西澤 晋 の 映画日記

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2011年 01月 16日

ソーシャル・ネットワーク(2010) ☆☆☆

f0009381_16135314.jpg監督:デヴィッド・フィンチャー
原作:ベン・メズリック
脚本:アーロン・ソーキン
撮影:ジェフ・クローネンウェス
音楽:トレント・レズナー/アッティカス・ロス

出演:
ジェシー・アイゼンバーグ (マーク・ザッカーバーグ)
アンドリュー・ガーフィールド (エドゥアルド・サベリン)
ジャスティン・ティンバーレイク (ショーン・パーカー)

       *        *        *

良くも悪くもアーロン・ソーキン節、炸裂!

あいかわらず台詞が多い。これって『ザ・ホワイトハウス』のころからで、やたらと台詞がおおい。通常のドラマの1・5倍~2倍はあるんじゃないだろうか。しかし、それまではそんなことはなく、『ア・フュー・グッドメン』『アメリカン・プレジデント』の映画を撮っていたころはそれほでもなかった。それがテレビに舞台をうつして『ザ・ホワイトハウス』をやり始めてからはやたらと台詞が増えたのである。英字字幕でもみてみるのだが、日本語字幕とくらべて長い。日本語字幕だとどうしても時間内に把握できない部分もあり若干短くするものだけど、かなりシンプルな台詞になっていることもよくあった。今回の映画でも、英語の台詞をそのまま訳するとおそらく日本語字幕は読めなくなるくらいの量だろう。

これはアーロン・ソーキンがシナリオライター基本の人だからだろう。シナリオ主義の人はこの手のドラマになりやすく、オリヴァー・ストーンなども、ソーキン同様に詰め込みたい人だ。とにかく映像になったときのこを信用しない。というか、自分自身が映像でかたるイメージが出来ないのでそういう作りには決してなれない。この手のタイプの人がシナリオを書くと、お話はしっかりしてくるのだけど、物語全体に余裕がなくなってしまう。自分が語りたい情報だけを提示するのが精一杯で、観客に考える時間を与えたり、リラックスさせたり、哀愁や感動に浸らせたりする時間をあたえるという概念がない。『ニューシネマ・パラダイス』『フィールド・オブ・ドリームス』のような怒涛の涙はけっしてこの手の脚本家からは生まれない。
そこは、監督さんがもうちょっと考えて作ってあげればいいのだけど、今回のデヴィッド・フィンチャーは完全にアーロン・ソーキンの『ザ・ホワイトハウス』のペースにのみこまれていたようだ。

物語は、《フェイスブック》の創立者であるマーク・ザッカーバーグの、そのネットワークの立ち上げからの物語を、その後仲間だった人たちから訴訟の公聴会のやり取りのなかで描いていくというもの。映画のポスターには「天才・裏切者・危ない奴・億万長者」の文字が並んでいる。しかし本人は「裏切者」だとは思っていないだろう。映画も、実在の、それも現役のCEOを映画の題材に取り上げているのであり、主人公を否定的に描くわけにはいかないだろう。おそらく、この映画を観ても、本人はそれほどはらも立たないと思うし、むしろ自分の生き方を誇りに思うのではないかと私は感じた。
映画のなかで本人も「ボクは悪人じゃない」と言っている、彼は悪人としては描かれていない。さらに彼はだれも怨んではいないとも思う。恨むというのはあくまで、誰かに期待してそれが裏切られた時に起こる感情であり、彼はそもそも誰にも期待しない人間なのだ。
この自信家で思いやりのかけらもなさそうなザッカーバーグ描き方のなかで、さりげなく小出しにされる彼の人間味を感じさせる部分の描き方がまた渋い。ザッカーバーグが期待する(自分を認めてほしい)相手は最初にわかれたガールフレンドだけなのだが、もう一人、ヒアリングでザッカーバーグを弁護する側の新米女性弁護士、彼女だけはきちんとザッカーバーグを認めてあげている。しかし、ヒアリングの後彼女から優しい言葉をかけてもらえるが、自分を捨てた彼女のページにメッセージを送り、入室を許可されることをまつザッカーバーグが実に切実で良い。

ちなみに、「裏切りも」に値する箇所は、《ザ・フェイスブック》を立ち上げる前のとこだろう。
彼女に振られた腹いせに、大学の寮の女の子データを全部ハッキングして手に入れ、二人の女の子をくらべてどちらがベッピンさんかを選択する、その連続により誰が一番美人かを決めるようなサイト《フェイスマッシュ》をつくってしまう。そのときプログラムを作ったのがエドゥアルド・サベリン、のちに《フェイスブック》の共同経営者となる学生だった。
そのサイトは一晩にして人気が出るが、同時に女子学生からはバッシングにあい、サーバーもダウンしてしまいあっという間に終わってしまう。しかしその利便性を見抜いた双子のウィンクルボス兄弟は、自分たちが企画した学内男女のインターネット上の出会いの場“ハーバードコネクション”の設立に協力してほしいとザッカーバーグに協力を要請する。その依頼をうけたザッカーバーグだが、独自の発想をもってしまい、そのチームからスピンアウト、先のプログラマーだったエドゥアルド・サベリンとともに《ザ・フェイスブック》と開設してしまう。

