西澤 晋 の 映画日記

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2010年 06月 21日

雷神-RAIJIN-(2008) ☆

f0009381_23273552.jpg監督:ジェフ・F・キング
脚本:スティーヴン・セィーガル
撮影:トーマス・M・ハーティング
音楽:ジョン・セレダ

出演:スティーヴン・セィーガル (ジェイコブ・キング)

       *        *        *

これって、続編かシリーズものにする予定だったのだろうな。一本の映画としての構成はまるでダメ。

映画としての雰囲気はわるくないけど、猟奇殺人犯が3人登場し、その3人がまったく関連性のないまま物語が進行するの。普通に見る人はその意味をさぐりながら見ることになるのだが、終わってみればその関連性が全然ないという、すばらしいオチがついた映画。

●セィーガルの子供頃、彼の兄/弟を殺した殺人犯Aはその後は登場しない。

●時代が現代になり、冒頭公園に女が横たわっており、体内に爆弾を仕掛けられている。その犯人は自分たちをどこからか見ているとふんだセィーガルは後ろのビルの一室で怪しい男を発見、ぼこぼこにしてどのコードを切ったら爆弾が解除できるのかを吐かせる。結局この男は過剰暴行ということで釈放されるが、彼を釈放した弁護士をいきなり殺害、最後はセィーガル宅にしのびこみセィーガルの愛人らしい婦人警官も殺し、セィーガルと対決するが、あっさり喉をきられて絶命する。

●もう一人の猟奇殺人犯は星座マニアで、殺した被害者の体になんらかの記号をのこしていく。その記号を解読したセィーガルはあるロックバンドの男に目をつけるが、逃亡の時セィーガルの手の甲をひっかき、爪にのこったセィーガルの皮膚を殺した女の爪にはさみこみ、セィーガルを犯人に仕立て上げようとする。しかし物語の展開にはまったく関係がなく、あっさり「あれはそういうことだったのね」で不問になったりする。

さらによく判らないのがエンディング。とりあえず二つの猟奇殺人事件が解決した後、セィーガルが自宅にかえると美人の色っぽい女(奥さん)がいて、子供もいる。そしてその女が服を脱ぎこれから“H”をするぞってところで終わる。あれはなに???
深読みするなら、冒頭でてきてた昔の猟奇殺人犯Aが次回さくで、かれの家族を再び襲うってことなのだろうか? まあ、シナリオ的にはまったく完成度は低く、意味不明構成である。

あとアクションシーンがうざい。同じシーンを複数のかめらでとって、それを多段に切り張りして編集してやたらと細切れ間のあるアクションにシーンにしてるのだけど、うざい。セィーガルのアクションっていうのは瞬殺系のアクションなのだけど、何回もなぐるシーンをアングルを変えて何回も使うので、ただだらだら長いだけのアクションになっててダレる。こんなに何度も何度も何度も殴らないと相手を倒せないセィーガルってのは魅力ない。DVDでみたからそのシーンになると飛ばしてみられたからいいけど、劇場でみたらうざいだろうなあ。

by ssm2438 | 2010-06-21 23:28
2010年 06月 21日

エスパイ(1974) ☆☆

f0009381_20491571.jpg監督:福田純
原作:小松左京
脚本:小川英
撮影:上田正治
音楽:平尾昌晃/京建輔
特技監督:中野昭慶

出演:
藤岡弘 (田村良夫)
由美かおる (マリア原田)
草刈正雄 (三木次郎)
加山雄三 (法条)

       *        *        *

サービスカットは由美かおるのオッパイ・・・。

『ゴジラの息子』『南海の大決闘』福田純が監督なので、これもごたぶんにもれず凡人的な作品になってしまったが、物語としてはわくわくさせてくれる話だ。しかし、福田純ってホントにに見せるべきツボが判ってなくって、それまでやってきたような画面の中からしか映像が構築できない。自分のなかで「これは本来こうするべき」という方向性がある人は、それを実現するために「今の技術ではこういうのが記号的に使われているけど、もっとなにかリアルな表現があるのではないだろうか」・・って新しいなにかを構築していくものだけど、福田純にはそれがない。まるで今の下手なアニメの演出家のような監督さんである。

しかし、この映画のコンセプトはそれなりに面白くて超能力者の限界を低く設定してあるところが良い。エスパイというのは、人並はずれた超能力を持った人間“エスパー”たちで、彼らによって構成されている秘密組織が存在し、どの国家にも属さず、利益を追わず、権力をも求めず、破壊者の手から世界平和を守ることを目的として活動している・・というもの。早い話が国連のエスパー部隊というようなものだ。
しかし、映画のなかでの戦闘は銃撃戦だったりすし、最後の秘められた大技はテレポーテイションって言うのもけっこう小じんまりとして実に良い。しかし現実問題、やっぱりテレポーテイションが使える人間がいたらそれは超能力モノでもやっぱり漫画になってしまう。個人的には『炎の少女チャーリー』デヴィッド・キースが能力をつかうとのき鼻血がでるくらいの程度の演出がいいのではないかとおもうのだけど。
原作は小松左京。実は小松左京って個人的にはとっても認めているSF作家だ。もっとおとなの感覚で映画がつくれる人がとったらとっても面白いものになっていたのにって思う。残念。

