西澤 晋 の 映画日記

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2011年 01月 31日

ギルバート・グレイプ(1993) ☆☆☆

f0009381_939558.jpg監督:ラッセ・ハルストレム
脚本:ピーター・ヘッジズ
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:アラン・パーカー/ビョルン・イシュファルト

出演:
ジョニー・デップ (ギルバート・グレイプ)
レオナルド・ディカプリオ (アーニー・グレイプ)
ジュリエット・ルイス (ベッキー)
メアリー・スティーンバージェン (ベティ)

       *        *        *

やさしい映画なれど・・・これでいいのか?
選択をしない人間には魅力を感じないのだが・・・。


最後、オビーストの母が死んで、ギルバートは解放されるのだけど、個人的にはかられを見捨てて出て行く話のほうが良かったなあ。で、他のみんなも、それを許してあげる・・みたいな展開のほうが。

<あらすじ>
アイオワ州の田舎町に住むギルバート・グレイプ(ジョニー・デップ)にはとにかくしがらみがいっぱい。家ではデブの母親がいて、肥大化しすぎて動けないし床もぬけそう。さらに弟のアーニー(レオナルド・デカプリオ)は知的障害者。父は17年前に自殺し、姉と妹の面倒もみなければならない。ある食料品店につとめているが、近くに大型スーパーが出来てしまい見せもはやらない。楽しいことなどなにもない生活。彼になにかしたいことがあっても、出来ることといえば店の常連客ベティ・カーヴァー(メアリー・スティンバージェン)との不倫くらい。
そんななんの生産性もない生活にしばられているギルバートが、キャンピングカーで町にやってきた女の子とあってからは少しづつ人間味のある喜びを感じるようになる・・というもの。でもみんなを見捨てられないのでそのまま居座る。最後は厄介の種だった母親が死んで開放される。

選択しないで幸せになりたい人にはいい映画かもしれない。

しかし、もし、あそこで母親が死ななかったらどうしたんだろう???って思う。けっきょくあのまま、あの生活をつづけていくのだろうか?私は家族をうらっぎっても出て行く姿を描いてほしかった。

『グッド・ウィル・ハンティング』みたいに、圧倒的な天才なのに、町のごろつきたちとつるんでいるマット・デイモンに「俺の夢はな・・、お前が旅立つことだ」っていってあげられるベン・アウレックのような・・、あのほうが素敵だ。この映画の展開だと、自分が悪い人になれなくて、結局死ぬまで面倒をみておわる・・ってことになりかねない。たまたま作者のご祝儀で母親が死に解放されたけど、それがなかったらどうするんだ?ってことがかなり疑問。自分の人生を選ぶのか、家族の犠牲になるのか、主人公たるもの、これうらいは自分の意思で選んでほしかった。
作家さんに開放されて、それでめでたしめでたしって話では、学校の道徳の時間に見せる教育映画としてはいいかもしれないが、人間の在り方を追求するべき作家の仕事としてはまったく納得いかないぞ。
選択しないで幸せになりたい人にはいい映画かもしれない。

監督は、『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』でスーパーヒットをかましてくれたラッセ・ハルストレム。先の作品が輝きすぎてた。あの感動もとめて映画館にいったら・・・・、そこまでの感動はなかったかな。決して悪い映画ではないのだけど、あの感動が作れる人ならもっと・・・と思ってしまったのが本心であった。でも、いい映画だとは思うが。

しかしこの映画はスタッフの面子がすごい。監督は『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』のラッセ・ハルストレム。実力はもう完全保証済である。撮影監督は同じスウェーデンのスヴェン・ニクヴィスト。またまた巨匠つかまえてきましたなって感じです。
スヴェン・ニクヴィストはイングマル・ベルイマンの後期の映画ではほとんど撮影監督をつとめてるひと。アメリカでも目のある監督さんが使いたがる撮影監督である。ウディ・アレンも使ってたし、ゴードン・ウィリスの盟友でもあるアラン・J・パクラも一緒に仕事をしていた。アンドレイ・タルコフスキーも最後に撮った『サクリファイス』はニクヴィストだった。この人たちはほんとに絵作りがほんとに巧い人しか使わない監督さんなので、ゴードン・ウィリスが使えない時は誰にするか・・って言われるとこのスヴェン・ニクヴィストあたりの名前にあがってくるのだろう。
音楽にはアラン・パーカーの名前がある。おお!

キャストも豪華、今では人気絶頂のジョニー・デップレオナルド・デカプリオ。個人的にはメアリー・スティンバージェンが出ているのがいい。実はこの映画、ラッセ・ハルストレムの映画なので見たいとはおもっていたのだけど、キャスト的にはあんまり好きな人たちではないのでどうしようかと思ってた(ヒロイン役もジュリエット・ルイスだし・・・)。それでも見る気にさせてくれたのはメアリー・スティンバージェンの魅力が大きい。『タイム・アフター・タイム』の彼女は絶品であった。そのご『バックマン家の人々』でも愛嬌のあるところを披露し、『バック・トゥ・ザ・フューチャー3』では再びタイムマシンものに返り咲き(笑)。なんだか・・・この人をみると彼女のもつぽわあ~~~んとした魅力で心が安らいでしまうのだ。大好きな役者さんである。この映画のなかではジョニー・デップが関係をもつ人妻役。個人的にはジュリエット・ルイスが気持ち悪い顔なのでときめくことはなく、ひたすらメアリー・スティンバージェンびいきで見てしまった。
あと、このときにデカプリオは、驚異的にお病気キャラを演じていた。まあ、お病気キャラは演じやすいとは思うが、あの気持ち悪さは実に素敵だった。

by SSM2438 | 2011-01-31 23:42 | ラッセ・ハルストレム(1946)
2011年 01月 31日

ビリー・ジョー/愛のかけ橋(1976) ☆☆

f0009381_23142172.jpg監督:マックス・ベア・Jr
脚本:ハーマン・ローチャー
撮影:ミシェル・ユーゴー
音楽:ミシェル・ルグラン

出演:
ロビー・ベンソン (ビリー・ジョー・マカリスター)
グリニス・オコナー (ボビー・リー・ハートレイ)

