西澤 晋 の 映画日記

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2010年 08月 07日

GODZILLA ゴジラ(1998) ☆☆

f0009381_21221465.jpg監督:ローランド・エメリッヒ
脚本:ディーン・デヴリン/ローランド・エメリッヒ
撮影:ウエリ・スタイガー
音楽:デヴィッド・アーノルド

出演:
マシュー・ブロデリック (ニック・タトプロス)
ジャン・レノ (フィリップ・ローシェ)

       *        *        *

やっぱり造形で失敗してるな・・。

『ゴジラ』は人が入って動けることを前提にしてつくられたデザインであり、なんだかんだいいながらそれが愛されていたのだと思う。GODZILLAはイグアナをティラノ・サウルス風にアレンジしてああなったのだろうが、人々がみたかったのがあのデザインだったかどうかはかなり疑問だ。多分外国の『ゴジラ』を愛していた人たちもあれだと見たかったものが見られなかった脱力感は強かったのではないだろうか。
英語版のウィキペディアにいってきたらこのような記述も載っていた。

Created from a French nuclear test, Zilla is a mutated lizard. Before Toho officially dubbed the creature Zilla, many fans, who did not care for the reimagining of Godzilla for the American film, developed several nicknames to differentiate its title character from the "original" Godzilla, including "GINO" ("Godzilla in Name Only").

フランスの核実験によって生まれたGODZILLAは変形したトカゲだった。以前に東宝で作られたゴジラのファンは、このアメリカ版GODZILLAの造形には好意的ではなかった。本家のゴジラと区別するためにさまざまなタイトルが勝手に作られたが、「ジーノ」="GINO" ("Godzilla in Name Only"=名前だけゴジラ)もそのひとつだ。

しかし、『ゴジラ』のタイトル下で見なければ普通のエメリッヒの映画なので、それはそれで普通に楽しめるのだけどね・・。

コンセプトとして面白いのは、フランスの核実験の結果GODZILLAが生まれたとい展開。そしてそのことを秘密裏にしておきたいフランス政府のエージェントとしてのジャン・レノの存在。このあたりは「なるほど・・、なかなかいいなあ」と思わせるのだけど・・・。こういう国際的な政治問題を入れ込むことは面白い。

あと・・・やっぱりエメリッヒなので、どうして数で勝負にしてしまう。個人的には足し算演出をする人はあまり好きにはなれない。へぼエンタテイナー監督というのはどうしても足し算で映画をつくってしまう。これでもかこれでもかとやたらといろんな情報やアイテムをいれこんでくる。その反対に真実を追究するタイプの監督は引き算で映画をつくる。「これもいらない、あれもいらない。そして残ったのはお前の一番大切な自分だ!」みたいに・・。私は後者のタイプが好きなのでエメリッヒの作品にはほとんど感化されないのであった。。。

<あらすじ>
核実験による突然変異で巨大化した草食の海イグアナがニューヨークに現れた。強大な兵力を誇る米国軍隊をものともせず、マンハッタンのビル街を破壊して地下へ消える。調査隊に政府の要請を受けて生物学者ニック・タトプロス(マシュー・ブロデリック)が加わる。そんな彼に保険調査員のフランス人、フィリップ・ローシェ(ジャン・レノ)がなぜかつきまとう。実はフィリップは、自国の核実験によってゴジラが生み出されたことに対して、フランス政府が秘密裏に派遣したトップ・エージェントだった。ふたりは協力してゴジラを追い、巣のありかがマジソン・スクエア・ガーデンだと突き止める。しかしそこはエイリアンの巣状態。ミニゴジラがつき次と生まれ施設内は大変なことに。マジソン・スクエア・ガーデンには爆撃命令が出され、巣は壊滅された。ニックらはゴジラを大鉄橋に誘い込んでミサイル総攻撃で、これを抹殺する。

by ssm2438 | 2010-08-07 21:33
2010年 08月 07日

テルマ&ルイーズ(1991) ☆☆

f0009381_9261674.jpg監督:リドリー・スコット
脚本:カーリー・クーリ
撮影:エイドリアン・ビドル
音楽:ハンス・ジマー

出演:
スーザン・サランドン (ルイーズ)
ジーナ・デイヴィス (テルマ)

       *        *        *

女性版のアメリカン・ニューシネマだが・・。

『エイリアン』『ブレードランナー』で、80年代のビジュアルリーダーとして君臨したリドリー・スコット。しかし、この『テルマ&ルイーズ』あたりからおかしくなってきているような気がした。この作品以降、どうも私が好きになれる作品がないのである。なぜでしょう・・・。

映画は、アメリカン・ニューシネマ(無責任解放映画)のノリでつくられた二人の女性の逃避行もの。理不尽が理不尽を呼び人生を落ちていく中で、さらに無責任アクセルを踏んでしまい、しがらみから解放された浮遊感からくる快感によりおちていく二人。世間の理不尽さが彼女らをその方向に引っ張ってしまったのだが、アメリカン・ニューシネマの無責任ぶりが嫌いな私にとっては、この映画も好きにはなれなかった。
そしてこの映画から私のリドリー・スコット離れが始まったのであった。

しかし、カーリー・クーリの脚本は1991年のアカデミー賞ではアカデミー・オリジナル脚本賞を受賞している。これでアカデミー賞???って調べてみると、同年の作品賞は『羊たちの沈黙』だった。この年はおもいっきり不作の年で、『羊たちの沈黙』も本来そんな賞をとれるような映画ではなかったはずなのだけど取れてしまっているし、選ぶ側もテンション低かったにちがいない。
そしてこの90年代以降、いい映画が激減してくる。今にして思えば悲しい時代の始まりだった。