<あらすじ>
エスパイの日本支部長・法条(加山雄三)は、部下の田村(藤岡弘)とマリア(由美かおる)を使って、超能力を秘めているとおもわれるテスト・ドライバーの三木(草刈正雄)をスカウトする。まだ自分の能力に半信半疑の三木だが、メンバーの一員として任務に就く。
一方田村とマリアは、何者かがバルトニア首相暗殺を計画している知らされイスタンブールに飛ぶ。しかし、情報をもってきたボールという男は殺され、マリアも捉えられてしまう。催眠状態にされたマリアの服が破かれ乳房がこぼれ、黒人男の慰み者にされそうになったそのとき、田村能力を使いなんとか助けるが、彼自身能力を使い果たし、逆エスパイの首領ウルロフ(若山富三郎)によって地中海に放り込まれた。溺死寸前のソ連の潜水艦にすくわれる田村。
超能力に懐疑的になっている三木は、ウルロフの手下ジュリェッタの催眠術に陥り、殺されそうになる。田村は三木を救うが反対に激しい銃弾にさらされ、時限爆弾が仕掛けられた車の中に閉じ込められた。一方、首相歓迎のレセプションの会場では、ウルロフの起こした大地震などの幻覚のため大混乱になった。その時、エスパイの間では伝説とされていたテレポーテイション (遠隔移動)で田村がその場に出現した。エスパイたちはウルロフの本拠を攻撃、ウルロフを遂に倒した。

by ssm2438 | 2010-06-21 20:51
2010年 06月 21日

神田川(1974) ☆☆

f0009381_272153.jpg監督:出目昌伸
脚本:中西隆三
撮影:原一民
音楽:佐藤允彦

出演:関根恵子(ミチコ)/草刈正雄(マコト)

       *        *        *

なんでこういうラストになる? 登場人物や作者の人間力のひ弱さを感じてしまう。

70年代の大学生を描いたかなりあまあまなストーリー。しかし・・・、これをみているとやり抜く力を感じないのが悲しい。なんでも、ヒット曲「神田川」を作詞した喜多条忠が、自らの愛と焦燥の学生生活を綴って書き下した同名小説が原作らしいが、「僕たちは頑張ったけど、どうせだめなんだ」が基本にあるような気がする。こういうラストに持っていくこと自体が理解しがたいし、こういうエンディングにすること自体、作り手の生命力のひ弱さを感じずにはいられない。
自分の力不足を嘆いて酔っているだけ・・というか、間接的に「俺たちを不幸にしたのはお前らだ」と大人たちの無理解さを批判しているというほうが正しいかも。でも、じゃあ自分たちでしぶとく生き延びようというエナジーはない。まあ、成人してもだだこねて、大人たちにあまえていたんですね。この時代の作品というのはそういうのが多いことは確かだけど・・。やっぱりこれも、一足遅れてやって来てアメリカンニューシネマの負の影響力のような気がした。あるいは・・・ベルトルッチ・テイストとでもいいましょうか・・、体制に反発しながらも結局は抵抗出来ないやるせなさを感じた。

・・・しかし、画面は良い。きもちょい望遠でつづられた関根恵子草刈正雄のショット、その背景となる70年代の東京を切り取った原一民の画面はとってもいい。そして雪山のなかで関根恵子の肢体はまぶしいばかりに美しい。

<あらすじ>
大学の人形劇サークルに所属している上条真(草刈正雄)は、司法試験に受かって既に一人前になっている兄の高圧的支配と、親からの仕送りのなかで、自立力の乏しい学生生活をしていた。そんな彼が、印刷場に勤める池間みち子(関根恵子)と付き合い始める。
やがて妊娠するみち子。しかし二人の関係に反対の兄は、そんなみち子を産婦人科医に連れて行き、麻酔の間に堕胎手術をうけさせてしまう。兄と決別した真はサークルをやめ、二人の生活を守るために働きながら学生生活を送ることになるが、疲れ果ててかえってくる真をみるのがたえられなくみち子。そんな二人の家計を助けるためにバーのホステスとして働くというみち子だが、それこそ真には耐えられない。理想と現実のハザマで二人はぎすぎすしてくる。
そんなときサークルのチーフとマキシは雪山で自殺する。マキシが真への愛に敗れて自暴自棄になり、チーフの備前がそれに付き合うことになってしまった。二人の遺体を見ながら、みち子はいつか真と離れなければならない自分の運命を悟り、真の「二人で生きよう」との言葉にも、涙にぬれる顔を横にふり続けるだけであった。

こういうエンディングしか描けない原作者の精神にはまったく共感がもてない。超しらけエンディングであった。

by ssm2438 | 2010-06-21 02:07
2010年 06月 20日

イヤー・オブ・ザ・ガン(1991) ☆☆

f0009381_23412398.jpg監督:ジョン・フランケンハイマー
脚本:デヴィッド・アンブローズ/ジェイ・プレッソン・アレン
撮影:ブラスコ・ジュラート
音楽:ビル・コンティ

