西澤 晋 の 映画日記

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2010年 11月 19日

デス・レース(2008) ☆☆

f0009381_20584814.jpg監督:ポール・W・S・アンダーソン
脚本:ポール・W・S・アンダーソン
撮影:スコット・キーヴァン
音楽:ポール・ハスリンジャー

出演:
ジェイソン・ステイサム (ジェンセン・エイムズ)
ナンシー・マルチネス (エリザベス・ケース)
ジョーン・アレン (ウォーデン・ヘネシー)

       *        *        *

観衆を描かないイベントなんて・・・

映画って不思議なもので、映画なの中で感動している人を見ないと、感動しないようにできてるみたいだ。映画ではなんでもありの世界なので、「おおおおおお!?」って言ってくれる観衆がいないと、どんなにすごいことがおきても、それがすごいこととして伝わらないのである。しかし、この映画はその観衆がまったく描かれていない。こまったもんだ。

オリジナルの『デス・レース2000年』よりも、お金もかかってるだろうが、なんというか、普通なんだよね。『デス・レース2000年』ってカスな映画なんだけど、やっちゃってる感があるのでインパクトがある。人口増加のために、車で人をひき殺してもOKのレースでというコンセプトもすごいけど、ひき殺したカテゴリーによってポイントが違ってくる。女性だと10ポイント、それが未成年だと40ポイント、12歳以下の子供だと70ポイント、75歳以上の老人をひき殺した場合は100ポイントが得られる・・とか、「これってやっちゃってもいいんですか?」っていうところを行ってしまってるがゆえに希少価値があるんだと思うな。
しかしこの2008年に作られた『デス・レース』だと、普通にきちんとつくってるだけで、そういった<突き抜けた感>ががないのでインパクトがとぼしい。

今回の映画は、全開の「人口が増大した」んじゃなくて「犯罪者が増大した」になっている。で、刑務所を民間に委託したら、そこでは、囚人をドライバーにして「デスレース」が行われていて、それがテレビ中継されている。5勝すると自由があたえられるというもの。負ければそこでひき殺されるなり、事故死するなり、それで終わり。今回はそんな設定でした。
やってることは『バトル・ランナー』と同じかも。これ、『デスレース2000年』のリメイクというよりも、『バトル・ランナー』のリメイクを、デスレースモードでつくってみました・・って感じの映画だ。

<あらすじ>
元レーサーのエイムズ(ジェイソン・ステイサム)は製鉄所で働きながら、妻と幼い娘と暮らしていたが無実の罪で刑務所にいれられてしまう。そんな彼は、刑務所長ヘネシー(ジョアン・アレン)から、フランケンシュタインという覆面レーサーのふりをしてデスレースに出場しないかと要請をうける。エイムズは娘と再会するためレースに挑む。

by ssm2438 | 2010-11-19 20:59
2010年 11月 18日

デス・レース2000年(1975) ☆

f0009381_21712.jpg監督:ポール・バーテル
製作:ロジャー・コーマン
脚本:ロバート・ソム/チャールズ・B・グリフィス
撮影:タク・フジモト
音楽:ポール・チハラ

出演:
デヴィッド・キャラダイン (フランケンシュタイン)
シモーネ・グリフェス (アニー)
シルヴェスター・スタローン (マシンガン・ジョー)

       *        *        *

設定年度が2000年だから今からもう10年も前におきていた話架空の話。

全国ネットのTV中継される大陸横断のデスレース。その国民的ヒーローはフランケンシュタイン(デイヴィッド・キャラダイン)。怪しいマスクをかぶった謎の男である。フランケンシュタインの助手はアニー(シモーヌ・グリフィス)は革命軍のスパイで、この殺人レースを阻止し、現政権を倒して、新しい平和な社会を取り戻すことが目的としている。最後まで残り、完走するフランケンシュタインし、彼を祝福するために大統領が出迎える。その大統領を狙うアニーだが失敗。しかし、実はフランケンシュタインもまた大統領の命を狙っていた。彼の右手には爆弾がしこまれており、大統領と握手した時、彼もろとも自爆する計画だった。その計画は失敗するが、大統領を抹殺することに成功した彼は、後に新大統領となり、アニーと結婚、デス・レースは廃止するのだった。

人口が増えすぎたとかで、大陸横断レースだけどその道中人をいくらひき殺してもかまわないとう、まさにロジャー・コーマン的な設定(苦笑)。参加する車もほんの4台でまる『マッハGO,GO,GO』的なノリ(?)。ドライバーも車も仮装行列状態。のちに『ロッキー』で一躍有名になるシルヴェスタ・スタローンがチープな敵役でトンマな味を出している(苦笑)。
主役のデイヴィッド・キャラダインも、シモーヌ・グリフィスとベッドで絡むシーンがあるが、その女性っぽい貧弱な身体はアメリカの男性ヒーローとしてしてはどうなん??って思ってしまう。

by ssm2438 | 2010-11-18 21:22
2010年 11月 17日

未知への飛行(1964) ☆☆☆☆

f0009381_20232052.jpg監督:シドニー・ルメット
脚本:ウォルター・バーンスタイン
撮影:ジェラルド・ハーシュフェルド

出演:
ヘンリー・フォンダ (大統領)
ダン・オハーリヒー (軍最高責任者ブラック将軍)
ウォルター・マッソー (軍事専門家グレテシュール)

       *        *        *

ガチで取り組んだルメットの勇気を称えたい!

