西澤 晋 の 映画日記

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2011年 01月 06日

ゴールデンボーイ(1998) ☆☆

f0009381_104988.jpg監督:ブライアン・シンガー
原作:スティーヴン・キング
脚本:ブランドン・ボイス
撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル
音楽:ジョン・オットマン

出演:
ブラッド・レンフロー (トッド)
イアン・マッケラン (ナチの戦犯クルト・ドゥサンダー)

       *        *        *

スティーヴン・キングの話っていうのは、『ドラエもん』なのである

名前を変え、ひっそりと暮らしていたナチの戦犯の老人を偶然にみつけてしまった少年の話。でも、彼を告発するとかではなく、秘密を守る代わりに、彼の昔の悪行を話してもらうことにする。少年はその話からきく人間の残虐性に興味をもち引き込まれていくと同時に、老人もかつての悪行に酔っていった思いが再燃してくる・・という話。
人間のもつ残虐性を、そのことは忘れ穏やかにくらしていた老人と、そんなことなど経験したこともない少年は、どんどん暴いていき、魅了されていく話。勧善懲悪の物語ではなく、残虐性に遠い位置にあった老人と子供が、そのパンドラの箱をあけてしまい、ふれあいをきっかけに残虐性という魅力的な毒に犯されていく構成。
なので、ブラッド・レンフローが「良き主人公の少年なんだ!」って先入観でみると、入り口を間違えてしまうことになる。ブラッド・レンフローは、あくまでその魔力に魅了されていく少年であり、だんだんと魔力を制御しきれなくなってしまう立場。

実は、スティーブン・キングの物語というのは、物語構成的にみると『ドラえもん』とほとんど同じなのです。のび太君が、ドラえもんの出す不思議アイテムに便利さを感じ、だんだんとそれを悪用するようになり、収拾つかなくなるのだけど、なんとかそこを自分の理性と勇気とがんばりで収拾させるという構成。

ただ、キングの話にしては、強烈な犯罪行為が行われる作品ではなく(一応あることはあるが)、人間の日常の生活の中で人の心が吸収修復できる範囲のもの(?)の範囲で描かれている。それほど強烈は怖さはなく、とらぶり始めてからのばたばた感とそれの収束がいまひとつ気持ちよい展開ではないのが残念。

監督は『ユージュアル・サスペクツ』ブライアン・シンガー。こねくったエンタテーメント系を理詰めできっちり作る人とう印象。ヒッチコックが好きなのかもしれない・・というにさりげない臭いはする。なので、私としてはそれほど好きな監督さんではないのだけど、きっちり感はとても感じる人なので嫌いではない。
しかし・・・、このブライアン・シンガーにしてもブライアン・デ・パルマにしてもブライアンと名がつくとヒッチコックのファンになるのだろうか(苦笑)。

<あらすじ>
ロサンジェルス郊外に住む高校生トッド・ボウデン(ブラッド・レンフロ)は、学校の授業でナチスドイツのもつ人間の残虐性に少なからず興味をもつ。そんなやさき、バスの中でナチス戦犯クルト・ドゥサンダーらしい人物を目撃してしまう。まさかとおもいつつもついついその男のあとをつけるトッド。興味が抑えられないトッドはイスラエル政府発行の手配写真と指紋でチェックし、その老人の家を訪問する。彼は、アーサー・デンカー(イアン・マッケラン)と名乗るったが、身元などあらかじめ調べておいたデータと照合すると、まさにその男だった。
f0009381_1045030.jpgデンカーはかつてアウシュビッツの強制収容所で副所長をつとめて悪名高いドゥサンダーだった。普通の少年に正体をつかまれて動揺するデンカーに、トッドはこの事実を明るみにしないかわりに、彼がナチス時代に行った残虐行為をすべて話してほしいと頼む。はじめは拒んでいたデンカーだが、やがて毎日のように彼を訪ねてきてむさぼるように話を求めるトッドの熱意に押される、不安を感じながらもデンガーは昔のことを話はじめる。

それまで普通のよわよわしい老人だったのがデンガーが、トッドにかつての悪行を話すようになると徐々に生気をとりもどしていく流れがじつにたのしい。今は普通の老人としてひっそりと暮らしているその男に、ここでは主導権をにぎっている少年が、サディスティクにドイツ時代の軍服を着せていくシーンがあるのだが、このあたりは『めまい』を思い出してしまった。そしていったんそれを着てしまうとそれまでよれよれの老人だったのが、背筋がぴしっとのび、歩き方まで変わってきて、「ハイル、ヒトラー!」のポーズをびしっときめてしまう。見てる側としては、いつ暴走しはじめるのか、はらはらどきどきですよ。

