西澤 晋 の 映画日記

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2010年 11月 30日

タッカー(1988) ☆☆☆

f0009381_1856258.jpg監督:フランシス・フォード・コッポラ
脚本:アーノルド・シュルマン/デヴィッド・サイドラー
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:ジョー・ジャクソン

出演:
ジェフ・ブリッジス(パターソン・タッカー)
ジョーン・アレン (ヴェラ・タッカー)
クリスチャン・スレーター (ジュニア)

       *        *        *

夢とアイデアはある、あとは金だけだ!

若干ぬるいのだけど嫌いではないんだな、この映画。
主人公のタッカーは実在の人物。アメリカの自動車会社タッカー社の創設者であるプレストン・トマス・タッカーは、安全を重視した画期的な乗用車としてタッカー・トーピードを考案して量産化を目指すも、様々な事情で自動車製造会社を倒産してしまうことになった。(ウィキペディアより)

映画ではアメリカ自動車産業のビッグスリーによる新興メイカー潰しという構図になっているが、実際のところは何処までホントで何処までフィクションなのかは不明。この映画でつくられたタッカー・トーピード(↓)は現在46台が残っているそうだが、かなりの巨大なセダンである。スピードもさることながら、衝突安全性にも力を入れており、なにかと贅沢な作りになっていたらしい。センターライトは、タイヤの向くほうに向く設計になっていて、カーブの時も進行方向を照らす仕組みになっていた。水平対校6気筒エンジンをリアに搭載し、車重量は1.9トンにももなるセダン。カタログでは166馬力を搾り出すとされたが、実際はその半分くらいのパワーだったとか。私がいまだにのっている三菱の3リッター・ディアマンテ君は1.5トンくらいなので、かなりのヘビーウェイトだ。

f0009381_191572.jpgタッカーを演じるのはジェフ・ブリッジズ。なぜかこの人が演じる映画は意外と好きなのが多いのだが、この映画も悪くはない。しかし、アメリカンドリームをめざすスタンスがかなりアバウトで甘い。なんというか、ロン・ハワードが作る映画のようなノリなのである。あそこまでリスクマネージメントを考えないのはかなりノー天気。さらに、ビッグスリーを露骨に悪者にしているあたりが極端にわかりやすい構成になっているのだが、もうちょっと臭わせるくらいの真実味のある展開でもよかったのでは・・って思ってしまう。
物語の展開は、モデルカーを作ってプロモーションをし、製作資金をあつめたが、その車を量産できる現実性はなく、結果として資金横領ではないかと訴えられてしまう。本気だったことを示すために50台のトーペードを作り、意図的な罪だとはみなされない判決=無罪になったが、現実的に資金回収困難だったため、工場は持っていかれてしまった・・という話。

<あらすじ>
第二次世界大戦も終結間近の1945年春。プレストン・タッカー(ジェフ・ブリッジス)は自分の夢である新しい車を作る決心をする。家族のサポートや、友人である元銀行家や技術者の協力を得て安全性に秀でた重厚なセダン、“タッカー・トーペード”を作り上げた。しかしエンジンはつまれてなかったりする(苦笑)。巧みな宣伝やその斬新なスタイルで、たちまち世間の注目を浴びたが、当時アメリカを牛耳っていた巨大な自動車産業のビッグ3や、保守的な政・財界は、密かに暗躍してタッカーとその事業を叩き潰そうとした。
裁判にかけられ工場は閉鎖寸前となったタッカーは、自分の事業プランが正しかったことを証明するために、50台の新車を期日までに完成させなければならなくなる。タッカーとその仲間たちの手作業でその車を量産していく。
そして最終弁論の日、タッカーは陪審員席に向かって、「巨大な力で個人の自由な発想を押し潰すことは、この国の未来をも閉ざすことになるのではないか」と語る。

by ssm2438 | 2010-11-30 22:18
2010年 11月 30日

華氏451(1966) ☆☆

f0009381_7504167.jpg監督:フランソワ・トリュフォー
原作:レイ・ブラッドベリ
脚本:フランソワ・トリュフォー/ジャン=ルイ・リシャール
撮影:ニコラス・ローグ
音楽:バーナード・ハーマン

出演:
オスカー・ヴェルナー (モンターグ)
ジュリー・クリスティ (クラリス/リンダ)

       *        *        *

コンセプトがナンセンスなファンタジーなのでそこに入っていけるかどうか・・・

原作はレイ・ブラッドベリの小説なので、「SF」といっても「サイセンス・フィクション」ではなく、「サイエンス・ファンタジー」に属するものである。

この物語は、本の所持や読書が禁じられた架空の社会の話で、情報が全てテレビやラジオによる画像や音声などの感覚的なものばかりの社会。本の所持が発見された場合、「ファイアマン」(消防士)と呼ばれる機関が出動してこれを焼却し、所有者は逮捕されることになっていた。この世界では、政府による情報の一括化tんりが行われており、それはテレビとラジオで行われている。本は有害な情報を市民にもたらす可能性があるというのだ。そこでは密告が奨励され、市民が相互監視する社会が形成されていた。しかしその結果、人々は思考力と記憶力を失い、わずか数年前のできごとさえ曖昧な形でしか覚えることができない愚民になっていた・・という社会設定。