ビデオ/DVD発売では、『未知への飛行 フェイル・セイフ』のタイトルになっている。『FAIL SAFE 未知への飛行』というリメイクのTMVもある。実はこちらのDVDも買ったはずなのだが、みてないままになっている。どこいったんだろう? サンライズの机に置きっぱなしのような気がする(苦笑)。

1962年のキューバ危機以降、核戦争の恐怖を謳った映画が何本か作られた。スタンリー・キューブリック『博士の異常な愛情』もその一つだが、あれはブラック・ユーモアに逃げてしまった。こういうとてつもない物語というのは、マジに作るとどこかしらうそ臭くなってしまうもので、それを避けるためにははじめから白旗あげてブラックユーモアで作るほうが懸命というもの。それを正面きって挑んでしまったのがこの映画。

最後はやはりチープに感じてしまったこの映画だが、ではどうこの話をまとめたらホントらしくなるのか・・?と考えると、その答えは見つからない。おそらくどんなエンディングを用意しても、お話はチープになるだろう。その時どう人間が対処すべきなのか分らないのだから。
どんな方向性を模索したとしてもその答えが見つからなければ、最後の決断をする前に物語をおわらせて、見ている人に下駄を預けるというのも一つの手段だろう。もっとも有効で卑怯な手段はブラックユーモアに逃げるというのが一番安易な方法で、無責任に突き抜けて、これはブラックユーモアの映画だから」と言えばいい。
しかしシドニー・ルメットは答えまで出してしまった。それがスゴイ。

ちなみに、今回は軍の最高指揮官であるブラック将軍は穏健派で、軍事専門家グレテシュールは戦争推進派である。

このタイトルにある《フェイル・セイフ》とは「帰還可能ポイント」のことで、そのポイントを越えると引き返すことができなくなるという軍事的ポイントのこと。しかし一般的な概念も含んでいることは言うまでもない。一般的な《フェイル・セイフ》の概念は、「誤操作・誤動作による障害が発生した場合、常に安全側に制御する」という信頼性設計の概念である。

<あらすじ>
安全照合装置が故障したため間違った指令を受けてしまった、グレーディ大佐(エドワード・ビンス)率いる爆撃機の編隊は目標モスクワをめざしてソ連領内に侵入してしまう。事態はペンタゴンとホワイトハウスに報告された。ペンタゴンでは国防長官を中心に、政治学者のグレテシュール(ウォルター・マッンー)とブラック将軍(ダン・オハーリー)らが協議する。グレテシュールは「もう止められないのなら、この際ソ連を徹底的に叩くべきだ。たとえソ連の反撃をうけてもまだアメリカには生存者がいるのだから」と主張。ブラック将軍は、全世界的殺栽は防がなくてはならないと反論する。大統領(ヘンリー・フォンダ)はホットラインを通じてソ連首相に「領空侵犯は間違いであり、こちらではどうすることもできないので、ソ連側で射ち落してくれ」と依頼する。

この描写が実に怖い。
総ての情報を排除するために密室にこもった大統領が通訳一人を携えてホットラインでロシアの書記長と話をする。大統領は、通訳に、言葉の内容だけでなく、相手の反応のニュアンスまでも再現するように要求する。会話と会話との間が実に怖い。

軍内部では、ソ連側にグレーディ隊機の特徴を教えよ、という命令に反抗する幹部もでてくる。グレーディ編隊機のうち4機は射ち落されたが、グレーディ機だけは攻撃をかわしてモスクワに到達。モスクワのアメリカ大使館に電話がつながれており、ある一瞬にキュイイイインっという高音が発せられるとそこから電話は沈黙する。米ソ両国の全面戦争を回避し、ソ連にモスクワ爆撃が機械の故障であることを納得させるため、大統領はブラック将軍にニューヨークの核爆破を命じた。


個人的にはこの『続・未知への飛行』が観たかった。
ヘンリー・フォンダ扮するあの大統領はあのあとどうしたのだろう?
・・・・自殺はしないだろうなあ・・・。多分誰か・・・、恨みをもった人に殺される日まで、待つような気がする。その日が来ないかもしれない。来るかもしれない。きっと世間に罵声を浴びせられながら、政府の保護下で暗殺されるまで生かされていくのだろう。そのときまでの彼の日常を描いてみてほしかった。

by ssm2438 | 2010-11-17 20:24 | シドニー・ルメット(1924)
2010年 11月 16日

失われた時を求めて(1962) ☆☆

f0009381_2272696.jpg監督:ジョン・フランケンハイマー
脚本:ジョージ・アクセルロッド
撮影:ライオネル・リンドン
音楽:デヴィッド・アムラム

出演:
フランク・シナトラ (マーコ)
ローレンス・ハーヴェイ (ショー)
ジャネット・リー (ロージー)

