西澤 晋 の 映画日記

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2010年 05月 23日

背信の日々(1988) ☆

f0009381_15494588.jpg監督:コンスタンティン・コスタ=ガヴラス
脚本:ジョー・エスターハス
撮影:パトリック・ブロシェ
音楽:ビル・コンティ

出演:
デブラ・ウィンガー (キャサリン・ウィーヴァーFBI捜査官)
トム・ベレンジャー (ゲイリー・シモンズ)

        *        *        *

コスタ=ガブラスの魅力をダメにしたのはジョー・エスターハスだ! めっ!

ひさびさのコスタ=ガブラスの映画だというのでわくわくして劇場に足を運んだら一気に落胆してしまったのがこの作品。当時その理由は判らなかったが、製作総指揮・脚本にジョー・エスターハスの名前をみつけてその理由が判った(苦笑)。
確かにアメリカ資本でコスタ=ガブラスが映画をとるようになってからというもの、面白さは半減してきているのだ。それでも前作の『ミッシング』はまだコスタ=ガブラスらしさがでていた。しかし、この『背信の日々』はけちょんけちょんにいただけない。なんでコスタ=ガブラスの映画がこんなFBI捜査官とKKK(クー・クラックス・クラン)のメンバーとの昼メロドラマにしなきゃあならんのだ!? 白人至上主義団体の犯罪をコスタ=ガブラスに撮らせるという発想は素晴らしいが、ふくらませる方向が明らかにまちがってる。ジョー・エスターハスの罪は重い!

<あらすじ>
ラジオの過激なトーク番組の司会者クラウスが射殺され、彼の車に “ZOG"となぐり書きさる事件がおきた。FBIは、白人至上主義者の犯行と考え、秘密捜査官キャサリン・ウィーヴァー(デブラ・ウィンガー)をその団体のなかに送り込む。
季節労働者としてネブラスカの小麦畑にやってきたケイティ(実はキャサリン・ウィーヴァー)は、その土地のゲイリー・シモンズ(トム・ベレンジャー)と出会い親しくなっていく。彼はヴェトナム戦争の英雄で、古き良き典型的なアメリカ人という暖みをもつ男性だった。彼を愛するようになってしまったキャサリンだが、少しづつゲイリーの価値観が明らかになってくる。ゲイリーは真夜中の黒人ハンティングに参加し、そして幼い彼の子供たちにまで黒人やユダヤ人に対する憎しみを教え込んでいた。
行きがかりで銀行襲撃の仲間となり信頼感の増したキャサリンに、ゲイリーはプロポーズし、これから行う暗段計画の全容と彼の前妻の殺人事件を告白するのだった。ところが暗殺決行の夜、ゲイリーはキャサリンの正体を知ってしまう。FBIに連絡する方法もないままゲリーと共に建設中のビルに入ったケイティは、ライフルを取り出し向かいのビルに狙いを定めた彼が自分の正体を知ったことをさとり、ゲイリを射殺する。暗殺計画は未遂に終わった。
心にわだかまりを抱くキャサリンはFBIを辞職し、今や唯一彼女を理解してくれるあどけないレイチェルの待つネブラスカの小麦畑へと向かうのだった。

by ssm2438 | 2010-05-23 15:50
2010年 05月 23日

ミュージック・ボックス(1989) ☆☆☆

f0009381_1563215.jpg監督:コンスタンティン・コスタ=ガヴラス
脚本:ジョー・エスターハス
撮影:パトリック・ブロシェ
音楽:フィリップ・サルド

出演:
ジェシカ・ラング (アン・タルボット弁護士)
アーミン・ミューラー・スタール (アンの父、マイク・ラズロ)

        *        *        *

社会派サスペンスの雄、コスタ=ガブラスは政治的な題材をサスペンスタッチに描く作風を特色とし、1969年の『Z』アカデミー外国語映画賞をはじめとする数々の賞を、1972年『戒厳令』ルイ・デリュック賞を受賞。1982年『ミッシング』アカデミー脚色賞、第35回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。1990年、この『ミュージック・ボックス』でも第40回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞している。作品数は少ないが、現実に存在した事件などを背景に、それを舞台を移して物語にするなどしてくつられた彼の作品は、リアリティのある社会が描き出され、なおかつそこにドラマチックなサスペンス性も加味して描かれる。映画を勉強する人にとってはマストシーな監督の一人だろう。

ただ、60~70年代にくらべれ、晩年の彼の作品はちょっとインパクトにかける感じがしないでもない。この作品もベルリン国際映画祭金熊賞をとってはいるが、そこまで良いとされる作品かといわれると・・・・???って疑問をもつ。それでも前作の『背信の日々』よりはガヴラスらしい出来になって戻ってきた感じ。ただ、これはやっぱりアメリカでの映画作りが合わなかったのだろうなって思った。コスタ=ガブラスのホントの魅力はやはりヨーロッパでくつられた『Z』、『告白』、『戒厳令』だろう。それ以降のアメリカ資本でつくられた映画ではどこか硬派な雰囲気が失われ、ややエンタ寄りに振れすぎている感がある。

この『ミュージック・ボックス』では、アメリカで何不自由なく暮らしてきた弁護士アンの父親がある日突然戦争犯罪者であることが判明し当局に拘束されてしまう。そう信じたくない娘のアンが弁護をするのだが、どうやらやぱり・・という話。シナリオは『氷の微笑』ジョン・エスターハス
ただ、ガヴラスの映画は本来、ストーリーのどんでん返しを楽しむような映画ではなく、歴史背景をきちんと塗りこみんだ、どっしりとした物語の土台作りから展開されるドラマを楽しむもの。ジョー・エスターハスとの相性はそれほど良くないきがする。最後はミュージックボックス=オルゴールからかつての写真が出てくるのだが、せっかくミュージックボックスを使っていても、その音楽が物語に絡まないのは実に残念だ。さすがエスターハス、はずしどころも心得ている。