ブラッドベリ自身は「この作品で描いたのは国家の検閲ではなく、テレビによる文化の破壊」と2007年のインタビューで述べているらしい。(ウィキペディアより)

この映画を私がはじめて観たのは10代のおわりで、子供時代には読書をすることが大嫌いだった私にとっては、「そんな夢のような社会あるのか!」って思ったものだ。
子供の頃の私にとっては、本を読むということは悪夢であり、読んでも何が書いてあるのかわからない。読もうとしても上手く読めない。国語の時間で本を読まされる番がまわってくるのは恐怖の時間であった。のちに判ったのだが、どうやら「読書障害」と呼ばれるものだったようだ。さすがに現在になると学習障害のひとつとして世間的にしられるようになっているようだが、40年前にはそのような概念はなく、私のように「読書障害」を持つ子供にとっては理不尽な時間だった。周りの人は、どうやら文章を読むとその内容を理解しているようなのだ。子供のころの西澤少年にとって、それは理由がわからない不可解な現象だった。
40代になり、TOEICで900点めざして猛勉強したあと、次に英検一級をめざして勉強し始めたのだが、その重要英単語のなかにディスレキシア=読書障害という単語がでてきたとき「あれ?」って思い、調べてみると、不思議なことに自分がそれに当てはまることが判った。アルファベットを使う英語圏と漢字をつかう日本とではその読書障害の症状は多少異なるようだが、文字データからその内容を理解する能力に不具合をもった人というのは確実に存在している。今年の夏、中学の時の同窓会がありそこで、以前好きだった同級生の女性と話す機会があり、彼女も読書障害で「国語の時間は恐怖だった」という共通認識を確認できたことは妙に嬉しかった(笑)。不幸の共有も、好きな女の子となら、時には幸せになるのである。

しかし、そんな私がみても、この物語のコンセプトはどうにもナンセンスなものだった。活字文化でそだってきたレイ・ブラッドベリが急速に発展してきたテレビ文化に嫉妬し、テレビ文化を案に適役に仕立て上げて物語を擁護ているとしか思えないしろものだった。

<あらすじ>
知識や情報は国家が運営するテレビによって伝達され、人はそのとおりに考え、行動していれば平和な生活ができる社会。そこでは読書は禁止されており、反社会的という理由で消防士たちによって焼きすてられた。モンターグ(オスカー・ヴェルナー)はその消防士の一人でる。ある日彼は妻とうりふたつの若い女クラリス(ジュディー・クリスティ)と知り合う。テレビのままに動く無気力な妻の空虚な生活にひきかえ、クラリスは本に熱意を持っていて、モンターグにはとても刺激的だった。そこでモンターグは生まれてはじめて本を読み、その魅力にとりつかれていく。それを知ったリンダは、夫が読書をしていることを密告する。
そのことは知らず、辞職を申し出たモンターグだが、隊長の説得にあい、その日だけは出動することになる。しかし行き先は自宅だった。庭につまれた自分の本を焼きすてるように命じられたモンターグ。絶望したモルダーグは、家そのものまで焼こうとするが、隊長に制止しされる。逮捕されそうなったモルダーグは隊長に火焔放射器を放射、殺してしまう。殺人犯としておわれたモンターグは以前クラリスが話してくれたことのある「本の人々」が住む国だった。そこでは人々が本を記憶しているのだ。しかしそこにも消防隊は押し寄せる。すべての本が焼かれた。森のなかで本を暗誦しながらただよう人々の上に雪降ってくる。

ラストシーンはきわめて幻想的であり、情緒性にあふれた忘れがたい名シーンだろう。

by ssm2438 | 2010-11-30 07:51
2010年 11月 30日

あこがれ美しく燃え(1995) ☆☆

f0009381_1128534.jpg監督:ボー・ウィデルベルイ
脚本:ボー・ウィデルベルイ
撮影:モルテン・ブラウス

出演:
ユーハン・ヴィーデルベリ (スティーグ)
マーリカ・ラーゲルクランツ (臨時教師ヴィオーラ)

       *        *        *

行ってはいけないと理性では判っているけど、行ってしまう部分を描けるのがこの監督。

監督のボー・ウィデルベルイ『みじかくも美しく燃え』『刑事マルティンベック』の監督さんである。魅せ方は地味でけっこう退屈なのだけど、本質的には「行ってはいけない部分に行ってしまった人間の業」を描けるひとである。

誰のこころにもそんな想いはある。社会的しがらみを忘れて一度はその欲望にまかせてみいたい・・、実際やっていたとしても、そのあとは坂道を転がり落ちるようなものだともわかっている。普通は理性がそれを抑え、現実としてそれは行わないでいるものだ。そこをさりげなくやってしまうのがこの監督さん(でも、つまらないのだけど・・はは)。