       *        *        *

あれ・・?? フランケンハイマーがヒッチコックやってるぞ。

今では『影なき狙撃者』としてDVDは出ている。
しかし、私が買ったのはレーザーディスクで、そのときのタイトルが『失われた時を求めて』だった。劇場公開時のタイトルも『失われた時を求めて』だったので、今回のタイトルはこちらにした。

ダイヤのクウィーンをみると殺人者にかわる暗示をかけられたソ連からの帰還兵の話。
地味に無骨で好きなジョン・フランケンハイマーなれど、この映画は地味につまらなかった(苦笑)。はずれた時にフランケンハイマーはこんなものである。

まじめにこつこつと理詰めて説明的に積み重ねていくのだが。このへんがドキュメンタリー出身のフランケンハイマーの良いところでもあり、はずれた時は退屈なところでもある。しかし、今回の映画ではどことなくヒッチコックを意識したつくりになっていて、これが今ひとつ真実味を帯びてこない。ヒッチコックの作り方というのはどうしても作劇的な説明映画であり、リアリティではなく、作為性が全面に出る映画のスタイルだ。なのでドキュメンタリータッチという、真実味を本質にしているフランケイハイマーのタッチにはそぐわない。
その不協和音がこの映画をもたもたして見せてしまう。
しかしそれがこの映画のつまらない根幹ではない。問題は、ソ連による「洗脳」というものにリアリティを描き出せなかったことだろう。それがファンタジー的なものでしかなかったで、そのあと展開されるアメリカ国内でのサスペンスが今ひとつ白々しいものになってしまった。ただ・・、ソ連のスパイたちが、バックアップの組織をもっているなどのなかなか面白くみせる部分もあり、これが今の時代で、もうすこし洗脳の過程や描写にリアリティが植えつけられれば、これはこれでとっても面白いものになるのではないかとも思った。

・・・実は既につくられていたのですね。『クライシス・オブ・アメリカ』。こちらは洗脳チップを埋め込んでるらしい。観てないのでそのうち観てみよう。

しかし・・・、私がソ連の幹部だったら、誰かを暗殺をするならプロの殺し屋を雇い、洗脳はばれないようにさりげなく、洗脳した人を社会のなかにひっそりと送り込んで、さりげなく共産主義を展開させていくほうを選ぶな。人を暗殺するのに洗脳した人間にやらせるのでは、その洗脳にかかる研究費とそのバックアップ、そしてどこまで確実なのか・・ということを考えると、あまり有効だとはおもえないのだけど(苦笑)。

この映画は62年に公開されたのだけど、おそらく制作されたのその前年あたりなのだろう。当時の雨意rかは59年あたりからアメリカとキューバの関係がこじれだしてきているさなかであり、この映画が公開された62年の10月には、いわゆるキューバ危機と呼ばれる緊張の13日間を経験することになる。
そんな時代背景だけに、この映画には、反共産主義のプロパガンダとしての意味もあったのだろう。

<あらすじ>
朝鮮戦争のさなか捕虜になった、ベン・マーコ大尉(フランク・シナトラ)の小隊は、ソ連の心理学者イェン・ローの研究する洗脳の実験体にされた。そんな彼らも本国に送還される時が来る。帰国後、ワシントン諜報部に勤務したマーコ大尉は、不思議な夢ばかりを見る。マーコは夢の原因を探ろうと、心理学者や脳外科の診察を受け結果、洗脳されたことが判明する。ワシントン諜報部はCIAやFBIを動員して帰還兵をあらった。
一方、同じ部隊に所属していたレイモンド・ショウ軍曹(ローレンス・ハーヴェイ)はジョーダン議員の娘ジョシーと結婚し、ニューヨークで新聞記者となっていた。ショウの母親は、夫のアイスリンを副大統領にしようと根回ししていた。息子の妻の父親であるジョーダン議員は頑強に反対された。
その晩、ジョーダン議員とショウの妻ジョシーは何者かに射殺された。
犯人はショウだった。マーコはトランプによる催眠のメカニズムを暴露し、それを聴いたショウは、自分が妻とその父親を殺したと知って愕然とした。実はショウの母親こそが共産圏のスパイであり、彼を操っていたのだ・・・。

by ssm2438 | 2010-11-16 22:11 | J・フランケンハイマー(1930)
2010年 11月 15日

リバー・ランズ・スルー・イット(1992) ☆☆☆☆☆

f0009381_4401697.jpg監督:ロバート・レッドフォード
脚本:リチャード・フリーデンバーグ
撮影:フィリップ・ルースロ
音楽:マーク・アイシャム

出演
ブラッド・ピット (ポール・マクリーン)
クレイグ・シェイファー (ノーマン・マクリーン)
トム・スケリット (マクリーン牧師)
ブレンダ・ブレシン (マクリーン夫人)
エミリー・ロイド (ジェシー・バーンズ)