もとものはウィンクルボス兄弟の発想を基にしたネットワーク作りだったために、のちにこの二人に訴えられてしまう。しかしヒアリングの席では、「僕はなにも盗んでいない。もしボクがそれを盗んだものなら、彼らにそれが作れるはずだ。でも作れない」と言い切る。
こういうザッカーバーグのアウトロー的なカッコ良さをソーキンは彼の言葉で描いてくれる。
さらに、ザッカーバーグは、終始お金をもとめて仕事をしたことはない。結果としてそうなっただけで、だからこそこの映画の中で彼がカッコいいのだろう。

そしてソーキンの描き方がさえているのは、エドゥアルド・サベリンのキャラクターだ。ザッカーバーグが常に自分に自信を持ち揺らがないキャラクターに対して、このネットのプログラマーで、のちの《フェイスブック》のCFO(チーフ・ファイナンシャル・オフィサー)エドゥアルド・サベリンは人間的な揺らぎをもたせて描かれている。彼のなかに、普通の人間が持っているたよりなげな部分を描くことで、ザッカーバーグのキャラクターはさらに協調している。結果として彼は、あとから入ってきたショーン・パーカーにより会社を終われることになり、これまたザッカーバーグは創立者のサベリンからも訴訟を起こされる。

by ssm2438 | 2011-01-16 16:08
2011年 01月 15日

グレート・ブルー(1988) ☆☆

f0009381_1239428.jpg監督:リュック・ベッソン
脚本:リュック・ベッソン/ロバート・ガーランド
撮影:カルロ・ヴァリーニ
音楽:エリック・セラ
製作顧問:ジャック・マイヨール

出演:
ジャン=マルク・バール (ジャック・マイヨール)
ロザンナ・アークエット (ジョアンナ・ベイカー)
ジャン・レノ (エンゾ・モリナーリ)

       *        *        *

氷の下をアメーバのようにただよる気泡群の描写は名シーンのひとつだと思う。

実在の人物ジャック・マイヨールの自伝をもとに、リュック・ベッソンが映画化、公開当時はあまり人気の出なかった映画だが、一部の根狂的な信者を獲得した映画。その4年後、92年に完全版として『グラン・ブルー』として再び公開、このときにはすこぶる人気がでた。

映像はとても気持ちのいいものなのだが、映画としてはかなり弱い・・というのが正直な感想。残念ながらドラマとしてはあまり見ごたえがある話ではない。
このジャック・マイヨールがやっているフリー・ダイビングというのは、素潜りのこと。アクアラングやなんやかやをつけないでそのまま錘をもって深海に潜っていく。この記録をどんどん塗り替えていくのはこのジャック・マイヨールなのだけど、この才能というのは人間が努力して勝ち取れるものではな。これはもうその人がうまれついてもっている特異体質で、たとえば、フリーダイビング中のマイヨールの脈拍が毎分26回になっていることや赤血球が著しく増加しているなど、通常の人間では考えられないこと。つまり、普通の人が努力しても、この分野においては勝ち目がない相手なのである。

「通常の人がどんなに努力しても勝ち目のない人間」というのは、映画にしてみると見ている人に疎外感をあたえてしまうので、ドラマになりづらい。この映画も、主人公の人間ドラマというようりも、主人公のありかたを多少デフォルメして描いている、自伝的映画で、そこになんとか映画的な要素をとりいれようと、ジャン・レノ扮するエンゾというフリーダイビングのライバル的存在の男と、ロザナ・アークエット扮するジョアンナ・ベイカーをからませている。エンゾに関しては、主人公のジャックが神がかり的にすごいので、どんなにがんばって努力しても勝てない悲哀を感じてしまう。過剰移入は主人公にするのではなく、彼にしてしまうのだ。この二人がきわめて人間なので、申し訳程度にドラマのような雰囲気

そして、このときのロザナ・アークエットは実にいい。この女優さん、『ロングウェイ・ホーム』のころから知っているのだけど、あるいみ変な顔なのだけど、とってもチャーミングなのだ。おまけに胸のけっこうある。大好きな女優さんのひとりだ。

<あらすじ>
保険調査員ジョアンナ・ベイカー(ロザンナ・アークエット)は、氷原で起きた事故調査のため、アンデス山脈にあるローランス博士の研究所を訪ねる。そこでボンベも背負わずに氷の下の深い湖に潜っていくダイバー、ジャックに出会う。彼は潜水中の人間生理を研究する博士に協力してダイビングを繰り返していた。
コート・ダジュールに戻ったジャックは、20年ぶりにエンゾ(ジャン・レノ)と再会、エンゾは10 日後にシチリアで開催されるフリーダイビングの大会に参加するよう告げ、ジャックの前に航空券を置いて去る。一方、アンナはローランス博士からジャックが大会に出場することを聞きつけ、上司を騙しシチリアへと向かう。いよいよ大会が始まり、ジャックは108メートルの潜水を成功させ、世界の頂点に立つ。その夜、ジャックとジョアンナは初めて愛を確かめ合うが、深夜ジョアンナが目を覚ますとジャックの姿はなく、海でイルカと泳いでいた。そんな彼を見てジョアンナはニューヨークに戻ることを決意する。
ジャックへの対抗心に燃えるエンゾは、無謀なダイビングに挑み、命を落としてしまう。その魂にひかれるかのように、ジャックもまた大海原に一人乗りだしていく。彼を愛し、彼の子を宿したジョアンナを残して。やがて、人間の限界を超える深海に達したジャックの目の前に一匹のイルカが現われ、彼を底知れぬ深淵へと連れ去っていくのだった。