出演:
アンドリュー・マッカーシー (デヴィッド・レイボーン)
シャロン・ストーン (カメラマンのアリソン・キング)
ヴァレリア・ゴリノ (デヴィッドの恋人リア)

       *        *        *

フランケンハイマーが良い味をだしているが・・・ちと判りづらい。

こちらは赤い旅団。1970年に結成されたマルクス・レーニン主義を掲げるイタリアの極左民兵組織。ひとことでいうとイタリアの日本赤軍みたいなもの。イタリアでは権力を牛耳る立場の人間の腐敗がすすんでおり、それに業をにやした極左系の若い者たちが革命とイタリアの西欧同盟からの離脱を主張して70年代初頭から活動を開始。数多くの誘拐・殺人事件を起こし、ジャーナリストや、警察官、裁判官、実業家、政治家などを殺害した。

ストーリーはあるようで、ないような映画という印象。話も実はよくみえてこない。小説家志望のアメリカ人青年アンドリュー・マッカーシーが冒険小説を執筆していたのだが、その小説の題材がテロリスト達が実際考えていた計画と告示していた。そこからうまれる誤解。今ひとつ映画自体に迫力がないのだが、その浅いところのイベントがこの映画のリアリティなのだろうな。

<あらすじ>
1978年のローマは赤い旅団によるテロが頻発していた。ニュース記者としてローマに戻ってきたデヴィッド・レイボーン(アンドリュー・マッカーシー)は、かつての恋人リア(ヴァレリア・ゴリノ)のもとへ身を寄せ、ジャーナリストとしての仕事をしつつ赤い旅団をモチーフにした冒険小説を書き始めていた。
ある晩デヴィッドは彼の新聞社の主催によるパーティーの席で女性カメラマンのアリソン・キング(シャロン・ストーン)に出会った。赤い旅団を追うアリソンはデヴィッドの小説に興味を示し、密かに手に入れるが、これがどういう経路が赤い旅団の耳に入る。その小説には彼らが現実に起こそうとする事件と告示する部分があったのだ。そして彼の周辺の人間が次々と犠牲になっていった。身の危険を感じたデヴィッドはアリソンと逃亡、リアに助けを求めるが、実はリアは赤い旅団の一員であった。捉えられた二人が釈放される際、リアは2人の目前で裏切りものとして射殺され、その報道を命じられた。

by ssm2438 | 2010-06-20 23:42 | J・フランケンハイマー(1930)
2010年 06月 20日

ミュンヘン(2005) ☆☆☆☆

f0009381_2256444.jpg監督:スティーヴン・スピルバーグ
脚本:トニー・クシュナー/エリック・ロス
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:
エリック・バナ (暗殺チームリーダーのアヴナー)
ダニエル・クレイグ (車輌担当のスティーヴ)
キアラン・ハインズ (後処理担当のカール)
マチュー・カソヴィッツ (爆弾担当のロバート)
ハンス・ジシュラー (文書偽造担当のハンス)
マチュー・アマルリック (上方屋のルイ)
ミシェル・ロンズデール (ルイのパパ)

       *        *        *

普通の人間性をもった人たちの殺人シークエンス。

この事件がおきたのは私が10歳の時で、1972年のミュンヘンオリンピックの最中。なにやら陰惨な事件がおきたらしいということだけは子供ながらに知っていたが、少なくとも私の記憶でそれでも普通に行われた五輪で、日本のバレーボールのチームが男子は金メダル、女子は銀メダルを取り、体操では月面宙返りなる技が世間をにぎわせ、水泳ではアメリカのマーク・スピッツがやたらと金メダルと獲得していた・・というだけだった。
実際にこの事件の内容を知ったのはそれから15年くらいたってからのことである。
それも、そのきっかけになったのはジョン・フランケンハイマー『ブラック・サンデー』を見たときで、同じ時期にレンタルビデオ屋の棚には『黒い9月』というタイトルの映画もならんでいた。実際こちらの映画はみたことがないのだが、『ブラックサンデー』のなかで『黒い9月』という言葉が出てきており、当時『ブラック・サンデー』が公開中止になったのもそんな背景があったのか・・と理解した。

この映画は、暗殺部隊の元メンバーの告白を基にしたノンフィクション『標的(ターゲット)は11人/モサド暗殺チームの記録』の映画化。モサドの殺し屋も普通の人間だってところ。その普通性と、殺しを実行していく異常性がつねに共存しながら物語が描かれていくところが良いよ。これが『ゴルゴ13』作者から与えられた無敵の精神を武器に戦えるファンタジックな殺し屋だったらそこら辺によくある話なのだけど、モサドの実行員ですらその人間性を普通にもってるあたりが実に良い。普通モサドメンバーだったら感情のないマシンのような諜報員って印象をそれまで持っていたが、こういう描き方をされると実に新鮮だった。
スピルバーグの演出も、人を殺すとい非人道的な行為がおこなわれると同時に、それを実行していくものの人間性を露骨に描写し、このコントラストが実に効果的に描かれている。

主人公がやっともどった家庭で妻をセックスをする、その間に挿入される、人質にされたイスラエルのオリンピック代表選手とコーチや役員たちの殺されるシーンにはやりきれない痛みを感じる。彼らの痛みや憎しみをを感じるなら復讐はあってしかるべきだと感じてしまうも人間性だし、それを延々つづけていても何も解決にはならないと理解できてしまうのも人間性。たぶん人はどちらも否定することは出来ないように生れているのだろう。

