日

田舎の日曜日(1984) ☆☆

f0009381_185233.jpg監督:ベルトラン・タヴェルニエ
脚本:ベルトラン・タヴェルニエ
    コロ・タヴェルニエ
撮影:ブリュノ・ド・ケイゼル
音楽:ガブリエル・フォーレ

出演:
ルイ・デュクルー(老画家・ラドミラル)
サビーヌ・アゼマ (娘イレーヌ)

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せいいっぱい求めて、せいいっぱい行動してたら、時にはいっぱい傷つくこともある。

この映画の中にはこのような風景は直接的には出て来ないのだが、そういう生命力を発揮してくれるイレーヌという女性キャラが登場する。世間的にはアバズレ女ということになるのだろうが、年老いた画家にしてみれば、そんなイレーヌの快活さがほほえましく思えてきたりする・・、そして彼女のもっているエネルギーと、その向こう側にある不幸とをさりげなく感じることにより、明日はちょっとがんばってみようかなっていう気になるおじいちゃん画家の話。

よく言えば牧歌的な日常芝居の中に内なる人間の快活さがこそっとこそっと垣間見られるような映画。小津的な映画という言い方ができるかもしれない。なので、退屈だと思う人もおおいにいると思う。私もどちらかというと、このような退屈系映画は好きなのだが、それでも時々はまらないことがある。カンヌではこの作品で監督のタヴェルニエが監督賞を取っている。まあ、カンヌだからあまりあてにはならないが(苦笑)。しかし困ったことに私がけっこう信頼しているNY批評家協会賞でも外国語映画賞を取っている。うむむむ、困ったもんだ。分ってあげたいのだけど、ちと退屈というか、私にとってはありきたりというか・・。レッドフォードの映画みたいに繊細にじわあああああっと染み込む感じを期待してみたのだけど、どうもそういうかんじではなく、普通にそのシーン、シーンをスケッチしていく感じであり、あまり仰々しい(ある程度映画としてはそのくらいはあってほしい)物語の方向性がない作品。よく言えばきわめて普通。
歳を取った親父にとって、娘と一緒にいられる時間はやっぱりいいなあって浸る映画かな。で、元気になったつもりになる映画。

<あらすじ>
1912年のある日曜日の朝。70歳を越えた画家ラドミラル(ルイ・デュクルー)の田舎の家を、彼の息子の一家が訪問する。家政婦メルセデス(モニーク・ショメット)が朝から台所の準備に余念がない。息子の家族とお互いそれとなく気を使いながらランチを食べていると、最新型4輪自動車ドラージュを運転して愛犬とともに、けたたましく一人娘のイレーヌ(サビーヌ・アゼマ)がやって来た。表面的には快活で、行動力もあるイレーヌだが、ひそかに恋に悩んでいる様子だ。彼女は恋人からかかってくる筈の電話を待っているのだ。しかし、パリからかかる筈の電話がかかってこない。苛立ったイレーヌ。
娘をなだめて、自分のアトリエに彼女を呼び寄せるが、イレーヌはそこに父の絵に対する苦悩を見るイレーヌ。そんなイレーヌが屋根裏部屋に行みると、美しいレースのショールとその奥にある情熱的な画を発見し感動する。
イレーヌに誘われてドライブに出たラドミラルは、森の中のレストランで妻の想い出をしみじみと娘に語る。そんな父にイレーヌはいっしょに踊ってと言い出す。二人が家に戻るとパリからの電話が彼女を待っていた。取り乱して風塵のようにさっていくイレーヌ。快活を装う娘にも、やりきれない人生があるのだろうっと思いながら彼女をそっと見送るダドミラル。アトリエに入ったラドミラル氏は新しい画布に向かうのだった。

by ssm2438 | 2010-04-20 18:10
2010年 04月 20日

冒険者たち(1967) ☆☆☆

f0009381_1717780.jpg監督:ロベール・アンリコ
脚本:ロベール・アンリコ
    ジョゼ・ジョヴァンニ
    ピエール・ペルグリ
撮影:ジャン・ボフェティ
音楽:フランソワ・ド・ルーベ

出演:
アラン・ドロン (マヌー)
リノ・ヴァンチュラ (ローランド)
ジョアンナ・シムカス (レティシア)

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60年代の懐かしさにふれたい時にはいいかも・・

監督は『若草の萌える頃』『オー!』などのロベール・アンリコ。彼の作品のなかでは一番メジャーな作日。個人的にアンリコは好きな監督さんで、この人の撮り方というのは実にしっくりくる。『オー!』などをみても、この人の画面であるだけで、情緒的撮り方が実におちついて画面に展開される。街の描写しひとつとっても、この人が監督すると、なぜか叙情的ムードにひたれるから不思議である。

この『冒険者たち』という映画は、年配の方にはけっこう人気のある作品だとは思うが、今の人がみてどうかはちと疑問。お話はけっこう散漫で、明確な目的意識があって人生をいきてるようには見えない主人公たちなので、よく言えば自由奔放、悪く言えばチャランポランな雰囲気。時代が体制反対映画が多かったときなのでしかたないとは思うが、あまり好感がもてないんだな、これが。
タイトルは『冒険者たち』ということで、それぞれのキャラクターが飛行機、ガラクタアート、レーシングカー、カジノ、宝探し、ホテルなど、いろんなことをやってみる映画なのだが、しかし、「あれがダメならこれ」「これがダメならあれ」という具合に、想いに必死さがないのがいただけない。この軽さがいい人には良いのだろうが、私なんかは熱しにくく冷めにくいほうが好きなので、こういう執着心のない話にはあまり魅力を感じない。