このあとはいろいろやっかいな展開になっていくのだが、デンガーの正体が世間にばれてしまい、イスラエルの政府機関の一員とFBI捜査官がデンカーのもとを訪れる。邪悪に目覚めたトッドは無事高校を卒業、デンカーは病院で自殺を遂げる。

by SSM2438 | 2011-01-06 10:18
2011年 01月 04日

Q&A(1990) ☆☆

f0009381_2221332.jpg監督:シドニー・ルメット
脚本:シドニー・ルメット
撮影:アンジェイ・バートコウィアク
音楽:ルーベン・ブラデス

出演:
ティモシー・ハットン (新米地方検事補アル・ライリー)
ニック・ノルティ (悪徳刑事マイク・ブレナン)

       *        *        *

ルメット作品は節度のある悪役でないとダメだ・・・。

シドニー・ルメットの復活を願い、やっぱりなんだかんだといっても社会派らしい映画の時は劇場に足をはこんだいたのだが、どうも嘗てのキレがないなあ。この話だってルメットお得意の話でどうやってもホームの映画だろうに、なんでこんなに誰がやってもいいような映画に仕上がるんだ???
ルメット・ファンとしてはかなりがっかりだったよ。

とにかくドラマの印象が薄い。画面で思い出すのがニック・ノルティの釜ほるシーンだけという・・・、暴走ノルティに全部持っていかれた感じの作品だった。というか、ルメットの作品にこういうキャラはあんまりに合わないような気がする。
ルメットの作品がルメットらしくみられるのは、きっと悪役が節度を持っている時なのだと思う。
他の作品みても、やっぱりルメット映画の悪役やどこかクールで知的だ。強引な暴力にたよならない知性がある。それがこの作品ではニック・ノルティの強引なパワーでルメットの悪役設定が木っ端微塵に砕かれてしまった。
最初みたときは、この映画ルメットでもやっぱりイマイチだなあって思ったけど、最近思うのはもしニック・ノルティが別の人で、もうちょっとカマほるときも知的でだったらすこしは違ったんじゃないだろうかって思い始めてる。『ギルティ・罪深き罪』の時のドン・ジョンソンとか・・、『プラトーン』トム・ベレンジャーとか・・、どっかクールでニヒルな悪漢だったら雰囲気も変わってきたんじゃないだろうか・・って思ったりもする。

<あらすじ>
新米地方検事補アル・ライリー(ティモシー・ハットン)の初仕事として、ベテラン刑事マイク・ブレナン(ニック・ノルティ)による麻薬売人射殺事件のQ&A(尋問調書)を作ることだった。
しかし、目撃者ボビー・テキサドール(アーマンド・アサンテ)の証言はブレナンの過剰防衛だと言うが、正当防衛を主張するブレナン刑事の主張と食い違う。疑惑を持ったアルは、テキサドールの愛人となっている黒人と白人のハーフ、ナンシー・ボッシュ(ジェニー・ルメット)から真実を聞き出そうとするが、アルの人種差別的言動に拒否反応をしめすナンシーは非協力的だった。
一方、ブレナンは重要な証人ロジャーを捜し出して口封じをしようとする。機先を制したテキサドールがロジャーを連れ去が、テキサドールとロジャーの乗ったヨットはブレナンによって爆破される。さらにアルの部下を抱き込もうとするが失敗して、ついに追い詰められ逆上したブレナンはアルのもとに乗り込んでくるが、撃ち合いの末倒れる。


事件のなりゆきは、さらに上の段階で真相はもみ消されるという、ルメット物ではよく在りそうな社会の理不尽さが出てくるのだが・・・、それでも、もうすこしなんとか納得のいく結末にならなかったものか・・・。これでは、ニック・ノルティは排除できたけど、結局全システムが健全にはならないよ・・という話。

その矛盾と理不尽さを含んだ社会のなかで、個人と個人(この物語のなかではアルとナンシー)のほんとに信頼できるつながりが大事なんだよ・・って事だとは思うな。
多分、ルメットって社会の中ではその理不尽さというのはなくなるものではない!って思ってるのだろう。そうれは当然社会の中ではあるもので、そういう社会のなかでいかに生きていくか、いかに純粋さを保っていくか・・というささやかな抵抗をいつも描いているのだと思う。

by ssm2438 | 2011-01-04 22:05 | シドニー・ルメット(1924)
2011年 01月 03日

硝子の塔(1993) ☆

f0009381_2283180.jpg監督:フィリップ・ノイス
脚本:ジョー・エスターハス
撮影:ヴィルモス・ジグモンド
音楽:ハワード・ショア

出演:
シャロン・ストーン (カーリー)
ウィリアム・ボールドウィン (ジーク)
トム・ベレンジャー (ジャック)