       *        *        *

ゲイだと自覚して自殺してしまうのですか・・・。求めればそこにグリニス・オコナーがいるというのに・・・。

前半は『草原の輝き』のようなストーリーなのだが、後半から一気にいたたまれない青春ストーリーにかわっていく。圧倒的に保守的な土地柄のなかでおきたゲイの性交渉。それをうけとめるにはあまりにもこころがせまい地域性。そのなかで、ゲイであることを認識してしまい、好きな女の子を求められなくなったビリー・ジョー。自分が好きで、彼となら駆け落ちでもなんでしていいと思っていた女の子ボビー・リー。二人の恋愛は切ないです。
グリニス・オコナーの演じる主人公の人間性という点においては、このボビー・リーが一番よかったかもしれない。ちなみに、ここで16歳と記述しているボビーの歳だが、これは数え年であって、物語のなかではまだ15歳である。

1953年夏。16歳のボビー(グリニス・オコナー)と18歳のビリー(ロビー・ベンソン)は子供の頃からの幼馴染だったが、その年になるとセックスのことを考え始める。しかし彼らの地域は南部であり保守的な土地柄。親は二人の交際など早すぎるという。それでも男の子は求めてしまう。女の子は拒んでしまう。
そんな街のカーニバルの日。娼婦達もそのカーニバルに紛れ込んでいた。バンドのコンテストが行われている裏で娼婦達は男と寝たいてた。興味半分でその場を訪れたビリーは友達に背中をおされて一人の娼婦にひきつけられるように近づいていく。
それから2日間、ビリーの姿は消えた。街の人たちも彼をさがすがみつからない。そんななか薄汚れたビリーがボビーの前にこっそりと現れる。しかし様子がおかしい。夕方二人で橋の上であう約束をしてその場は別れる二人。そしてふたたび夕暮れの橋の上であう二人。

ここまでは普通に『ロミオとジュリエット』な話だったのだけど、ここから一気に急転。ボビーはビリーと一緒に町を出ても良いと思っていたのだろう、それだけの覚悟があった。もとめるなら身体も許すつもりで来ていた。このあたりの潔さはとっても素敵なのである。
そして森の中で唇を重ね、草によこたわり、『ジェレミー』の時のように、お互いを大事に大切にするような愛撫とキスが続く。しかし・・・っビリーはそこで止めてしまう。泣きながら「出来ない」という。あのよりは娼婦とは寝なかった。男と寝たんだ。それも自覚していた・・と。

その話を聞いても動揺することなく、それでもビリーをもとめるというボビー。「さっきのつづきをやりましょう」ってビリーの手をとって草の上に座ろうとするボビー(グリニス・オコナー)がとてもいいんだ。この一連のグリニス・オコナー演じるボビーのやさしさと覚悟をきめた潔さは絶品である。
しかし・・・ビリー・ジョーはその手から自分の手を抜き去り去っていく。そして次の日溺死体として引き上げられた。

その後、ボビーが妊娠したといううわさが待ちにひろまっていく。父親はそのせいで教会の役員をはずされ、兄は堕ろすか、それがいやならどっか遠くへいって産めという。そしてボビーは街を出ることにする。兄も、母も、ボビーが出て行くことを感じながらもきずかないふりをしている。
やがて6時40分のバスにのるために橋をわたるボビーの前に男があらわれる。兄が働いている製材所のデューイ(ジェームズ・ベスト)という妻子もちの中年男。彼は「君が妊娠などしているわけがない」という。ビリーがゲイであることを知っているのはボビー以外には誰もいない。もしいるとしたら、それはカーニバルの夜ビリー・ジョーと寝た男だけだ。彼がその男だった。

ボビーが妊娠などしてないという事実を話しに彼女の家に行く途中だったと云う。自分には妻も子もあり、そのことを考えると真相を話す勇気がなかったと・・、しかし、総ての不幸をボビーー人が背負うのは不公平だから、自分は話に行くのだと・・。
しかし彼女はその申し出を断る。ビリー・ジョーは、好きな女の妊娠させて、自殺した。だから彼は伝説になるのよ・・って。そして彼女がバス停に向かうと、デューイは彼女のカバンをもってあげるのだった。。

最後はきわめて複雑な思いのする展開だった。
このラストだと、グリニス・オコナーは、ボビーの<男>を守ったということになる。でも真実は・・・、やっぱり彼はゲイだったのだ。これは、「ビリー・ジョーがゲイだった」という事実よりも、自分にとっては「ビリー・ジョーは男」だったと願望を優先させたということなのだろう。真実よりも、自分の妄想(エゴというほうが適切かもしれない)を優先させる終わり方は・・・いいのか悪いのか。
・・・・良いのだろうな、多分。そのくらのわがままくらい通しても。

グリニス・オコナーがとっても素敵な映画でした。

by ssm2438 | 2011-01-31 23:23
2011年 01月 30日

トゥルー・ビリーヴァー/はぐれ弁護士の執念(1989) ☆☆

f0009381_17131281.jpg監督:ジョセフ・ルーベン
脚本:ウェズリー・ストリック

出演:
ジェームズ・ウッズ (エディ・ドット)
ロバート・ダウニー・Jr (ロジャー・バーロン)

