西澤 晋 の 映画日記

ssm2438.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

<   2010年 08月 ( 50 )   > この月の画像一覧


2010年 08月 25日

さよならジュピター(1984) ☆

f0009381_11141798.jpg総指揮:小松左京
監督:橋本幸治
原作:小松左京
脚本:小松左京
撮影:原一民
特技監督:川北紘一

出演:三浦友和 (JS計画主任・本田英二)

       *        *        *

草原の輝き、花の栄光
再びそれは還(かえ)らずともなげくなかれ、
その奥に秘められたる力を見い出すべし。

<ウィリアム・ワーズワース>

大いなる失敗さくである。それは誰もがみとめるところだろう。だからといってこの映画を嫌いにはなれない。この映画には愛すべきパッションがある。この映画には小松左京の執念を感じる。ただ表面がぼろぼろに朽ち果てただけだ。

この映画は小松左京の想い入れつまっていた。
ウィキペディアからその制作にいたる過程を抜粋し、まとめてみた。

かねてから日本でも『2001年宇宙の旅』に匹敵する本格SF映画を作りたいと念願していた小松左京は、1977年暮れから、当時の若手SF作家を中心に集合をかけ16回に及ぶブレーン・ストーミングを行なった。参加したメンバーは、豊田有恒田中光二山田正紀野田昌宏鏡明伊藤典夫井口健二横田順彌高千穂遙といった面々で、当時の日本SF界の中核が動員された。1979年に木星に接近したNASAのボイジャー計画による最新の探索データが取り入れられ、また、ハードSFで知られるSF作家の石原藤夫にも声がかかり、映画に登場する天体の軌道計算という考証面で協力した。
1979年半ばにシナリオの初稿は完成。上映時間3時間を越え、外国人俳優数百人を要するというスケールの大きさだった。アメリカでの著作権登録も行なわれた。後に現実にアメリカの映画会社から原作を買い取りたいという申し出があったが、アメリカ人を主役とし、小松を制作には関与させないという契約条件で、合作ではなくアメリカ映画として制作するというものだったため、あくまで日本人の手で本格SF映画が作りたかった小松左京はこれを断っている。
映画化に先駆けて、映画の初稿脚本を原作としたノベライズを1980年から週刊サンケイに連載された。連載中の1981年、小松は本作制作のために、株式会社イオ(個人事務所)を設立し、本作を東宝とイオの共同制作とする。小松は脚本執筆のみでなく、総監督として現場の指揮も執ることになり、映画化の全般に責任を負う体制を敷いた。
1983年3月に撮影用台本は完成。小松の『日本沈没』(1973年)を監督した森谷司郎を再び監督に予定していたが、森谷の死去に伴いその助監督だった橋本幸治を監督に起用。特技監督は、新鋭の川北紘一が務めることになった。

この森谷司郎が死んだ時点で、映画としてのこの作品の命はついえたのかもしれない。橋本幸治ではどだい無理な話だ。ただ、森谷司郎の場合は、本来具体的にみせてほしいところを、雰囲気の描写に逃げてしまう傾向があり、それがちと困ったチャンなのだが、少なくとも当時の監督でこの映画をころがせたのは彼しかいなかったかもしれない。
なお、撮影には『神田川』『優駿』原一民が参加している。第一希望は木村大作だが、彼が出来ないのならこの人しかいないだろう。

<あらすじ>
西暦2125年、マイクロブラックホールが、太陽に衝突するコースをとっている事が判明する。太陽系を救う方法はただ一つ、木星を爆発させてブラックホールに衝突させ、そのコースを変更する事だった。
太陽系外縁の開発に着手していた太陽系開発機構は、計画主任・本田英二(三浦友和)を中心2140年の実現へ向けて「木星太陽化計画」を進めていたが、そのプロセスを応用して木星を爆発させプロジェクトに変更される。
木星爆破計画を進める英二だが、彼の恋人のマリアは、過激な環境保護団体「ジュピター教団」の破壊工作グループのメンバーとなっていた。英二らと銃撃戦となり、マリアは英二の腕の中で死亡。傷ついた本田は木星の爆発とともに死亡。ブラックホールは進路を変えて太陽系外に去っていった。

物語には木星に存在する未確認生命体の存在の手がかりなどがあって、上手に作ればかなり感動する話になっていたとは思うのだが、出来上がった映画はかなり散々な出来になってしまった。
なんでここまでダメだったのか検証してみた。

1、社会性がまるでない。
地球上の人間社会がまるで描かれていないのである。
ブラックホールが太陽の軌道上に飛び込んでくると、人類はおろか地球上の総ての生き物が死に絶える・・という危機をどう乗り切るか・・という話なのに、人類社会が登場しない。原作では木星をある志向性をつけて爆破させ突進してくるブラックホールにぶつけるという計画以外に、わずかでも人類を脱出させようと宇宙船をつくり抽選であたったものだけをその船にのせ外宇宙におくる計画も進行する。2つの巨大なプロジェクトを同時進行させるために、物資がおもいように手に入らずそんな中で、主人公たちは木星爆破計画を実行していくプロセスがおもしろいのに・・。
この物語が面白いのは先の『日本沈没』のように人間が組織としてどうこの危機を乗り越えようとしたかであって、スペクタクルはどうでもいいのである。
それをあの大バカ監督の橋本幸治は・・・。こいつはまったくわかっていない。