そうはいっても、ジョアンナ・シムカスは60年代のアイドルではピカイチな女優さん。もっとも私はこの映画が上映されたころはまだ5歳なので、彼女がどれだけ人気だったのかはのちのちになってきかされたのだけど。しかし、この『冒険者たち』と『若草の萌える頃』の彼女はとてもいい感じ。のちにシドニー・ポワチエと結婚してしまわれ、あまり映画にはでてないのだけど、そういう意味でもこの『冒険者たち』は明るい日差しのもとで健全なジョアンナ・シムカスがみられる貴重な映画ではないだろうか。『若草の萌える頃』では一晩よるをほっつきあるいて朝方とある男と“H”をするので、健全さはあまり感じられなかったりする。その点こちらはさんさんと陽がふりそそぐ太陽のしたで青のビキニ姿も披露してくれる(笑)。ああ、なんと健全なことか!

<あらすじ>
マヌー(アラン・ドロン)はパリのある飛行クラブのインストラクターで命知らず&大ぼら吹きだ。ローランド(リノ・バンチュラ)は、パリ郊外の廃車置場の中にある奇妙な仕事場に住み、カー・エンジンの開発に専念していた。そんなローランドの廃車置場に、リティシア(ジョアンナ・シムカス)という現代アートを目指す女性が、あらわれる。彼女はガラクタでアートを作っていたのだ。
ある映画プロデューサーが撮影のため凱旋門を飛行機でくぐり抜けた者に二千五百万フランの賞金を出すという話をききつけ、それに挑むことにするマヌー。しかし、その話はひともんちゃくあり、マヌーは飛行士の免許を剥奪されてしまう。一方レティシアも、彼女の出展した作品は酷評され、へこんでしまう。(じっさいダサいのだが)。
失業したマヌーは友人ローランドの仕事場へころがりこんだ。そんなある日、マヌーは飛行クラブの生徒から、ベルギーのコンゴ移住者が動乱から逃れる途中、莫大な財産を乗せて海に墜落し、財宝が海底に眠っているという話をきく。マヌーとローランドとレティシアはスクーナー船に乗りこんで、宝探しを始めた。ところがこの財宝に目をつけていた旅団が闇に乗じて襲ってきた。その戦いの中でリティシアが死んでしまう・・・。

あんまりこんな映画を人殺しが登場するような方向にはふらないでほしいものだ。。。
なんでもありの映画なので、もうすこし1人の女を想う二人の男の友情ものがたりに徹して欲しかったかな・・。
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by ssm2438 | 2010-04-20 17:20 | ロベール・アンリコ(1931)
2010年 04月 19日

C階段(1985) ☆☆☆

f0009381_21562275.jpg監督:ジャン=シャルル・タケラ
脚本:ジャン=シャルル・タケラ
撮影:ジャック・アシュリュー
音楽:レイモン・アレッサンドリーニ

出演:
ロバン・ルヌーチ (フォステール)
カトリーヌ・ルプランス (フロランス・マルタン)

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カトリーヌ・ルプランスが良い!

『さよならの微笑み』のジャン=シャルル・タケラが監督した数少ない作品。この人の映画は基本的にさらりとしていて清涼感がある。このムードがこの監督さんの魅力だろう。この作品は、あるアパールトマンのC階段にある部屋の人たちのさりげない日常のドラマで、さほどおおさわぎするようなイベントが起きるわけではないが、それでも何故か印象にのこっている作品だ。でも、印象にのこっているのはカトリーヌ・ルプランスだけって言われればそうだけど・・(苦笑)。

このカトリーヌ・ルプランス。知的で可愛い女優さんなのに、あまり作品に出ていない。
もうひとつ『背徳の性書/ザ・ポルノグラフティ』なる3本はいったオムニバスの一本に出ているがそれだけ。オムニバスなのであんまり想い入れはなかった。 そういう意味ではこの『C階段は彼女を記憶するには貴重な映画となってしまった。

f0009381_2157216.jpg<あらすじ>
パリ14区にあるアパルトマンに、毒舌の美術評論家の中のフォステール(ロバン・ルヌッチ)が住んでいた。同じC階段を使う3階には、秘かにフォステールを慕うプレタポルテ・デザイナーでホモのクロード(ジャック・ボナフェ)が住んでいる。ある日、画廊のパーティに出かけたフォステールは、画廊のプレス担当でチャーミングなフロランス・マルタン(カトリーヌ・ルプランス)に出会い、一目でひきつけられる。人の仲は急速に近づき、結ばれる。同じC階段を使う者のなかには、ユダヤ人とアラブ人の血が交じった孤独な老婦人もいた。後ろ姿が気になりながらもフォステールは声をかけることはなかった。ある夜、その老婦人は首をつった。孤独に耐え切れず自殺した彼女の淋しさを思い子供のように泣き崩れるしかなかった。

「もしあの時、声をかけていれば・・・」

フォステールは人に優しくすることを覚えた。ホモであることを理由にさけていたクロードにもすこしやさしくできるようになる。その老婆の遺灰を彼女の故郷のもちかえり大地にかえしてやるフォステールであった。

by ssm2438 | 2010-04-19 21:59