『みじかくも美しく燃え』では、妻子ある軍人とサーカスの少女ピア・デゲルマルクが愛し合い、<社会性という抑制>もきかず、そのまま駆け落ち逃亡、最後は行くところなく自殺にいたるという悲劇を描いている。そしてこの『あこがれ美しく燃え』も、社会性の抑制が効かなくなってしまった少年と教師の話。おもえば『刑事マルティンベック』もそうなのかもしれない・・・。一度は「こんな社会性など忘れて行動してみたい」と思う人間の潜在的な欲望をさりげなく刺激している人なのかもしれない。

先生とどういうわけかラブラブし始めた頃の主人公と先生の可愛らしさといったらとっても素敵なのだ。こんな状態だったら学校に行くのが楽しいだろうなあって思ってしまう。ただ、後半はもうかなりしんどい。なんでこんなことにならなきゃいけないんだ??って思ってしまった。
・・・しかし、こんな学生生活がおくれたら、それはあまり気持ちよくないエンディングであろうとも、彼にとってはとっても幸せな思い出の1ページになったであろう物語にはちがいない。

<あらすじ>
1943年、ヨーロッパは第二次世界大戦の真っ最中である。しかし中立国だったスウェーデンは戦火を受けてはいなかった。15歳のスティーグ(ユーハン・ヴィーテルリベ)は、赴任してきた臨時教師ヴィオーラ (マーリカ・ラーゲンクランツ)に想いを寄せるようになる。ヴィオーラもそんな彼の気持ちがいやではない。地図を資料保管室に返しに行く時、はずみというか、勢いというか、スティーグからキスをされてしまう。一瞬拒否反応をしめすが、その後は特に否定する筋合いもなく受け入れてしまう。

それからしばらくは校内でふたりのささやかな情事が描かれるのだが、これはみていても微笑ましくなるほどさわやかだ。こんな学生生活送れたら人生幸せで仕方がないだろう。しかし、スティーグが彼女のうちを訪問するようになると一般的な社会倫理が麻痺してくる。

ヴィオーラは結婚しており、夫のフランクは行商で飛び回っている。その目を盗んで彼らは逢瀬を続けるが、あるとき不運にも鉢合わせ。しかしそんなフランクと奇妙な友情が芽生えていく。自分が昔浮気したせいで妻とは性生活はないことをほのめかす。フランクのことを知れば知るほど罪悪感をふかめるスティーグはヴィオーラから遠ざかるようになった。彼が訪ねなくなって、ヴィオーラは荒れ始め、酒に走る。ワインのボトルを割り、それを突きつけてスティーグに、自分の服を脱がすように強要する。スティーグは彼女に別れを告げる。公私混同のヴィオーラはスティーグを落第させてしまう。

by ssm2438 | 2010-11-30 06:37
2010年 11月 26日

ガス人間第1号(1960) ☆☆☆

f0009381_22444778.jpg監督:本多猪四郎
脚本:木村武
撮影:小泉一
音楽:宮内国郎
特技監督:円谷英二

出演:
土屋嘉男 (私立社陵文庫司書・水野)/ガス人間)
三橋達也 (警部補・岡本賢治)
八千草薫 (春日流家元・春日藤千代)

       *        *        *

このときの八千草薫は恐ろしく綺麗だった。。。

不幸にして人体実験でガス人間になってしまった主人公が、憧れの人日本舞踊の家元・春日藤千代のために銀行強盗をしながら金を貢というもの。報われない男の愛の物語である。物語はサスペンス/ミステリーの展開で進展していく。しかし、それがファンタジーの要素を持ってくるが、全体的には大人のドラマに空想科学テイストを加味したドラマだといえる。

この映画が公開された1960年は、私もまだこの世には生まれておらず、私がしっている八千草薫はかなりおばさんになってからのものだが、この映画のなかの彼女は素晴らしく綺麗である。自分を思って犯罪を繰り返した男のために、業火に崩れ行く舞台の上で、彼のために舞踊を舞う姿ははかなくも美しい。

東宝の特撮モノといえば、『ゴジラ』シリーズが有名だが、怪獣のでない映画もあった。それがこの「変身人間」シリーズだ。監督と特技監督はやはり『ゴジラ』シリーズの本多猪四郎円谷英二。後にテレビ放映される円谷プロが制作する『怪奇大作戦』の起源のような映画といえる。ガス人間の特撮もさほど違和感はなく、プロの技を感じる。そして最後の舞台とその会場が炎につつまれて崩落していくシーンはやはり特撮ものだな感心させられる。
しかし・・・、本多猪四郎の演出というのは、物語の展開を記号的にみせてしまい、匂わせて感じ取らせるような大人の演出ではない。ガス人間に貢がれたお金で家元を再興している八千草薫がスキャンダルにまみれる展開など、イジメがいのありそうなドラマなのだが、人間ドラマを撮る演出力としてはちょっと弱いかな・・。