ちなみに撮影はヤヌス・カミンスキー。スピリバーグの映画では比較的近いカメラがおおく、その点に関してはイマイチなのだけど、この人の色の質感はとても好きである。

<あらすじ>
ミュンヘン・オリンピック開催中におきた、パレスチナ・ゲリラ “黒い九月”によるイスラエル選手と役員の人質惨殺事件に激怒したイスラエル機密情報機関モサドは、暗殺チームを編成してその報復を企てる。そのチームリーダーに任命されたのは、まだモサドに入って何の実績もないアヴナー(エリック・バナ)だった。彼は結婚しており、妻は妊娠中で、あと2ヶ月もすれば子供が生れるという、そんな時期のことだった。

妻にも事情を話せないまま、ヨーロッパに渡るアヴナー。そして車輌専門のスティーヴ(ダニエル・クレイグ)、後処理専門のカール(キアラン・ハインズ)、爆弾専門のロバート(マチュー・カソヴィッツ)、文書偽造専門のハンス(ハンス・ジシュラー)という4人のスペシャリストと共に、アラブのテロリスト指導部11人を一人一人暗殺していく。ターゲットを探し出すのはルイ(マチュー・アマルリック)という情報屋だった。
2人の暗殺が終了した時点で、アヴナーは妻の出産に立ち会うため仲間に内緒で一時帰国。家族の危険を考え、妻にニューヨークへの移住を切り出す。
確実にリストの男たちを殺していくメンバーだったが、POLも各地で爆破テロやハイジャックを起こし、一般人をまきこんだ犠牲者はあとをたたない。ある晩、ついにカールが女殺し屋に殺害される。その女殺し屋もルイが探し出してくれた。そのときは無料での情報提供だった。つまり、自分たちが流した情報ではないというアピールであり、同時にルイはアヴナーに封筒を渡す。中にはアヴナーの写真が入っていた。つまり、何者かがルイたちにアヴナーの所在を探すことを依頼したのだ。既に狙うだけの立場から狙われる立場になっているのだ。
それでも殺しを依頼された女殺し屋を殺したアヴナーたちだったが、まもなくメンバーのハンスも殺害され、ロバートは、自ら作った爆弾の誤爆により命を失う。標的を7人殺害した時点で、アヴナーは任務を解かれて妻子の待つニューヨークへ移る。しかし常に誰かに追われる恐怖を抱えながら生きていく人生から逃れることは出来ないのだった。

by ssm2438 | 2010-06-20 22:55 | S・スピルバーグ(1946)
2010年 06月 20日

ブラック・サンデー(1977) ☆☆☆☆☆

f0009381_15562658.jpg監督:ジョン・フランケンハイマー
原作:トマス・ハリス
脚本:アーネスト・レーマン
    ケネス・ロス
    アイヴァン・モファット
撮影:ジョン・A・アロンゾ
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:ロバート・ショウ
    ブルース・ダーン
    マルト・ケラー

     *     *     *

ジョン・フランケンハイマー ! とにかく無骨に映画を撮る人である。大好きな映画監督の一人だ。

どう説明したらいいだろう‥‥、例えばアニメとか戦隊モノだとちょっと都合が悪くなるとジャンプして場所移動が常套手段なのだけど、それをしない監督さんといったら一番イメージが沸くかもしれない。
それが実存する人間ならA地点からB地点まで行くには走っていくか、歩いていくかよじ登るかしないといけないのである。仮面ライダーみたいに「とぉー」っと一声かけてジャンプして到達出来る訳ではない。ジョン・フランケンハイマーはそういうご都合主義を排除し、そこまで主人公が走らせるのである。
物語の語り口にも同じことが言える。とにかく出来ない事を「映画だから」という言い訳のものとに無理矢理ミラクルにやってしまうことが嫌いなのだと思う。出来る事だけで物事を描こうとする。こういう姿勢、大好きなんだなあ。
最近のお子様向け映画でCGふんだんにつかい出来もしなことを絵にしてしまうアホ監督がやたらと多く、そうんな映像だから物語にリアリティがなくなって「なんか賑やかだけど眠たいなあ」って感じる事がやたらと多い。しかしジョン・フランケンハイマーの映画はそういうことは決してない。
最近の『RONIN』でもやはり、ジョン・フランケンハイマーは久々に復活してジョン・フランケンハイマーだった。出来る事の積み重ねで映画をつくるのである。うれしい! 子供相手の映画なんてもういい加減飽き飽きしてるのできちんとこういう硬派な監督さんの描く映画を見てみたい物だと思うのだが、最近こういう実に無骨か演出を出来る人がいなくなってしまった。

初めてこの映画を見たときの印象は「なんとリアルな映画なんだ。まるでドキュメンタリーをみてるような感じの描き方だ」。勿論映画であり、フィクションなのだけど、実際に起きたことをカメラが同伴して撮ったかのような印象だった。当時はミュンヘンオリンピックの後の<黒い9月>事件の後でもあり後悔が打ち切りになってしまったが、映画としては圧倒的な重厚さをもっていたサスペンス/アクション/パニック映画なので、もっと多くの人にみて欲しい映画だった。