       *        *        *

ラリーの若い頃はこんなだったのだろうか・・・。

『アリー・マイラブ』シーズン4でアリーの恋人役ラリーとして登場、その後アリーとひっつくはずだったが、麻薬問題で逮捕起訴されロバート・ダウニー・Jr。そのおかげでシーズン5は大幅なシナリオ変更を余儀なくされたという。おかげでシーズン5はぼろぼろだったのだけど、それでもシーズン4でのラリー人気はすばらしく、アリーの恋人となるべきもっとふさわしい人ランキングでは、ロバート・ダウニー・Jr扮するラリーがトップだった。
そんなロバート・ダウニー・Jrがこの映画のなかではぴっかぴかの1年生弁護士を熱演、やさぐれ弁護士のジェームズ・ウッズをふたたび開花させるという話。

監督は『フォーガットン』ジョセフ・ルーベン。残念ながら才能ある監督だとは思えないが、この作品においてはジェームズ・ウッズのハイテンションの芝居が印象深かったせいか、この映画だけで名前を覚えてしまった(苦笑)。でも、のちのちの仕事をみると、やっぱりこの映画の魅力はジェームズ・ウッズの浮いてるまでの芝居と、あの怪しい髪形と、ロバート・ダウニー・Jrの正義感あふれる健全な弁護士ぶりだろう。

ジェームス・ウッズは実はけっこう好きな役者さんの一人なのだ。『ザ・コップ』の時の徹底的に夢をみない現実主義の刑事役と『殺しのベストセラー』の殺し屋クリープの哀愁は絶品である。この人に魅力は・・・、体力的には絶対勝てそうにない相手にもかかわらず、皮肉屋根性だけで意地をはる健気さだと思う。それは『サルバドル』の時の主人公にも現れていた。人間的にはひ弱なくせに、かっこつける彼の芝居はとても真実味があり私は大好きである。本作にも銃をつきつけられ脅されるシーンがあるが、そこでモ皮肉屋根性だけでプライドを保ち、その悔しさをばねにして事件を解決するエナジーに変えていく。最初は正義感ばりばりのロバート・ダウニー・Jrに担がれていたのだが、中盤からがかなり暴走、今度はロバート・ダウニー・Jrがお守りする番になる。

ただ、この物語はシナリオがヘボすぎ。ご都合主義的な謎解きになってしまい、もうすこし理詰めで作ってほしかった。本来の依頼は刑務内で殺人を犯した韓国人を弁護するというもの。でも、その方面では勝算なく、だったらこの韓国人が犯した犯罪を洗い、そこに不当逮捕が認められれば彼が刑務所にいること自体があるべきことではないので、そこで犯した犯罪も裁けるものではない・・という主張(だったように思う)。
私としては裁判ものの、スリリングな理屈のやり取り・質疑応答技を期待してみてたのだが、結局昔の事件を暴きなおす刑事ドラマになってしまったのが残念だった。

<あらすじ>
刑務所内で韓国人青年キムが別の受刑者を刺し殺す事件がおきた。この事件を被告の韓国人青年を弁護することになttなおがエディ・ドット(ジェームズ・ウッズ)。街の悪人を弁護し大金を稼いでいる悪徳弁護士である。そのエディの弁護士氏事務所で働くとになった新人弁護士ロジャー(ロバート・ダウニー・Jr)。
「息子が無実の罪で刑務所に入れられ、所内で刺殺した件は正当防衛だ」というのがその韓国人青年の母の言い分だった。しかし殺した相手を人種差別男と判断、正当防衛を証明するのは困難と判断したエディ。しかしもし・・、その母親が言うように彼が無実の罪で刑務所に入れられたのなら彼を救うことが出来るかもしれないと変化球攻撃に切り替える。こうして8年前に中華街でおきた事件を再び洗いなおすエディとロジャー。
二人は配管工場主のアート・エスパーザにたどり着く。キムの殺したというジミー・チンという男は、エスパー座の妻とも関係があったのだ。さらに調べを進めていくと、エスパーザは何度も危ない事件を起こしていながら刑事告訴を免れている。彼は警察内部にもつながっており、検事の密告屋を守る為に刑事達が隠蔽工作をさせられていた事を法廷で暴露する。結局エスパーザが妻の浮気相手を殺したというのが真相であり、キムは無罪放免となった。

by ssm2438 | 2011-01-30 17:15
2011年 01月 30日

恐怖のメロディ(1971) ☆☆

f0009381_14505839.jpg監督:クリント・イーストウッド
脚本:ディーン・リーズナー/ジョー・ヘイムズ
撮影:ブルース・サーティース
音楽:ディー・バートン

出演:
クリント・イーストウッド (デイブ)
ジェシカ・ウォルター (イブリン)
ドナ・ミルズ (トビー)
ジョン・ラーチ (マッカラム警部)

       *        *        *

(ドン・シーゲル+ヒッチコック)÷2

昔からタイトルだけ知っていたが、観ないままになっていた映画の一つ。最近世間で評価されているイーストウッドだが、この人の語り口が面白いとも思わないので放置プレーになっていた映画。この映画もさほど見るべきところはないのだが、低予算のなかで、とりあえず「あるもので映画にする」という意味では、出来ている映画だと思う。

この映画であきれたというか、感心したのは、昔の女トビーとよりをもどそうとして、海岸沿いを歩くあたり。こんなところは凝って作っても仕方がない!と割り切ったのだろう、延々ふたりで歩いているシーンを撮っているだけ。この割り切りかたは、低予算映画としてはすばらしい英断だったと思う。しかしそれはあとからそれが低干さん映画だったということを知ったから言えることなのだが、実際は観ているときは「ひどい手抜きだな」と思った。監督料はでても、主役としての主演料がでないような作品ならでの超妥協の産物であり、もとにかくシナリオにある内容を最低限度の時間と労力でシーンでうめようとを考えた時にしか生まれないような演出。
私も演出をはじめたころ、一話アタリの動画枚数を2500枚以内という超極貧アニメをやったことがあるが、説明シーンは覚悟をきめて止めるしかないのである。あとは音楽とカメラワークにまかせる。あのころの切なさを思いだした(苦笑)。