<あらすじ>
子供のいない専業主婦テルマ(ジーナ・デイビス)と、ウェイトレスルイーズ(スーザン・サランドン)。張りのない日常にやりきれなさを感じていた2人は、ほんのすこし羽目をはずすつもりで週末旅行ヘ出掛けた。カントリー・バーで悪酔いしたテルマは調子に乗り、男と姿を消す。彼女を追ったルイーズは、レイプされかかっているテルマを発見、その男を撃ち殺してしまう。そこからこの旅は逃避行へと化した。テルマは夫に連絡を入れるが、彼女のことを理解しようともしないその身勝手さ何かが切れた。
二人はメキシコヘ逃亡することを決意する。ルイーズは逃走資金として、恋人のジミーから現金を受け取るが、前日車に乗せたヒッチハイカーのJ・D(ブラッド・ピット)にまんまと持ち逃げされてしまう。泣きわめくルイーズを尻目にテルマはスーパー強盗に成功。開放感にみたされてメキシコをめざす二人だが、ついに犯罪者になってしまった彼女らは警察におわれることになる。追い詰められた二人は仲良く谷底にむかって車を走らせダイブ・・。終了~~~~~う。

by ssm2438 | 2010-08-07 09:46 | リドリー・スコット(1937)
2010年 08月 06日

ジュラシック・パーク(1993) ☆☆☆☆

f0009381_12523872.jpg監督:スティーヴン・スピルバーグ
原作:マイケル・クライトン
脚本:マイケル・クライトン/デヴィッド・コープ
撮影:ディーン・カンディ
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:
リチャード・アッテンボロー (ジョン・ハモンド)
サム・ニール (アラン・グラント博士)
ローラ・ダーン (エリー・サトラー博士)
ジェフ・ゴールドブラム (イアン・マルコム博士)

       *        *        *

おおお、本物の恐竜がうごいてるみたいだ!!

・・・当時は感動した。確かにCGの技術の発展でこのくらいは当たり前に出来る時代になることはわかってたけど、いわゆる特撮物で、怪獣/恐竜がj記ぐるみではなく、ロボットでもなく、人形でアニメでもないかたちで実に本物のように作られたというのはこれが初めてだったのだろう。
もっともわれわれの子供のころは『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に出てくる気ぐるみの怪獣で十分たのしめたのだが、というか、あれはあれで今でも楽しめるた。あれの面白さは、見ている側のイマジネーションでき「現実にこれがおきたら、こんなふうになるんだろうな」って作り物だと分かっている画面を見ながら頭のなかで補完する部分がとても刺激的だったのだろう。
さすがにいまのようなCGではもう、完全に本物っぽい画面をみせられるので、「ああああ、まるで本物っぽいなあ」でその部分だけ感動しているので、見ている人の補完活動がなくなってしまうのがちと寂しい。ドラマや、映画って、結局この見ている人が、どれだけその物語を寝たにそのうらにメンタルや、トリックを想像するところにあるのであって、全部提示しすぎることがそれほどすばらしいことだとは思えないところもあるのだけど。

原作は『アンドロメダ・・・』『未来警察』マイケル・クライトン。その時代その時代の最先端のアイテムは発想をもとに物語と理詰めでつくってくれるので、基本的にはいつもそこそこ楽しく見せてもらえる。
恐竜の再生に関しても、もっともらしいとんちを働かせているし、その設定ならだまされてもいいなっておもわせる程度の説得力はとりあえずつけてある。あつめられた科学者たちもいろいろ個性的で数学者のイアン(ジェフ・ゴールドブラム)なんかはいい味をだしている。
これは『アンドロメダ・・・』の時もマイケル・クライトンが使っている登場人物の集め方なのだが、かならず一人は、全然関係ないような人を入れ込むというもの。こういった特殊事情で専門分野であればあるほど、見方が一方的になりがちであり、そこに別次元からの意見を挟みこむためには、全然関係がないキャラクターの存在が必要なのだそうが。
個人的にはもうひとりくらいビジュアル的にみてて楽しめるきれい系の女性がほしかったかな。ローラ・ダーンではいまひとつ欲情しない(苦笑)。

スピルバーグの演出はあいかわらず、恐竜の怖さをえがきつつ、それだけではない親近感もあわせて描いているように思う。これはスピルバーグの基本コンセプトなのだろうが、『ET』や『未知との遭遇』のようにはじめてあう異性物に対しても敵対心を抱かないように描くことをすごく大事にしている。そういはいっても恐竜の獰猛性もかかないと面白いわけがないのでそこはそれ、過激になりすぎず、甘くなりすぎないころあいのいいところでまとめている。個人的にはもうちょっところあいをはずしてほしい部分はあるのだけど、お子様から大人までという全方位外交の映画なのでこうなるのはしかたないだろう。

<あらすじ>
恐竜の化石の発掘調査を続ける生物学者のアラン・グラント博士(サム・ニール)と古代植物学者のエリー・サトラー博士(ローラ・ダーン)は、ハモンド財団の創立者ジョン・ハモンド氏(リチャード・アッテンボロー)にのオファーにより、コスタリカ沖のある孤島の視察に向かうことになる。他にも数学者のイアン・マルカム博士(ジェフ・ゴールドブラム)、ハモンド氏の顧問弁護士、それにハモンド氏の2人の孫も招かれていた。

島に到着した彼らの目の前に現れたのは群れをなす本物の恐竜たちだった。ハモンド氏は研究者を集め、古代の蚊から恐竜の血液を取り出し、そのDNAを使い、クローン恐竜を創り出したのだった。