原作は知る人ぞ知るトマス・ハリス『羊たちの沈黙』『レッドドラゴン』などで有名だけど、やはり映画になったものとしてはこの『ブラック・サンデー』が最高傑作だろう。映画だけでなく原作としても、猟奇殺人というマニア受けしそうな題材よりも、この骨太のポリティカルサスペンスのほうが遥かに重厚さがある。もし機会あればレンタルビデオ屋で手に取ってみてほしい。
「ああ、男の映画とはこういう物なのだ!」って再認識するかもしれない。

場所はイスラエル。人里離れた民家(?)。これからの作戦の段取りをきめたあとシャワーを浴びにその場を離れたマルト・ケラー、そこを黒装束の武装勢力に襲われるところから始まる。武装勢力はそこにいる人たちを手際よく殺していく。実にプロらしい。そしてドキュメンタリーっぽい。ほんとの夜襲をカメラが同伴してるのかと思うくらいのリアリティ。
あらかたそこにいる男たちを殺した後シャワー室のカーテンを開くとそこに裸で無防備なマルト・ケラー。武装勢力のボスはある種のためらいがあったが、彼女を生かしたまたその場を離れた。
はっきり言ってこの時点ではどっちが良い者でどっちが悪者なのか分からなかった。このイマイチ訳の分からない導入部だけでももう、観ている者をこの映画にハメてしまう魅力が在る。それはけっして007ものようのうなハッタリ系ドンパチのツカミではなく、実にドキュメンタリー感覚の印象を提示してくれるのだ。
そしてこの夜襲の時に手に入れたテープから事件はアメリカへ展開していく。

やがてそのテープはアメリカのFBIのもとへ辿り着く。持って来たのはその夜襲をかけて部隊のリーダー、カバコフ少佐(ロバート・ショー)である。かれはイスラエルの特殊工作部隊の隊長。彼等が襲撃したのはパレスチナの過激派組織<黒い九月>だった。彼等はアメリカのイスラエルびいきの中東政策に反対し、ミュンヘンオリンピックでイスラエルの選手とコーチを人質に取り殺害してた。そしてその後にこの物語となるアメリカへのテロを計画していたのだ。
そしてカバコフが先の襲撃で手に入れたのは、そのテロ計画が実行された後に流されるはずであった犯行声明の録音テープだった。FBIとカバコフとで犯罪を食い止める捜査がはじまる。
犯行声明に使うはずだったテープがモサドに押収されたことにより、過激は組織の上層部はマルト・ケラーに作戦の中止もとめる。しかし彼女は作戦を実行に移していく。具体的に作戦を計画したのはアメリカの米軍兵ブルース・ダーン。捕虜生活が長くちょっと精神を病んでいる。そして彼等もギリギリの綱引きをしつつテロ計画を実行に移していく。そしてそれぞれのぎりぎりの折衝が出来る事の範囲内で行われてゆき、カメラがそれを記録していくのである。なかでもダーツ爆弾の予備実験に割り当てられた砂漠の真ん中にある小屋。ここの描写などは恐ろしくも美しい。
さすがに最後、飛行船に乗ってからはいささか大雑把になってきたが、それまでのリアリティは優れもの。実に無骨なポリティカル・サスペンス、大人だけの傑作娯楽大作だといっていい。テロを題材にしたクライム・サスペンスとしてはこの映画が最高傑作だろう。

この映画に一つ不満があるとしたら物語が犯人側とFBI側と両方から描かれているところかもしれない。できればFBI側だけから描けなかったものかなって思う。そしたらもっとドキュメンタリー性が出て来たのに‥‥。


この映画を見るとアニメの作り手としてはまたひとつ原点に戻される気分になる。
ジョン・フランケンハイマー師匠は多分こう思っているに違いない。

「ジャンプして場所移動はするなよ。この法則を守るだけでアニメは10倍良いもに仕上がる」

by ssm2438 | 2010-06-20 15:49 | J・フランケンハイマー(1930)
2010年 06月 20日

ブラス!(1996) ☆☆☆☆

f0009381_10244345.jpg監督:マーク・ハーマン
脚本:マーク・ハーマン
撮影:アンディ・コリンズ
音楽:トレヴァー・ジョーンズ
演奏:グライムソープ・コリアリー・バンド

出演:
タラ・フィッツジェラルド (グロリア)
ピート・ポスルスウェイト (ダニー)
ユアン・マクレガー (アンディ)

       *        *        *

タラ・フィッツジェラルドの「アランフェス協奏曲」で心を鷲掴みにされてしまった。

私にとっては槇村さとる『愛のアランフェス』はドラマ作りのバイブルなので、アランフェス協奏曲には人一倍おもいいればある。それをフリューゲル・ホーンでやってのけるタラ・フィッツジェラルド。指使いはいまひとつぎこちなかったが、それでもムードでやられてしまった。
彼女はそれほどメジャーな役者さんではないのだが、どことなくレベッカ・デモーネイの悪意がありそうなクールビューティ的雰囲気がなかなかよいのだ。

舞台はイングランド北部ヨークシャー地方、炭坑の町グリムリー。やはりこの町の炭鉱も閉鎖される運命に逆らえないでいた。そこで働く人々と。炭鉱モノというのは、団結力があり、村八分性があり、開発のなかで取り残されていく人々の哀愁があり、そしてそれでも未来に踏み出していかなければならない運命がある。
実に映画になりやすい要素満載なのだが、この映画はそこに音楽がからんでおり、最後に一花さかせるぞ!っていう意地がある。「人生の負け惜しみ」ともいうかもしれないが、それでもやらずにはいられないものをやってのけてしまったブラスバンドのメンバーの満足感がある。うむむむむむ、やっぱり楽団ものはいい!