        *        *        *

この手の映画には弱いんだ。

ロバート・レッドフォードがブラッド・ピットを主演に据えて描いた自然との調和。私のなかでの“自然との一体感映画”は『リバー・ランズ・スルー・イット』『レジェンド・オブ・フォール』『バガーヴァンスの伝説』の三本かな・・。そのうち2本はブラッド・ピット、そのうち2本はロバート・レッドフォード。この二人は貴重な人々だ。
レッドフォードがやってるのは「魂のヒーリング」と「自然との調和」、このふたつ。どの映画においてもそう。この映画は「自然との調和」がメインになってる。

しかし、『リバー・ランズ・スルー・イット』に関しては判る人にしかわからない映画だと思う。判らない人には全然チャンネルが合わない。ほとんどのエンタな監督さんは、シナリオ上で、「こうなって、こうなって、ここでこれを終わらせて、残ってる問題はこれで、こうなってるから、ここでこうしたら物語りは完結する」って物語を閉じるのだけど、レッドフォードが魅せるのはシナリオに書かれている台詞やイベントじゃなくて、その文字と文字の間にある行間。イベントを見せるのではなく、伝えるものを感じさせる演出。伝えるものは劇中で語られない。スピリバーグの映画みたいに、伝えるもを見せてしまう映画に慣れさせられていると、こういう映画は「なにこれ?」ってなる。イベント映画専門の人はパスしたほうがいいだろう。

役者としてはいまいち作品には恵まれなかったほうだとおもう・・。印象にのこるは候補者ビル・マッケイとギャッツビーとサンダンスだけだし・・・でも美貌も図抜けてるし、監督としのて才能は天才的に図抜けてるし。

<あらすじ>
かわらぬ大自然のなかで、あるときは父と息子二人で、あるときは息子二人だけで、そして最後は息子一人だけで釣り(フライフィッシング)をするだけ。。。

なんとすばらしい映画だ。。。

by ssm2438 | 2010-11-15 04:17 | R・レッドフォード(1936)
2010年 11月 14日

ビューティフル(2009) ☆☆

f0009381_22454828.jpg監督:ディーン・オフラハーティ
脚本:ディーン・オフラハーティ
撮影:ケント・スミス
音楽:ポール・マック

出演:
セバスチャン・グレゴリー (ダニー)
タヒーナ・トッツィ (スージィ)

       *        *        *

いやいや以外、画面はしっかりしてる!?

どうもこの手の最近の映画は、やたらと目先の変化だけをもとめたキワモノ系画面を作る人がおおいのだが、この監督さんはしっかりした画面をつくっている。デヴィッド・リンチを意識した演出なれど、画面のセンスがいいので安心してみられる。しかしこの話自体はそれほどいただけるものではないが、次回作はみてみたい気になった。

お話は、妄想にとりつかれたカメラオタクの少年ダニー(セバスチャン・グレゴリー)が殺人事件をおかしてしまうというもの。演出的にはトリッキーな手段をつかっており、ヒロインの女の子スージィ(タヒーナ・トッツィ)の母親の語りで、過去に失踪し死体で発見された女の子の描写が描かれる。バスから降りたその少女は家路にむかって夜道を歩いていくのだが、それを黒い車が追っていく。この車も、後に主人公が犯人と勘違いする男が乗っている車をそのまま使っているので、観ている人はその車の持ち主が犯人であるとどうしても思い込んでしまうのだ。さらに第二、第三の失踪事件。
・・・しかし、よくよくみると、この描写が実際におきたものではなく、どうもヒロインの母親の創作といいうか妄想というか・・そんな物語構成のようだ。それでも見ている人は、その画面から入らされるので、それが実際に起きた事件だとどうしても思い込んでしまうのである。

そして隣の家に住むちょっと魅力的なスージィに誘われるままに、46番地の家を調べ始める。およそもてそうに内オタク少年ダニーは、彼女に言われるままにその家や、その家にする女性の写真を取ろうとする。その家というのが、昔からレイプ事件やらなにやらつねにきなくさい話題がつねについてまわっていた家で、長い間誰も寄り付かなかったのだが、今は一人の女性が住みつきいつも窓から外を見ているという。
その女性となんとか接点をもったダニーは、その家にもう一人の男が住みついていることを知り、彼の写真をとる。その男は嘗てレイプ犯として逮捕された経験をもっていた。さらにスージィが何者かに誘拐される事件がおきる。ダニーは、彼こそが犯人だと信じ、警官である父の拳銃をもってその家に乗り込む。しかし・・・スージーは誘拐などされておらず、実は自作自演のお遊びだった。そのことをしらないダニーは彼に迫り、もみ合いの末彼を撃ち殺してしまう・・・。