パークの安全制御を担当するコンピュータ・プログラマーのネドリーは、ライバル会社に恐竜の胚の入ったカプセルを売り渡すために陰謀を企てていた。彼が悪さをしたために、恐竜から人間をまもる防護フェンスの高圧電流も止まってしまった。視察にでかけていたグラントたちは巨大なティラノサウルスに襲われ、パークの中をサバイバルしながらコントロールセンターを目指す。
ネドリーはティロフォサウルスに襲われてしまう。グラントたちを捜しに出たエリーは、マルカムを助け、ティラノに追われながらもセンターへ帰還する。システムを元に戻すため一度電源を切り、落ちたブレーカーを戻すためエリーは電気室へ。グラントと子供たちもなんとかコントロールセンターにたどり着き、安全装置と通信機能を回復させる。ヴェロキラプトル2頭についに追いつめられるが、そこにティラノサウルスが現れ、恐竜たちが闘っている隙にグラントたちは、地下室に隠れていたハモンド氏やマルカムと共に島を脱出するのだった。

by ssm2438 | 2010-08-06 12:52 | S・スピルバーグ(1946)
2010年 08月 06日

ジュラシック・パークⅡ/ロスト・ワールド(1997) ☆☆

f0009381_123364.jpg監督:スティーヴン・スピルバーグ
原作:マイケル・クライトン
脚本:デヴィッド・コープ
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:
ジェフ・ゴールドブラム (イアン・マルコム博士)
ジュリアン・ムーア (サラ・ハーディング博士)

       *        *        *

がっぱあああああ、がああああああっぱああああああああ

一作目の『ジュラシック・パーク』は、実に恐竜が動くさまを如実に提示してくれた。それまでの恐竜というのは日本の特撮だとキぐるみだし、海外の特撮だとトカゲの拡大だったり、人形アニメだったりしたのだが、「この恐竜は実に本物だ!」ってイメージをプレゼントされた。あの感動は非凡なものではなかったのだが、さすがに2作目ともなると・・・、それは出来て当たり前、で、何が新しくなったのかな??という部分が問題になってくる。そういうわけで、提示されたのが、ゴジラよろしく、文明世界に恐竜を登場させよう!というもの。妥当なコンセプトではあったが、『大巨獣ガッパ』『キングコング』『GODGILLA』などとほとんど同じコンセプトなので新鮮さという意味では乏しかったのがちと残念。
個人的には島でのエピソードをもちっとつまんで、都会での恐竜と人間社会の摂政を膨らませてほしかったなあ。じゃあ、なにか新鮮味を・・といわれると・・・・うむむむ、確かに思いつかないなあ(苦笑)。

そのそも何が問題だったのだろう??ってちと思考してみる。
文明社会に異物(=この場合は恐竜)を登場させるハプニング性というのはエンタテイメントな映画では王道だ。これがハズレなわけがない。ただ、この映画に関して言えば、あまり成功しているとも思えない。それはやっぱり、既存の映画がこのコンセプトでやりすぎているというのも一つの原因だけど、最大の原因は、都会の「恐竜は弱い」ということなのだと思う。人間が本気になればTレックスだって戦車の砲撃一発で仕留められるだろう。恐竜の島で恐竜が魅力的なのは、人間が仕留められない強大な力として存在していたからだろう。それが、人間の世界にきてみると、人間がその存在に注意をはらってないときに暴れれば怖いかもしれないが、しばらくすると当然のごとく立場は逆転される。食べるものはないわけではないが、少なくとも異なった環境から来るストレスでだんだん衰弱していきそうだし、あっちこっちぶちあたってると怪我も出血もする。もしかしたらエイズだって移ってしまうかもしれない。都会の共有はもはや怖いというよりも、いかに保護するかというその対象になってしまったわけだ。
そのへんがこの映画の最大の問題だったのだろうな・・。

<あらすじ>
あれから4年。閉鎖され、放置された島では人知れず恐竜たちが生き延びて繁殖していた。前回登場した数学者のイアン・マルコム(ジェフ・ゴールドブラム)は、インジェン社の会長ハモンドに呼び出され島の調査を依頼された。
彼の恋人で古生物学者のサラ(ジュリアン・ムーア)ら5人のメンバーで島に降り立ったが、突如ヘリコプターの大部隊が島に飛来し、次々と車や機材を降ろし始めた。インジェン社の会長ハモンドの甥ルドローが、ジュラシック・パークの再生をもくろんでいたのだ。
ルドロー一行はティラノサウルスを捕獲して貨物船に積み込むと連れ去ってしまう。だが、輸送途中で麻酔の切れたティラノサウルスは、サンディエゴに上陸するや大暴れ。イアンとサラは郊外のジュラシック・パークに保護されている恐竜の赤ん坊を連れ出し、親を貨物船におびき寄せる。無事、船に閉じ込めることに成功するが、ルドローは食われてしまった。ティラノサウルスは島に送り返され、島は人間の手が触れないよう保護されることになった。

by ssm2438 | 2010-08-06 01:03 | S・スピルバーグ(1946)
2010年 08月 04日

ジュラシック・パーク III(2001) ☆☆

f0009381_052466.jpg監督:ジョー・ジョンストン
製作総指揮:スティーヴン・スピルバーグ
原作:マイケル・クライトン
脚本:ピーター・バックマン
    アレクサンダー・ペイン
    ジム・テイラー
撮影:シェリー・ジョンソン
音楽:ドン・デイヴィス

出演:
サム・ニール (アラン・グラント博士)
ウィリアム・H・メイシー (ポール・カービー)
ローラ・ダーン (エリー)
ティア・レオーニ (アマンダ・カービー)

       *        *        *

短い時間で一気にみせるアトラクション・ムービー。

これはこれでいんじゃないのかなって思うけど、じゃあ、もう一回見るか??といわれると、もういいやって感じ(苦笑)。もう3作目になると、一番初めに見たときに感動はすくなくなり、やってることはサバイバルゲーム感覚。一作目や二作目の「進化するバイオテクノロジーに苦言を呈する」と云った説教的なコンセプトはなくなり、ひたすらドッキリ・びっくり・仰天演出の連打。しかし家族ものというコンセプトで作られていると、“どうせこいつら助かるだろうな”・・って思えてしまうのが今ひとつかな。