※冬のアンデスの湖、氷のしたを進むジャック(↓)
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by SSM2438 | 2011-01-15 12:40
2011年 01月 14日

ヒットマン(2007) ☆☆☆

f0009381_0441139.jpg監督:グザヴィエ・ジャン
脚本:スキップ・ウッズ
撮影:ローラン・バレ
音楽:ジェフ・ザネリ

出演:
ティモシー・オリファント (エージェント47)
オルガ・キュリレンコ (ベリコフの情婦・ニカ)

       *        *        *

オルガ・キュリレンコ、無駄にサービスしまくりですな。。。

演出的には今風のちゃらちゃらした演出なのだが、面白かった。血しぶき演出は実にかっこいい。
できるならジョン・フランケンハイマー的に渋くとってほしいのだけど・・。こういう撮り方をされるとまるでゲーム原作の映画みたいで(実際そうなのだけど、せめてそう感じさせないような作りにしてほしいものだ)、存在感のないかっこつけ映画になってしまう。列車のなかでのあの4人の拳銃つきつけあって、そのあと短剣でのチャンバラ合戦は、しらけてしまう。ああいうところをもうちょっときちんと、ふつうに不器用に演出してほしいのだけど・・・、叶わぬ願いか・・・。

ヒロインのさきほど『007・・・』のボンドガールにもなったオルガ・キュリレンコ、この人いいですね。今回の映画では刺身のつまみみたいな役で、無駄にオッパイとだしてて、さらに鞭打たれるシーンいれられてましたけど、もうちょっと有効につかわれていい人だと思う。写真なんかのパッと観だとあまり良いなっておもわないのだけど、多分実物みても全然興味の沸かない顔だとも思うが、映画のなかではなんかいい雰囲気をもっているのだ。実に雰囲気がいい女優さんである。『薬指の標本』のときのような役回りがまわってくるといいのになあ。今回のとりあえずありきたりの添え物女のような存在だともったいなさすぎる。でも、彼女が全裸でムチ打たれているシーンはもっとみたかったけど(笑)。

<あらすじ>
“エージェント47”(ティモシー・オリファント)の新たな標的はロシアの政治家ベリコフ(ウルリク・トムセン)。その男をヒットするも、その現場を娼婦のニカ(オルガ・キュリレンコ)に目撃され、組織から彼女の暗殺を依頼される。暗殺を遂行しようとしたが、ニカは自分をみてもわからない様子。・・・何かがおいかしい。彼はニカの暗殺を中止する。ニカをつれだし彼女から理由を聞き出そうとするが、組織も“47”を狙っている。
実はベリコフには影武者が何人かいて、本人が殺されたあとも、その影武者が政権に着こうとしているのである。そしてその事実をしるもの、ニカと“47”を殺す指令をだしていたのだ。イスタンブールでベリコフの弟を抹殺。葬式の日にベリコフを殺す計画を立てる。そして事は遂行された。

by ssm2438 | 2011-01-14 00:44
2011年 01月 13日

ゴーリキー・パーク(1984) ☆☆

f0009381_13234565.jpg監督:マイケル・アプテッド
原作:マーティン・クルーズ・スミス
脚本:デニス・ポッター
撮影:ラルフ・D・ボード
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:
ウィリアム・ハート (レコン・アルカージ民警捜査官)
ジョアンナ・パクラ (ソ連の反体制思想の女性イリーナ)
ブライアン・デネヒー (NYPD警部補カーウィル)

       *        *        *

うわ・・・、みんな寒そう。

<あらすじ>
1977年4月、モスクワのゴーリキー公園で雪の下から男女3人の射殺体が発見される。いずれも顔面を鋭利な刃物で削ぎ落とされ、指先も切断され判別不能。捜査を命じられた民警の主任捜査官レンコ(ウィリアム・ハート)は残虐な事件の背後に見えかくれするKGBの影に当惑する。彼は人類学研究所に被害者の顔の復元を依頼する一方、被害者のひとりがはいていたスケート靴から運命の女性イリーナ(ジョアンナ・パクラ)と出会う。反体制派の彼女に次第に魅かれてゆくレンコ。そして捜査線上に浮かぶアメリカ人の毛皮商オズボーン(リー・マーヴィン)、さらに弟を探しにきたというアメリカ人(ブライアン・ドネヒー)=実はニューヨーク市警の部補カーウィル、などが登場。そのなかでレコンは真実を追い求めていく。

犯人は、物語の中盤で分かってくるので、推理小説というジャンルではない。どちらかというと、社会主義体制の動きづらいなか、クールに地道にがんばるソ連の捜査官のハードボイルドものと考えたほうがいいだろう。