       *        *        *

それでもシャロン・ストーンは見たいと思う女優さんであった。

『氷の微笑』の脚本家、ジョー・エスターハスシャロン・ストーンでもう一発当てようと作った映画であることはみえみえ。なので、興行的にはシャロンが脱いで、みんなが見てくれれば成功のうちなのだろう。

私はどうもジョー・エスターハスって好きになれなくて、入れなくてもいいひねりをいれて、物語をダメにするという印象がやたらと強い。この人がひねりを入れると、それが意外性ではなく、肩透かしになってしまうのだ。そんなエスターハスにしては、結果としてなんもなかったというか・・・、いつもながら入れなくてもいいひねりを入れてストーリーを複雑にみせようとしているが、右にひねりを入れて、左にひねりをいれたら結局元に戻ってしまい、だったら入れたひねりはなくても良かったジャン・・という感じ(苦笑)。

無駄にひねりをいれるよりも、とっても魅力的なシチュエーションをもっと上手いこと仕えなかったものかと思う。だいたい映画というのは、ありえない夢を現実にしてみせてくれるところが魅力的なのであって、考えてもみれば、シャロン・ストーンが自分のマンションに引っ越してきて、そのプライベートが覗き見できるっていう状況になればそれはわくわくですよ。

私だったらシャロン・ストーンの生活空間にはしたくないなあ。それだと夢がなくなる。シャロン・ストーンがウンコしてるところなんてみたかない。そうじゃなくて・・・たとえば、どこかの男に囲われるか、なにかで弱みを握られてて、その場は二人が情事にふける部屋専用で借りられてた部屋・・みたいなシチュエーション。彼女が男と一緒にその部屋をおとづれるときは、いつも屈辱的なセックスを強いられ慰み者にされている・・。そんな彼女の秘められた“H”をみることに中毒になってしまっている主人公。でも、あるとき別の場所で彼女と出会いなんとなく仲良くなってしまった。しかし自分は彼女の屈辱を知っている。彼女を屈辱から解放させたい、でも、彼女の性の奴隷時間の結末もみてみたい。いや、ほんとは自分がそうしてみたい。しかしあるとき事件が起きてしまい、彼女を助けるためには、自分が彼女の屈辱プレイを盗み見ていたことを暴露しなければならない。さあどうする主人公・・みたいな。おお、なんかよくある楽しい話になりそうな感じ。
・・・とまあ、そんな話が思い浮かぶのだが、それとくらべてこの『硝子と塔』という物語は面白くなったかといえば全然その逆で、ひねりを入れればいれるほど、つまらなくなるまさにエスターハス・デフレスパイラル。

それでも、シャロンの裸が見られたからいいやと思わせてくれるシャロン・ストーンはやっぱりいい女。でも、彼女が出てなければポイントレスな映画ともいえる。

<あらすじ>
不幸な結婚生活を解消したカーリー・ノリス(シャロン・ストーン)は、マンハッタンのガラス張りの超高層マンションに引っ越してきた。しかしそのマンションは居住者のカーリーに良く似たナオミ・シンガーという若い女性が不審な死を遂げたマンションだった。
作家のジャック(トム・ベレンジャー)や、同じく住人でゲームデザイナーのジーク(ウィリアム・ボールドウィン)らと知り合う。カーリーはリッチでハンサムなジークに心惹かれ、2人は結ばれた。そんなカーリーにジークは自分の素顔をみせる。彼は父からの遺産としてこのマンションを受け継いだオーナーだった。さらに彼の部屋には秘密のモニタールームがあり、住人達の部屋をすべて見ることが出来た。そこには、自分とジークのセックスシーンもビデオに撮られ記録されていた。一度はショックをうけるも、他人をの生活を覗き見ることにはまっていくカーリー。
そんな状況のなかで殺人事件が連鎖的に起きていく・・。

by ssm2438 | 2011-01-03 22:12
2011年 01月 03日

天使と悪魔(2009) ☆☆

f0009381_6135164.jpg監督:ロン・ハワード
原作:ダン・ブラウン『天使と悪魔』(角川書店刊)
脚本:デヴィッド・コープ/アキヴァ・ゴールズマン
撮影:サルヴァトーレ・トチノ
音楽:ハンス・ジマー

出演:
トム・ハンクス (ロバート・ラングドン)
アイェレット・ゾラー (ヴィットリア・ヴェトラ)
ユアン・マクレガー (カメルレンゴ)
ステラン・スカルスガルド (リヒター隊長)
ニコライ・リー・コス (暗殺者)

       *        *        *

制作ジェリー・ブラッカイマーかと思った・・(苦笑)。

ここまでくるとほとんど『ナショナル・トレジャー』ですね。このさい主人公はニコラス・ケイジにしたらよいんじゃないでしょうか?