2、宇宙に星がある。
『スターウォーズ』のみすぎではないのか? スペースシャトルの写真などをみたら宇宙は漆黒の闇であるのは当然のこと。小学生でも星は昼は見えないことは知っている。宇宙はいつも昼である。なら宇宙で星がみえないのは当たり前である。『2001年宇宙の旅』ではきちんと漆黒の闇として描いていた。あの映画から既に15年くらいたっているかと思うが、いまだにそんな低次元のアニメ的価値観しかいようではどうしようもない。

3、なすかの地上絵や木星の中のジュピターゴーストをまったく生かせていない。
生かせないなら斬るべきだったのでは? じつはこのコンセプトは原作でもあまり上手い具合に機能してないところで、わざわざそれを入れ込む必要はなかったのではないのか? この話なら古代地球におりたった異星人のことなどリアリティを阻害するだけなので排除すべきだった。

4、本田英二とマリアの関係があまりに理解不能。
原作ではかなり無理があるところなで、削除しても良かったのでは? 昔は幼馴染で恋人だった二人が時がたち、マリアはジュピター教団の過激派に属し、英二はJS計画の主任になっている。でもお互いが顔をあわせば恋人同士という、説明して出来ないわけではないがやっかいになりすぎる。

5、ジュピター教団をどうとらえていいのか判らない。
教祖のピーターは原作では良い人で(それはこの映画でもそうなのだが)、そこに集まってきた人が集団心理の中で自然保護とかを謳いあげ過激派になっているという、これも複雑な構造。これをきちんと説明するのはかなり難しいと思われる。

結局森谷司郎に出来て無能橋本幸治に出来ないこととは、組織の描写なのだ!
もっとも、橋本幸治には人間個人の描写もできないが・・。このバカのバカさ加減は絶大なるものだ。そこにそのイベントが起きるなら、その必然性を語らないといけないだろうに、その必然性が語られないのだから「なんでこの二人は無常力で“H”してるん??」って疑問をもってしまう。頭の悪い監督というのは結果だけを書いてしまうものだが・・・。

しかし、愛すべき失敗作であることには替わりはない。
「作り直せ!」と声を大にして言いたい。

by ssm2438 | 2010-08-25 11:15
2010年 08月 24日

カメレオンマン(1983) ☆☆☆☆

f0009381_11255689.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス

出演:ウディ・アレン (ゼリッグ)

       *        *        *

あいかわらずゴードン・ウィリスとウディ・アレンの二人の映像センスのマッチングはすばらしい。

この二人が作った映画の画面の完成度は図抜けている。この映画はコメディなのだが、一生懸命細部にこだわり、緻密にコメディをしているので実に味わい深い。映画自体のおもしろさというよりも、作りこみの楽しさを堪能する映画だと思う。

ウディ・アレンはドキュメンタリー的な手法(「モキュメンタリー」とか、「フェイクムービー」と呼ばれる)で映画をつくることがよくあるが、そのなかで最も効果的に成功しているのがこの『カメレオンマン』だろう。「カメレオンマン」というのは、周囲の環境に順応し姿かたちが変わってしまう特異体質の男ゼリッグのことであり、この映画は擬似ドキュメンタリー形式で彼の生涯を描いている。そのゼリッグの基本はとにかく劣等感。ひたすら気の弱い彼は身の安全をはかるために、周囲から決して眼をつけられないような一般凡人になりきってしまうのである。ユダヤ人であるウディアレンしか思いつかないストーリーだろう。

第二次世界大戦においてはナチの迫害にあったユダヤ人。そのころを描いた映画をみると、ユダヤ人であることを捨てて生きなければならなかった彼らがよく描かれている。ユダヤ人として自己を主張すれば殺される。かといって自分の本来のアイデンティティであるユダヤ人としての存在を捨てられるのか・・? そのジレンマのなかで、命の安全のためにはユダヤ人でない振りをするしかなかった彼らたち。そこにはとてつもない悔しさがあったはずだ。ユダヤ人としての誇りがあればあるほど、ユダヤ人でないふりをして生き延びている自分たちの惨めさ。かといって、自分はユダヤ人だと宣言して殺されるわけにも行かない。
そんな彼らのジレンマを突き抜けてしまったところにあるゼリッグという人物。自己防衛本能が総てに優先され、そのために自我が押し殺されてしまった男。
ユダヤ人であるウディ・アレンのきわめて自虐的なコメディである。