<あらすじ>
ハンガリーからの移民で、その後弁護士となり、結婚し、子供たちにも恵まれ平穏な生活をおくってきた女性弁護士アン・タルボット(ジェシカ・ラング)。しかしある日突然ハンガリー政府が、ユダヤ人虐殺の犯人としてアンの父マイク・ラズロ(アーミン・ミューラー・スタール)の引渡しをアメリカに要求してきた。アンは父の弁護を引き受ける。
父が移民の際身分を警察官でなく農民と偽ったこと。そして同じハンガリー移民のゾルダンという男に送金していたこと。そして法廷では父がユダヤ人虐殺の先兵であった特務部隊のミシュカという男と同一人物であるという証言が次々と行なわれた。しかし父の無実を信じるアンは、着実な反証によって検察側の証人を切り崩していく。
ハンガリーのブダペストに向かったアンは、父が送金していたという男・ゾルダンの姉から唯一の手がかりとして質札を預かる。質屋から引き出されたのはミュージック・ボックス(オルゴール)だった。そしてそのにはユダヤ人虐殺を実行していた男がゾルダンであることを示す写真を見てしまってあった。アンがアメリカに戻ると、父の有罪立証が不可能であることを新聞は書きたてていた。アンは黙って父の有罪を告げる証拠写真を新聞社に送る。

by ssm2438 | 2010-05-23 15:08
2010年 05月 23日

レッドブル(1988) ☆☆

f0009381_135097.jpg監督:ウォルター・ヒル
脚本:ハリー・クライナー
    ウォルター・ヒル
    トロイ・ケネディ・マーティン
撮影:マシュー・F・レオネッティ
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:
アーノルド・シュワルツェネッガー (イワン・ダンコー刑事)
ジェームズ・ベルーシ (リジック刑事)
エド・オロス (犯罪者ビクター)
ジーナ・ガーション (ビクターの妻・キャット)

        *        *        *

異文化交流刑事もの

普通のウォーター・ヒル映画だったかな・・。刑事者という舞台に異文化交流テイストを加味、無慈悲なソ連の刑事をアーノルド・シュワルツェネッガーにやらせるあたりはショービズ的にはツボっぽいところだが、映画的にはきわめて普通の映画だった。若い頃のジーナ・ガーションがみられるのはちょっと嬉しい。マフィアの情婦といえばキム・ベイシンガーというイメージが一番先に来るが、2番目にくるのはこのジーナ・ガーションだろう(苦笑)。
当時はシュワルツェネッガーのこれと、シルヴェスタ・スタローン『コブラ』というアクション派俳優の刑事ものがつくられたが、どちらもパッとしなかった。

<あらすじ>
麻薬密売ルートの大ボス、ビクター・ロスタビリ(エド・オーロス)を追っていたモスクワ警察特捜部の刑事イワン・ダンコー(アーノルド・シュワルツェネッガー)は、シカゴの刑務所に拘留されたとういビクターの身柄引き取りのためアメリカにやってきた。しかしガードマンに変装した一団に急襲され、ビクターを連れ去られてしまったダンコーはモスクワからの帰国命令を無視、ビクターを捕まえるまでアメリカに残る決意をする。
彼の相手をしたのがアート・リジック(ジェームズ・ベルーシ)刑事。彼は面倒な規則などものともしないみだし刑事だった。初めは絶えず衝突する2人だったが、いつしか友情らしきものが芽生えていった。金のためにビクターと結婚したというキャット(ジーナ・ガーション)の協力もあって、ビクターと犯罪シンジケートの関係が明らかになってきた。
シンジケートから奪った麻薬と金を一人占めしたビクターはモントリオール行きのバスを奪って逃げるが、ダンコーとリジックもバスで追跡。2台のバスの暴走カーチェイスが展開される。ビクターを倒したダンコーは、今や真の友となったリジックに見送られて、モクスワへの帰途につくのだった。

by ssm2438 | 2010-05-23 13:20
2010年 05月 23日

トリコロール/赤の愛(1994) ☆☆☆☆

f0009381_1059671.jpg監督:クシシュトフ・キエシロフスキー
脚本:クシシュトフ・ピエシェヴィッチ
    クシシュトフ・キエシロフスキー
撮影:ピョートル・ソボチンスキー
音楽:ズビグニエフ・プレイスネル

出演:
イレーヌ・ジャコブ (バレンティーヌ)
ジャン=ルイ・トランティニャン (ジョゼフ・ケルヌ元判事)

        *        *        *

『ふたりのベロニカ』理論ここにもあり・・とみた!

フランス国旗を構成する三つの色をモチーフ(自由・平等・博愛)に、クシシュトフ・キェシロフスキーが監督した『トリコロール3部作』の最終作。今回のテーマは赤=博愛。

全米批評家協会賞ニューヨーク映画批評家協会賞ロサンゼルス映画批評家協会賞で、外国語映画賞を受賞した。3部作の中では一般的にもっとも人気の高い作品であり、クシシュトフ・キェシロフスキーの遺作でもある。余談だが、私は『トリコロール/青の愛』が一番好きである。

第一感は「これはイレーヌ・ジャコブのための映画だ!」ということ。彼女無しにこの映画は考えられないし、クシシュトフ・キェシロフスキーでなければイレーヌ・ジャコブは輝かない。難しいことを抜きにして、イレーヌ・ジャコブの愛を見ればいい映画であることは間違いない。この映画の彼女は、心の病んだ人たちを安らぎといたわりで包み込む。慈善的愛を存分に体現している。この3部作総てに登場する、空き瓶を回収箱にいれようとする腰の曲がった老女、この『・・・/赤の愛』だけはイレーヌさんが手を貸してあげる。しかし、それだけではおわらないのがクシシュトフ・キェシロフスキーの映画だ。

この映画には『ふたりのベロニカ』理論が織り込まれている。それはキェシロフスキーが仕切るファンタジーの世界なのだが、そこでは、その世界の創造主が「もう一人の自分」を別のところに創造しているというものだ。物語に神秘性を織り込むにはかなり有効な手段だ。
『ふたりのベロニカ』では同じような人間を、時間軸は一緒だが、フランスとポーランドというヨコ位置に存在させていた。それをこの『・・・/赤の愛』では、同じ場所で、時間軸を変えてタテ位置に存在させている。それは司法試験を目指している若者・オーギュストと盗聴が趣味というジョゼフ・ケルヌ元判事だ。