『ダヴィンチ・コード』はまだ、基本概念を覆すようなストーリー展開だっただけに面白かったのだけど、今回の『天使と悪魔』はほとんどバチカンを舞台にした『ナショナル・トレジャー』的謎解きモノになってしまい、表面的にはにぎやかになっているが、ドラマ的にはかなりありきたりなロールプレイングゲーム感覚になってしまった。単純な刺激と意外性が楽しい人には良いかもしれないけど、私の印象は、現実にあるものを使って作者が一人妄想遊びしてるだけだな・・というものだった。

で、観終わって思ったのだが、歴史背景の謎解きがなくてもこの話成立するんじゃいか??って思ったのだけど・・・どうだろう? ラングドンと謎解き部分を排除して物語と考えてみる。

バチカンのカメルレンゴ(ユアン・マクレガー)は宗教の影響力の衰えを危惧し、部下に指示してスイスの加速器で製造された反物質を略奪する。それはかつて宗教に迫害をうけたイルミナティという秘密結社の仕業であり、盧溝橋事件、あるいはトンキン湾事件のように、宗教を被害者のように仕立て上げ、宗教への求心力を高める工作をした。まず、法王を殺し、次期法王候補の4人を誘拐殺害し、それを宗教によって迫害された科学のセイにしたてあげ、自らが命をかけてローマとバチカンを救い法王になるという計画を立てた。
反物質を盗まれたことからこの事件にかかわった、ヴィットリア・ヴェトラ(アイェレット・ゾラー)が、地元の刑事Aと協力し事件を解き明かしていく・・。

・・・という展開。

映画をみていると、トム・ハンクスらが一生懸命謎解きやっているので、ついついそれが物語の根幹のように勘違いしてしまうが、仮にラングドンがいなくて、次期法王候補の4人が殺されてバチカンの1丁目と2丁目と3丁目と4丁目で発見されても話の流れはほとんど変わりはない。日記をみたリヒター隊長が、ユアン・マクレガーを怪しいぞって思い、単独で追い詰めたら殺されて、そのあとアイェレット・ゾラーがリヒターの鍵を受け取って机のモニターみたら問題解決。・・・それで成立しているように思う。

『ダヴィンチ・コード』では、ラングドンが解き明かしていく謎こそがセンセイショナルな問題だったのだけど、今回は謎解きがあってもなくてもどうでもいい構成。それに気づきはじめてしまうと、自分がしているハラハラドキドキが無意味なもののように感じられてかなり興ざめしつつなんとか終わりまで見てしまった。

by ssm2438 | 2011-01-03 06:22
2011年 01月 03日

太陽がいっぱい(1960) ☆☆☆☆☆

f0009381_0412067.jpg監督:ルネ・クレマン
脚本:ポール・ジェゴフ/ルネ・クレマン
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:ニーノ・ロータ

出演:
アラン・ドロン (トム・リプレイ)
マリー・ラフォレ (マルジュ・デュヴァル)
モーリス・ロネ (フィリップ・グリーンリーフ)

       *        *        *

This is the アラン・ドロン! ・・である。

ルネ・クレマンの中でも最高傑作だと思う。そしてそれはアラン・ドロンにとっても言えることだろう。

劣等感と変身願望、マゾヒズム‥、人間の根幹にささやかに巣食っているが本来表面化しない人間性の陰部を、表面化を極力おさえつつ臭わせる演出が実にすごい。
個人的にはアラン・ドロンに魅力を感じたことがないのだが、彼の映画の中でこの1本だけは傑出している。この映画にくらべたら他のアラン・ドロンの映画はまったくといっていいほどカスといっていいだろう。

表面的には完全犯罪の話である。・・が、それはどうでもいいことだ。
この映画がこれほどまで刺激的なのは、猛烈な劣等感からくる、変身願望の達成だろう。

この物語の主人公トム・リプレイ(アラン・ドロン)は貧乏なアメリカ青年。そんなリプレイがいつも一緒にいるのがフィリップ(モーリス・ロネ)という金持ちのどら息子。彼はナポリに部屋を借り、職につくこともなく、親の金で毎日遊び歩いていた。
そんな息子に業を煮やした親が、昔からの旧友であるリプレイに5千ドルの契約で、息子を連れ戻すようにヨーロッパによこしてきたというシチュエーション。(1$=100円換算で、50万円。当時の値段なので、その10倍くらいの価値があったかもしれない)

f0009381_126625.jpgさらにフィリップにはパリ生れのマルジェ(マリー・ラフォレ)という彼女がいた。決してフィリップが彼女を大事にしているとは思えないが、そんなフィリップをマルジェが慕っている。トムにとって、彼らの生活は決して届くことのない、理不尽で在りえない雲の上の生活だったのだろう。子供の頃からの旧友だが、フィリップはトムのある種の卑しさを嫌っていた。そんななかで、トムの心の中にはさりげなく殺意が育っていたのだろう。