監督は『遠い空の向こうに』ジョー・ジョンストン。この人・・才能あるのかないのかよく判らない人だ(苦笑)。この映画も(というか、どの映画もだけど)特に個性をだすわけでもなく、さらりと望まれたような映画を撮る人。

<あらすじ>
恐竜の島、イスラ・ソルナ島付近でパラセーリングをしていた少年エリックの消息が途絶える。彼の両親であるカービィ夫妻(ウィリアム・H・メイシーティア・レオーニ)は、恐竜が存在するイスラ・ソルナ島上空を旋回する飛行ツアーのガイドを、グラント(サム・ニール)に依頼する。過去の忌まわしい体験から躊躇するグラントだったが、研究資金を見返り条件に夫妻の要望を承諾するのだった。
一行に襲いかかる恐竜たち。やがてグラントは、自力で生き残っていたエリックと遭遇。そして様々なピンチをくぐり抜け、軍隊の救助により彼らは島を脱出するのだった。

個人的にはティア・レオーニ見たさで見たのだが・・・、なんかうるさい! もうすこし厚みのあるキャラにできなかったものか・・。彼女も作品にめぐまれない人だよなあ。

by ssm2438 | 2010-08-04 00:53
2010年 08月 03日

ファイブ・イージー・ピーセス(1970) ☆☆☆☆

f0009381_23414172.jpg監督:ボブ・ラフェルソン
脚本:エイドリアン・ジョイス
撮影:ラズロ・コヴァックス
音楽:タミー・ウィネット

出演:
ジャック・ニコルソン (ボビー)
カレン・ブラック (レイ)

       *        *        *

ボブ・ラフェルソンの描く主人公って共感できないのだけど、まかり間違えば自分もそうなってたかもしれないという臨場感がある。不思議な部分を映画にしてくれる監督さんだ。

それは先の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』もそうだった。この『ファイブ・イージー・ピーセス』も同じジャック・ニコルソンで映画を撮ったのだが、主人公にはまったく共感できない。でも、判るのである。結局自分の人格はどこか自分で演じている部分がある。というかその部分がおおい。「もうこういう生き方をするんだぞ!」ってその法則性にもとづいていつのまにか行動なり発言をしている。しかし、その反面、「そうしないでおく」って決めた、ひめたる部分がある。それは表面的な人格としては出て来ない。しかし確かに水面下にある。それが本当の自分であるとはまったく言わない。が、「こういう部分も自分の中にはあるが、出してはいけないな」って思う部分なので封じ込めているといったほうがいいだろう。ボブ・ラフェルソンはそういう部分を映画に出来る人なのだよね。
そんなわけで、この人の作る映画はどれも面白くはないのだけど、でも監督としてはとても魅力のある人である。
1970年のNY批評家協会賞では作品賞監督賞(ボブ・ラフェルソン)、そして助演女優賞(カレン・ブラック)を獲得している。さすが見る眼が渋いNY批評家協会賞。ちなみにこの年のアカデミー賞は『パットン大戦車軍団』であった。

この映画の主人公のボビーは、はっきりって煮え切らない奴です。裕福な家に生まれ、家族は音楽家で、本人もピアニストとしての才能に恵まれていた。しかし、彼はそれを捨ててそのヒグラシの肉体労働者として生きる生活を選んでいた。
実はひねくれもとというよりも、甘えん坊です。彼が望んでいるのは完全なる愛され方。彼を愛してくれる人は周りにいるのだけど、どれも彼が思う完全な愛され方ではないのでしょう。だから結局捨ててしまう。
もしかしたらとても女性的な精神構造なのかもしれない。男というのは愛するために生まれてきてるし、女というのは愛されるために生まれてきてる。生物学的にはそういうコンセプトが根底にうめこまれている。しかし、このボビーは愛することよりも、愛されることのほうがとても重要なのである。
たしかに子供にとっては愛されることが重要だった。しかし、大人になっていくと愛する力と勇気も必要になってくる。かれは・・・・大人になってもずっと愛されることが重要だった人間なのだろうと思う。それも完ぺき主義者で、完全なる愛され方を永遠に追求しつづけて、寂しく独りでいるしかない男。
究極の甘えん坊、それがこの映画の主人公、ボビーなのだ。

撮影は『未知との遭遇』ラズロ・コヴァックス。実はこの人の画面もさりげなく好きなのであった。。。

<あらすじ>
ボビー(ジャック・ニコルソン)は、カリフォルニア南部の石油採掘現場で働く日雇い労働者。レイ(カレン・ブラック)というウェイトレスと同棲しているが結婚の約束をしているわけでもない。何に対しても積極的な姿勢を示さず、適当に拾った女といいかげんに遊んだり、仕事も適当に、といった怠惰な毎日を送っている。
ある日、クラシック・ピアニストである姉を訪ねると、父が卒中で倒れたから見舞いに家に帰ってきてほしいと告げる。家に帰って荷物をまとめていると、棄てられると思ったのかレイが泣き出した。ボビーはレイも連れていくことにする。
近くのモーテルにレイを下ろし、ボビーは1人で家に向かう。ボビーの家は裕福な音楽一家だった。ボビーは暖かく迎えられた。兄の妻キャサリン(スーザン・アンスパック)は、音楽的にも家庭的にも理想的な環境に恵まれ、さらにピアニストとして豊かな才能がありながら、定職をもたず怠惰な生活をしているボビーが理解できないと言うが、二人は数日過ごしているうちに肉体関係をもってしまう。ボビーにしてみれば、彼女こそが自分を理解してくれる可能性を感じた女だった。精神病院みたいなこの家から逃げ出そうというボビーに、「仕事にも自分にも、何に対しても尊敬も愛も持てないあなたが、私に愛を求める資格はないでしょう」と答えるキャサリン。
そのうち、1週間ほおっておかれたレイがやってくる。レイは下品な女だったが、それを隠すことさえしないおおらかさをもっていた。上品な家族たちは異物感のある彼女を普通に歓待する。そんな家族の態度にもなにかうそ臭いものを感じるボビー。
ボビーは何も喋れず、車椅子の生活を続ける父を散歩に連れ出す。海を見下ろしながら、ボビーは
「僕は本物を求めて何かを探しているんじゃない。ただ、僕がいるだけでそこが悪くなってくる。悪くなるものから逃げ出すだけなんだ。僕がいなくなると万事うまくいくんだろう」 と涙をまじえて父に話しかけた。