「頭蓋骨からの顔の再生」というテーマは、最近ではメジャーになってきたが、私が見た中ではこれが最初だった。それ以前にある漫画のなかでそんな展開があったが、それが似たようなものだったので、あ、この作品が「頭蓋骨からの顔の再生」というテーマの走りだったのかもしれないと思った。

原作は、英国推理作家協会ゴールド・ダガー賞(最優秀長編賞)を受賞したミステリー。アメリカ人作家によるサスペンス・ミステリーなれど、舞台はモスクワ、主人公はソ連の警官、そして英国で評価された作品。それを『007/ワールド・イズ・ノット・イナフ』と『愛は霧の彼方に』マイケル・アプテッドが監督してつくられた作品。この監督さん、地味だがきちんと撮れる人で私は好感をもっている。

主人公たちはソ連人なのだが、それをアメリカ人のウィリアム・ハートが演じ、それも英語を話すので見ている側としては一瞬戸惑う。なれれば英語で展開するソ連を舞台にしたソ連人の物語って分かってくるのだけど、当時このVHSを借りてきた私は予備知識がなかった。あとで調べたら原作は地味に人気のある作品だったようだ。しかし、映画は・・・・こちらはかなり地味で、抑揚がなさ過ぎた・・と印象がいなめない。

映画ではそこまで描かれてなかったのだが、このドラマのポイントはソ連の共産主義体制のなかで行う捜査の困難さと、そのなかでそれでやりぬいていく主人公の硬骨さだろう。
国家は間違いを犯さない。ゆえに、有罪でなければ裁判は開かれない。そんな真実の解明とは無縁の司法制度。そんな環境下でもなお真実を追い求めようとする捜査官レコン・アルカージ。しかし、彼のそんなまじめささえも、ソ連の社会にとっては憎むべきものになってしまう。思想の自由が制限された社会においては、レコンのようは自由な発想とまじめな行動力をもつ人物でさえもそれだけで危険因子であり、まわりからの圧力も捜査をにぶらせる。形式的な法律の遵守よりも社会の利益が優先される法治主義。さらに、レコンが所属する民警の担当は国内犯罪限定。そこに国家の安全保障にかかわる問題を担当するKGBがからんくる。本作では捕まえるべき真犯人が明らかになっているにもかかわらず手出しすることのできない状態。
物語が進むにつれて、犯人を追っているのはアメリカのブライアン・デネヒーも一緒で、彼がレコンの見方になってくるだが、犯人は捕まらないまま終わってしまう。物語を通じてレコンのがんばりから生まれた結果は、イリーナを自由の国に亡命。
なんとか、それで物語りはまとまったかな・・という感じ。

しかし、殺人の原因となったのが毛皮の密売という、あまりに姑息なモチベーション。そんなことで人殺すなよって思ってしまった。まあ、その毛皮の価値をしらない私だから言えるのだろうが・・・。

by SSM2438 | 2011-01-13 13:28
2011年 01月 13日

リプレイスメント・キラー(1998) ☆

f0009381_193552.jpg監督:アントワーン・フークア
製作総指揮:ジョン・ウー他
脚本:ケン・サンゼル
撮影:ピーター・ライオンズ・コリスター
音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ

出演:
チョウ・ユンファ (ジョン・リー)
メグ・コヴァーン (ミラ・ソルヴィーノ)

       *        *        *

おお、ミラ・ソルヴィーノってこんなに動くんだ。

最後の銃撃戦といい、ラストの空港でかかるBGMといいリドリースコットの『ブレード・ランナー』をやてみたかったんだね・・って感じでした。撮影的にも赤やら青やらのネオン光をやたらと判り易くつかった絵作りで初心者的なニュアンスぷんぷん。これがもうちょっと大人になると、『ミュンヘン』なんかをとったヤヌス・カミンスキーみたいなシックでコクのアル画面になってくるのだけど・・・、大人的な魅せ方はしてない(出来なかった)映画でした。

ジョン・ウーが制作総指揮をつとめているこの映画、ほとんど銃撃戦ばかりで、ストーリーや人物の描きこみはかなり記号的。でも、その銃撃戦ばかりをあきさせるずに見せる見せ方だけはこころえてる。結果的にやっぱりジョン・ウーみたいな映画になっているが、かといってジョン・ウーだけのちからでもない。監督は後の『トレーニング・デイ』『ザ・シューター/極大射程』などを撮ることになるアントワーン・フークア。実はこの人もしっかりアクションを映画を取れる人なのである。
でも、基本ラインはジョン・ウーの世界でしたね(苦笑)。
この人の場合は、もう様式美なので、お話がどうのこうのというよりも、この世界観が好きかどうかによるところがおおきい。どう展開するのか判ってないものを展開させるのではなく、どうなるかをわかっているものをどうかっこよくみせるか・・、それがジョン・ウーの世界なのである。
ただ、アクションシーンの8割は銃撃戦なので、そうでないところ拾ってみるときっとかなりつまらない出来なのだろう。ジョン・ウーの様式美参考映画としては、ジョン・ウー過ぎないのでいいかもしれない。