問題はその意図である。・・・分らない。

演出法から言えば、ケルヌ元判事の過去のエピソードを、本人の口から回想シーンという形で引き出すのではなく、同じような境遇の人間を現実の時間軸で描いておく。そして見ている人に「ああ、こういうことがケルヌ元判事の過去にあったのだろうな」と想像させるというものだ。
しかし・・・、もうすこし突っ込んで、見ている者が補完してみたい気にさせるような作りになっているのも事実だ。『ふたりのベロニカ』理論に基づいて、勝手に補完させてもらうなら・・・、

姿形は違えど、魂が一緒の二人の同一人物ジョセフ・ケルヌとオーギュストが30年の時間のずれを隔てて存在していた。先に生れたジョゼフは、愛する女に裏切られ、判事という裁けもしないのに人を裁く仕事についてしまい、心が煤けていった。30年遅れてうまれてきたオーギュストは同じように愛していると思っていた女に裏切られる。しかし、ここで一人の愛をもった女に出会う。ジョゼフは心がすすけた後に、オーギュストは心がすすける前に・・。

勝手な想像だが、シナリオを起こす前にの制作ノートの一番初めには、そのようなことが書かれていたのではないだろうか・・・。

『ヴァンゲリオン』が、ダーウィンの進化論ではなく、聖書の天地創造を基本にして世界観が構築されていることに気付けばその霧が晴れるように、この映画も、この映画もクシシュトフ・キェシロフスキーが創作した『二人のベロニカ』理論の基に構築されているということに気付けば、霧が晴れるのだろう。

<あらすじ>
パリに住むスイス人女性のバレンティーヌ(イレーネ・ジャコブ)はモデルの仕事をしながら、イギリスにいる恋人と電話だけがたよりの遠距離恋愛をしている。ある夜犬をひいてしまい、その犬の首輪にかかれた住所からその飼い主のジョゼフ・ケルヌ(ジャン=ルイ・トランティニャン)と知り合う。退官判事だった。彼は、過去において、愛していた女性に裏切られ、また人を裁く判事という仕事のなかで心がすりきれてしまい、退官した今では近所の人たちの盗聴が唯一の愉しみだった。秘密の愉しみを知られてしまったケルヌだがなんの臆することもなく、「必要なら、私が盗聴していることを彼らに教えてやれ」とバレンティーヌ言う。
数日して、元判事が盗聴をしていた!という記事が新聞にのる。「自分がばらしたのではない」と伝えに彼の家を訪ねると、「そんなことは知っている」と彼はいう。彼は、自ら盗聴していた事実を近所の人たちと警察に文書で書いて送ったのだ。自暴自棄と潔さが混在するジョゼフ・ケルヌとバレンティーヌの心の距離が縮まっていく。

by ssm2438 | 2010-05-23 11:01 | K・キェシロフスキー(1941)
2010年 05月 23日

トリコロール/白の愛(1994) ☆☆☆

f0009381_155685.jpg監督:クシシュトフ・キエシロフスキー
脚本:クシシュトフ・ピエシェヴィッチ
    クシシュトフ・キエシロフスキー
撮影:エドワード・クロシンスキー
音楽:ズビグニエフ・プレイスネル

出演:
ヤヌシュ・ガヨス (カルロ)
ジュリー・デルピー (ドミニク)
ズビグニエフ・ザマホフスキー (ミコワイ)

        *        *        *

白=平等・・というより<対等>・・かな? 劣等感をもつ男が<対等>を勝ち取る話。

フランス国旗の象徴「自由、平等、博愛」をテーマに描いたクシシュトフ・キエシロフスキー『トリコロール3部作』の2作目。1994年2月のベルリン国際映画祭では監督賞を受賞している。一応3部作といわれるが、物語自体につながりがあるわけではなく、ひとつひとつが独立している。ただ、そのなかで、ビンを回収箱にいれる老婆が共通して登場する。そしてさりげなく、『トリコロール/青の愛』ジュリエット・ビノッシュが登場しているらしい(私は確認出来なかった。いつかDVDで見る機会があったら確認せねばなるまい)。時間的・空間的には同じ時間・空間に存在した3つのドラマだといえるのだろう。それがさりげなくリンクしている。ただ、そのリンク事態が大きな意味をもっているわけではないので、そのなかの1本だけをみても成立しているので心配はご無用。

この映画はさえない男の見る夢なのだろう。憧れを踏みにじられた男の復讐。確かにしてみたいものである。
しかし、普通は結婚する以前にその相手とセックスはするものであり、“H”をした段階で憧れは砕けるものだ。この映画のように結婚してからも、妻に憧れを持ち続けるというのはかなりありえない状況設定で、それは物語の都合上の設定なのだろう。なぜ、これを既婚者の設定で作らなければならなかったのだろうか? 結婚が決まった二人だったが、夫の劣等感からセックスが出来なくなり、挙式も決まっているのにそれがキャンセルされた惨めな男の話・・・でよかったのでは??と思うのは私だけだろうか?

感受性重視のキエシロフスキーにしては珍しく、ストーリーテリングをメインにつくられた映画だったような気がした。

<あらすじ>
パリの裁判所。どういう経過で二人が結婚したのかはわからないが、その裁判所でフランス人のドミニク(ジュリー・デルピー)の夫カルロ(ヤヌーシュ・ガヨス)は、性的不能を理由に離婚を申し立てられる。ポーランド人のカロルはフランス語もほとんど分らず、通訳を立てての裁判にもどかしさを感じていた。「もう少し時間がほしい」というカルロに、ドミニクはもう愛してない、と言い捨てる。裁判の結果はどうなるか決定は出ていないが、カルロの荷物を車から降ろすと、ドミニクは走り去ってしまった。
途方にくれるカルロ。ドミニクが銀行口座を解約したのだろうか・・、クレジットカードも使えなくなり、ポケットのなかの小銭だけで路頭にまようカルロ。ポケットのなかに妻の経営する店の合鍵があるのをみつけ、とりあえずそこで夜露を凌いだ。朝になって店を訪れたドミニクは鍵を返すように要求、しかしそれを拒むカルロにふれてみると股間を勃起させていた。もしかしたらセックスできるかも・・と挑んでみるがやっぱりダメ。悲しくおいだされるカルロであった。
その後も執拗にドミニクに電話をするカルロだが、電話口のむこうではどこかの男とセックスをしながらあえいでいる自分をこえを聞かせるドミニクがいた。