そこまでは映画をみての感想。なのでそれで総てだといってもいいのだけど、結局この人たちはどうしているのだろう? 「ボクにはこれしかできません」って方向性にだけはむかってほしくないのだが、その臭いがのここっているのも確か。

<あらすじ>
f0009381_10161654.jpgイングランド北部ヨークシャーの炭鉱の町・グリムリー。炭鉱員で構成された伝統のブラスバンド、グリムリー・コリアリー・バンドの指揮者、ダニー(ピート・ポスルスウェイト)は、全英選手権に出場し、ロイヤル・アルバート・ホールで演奏して優勝することを夢見ていた。しかし、炭鉱自体が閉鎖の危機にあり、メンバーたち不安で練習に気がはいらない。
そんなグリムリーに、グロリア(タラ・フィッツジェラルド)という若い女性が還って来た。彼女はかつてのダニーの親友の孫娘で、フリューゲル・ホーン持参で練習場に現れ、難曲の「アランフェス協奏曲」を披露し、一同を感動させた。
メンバーのアルト・ホーン奏者のアンディ(ユアン・マクレガー)は子供時代、グロリアと付き合ったことがあり、ふたたびさりげなく夜を共にする。しかし、グロリアは会社側が炭坑員の意識調査のために呼んだ人間だった。そのこと組合員にしられるとグロリアは冷たくあしらわれるようになる。
ハリファックスでの全英選手権、バンドのメンバーは決勝進出を決めて町に帰ってくるが、炭坑閉鎖が決定。メンバーのほとんどが失業者になったのだ。さらにダニーが持病の肺の病をこじらせて倒れて入院。メンバーは病院の外で「ダニー・ボーイ」を演奏する。ここはなかなか泣ける。演奏の終わったあとのみんながなにもいわずとぼとぼと去っていくフカンの絵にはが実に哀愁がある。
資金不足で決勝に行くことができない彼らは、炭坑閉鎖とともにバンド解散を決心していた。そんな時、グロリアが決勝出場のための資金を提供を申し出た。彼女は辞職し、退職金をもらったそのお金を遠征資金にあてるというのだ。あこがれのロイヤル・アルバート・ホールに立ったメンバーは、「ウィリアム・テル序曲」を力強く演奏。背後には病院を抜け出したダニーとフィルの妻子の姿もあった。かくしてバンドは見事優勝を勝ち取り、ダニーが感動的なスピーチを聞かせ、ダブルデッカート(二階建てバス)のなかで威風堂々を演奏しながら帰路へとつくのだった。

by ssm2438 | 2010-06-20 10:19
2010年 06月 19日

この森で、天使はバスを降りた(1996) ☆

f0009381_1019459.jpg監督:リー・デヴィッド・ズロトフ
脚本:リー・デヴィッド・ズロトフ
撮影:ロブ・ドレイパー
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:
アリソン・エリオット (パーシー)
エレン・バースティン (ハナ)

       *        *        *

ああやっぱり、サンダンス映画祭ものに当たり無し!

ロバート・レッドフォードが主催するこのサンダンス映画祭は、ユタ州のスキーリゾート地で有名なパークシティで、1978年より毎年1月中旬から11日間に渡って開催される映画祭。インディペンデント映画を対象とし、数万人規模の客を招き約200本もの長・短編映画が上映され、日本のNHKがスポンサーに名を連ねている。
ロバート・レッドフォードが映画『明日に向って撃て!』で演じた役柄サンダンス・キッドに由来するもの。

マイナーなインディペンデント映画にスポットをあてたということで、その趣旨には賛同できるのだが、出てくる映画がひどい。映画作りのほんとの実力がとぼしく、小手先の表現で質の低い観客をけむにまくような映画がグランプリをとることが非常に多い。この映画も同映画祭の観客賞を取っているが、映画としてはかなり低次元。
とにかく物語の方向性がまるでみえない。行く先もみえないまま物語が進むので見てる側としては何に期待して良いのかわからない。物語のまとめ方が実に不十分で、不要なエピソードもあるようなきがする。だいたいベトナム戦争で精神障害うけた息子のイーライが山に引きこもり、ときどき食べ物をもとめて母親ハナのレストランの裏に降りてくるにもかかわらず、そのレストランを売り払おうとする精神も理解できない。そういったエピソードどうしの整合性が取れてない上に、見せ方の下手で理不尽な感傷的なシーンばっかりなので途中でやめたくなる。素材は悪くないのだが・・・もったいない作りだった。
アイテムはそろっているのに何一はまらない。その組み合わせが非常に下手で、役満が目の前を通り過ぎ、結局なにひとつツモらず、その局を流したような映画だった。