ボビーはまた家を出る。レイもついてくる。そんなレイも途中でおきざりにしてひとりでさっていくボビーであった。

by ssm2438 | 2010-08-03 23:44
2010年 08月 03日

郵便配達は二度ベルを鳴らす(1981) ☆☆☆

f0009381_7174883.jpg監督:ボブ・ラフェルソン
脚本:デヴィッド・マメット
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:マイケル・スモール

出演:
ジャック・ニコルソン (フランク)
ジェシカ・ラング (コーラ)
パパダキス (ジョン・コリコス)

       *        *        *

この映画の中では、災難は二度やってくるのだ。

やたらと性描写のことがネタにあがる映画だが、別にジェシカ・ラングのオッパイや裸体がみえるわけでもない。シチュエーションが淫乱なのだ。淫乱というよりインモラルぶりがすごい。たぶんこの映画がアメリカでの上映時に30分もカットされたのはそのアタリが問題だったのだろう。

物語は、人は良いがあるどこかぬけている夫にうんざりしているその妻ジェシカ・ラングが、バッドなムードをたっぷりのジャック・ニコルソンに手篭めにされてそのまま情事をかさねるようになり、夫を殺してしまおうと画策する。
ヒッチコックのサスペンスなら、ケーリー・グランドなり、ジェームス・スチュアートみたいないい人が、犯罪にまきこまれて神経をすり減らしていくサスペンスになるのだが、この物語では犯罪者の二人のほうが、犯罪というストレスに神経をすりへらしていく。
そしてその神経をすりへらすイベントが2度連打させるのがこの映画のストーリー構成になっている。
まだ良心が残っている二人が殺人を犯すのだから相当なストレスが生じる。しかし、それに失敗。半分しにかけた旦那を病院に運ぶ流れになる。体が回復した旦那だが、自分を襲ったのは二人だとは知らない。そして再び殺人計画が実行される。

この同じストレス・イベント2回連打構成がかなりしんどい。作り手側の立場にたつと、観客にストレスを感じさせることとしては成功している。シナリオライターをめざす人は、こういう方法があるというのを知っておいても良いだあろう。

しかも、それは殺人のシークエンスだけではない。その後保険金殺人の疑いがかけられ裁判になる、ほとんど絶対絶命のシチュエーションになるが、弁護士の起点でこれを回避。安心したかとおもわせといて、再びその弁護士に解雇された助手が二人を脅迫するという2回連打構成。
さらに二人の仲たがいも2度ある。前半で駆け落ちする二人だが、ジャック・ニコルソンのギャンブル好きの本性をみてやっぱり旦那のもとにかえるジェシカ・ラング。有罪間違い無しの裁判をなんとか弁護士の機転でのりきった二人だが、幸せな時はやっぱりダメ男にみえるジャック・ニコルソンにうんざりのジェシカ・ラングで、けっきょく二人の仲はこわれ出て行くジャック。でも戻ってくる。

監督は『ファイブ・イージー・ピーセス』『ブラック・ウィドー』ボブ・ラフェルソン。粘着質の演出はかなりみごたえあり。でも疲れる(苦笑)。撮影は北欧の巨匠スヴェン・ニクヴィスト。さすがニクヴィスト、落ち着きのある色や、節度のある明るさはとてもいい。
映画をつくっているスタッフは、とても上手い人たちがそろっているのだけど、お話自体があまり観客に好まれる話ではない。

『キングコング』のヒロインとしてデビューしたジェシカ・ラングだが、役者としてはこの頃が一番脂がのりきっていた次期だろう。良い感じで、良心のまだのこっている、犯罪者を演じている。個人的にはそれほど好きな人ではなかったのだけど、この映画ではみょうに色っぽい。

<あらすじ>
不況の1930年代のカリフォルニア。前科者の浮浪者フランク・チェンバース(ジャック・ニコルソン)は、ギリシャ人の中年男ニック・パパダキス(ジョン・コリコス)が店主のレストラン兼ガンリン・スタンドに立ち寄った。言葉巧みにただ飯をくらいすぐ立ち去るつもりだったが、調理場で働く彼の妻コーラ(ジェシカ・ラング)に魅了され、しばしそのガソリンスタンドで自動車の整備工として住み込むで働くことにする。

数日後、パパダキスが出かけた時にコーラを襲うフランク。夫にイヤ気がさしていたコーラは、初めは抵抗していたが、抑えられていた欲情が爆発し、自らキッチン・テーブルの上にあお向けになりフランクに身をまかせる。それからというものパパダキスの眼をぬすんでは二人の情事は続く。
二人は邪魔者であるパパダキス殺害を思いつく。浴槽での何者かに殴る殺されたようにみせる殺人計画は、停電がおきるアクシデントのために失敗。パニックになるコーラを制して、パパダキスを病院に運ぶフランク。幸い彼は何者殴られたのか見えておらず、回復後もフランクとコーラには以前と同じように接してくる。二人は再び第2の計画をたてる。パパダキスを車で誘い出し、彼を後ろから殴り倒し、酔っ払い運転を偽装して谷底へ車ごと落として殺した。