この映画はチョウ・ユンファのハリウッド進出第一弾という映画。時間も90分に満たない映画なので一気にみられる。助演のお姉ーちゃんはミラ・ソルヴィーノ。ウディ・アレン『誘惑のアフロディーテ』のお姉ーちゃんである。しかし、この映画ではチョウ・ユンファに偽造パスポートを頼まれる、事件にまきこまれる女の子のやくなのだが、ガンアクションもなかなか頑張っている。

<あらすじ>
息子を殺されたチャイニーズ・マフィアのドンは殺し屋ジョン・リー(チョウ・ユンファ)を雇い、自分の息子を手にかけた刑事ジーコフ(マイケル・ルーカー)への復讐を誓う。しかし、ジョン・リーがうけた命令は、同じ苦しみを与えるために、彼の7歳の息子を狙撃することだった。しかしジョンには出来なかった。
命令に背いたことで彼も狙われることになる。一刻も早く上海の家族の元に飛び、彼らを国外に脱出させなければならない。そのためパスポートの偽造屋のメグ・コヴァーン(ミラ・ソルヴィーノ)を尋ねるが、そこに組織に襲撃され、メグとジョンは一緒に行動するようになる。
ジョンの裏切りをしったチャイニーズマフィアは、ジョンの代わりの殺し屋=リプレイスメント・キラーを呼び寄せる。映画館でジーコフ刑事の息子を助けたジョンとメグは、傷つきながらも組織の本拠地に乗り込み、死闘の末ウェイを倒すのだった。

by ssm2438 | 2011-01-13 00:31
2011年 01月 12日

ファミリービジネス(1989) ☆

f0009381_1214534.jpg監督:シドニー・ルメット
脚本:ヴィンセント・パトリック
撮影:アンジェイ・バートコウィアク
音楽:サイ・コールマン

出演:
ショーン・コネリー (泥棒野郎の祖父)
ダスティン・ホフマン (でもあんまり賛成しかねる父)
マシュー・ブロデリック (祖父を尊敬している孫)

       *        *        *

ダスティン・ホフマン・・・損な役。

むむむむ・・・・、まったく面白くないぞ。
ルメット不調時代のなかでももっとも面白くない映画。

<あらすじ>
泥棒一家の祖父ジェシー・マクマレン(ショーン・コネリー) 、父ヴィトー(ダスティン・ホフマン)、息子アダム(マシュー・ブロデリック)。祖父のジェシーは泥棒のスリリングさに燃えているのだが、その息子のヴィトーはまじめに生きたいと思っていた。孫のアダムもまじめな方向性は親譲るなのだが、祖父の熱き泥棒スピリットには憧れを抱いているのも事実だった。
そんな祖父にアダムは、研究開発中の酵素細胞と、そのデータ・ブックを盗み出す泥棒計画を打ち明ける。祖父は孫の計画に乗ることにするが、それを知った父は猛烈に反対。しかし絶対に裏切ることのない人間がもう1人必要だというというジェシーの説得にまけ、ヴィトーは息子を守る口実でまたも泥棒に加わることになる。
しかし、アダムは警察につかまってしまう。妻にうながされて自首して真相を話す父。裁判の結果、アダムとちとは執行猶予刑を宣告されるが、祖父は実刑判決をうけてしまう。自分のために父を売ったと息子になじられる父。祖父は獄中でその一生を閉じる。

最後は一応父と息子の和解にはなれど・・・、だったらはじめっからそういうこと(家族をまきこんで泥棒家業)するなよっていうのがせつなる印象。

信用が大事とはいえ、「家族で犯罪する」っていうコンセプト自体にかなり抵抗を感じてしまう。ちょっとまえに見た『シシリアン』もファミリービジネスで犯罪をおかすシチリアマフィアの話だが、信用がおけるかもしれないが、リスクマネージメントにそがれるエナジーがおおすぎる。それが少ないとの『ファミリービジネス』のようなうすっぺらい家族で犯罪ドラマになってしまう。
そもそも、家族というのがそんなに信用がおけるものなのかどうか・・そのあたりが個人的には疑問である。日本の歴史をみても親族、親子兄弟で政権をあらそった場面は多く登場し、家族の血よりもその人が所属する世界のほうが重要なのがあたりまえ。つまり、ほんとに大事になったときには、裏切られる可能性はつねにあるはずだ。
さらに言わせてもらえれば、家庭を継続していく以上は、それぞれがすこしづつ嘘をついていかなければならないのだと思う。『男女7人夏物語』のなかでちあき(池上季実子)が、もも子の(大竹しのぶ)の家庭に関してそのような台詞をはいていたが、まさにそのとおりで、個人としての欲望をすべて犠牲にして家族のために・・っていうのは現代の社会ではほとんど不可能だろう。その結果、個人それぞれの生活をもち、家族にはそれを部分的隠して生きていくというのが普通の形態であり、なおかつ家族という枠組みは、それ全体が危険にさらされない限り、それぞれの主体性はある程度ゆるしておいてはじめて成立し続けるものだ。少なくとも、そのほうがドラマにするならリアルに感じる。
別な言い方をすれば、家族というのはそれなりに嘘をつき、それを知らない振りしてこそ成り立つもので、そもそも「家族だから信用できる」という概念こそがかなりありえない概念であり、すくなくともドラマでそのコンセプトを使うことは話をしらけさせるだけのような気がする(実際この映画ではそうなったが・・)。