「性的に不能だから離婚」というのも日本人の私としてはいまひとつ理解しがたい。本来その原因は他にあるはずだし、その原因もカルロの精神的なもので、それはドミニクに対する劣等感なのだろう。この映画は、その劣等感をなんとか払拭する男の話として構成されている。
この映画のどうにもしっくりこない部分は、ドミニクがどこまで本気でカルロのことを好きだったのか、それが分らないことだ。最後のほうでは、カルロの葬式で涙を流すドミニクがいたりする。女は永遠に謎な生き物だ。

また、この映画でよいのは、カルロが地下鉄の通路でしりある同じポーランド人のミコワイ(ズビグニエウ・ザマホフスキ)の存在だ。彼も人生に絶望して、自分を殺してくれる人を探してた。ポーランドに帰ったカルロは、ミコワイに再会、ミコワイの願いをかなえることをする。やくざな両替屋の用心棒となり、懐に拳銃を携帯していたカルロはそれでミコワイを撃つ。がっくりとくずれおちるミコワイだが、その銃には弾は入っていなかった。死んだと思ったミコワイは生きていた。
「まだ本当に死にたいか?」と問われたミコワイは「いいや」と応えた。その瞬間からミコワイは生まれ変わった。死を欲していたミコワイは、その瞬間から生きることしか選べない自分を発見したのだろう。このエピソードは実にすばらしかった。

その後はなんとか金持ちになってしまったカルロは、遺産の受取人をドミニクにし、ある東欧の国から路面電車にはねられて死んだ男の死体を不正に買取り、自ら死を偽って葬儀を行いドミニクをポーランドへよびよせる。埋葬させる棺おけをみながら涙をみせるドミニク。その夜、彼女がホテルに戻ってみるとそこにはカルロがいた。今の2人はセックスが出来た。
カルロが立ち去った後、彼の死に不審を抱いた警察がホテルに現われ、ドミニクを逮捕してしまう。拘置所の窓からドミニクを見るカルロ。外のカルロをみつけ身振りでコミュニケーションをとるドミニク。そのしぐさに愛がこもっていた。その愛を感じてカルロは涙するのだった。

by ssm2438 | 2010-05-23 07:03 | K・キェシロフスキー(1941)
2010年 05月 23日

トリコロール/青の愛(1993) ☆☆☆☆☆

f0009381_11353772.jpg監督:クシシュトフ・キエシロフスキー
脚本:クシシュトフ・キエシロフスキー
撮影:スワヴォミール・イジャック
音楽:ズビグニエフ・プレイスネル

出演:
ジュリエット・ビノシュ (ジュリー)
ブノワ・レジャン (オリヴィエ)
フランソワ・ベルネル (夫の愛人・サンドリーヌ)

        *        *        *

<自由>という名の<孤独>

フランス国旗を構成する三つの色をモチーフ(自由・平等・博愛)に、クシシュトフ・キェシロフスキーが監督した『トリコロール3部作』の1作目。今回のテーマは青=自由。

1993年9月のヴェネチア国際映画祭では、最高賞である金獅子賞女優賞撮影賞を受賞した。同年のセザール賞でも主演女優賞音楽賞編集賞の3部門を受賞、またLA批評家協会賞でも音楽賞ズビグニエフ・プレイスネル)を受賞している。世間では『トリコロール/赤の愛』が一番愛されているようだが、私はこの『トリコロール/青の愛』が一番好きだ。

この映画の魅力の一つは、ズビグニエフ・プレイスネルの音楽と映像のアンサンブルだろ。楽譜に手を触れると重低音でぶああああんそこのメロディがながれてくるあの感触。楽譜をカメラが追うと、そのメロディがぶわわわわんどわわわわわわわんと流れ出す。「打楽器をはずして」といえば、同じメロディで打楽器パートをはずした音楽が流れる。「金管もはずして」といえば金管楽器がもはずれたメロディがながれだす。この音楽表現だけでも、この映画はすばらしい。

そしてこの交響曲に関しては、それがジュリーのものなのか、亡き夫のものなのか?という疑問が解決されないまま、見る人の想像力にまかせている。私はジュリーのものだと解釈している。これは監督に立場で考えれば判ることなのだが、それが夫の音楽だとすると、事故のあとジュリーのもとを尋ねた記者の「この曲はじつはあなたが描いたのでは?」という言葉を物語りに登場させる意味がない。作り手というものは自分の物語を正しく理解してほしいものであり、あえて誤解をまねく表現をすることはない。キェシロフスキーがこの言葉を挿入している以上、「それはジュリーの音楽であり、それを匂わせておく必要があった」と解釈するのが正しいだろう。
・・まったく、監督というのは厄介なものだ。正しく理解してほしいのに、直接的な表現はさけ、匂わせるだけにしたいのだから・・・。

しかし、この映画の素晴らしいのはそんな謎解きのトリックではない。<自由>の解釈だろう。主人公のジュリエット・ビノシュは夫と子供を交通事故で失い、家族という<しがらみ>から解放される。もっともそれは本人の願ったことではなかったのだけど。屋敷も処分し、使用人たちには一生分の給料をまとめて与え、パリのアパートメンとの一室でひっそりと暮らし始める。過去を切り捨てていくことにより<しがらみ>から解放され、それと同時に自分で「どう行動するのか」という<選択の自由>が得ていく。
その部屋に越して来た夜、そとの路地ではケンカがあり、逃げた男がそのアパートメントに助けを求めてきたおとがこだまする。ドアの向こうでは一部屋一部屋ドアを叩き助けを求めている男がいて、彼女の部屋のドアも叩く。しかし恐怖でなにも出来ない。やがてその男はケンカの相手につれされれていったのだろう、音がしなくなる。意外と物騒なその地域にあるその部屋を出るかとどまるか、彼女はささやかな選択が行われる。
不意にドアの叩く音が聞こえてくる。恐る恐るドアをあけると、アパートメントの住人の一人がたっていて、下の階に住む娼婦の立ち退きを要求する署名をもとめられる。署名するのかしないのか、ここでも選択が与えられる。彼女は署名しなかった。その結果、その娼婦とのささやかな<しがらみ>が発生する。