パパダキスには保険金もかけられていた。フランクが前科者であるということを知っていた地方検事は、コーラとフランクによる保険金殺人事件だと考え、二人を追い詰めていく。
しかし、パパダキスは個人生涯保険と車による他人への傷害保険の2つに入っていた。コーラが殺人者なら、泥酔した主人が運転していた車に乗っていたフランクは2万ドルを手に入れることができる。コーラが無罪なら、彼女は生命保険1万ドルを受け取ることになる。フランクの弁護士カッツ(マイケル・ラーナー)は、2人の保険会社員を呼んで取り引きした。そこで、過失致死という扱いをするなら、自動車保険会社は生命保険会社に1万ドル払うことで済む。そして、コーラに払われた1万ドルは、弁護料としてカッツが受け取るという算段だ。

この事件が店を有名にし、コーラは大繁盛の店のきりもりに夢中になった。2人の間に平和が戻ったころ、カッツにクビにされた助手が2人を脅迫する。これを殴り倒してなんとか真実をかくすフランク。
二人は再出発を祝うつもりでピクニックに出るが、フランクの子を宿していたコーラが突然腹痛を訴える。正面からはトラックが迫る。、急いハンドルをきるフランクだが、コーラ側のドアが開いてしまい、彼女が外に投げ出されてしまう。車は横転、なんとかはいずり出てコーラのもとにかけよるフランクだが、すでにコーラは息絶えていた。

by ssm2438 | 2010-08-03 07:19
2010年 08月 02日

トイ・ストーリー3(2010) ☆☆☆☆

f0009381_02237.jpg監督:リー・アンクリッチ
脚本:マイケル・アーント
    ジョン・ラセター
    アンドリュー・スタントン
    リー・アンクリッチ
音楽:ランディ・ニューマン

声の出演:
トム・ハンクス/唐沢寿明 (ウッディ)
ティム・アレン/所ジョージ (バズ・ライトイヤー)

       *        *        *

うむむむ、これは良質の純粋Mマインドエンタテーメント映画だ。

物語というのは、どこかしらSMマインドが描かれていなければ面白くないものだが、この映画にはそれが満載だ。このシリーズをはじめてみた時から薄々は感じていたのだが、この映画はSMマインド(特にMマインド)の宝庫であり、受動的にしか愛せない玩具という立場を効果的につかって作られたこの映画。所有され、いじられる悦び。飽きられる哀しさ。そして主人の残酷さを受け入れる玩具たち。そして、相手が主体性のない玩具だからこそ誘発される子供の持つ残忍性=加虐性。
これくらい人間の本質の一部がおそろしく赤裸々に語られた映画なので、見る人の心に深くかたりかけるものがありつづけたのだろう。個人的にはR指定にしたいくらいだ。


17歳になったアンディは、その秋から大学に行く。昔からの荷物やアンディが大事にしていた玩具たちも、ゴミとして捨てるか、屋根裏部屋に残すか、大学にもって行くかの決断をせまられる。今となってはほとんど手にとって遊ぶことのなくなった玩具たちだが、それでもゴミとしては捨てられない。しかたなくアンディはその玩具たちをゴミ袋につめて屋根裏部屋に残すことにする。
ここで主人の残酷さが発揮される。バスもふくめてほどんどの玩具はゴミ袋にいられられ屋根裏部屋に運ばれることになったが、ウディだけは大学へもっていくダンボールの中に区分けされた。みんな一緒とおもっていても、そこには序列というものが存在し、一番愛されていたのはウディであることを他の玩具たちも認めるしかない。その決断に対しては文句を言わない玩具たち。

そこで手違いがあり、お母さんがそのゴミ袋を要らないものだ思いゴミ回収に出してしまう。なんとか危機一髪逃げ出した彼らだったが、「自分たちは捨てたれた」と認識した彼らはサニーサイドと呼ばれる託児所に寄贈されるダンボールに紛れ込み、新しい主人をもとめてアンディのもとを去ることに。
ここでもウディは、アンディはみんなを捨てたわけではないと誤解をとこうとする。我々はアンディのものなのだから、戻ってやがてアンディが子供をつくり、その子たちと遊べる暇で屋根裏部屋で待つべきだと主張。けなげである。

そのあとはサニーサイド幼稚園のエピソード。はじめは幸せいっぱいの世界にみえたが、子供たちはビーストであり、玩具たちは過酷な労働をしいられる。しかしその一方で、玩具たちのリーダー、ピンクの熊のぬいぐるみ・ロッツォとその仲間たちは、お行儀の良いお子様クラスでしあわせそうに可愛がられていた。夜はドアに鍵がかけられ逃げることも出来ない。そんななかでウディがかれらを助けにもどり、みんなで脱獄する話が展開される。
お子様たちはここが楽しいのかもしれないが、個人的にはここはもっとカットしてほしかったかな(苦笑)。

結局脱獄したがごみ焼却場におくられ、絶対絶命のピンチ。燃え盛る炎をまえに死を覚悟してみんなが手をとるあたりは実に感動演出。その後は都合よくピンチを脱出し、アンディのもとにもどる玩具たち。そして最後の玩具とお別れシーン。結局玩具たちはサニーサイド幼稚園に通う引っ込み思案だがイマジネーションゆたかな女の子のもとに送られることになる。
ダンボールのなかから、玩具たちとりだしては愛ちゃくをもって紹介していくアンディ。もうこのあたりからぼろぼろ涙がでてくる。新しい玩具の主人となる女の子と一緒に、玩具たちと最後の夢想の世界をたのしんだアンディは、彼らをゆだねて去っていく。