まあ、シチュエーションを楽しむ映画としてはそれもありかもしれないが、それでも、それくらいのリスクは理解したうえでやるのなら面白いのだが、やってて失敗してからああだこうだと困るのはじつにばかげてる。ありえない人物関係で映画をやるのは面白いかもしれないが、そこに真実味がなければ、見ている人にはコンセプトを受け入れてもらえない。この映画は、その観客に物語の基本設定を受け入れてもらえないまま物語が進行するので、みているこっちとしてはさむい笑いしか起きない。

ルメット・ファンの私としてはとても残念な映画だった。

by SSM2438 | 2011-01-12 12:08 | シドニー・ルメット(1924)
2011年 01月 10日

橋の上の娘(1999) ☆☆☆

f0009381_10204429.jpg監督:パトリス・ルコント
脚本:セルジュ・フリードマン
撮影:ジャン=マリー・ドルージュ
編集:ジョエル・アッシュ

出演:
ヴァネッサ・パラディ (アデル)
ダニエル・オートゥイユ (ナイフ投げのガボール)

       *        *        *

うわ、それって、刺さるってば・・・、うわ!

フランス映画界にはってはかなり見易いほうの監督パトリス・ルコント。しかし、最初の2本『髪結いの亭主』『仕立て屋の恋』のほかはやや低調。見慣れてきたせいもあるのだろうが、いまひとつ大雑把さを感じるときもある。ただ、見せ方はとっても上手い人なのでついつい見てしまうのだが、終わってみると見せ方だけでひきつけられてあとはなにものこらなかった・・という作品もままある。『イヴォンヌの香り』などは最悪。女優さんが最高にいいので、仕方がなく見てしまうのだが、あの話なんてほとんどないようなものだ。
そんな作品に比べるとこの『橋の上の娘』はまだときめいたほうだったが・・、先の2本のどのインパクトはなかったというのも事実。

主演は『ぼくの大切なともだち』ダニエル・オートゥイユ。そして彼が橋の上で逢った女がヴァネッサ・パラディ。映画もたまに出ているのだがそれほど多いわけではない彼女は、ジョニー・デップと交際し、当時二人の子供をもうけた。この映画の撮影中にはもう付き合っていたのかな。この映画がフランスで公開されたのが1999年3月31日。彼女がジョニー・デップとの間にできた長女を出産したのが同年5月。そんなことを考えると、この映画の撮影中にはもう妊娠してたのかなってかんぐってしまう。
個人的にはどうも、あの、前歯の間に隙間があるのがダメで・・、あれだけなんとか矯正できないものかといつもおもっていたのだえど・・。あそこに隙間があるとなんだか、食べ物のかすも挟まってしまいそうで・・(余計な心配ですが、ついついしてしまう)。
そんなわけで、ヴァネッサ・パラディに関してはまったく関心がなく、かわいいとも思ったことはなかったのですが、この映画の彼女はおもったよりもなんだがかわいく撮られていた。こんなところでもさすがにルコント。

今回ルコントが題材に選んだのはナイフ投げ。その芸人であるダニエル・オートゥイユが的になる女性としてえ選んだのが、自殺志願さだったヴネッサ・パラディ。それまでなかづ飛ばずだった男の生活が、彼女と出会いとたんに活気付いてくる。彼女を的になげるシーンはどきどきしてしまう。その緊張感と恐怖に酔うパラディがまたなんとも色っぽい。このあたりの見せ方はさすがルコントって思わせる。
ただ、そんなハッピーライフはいつまでも続くわけではなく、やっぱりさりげなく破綻してくる。そのあたりからナイフ投げの正確さも狂ってくるダニエル・オートゥイユ。別の女が的になったときはもう怖い怖い。でも怖いのは一瞬の「ぎゃあああああああああ」でカット変えてくれるのでそれほどドラマに真剣に痛さをもちこまないように作ってくれている。でグロいネタはさらりとながすルコント演出である。
ただ、その投げたナイフがどこにささったのか想像するしかないのだが、見てる側としては「これははずすぞ、はずすぞ」って見ている間はなかなか怖い。

<あらすじ>
セーヌ川にかかる橋の上から投身自殺しようとしていたアデル(ヴァネッサ・パラディ)は、ナイフ投げの曲芸師ガボール(ダニエル・オートゥイユ)に命を救われる。「どうせ死を覚悟しているなら・・」ということでナイフ投げの的になることを依頼された彼女は、ガボールと組んで巡業に出た。彼女と会ってガボールの人生は好転した。行く先々で喝采を浴びるガボール。
しかし、行きずりの男と逢瀬を重ねるアデルの生活は変わらなかった。イスタンブールに向かう船中、新婚カップルに出会ったアデルは新郎と関係を結び、駆け落ちを宣言。別れが元でツキに見放されたふたりは、別々の場所でお互いに失ったものに気づいた。放浪の末、見知らぬ町の川の橋の上に絶望して立つガボール。そのとき、アデルの声が響き、ふたりは再会する。

by SSM2438 | 2011-01-10 10:22
2011年 01月 09日

髪結いの亭主(1990) ☆☆☆☆

f0009381_19573080.jpg監督:パトリス・ルコント
脚本:クロード・クロッツ/パトリス・ルコント
撮影:エドゥアルド・セラ
音楽:マイケル・ナイマン