さらなる選択が彼女を襲う。部屋にネズミが住み着き、そのネズミが子供を産んだらしい。まだ目も見えないネズミの赤ちゃんをせっせと世話している母ネズミ。ネズミの嫌いな彼女は、そのネズミは放置しその部屋を出ることを選択して大家に相談したが、他の部屋は空いていないという。彼女はその大家の猫を借りることにした。ネズミを猫に殺させるという選択を選んだ。
このネズミのエピソードは実にスパイスとして効いていた。命あるものを殺す選択、それも<自由>の範疇にある。彼女の人生の中からネズミの親子は切り離された。しかし、その猫がそのネズミ殺したであろう部屋に戻れないジュリエット・ビノッシュ。そんな彼女に、例の娼婦が「私が片付けてあげる」と申し出る。<ささやかなしがらみ>に救われる・・。

<しがらみ>を排除することによって、自分だけで決定できる<自由>が増えていく。しかしそれは<孤独>が増大することでもある。物語の最後で彼女は<完全な自由>よりも<ささやかなしがらみ>を選択する。

<あらすじ>
ジュリー(ジュリエット・ビノシュ)は自動車事故で夫と娘を失う。夫は優れた音楽家で欧州統合祭のための交響曲を作曲中だった。実はその曲は夫を隠れ蓑してジュリー自身が作っていたものだった。人生に絶望したジュリーは過去を精算することにする。未完の協奏曲のスコアも処分し、使用人たちには一生分の給与を与え、田園地帯にある屋敷をすべて引き払うことにした。空っぽになった屋敷にはマットレスだけがのこされ、ジュリーに思いを奇せていた夫の協力者であったオリヴィエ(ブノワ・レジャン)を呼び出し、そのマットレスの上で彼に自分を抱かせた。

男というものは、抱きたいと思っている相手を抱くことが出来ない時は、永遠に求め続けるものだ。彼女は彼とセックスすることで、彼が抱いている幻想・憧れを打ち砕き、夢から覚めさせることを実行したのだ。このあたりは実にクシシュトフ・キェシロフスキーだった。

パリでの生活を始めるジュリーは<しがらみ>から切り離され、静かな毎日を過ごしはじめる。しかし完全に<しがらみ>から解放されたわけではない。老人ホームにはボケはじめた母親がおり、ときおりそこを訪れていた。そんな時事故を目撃した青年が尋ねてくる。彼はその事故の現場から、おちていたネックレスを持ち帰ってしまったのだが、悪いと思い返しにきたのだった。そのネックレスは夫がジュリーにプレゼントしたものだった。ジュリーはそのネックレスを彼に与え、その<しがらみ>から自分を切り離した。
そんなある日テレビをつけると、処分したはずの楽譜をオリヴィエが持ちだし、自分が曲を仕上げると宣言しているのを見る。さらにその番組のなかで、彼が若い女性と写っている写真も目にする。

自分の曲が他人におって書き換えられる事をうけいれられなかったジュリーは<参加>を決める。ジュリーの指示でオリヴィエが曲を具現化してくやり方で曲は作られていく。やがてオリヴィエも、その曲が夫のものではなく、ジュリー自身が作っていたことに気付いていく。
写真に写った女の存在、彼女は弁護士事務所(※もしかしたらこのへんの描写のなかに、『---白の愛』や『---赤の愛』の登場人物がまぎれこんでいるのかもしれない)で働いているサンドリーヌ(フロランス・ぺルネル)という女性だった。彼女は妊娠していた。ジュリーは屋敷の売却を中止し、彼女と生れてくる子供に屋敷をゆずることにする。

ついに完成した曲をオリヴィエは、ジュリーの作品として発表すべきであると言う。そんな彼に、ジュリーは自分を与える決心をする。完成した協奏曲のラストパートが流される時に、ジュリーに<しがらみ>として切られたネックレスを返しにきてくれた少年とか、老人ホームの母親が映されるのだが、あの曲をかぶせられると、今後再び<しがらみ>として受け入れられるのかな・・という希望ももたせてくれる。

by ssm2438 | 2010-05-23 02:50 | K・キェシロフスキー(1941)
2010年 05月 22日

マイ・ライバル(1982) ☆☆

f0009381_9501133.jpg監督:ロバート・タウン
脚本:ロバート・タウン
撮影:マイケル・チャップマン
音楽:ジャック・ニッチェ/ジル・フレイザー

出演:
マリエル・ヘミングウェイ(クリス・ケーヒル)
パトリス・ドネリー (トリー・スキャナー)
スコット・グレン (ティングロフ・コーチ)

        *        *        *

20世紀で唯一の熱血スポ根純粋レズビアン映画

原題は『パーソナルベスト』。
当時は『リップスティック』『マンハッタン』マリエル・ヘミングウェイ見たさに見たのだが、映画の内容はまじめな同性愛ものだった。モスクワ五輪の陸上5種競技陸上の代表権をかけて国内の大会でしのぎを削る女性アスリート同士の友情と愛情、嫉妬と誤解。実は熱血スポ根ムード路線ではなく、フィールドではライバルとなる女性同士の関係(レズビアン)を描いたドラマとしてとらえたほうがよさそう。そんな二人がある悲しい誤解から別れるはめになるくだりはとても切なかった。

最初はただの普通のスポ根サクセスものかとおもってたら・・、女性同士の友情が描かれ、さらに肉欲もはいってくるというちょっと驚きの展開。しかし下世話な趣味とか一線をかくしたまじめで自然なレズビアン。アプローチとしては正しい映画だと思った。