<あらすじ>
5年間の刑期を終えたパーシー(アリソン・エリオット)はた、メイン州の小さな町ギリアドでバスを降りた。保安官の斡旋でハナ(エレン・バースティン)の営む小さなレストランに住み込みで勤めはじめた。しかし偏屈者のハナとはうまくいかず、住民たちもよそ者の彼女の過去の噂を囁き会う。
パーシーが仕事にも慣れた頃、ハナもパーシーを少しずつ信頼していく。ある晩、パーシーはハナから裏庭に缶詰を入れた麻袋を置くように頼まれた。夜中に袋を持ち去る人影を見た。彼はハナはひとり息子イーライだった。イーライはベツナム戦争で心身ともに傷つき人里はなれて一人山にこもっていた。
そんなハナはこの店を売ろうとしていたが、10年たっても買い手がつかない。パーシーは、応募料100ドルで店への夢を語った作文をひろく募集し、最優秀者に店をプレゼントするというアイデアを提案した。予想を遥かに上回る手紙の山が全国から届き始めた。大金を手に入れたハナたちをやっかみ半分で批判していた町の人々も、ハナの提案で審査員になる。
そんなある日、パーシーはイーライと接触してしまう。彼をそっとしておきたかったハナはパーシーに怒をぶつけてる。次の日パーシーの姿と共に、コンテストで集まった大金が消えた。周囲はパーシーを疑い、森の中にパーシーの共犯者がいると思い込み大規模な山狩りを始めた。イーライの身が危ないと感じたパーシーは彼を助けるために森の中を走る。イーライを見つけたパーシーは逃げてと叫ぶが、川の流れに飲み込まれて命を失ってしまった。
結局お金は出てきた。ハナのおいのネイハムが、パーシーが盗むのではと危惧して金を隠したことを告白する。イーライも還ってきた。森の緑が鮮やかになってきた頃、赤ん坊を抱いた若い娘が町でバスを降りた。彼女が作文コンテストの最優秀者だった。

by ssm2438 | 2010-06-19 10:20
2010年 06月 19日

薔薇の名前(1986) ☆☆☆

f0009381_9163679.jpg監督:ジャン=ジャック・アノー
脚本:ジェラール・ブラッシュ
    ハワード・フランクリン
    アンドリュー・バーキン
    アラン・ゴダール
撮影:トニーノ・デリ・コリ
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:
ショーン・コネリー (バスカヴィルのウィリアム)
クリスチャン・スレイター (見習修道士のアドソ)

       *        *        *

高尚なタイトルはついているが、実は普通の推理小説。世界観の構築だけはきちんとされているのだが・・・。

堅実に映画とつくるジャン=ジャック・アノーなので、物語の背景になった中世イタリアの修道院の描き方はとってもきちんとしている。といっても私がそれをしっているわけではないので、観客をそのムードにさせる手腕がきちんとしている・・ということだけど。
そんな特異な状況の中で人が死に、そこを訪れたイギリスの修道士ショーン・コネリーがその謎をといていくといういもの。謎と、宗教を背景としたしがらみがショーン・コネリーの詮索の抵抗勢力になるのだが、そういった世界観描写はスッごく出来ている映画だと思う。死んだ僧侶が読んでいたという禁断の書の存在。そして禁じているがゆえに見てみたいその中身。謎解きという観客の興味を命綱に、世界観描写で最後まで持っていく構成は機能しているし、僧院の僧のメイクはかなり不気味。目も怖い(苦笑)。そんななかで展開されるアガサ・クリスティーの推理小説をその時代に移植したミステリー。
しかしミステリー、謎を解かれてしまうとなんだかそれだけで終わってしまう悲しい定め。当時の映画雑誌等では、ランキングの上位に推挙された映画で、私も劇場に足を運んだのだが、それほど面白いとは思わなかった。今でいうなら謎解きロールプレイングゲームの映画みたな雰囲気だったかな。
ただジャン=ジャック・アノーという監督さんは、物語の背景になる世界観を地道にきちんと構築して撮るひとなんだな・・という玄人的な技術力には感銘をうけた。

あと不思議なのが登場人物のみなさんが英語をしゃべっている。舞台はイタリアだし、監督はフランス人だし、製作国はフランス/イタリア/西ドイツの共同制作、なのになんで英語なんでしょう? その違和感が最初からついてまわったかな。ま、これは言わないことにしてみないといけないのだろうけど、イタリア語でなんでわるかったのだろう? これはのちに『スターリングラード』で、ロシア兵の話なのにみんな英語をしゃべっている不思議さに通じていく。ジャン=ジャック・アノーをフォローしているのがアメリカの企業ってことなのだろうか・・・。