<あらすじ>
第二次世界大戦前のアメリカに、ゼリッグ(ウディ・アレン)という変わったユダヤ人がいた。彼は周りの環境に順応し、身体つきも精神も変えてしまうのだ。そんな彼は何処にいても決して目立つことはない。彼がそこにいてもまったく不自然ではないのである。彼はいろんな有名人と一緒にいるところを目撃されていた。ルー・ゲーリックベーブ・ルース、当時の大統領など、本来警備が厳しく一般人は決して近づくことなどできそうにないところに彼は出没しているのである。
彼の調査、及び治療にあたったのはユードラ・フレッチャー医師(ミア・ファロー)。しかしユードラと向かいあうと即座にゼリッグは身も心も精神分析医になりきってしまうのだ。いじめられ子だった彼は、いじめられるのをおそれて呼んでいない『白鯨』を読んだといったときからそのような体質になってしまったという。
いつしか、ユードラはゼリッグに恋するようになるが、ゼリッグの姉の恋人マーテが、ゼリッグの特異性に眼をつけを見せ物にして世界を巡業する。しかしゼリッグが俳優だった時に彼と結婚していたという女優リサ・フォックスが名乗り出て来ると、ゼリッグはマスコミが攻撃する的になる。非難を浴び姿を消すゼリッグ。その後、彼はローマ法皇と一緒のところを目撃された。ヨーロッパに飛んだユードラは、なんとヒットラーの後に何食わぬ顔で存在しているゼリッグの写真を見つけて驚く。
その後、ゼリッグとユードラは帰国し、結婚し幸福な生活をおくったという。

そんな彼の生涯が資料映画として一本の白黒フィルムにまとめられており、ゼリッグについて語る知識人たちのインタビューはカラー映像で撮影されている。

by ssm2438 | 2010-08-24 11:26 | ゴードン・ウィリス(1931)
2010年 08月 24日

わたしは女優志願(1982) ☆☆☆

f0009381_9464454.jpg監督:ハーバート・ロス
脚本:ニール・サイモン
撮影:デヴィッド・M・ウォルシュ
音楽:マーヴィン・ハムリッシュ

出演:
ダイナ・マノフ (リビー)
ウォルター・マッソー (父・ハーバート)
アン=マーグレット (ステファニー)

     *        *        *

リビーがうるさい!(笑)

実はこの映画がニール・サイモン初体験。それもきっかけもかなり偶然。
当時シドニー・ルメットの映画をあさっていた渡しは、ルメットの初期のころの作品に『女優志願』という作品があるのを知っていた。ある日テレビガイドで『わたしは女優志願』というタイトルをみるけて、「おお、これはずっとみたかったがどこを探してもないルメットのあの映画だ!」と小躍りし、VHSの予約をいれて仕事に出かけた。仕事から帰ってきてうきうきしながら見てみると、妙なことにカラー作品である。ルメットの初期の作品にしてはおかしいなあ・・と思いながら見ていると、これがなかなか面白い。小作品ながら楽しい時間を過ごさせてくれたこの作品、実はニール・サイモンという舞台などを多くてがけていた作家さんの映画だということがわかった。
なにはともあれ、私がニール・サイモンという人を知るきっかけになった映画であり、このあとしばらくニール・サイモンものをみていた時代があった。

ニール・サイモンの作風はハートフルなシチュエーション・コメディであり、古くはエルンスト・ルビッチビリー・ワイルダー系の流れと考えていいだろう。この流れをひく作家さんとしては『恋人たちの予感』『めぐり逢えたら』『ユー・ガッタ・メール』などのノーラ・エフロンが有名だが、年代的にはビリーワイルダーとノーラ・エフロンの間に入るのがこのニール・サイモンといえる。
1965年の『おかしな二人』や1985年の『ビロキシー・ブルース』で演劇界のアカデミー賞というトニー賞を受賞。劇作家としての仕事がめにつく彼だが、実は映画もかなり手がけていて、この映画もブロードウェイで上演されて彼の舞台劇を自ら脚本を起こし、ハーバート・ロスが監督をしてつくりあげたもの。

主演のダイナ・マノフ『普通の人々』で自殺してしまったカレンという女の子を演じた人。当時、“テイタム・オニールが大きくなったらこんな感じなのかな・・”って思っていた。テイタム・オニールより4歳くらい年上であるらしい。

今から思うと、ニール・サイモンのなかではありきたりな作品になるのだろうが、当時の私としてはえらく気に入ってしまった。なのでちょっと甘めに☆ひとつおまけ(笑)。

<あらすじ>
ブルックリンの外れにある祖母の墓に別れを告げた19歳の少女リビー(ダイナ・マノフ)は、バスやヒッチハイクで大陸を横断、16年前に母と離婚した父ハーバート(ウォルター・マッソー)を訪ねる。彼女の夢は女優になること。父はハリウッドでシナリオライターをやっているはずであった。
一度は電話をかけてみるも、怖気づき途中できってしまう。意を決して直接父の家に乗り込むリビー。しかし顔を出したのはステファニー(アン=マーグレット)という父の愛人だった。さらに16年振りに会った父はリビーが誰なのか思い出せない。さらに、仕事もうまくいってないようす。
最悪のスタートだった。演劇学校の友達の紹介で、映画スターのパーティの駐車係のバイトをはじめるリビー。客の車に自分を売り込むチラシをワイパーにはさんでおく。「そんなことしてもなんにもならない」という父。「何かしなくちゃ駄目なのよ」と反論するリビー。

まだ世間の荒波をしらず、無限にポジティブなリビー。すでに人生の荒波を経験し行動力をうしなっている父ハーバート。ステファニーも自分がこれからどうすべきなのか決断をせまれる時期にきていた。はっきりと自分をもとめてくれないハーバートに対し、自分をもとめてくれる若い男の出現。