結局主人公のダニーが、性悪女に振り回され、妄想の延長で殺人を犯してしまうという話。
達成感のような高揚感もなく、一生懸命空回りしているだけの主人公を延々みせされたあげく、エンディングがこれかい??みたいな終劇であり、すっごく時間を無駄にしたような感覚におちいる映画だった(苦笑)。

by ssm2438 | 2010-11-14 22:49
2010年 11月 12日

男と女(1966) ☆☆☆☆

f0009381_21342875.jpg監督:クロード・ルルーシュ
脚本:ピエール・ユイッテルヘーベン/クロード・ルルーシュ
撮影:クロード・ルルーシュ/パトリス・プージェ
音楽:フランシス・レイ

出演:
アヌーク・エーメ (アンヌ)
ジャン=ルイ・トランティニャン (ジャン・ルイ)

       *        *        *

この映画、男と女の業を語るような映画ではない。

見る前は(もう20年以上も昔のことだが)、すっごくロマンチックな映画だろうって思ってたら、意外やかなりリアリティのありそうな、子持ちの片親同士の恋愛模様の映画だった・・。

しかし、映画のなかでは、リアリティのありそうな話をサラリと流してしまう。物語と物語の語り口のバランスの悪さを、いったん頭の中で解体し、そのうえで並べなおし、それをお洒落に撮っているというかなり変な映画である。ストーリーの本質などはどうでもよく、そこを追求しないで、全体としてムードに浸る映画べき映画としてつくられている。 宇多田ヒカルの音楽みたいなものです。歌詞はあるのだろうがさほどどうでもよくって、その全体の雰囲気をなんとなくさらりと耳のなかにながしこむような・・あの感じ。

この映画の一番印象にのこるのはなんといってもフランシス・レイのあの『男と女のテーマ』だろう。ただ、この曲がこのドラマの世界観にあっているのだろうか・・?と考えるとちょっと違うような気がする。ドラマ性と音楽との不一致なのである。

考えてみればタイトルも不可思議だ。男と女というよりは、お父さんとお母さんなのだ。離婚したわけではない片親同士のふたり。男はレーサーで、嘗て事故を起こした時、ショックを受けて妻は自殺した。女も夫もなくしているが、いまだに彼を想っている。ドラマは、冒頭にも書いたのだが、夫と死に別れ、働きながら子持を育てているアヌーク・エーメと、同じく妻に先立たれた子持ちジャン=ルイ・トランティニャンが、お互いの子供の存在を交えながら、大人の恋愛をしていくという話。ただ、子供という存在があるがゆえに、彼等がドラマのなかで求める相手は「現実」をシェアできる相手であること。さらに、男はレーサー、女は一般人である。おかげでロマンスなんてものはどこかにとんでいきそうなかみ合いの悪さ。
さらに、映像もでたらめに白黒画面がはいってくる。望遠と広角が入り混じる。そこに特に法則性こうちくしようとはしていいな。見る前はかなり不安を抱いていたが、見てみるとそれほど邪魔くさくはなかった。

ラリーのあと、アヌーク・エーメと二人の子供のもとに車を走らすジャン=ルイ・トランティニャン。そして桟橋のシーン。3人をみつけたのだろう、桟橋を車を走らせるシーンから、浜辺で遊ぶ3人を手前にかなりのボケをかまし、その後方にのりつけるジャン=ルイ・トランティニャン。この望遠のカットはすばらしい!
そのあとライトをパッシングさせるところは広角で、また、そのライトの点滅に気づいてジャン=ルイ・トランティニャンのもとに駆け出す3人は望遠である。このアンバランスさが、不思議なほど悪くない。

この映画はコラージュなのである。物語の断片や、不規則な撮り方を、ぺたぺたぺたと一つの敷紙にはりつけ、その上からフランシス・レイの音楽でオブラートで包む。本来愛称の割りそうな断面も、フランシス・レイの音楽が暖衝剤になっていて、さりげなくまろやかにつながってしまう。ストーリーを追うような話ではなく(一応あるのだが)、雰囲気を味わう映画だ。