<あらすじ>
吉祥寺の銀行を襲った犯人は五日市街道を逃走する。岡本警部補(三橋達也)はその犯人の車を追跡するが、追いついた車のなかはもぬけの殻。近くには日本舞踊の家元春日家の一軒家があった。そんな事件をきっかっけに同じような銀行強盗が頻発する。
岡本は、春日藤千代(八千草薫)に疑いの目をむけた。没落寸前だった春日家の家元・藤千代は、派手なキャデラックを乗り廻し始め、絶縁関係の芸人達にも金をバラまいているという。藤千代のバラまく札のナンバーが強盗によるものだと判明すると共犯容疑で逮捕した。
ところが、自ら犯人と名のる男・水野(土屋嘉男)が現れる。彼は、人間が宇宙旅行を容易にできるための人体実験の失敗によっていつでもガス状になることのできるガス人間にされてしまったのだ。彼は銀行強盗をして大金を貢いでいたのである。水野は逮捕され、藤千代は釈放された。しかし留置場に移された水野はガス状になりやすやすと脱獄してしまう。
スキャンダルにまみれた藤千代の舞台の日、観客の一部は「ガス人間を出せ!」などと罵声を浴びせる。怒ったガス人間が招待を現す。逃げまどう観客たち。観客がいなくなった場内、それでも藤千代はガ水野の為に踊り続けるのだった。舞い終えた藤千代がガス人間に抱かれていた。藤千代は水野の背でライターに火をつける。会場は大爆発を起す。

by ssm2438 | 2010-11-26 22:45
2010年 11月 24日

夜(1961) ☆☆☆☆

f0009381_628016.jpg監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ
    エンニオ・フライアーノ
    トニーノ・グエッラ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ

出演:
マルチェロ・マストロヤンニ (ジョヴァンニ)
ジャンヌ・モロー (リディア)
モニカ・ヴィティ (ヴァレンティーヌ)

       *        *        *

「保険」の終わりは「恋愛」の終わり。

その昔、こんな(↓)言葉を交わした女がいた。

私:「女に男を愛する能力はない」
その女:「男だって愛しませんよ」

彼女に一度アントニオーニの『さすらい』『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』『赤い砂漠』までを見てもらいたいものだ。きっと魂の同一間を感じるだろう(苦笑)。・・・しかし、実は魂が一緒なのではなく、そこにたどり着いてる人と着いていない人がいるだけの話なのだけど。

アントニオーニは、男と女の恋愛のメカニズムをいつも冷淡に描いている。
女という生き物は、「便利性」に恋するのであって、その男に恋するわけではない。「便利性」というもの、意味はいろいろあって、言葉どおり相手の男が物質的に便利なこともあるが、精神的に便利という意味もある。特に女の場合は「必要とされること」というのはその女の存在意義であり、「必要とされている」ということで、安心感を得るように出来ているようだ。この「安心感を得られる」ということも、「精神的便利性」の中にはいる。

これに対して、男のという生き物は、自分の中の理想の女性像に恋をする。しかしそれは決して実存することはない。しかし、それを追い求める。この世の中にはそんな女性がいるはずだ!・・と。そしてその可能性のある人に期待する。勝手に「この人こそ、そうであるに違いない」。その夢をみていられる時間が男にとっての「恋をしている」時間になる。

恋愛というのは、そうしてお互いに期待したい男女が、相手の期待に応えたいと思っている期間を云う。

アントニオーニはこのメカニズムをいくつかのパターンで映画化している。それが『愛の不毛』3部作であり、その前後の『さすらい』と『赤い砂漠』である。これらの映画のなかに登場する女達はほとんど期待する力を失っている。ましてや期待に応えたいと思う力などもってはいない。それが観られるのは『さすらい』に出てくる、男が求めなかった女達くらいだ・・。
結局「恋愛」とは「期待力」である。それが枯れると愛は蒸発する。


映画の冒頭、作家のジョヴァンニ(マルチェロ・マストロヤンニ)と妻リディア(ジャンヌ・モロー)を伴って、末期癌(映画ではいってないかもしれないが、そんな感じ)の友人トマーゾを見舞う。トマーゾはジョヴァンニの親友であるが、同じ女性を愛してた。それがリディアである。結局リディアはジョヴァンにを選び現在に至っている。

リディアはトマーゾにとって、自分の憧れを投影できる女性だった。彼女の本質的な部分をかなり理解していたのだろう。しかし、全部がみえているわけではない。憧れで盲目になっていて見えない部分は、彼の理想で補完していたのだろう。
一方のジョヴァンには、彼女にとって憧れだったのだろう。彼と一緒にいることが楽しい。刺激になる。そうして彼に憧れ、彼の求めることに応えようとしたのだろう。ジョヴァンニも、そんな彼女と一緒にいるのが居心地がよかった。そして二人は結婚した。しかし現実が二人の期待力(期待する力/期待に応えようとする力)を奪ってしまった。リディアはジョヴァンニと一緒にいてもこころが刺激されることがもうないのである。