なんだかんだとありながら、仲良くなる父と娘、そしてリビーは、女優になりたいというのは言い訳で、父の愛をもとめてここに来たという。そしてそれが確かめられたのでニューヨークに帰ると言う。出発の日、ニューヨークの家に電話したリビーは、無理やり父に母と話をさせる。始めはぎこちなくしゃべっていたハーバートだが、徐々に心がほぐれていった。リビーをバス・ターミナルまで見送ったハーバートは、他の男に旅行に誘われていたステファニーに「行くな」と言う。幸せになるステファニー。車の窓にハーバートを売り込むリビーのチラシを見て、ほほえむハーバート。

by ssm2438 | 2010-08-24 09:49
2010年 08月 23日

ひきしお(1971) ☆☆

f0009381_22241520.jpg監督:マルコ・フェレーリ
脚本:エンニオ・フライアーノ
    ジャン=クロード・カリエール
    マルコ・フェレーリ
撮影:マリオ・ヴルピアーニ
音楽:フィリップ・サルド

出演:
カトリーヌ・ドヌーヴ (リザ)
マルチェロ・マストロヤンニ (ジョルジュ)

       *        *        *

このくらいの孤立感が一番いい・・。

この映画をみるとやはり『流されて・・・』を思い出してしまう。しかしあれは完全に文明と切り離された世界だった。こちらは、無線で内地とも連絡がとれるし、モーターボートもあり、文明社会に戻ろうと思えば戻れる距離にある。その距離感が安心できるのだろう。

映画の本筋はあまり面白いとはおもえない。ただ、イヌとして首輪をし、四つんばいで歩くカトリーヌ・ドヌーヴヴを映像にしたいというだけでつくられた映画のようなきがする。ただ、そこへのもって行き方がフランス映画なのだ。
文明と切り離された島に住むマルチェロ・マストロヤンニは、カトリーヌ・ドヌーヴを性欲の対象としてはみていない。彼にとってドヌーヴは、「出て行け」と自分の意思を押し付ける対象でもない。どうも彼にとって女性に対する欲望とは文明社会においてきたものらしい。彼にとって、人間同士の意思疎通というものがわずらわしいのだ。いてもいなくてもどっちでもいい存在なのだ。そんな彼がひたすら仲良くするのは一緒にいるイヌのメランポのみ。「自分が文明社会の女だから相手されないのなら・・」とそのイヌを殺し、自らそのイヌの首輪をはめ、自分がそのイヌの立場にとって代わるという流れななのだ。

カトリーヌ・ドヌーヴの色っぽいシーンはあるようで、実はあまりきちんと脱いでいるわけではない。あまりサービスのよくない女優さんなのである。そんな彼女きちんと乳房をあらわにしているのは実は多くなく、スタイルがあまりいい人ではないのでそれほどときめくわけでもないのだが、やはり貴重な映画である。

<あらすじ>
文明から逃避して生活する男ジョルジョ(マルチェロ・マストロヤンニ)の孤島に、恋人と喧嘩してヨットを飛びだしたリザ(カトリーヌ・ドヌーブ)がたどり着いた。翌朝リザは町へ帰っていったが、恋人とのいさかいは解消されず結局リザはその島へ戻ってきた。
リザは美しい女性だったが、ジョルジュはなんの反応を示さず、彼が可愛がるのは愛犬メランポだけだった。ジョルジュとメランポの間に割り込めないリザはメランポを海へさそいだすと溺死させせ、メランポを嫉妬のために殺したことをジョルジュみ告げ、その犬の首輪を自分の首にまくと、彼の足元にひざまづき、メランポとして扱われることを望む意志をしめす。ジョルジョも、そんなリザを右に左に走らせ犬として扱う。二人にとってそれは充分それでよかった。
やがてジョルジュの長男が、妻が自殺未遂事件を起こしたことを告げにきた。パリに向かうジョルジュ。妻の回復は意外に早く、ひさしぶりでかこむ食卓だが、そこにリザが現われて、破局は決定的になった。
再び二人は孤島へもどる。文明との唯一の架け橋だったモーター・ボートは嵐に流されてしまう。長雨と湿気が島中の食物を枯らせてしまう。食料が尽きかけたジョルジョは、島におき捨てられているドイツ軍の戦闘機を修理し、ここから離れることを決意する。やがて、戦闘機が滑走路をすべりだすのだが・・・。

by ssm2438 | 2010-08-23 22:24
2010年 08月 23日

昼顔(1967) ☆☆

f0009381_13153499.jpg監督:ルイス・ブニュエル
脚本:ジャン=クロード・カリエール/ルイス・ブニュエル
撮影:サッシャ・ヴィエルニ

出演:カトリーヌ・ドヌーヴ (セブリーヌ)

       *        *        *

カトリーヌ・ドヌーヴって役者としては才能なかったのだろうな。

カトリーヌ・ドヌーヴを見たい人には意味のある映画だろうが、お話はかなり退屈である。でも、カトリーヌ・ドヌーヴのファンでない私でも、やっぱり彼女は十分な美貌の持ち主なので、ついつい見てしまう(苦笑)。そんな彼女が田園風景の中、木に両腕を縛られ、ムチ打たれ、、卑しい男に強姦される画面などみせられたらそそられずにはいれないというもの。
ただ、カトリーヌ・ドヌーヴからほとんどM性を感じないので、どこか空々しい感じではあるのだけど。この映画にかぎらず、『ひきしお』でも彼女が自ら犬の首輪をつけ、犬としてあつかわれることを望むシーンがあるが、これもどうも彼女自身がM性を発していないのでやっぱりどこか作為的過ぎる気がした。
M性って、自己否定性が強い人でなければだせないのだとおもったりする。彼女の場合はさりげなく自己顕示欲が強いので、周りの人はそのようなキャラクターを彼女に演じさせようとしても、やはりなじまない気がした。