エロさはまったくないのでそっち方面を期待しないように。

<あらすじ>
モスクワオリンピックの予選会で初めて5種競技に出場したクリス・ケーヒル(マリエル・ヘミングウェイ)、の結果は芳しくなかった。しかし、彼女を熱い視線でみる女子選手がいた。彼女はすでに一流選手として知られているトリー・スキナー(パトリス・ドネリー)。彼女はこの大会でも好成績を残しオリンピック出場選手に選ばれた。
クリスの才能を認めるトリーは、自分のコーチであるティングロフ(スコット・グレン)についてトレーニングすることを勧めた。トリーと共同生活しながら練習に励むくリスだったが、コーチのティングロフはトリーのクリス評に耳を傾けようとはしなかった。しかし、ある日の大会で、ハードルでスタートに失敗したクリスが猛烈な追い込みで3位にくいこむという見事な走りぶりを見せてからはメキメキと才能を伸ばしていく。一方、トリーが精彩を失い出し、ティングロフも今はクリスに力を注いでいく。
モスクワ五輪まであと2年。クリスとトリーのハードトレーニングは続くが、トリーがアドバイス・ミスをしたことで、クリスが左ヒザを痛めてしまった。これは意図的なものなのか、それとも偶然のアクシデントだったのか・・、疑心暗鬼がクリスのなかでひろがる。
クリスとトリーが友情以上の深い関係に陥っていることに不安を感じたティングロフは、2人をひき離し、それぞれに独自のトレーニングを強いた。クリスはプールでリハビリテーションに努め、そこで、水泳選手デニーと、知り合った。元オリンピック・ゴールドメダリストである彼は、クリスにアドバイスを与え、2人は恋に陥ってゆく。
そして全米選手権の日。アメリカはモスクワ・オリンピックをボイコットしており、彼女らにとってはこれが頂点の大会だった。二人はフィールドに立っった・・・。

by ssm2438 | 2010-05-22 09:52
2010年 05月 22日

花嫁のパパ(1991) ☆☆☆

f0009381_019620.jpg監督:チャールズ・シャイア
脚本:フランセス・グッドリッチ
    アルバート・ハケット
    ナンシー・マイヤーズ
    チャールズ・シャイア
撮影:ジョン・リンドレー
音楽:アラン・シルヴェストリ

出演:
スティーヴ・マーティン (花嫁のパパ)
ダイアン・キートン (花嫁のママ)
キンバリー・ウィリアムズ (花嫁になる娘)

        *        *        *

これは思わぬ広いものだった。

花嫁ネタは古今東西一杯あるが、一番スタンダードといえば小津安二郎『晩秋』だろう。『ドラえもん』でも『のび太の結婚前夜』というエピソードがある。アメリカではやはり『花嫁の父』だろう。この映画はその『花嫁の父』をリメイクした映画。
スティーブ・マーティンといえばあざとい演技のコメディアンというイメージがあったかが、この映画のスティーブ・マーティンは程よくコメディしててとっても好感がもたてた。こういうスティーブ・マーティンは好きだなあ。エリザベス・テイラーが主演した『花嫁の父』もみたが、個人的にはこちらのライト感覚で若干コメディテイストのはいっているほうが親しみももてた。オールドファンには「そんなことはない!」といわれるだろうが、私はオリジナルよりも断然こちらのほうが楽しめる。
『花嫁の父』のほうは、しっとりじっくり演出してるのだけど、もうひとつほんとに心にしみる部分が作りきれてないような気がした。なので全体を通してみたこときにやたらと薄味なドラマという感じ。見る人が無理やり自分で自分を盛り上げてみないと感動したつもりになれないような、そんな印象だった。

<あらすじ>
今、娘の結婚式が終った。ジョージ・バンクス(スティーヴ・マーティン)は靴の製造会社の社長をしていた。娘のアニー(キンバリー・ウィリアムス)はローマで建築学を勉強していたが、久しぶりに帰国すると結婚宣言をされてしまう。相手はコミュニケーション・コンサルタントのブライアン(ジョージ・ニューバーン)。そのさわやかさにママ(ダイアン・キートン)は大感激。しかしパパは赤の他人に娘を奪われるようで面白くない。そんなパパをよそに、結婚式の段どりは着実に決められていく。
そして結婚式の前夜、眠れないパパは庭でバスケットボールに興じている。外にでて相手してあげるアニー。そのときはくだらないとおもってたいたような時間も今となってはいとおしく思えてくるものだ。そしてちらほらと雪がふりはじめる。
結婚式当日は一面雪景色。式はとどこおりなく終わった。披露宴は華やかに開始された。しかし、花嫁とダンスを踊ろうとあせるパパは、なにかと小ざかしい用事でなかなかアニーと二人でいられる時間がとれない。外にとまった客人たちの車も交通の邪魔をして警察からも苦情もひきうけるしまつ。結局アニーとまともに顔をみて離すこともないまま、送り出すことになってしまった。

しかしこのへんの心情がなかなかいいんだなあ。
きっと無理して時間を作ればアニーとダンスのひとつくらい踊れたのだ。でも、なんか・・・そうしたくなかったのだろうなあって雰囲気がとてもいい。終わらせたくない気持ち。このへんがややコメディタッチで演出されたドラマのよさなんだろうな。コメディシーンはたのしい音楽を流すとしらけるが、悲しい音楽を流すと見事にマッチする。人は、自分の力が及ばず、どうしようもない時にはおちゃらけるものだ。でも心ではメローな音楽がながれている。『花嫁の父』ではこのくだりがまじめにやられたのでなんだか逆に、沁み込みづらくなってしまってたような気がした。

祭りはおわった。ひとり寂しさを噛みしめるパパ。そのとき空港からアニーの電話があった。パパはやっと娘と言葉を交わすことができた。パパの横にはママがいた。やがて2人はどちらからともなく優雅に踊り始めるのであった。

by ssm2438 | 2010-05-22 00:19
2010年 05月 20日

マンハッタン(1979) ☆☆☆☆☆

f0009381_23345362.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン/マーシャル・ブリックマン
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ジョージ・ガーシュウィン

出演:
ウディ・アレン (アイザック)
ダイアン・キートン (メリー)
マリエル・ヘミングウェイ (トレイシー)

        *        *        *

ダイアン・キートンと付き合ってた頃のウディ・アレン作品は素晴らしい。

ウディ・アレンの画面をきちんと作る才能はほんとに素晴らしいと思う。もちろんこの映画の撮影監督はゴードン・ウィリスなので、誰が監督でもきちんとした絵にはなるのだけど、それでもゴードン・ウィリスが撮影監督でないときも、きちんとした画面構成をいつも構築している。もっともこれは撮影監督の力がかなりあるのだろうが、その撮影監督を見抜くちからもすばらしい。もっとも、このゴードン・ウィリスに撮ってもらってた時代が一番好きだけど、そのあとはカロル・デ・パルマと一緒に仕事をしている。この人はミケランジェロ・アントニオーニの映画をよく撮っていた人だ。そしてゴードン・ウィリスの前の時代で、画面にひきつけられたのは『ウディ・アレンの愛と死』だった。予備知識のないままたまたまテレビをつけたらやってて、「うわあああ、なんかきっちりした画面とってるなあ、誰だ?」っておもったらギスラン・クロケだった。納得。彼は『テス』アカデミー撮影賞をとっている。
ウディ・アレン自身が画面構成能力が恐ろしくしっかりしているので、それが上手い撮影監督が誰なのかも知っているのだろう。