実はこれ、主演をつとめたクリント・イーストウッドの初監督作品。師匠のドン・シーゲルもバーテンダーとして登場している。演出的にはドン・シーゲルの演出手法を模倣しているクリント・イーストウッド。されどヒッチコック的なテイストもあちこちにちりばめられている。当時のイーストウッドは、ヒッチコックの記号的な表現方法をもうちょっとリアルに表現したかったのかもしれない。

話はほとんど『危険な情事』。一夜の情事のつもりで寝た女につきまとわれるストーカー被害もの。もっともこちらのほうが先に作られていたので、『危険な情事』のほうがこのネタを使って別物を作り直したのだろうというほうが正しい。『危険な情事』のグレン・クローズがあれだけ怖い女だったのも、このジェシカ・ウォルターの存在があったからだろう。しかし主役がマイケル・ダグラスのほうが似合ってる(苦笑)。どっちにしても、あんまり真剣に女を好きになっているようには見えないのだけど・・・。

撮影監督は『ダーティーハリー』などで一緒に仕事をしたブルース・サーティース。この人の夜はほんとに暗い。ただ暗い。「暗い」のが嫌いではないが、この人の「暗さ」はあんまりお洒落じゃない。もうちょっとライティングを考えて撮れば良いのにって思う。「暗い』画面の多い人だが、それほど好きな撮影監督ではない。この人の黒さよりもゴードン・ウィリスのほうがはるかに洗練されていると思うが。

<あらすじ>
レコードの合い間に詩を読んだり、ちょっとした哲学を聞かせながら、電話によるリクエストを受けているディスク・ジョッキー、デイブ・ガーランド(クリント・イーストウッド)。そんな彼の放送が始まると、決まった時間に「ミスティ」という曲をかけてとリクエストする女がいた。ある夜、デイブがいきつけのバーに顔を出すとイブリン(ジェシカ・ウォーター)という一人の女がいた。毎晩とどく「ミスティ」のリクエストは彼女からのものだった。ちょうど恋人だったドナが去った後だったデイブは一夜の情事としてはイブリンと夜をともにする。
その後街に戻ってきたトビーは岬の家を女友達と二人で借りていた。なんとかよりを戻そうとするデイブはトビーの家を訪れる。しかし、そのことに嫉妬しはじめたイブリンがストーカーとしてデイブの生活にむりやり入り込んでくる。
「もともと二人の間には何もない」と言うデイブの気持ちなど聞こうともしないイブリンは執拗なまでにデイブにつきまとい、愛をもとめてくる。そして自殺未遂。嫉妬に狂いデイブの自宅をナイフで切り刻んでいるところメイドの人にみつかると、サイコさながらに切りつける。

きゅいんきゅいんきゅいんきゅいん・・

警察に連行された彼女は病院へ送られることになった。そして時がたった。トビーのルームメイトが引っ越すことになり、新しいルームメイトを募集するとアナベルという女性が応えてきた。
ある夜、本番中のデイブにイブリンから電話がかかってきた。病気が治ったのでハワイに行くことに決まったから、その前に「ミスティ」をかけてくれというのだ。しかし、トビーの部屋に入り込んだ新しいルームメイトこそ、イブリンだった・・・。

ヒッチコック的なトリックストーリーをドン・シーゲル演出でまとめ上げた映画ではあるが、撮り方や構図などいきあたりばったりの見せ方なので、はじめてコンテを描いた下手な演出のようなカット割。計画性をまるで感じない。もうひとつ、イーストウッドは女が好きになる男が描けない。イブリンにしても元彼女のドビーにしても、主人公のデイブを好きになる要素がまるでないのである。
今も昔も、クリント・イーストウッドに監督としての才能を感じることはまったくない。「とりあえず作る人」ということが確認できた映画だった。でも、サスペンスフルには出来ているし、ヒッチコック映画をシリアスにつくるというがコンセプトは成し遂げられていると思う。

by ssm2438 | 2011-01-30 14:52
2011年 01月 29日

プラスチックの中の青春(1976) ☆☆

f0009381_13452069.jpg監督:ランダル・クレイザー
脚本:ダグラス・デイ・スチュワート

出演:
ジョン・トラヴォルタ (トッド・ルビッチ)
グリニス・オコナー (ジーナ・ビッグス)

       *        *        *

まさか、あの無菌室のなかの青年がジョン・今となっては牛のような・トラボルタだったとは・・。

このころやたら無菌室シーンをみたような気がする。病気になるとあのビニールカーテンの設定がやたらと病気の大変さを表現したようだ(苦笑)。しかし・・・、初期のころのグリニス・オコナーモノはけっこうチェックしてたんだ。そんなに彼女がかわいいとうわけであないのだけど・・やっぱり『ジェレミー』がインパクト強く、その映画のヒロインというレッテルがどうして彼女をみさせていたのような気がする。

当時この映画だった男優がのちの『サタデーナイト・フィーバー』でブレイクするジョン・トラボルタだったとはしらなかった。実際、この映画をみていたにもかかわらず、『サタデーナイト・フィーバー』をみたとき「誰だ、この気持ち悪い顔したやつは・・」って思った覚えがあるが、実はこの『プラスチックの中の青春』で一度みていたのである(苦笑)。男のほうは誰でもよかったわけだ(苦笑)。