リディアは、ジョヴァンニのサイン会の会場に同行するが、そこでもなにも感じない。自分の感覚を再確認するためか、ひとりミラノの街を歩いてみる。そこでみる、男や老婆、少女、ケンカをしたりロケットを打ち上げる男達・・・、どうやら何かを感じる力はのこっているようだ。しかし、それらはリディア人生の中では大した意味をもたない。
リディアは、ジョヴァンニと一緒に出かけてみることにする。その感情はもうないとは分っていても、自己肯定をしたかったのだろう、「自分がトマーゾではなくジョヴァンニを選んだことは間違いではない」・・と。しかし、夫と一緒にいる時間にときめきはない。心が振るえない。彼女の心のなかにそれを肯定する要素がみあたらないのである。そのあと二人はある富豪のパーティに出る。彼はジョヴァンニを彼の会社に招こうとしているのだ。そしてジョヴァンニはその富豪の娘ヴァレンティーヌ(モニカ・ヴィティ)に興味をしめしていく。そんな夫をみてもなにも感じない。

時間をもてあましているリディアは病院に電話をかける。そしてトマーゾの死を知る。

トマーゾの存在は、リディアにとっては恐ろしく重大な精神の「保険」だったのだろう。たとえ、ジョヴァンニとの愛が終わっても、いや、他の誰かから裏切られたとしても、あの人だけは自分を求めていてくれている・・、そう思えることが彼女を精神の保険だったのだ。それがその電話をかけたてトマーゾの死を知った瞬間に消滅した。

おそらく、恋愛に「保険」は不可欠なのだろう。
「保険」無しに恋愛することは、こころの不安定さを招くことになる。それを人間の心は知っているようだ。
しかし、「保険男」は決して女に愛されることはない。ただ必要とされるだけだ。それも男の心は知っている。

おそらくもう、リディアは恋愛をすることはないだろう。
男にとって「髪の終わりは青春の終わり」であるように、女にとって「保険の終わりは恋愛の終わり」である。


アントニオーニの映画は初見の段階では意味が判らないのでかなりしんどい。そういう私も、若き日の初見では途中リタイアしている。この映画は最後まで行って、トマーゾとリディアの関係を理解し、自分が書いて送った入魂のラブレターさえ忘れているジョヴァンニとの今の関係を理解してから振り出しに戻る。そこではじめてそこに描かれている内容が理解できる・・という、なにかと手間のかかる映画である。

by ssm2438 | 2010-11-24 22:16 | M・アントニオーニ(1912)
2010年 11月 23日

突入せよ!「あさま山荘」事件(2002) ☆☆

f0009381_2113635.jpg監督:原田眞人
脚本:原田眞人
撮影:阪本善尚
音楽:村松崇継

出演:
役所広司 (佐々淳行)
宇崎竜童 (宇田川信一)

       *        *        *

あさま山荘事件をネタに、『踊る大捜査線』やってる。

最低なのが、殉職者の葬式のシーンでの時間早回しクソXクソXクソ演出。情緒もへったくれもない。こんな人工的な撮り方したら作為性出すぎで興ざめするのはあたりまえだろう。この監督原田眞人、才能ない・・・。

なんでこんな形で映画にしなきゃいけなかったのだろう? もっときちんと映画に出来た素材なのに・・・。弾丸が普通に飛んでくるあの状況のなかで当時その場にいた人は、こんな撮られ方されたら頭にくるんじゃないだろうか・・。
ただ、犯人側からの視点で描かなかったことは実に良い。映画にしたかったところが統括組織の統率力のなさ、管理能力の無さなので、そこを描くには正しい方向性だったと思う。演出はクソだが、お話は面白い。熊井啓あたりが撮っていたらかなり面白いものになっていたんじゃないだろうか・・。

当時ニュースをみてて、クレーンが止まったのが不思議で不思議で・・・、なんでもっとやらないんだ???って思ってのだけど、バッテリーが死んじゃてたのですね。知りませんでした。あのころは私が9歳のときで、子供なりになんだか深刻な事件がおきているのだなって思っていたが、この映画のおかげでどういうことだったのは再認識できました。大人になってみないと分らないことってあるものですね。

しかし、このころの強行突入ってむちゃくちゃですね。
催涙弾を打ち込んで突入するのは当たり前だと思ってたら、突入する側も面帯ガスマスクなし。ちょっとびっくり。それじゃあ、中に入っても何も出来ないだろうって思うのだけど。結局催涙弾なしで放水がメインになってしまってる。