実に完成度が高い映画である。
・・・しかし、<受身の愛>というコンセプトが心地よいけど、それだけだとちと哀しいかな。だからこそこの映画が面白いのは百も承知だが、私の好きなテリトリーとは違う分野だったてことだろう。

どうも私は主体性=エゴから発生する愛が好きらしい。人は大人になり、与える側にならなければいけないものであり、そのためには己を成長させていかねばいけない宿命にあり、私の好きな話は、見ている人が、その与える力をもてるようになる背中を押してあげる方向性の映画なのだろうな。それが描けるのがピクサーのなかでは『Mr.インクレディブル』『レミーのおいしいレストラン』をつくったブラッド・バードだけなのだ。

ジョン・ラセターアンドリュー・スタントンらのオリジナルなピクサーのメンバーは、子供の立場になり(与えられる立場になり)、“こういう愛し方をする親がいたらいいな”・・みたいな大人にならない者たちの夢を描いてくれる。それに対して、ブラッド・バードだけは、大人社会(与える立場の者たちの社会)の現実を描きつつ、“こういう大人になっていきたいね”・・という、大人になっていく子供たちへのメッセージを提示してくれている。
そのあたりが、世間にはうけるピクサーの映画の中にあってひとり大人の映画を作る外様のバードの特異性なのだろうな・・。

頑張れ、ブラッド・バード! 負けるな、ブラッド・バード
少なくとも私は君の次回作を期待しているぞ!

by ssm2438 | 2010-08-02 00:20
2010年 08月 01日

庭から昇ったロケット雲(2007) ☆

f0009381_10184298.jpg監督:マイケル・ポーリッシュ
脚本:マーク・ポーリッシュ/マイケル・ポーリッシュ
撮影:M・デヴィッド・ミューレン
音楽:スチュアート・マシューマン

出演:
ビリー・ボブ・ソーントン (チャーリー・ファーマー)
ヴァージニア・マドセン (妻・オードリー)
ブルース・ダーン (オードリーの実父)
ブルース・ウィリス 

       *        *        *

映画の作り手の精神がやたらと幼稚で、映画的にははずしているのだが・・

人間の本性なのだろうか(男だけなのかもしれないが)、ロケットが空に向かって上昇するところをみせられると、そこだけで感動できてしまうから不思議だ。

お話は荒唐無稽で、家族と農場をやっている主人公が、家族の理解もあり、個人でロケットをつくり宇宙にでるというもの。一応そのバックボーンのいいわけとして、大学時代には航空工学をまなび、軍隊でファントムにのり、宇宙パイロットとしての基礎はあるという設定。
ただ・・、宇宙ものというのは、地道な現実の積み重ねで、やっと底にたどり着くもので、だから感動するのだけど、物語の進行をみると映画の基本コンセプトがひたすらファンタジー(こうだったらいいなあ)で構成されているので、どうにもはいっていけなかった。ひたすら「こうだったらいいなあ」で物語がすすんでいき、時折現実がそれを阻む。でもやっぱり「こうだったらいいなあ」トリップにひたっていく・・というもの。現実に挑んで宇宙に行く話しではなく、現実から逃避し、ファンタジーで宇宙に行く夢をみてる。でときどき現実をスパイス的にいれているといった感じなので・・・、ティム・バートンが好きなひとならいいかもしれないが、大嫌いな私としてはこの映画もあまりいただけるものではなかった。

そうはいってもヴァージニア・マドセンは素敵だ。『エレクトリック・ドリーム』で彼女をひとめみたときは、そのゴージャスさに感動したものだが、のちに『キャンディマン』でデブになったのをみたときは悲しかった。あのときは精神状態がよくなかったのだろう。しかし『サイドストーリー』で、デブだが美しく歳をとった彼女は素敵だった。この映画もその歳をとっても、デブでも、素敵にみえてしまうヴァージニア・マドセンがいた。

<あらすじ>
NASAの宇宙飛行士訓練プログラムに参加するまでになっていたチャーリー・ファーマー(ビリー・ボブ・ソーントン)は、父親が急死のため、実家の農場を継ぐことになる。しかし、かれは夢をあきらめなかった。彼は納屋でひそかにロケットを作っていたのである。そんな彼の夢も家族全体で共有していた。
ロケット燃料を大量に購入したためFBIも彼をマークする。その費用は莫大なもので、家計は圧迫され、すでに農場も家も抵当にはいっていた。夢に魅せられたチャーリーを心をともにしていた妻のオードリー(ヴァージニア・マドセン)だが、クレジットカードが使えなくなって現実に直面する。銀行に行くと、既に立ち退きまでに1ヶ月という状態。それをしった家族はばらばら。すべてを失ったチャーリーは、あとは行くしかないと、ロケットを発射、しかしあえなく失敗。なんとか命は助かったがしばし病院でリハビリ。

幸いオードリーのよき理解者であった父が死に、相続した財産で借金はちゃら(おお、なんと都合のいいことだ)。さらなるお金も入り、ふたたびロケット制作にうちこむようにチャーリーをバックアップする良き妻オードリー。そしてロケットは飛び立った。めでたしめでたし。

by ssm2438 | 2010-08-01 10:20
2010年 08月 01日

浮浪雲(1982) ☆☆☆☆

f0009381_9231813.jpg監督:真崎守
絵コンテ:真崎守/川尻善昭
原作:ジョージ秋山
脚本:大和屋竺
作画監督:富沢和雄
画面構成:川尻善昭
設定:丸山正雄

声の出演:
山城新伍 (浮浪雲)
熊谷真実 (お亀)
加瀬悦孝 (新之介)
井上真樹夫 (坂本竜馬)
古谷徹 (一文写兵庫)

       *        *        *

西は「ヲワェシテ」じゃ!