この物語の主人公トッド・ルビッチ(ジョン・トラボルタ)は免疫機能が機能しない障害をもっており、ばい菌・ウイルスが入らない無菌室状態でないと生きていけないとう状態だった。そんなわけで、彼の両親はかれのベットの周りにビニールシートをはり、空調をととのえ、まるで巨大水槽の中の金魚のような生活をしていた。外に出るときはまるで宇宙人のような格好の除菌スーツをきることになる。
しかしこの主人公トッドももまわりの人々もそれほど暗くない。室内が除菌されてたパーテーションで区切られていて、その中はそこそこ広くダンスもおどれるし、テレビとカメラがセットされていて高校の授業にも参加できる。活動空間が自室の限られた6畳くらいのスペースだけだとうだけで、彼自身もきわめてハッピーな生活をおくっている。

一応話は実話をもとにしているということだが、この物語はほとんどフィクションで、元になったとされる話は、ヒューストンにいたデビット少年という同じ病気の男の子らしい。残念ながらこの子は12歳でなくなっている。この物語のトッドは17歳という設定で、恋愛ねたをからませやすようにしてあったようだ。近所に住むジーナ(グリニス・オコナー)とふかく知り合うようになったトッドを除菌室から出たちという衝動にかりたてていく。
・・・で、まあ、ビニールカーテン越しのキスとかありまして、最後は・・・何の根拠もなしに外に出て行ってしまう。うむむむむ・・・どうなんですかね、あのラストは。感動もなにもなかったんでけど。自分を解放したというか・・・、生きるということに無責任になったとうことか・・・。個人的にはそれでもあの中でしぶとく生きのびてほしかったけどなあ。
無責任という名の安易な自由はアメリカン・ニューシネマだけで十分なのだが・・・。

by SSM2438 | 2011-01-29 13:49
2011年 01月 28日

リトル・モー(1978) ☆☆

f0009381_2193729.jpg監督:ダニエル・ホラー
脚本:ジョン・マクグリーヴィ
撮影:ハリー・ウルフ
音楽:ビリー・メイ

出演:グリニス・オコナー (リトル・モー)

       *        *        *

グランドスラムに焦点をあてたほうが良かったかな・・・。

リトル・モーは実在の人物。本名モーリン・コノリー(モーリーン・キャサリン・コノリー・ブリンカー)は女子で最初に年間グランドスラムを達成したプロテニスプレーヤー。その生涯をえがいた伝記映画。

1953年に17歳で女子テニス史上初の年間グランドスラムを達成した彼女は、身長160cmほどしかない小柄な体格だったことから、“Little Mo”(リトル・モー)という愛称で呼ばれた。しかし1954年のウィンブルドン3連覇の後、全米選手権を迎える直前に、コノリーは乗馬の最中にトラックにはねられて足に大怪我を負い、19歳を待たないまま選手生命を絶たれる。さらに癌のため34歳の若さで亡くなった悲運の人でもある。
映画では彼女のテニス人生よりも、結婚し母となり、癌で終末をむかえる、波乱にとんだ一個人としての人生を描いている。

テレビ映画で、なおかつ139分という長い映画なので、けっこうつらいもいのがある。それも、彼女の全盛期をみているのは楽しいのだが、選手生命をたたれたのが19歳の時。映画は、彼女の人生そのものにスポットを当てているため、テニスで絶好調だった時代と、その後の時代とがかなり平等に描かれてしまった。これをテニスだけにするか、いきなり事故にあうところから初めて栄光のあとのリハビリと第二の人生に焦点をあてるか、どちらかにすべきではなかったのか・・・。ちょっと映画としてはしぼりこめてないつくりだったのが残念だ。

この映画のポイントは、やはりコーチのとの確執であり、和解の部分。実力がみとめられてきた彼女は、有名コーチのテナントの指導を受けながら成長していく。エリナーの指導のもと14歳で西海岸を制覇、16歳で全米選手権のチャンピオンと大きく成長していったモーリンは、世界への第一歩であるウィンブルドンの地を踏むことになった。しかし、練習中に肩の痛みを感じ、診断された結果、出場を止められるが、無理をおして出場し、みごとチャンピオンに輝いた。しかし、出場を許さなかったテナント・コーチは去っていった。
のちに結婚し、子供をもうけた彼女のもとにテナントがあらわれ和解していくという話。

by ssm2438 | 2011-01-28 21:10
2011年 01月 26日

ジェレミー(1973) ☆☆☆☆

f0009381_14542893.jpg監督:アーサー・R・バロン
脚本:アーサー・R・バロン
撮影:ポール・ゴールドスミス
音楽:リー・ホルドリッジ
    ジョセフ・ブルックス

出演:
ロビー・ベンソン (ジェレミー)
グリニス・オコナー (スーザン)

     *      *      *

This is the wispiest movie I've ever seen!