<あらすじ>
ある日曜日、寄宿舎にあずけてある娘の面会でつい長居してしまい、職場であるパリにもどる列車をのがしてしまったアンヌ(アヌーク・エーメ)。そんなアンヌに声をかけたのはジャン・ルイ(ジャン・ルイ・トランティニャン)だった。彼も息子を訪ねた帰りだった。アンヌはジャンのいうとおり、パリに向かう車に同乗させてもらう。
アンヌの面影を忘れられなかったジャンは、「次の日曜も自分の車でドービルへいかないか」と電話をかけた。アンヌとジャン・ルイ、そしてそれぞれの子供たらの四人は和やかな時間を過ごした。
レースを終えたとき、ジャン・ルイはアンヌからの電報を受けとった。それには「愛してます」と書いてあった。彼はすぐに車を駆ってパリへ、そしてドービルへ。その夜は安宿のベッドに裸身をうずめた。だがアンヌは死んだ夫の幻影を思い出す。二人は黙々と着物を着た。アンヌは汽車で、ジャン・ルイは自動車でパリへ向った。しかしアンヌを忘られぬ彼は車で彼女の列車を追った。駅のホームに降りたアンヌはジャン・ルイを見つけ二人は口づけを交わした。

by ssm2438 | 2010-11-12 20:25
2010年 11月 12日

フェリシアの旅(1999) ☆☆

f0009381_6334551.jpg監督:アトム・エゴヤン
音楽:マイケル・ダナ

出演:
エレイン・キャシディ (少女フェリシア)
ボブ・ホスキンス (中年男ヒルディッチ)

       *        *        *

スウィート・ヒアアフター』アトム・エゴヤン監督作品である。当時、『スウィート・ヒアアフター』を見た後だったので、無性に見たくなって劇場に足を運んだ映画だった。ただ・・、これは思ったよりも普通なできばえ。悪くはないのだけど・・・。

ただ、一つだけ明確になったことは、アトム・エゴヤンって少女愛好家だということだ。ロリーというよりもそれよりちょっと上の14~16歳あたりのハイスクールに入りたてのころの女の子が好きそうだ。といっても私がみたエゴヤンの映画はこの2本とあと『エキゾチカ』の3本だけ。しかし、この3本をみるだけでもその性癖が如実に伝わってくる(苦笑)。

17歳の少女フェリシア(エレイン・キャシディ)は、連絡がとだえた恋人ジョニーを探しに故郷のアイルランドをあとにした。バーミンガムへたどりつたフェリシアだが、行く宛てもなく不安げに通りにたたずんでいたそこに優しそうな初老の男ヒルディッチ(ボブ・ホスキンス)が声をかける。地元のレストランの支配人である彼は、一見親切そうだが、実はひとり旅の少女に声をかけては家に連れ込んで殺している殺人鬼だった。そして何度かの偶然を装いながら、ついにターゲットであるフェリシアに彼の屋敷へ呼び寄せることになる。

f0009381_634968.jpgこの映画、少女誘拐犯の男を扱ったサスペンスなのだが、物語のポイントはそこではない。孤独な二人の心の触れ合いなのだ。
ヒルディッチというキャラクターは、そこそこ大きな屋敷に一人で住んでいる。多分その庭の地面の中には殺された少女たちの遺骨がうまっているのだろう。そんな彼の趣味は、彼の母親(既に死亡している)のビデオを観ながら料理をつくること。彼の母は人気料理番組の料理人だった。テレビを見ている前の人々にむかって快活なトークで料理の作り方を教えていく彼女はなかなか魅力的な女性にみえる。しかしヒルディッチはその女性から愛を感じたことはなかったようだ。
そんなわけで、彼は女性の愛を信じていないのである。
女とは、

男に対して愛想をふりまくだけで、心底から男を愛することはない。

・・そう、それを知っているのである。だからなのだろう、この男は女の子を誘拐しては、そのことを確認し、それが確認できれば殺していく。自分が愛されなかったのも仕方がない・・と納得しているのだろう。
物語のメンタリティの構造としてはなかなか悪くない構成だ。

ヒルディッチの女性観は、実にミケランジェロ・アントニオーニの愛の不毛3部作(『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』)的な捕らえ方ににている。ただ、この映画にいたってはそこに母親の愛までもを否定しているところは例外的な要素だ。そしてこの要素こそが、アントニオーニのような真実追求型のドラマではなく、サスペンスとして成り立たせている要素なのだ。
そして、とことん少女に愛されたいアトム・エゴヤンは、最後に主人公を信念を、フェリシアによって打ち砕かせるのである(苦笑)。

フェリシアは元彼(本人はまだ彼だと思っているのだろうが)の子供を妊娠していた。ヒルディッチの言葉に、フェリシアは中絶手術を受ける。手術後、体力を失って床につくフェリシアに魔の手を伸ばそうとするヒルディッチ。だが結局、ヒルディッチは彼女の純粋さの前に屈する形で、手をかけることなく彼女を逃がし、自ら首をつって命を断つのだった。

映画としては悪くないのだが・・・、なにかイヤなのが、アトム・エゴヤンの女の子に愛されたい願望が、どうも鼻につくところ。正直なのはいいが、この映画の向こう側にそれを強烈に感じるので、ある種の嫌悪感がぬぐいされないのである。

by ssm2438 | 2010-11-12 06:44
2010年 11月 12日

天国から来たチャンピオン(1978) ☆☆☆☆☆

f0009381_1552930.jpg監督:ウォーレン・ベイティ
    バック・ヘンリー
脚本:エレイン・メイ
    ウォーレン・ベイティ
撮影:ウィリアム・A・フレイカー
音楽:デイヴ・グルーシン