この映画のスゴイところの一つは、このアラン・ドロンの発する自分に限界を感じてしまっている人間の卑しさが実ににじみ出ているところなのだ。自分にはなにもない。しかしフィリップは、自分がほしいものを総て持っている。自由になるお金も、マルジェも。その圧倒的な劣等感は、すでにリプリーに自分を自分の思うものに進化させていくという地道な努力などさせる健全さを完全に奪い、出来ることなら彼になりってしまいたい思うようになっている。
ほとんどの人は<変身願望>というのはそれなりには持っているものだが、現実的に力を得るには自分自身を成長させていくしかない。名ので現実の中で努力し、経験をつみ、少しづつ自分を強くしていき、そんな自分の在り方を自己肯定して生きていくしかない。しかし、強くなるための努力があまりにも強大に見えてしまったものはそのとてつもなさに自己進化を放棄し、このままでいい、弱いままでいい、自分は誰かの下でいい・・と思い、そう思うことのほうが楽になってくる。自分の惨めさをいとおしく思うようになる、仕えること心の安らぎを見出す。
そうなった人間でも、心の中には憧れがある。強くなる努力をしないで、そうなりたい・・という憧れ、それが<変身願望>となる。リプリーは、このメンタリティに至っているのである。

f0009381_1301094.jpgフィリップを殺すにいたる前の、二人のやり取りも実にいい。
マルジュを伴って友人のパーティーに向うフィリップは、いつものようにトムと連れてヨットに乗り込む。マルジュと“H”をしたいフィリップは、トムに操舵をまかせ船上においやると、船室へのドアを閉め抱擁を始める。嫉妬する天窓から中の様子がみえるトムは嫉妬し、乱暴に操舵し船を揺らせる。起こったフィリップは、トムを備え付けの小船においやり、船外へ流してしまう。なんとかロープを引き寄せヨットにもどろうとするがロープが切れてしまい一人絶望しながら海上にとりのこされてしまう。
事を終えたフィリップが船上にでてみるとトムを隔離したはずのボートがない。あわててユーターンして戻ってみると、炎天下のなか太陽に焼かれて背中が真っ赤になったトムが海上にのこされた小船の上でぐったりしている。さすがに罪悪感を感じるフィリップ。看病するマルジェ。トムのセーターを取りにいったフィリップは、トムが自分の口座の数字を逐一メモしている紙を発見してしまう。

以前にトムが、自分の服と靴を履き、自分のしゃべり方をまね、鏡の中の自分にキスするトムの姿をみたことがあった。“もしかしたらトムは、自分の人生そのものを欲しているのかもしれない・・・”、フィリップはトムの水面下の欲求に恐怖を覚える。
そして身体が回復してきたトムに聞いてみる。

「ボクを殺したいと思っただろう?」
「今回は思わなかった・・」

そのあとマルジェとささいなことからケンカになり、マルジェは船を下りてしまう。船の上でトムと二人になったフィリップ。ポーカーをしながら、自分の殺人計画とその後の展望を聞いてみる。 自分は賢いからきっとやれるとさらりというトム。2千500ドルかけてを申し出るフィリップ。わざとまけてある程度のお金をつかませ、その計画をやめさせようとするが、自分の手札はキングのペアと10のスリーカード。このままでは勝ってしまう。トムがよそ見をしている間に自分の有利な手札を捨てて負けのカードにするが、トムは見破っている。
かまわず2500ドルの小切手を切ろうとするが、全部いただくと、冗談のようのさらりと言うトム。

小切手に自分のサインを書いてみせ、まねが出来るのかと言うフィリップ。
今は出来ないが練習すればというトム。
サインが偽造できても手紙はかねないというフィリップ。
タイプライターがあるというトム。

「すでにお前を殺すことは頭のなかでシュミレートしてあるんだ」ということを、その空気で表現するルネ・クレマン。フィリップにしても「なんとか殺さずに生かせてくれないか」という願いを、それを表面化することなく行われる心理的言葉のやり取りが素晴らしい。