この『マンハッタン』はウディ・アレンが一番輝いていたダイアン・キートン時代の代表作のひとつ。世間では『アニー・ホール』が有名かもしれないが、個人的にはこちらのほうが好きだ。もっとも一番好きなのは『インテリア』だけど。
このころのウディ・アレンの作品には不思議と人を引き込む力がある。それは「ああ、これ分る分る」の要素がいっぱい詰まっているからだろう。確かにアレン自身が主役をやっているので、会話はウディ・アレンのいつもの会話で、本心を隠すための象徴過ぎ的トークがやたらとおおい。固有名詞連打も、その作家たちがもつものを象徴しているのだろう。判る人だけ判ってください的なインテリぶりだが、これも嫌いではない。そしてこの頃の言葉や、しぐさや、ドラマ展開は、胸に沁み込む度合いが80年代からの作品にくらべてディープだ。勝手な想像だが、これってダイアン・キートンを愛していたのだと思う。そのとき入れ込んだ女が彼女だったから、彼女を想った時の心情がおおいに反映されているのだと思う。ウディ・アレンって思いっきり「認められたい人」なので、そのエネルギーが高ければ高いほど、作品もよくなるのだろう。この映画では、男の恋愛のなかでよくあるケースが切実に展開されている。
そんな良くある男の心理描写を、ゴードン・ウィリスの力をかりて、マンハッタンの風景のなかで展開している。ごちゃごちゃっとした都会(ニューヨーク)の雑踏といい、いろいろアイテムがある部屋のなかといい、そして霧にけむるクイーンズボロ・ブリッジをみる二人のシルエットといい、天文ミュージアムのなかの絵作りといい、総てが確かな絵になっている。白黒画面というのはちょっと卑怯かとも思うが、ゴードン・ウィリスのモノクロ映画というのはけっこう珍しいので、そういう意味では貴重な映画でもなる。ま、ゴードン・ウィリルならカラーでもモノクロでもどうとってもカッコいいのだけど。

ウディ・アレンの映画というのは、なかなかストーリーにはいりこめないものが多いのだが、それはウディ・アレン自身が主役を演じ、それもモテる男を演じているからだ。本人はもてるとおもってるのかもしれないが、やっぱりあまりビジュアル的にもてるとは思えない。なので映画のなかでウディ・アレンがもててると、そこで「なんか違う・・」って思ってしまうのだ。しかし、これは仕方がないので、「この映画の主人公は見た目はウディ・アレンなのだが、実はもてる男優さんのだれかなんだ」と思ってみることにしよう。
そしてウディ・アレンの映画のなかで役者さん的にみて一番すきなのはこの映画だ。ダイアン・キートンは昔からのファンなのだが、マリエル・ヘミングウェイも実にいい。
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<あらすじ>
ニューヨーク、マンハッタン。コメディ番組の放送作家、アイザック・デイビス(ウッディ・アレン)はトレーシー(マリエル・ヘミングウェイ)という17歳の女子学生と同棲中だった。どちらかというとトレイシーの方が積極的だった。二度の離婚経験があるアイザックは、彼女と付き合いながらも、どこか距離を置こうとしていた。
近代美術館を見物中のアイザックとトレーシーは、アイザックの友人エール会うが、彼は女を連れていた。彼女の名はメリー・ウィルキー(ダイアン・キートン)、雑誌ジャーナリストだ。ベルイマンを表面的にしか理解しない“えせインテリ”ぶりにウンザリだったが、偶然あるパーティでメリーと再会し、意気投合してしまったアイザックは、2人で夜のマンハッタンを長々と散歩することになる。

思えば、ダイアン・キートンとデートするシーンをゴードン・ウィリスにとってもらい、その映画が世に残るなんてうらやましことだ。

結局“H”にいったったアイザックとメリー。トレーシーに別れを告げ、彼女にロンドン留学の話を勧めるアイザック。しかしメリーはやはりアイザックの友人エールを愛しているという。おい! これだから女は困るんだ。男はつかの間の夢見て、期待して、そして裏切られるとやっぱり居心地のいい女のところにもどっていくのである。

「マンハッタンの人々に関する短編のアイデア・・、
 彼らはいつも不必要な精神的問題をつねに想像している。
 なぜならそれらの問題が、さらに解決不可能でさらに恐ろしい宇宙の諸問題から逃れるための
 有効な手段だからだ。
 ふむう・・、楽天的であるべきだ。・・そうだ、人生はなぜ生きる価値があるのか?
 うん、これがいい質問だ。確かに人生を価値のあるものにしてくれるものがいくつかある。
 たとえばどんな? うむむ、そうだなあ、ボクにとっては・・
 グルーチョ・マルクス、ウィリー・メイズ、
 ジュピターの第二楽章、ルイ・アームストロングの『ポテトヘッドブルース』、
 フロベールの『感情教育』というスウェーデン映画、マーロン・ブランド、フランク・シナトラ
 セザンヌの『林檎と梨』、中華料理店のカニ料理・・・・・
 ・・・・・トレーシーの顔」