・・・しかし、よくよく考えると、カトリーヌ・ドヌーヴって、どの役にもあまりなじまないかも・・(苦笑)。どっか空々しいのである。あの美貌だけでとりあえず客は引けるかもしれないが、感情移入をおこすまでに役になりきっていないというか・・・、それはどの映画をみてもそんな気がする。多分あまり役者としての才能はなかった人なのだと思う。どこかプライドがブレーキをかけて感情を出せない・・・そんな感じの人。

<あらすじ>
何不自由のない結婚生活をおくっているようにみえるセブリーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)だが、感情の乏しい彼女はどこかそんな自分に劣等感を抱いていた。しかしそんなセブリーヌにも心のそこに被虐願望、あるいは自分を投げ出してしまいたいサレンダー願望があるのも感じていた。そんなセブリーヌは、彼女の友人から、セレブの妻たちが売春をしている館を教わる。その館を訪れたセブリーヌは、売春館の女主人アナイス(ジュヌヴィエーヴ・パージュ)から「昼顔」という名をもらい、毎日、午後の何時間かを行きずりの男に抱かれて過し、夜は貞淑な妻にもどる生活がはじまる。
そんな生活に充実感を覚えるセブリーヌだが、マルセル(ピエール・クレマンティ)という、金歯だらけの男にほれられ、夫と別れて自分のものになれと迫られる。セブリーヌが言うことを聞かないと知るや、セブリーヌの家におしかける。ピエールをそ撃した。ピエールは命を取りとめたが、体の自由がきかず、廃人同様となってしまった。しかし・・・。

ブニュエルの演出も、妄想や幻想が本線にわりこんでくる演出をしているので、よく分からないところがある。それ以上に見ている人が、理解しようとする気もなくなっていたりする(苦笑)。ラストで夫のピエールが車椅子から立ち上がるのだけど・・あれはいったいなんなんですか??? どうも意味がわからん???

by ssm2438 | 2010-08-23 13:16
2010年 08月 23日

クレイジー・ハート(2009) ☆☆

f0009381_7582334.jpg監督:スコット・クーパー
脚本:スコット・クーパー
撮影:バリー・マーコウィッツ
音楽:T=ボーン・バーネット/スティーヴン・ブルトン

出演:
ジェフ・ブリッジス (バッド・ブレイク)
マギー・ギレンホール (ジーン・クラドック)
ロバート・デュヴァル (バッドの旧友・ウェイン)
コリン・ファレル (人気歌手トミー・スウィート)

       *        *        *

マギー・ギレンホールの<居心地のいい女>オーラが絶品。

『セクレタリー』以来マギー・ギレンホールのファンなのですが、この映画でも彼女の持つまろやかさが存分に発揮されてます。
この映画の彼女の演じる役どころは、主人公の落ちぶれてカントリー歌手バッド・ブレイクに忌んだビューする地方紙の記者。離婚経験があり、一人で子供をやしなっているお母さん。バッドとの接点は、彼がサンタフェに地方巡業に来たときにインタビューさせてもらった時。それまではさんざんぐーたらなジェフ・ブリッジズをみせられていてけっこう退屈だった映画が一気に楽しくなる。彼女をみたくてしょうがなくなる。彼女のもつ居心地のいい雰囲気が画面から噴出してくる。あんな女が現れたらそらあ誰だって癒されたいと思ってしまうだろう。

しかし不思議なもので、圧倒的な居心地の良さのなかでも、「ここに長くとどまっていはいけない」と思う、ブレーキシグナルが男の脳内のどこかから出てくるようになっているらしい。これは好きな女にフェラチオをしてもらっている時の感覚に似ている。男はその時間が永遠に続けばいいと思う。しかし、それがしばらく続いていると次第に罪悪感に囚われてくる。「自分だけが気持ちよくなっていいのか」「男には男の仕事があるだろう」っと、脳内から人間の本能に基づいた、しかも説明できそうもない本能の叫びだ。そして男は遺伝子を残す作業へ取り掛かることになる。

この映画もその流れで構成されている。落ちぶれたカントリー歌手が、居心地のいい女に出会う。彼はそこに長く留まりたいと思ったに違いない。それはこの物語をつくった監督スコット・クーパーの想いも同じなのだろう。しかし、スコット・クーパーは彼をそのまま居心地の良さの中に留まらせることに罪悪感を覚える。そして彼を強制的に追いたて、彼がもつ文化的な遺伝子を蒔く作業へ従事させていく・・・。

映画の方向性としてはきわめて理性のきいた作りである。なので地味でありきたりといわれても仕方がないだろう。もし、この映画で、<居心地の良さに対する罪悪感>を突き抜けることが出来たら、そしたパトリス・スコントの『髪結いの亭主』みたいなガツンなインパクトをもった映画になっていたのかもしれない。ただ、この映画がそうなるべき映画だとは思わないが・・。