出演:ウォーレン・ベイティ
    ジュリー・クリスティ
    ジェームズ・メイソン

     ×     ×     ×

しかし、いつからウォーレン・ビューティはウォーレン・ベイティになったんでしょう? 『ディック・トレイシー』のあたりかな? 我々の時代には、どうしてもウォーレン・ビューティのほうが馴染むのになあ。 どうも好かんですね。

ま、そんなことはさておきストーリーは、ロサンゼルス・ラムズのクウォーター・バックのジョー(ウォーレン・ベイティ)は、ある日交通事故に遭ってしまい、天国にめされてしまった。しかし、その判断は新米天使のはやとちりと判明、ジョーは即刻地上に舞い戻ることになったがすでに彼の肉体は火葬された後だった。
しかたなくジョーと天使長ジョーダンは、ジョーの魂のために新しい住処を物色しはじめるが、クウォーター・バックをやれそうな身体の持ち主はなかなかみつからない。そんなわけで、内縁のもつれから妻に殺される運命にあった大富豪の青年実業家、レオ(ウォーレン・ベイティ)の身体にしばらく間借することになる。そのレオが経営する会社は英国の田舎街に工場を作ろうとしているのだか、「公害ともたらす」と地元住民の反対にあい、その抗議団体の代表者としてベティ(ジュリー・・クリスティ)がレオ邸を訪れていた。

彼女に感銘をうけた(一目惚れした)ジョ-は会社の役員会議で工場建設計画を放棄決定、ベティーもそれまで憎しみの対象でしかなったレオに対してとまどいながらも恋愛感情を抱くようになる。二人の気持ちが出来上がってしまった以上、もうこの身体を放棄することはできない。そんなわけで、「もう、新しい身体探しはいい、この身体でスーパーボウルを目指す」と方針変更、ジョーはかつてラムズの時に世話になったトレーナーをよびよせ、豪邸内にジムを作り、使用人たちを相手に広い庭で体力強化。
まるで英会話を再起動させた私のように、がっつんがっつんやり始めるわけです。 「出来ない」なんて考えない。 それが目標なら、そこまでの道筋をひとつひとつクリアしていけばいいだけ! この世の中の総てのことは、もう出来るように出来ているのです。 ただそこに到達するには、ちょっと時間がかかるものと、かなり時間がかかるものとの違いがあるだけ。

やがて身体も出来てきて、いよいよラムズのクウォーター・バックとしてのテストの日。 グランドにはかつてのオーナーが苦虫噛み潰しています。  「あのやろう、『ラムズが欲しいんだが、いくらなら売る?』   というから◯◯◯◯万ドルだとふっかけたら、払いやがった」 ジョーはラムズを買い取り、オーナー特権でクウォーター・バックとしての入団テストをうけてるわけです。 でも、そんなの現場の人間にしてみれば受け入れられるわけもなく、オフェンス、ディフェンス一緒になってジョーをぼこぼこにしていく。
「お前たちの気持ちはわかる。時間を省かせてやる。一度でいい、ボールをきちんとまわせ。それでダメなら諦める」 で、ジョーにボールを渡してみるとこれが、出来ちゃうんですよ。 「あれ、やるじゃん。もしかして使えるかも‥‥。こりゃすごいや‥‥」、ついにラムズのクウォーター・バックの地位 を手に入れてしまう。

総てが上手くいっていたそのとき、天使長ジョーダンが再びあらわれ、その身体はもうすぐ使えなくなることを告げる。彼の妻とその愛人が再び殺人計画をねっていて、彼はその銃弾にたおれる運命にあるそうな。 事の次第をベティに話すジョ-だが、理解されるわけもない。「もし君が、次に恋をするとしたら、きっと彼はクウォーター・バックだ‥‥」 静かにわかれたあと、豪邸に銃声がこだまする。主人のいなくなったレオ邸、刑事がきて関係者に聞き取り調査をおこなってる横に、魂の存在となったジョ-と天使長ジョーダンもいる。テレビではスーパーボウルを放送しているが、誰もきにしてはいない。その場にはいれないトレーナーの◯◯だけがそのテレビをみていると、ラムズのクウォーター・バックが試合のさなか負傷、タンカでフィールドのそとに運ばれて行く。アナウンサーの声も心配そう。 お互いに顔をみあわせるジョ-と天使長ジョーダン。ぴくりとも動かないそのクウォーター・バック。 心配する場内の総ての人々‥‥、が次の瞬間、何事もなかったかのように起き上がりフィールドにもどっていくクウォーター・バック。 どよめくグランド‥‥。それを観ていたベティは、なにかを感じ取ってグランドにタクシーをとばす‥‥。