電話をかけても話中でつながらない。トレーシーのアパートに走るアイザック。しかし彼女は既にロンドン行きを決めており、荷造りを終えてこれから空港に向かうところだった。よりを戻したいアイザックは、今までのお飾りトークではなく、わがままきわまりない本心を彼女につたえていく。彼女のロンドン行きの決意は変わらない。「半年したら帰ってくるから。変わらない人もいるわ」といい、旅立っていくトレーシーだった。
「二兎を追うものは一兎もえず」ストーリーと言われるが、この最後からはトレーシーはロンドンに短期間留学するだけで、トレーシーを失ったわけではないと思う。ただ・・、夢の狩人たる男の性はトレーシーも理解しただろうし、一時の冷めた感情のままロンドンなんかにいくと、ふらっと別の男になびきかねなくもない(彼女は「代わらない人もいるわ」と言っているが)。この一連の別れ話騒動で、トレーシーのアイザックに対する憧れは消失しただろうし・・。
それでも、これで許されるならそれは男の夢だろう。そしてそれを暗示しているエンディングが実に素直でよい。ここでおわらせるのがなかなかおつな展開だなと思った。

by ssm2438 | 2010-05-20 23:35 | ゴードン・ウィリス(1931)
2010年 05月 20日

コカコーラ・キッド(1985) ☆☆☆☆☆

f0009381_2124146.jpg監督:ドゥシャン・マカヴェイエフ
脚本:フランク・ムーアハウス
撮影:ディーン・セムラー
音楽:ティム・フィン

出演:エリック・ロバーツ
    グレタ・スカッキ
    ビル・ケアー

     *     *     *

この監督さんドゥシャン・マカヴェイエフ、この人の名前知ってたらかなりディープな映画ファンです。 だいたい名前からしてもう怪しい(笑)。
ドゥシャン・マカヴェイエフ‥‥。ユーゴスラビアの監督さんなのですが、かなり毒をもったアヴァン・ギャルドな映画をとります。イデオロギー的な体制批判の味をもち(個人的には体制批判は大嫌いなのですが)、性的/根源的な欲求を展開させつつ、風刺的な要素で支配され、一般的概念をぶち壊しにかかってきます。映画をみてても、“この人は何をもって「よし!」としてるのだろうか??”って疑問に思ってしまうシーンもしばしば。ただ、彼は大学で心理学をやってたせいか、人の心に何がひっかかるのか、知ってる人なんですよね。
描いてることは、かなりの赤裸々(肉体的にも、精神的にも)、別 の言葉でいうとお下劣。しかし演出力は飛び抜けて高い。画面 の作り方もけたたましく完成度の高い画面 をつくります。たまにある“H”なシーンだと、SEXに至るまでの見せ方が異様に艶っぽい。“なに、この人の見せ方は!?”って思ってしまう。 頭の奥の方で映画を見る人というか、この人の場合はそれも心の奥の方で映画を感じる人のための映画というか、にくらしいまでに感性を刺激するんです。
表面的にはかなりカルトでもそこに確かな技術があるから、そのアンバランスさが妙に魅力的、一言で言うなら体制批判的・お下劣・インテリジェント・風刺映画を撮る人です。 興味があったら一度ネットで検索かけてみてださい。で、その体制批判的・お下劣・インテリジェント・風刺映画の中でも、一番見易いかなって思われるのがこの『コカコーラ・キッド』。お下劣度があんまり高くない。一番さらりと綺麗に見られます。 ただ、彼の映画を見ようと思うと、まあほとんどのレンタルビデオ屋にはおいてないと思うので、ネットで中古ビデオを探すしかないんじゃないかなあ。

おおまかなあらすじを紹介すると、

「問題解決に有能な営業マンベッカ-を派遣。進学と経営学の学位 有り。  彼の話を聞け。怒るな。恐れるな。そして、驚くな」 のテレックスと同時にはオーストラリアのコカコーラ支社に派遣されてきたベッカ-(エリック・ロバーツ)。 彼女の秘書につくことになったのがテリー(グレタ・スカッキ、実は私のけっこう好きな女優さんの一人です)。 そして市場をちょうさしてると、コーラの売れられて無い地域があったりする。
「なぜ、ここではコーラが売られてないのか? 喉があること、飲み物は必要だ」問題の地域アンダーソン峡はジョージ・マクドウェル男爵の領地で、古くからの製造方法でコカコーラとよく似たソフト・ドリンク、マクコークというのを売り出していて、コカコーラを完全街ぐるみで閉め出している。かくして強大企業に対抗する地元産業の抵抗という販売競争図式はできあがり、ベッカーはコカコーラの大軍団を率いてアンダーソン峡に乗り込んで行くのだった‥‥。

最終的には、ジョージ・マクドウェルは自分の工場に火をはなって戦争集結、 ベッカーはそれをみて、競争社会から足を洗うってことになるんだけど、まあ、それはいいや。 ドゥシャン・マカヴェイエフの映画の魅力はストーリーよりも、シーンごとの見せ方が味。 ノーマルな絵のなかにアブノーマルな部分を入れ込む。あるいはアブノーマルな世界感のなかで一人だけがノーマル感覚でいたりする。 “こう見えてるこの世界がほんとに当たり前だと思っているのか? うん?”みたいな、 実は既成概念の挑戦的な破壊、しかし抜かりなくユーモアというオブラートに包んで、観ている人に受け入れやすく味付けしてある。
映像も基本的にオシャレ。オーストラリアの支社で、今後の運営方針を説明するベッカ-。部屋の電気を落し、シュワ~~~という音とともにグラスに注がれたコーラ。その広報から光を当てると、聞いてる人々の顔に暗褐色のコーラ色が投影され、彼等の顔のうえに炭酸の泡の影がたちのぼり、炭酸のはじけるジュワワワワ~~~~って音だけがかなりのボリュウムで流される。それだけで、コーラの味を思い出して、口のなかに生唾がでてきそう。こういう所では『フラッシュダンス』『ナインハ-フ』エイドリアン・ラインばりのCM的オシャレ画面 をみせてくれる。
そしてグレタ・スカッキがとっても素敵。ほんとに健康的に色っぽい。 SEXに至る時にあの艶っぽい見せ方は、ドゥシャン・マカヴェイエフ天下無敵。 いやらしくなく、でも色っぽく、爽やかに肉欲を描いてしまう。
基本的には<抑圧された環境(使命)からの魂の解放>がこの人のコアで、生産性は無い。 実に魂が消費者。 たぶんこのドゥシャン・マカヴェイエフ、この映画のグレタ・スカッキのテリーに代表されるような、 汐に流されるままのクラゲのような固執することない生き方を理想としてるんじゃないかと思う。 だからスピリット的には好きになれない人なんだけど、 でも、技術力とか頭の良さはとにかく凄い。

by ssm2438 | 2010-05-20 03:35 | D・マカヴェイエフ(1932)