出演:
アンナ・ガリエナ (マチルド)
ジャン・ロシュフォール (大人アントワーヌ)
ヘンリー・ホッキング (子供アントワーヌ)

       *        *        *

ジャガール・ワールドが芳しい男の夢。

この映画はドラマというよりも、「私が想像する<至福の幸せ>とはこういうものだ」という夢想を、パトリス・ルコントが具現化してみせた夢物語。なのでこの映画をみて批評するなど無意味で、「じゃあ、これ以上の至福の幸せがどこにあるんだ?」と言われそう。とにかくルコントは、「至福の幸せとは・・?」というテーマでいろいろ哲学してみたのだろう。その結果がこれだった・・ということ。

以下、マルク・シャガールの絵を集めてきた。この映画を語るにはこの絵があれば充分だろう。

傑作である。
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by ssm2438 | 2011-01-09 19:58
2011年 01月 08日

眠らない街 新宿鮫(1993) ☆

f0009381_15212451.jpg監督:滝田洋二郎
脚本:荒井晴彦
撮影:浜田毅
音楽:梅林茂

出演:
真田広之 (鮫島刑事)
田中美奈子 (晶)
奥田瑛二 (木津)

       *        *        *

和製ハードボイルドなのだが・・・

他のハードボイルド作品と差別化するためのポイントはゲイワールド。といっても主人公の鮫島刑事(真田広之)はゲイではない。彼が追う改造拳銃つくってる木津(奥田瑛二)という男がゲイなのである。この映画のポイントは、奥田瑛二を追っていた真田広之が逆につかまり、ゲイ好みの拷問にあうとうい、今で言うならBL系SMプレイが展開されるところかな。
ただ、この奥田瑛二が最後まで適役として残らないのがなんだが今ひとつ煮え切らないストーリー構成だった。なんでこんなにしてしまったのでしょうね? 原作がそうなのかもしれないが、どうも、奥田瑛二を殺した時点で見る側としては終わったなって感じになってしまい、そのあとの展開がなんだか蛇足のように感じられた。
というか、相手にとって不足がありすぎた。

この物語の根本的なミスは、奥田瑛二ふんするゲイの改造拳銃の作り手・木津を必要以上にアピールしすぎたことだろう。ゲイ的拷問シーンは確かに売りにははるのだが、そっちが本線ではない以上それほど大げさにする必要があったのか? というか、そこだけがインパクトに残るようでは物語の根本がおかしいことになる。
この拷問シーンで泣きそうになりながらひいひいしている真田をみると、「鮫」と呼ばれて恐れられている刑事という基本コンセプト事態が崩壊してしまった感がある。

そのあと展開される田中美奈子でやった『ストリート・オブ・ファイヤー』コンサートは、やりたかったのかもしれないが、なんだかとってもチープで悲しい。

監督は『おくりびと』『木村家の人々』などの滝田洋二郎。日活ロマンポルノ出身の監督さんなのだが、こちらからの出身の監督さんでまともに絵が作れる人はいないような気がする。滝田洋二郎も例外にもれず絵作りはひどい。根本的に彼らの映画哲学に絵作りという概念がないのだろうな。

<あらすじ>
暴力団からも警察内部からも恐れられている新宿署防犯課の警部・鮫島(真田広之)は、改造銃のスペシャリスト木津要を追っていた。しかし所内で警官二人が殺され、それが木津のつくった改造拳銃だということが判明、特捜部が開設される。警視庁からやって来た公安一課の香田警視と鮫島は因縁の仲で、鮫島は一転四面楚歌の状況陥る。
鮫島はとうとう木津の仕事場と突き止め踏み込むが、逆に木津に捕まってしまう。ゲイ拷問にあい絶体絶命の鮫島を助け木津を射殺したのは、上司の桃井課長(室田日出男)だった。改造銃は砂上という青年に渡ったことが判明する。砂上は以前世界サミットの厳重警戒で警官が多数出動しているにもかかわらず、歌舞伎町でヤクザにリンチされたことがあり、警察を恨んでいたのだ。
そんな砂上があこがれていたのは鮫島と恋仲であるヴォーカリスト晶(田中美奈子)。ライブハウスでまさに砂上が晶とともに心中しようとした時、鮫島は彼を倒し、晶を助けるのだった。

by SSM2438 | 2011-01-08 15:21
2011年 01月 08日

SF/ボディ・スナッチャー(1978) ☆☆☆

f0009381_14374882.jpg監督:フィリップ・カウフマン
原作:ジャック・フィニイ
脚本:W・D・リクター
撮影:マイケル・チャップマン
音楽:デニー・ザイトリン

出演:
ドナルド・サザーランド (マシュー・ベネル)
ブルック・アダムス (エリザベス・ドリスコル)
レナード・ニモイ (Dr.デヴィッド・キブナー)
ジェフ・ゴールドブラム (ジャック・ベリチェック)