<事件の背景>
真岡銃砲店襲撃事件で猟銃店を襲って銃と弾薬を手に入れた連合赤軍のメンバーは、群馬県の山岳地帯に潜伏していたが、、警察の山狩りが開始され、徐々に追い詰められていった。仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ猛烈な思想点検・討論を行うようになりリンチ殺人事件を起こしていた。
警察の山狩りによって、榛名山や迦葉山の拠点をを発見されたことをラジオのニュースで知ると、群馬県を出て隣接する長野県に逃亡する。しかし、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった。
連合赤軍のメンバーは軽井沢レイクニュータウンにあった無人のさつき荘に侵入、台所などにあった食料を食べて休息していたが、捜索中の長野県警機動隊一個分隊が近づいてきたことを察知し、さつき荘の近所にあった浅間山荘に逃げ込み、管理人の妻を人質として立てこもった。

そんなわけで、彼らはほとんど無限に銃を乱射できたのである。あんなに銃弾が飛びかう状況だったとは知らなかった。

by ssm2438 | 2010-11-23 21:41
2010年 11月 23日

ブルースが聞こえる(1988) ☆☆☆

f0009381_1815876.jpg監督:マイク・ニコルズ
脚本:ニール・サイモン
撮影:ビル・バトラー
音楽:ジョルジュ・ドルリュー

出演:
マシュー・ブロデリック (ジェローム)
クリストファー・ウォーケン (トゥーミー軍曹)

       *        *        *

なんと、クリストファー・ウォーケンがマトモな役(でもないか)をやっている!?

『私は女優志願』でなんとなく気になり始めたニール・サイモン。そのあとも『キャッシュマン』『グッバイガール』などをみて、さりげなく見るようになっていた彼の作品なので、この映画も当時劇場に足を運んだ。

ニール・サイモンといえば、エルンスト・ルビッチビリー・ワイルダーの流れを汲む舞台作家さんで、映画にもちょこちょこからんでいる。しかし、この映画はそういったいつものハートフルコメディではなく、本人の自伝的要素が色濃く出た映画だった。そういう意味ではスティーブン・キング『スタンド・バイ・ミー』とニール・サイモンの『ブルースが聞こえる』はなんとなくそのメンタリティがにているかもしれない。ただし、こちらの映画は第二次世界大戦が終了する夏、ちょうどその直前に高校を卒業し徴兵された文章を書くのが好きな男の子の話である。

そういう意味では彼らはかなりラッキーだった。
第二次世界大戦が終了するのが1945年の8月15日。この物語の主人公が高校を卒業したのがきっと6月。そして訓練期間が10週間。そんなわけで、この物語の主人公は訓練期間は終了するも、戦場に旅だつ前に戦争が終わってしまった。
しかし、そんな10週間も、彼にとっては刺激的な、それまで経験をしたことがない、恐怖と覚悟と戦争と仲間を体感した時間だったのだろう。このきわどいタイミングが妙にリアリティを感じさせてくれた。
この映画は、他の訓練期間を描いた映画とは違い、どこか牧歌的で、ノスタルジックな雰囲気が漂っている。熱血スピリットで訓練を乗り切るのではなく、そこに集った人々と一緒に過ごした青春の一ページを肩の力をぬいて物語りにした感じだ。でにアメリカのほとんど勝勢だった時節のことなので、彼らもそれ以前の徴兵される人たちよりもさほど緊張感はなかったのかもしれないが・・・。。

<あらすじ>
1945年の夏、徴兵されたユージン・モーリス・ジェローム(マシュー・ブロデリック)はミシシッピ州のビロクシ訓練所に参加してた。同期生は同じように高校卒業と同時に徴兵された若者達で、唯一文学の才能を秘めたエプステイン(コリー・パーカー)以外、彼は嫌いだった。そんな感想をひそかに日記につけていた。
訓練所ではトゥーミー軍曹(クリストファー・ウォーケン)の厳しい指導の下10週間にわたる本格的訓練が始まった。彼らの唯一の楽しみは48時間の自由行動日だった。娼婦ロイーナ(パーク・オーヴァーロール)の手ほどきでジェロームもめでたく初体験を済ませる。
そんなおり、ジェロームの日記が仲間たちに見られてしまう。なにぶんエプステイン以外はがさつで嫌いだったのだが、そんな彼はみんなから怒りを書くことになる。さらにエプステインも、ホモだと疑われており大きなショックをうける。折しも訓練所内で同性愛事件が発覚し、疑惑の目がエプステインに注がれ(実際彼はホモではなかったのだけど)、ジェロームは書くことの魔力を痛感する。

by ssm2438 | 2010-11-23 18:02 | マイク・ニコルズ(1931)
2010年 11月 21日

Zero WOMAN 警視庁0課の女(1995) ☆

f0009381_17192353.jpg監督:榎戸耕史
原作:篠原とおる
脚色:橋場千晶/榎戸耕史
撮影:栢野直樹
音楽:梅林茂

出演:飯島直子

       *        *        *

もっとサービスしてくれても・・・(苦笑)。

それまでもきわどいとこまで入ってもスン止めだった飯島直子が、きちんと乳首まで出してるって話だったので、当時とびついて見たVシネマ(笑)。ああ、男ってばかですねえ~。