・・・しかし、ドラマの作り手たる者は、<罪悪感を突き抜ける>才能を有してないといかんのだろうな。でないと、お行儀のいいだけの映画になってしまう・・・。

<あらすじ>
落ちぶれたカントリー歌手のバッド・ブレイク(ジェフ・ブリッジズ)は、巡業の一環としてサンタフェを訪れる。そこのバンドのピアニストから、地方紙の記者をやっている姪のインタビューをうけてくれないかと申し出があった。彼女はジーン・クラドック(マギー・ギレンホール)といい、離婚経験があり、女手一つで4歳の子供を養っていた。彼女の居心地の良さが、いこじになっていたバッドの心を癒していく。
そんなおり、いまや人気カントリー歌手となったトミー・スウィート(コリン・ファレル)のコンサートの前座をやらないかという話が来る。彼は、バッドの教え子にあたる存在だったので、彼の前座をやることにはプライドが傷つけられる。トミーはとてもいい人で、バッドのプライドを傷つけずに、なんとか彼に仕事をまわそうとしている大人の配慮を感じるバッド。「若い者に保護されている自分」・・それは受け入れるしかない現実だった。
悔しさを忘れるためにいつも飲んでいる酒。その酒のおかげで失態を犯したバッドからジーンは離れて行く。彼女を失って初めてアルコールを断つ決意をするバッド。施設に入りアルコール依存症を克服して再びジーンを訪れるが、既に彼女には男がいる様子だった。
そして時がたち、ジーンへの思いをつづったバッドの思いを歌にしたその歌が、トミーによって歌われていく。


※この映画の劇中歌われる歌詞の字幕制作は最低である。

この映画、ジェフ・ブリッジズやコリン・ファレル、そしてロバート・デュバルが口ずさむ歌詞に多大な意味があるのにもかかわらず、それをきちんと画面に出さない。超不満である。それがなされていたらこの映画の感動は少し違ったものになっていたに違いないのだが。
劇中、傷ついたバッド・ブレイクと一緒に釣りをするシーンがあるが、そのなかでロバート・デュバルがくちずさむように歌う詩があるのだが、これが実に素晴らしい。そしてこれがエンディングの一番最後に流れるのだが、ここは歌詞に字幕をつけてほしかった。たぶんあれがこの映画の総てだったと思うのだが・・。

映画の構成をまったく理解してないアホ字幕制作者に天誅を下したい。DVDが発売されるときには、もうすこしきちんと字幕をつけてほしいものだ。

by ssm2438 | 2010-08-23 08:47
2010年 08月 22日

アンビュランス(1990) ☆☆

f0009381_11361823.jpg監督:ラリー・コーエン
脚本:ラリー・コーエン
撮影:ジャック・ヘイトキン
音楽:ジェイ・チャタウェイ

出演:
エリック・ロバーツ (漫画家ジョシュア・ベイカー)
ジェームズ・アール・ジョーンズ (スペンサー刑事)
ミーガン・ギャラガー (マロイ巡査)

       *        *        *

ラリー・コーエンがめずらしく監督までやっている!

ラリーコーエンの映画は、時間のなさと低予算のせいで撮影も編集もかなりいい加減なものが多いが、コーエンの自由奔放な物語の作り方は<子供心を忘れない大人のマニアックは遊び>のようであり、どんな映画でも、楽しそうに脚本を書いている彼の姿が眼に浮かぶ。憎めないB級作家である。

先の『マニアック・コップ』がホラーなのにサスペンスタッチの展開だったが、こちらはサスペンスなのにホラーチックな風味あり、でもそれはあくまで風味なで、物語は正真正銘のヒッチコック的サスペンス。悪魔とかゾンビとかスプラッタではない映画。この映画が公開されたとうじ、というかちょっと前に、悪魔が乗り移った車の話がいくつか登場した。『ザ・カー』とか『クリティーン』である。この映画もそんな映画かなと実はおもわれがちだが、こちらは正真正銘人間が悪事をはたらいているアンビュランス=救急車である。このアンビュランスに連れ去れたものは、そのときから存在が消えてしまう。彼らは臓器売買にかかわる秘密組織で、アンビュランすを装って人体実験用の糖尿病患者を回収していたのだ。

主人公のモチベーションとなる町で声をかけて女の子があまりにあっけなく居なくなってしまい、最後に助け出されるまで登場しないという・・・、見ている側としては「そんなちょっとだけ出てきた人の顔なんておぼえてないよ」くらいの印象の薄さ。最後は一応助けられるのだが、「あれ、このひとだっけ・・、たぶんそうなんだろうなあ」って感じでした。あれって、物語の前半でもうちょっと二人が接触し、仲良くなり、一応見ている人にも彼女のインパクトを観客の脳みそのきざんでから展開させるべきだったんじゃないだろうか。その間に似たような事件もいくつかおきるとか・・。それがあってからこの映画の展開になれば少しはいなくなった彼女に思い入れができたのに・・。
あっというまに、主人公の欲望の対象がいなくなってしまったので、物語を通して、ときめいてみるべき女性がいなくなってしまったのがちと痛い。そんなわけで、マロイ巡査(ミーガン・ギャラガー)という女性キャラを登場させているが、感情移入的にはちと複雑。主人公の気持ちになった場合まだシェリルをもとめているわけで、観客としてもマロイ巡査との恋愛に発展するのはちと罪悪感を感じる。