       *        *        *

ラストにもう一発ムンクの叫び
「くうぉぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


侵略SFの古典、ジャック・フィニイ『盗まれた街』の映画化。渋くこわい。この、耐えられそうで耐えられないれないところをついてくる地味さがこの映画の味なのだろう。

最初に映画化されたのは1956年で、『ダーティーハリー』『アルカトラズからの脱出』などで知られるドン・シーゲルが監督した映画。当時はもちろん白黒なのだけど、白黒で描くSFというのには、妙にマッチしていたSFだなあって思った。この映画、色がついてきたりやたらと照明をこりまくったりするとなんかダメになる。
1978年にリメイクされたこの映画だが、こののちも同じ原作から2度映画化されている。ただ、表面的な派手さがホラー感覚度を増してきている印象があるのだが、どうも、あんまりそっちにふってほしくない題材ではあるな。個人的にはこの2回目の映画化のフィリップ・カウフマンのバージョンが一番好きだ。
・・・でも、人面犬は・・・なかなか笑えた。

サンフランシスコを舞台に、宇宙からの侵略者が、一般市民の肉体をジャックしていくとうSFスリラー。とはいっても、『遊星からの物体X』みたいな体を裂いてエイリアンが出てくるぞ、どばああああああああああんっと映画ではない。エイリアンも、肉食のエイリアンというイメージではなく植物性なのだ。エイリアンののっとられた人間たちは、意志を喪失するのだが、どちらかというと蟻とかミツバチのような集団意識隊のなかの一個の固体になるという、社会主義がいくとこまでいくとこうなりますいよ・・みたいな提示。
それまではやたらと感情をだしていた人間がエイリアンに体をスナッチされてしまうとそこにいる個体は個性を失ってきわめておとなしいう、決して感情を出すことはなく(もっとも失っているので出ないのだけど)、怒りなどの衝動的な行動もおこさなくなる。それだけで人類に世界平和をもたらすためにきたエイリアンともいえなくはないが、でも、それだと、進化しない生命になっちゃうよって感じ。

この体をスナッチする方法もまた異様。人々が寝ると、どこからともなくツタような触手が窓からから侵入してきて、体にまきつき、データを収集しているのだろう、家の外にはエンドウマメのような繭があり、そのなかで同じ姿をした、でも感情をもたない別の個体が作られていく。コピーがおわると、もとの肉体はしなびてこの世から消え去る。でも、次の日、同じようにその人は行動するのだけど、感情がなくなっている。でも、具体的にどこかが変というだけでなので最初は何が起きているのかわからない。しかしそうしているうちに、人々が寝て間にどんどんどんどん、体がスナッチされていき、最終的には町全体の人間がスナッチされた固体の集合体になってしまう。
この血みどろ感のないところがこの映画のツボなのです。

さらに、この「眠たいのに寝られない」という、アニメーターの宿命を一般人にわからせるにもいい映画でしょう(苦笑)。

<あらすじ>
サンフランシスコ。その町では、ある時から感情を表にださない人間がさりげなく増えていく。
州公衆衛生調査官であるエリザベス(ブルック・アダムス)の恋人もその一例だった。それを同僚のマシュー(ドナルド・サザーランド)相談するが、反対に精神科医につれていかれるしまつ。しかしマシューも、行きつけのクリーニング店の主人から妻が別人のようになったと訴えられ、ことの異常さを理解し始める。ある日、美容風呂を経営しているジャック(ジェフ・ゴールドブラム)の店で不思議な物体が発見された。駆けつけたマシューがみたものは、異様なマユ状物質の中の胎児のような粘着性をもつ、ジャックの顔をした死体"であった。マシューはエリザベスに電話するが、何か様子がおかしい。駆けつけると、彼女の家でも、睡眠中のエリザベスの間隙を衝いて、彼女になり変わろうとするエリザベスの未完成体をつつんだ繭が発見された。
知らないうちに街のほとんどの人は見えないエイリアンの体をすりかえられていた。その中で生きていくには、感情をださずに生活することだ。今、信用できるのはマシューとエリザベス、ジャックとその妻だけだ。それでも眠らないわけにはいかないので、その時はだれかが起きていて、怪しいツタがよってこないかみはるしかない。それでも、徐々に体力が蝕まれていく。感情なき個体群はそんな4人をおいつめていく。

未来がないとわかっていても、やっぱり人間でいたいと思ってしまう人間の性。<無駄なあがき映画>の傑作のひとつだと思う。それも静かなる侵略というコンセプトがよい。

・・・しかし物語には関係ないが、怪しいのは実は主人公たち男優陣で、およそ感情がありそうにないドナルド・サザーランド、まだハエになっていないジェフ・ゴールドブラム、耳がとんがってないレナード・ニモイ。この3人って素で宇宙人にみえるのだけど、この3人が人間やってるってことがなんだか不思議なキャスティング。こいつらをみたら、宇宙人だって「すでに体をのっとられているにちがいない」と勘違いしても仕方がない。だから選ばれたのだろうか・・・。

by SSM2438 | 2011-01-08 14:40