しかし、内容的にはもちろん期待してなかったが、まさに普通のVシネマの出来。待望の飯島直子嬢のヌードも最初のほうのシャワーを浴びてるシーンでささやかにみせてくれてたが、そこだけで後は全部スン止め状態。うむむむむ・・・、もうちょっとなんとかならんかったんですかね。

演出は信じられないくらいちょード下手。
素材と企画は良かったのに才能のないこの監督が総てを駄目にした。
タイトルが終わってシャワーを浴びてる飯島直子の下に組織の殺し屋が押入ってくるシーンがあるのだが、「バスタブのカーテンの向こうで既にその男の気配を感じて銃をかまえている飯島直子」というカットがある。それをこのバカ、真横からとってる。こんなシーンでおばか丸出しの説明アングル。それもその説明画面だとどうしたってこちらにカメラがあるのことを、見ている人は感じてしまう。カメラの存在を意識された映画性ぶち壊し。
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<あらすじ>
警察組織のなかにある裏警察〇課(ゼロ課)。その女刑事レイ(飯島直子)。
ある日レイは、捜査一課の小田と元ヤンキーの貴子の三人でドライヴに出掛け、黒塗りのスポーツカーが若い男性をひき逃げして行くのを目撃。しかし事件は事故として処理される。その後も納得がいかず、独自で調査をしていた小田が何者かによって殺されてしまう。レイは調査に乗り出す。
犯人は日本経済界の重鎮・小笠原純蔵の愛娘・由美だった。彼女は、若い男を誘っては自分を責めさせるマゾだったが、ひとたびプレーを離れると支配的だった。殺された男は、由美のそうした性癖についていけず、逃げ出したところを殺害されたのである。
事件の隠滅には父・純蔵が一役買っていた。真相を掴んだレイは貴子もろとも純蔵の組織の者に拉致され、サディスティックな拷問を受ける。だが、鍛えられた女兵器・レイは組織の者たちを倒し、小笠原父娘の悪行を暴露するが、事件の裏には信頼する上司・武藤(西岡徳馬)も一枚噛んでいたことを知らされる。

by ssm2438 | 2010-11-21 17:21
2010年 11月 21日

フルメタル・ジャケット(1987) ☆☆☆

f0009381_9494041.jpg監督:スタンリー・キューブリック
脚本:スタンリー・キューブリック
    マイケル・ハー
    グスタフ・ハスフォード
撮影:ダグラス・ミルサム
音楽:アビゲイル・ミード

出演:
マシュー・モディー (ジョーカー)
ヴィンセント・ドノフリオ (パイル)
R・リー・アーメイ (ハートマン軍曹)

       *        *        *

相変わらず、一本の映画を作るのはド下手なキューブリックだが・・

スタンリー・キューブリックの中では意外と一番好きかもしれない。
キューブリックという監督さんは、1シーン1シーン、1カット1カットでは変質的なまでに猛烈なこだわりをみせるのだが、総合的にそれをまとめるという点においては全く疎い不思議な性格。嫌いではないし、実にスゴイと思うが、上手いとはまったく思えない監督さんである(苦笑)。そんなわけで、この人の作品は映画として一つのストーリーを愉しむことはほとんど出来ないのだが、その変質的なこだわりに重点をおいて見るしかなくなってしまう・・・。
この映画も、なんでそうなったのかよく分からないのだけど2部構成。前半の<訓練キャンプ時代>と後半の<戦場>はまったく別の映画といっていい。


前半<訓練キャンプ時代> ☆☆☆☆

ヴェトナム戦争に出て行く兵士を鍛える海兵隊新兵訓練基地。ジョーカー(マシュー・モディン)はデブでのろまのパイル(ヴィンセント・ドノフリオ)たち新兵は、訓練教官ハートマン(リー・アーメイ)から罵声を浴びせられながら8週間にわたる厳しい訓示を受ける。

f0009381_9442537.jpgひとりのミスが部隊全体を危機に陥れる可能性のある戦場をかんがみ、規律違反をしたものの罰は他のメンバーが受けるように指導する教育システム。何をやらせても不器用なデブのパイルは常に教官からも部隊の仲間からも常に非難の的になり次第に精神を圧迫されていく。時間にドーナツを食べたことが発覚したパイルのおかげで他の訓練兵たちは腕立て伏せの懲罰、そのなかで、パイルだけはドーナツを食べることを命じられる。怒りが頂点にたっし仲間たちは、その夜パイルをリンチにかけてしまう。

この逃れようのない精神的な追い詰めかたが実にキューブリックらしい。ぼこぼこにされたパイルは次の日どんな顔をして訓練参加すればよかったのか・・・、その羞恥心と劣等感は恐ろしいものだっただろう。

そんなパイルだが射撃の腕だけは軍を抜いていた。自分のライフルに女性の名前をつけてこよなく愛するパイルにはジョーカーもぞっとするものを覚えるようになる。遂に卒業前夜にトイレで狂気にとりつかれたパイルは、自分を散々いじめまくってきた教官のハートマンを撃ち殺し、自らも銃をくわえて絶命する。