日本のカタカナ英語だと西は「ウェスト」なのだけど、それを「ヲワェシテ」と表現したのにけっこうびっくり。その音をカタカナにするセンスを感じたものである。イヌは「わんわん」だけど英語だと「バウバウ」、ぶたは「ぶーぶー」だけど英語では「オイックオイック」。日本の動物の鳴き声の擬音は、どこか観念的なものがはいっているが、英語の音はその音をなんとか具現化しているように思う。「オイックオイック」はかなりすごいと思った。
その感動にも似た「ヲワェシテ」というカタカナ表記。・・・・うむむ、すばらしい。

ま、そんなことはおいといて、世間ではほとんどこの作品のことは知られていないのだけど、原作の『浮浪雲』のゆるい感じといい、村野守美による大迫力の竜馬暗殺シーンといい、新之介の子供の持つ未完成のすばらしさといい、とてもファンタスティックに出来上がっている。確かに今見ると、作画的に弱いところも多々あるが、お話の出来がとてもここちよい。

原作は「ビッグコミックオリジナル」に連載されたジョージ秋山『浮浪雲』。1978年に放映された渡哲也主演の実写TVシリーズが好評だったことを背景に企画製作された。私もこのテレビシリーズは好きでした。

舞台は幕末。主人公の浮浪雲は元々は武士であったが、現在は品川宿の問屋「夢屋」の頭(かしら)。仕事は二の次でいつも遊んでばかりで、無類の女好きだが人を惹きつける魅力があり、誰からも愛されている。空に浮かぶ雲のごとく、小事にこだわらず自由気ままに生きている柔軟な精神力の持ち主であるが、実は居合いの達人。滅多にその刀をぬくことはないが、たまに両刃の仕込み杖を使った剣術を見せる事がある。
また、東海道五十三次の命知らずの雲助(宿場や街道において荷物運搬や川渡し、駕篭かきに携わった人足)たちを意のままに動かす人望もある。

あらすじは・・、あんまりないかな(苦笑)。
この映画自体には確固たるゴールがあるわけではなく、いくつかあるエピソードごとに雲さんと新之介がそれぞれの人間性をみせるという話。時代背景が幕末であるだけに、新撰組の実在の人物や、勝海舟坂本竜馬も登場。このアニメでとりあげられた話では、ある茶屋で坂本竜馬にたまたまであった新之介が感化され、大いなる大志をいだくが、気持ちだけ空回り、そんな中憧れの対象だった竜馬暗殺の知らせが江戸にもとどく・・というもの。そんな中で、いつもはダメなぐーたらオヤジなのだが、ときとして父親愛をはっきする雲さんはけっこうかっこいい。

やはり新之介と雲さんのコントラストがいいのだろう。いつもゆるい生き方をしている雲さんに対して、息子の新之介は正反対で志が高く、真面目。余裕がないのである。二人の関係は、まるで会社の実力のない上司と実は実行力のある部下の関係。息子の新之介は父の緩い態度にたいしていつも説教しているのだが、父親の雲さんは「はいはい」って聞き流している。たしかに、雲さんのように余裕かましてゆるく生きられればそれが一番なのだが、人生そんなことはありえないので、ほんとの憧れだな・・という感じ。

新之介以外にも、新撰組の一文写兵庫(おそらく創作されたキャラ)という青年が登場、坂本竜馬の命を狙っているなのだが、雲さんの前ではしゃかりきになっている小僧にみえてしまう。
そんな風に生きられたらいいなあ・・と憧れるのだけど、普通の人は決してそんなふうには生きられない生き方。それが『浮浪雲』の魅力なのだ。

しかし、このドラマで一番いいのは息子新之介の憧れ力だろう。この一生懸命さが素敵なのだ。なにか素晴らしいものに感化される少年時代、でも、背伸びしてもどうにもならない現実。でも憧れる。そんな子供心の憧れが実によく描かれている。
劇中では、日本人にして既に世界を相手に思想をもって行動している坂本竜馬に憧れる新之介。そんな竜馬から竜馬の聞き記した英単語本をもらって勉強する新之介。自分ああなりたい!!って憧れがほとばしっている。しかしその竜馬が暗殺される。こうしてはいらないない、自分もなにかせねば!っと思ったのか、「死すとも帰らず」と置手紙をして竜馬がころされた京に向かって東海道をひたはしる新之介。
しかし、結局は心細くなって箱根の山に入る前で泣いていると雲さんが迎えに来る。

「男が男に惚れるというのはすばらしいことです。
 でもその人にかわりになることはないざんす。人はだれもが主人公なのですから」

とさとす雲さん。ああ、素敵。


ただ、既に世捨て人になっていつも余裕のある雲さんよりも、今はまだつぼみの状態だが、可能性がみちている息子の新之介をほうが好きである。それに、力と余裕のある雲さんだが、以前はやはり志を高くもっていたのだと勝手に想像するのだが、それがどの時点で挫折し世捨て人になったのか・・・、そのドラマのもとを知りたいものだ。

しかし・・、人知れずDVD出ていたのですね。VHSもずっとほしいと思っていたのですが、これがまた発売されず、大昔にテレビから録画したVHSが手元にあるだけだったのですが、これがDVDで発売されたというのはとても素晴らしいことです。
これも、坂本竜馬ブームの一環ですかね。まあ、なにはともあれいいことです。おもわずネットで買ってしまいました。でも、ほとんどのところはメーカー取り寄せなので、私が買ったところもあるのでしょうか? ちょっと不安です。

by ssm2438 | 2010-08-01 09:24