<あらすじ>
漫画家のジョシュア・ベイカー(エリック・ロバーツ)は町で見かけた女性に一目ぼれ、彼女の名前はシェリルといい、運良く彼女と話す機会にも恵まれた。しかし、突然彼女は街中で倒れてしまう。糖尿病だったのだ。救急車が呼ばれ彼女は無事は近くの病院に運ばれた。後に花束をもって彼女を病院に見舞いにいくが、その病院には彼女が運ばれた形跡はない。他の病院も彼女を収容した形跡はない。
警察にいっても相手にされない。しかし彼女は糖尿病であり、ほっておけば命が危ない。漫画家の才能をいかし彼女の似顔絵を手にし探し回わるジョシュアは偶然にも街でシェリルのルームメイトに出会う。実は都合よくルームメイトも糖尿病患者で案の定、アンビュランスに連れ去れてしまう。
最初は耳をかさなかったスペンサー刑事(ジェームズ・アール・ジョーンズ)も、その救急車の存在を気づきはじめる。これで頼りになるのかなと思ってると残念、あっけなく彼らに殺されてしまう。
失意のままジョシュアはオフィスで深夜までデスクに向ってイラストを描いていると、スペンサーの部下のマロイ巡査(ミーガン・ギャラガー)がたずねてくる。彼女は言う「スペンサー警部補は病欠の連絡があった日から行方不明になっている」と。ジョシュアは今までの経緯を説明、二人だけの捜査が始まる。
ジョシュアは車の解体業者から有力な手掛かりをつかむが、犯人グループに拉致され、命からがら逃げ延びる。その時犯人の私物らしい“VINT”のネーム入りの制服が“VINTAGE”というディスコの制服である事が判った。次々と逮捕される犯人グループ。しかしボスは騒ぎに乗じ救急車で脱出する。2階こは行方不明になっていた人たちがいた。シェリルも救出された。

そのあと逃げ延びたラスボスが襲ってくる<安心させといてさらに一発>攻撃がある。ジョシュアは袋小路に追い込まれ行き止まりのフェンスによじ登る。ボスはアクセルを力いっぱい踏み込む。猛スピード走る救急車はでフェンスを突き抜け向こう側へ飛び出してしまう。フェンスの向こう側はビルの工事現場で深い穴が掘られていた。落下したアンビュランスは大きな炎を上げ爆発する。

by ssm2438 | 2010-08-22 11:41
2010年 08月 21日

シーナ(1984) ☆☆

f0009381_2132055.jpg監督:ジョン・ギラーミン
脚本:デヴィッド・ニューマン/ロレンツォ・センプル・Jr
撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス
音楽:リチャード・ハートレイ

出演:タニア・ロバーツ (シーナ)

       *        *        *

タニア・ロバーツの体がまぶしい!!

実は彼女、かなりいい体をしている。胸は・・・インプラントしているように見えるが、太ももの曲線などはすばらしい。そんな彼女がアフリカの大地をバックに、布の水着を一枚まとったようなかっこうで走り今来る。水浴びをするときは、おしげもなくその肢体をみせてくれる。彼女のきらめきの前ではアフリカの大自然などどうでもよくなってしまう(苦笑)。

監督は『キングコング』『ナイル殺人事件』ジョン・ギラーミン。あまり才能がある人ではないが、この手の話ではこのくらいの監督さんのほうがよかったのかな。そうはいっても、原住民の部落に近代兵器の武装ヘリが登場したり、鎖でつながれているシーナや、シマウマにのりアフリカの大地をかけるシーナなど、印象深い絵も多い。
この映画でやってることは『ターザン』の女性版であり、ちょっとした味付けとしてはテレパシーがあるのか、動物たちと気持ちがつながっているようだ。

<あらすじ>
アフリカの奥地でおきた大地震のために、ある白人の地質学者夫婦が死亡し、その娘のシーナは孤児となった。彼女は女祈祷師(エリザベス・オブ・トロ)に育てられ、弓を巧みにつかい、動物をテレパシーで動かせる女王(タニヤ・ロバーツ)に成長する。

その国では、彼らの土地は保護区に指定されており文明人の立ち入りを禁止していたが、王弟はその土地の聖地グジャラ山にうまるチタンを狙っていた。王弟は王を暗殺する。しかしその暗殺に使用された武器がTV米記者ケイシー(テッド・ワス)のカメラにうつっていた。ケイシーとシーナは王弟の傭兵に追われることになるが、シーナはテレパシーで動物を使って庸兵たちと戦う。王弟は一人逃げ出しシーナを殺そうとするが、ケイシーの必死の活躍で難を逃れる。シーナを愛するケイシーだったが、彼女を連れて帰れば、彼女が好奇の目にさらされるのは火を見るより明らかだった。愛しながら、2人は別れ別々の人生をいきていくことになる。
f0009381_21322228.jpg
f0009381_21322919.jpg
f0009381_21323636.jpg


by ssm2438 | 2010-08-21 21:15
2010年 08月 21日

スキャンダラスな女/愛と欲望の私生活(1991) ☆

f0009381_1325536.jpg監督:フレッド・オーレン・レイ
脚本:マーク・トーマス・マギー
撮影:マイケル・デラハウセイ
音楽:ルイー・ラハヴ

出演:
タニア・ロバーツ (看護婦リン)
マーゴ・ヘミングウェイ (夫の浮気相手アンナ)

       *        *        *

この映画って誰が主人公なんだろう????