「wispy」というのは、ジェレミーとスーザンがはじめてエッチをしたあとの帰りのタクシーのなかで、今の気もをきかれて答えた形容詞。辞書でひいてしまいました。リーダーズの辞書が一番ロマンチクにこの意味をいいあててた。

wispy:
 小さく無造作に束ねた、ほっそりとして弱々しい(草など)、
 かぼそい、かすかな、わずかの、まばらな(髪などが)・・・・おい、それは余計だろう!、
 かすみのような、星雲状の、

いまが幸せすぎて不安になってる感じがじつにせつなくつたわてくる。。。

70年代の前半というのは、大人になりかけの青春物というのがやたらとはやっていた時期で、一番年端もいかないのは『小さな恋のメロディ』でしょう。それがイギリス。フランスは『フレンズ』(製作はイギリスだけど、舞台は南仏。そしてアメリカはこの『ジェレミー』でしょう。80年代になると『リトルロアンス』ってのがイタリア舞台にありました。コレもよかった。そのなかでもっとも切ない映画が『ジェレミー』。気分がグリニス・オコナー懐古にふれているので、ここはひとつ一番感動ものの『ジェレミー』に登場いただこうかなと。この切ない語り口がすばらしすぎて、監督のアーサー・R・バロンは73年のカンヌの映画祭で新人監督賞をとってしまった。でも、じつはこの映画だけ。恐ろしいまで一発やでした。

そのむかし、健さんが出ていたCMで、「男は男に生まれない、男になるんだ」ってせりふがありました。しかし、男になる前だって、自分にこれっぽっちの自信がなくったって、やっぱり女の子を好きになるのです。この自分に自信のないときに想う相手ほど心にのこる人はいないものです。そのころの想いがかなったらそれはもう幸せすぎておそろしいにちがいありません。このジェレミー(男の子です)は、そんな想いをいだいた女の子スーザンを想って想って、その結果エッチにいたってしまいます。超、超、超、超幸せすぎて怖いくらい・・、そんな感じが実にでてます。
もっとも、そのエッチのあとスーザンが家にかえると、父の引越し話がきまってて2日後には引っ越すという事実をきかされ、二人の恋愛はこの段階で一区切り、映画のなかでは唐突におわってしまいます。でも、追いかけていけない。高校生なんでしょうがないでしょう。このあたりが、まだ自分のちからではどうしよもない現実がある青春時代の恋愛物のせつないところでしょう。あの現実さが素敵なのです。しかし、その物語の何年後にはふたたびジェレミーはデトロイトまで会いにいってるでしょうね。別にこれが最終な別れではないのだけど、それほどに感じてしまうところが実にすばらしいんな。

f0009381_15181988.jpg<あらすじ>
チェロ演奏家になる夢をもつ15歳のジェレミー(ロビー・ベンソン)は、普段は黒ぶちおじさんメガネをかけていてる内気の少年。そんな彼が同じ音楽学校に通う、スーザン(グリニス・オコナー)のバレエの練習風景をちらっとみてしまう。(思えば『小さな恋のメロディ』のトレーシー・ハイドも黒のレオタードでバレエをやってましたね)。ジェレミーはそんな彼女に一目ぼれ。しかしスーザンには彼氏がいた。おちこむジェレミー。そんなジェレミーだが、演奏会のときスーザンの訪問をうけたりして二人の気持ちはさりげなく共鳴していく。

最初のデートのあと、スモークながれる通りをわたる二人のカットから、白桃いろの噴水のシーン。いいんだなあ。あ、その前に公園でワンちゃんたちに詩をきかせるジェレミーってカットってのもありましたね。あと、競馬場の望遠とか・・、二人がニューヨークの町並みを歩くシーンを望遠でとるだけでえになってしまう。
そこに切ない音楽、主題歌の「ブルー・バルーン」も「ジェレミー」これらの歌詞がながれてくるとそれだけでせつなくなってしまう。

雨の降るある夜に室内でチェスをしてるところから、視線がからみあってキスをかわし初めてのエッチ。ブラのホックをはずそうとしてもなかなか外れない。そうしてるとスーザンが体をはなす。あれ、ぐれちゃったかなっておもってるとおもむろにきていたセーターを脱いでブラも自分ではずして再びジェレミーの上に体をかさねる。

ストーリーはシンプルなのだけど、彼女の肌に触れるときジェレミーの手つきに愛を感じてしまう。それはもう、『未完交響楽』のシューベルトが質屋で自分のバイオリン手放すときにあの愛なのだ。

私の記憶だとエッチシーンは普通に演じているのだが、グリニス・オコナーがきちんと乳房をみせてくれたのは『カリフォルニア・ドリーミング』までなかったとおもう『ビリー・ジョー愛のかけ橋』で、川から上がったとすけたシャツのしたに乳首がみえたシーンあったかもしれないが、あれも直接的ではないし・・。なのでわれわれにとっては『カリフォルニア・ドリーミング』の彼女の乳房は待望のシーンだったのだが、いかせん映画がカス過ぎた。残念。

・・で、タクシーのなかの幸せすぎて・・・のシーン。そして帰ってみると案の定、まるで原作者がそうしたかったからそうしたかのように突然の別れ。おもいっきり唐突なわかれなのだが、こんな別れでもあのブルー・バルーンが流れてくるとせつなくなって胸がきゅうとなってしまう。
70年代の青春映画の傑作のひとつである。

by SSM2438 | 2011-01-26 14:58
2011年 01月 26日

ぼくの美しい人だから(1990) ☆

f0009381_9502427.jpg監督:ルイス・マンドーキ
脚本:テッド・タリー/アルヴィン・サージェント
撮影:ラホス・コルタイ
音楽:ジョージ・フェントン

出演:
スーザン・サランドン
ジェームズ・スペイダー

       *        *        *

下品なおばちゃんのお持ち帰り・シンデレラストーリー・・・???

もしかしたら業界初の、もてそうにもないおばちゃんによるハンサムボーイのお持ち帰り映画?