そしてあっけなくプスっと胸をさして殺し、そのあとあいきなり洋上の風の音と並みのざわめき、そのなかで死体を毛布に来るに碇をワイヤーでくくりつけて沈める準備を鼻息荒く行うアラン・ドロン。チェンジ・オブ・ペースも実に素晴らしい。そんなことしてるとマストにボコッと不意にアタックされて死体と一緒に海に落っこちてしまう。なんとかワイヤーをつたって命からがらヨットに戻って、ワイヤーを解くと毛布にくるまれた死体は水没しながら後方に消えていった。そして船室にもどり洋ナシ(?)にかぶりつくアラン・ドロン。
後に第二の殺人を犯すことになるのだが、そのあとは宿屋のおばちゃんに「あの鶏肉食ったかい?」と言われて、思い出したようにそれをレンジから出し喰うアラン・ドロンというカットがある。小心者がなんとか平常心を取り戻そうとする必死のあがきが鬼気迫るほど素晴らしい。

ルネ・サディスト・クレマン一世一代の大傑作である。

by ssm2438 | 2011-01-03 00:45 | ルネ・クレマン(1913)
2011年 01月 02日

ナバロンの要塞(1961) ☆☆☆

f0009381_14442334.jpg監督:J・リー・トンプソン
原作:アリステア・マクリーン
脚本:カール・フォアマン
撮影:オズワルド・モリス

出演:
グレゴリー・ペック (キース・マロリー大尉)
デヴィッド・ニーヴン (ミラー伍長)
アンソニー・クイン (アンドレア・スタブロス大佐)
スタンリー・ベイカー (ブラウン無線兵)
アンソニー・クエイル (フランクリン少佐)
ジェームズ・ダーレン (パパディモス一等兵)
イレーネ・パパス (マリア)
ジア・スカラ (アンナ)

       *        *        *

アリステア・マクリーンの楽しさが表現された冒険小説の映画化。

第二次世界大戦時の話で、ヨーロッパ戦線の東の端、ドイツは中立だったトルコを見方に引き入れるために、トルコと目と鼻の先にあるギリシャのケロス島に軍を大量に送り込んできた。その島のイギリス兵たちは圧倒的なドイツ軍の数の前に撤退するしかなく、イギリス軍は駆逐艦6隻をケロス島に向かわせる。しかし、その水域にはドイツ軍のナバロンの要塞があり、その水域を航行する軍艦や輸送船を大型の砲塔で狙い撃ちにしていた。主人公たちは6人の精鋭部隊は、このナバロンの要塞の大砲塔を無力化するために送り込まれる・・という話

007シリーズのイアン・フレミングより20歳ほど若く、第二次世界大戦を20代で経験したアリステア・マクリーン。イアン・フレミングと人気を二分する戦争、スパイ、冒険小説での第一人者であろう。その中においてこの『ナバロンの要塞』がもっとも有名な映画であり、後に『八点鐘が鳴るとき』『軍用列車』『黄金のランデブー』などいくつかの作品が映画化されてる。多分短編小説だとはおもうが、マクリーン原作の映画では個人的には『テロリストゲーム』が大好きである(笑)。007のような一人で行動するよりも、何人かでチームを組み作戦に挑むというものが多く、かならずみうちにスパイがいる(苦笑)。この『ナバロンの要塞』にしてもやっぱりそうだった。
1シーン1シーンでの登場人物同士の微妙な精神的やり取りや、物理的なやり取りをかなり書き込む人なので、部分的には面白いのだが、トータルでみるとちょっと出来すぎかなと思わせる部分もあったりする(苦笑)。

この物語りも戦闘シーンというよりも、戦時下の緊張感のなかで要塞爆破のミッションを遂行していくスパイモノ的要素がつよい。そして物語の面白さをきわだたせているのが、キャラクター設定の明確さだろう。

冷酷なまでに沈着冷静なマロリー大尉(グレゴリー・ペック)。
ミッションリーダーだが、負傷してしまい足でまといになるフランクリン少佐(アンソニー・クエイル)。
フランクリン少佐の旧友で、出世欲のない気の良いミラー伍長(デヴィッド・ニーヴン)。
かつてマロニー大尉のあまり判断から家族をドイツ兵に皆殺しにされたスタブロス大佐(アンソニー・クイン)。
ナイフの使い手だったが、今は自衛でしか人を殺さないと誓ったブラウン無線兵(スタンリー・ベイカー)。

・・など、ドラマとしての基本的な個性が配置されている。そんな人間関係の中で、負傷したフランクリン少佐をどうするのかというジレンマや、潜在的に殺意のあるだろうスタブロス大佐、「自衛でしか人を殺さない」と言っていたが、実はスパイではないかと思われるふしもあるブラウン無線兵。そんなメンタルのやり取りが実に巧妙に物語りに盛り込まれている。
さすがにこれだけだと女っけがあまりなさ過ぎると思ったのか、レジスタンスの二人の女性が合流。中盤からは画面が華やかになってくる。