ここでの撃たれる教官のハートマンも実にみていて辛い。多分本人もこれは撃たれるだろうな・・てことは予測していたと思うが、それで教官としてリンとした態度を護り続けている。個人的にはこのときの教官に一番感情移入してしまい、ここは見ていてとても恐ろしかった。


後半<戦場> ☆☆

1968年1月。ジョーカー(マシュー・モディン)は成績優秀だったため、後方のダナン基地において報道隊員として比較的のんびりとした生活を送っていた。そんな彼も戦場カメラマのお供で最前線に同行することになる。廃墟と化したフエ市。偵察中、対面の廃ビルにひそむ凄腕の敵の狙撃兵に一人が狙撃される。
ここからの狙撃兵との戦闘がまた陰湿でいい。

その狙撃兵は、負傷した兵士に致命傷を与えないように手足を狙撃しさらにいたぶる。たまらず救出に飛び出してきた兵士を狙撃する。この人間性の痛いところをついていたぶる狙撃兵が実に冷血でよい。そしてたった一人の狙撃兵に、部隊の半数以上を殺されてしまう。
決死の復讐を誓った生き残ったジョーカーたちは、狙撃兵のいるビルになんとか侵入、狙撃兵を撃って瀕死の重傷をおわせるがまだ年端もいかぬ少女兵であることを知って呆然とする。


勝手な推測だが、本来導入部であるはずの<訓練キャンプ時代>を入れ込んでしまって猛烈なシーンになってしまったのだが、そのシーンに愛着ガ在りすぎて切るに切れなく(きらなくて良かったけど)、もうこのままいっちゃえと、そのバランスが悪いまま行ってしまった感じ。
後半部はべトナムにいってからの主人公、マシューモディンのみたエピソード。またこれもバランスが悪い。ほとんどの見せ場はベトナム少女による狙撃兵との戦いのところだが、ここだけがクローズアップされすぎてて、他のところが映画として機能してないのである(苦笑)。

世間では、「人を狂気に導く戦争を描いた反戦映画」というように評する人もいるが、きっとキューブリックに反戦思想などはまったくないのだろう。そんな表面的な小奇麗さをキューブリックが発言したいとは到底思えない(苦笑)。この人はただ、狂気していく人を描くことがひたすら好きなだけなのだ・・・。
良くも悪くも愛すべき気狂い監督である。

by ssm2438 | 2010-11-21 09:45 | S・キューブリック(1928)
2010年 11月 21日

博士の異常な愛情(1964) ☆

f0009381_6465642.jpg監督:スタンリー・キューブリック
脚本:スタンリー・キューブリック/ピーター・ジョージ
    テリー・サザーン
撮影:ギルバート・テイラー
音楽:ローリー・ジョンソン

出演:ピーター・セラーズ
(マンドレイク/マフリー大統領/Dr.ストレンジラブ)

       *        *        *

ブラックユーモアの映画に名作無し!

世間で「これがいい」って言う人は、ほんとにそう思ってるのだろうか???
個人的にはほとんど笑えるところはなかった。

観るべきモノといえば、B52の描写と円卓の作戦司令室のビジュアルと、最後の核爆弾の連続爆裂シーンだけ。その資料映像にしかならない。スタンリー・キューブリックが監督なだけにこだわりのある映像にはなっていて、そんなこの人の<こだわり力>は大好きなのだが・・・、うむむむむ、駄目だった。
タルコフスキー・アンゲロプロス症候群を引き起こしやすい映画のひとつである。

ジョージ・C・スコット・・・、この人はこんな役がいいね。パットン将軍とかさ。『ハードコアの夜』のあのとーちゃんはどうも違和感があった・・・。

<あらすじ>
精神に異常をきした司令官が突然「R作戦」を発令する。対ソ連の緊急かつ最高の報復作戦である。基地は完全に封鎖され、厳戒態勢がとられた。また哨戒飛行機の全機も通信回路が遮断され、基地からの指令だけしか受けられない。50メガトンの水爆を搭載、直ちにソ連内の第1目標に機首を向けた。

f0009381_6473280.jpg国防省の最高作戦室では、大統領(ピーター・セラーズ)を中心に軍部首脳と政府高官が事態の処理をめぐって激論を交わしていた。議長のタージッドソン将軍(ジョージ・C・スコット)は時間の緊迫を訴え、編隊の呼戻しが不可能な以上、全力をあげソ連に先制攻撃をかける以外道のないことを説いた。
大統領はソ連大使に事態を説明、撃墜を要請した。しかしあらゆる困難をきりぬけ、キング・コング少佐(スリム・ピケンズ)は核ミサイルにまたがり、たったかたああああああっとモスクワに向かって飛び立っていくのだった。地球上のあらゆる場所を核爆発の閃光が彩っていった…。

by ssm2438 | 2010-11-21 06:49 | S・キューブリック(1928)