ハンバーショップで働くさえない、さらにひがみっぽい、さらにまったく生産性もないおばちゃんにお持ち帰りされちゃうのがジェームス・スペイダー。酔ってソファーで寝ているジェームス・スペイダーを強引に寝技にもちこみ、関係をもってしまうスーザン・サランドン。そんな出来事から始まった二人の関係を描いた映画。
しかし、不思議なことにその子が自分に親近感をもってきてくれることから、すこしはまともな女になろうかなと努力するおばちゃん。でも、きがついてみると、自分は43歳のおばちゃん。相手はこれから夢も希望もある27歳のエリートヤッピー。そんな相手に劣等感をかんじはじめるおばちゃん。でじぶんから別れを切り出すが、それでも自分をもとめてくれるハンサム男。

当時それなりに有名だった映画なのでみたのですが、スーザン・サランドンがただの下品はおばちゃんにしかみえないし、そんな彼女と一緒にいてあげるジェームス・スペイダーもかなり理解不能。ほとんどの男は前半部で挫折すると思う。女性にしか受けない映画だろう。
とにかく、スーザン・サランドンを好きになる要素がまるでない。この映画のポイントは、彼女のなかに好きになれる要素が見出せるかどうかだと思うが、それをみている男連中になっとくさせるだけのものがないのである。表面的にはかなりがさつでいびつで、劣等感ばりばりで、だらしない女として描かれている。でも、内面的には・・・となると、普通はここでなにかしらひきつけられる輝きがあるはずなのあだが、こまったことにそれがない。とくにぴくんと反応する部分がまったくないのである。少なくとも私にはなんにも感じられなかった。
・・・なの私は脱落。一応最後はそれらしい感動する展開になっていたようだが、私としては前半で感情移入が凍結されてしまい最後は「はいそうですかそうですか・・」で終わってしまった。
ネガティブからスタートして幸せになるのはドラマの王道だが、最初のネガティブ度が過ぎるとそこでおわってしまうという作品。

監督は『メッセージ・イン・ア・ボトル』『男が女を愛するとき』ルイス・マンドーキ。私は思ったが、この人とは恋愛感がまるで合わない。この人の描く恋愛映画には生産性がなさすぎる。生産性ないものがいかに愛されるか・・、そんなありえないことばかり描いているようにしか思えない。

認めてもらいたいなら、提示できる自分をつくれ! ・・と言いたい。

この映画には、認めてもらいたいけど、自分を進化させる努力は出来ない。でも、そんな自分を好きになってくれる人もいるはず・・みたいな、あまあまはスピリット。もてる要素がまったくないのに、意味なく綺麗な女の子にもててしまう糞オタクアニメのシチュエーションを反転させ、もてる要素がまったくないのに、素敵な若者にもててしまうおばちゃんの話です。
みてるうちに、映画自体のコンセプトに嫌気がさしてくる。
しかし、脚本には私の大好きなアルヴィン・サージェントが参加。おお・まいがああああっ!!!
この人は繊細なメンタリティ書くの巧いのだけど、こういう映画にその才能を使われると嫌だなあ。

でも、広告につかわれている絵だけはなかなか雰囲気がある。それだけは特筆しておく点だろう。

by SSM2438 | 2011-01-26 09:56
2011年 01月 25日

カリフォルニア・ドリーミング(1979) ☆

f0009381_22271967.jpg監督:ジョン・ハンコック
脚本:ネッド・ウィン
撮影:ボビー・バーン
音楽:フレッド・カーリン

出演:
デニス・クリストファー (TT)
グリニス・オコナー (コーキー)
タニア・ロバーツ (ステファニー)

       *        *        *

“カルフォルニア・ドリーミング”の歌があればけっこう感動できるのだが、それしかないとちょっと悲しい。

グリニス・オコナーロビー・ベンスンというのは70年代のアメリカの青春映画ではある意味欠かせない二人だった(この映画にはロビー・ベンスンは出ていない)。そのグリニス・オコナーのオッパイが観られるというので劇場に足を運んだという、まあ、なんといいましょうか青春まっさかりの動機でしたが・・・映画は実に単調で悲しかった。
なにが悲惨かって目的がない。主人公のTTはハイスクールを卒業して、卒業旅行にカリフォルニアにやってきた。アメリカの夏休みを挟んで秋から新学期が始まるので、高校を卒業して大学に入るまでの夏休みは宿題もなく自由に過ごせる休みなのだ。・・・しかし、目的がまったくない。この主人公がなにをしたかったのか、まあ“H”はしたかったのだろうが、それ以外になにもない。その無目的さが映画自体をまったく面白くないものにしている。
ほんとにこの映画で観るべきものといったらグリニス・オコナーのオッパイくらいだが、それもそれほどロマンチックだったかというとそんなことはまったくない。ストーリー構成、根本から考え直すべきだね。

f0009381_2230514.jpgそれでも私達の年代だと、デビュー当時グリニス・オコナーはやっぱりさわやかで普通っぽくて素敵だった。特にロビー・ベンスンと共演した『ジェレミー』『ビリー・ジョー/愛のかけ橋』での彼女はなかなか忘れがたい。・・とかいいつつ、この二本ともロビー・ベンスンが共演なので、どっちがどっちだったか最近はかなりあやふや。この二本は後にテレビやVHSで見たのだが、彼女の作品のうち唯一劇場で見たのがこの『カルフォルニア・ドリーミング』。

<あらすじ>
ハイスクールを卒業し、大学入学までの夏期休暇を憧れのカリフォルニアで過ごすときめて、シカゴからやってきたTT(デニス・クリストファー)。初老のデューク(シーモア・カッセル)の家に泊まることになる。そこの娘コーキー(グリニス・オコナー)は最初はTTのことを田舎者として疎んじてたが、なんだかんだとあってベッドイン。しかしデュークが部屋にはいってきておじゃん。
他にもデュークと長い付き合いのあるフェイとの腐れ縁的愛、サーファーとステファニー(タニア・ロバーツ)の未来のない恋愛などが、ひと夏の甘く切ない経験としてつづられていく(・・・だけ)。

by ssm2438 | 2011-01-25 22:31
2011年 01月 25日

アラビアのロレンス(1962) ☆☆☆☆☆

f0009381_5511246.jpg監督:デヴィッド・リーン
脚本:ロバート・ボルト
撮影:フレデリック・A・ヤング/ニコラス・ローグ
音楽:モーリス・ジャール