この映画、ほんとにいいですね~~。 ウォーレン・ベイティのなかでは最高傑作だと思います。 ファンタジックなシチュエーションですが、しっかり出来ている。 殺人とかもあるけど、どこかコケティッシュにつくられていて、そこに暗さはない。 とにかく前向きに、そしていつも走っているウォーレン・ベイティがとっても素敵。
そしてもう1つこの映画を美しく魅せてる要因があって、それは撮影のウィリアム・A・フレイカー。 この人の画面も好きです。 とくにこの『天国から来たチャンピオン』は美しい画面 をつくっていますが、 ほかにも、 『イルカの日』 『ウォーゲーム』 『シャーキーズ・マシーン』 『ミスター・グッドバーを探して』 『未知との遭遇』 『ローズマリーの赤ちゃん』…etc、 色をめりはりをつけつつ渋い画面 をつくります。 ついつい渋い画面 づくりといえば、『マトリックス』みたいな彩 度をおとしてコントラストを強くした画面 ってイメージがあるますけど、ウィリアム・A・フレイカーは色をみせつつ、なおかつ軽くしないテクをもっているような‥‥、そんな気がしますね。この人の画面 はとっても格調があるのに見易いのです。素晴らしい。

by ssm2438 | 2010-11-12 04:58 | W・A・フレイカー(1923)
2010年 11月 10日

ジョー、満月の島へ行く(1990) ☆

f0009381_845396.jpg監督:ジョン・パトリック・シャンリー
脚本:ジョン・パトリック・シャンリー
製作総指揮:スティーヴン・スピルバーグ他
特撮:ILM

出演:
トム・ハンクス (ジョー)
メグ・ライアン (ディーディー/アンジェリカ/パトリシア)

       *        *        *

トム・ハンクス&メグ・ライアンのゴールデンコンビの初タッグなれど・・・

日本では劇場公開は見送りになり、ビデオ発売だけだったのだが、『恋人たちの予感』メグ・ライアンが良かったので、運悪く私はこのビデオを借りて見てしまった(苦笑)。メグ・ライアンが出た映画の中では『プロミストランド』と並んで最低だろう。

サラリーマンのジョー・バンクス(トム・ハンクス)は病院で検査を受けると、脳に雲がかかっていると診断され、余命半年と告げられる。ヤケになったジョーは、以前からむかついている会社の上司に逆切れ、気になっていた女の子(メグ・ライアン1号)を食事に誘うが、自分があと少しで死ぬことを彼女に告げると彼女は去っていった。
そんな彼のところに奇妙な依頼が舞い込む。その依頼を持ってきたのは、とある南の島でレアメタルを掘り出そうとしている会社社長で、その島の原住民との交渉で、火山の生贄になってくれる人を探してくれれば、その原料は渡すということになっているらしい。余命もあと半年といわれたジョーはその申し出を引き受けてしまう。
翌日、カリフォルニアへとんだジョーは、その会社社長の娘であるアンジェリカ(メグ・ライアン2号)の出迎えをうける。アンジェリカからグレイナモアのもう一人の娘パトリシア(メグ・ライアン3号)に引き継がれたジョーは、いざ南の島へ旅立った。
島では火山の生贄にされるが、最後どっかああああああああんと火山が爆発、その勢いで飛ばされたジョーとパトリシアは助かり、病気もなんだか治ってるみた・・という話。

話もどうでもいいのだが、見せ方もチョーダサい。ギャグもセットのダサさもすべりまくり。まだ、前半はいいのだが、島にいってからのセットのひどさはまるで学芸会レベル。『ゴジラ対キングコング』とか、『モスラ対ゴジラ』のインファント島のようなダサさである。それらは60年代の映画なのでまだゆるせるが、90年代の映画でこのダサいセットには驚愕してしまう。

本編のなかで、メグ・ライアンが3役をこなしている。ストーリーが展開するにしたがって、トム・ハンクスにからんでくる女性が3人でるのがだ、これが全部メグ・ライアン。しかし、特にそうする必要があったのかどうか・・、そうする意味があったのかどうか・・、少なくとも映画のなかでは、そうする必要性はまったく描かれてなく、彼女を3役させることにまったく意味がないという構成倒れもいいところ。
主人公といい感じになりかけるが直ぐに別れが訪れ、そこで期待がぶつ切りになるのでまったく興ざめさせられる。それが2度もあるので最悪。いくら同じ役者がやってても、物語のなかでは人格が違うのだから、みているわれわれにしてみれな、この主人公は誰でもいいんだ・・と理解してしまう。

・・・ふと考える。もし、一番最初に登場したテディをメグ・ライアンにして、姉のアンジェリカは別の人にして、実はその大富豪の娘はテディだったということで、後半を展開してたらなにか問題があったのだろうか?

才能のないピッチャーが「ボク、ストレートはダメなんでカーブなげてみます」って言って、実はカーブも投げられるわけはなく、すっぽ抜けのとんでもないへなちょこ暴投をしてしまったような映画でした。

by ssm2438 | 2010-11-10 08:52 | S・スピルバーグ(1946)