物語の大筋は、部下のマーゴ・ヘミングウェイと不倫している保険会社に勤める男が妻を妻を殺して保険金を受け取ろうと画策。殺しが実行されたときにその罪をかぶせるタニア・ロバーツを妻の世話役の看護婦として雇い、計画の準備はととのっていく。一方妻は、このタニア・ロバーツと夫が“H”しているのではないかという妄想にどんどん取り付かれていき、真実が見えない。果たしてドラマの結末は・・・という話。

上記の出演の欄にはタニア・ロバーツとマーゴ・ヘミングウェイだけしか書かなかったが、実は主人公はヴァレリー・ワイルドマン演じる車椅子の奥さんらしい。行動範囲に限界のある主人公が、限られた情報から、その家に起きている全体像を想像していくという話。室内版の『裏窓』をやろうとしているわけです。
しかし問題は、作っている人が「この映画をどうしたいのか」という明確な方向性をもてていないことだろう。見ている人にトリックを仕掛けようとして空回りし、自分たちも何がやりたかったのだが判らなくなっているような映画だ(苦笑)。

タニア・ロバーツもマーゴ・ヘミングウェイも、既にヌードはご披露してるのでそれほどセンセイショナルというわけではないけど、それでもこの二人が出てて、エロチックサスペンスとなれば男としては見てみたい気になるというもの。・・・しかし、どうもダメだ。
“H”シーンに欲情する法則というのがあって、それは劇中でも現実の世界に限るというもの。それがイメージシーンだと不思議と欲情しないのである。この映画でもタニア・ロバーツに関してはかなり露出しているのだが、それが主人公の妄想の中・・という描き方なのでどうにもぱっとしない。一応実態のある男と“H”をしてるシーンもサービスとしてはあるのだけど。
夫のほんとの浮気相手であるマーゴ・ヘミングウェイも、一応サービスシーンはあれど演技的にかなり大根でなので、みていても興ざめしてしまう。他の作品ではそんなにダイコン役者イメージはなかったのだけど、この映画に関してはやたらと演技が下手にみえる。

タニア・ロバーツの“H”のシーンも回数はあれど、それがサスペンスな物語とあまり関連性がなく、どっちか一つの方向性でいけばよかったのにと思ってしまう。エロチックでいくならサスペンスはしない。あるいは、ヒチコック風のサスペンスでいくなら意味のない“H”シーンはいれない・・。そのどっちかでいけば少しはまとまりのある作品になったのに・・。

by ssm2438 | 2010-08-21 13:03
2010年 08月 21日

アナザー・ルームメイト(1992) ☆

f0009381_11265427.jpg監督:エデュアード・モンテス
脚本:R・J・マークス/ジェフリー・デルマン
音楽:トニー・ローマン

出演:
マリアム・ダボ (クレア)
マーゴ・ヘミングウェイ (ヘザー)

       *        *        *

あああああ、マーゴ・ヘミングウェイがまったく美しくない。。。。

なんでこんなに廃れてた?? あの気品はどこへいった・・?? 見ていて悲しくなってきた。若かりし頃は、大柄だが美しく、まさに「これぞモデル」という感じがしていたが、さすがに40にもなると、ただのでかくてごついおばさんという印象になってしまった。おまけに声はがらがら声・・、あれが美貌につつまれていたときなら魅力的なハスキーボイスに聞こえるのかもしれないが、この映画のときはただのだみ声。『リップスティック』ではレイプされるモデルの役をやっていてあたり役立ったが、さすがにこうなると誰も彼女を抱きたいとは思わないだろう。
この映画の4年後(1996年)に自殺するのだが・・・、躁うつ病やアルコール依存症など、いろいろと病んでいたのだろう。

主演は『007/リビング・デイライツ』のボンドガール、マリアム・ダボ。この人もなんだか・・・やつれたような気がいた。あの映画のころはとっても輝いていたのに。ちなみにこのときは彼女が30歳くらい。

原題は『ダブル・オブセッション』。

レズビアンで支配欲の強いマーゴ・ヘミングウェイが、大学時代に同室になったルームメイト、マリアム・ダボにのめりこみ、彼女に彼氏が出来ると強い憎しみを感じるようになる、彼女が結婚し出産したあとも執拗に追い掛け回すという話。
しかし、彼女が手に入らないと、別の女をマリアム・ダボにみたてて仲良くなり、その彼女も逃げ出そうとするとこんどは『ミザリー』キャシー・ベイツ・モードに切り替わる。さらに彼女の足を折り、逃亡できなくしておいて軟禁、このあたりから『羊たちの沈黙』になっていく。

他の作品の模倣性があまりに全面に出すぎていて、映画自体がチープにみえる。さらなる問題点は、最後まで主人公のマリアム・ダボがどうしたいのか、彼女の心の本心はどこにあるのか判らない。主人公がどういう感情なのかが判らないと、見ている人はその作品に感情移入できなくなってしまう。せっかくのマリアム・ダボも、監督の無能さの前に、無駄遣いに終わってしまった悲しい作品だった。

by ssm2438 | 2010-08-21 08:38