出演:
ピーター・オトゥール (トーマス・エドワード・ロレンス)
オマー・シャリフ (アリ族長)
アンソニー・クイン (アウダ・アブ・タイ)
アレック・ギネス (ファイサル王子)

        *        *        *

今回みたのは『アラビアのロレンス』完全版のほう。音声が格段に良くなっているとか。音楽はモーリス・ジャールなのであいかわらずどこもかしこもハイテンションでうるさい(笑)。そういえば『レザレクション/復活』も彼だが、あれもうるさかったなあ(苦笑)。トータル尺も1962年の公開時より20分ふえてます。どこが増えても大した印象にかわりがないという気がしますが・・。

久しぶりにみたら、すごかった。大スペクタクル時代の申し子のような映画だ。もう二度とこんなつくりが出来る映画はでてこないだろうなあ・・。しかし、大掛かりな撮影とだけが売り物の映画ではなく、人間ロレンスの成し遂げるエネルギーがアラブ人たちを扇動していく、そのドラマが素晴らしいのだ。そしてその狂気が暴走していく。
だれもが不可能だと思われていた軍港アカバ攻略のためにネフドの砂漠横断するロレンス達。ラクダにやる水はない。それだと20日すればラクダは死ぬ。そうなればみんなも死ぬ。そんな状況下で、昼間は睡眠をとり、夜になったら進む。あと1日あるけば井戸だというとこきに、ラクダにのっていたはずの一人がいない。睡魔にまけて途中で寝てしまい落ちたのだろう。アリ族長(オマー・シャリフ)は、「つれも度にし戻ればお前も死ぬ。あと1日あるけば井戸がある。このまま進むしかない。人も、ラクダも、もう限界にきている。彼が死ぬのは運命だったのだ」と戻ろうとするロレンスをとめようとすが、ロレンスはそんなアリをふりほどいて戻っていく。結局その男はなんとかロレンスに拾われ、一足先に井戸についたみんなと合流できる。戻ってきたロレンスに尊敬の意をこめて水をわたそうとするアリに

「Nothing was written !」

「誰かが書いたあらすじなんてないんだ!」っとギリとみすえてつぶやく。訳は「運命などないんだ」だった。「そんなことがあり、彼が徐々に指導者としてアラブの民から慕われていく。

最初にみたのは子供のときでまだ小学生か中学生1年生くらいか・・、荻昌弘さんの月曜ロードショーか水野晴郎さんの水曜ロードショーのどちらかだったと思うが、長いので2週に分けて放送された。そのころは時代背景がよくわからず、さらに冒頭バイクの事故で死んだと思われるおじさんがロレンスだということもあやふやだった。お恥ずかしい。後にこれは記述を呼んで、ああ、やっぱりそういうことなのか・・でもなんで???と不思議に思ったものだが・・・。しかし、大人になってから見ると、時代背景が分るからいいね。当時はどういう図式で戦っているのか分ってなかった。

<あらすじ>
f0009381_5535659.jpg当時は第一次世界大戦の真っ最中。中東を支配していたいオスマン・トルコは、ドイツ帝国と同盟を結んでいた。イギリス軍はアラブ民族を支援することでオスマン・トルコを中東支配から排除しようと考えていた。イギリス軍はアラブ諸部族に協力するためにトーマス・エドワード・ロレンス(ピーター・オトゥール)を派遣した。1916年10月のことである。
ロレンスはトルコ軍が支配する軍港アカバを落とすことを決意する。アカバは補給基地として最重要ポイントであるが、大砲を並べるアカバは海からの攻撃では落とせない。ロレンスがネネフ砂漠を横断し、陸地からアカバを攻める。
補給地点を確保したロレンスはアラブ人たちを指揮してヒジャーズ鉄道対を攻撃する。補給路を守るために最前線の後ろでも戦闘をしいられたトルコ軍徐々に弱体化、終にエルサレム、そしてダマスカスから撤退する。エルサレムに行ったロレンスは、すでに英仏両国間にアラブとトルコの土地を二等分する条約が結ばれているのを知り愕然とした。

この映画では、ロレンスはアラブ人の独立のためにトルコの支配からアラブを開放し、彼らの自治独立を支援するつもりでいた。しかし、イギリスやフランスの考えていることは、トルコに変わってイギリスとフランスがアラブを支配することでしかなかった。イギリス軍より先にロレンスはアラブ人を率いてダマスカスに先に入城、翌日イギリス軍が入ってきた時にはすでに放送局は発電所、水道局などの重要ポイントはアラブ部族合同評議会が支配していた。ロレンスは彼らにダマスカスを与えようと思っていた。しかしアラブ人たちは部族間で利益衝突がおき結局アラブ部族の合同評議会は解散。結局アラブ人には総合的な社会性よりも、種族間の争いのほうが重要なのだ。
絶望したロレンスは、大佐という名のもとに本国送還となり、アラブの土地をさることになる。


はたからみると西洋文化の押し付るという名の愛であるが、ところかわればそんなものはいらないよ!って話。所詮アラブ人の魂は盗人なのだろうなって思った。盗人魂を制御するのにイスラム教が必要だったのだろうと・・、さらに盗人の腕を切るなどの重罰も、人の基本は盗人である・・というとこから、それを戒めるための強硬手段とし発展したのだろうと思った。

オタクどもに画角の概念を語っても無駄であるという、似たようなむなしさを共感できる映画だった。くそおっつ、すばらしいぞ!

by ssm2438 | 2011-01-25 05:54