撮影的にも、当時としてはかなり頑張っている。荒波のなかの小船のシーンや、実物の戦車は軍用バイクなどが多数登場、絵的にも遜色ない。これは撮影現場のギリシャ軍の協力だったらしい。ギリシャ軍の軍用車両にドイツのマークをはりつけたもので、実際よくよく見るとあまりドイツらしくない戦車や輸送車両なのである。

by ssm2438 | 2011-01-02 14:46
2011年 01月 02日

相棒-劇場版- 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン(2008) ☆

f0009381_442391.jpg監督:和泉聖治
脚本:戸田山雅司
撮影:会田正裕
音楽:池頼広

出演:
水谷豊 (杉下右京)
寺脇康文 (亀山薫)
高樹沙耶 (宮部たまき)
木村佳乃 (片山雛子)
平幹二朗 (御厨紀實彦)
西田敏行 (木佐原芳信)

       *        *        *

うむむむむ・・・、もうちょっと脚本を練られなかったものか・・・。

右京さん(水谷豊)の鋭いスイリが売り物のこのシリーズなれど、その推理はほとんど犯人のしかけたブラフにお付き合いするだけであって、本質的に解決にはまったくからんでないというのが痛い。亀山刑事(寺脇康文)の無理やりな必死さも結局全部ブラフを対象にしてたことであって、問題解決にはほとんど寄与しておらず、振り回されただけで終わってるし・・・、観終わったからの満足感がほとんど得られないというこまった映画であった。

今回の物語の発端はこのようなものだった。
5年前に政情不安のある国で、難民の救済活動中の木佐原という日本人男性がゲリラに拉致される事件がおきた。彼らは日本政府にアメリカとの関係を絶つように要求、これを拒むと木佐原は殺された。当時その国には退避勧告が出されており、それでもそこに残ってこのような事件に巻き込まれた木佐原に対して日本の報道機関の発言は厳しかった。
そして現在、その報道に関係した人々が殺されるという事件が起きた。
事件は、その時ころされた男の父親(西田敏行)が仕組んだもので、当時の政治的判断を告発するのが目的だった。避難勧告は出されていたが、都市部を優先したために、田舎でボランティア活動をしていた彼のところには届いていなかったのだ。にもかかわらず、政府は彼を見殺しにしたことを正当化するために、マスコミを使って居座ったのは彼の責任であり政府には責任がないとする報道を流したというものだった。

ただ、「政府に非があり!」とするには、そのイベント自体に説得力がないのがいたい。
政情不安な国に行く人々というのは、それが危険なものだということも理解して言っているのであり、そこでゲリラに拉致されて、日本政府に対して受け入れられない要求をされても、政府は何もしないことくらい覚悟でいっているはずである。避難勧告の日付がどうのこうのという問題はあまり関係ないだろう。だいたい避難勧告が出されなくてもそういう事態は起きる可能性があることを知ってていくのであり、そうなった時には「政府はゲリラとは取引しないだろうな」ということを覚悟しているはずなのだ。
結果として、彼は拉致され、日本政府はゲリラとは取引せず、彼は殺された。政府は、自分達の行為が政党だったことを強調するためにキャンペーンをはる・・というのは、それほど非難される行為には思えない。

政府というのは国民一人一人の分身みたいなもので、都合よく「悪モノ」にしていいモノではないはず。政府に非があるというのは、私に非があると言ってるのと同じことである。私に言わせれば、そういう海外でのボランティアをする人は、拉致られて、日本国民に(政府に身代金の要求をするということは、私にそれを払えと要求することと同じ意味なのだから)身代金の要求など、決してさせないくらいの注意をはらって行動するのはしかるべきことだと思う。まだ、身代金ならいいかもしれないが、クソ中国人が尖閣諸島の領有権をよこせなんて言ってきてても、そんなの聞けないしね(もっとこ彼らはすでに領有権はあるといってるのでそんなことは言わないだろうけど)。

by ssm2438 | 2011-01-02 04:06
2011年 01月 01日

ローレライ(2005) ☆☆

f0009381_17543817.jpg監督:樋口真嗣
脚本:鈴木智
撮影:佐光朗
音楽:佐藤直紀

出演:
役所広司 (絹見真一)
妻夫木聡 (折笠征人)
柳葉敏郎 (木崎茂房)
香椎由宇 (パウラ・アツコ・エブナー)
石黒賢 (高須成美)