<あらすじ>
1327年、北イタリア。ある修道院で若い修道士が不審な死を遂げる。そしてそこを訪れたイギリス人の修道僧ウィリアム(ショーン・コネリー)と見習修道士のアドソ(クリスチャン・スレーター)が、部外者であるがゆえに、その調査を依頼される。
死んだ僧は、文書館でさし絵師として働いていたという。ウィリアムが調査を進めてゆく途中、第2の殺人が起きる。ギリシャ語の翻訳を手がけていた修道士の死体が発見され、彼の指には黒いしみが残されていた。この事件は、立ち入り禁止の文書庫と何らかの関係をもっているようだ。やがてウィリアムらは、文書庫に通じる秘密の通路を発見する。

院内では司書のマラキーア(フォルカー・プレシュテル)の監督の下、修道士たちによって、本や原稿が書き写され増刷されていた。そのなかには下世話な話や、エロ話などもあり、院内で硬く禁じられいた戒律「いかがわしい話、ばかばかしいおしゃべりはいけない。むやみに笑ってはいけない」・・から、人間の下世話な心を解放する禁断の場所でもあった。しかしそのインクには毒性のあるものが使われており、かくれて本を読みすすめる者は、ときおり指を舌でぬらしてページをめくっていた。知らず知らずのうちに彼らは毒性のインクを摂取していたことになっていたのだった。そしてそれを隠さねばならない修道院サイドの都合・・。そんななかで、何人かが事故死し、何人かは殺されたのだった。

by ssm2438 | 2010-06-19 09:16
2010年 06月 18日

樹氷悲歌(エレジー)(1971) ☆

f0009381_0461473.jpg監督:湯浅憲明
企画:斎藤米二郎
脚本:高橋二三
撮影:上原明
音楽:菊池俊輔

出演:
関根恵子 (桂みや)
篠田三郎 (米沢信一)
小野川公三郎 (町田邦夫)
伴淳三郎 (桂源三)
松坂慶子 (しま子)

       *        *        *

うむむむむ、伴淳三郎だけは良かったが・・・。

・・・ちょっとこれはつらいかな。もうすこしなんとかならんかったんだろうか・・・。音楽の入るもよくないし、センスもイマイチ。まあ、今だからこそいえるのかもしれないが、もうすこしなんとかならんかったんかなって気がする。こればっかりか時代の習慣がものをいう世界なのでこの時代はこれでよかったのだろうが・・今見るとつらい。

ドラマは、関根恵子扮する桂みやが、けなげに自分の恋愛と家族と身近な人たちを大事にして生きてるんだけど、結局最後は死んでしまい、生き残ったものが彼女の思い出を胸に生きていこうね!って趣旨の映画になっている。わかるんだがちと形式的すぎるというか・・、ひとえにつまらないってことだな。

さいしょきになったのが乗馬ができない篠田三郎の馬上での絵。いかにも乗ってませんって感じがまるわかりの絵なのでそこで興ざめ。ロングは吹き替えでもやっぱり乗馬の練習くらいしてほしかった。

で、『高校生ブルース』もみて、これもみて思ったのは、男にプレッシャー掛けすぎ。こんなことされたら挑むしかなくなる。それで正解だと思うけど、でもつらい。といういわけで、この映画の肇はダービーに出走する篠田三郎のシーンから始まってほしかった。そして回想、それまでの思いを描いておいてダービーだったらいいのだけど、この映画のように関根恵子にッ最後しなれたら、篠田三郎はどうしていきたらいいのだろう。そりゃあダービー騎手になれたらいいけど、挫折したら・・って思うとつらい。
なので映画としたら、ダービー騎手としてダービーの馬に参加するところからはじめてちょっとだけ見ている人に安心させておいて、それから「なぜ主人公がそのような人生を歩んだか」ってことを関根恵子ねたバックに描いてほしかったかな。
この終わりかただとほとんど希望もないのにただ、いどみつづけないといけない篠田三郎って感じになってしまいちょっとみててつらい。

しかし・・関根恵子のオッパイはこの映画では不用だったようなきがする。

<あらすじ>
上山の温泉町にに、競馬騎主を夢みて東京に旅立った真一(篠田三郎)がもどってきた。旅館の息子として生まれた信一は母を残したまま、馬事公苑に就職してしまったのだ。信一は、練習中に落馬して右眼をいため競馬騎手としての将来に絶望して、そんなときに子供の頃からずっとすきだった桂みや(関根恵子)に一目会いに帰ってきたのだった。
それからいろいろあって真一は決意する。視力の弱まった目を手術し、再び騎手の道を進むことを。そしてほんものの騎手になれるまで地元にはかえらないことを。故郷をたつ最後の日に桂みやと友人の町田邦夫(小野川公三郎)とともに蔵王に登る。しかし帰りに天候にさいぎられ、さらに真一の怪我もあり、桂みやと真一は雪山で洞穴をほり一晩を越す、町田邦夫は助けを求めて下山することになる。のこされた真一とみやをなだれが襲い、洞穴のなかの二人は窒息しそうになるがみやが懸命に穴を掘る。
なんとか穴を空けたときみやの上に雪がおちてきて生き埋めになり窒息死してしまう。
なんとか生き残った真一や、彼女を知る人々は、彼女を思い出を胸に、彼女を存在があったことが今の自分を形成していることを知り、これからの人生を厳しくいきるしかできなくなるのだった。

by ssm2438 | 2010-06-18 00:46