       *        *        *

よくよくみるとキャラクターがみな草食系だ・・・。

この映画で使われているローレライ・システムとは、水のなかを無限に広がる可視状態で把握できるシステムである。この潜水艦にはパウラという、水を媒介に状況を把握する改造人間お姉ーちゃんが乗っており、水の中で起こったことはすべて自分が見ているかのように感知できるのである。その状況把握能力の高さがこの伊号第五〇七潜水艦の特殊能力となる。
本来、水中では100メートル先もみえない。なのでソナーによって、音波を送り出しその反響音で敵艦やその環境を把握する。盲人が松葉杖で歩いている中を、目が見える人間が彼らをあしらうように愉悦間にひたって戦いをするというもの。
しかし、このローレライ・システムを請け負うお姉ーちゃん改造人間パウラは、水と神経接続しているため、水中で突発的な変化(爆発)などがおきると、おおいに神経を痛めつけられ苦しむ結果となる。なので、バイオレントな攻撃はシステム事態を破壊する結果となるという手かせ足かせもついている。

潜水艦モノにしてみれば、その面白さを真っ向から切り捨てるシステムといって良いだろう(苦笑)。
子供向けアニメのコンセプトとしては面白いが、映画としてはどうなん??って思ってしまう。

ただ、それ以上にこの映画をみて思った印象は、シーンの二次使用時代にはいってきているなって感じである。最近の若い世代のアニメ業界にはいってくる人たちは映画をみないのである。既にアニメになっているものしか見て育ってないので、実際にあるものをイメージして描くということがない。あのアニメではこういう風に描いていたから、このアニメでこういう風に描いていたから・・というイメージベースしかなく、そのイメージからしか絵が起こせない状態になっている。
私の場合は、子供の頃から映画が好きで、テレビでやる映画はほとんど観ていた。中学生の後半からは映画ファンをきどり、劇場にも月一回くらいは通うようになっていた。アニメーターになり、動画から原画をやり始めるようになると、もっと観なければ・・と「めざせ1日1本」を目安にレンタルビデオ屋に足を運んだ。そういう環境下だったから、私が絵を描く時は、映画などの実際に存在する画面をイメージしながら絵に落とし込むことが当たり前になっていた。ところが最近の若い人は、そうではなくなってきている。
アニメしか見ていないので、一旦誰かが描いた絵のイメージしかもてない状況になっている。かなり由々しき問題だなあっと思うので、可能か限り若い世代のアニメーター達には映画や写真を見て、実存するイメージから、絵を起こすように言うようにしている。

しかし、この『ローレライ』という映画をみていると、映画もすでに、アニメをみて育ち、それをイメージベースにしている人たちで作られた映画なのだなあっと思ってしまった。そんなわけで、<新鮮さ>というものがほとんど感じられないものになっている。わくわくしながら「みたいな!」って切望する要素がほとんどないのである。セルフもシチュエーションもどこかのアニメでみたようなシーンばかりで、映画として「観たいぞ!」という衝動にかられるシーンがほとんどないというのがこの映画の印象だった。

ただ、けっして悪くはないのである。たぶん、今の世代の人がこれをみたらそれなりに楽しめるのではないかと思う。でも、私には楽しめる部分はほとんどなかった・・というだけの話だ。

この映画を観ていると、無性に昔の映画がなつかしくなり、『ブラック・サンデー』みたい気になってしまった。で、ゲオに足を運んで・・借りてきたのは『太陽がいっぱい』『ナバロンの要塞』(笑)。映画をみてわくわく出来た時代の映画を見たい欲望にかられたのであった・・・。

by ssm2438 | 2011-01-01 17:55
2011年 01月 01日

ラスト・アクション・ヒーロー(1993) ☆☆

f0009381_10253990.jpg監督:ジョン・マクティアナン
脚本:デヴィッド・アーノット/シェーン・ブラック
撮影:ディーン・セムラー
音楽:マイケル・ケイメン

出演:
アーノルド・シュワルツェネッガー (ジャック・スレイター)
オースティン・オブライエン (ダニー)

       *        *        *

映画の中の彼らがこちらに来たときは、銃は空砲であってほしかった。

映画ファンの男の子が映画の中に入ってしまい、そのなかでアクションスターと共演、さらに映画の中の悪役がこちらの世界に来てしまい、それをおってアクションスターもこちらの世界に来てしまうというお気楽ファンタジーアクション映画。

とにかく作っている皆さんが楽しそうでなにより。
アーノルド・シュワルツェネッガーが、制作総指揮をつとめた最初の映画。実はこれまで監督は何本かやっていたのだけど、制作総指揮という立場で仕事をするのはこれが始めてだったようだ。そういうわけで、自分のやりたいような方向性でプロジェクトを動かせることが出来たのだろう。映画好きのエッセンスがいっぱい詰まっている。当時この映画をみたとき、予備知識なしでみたのだけど、ベルイマンの『第七の封印』がでたときはびっくりしたものだった。
また、映画のなかには主人公がやたらと西部劇時代のクリント・イーストウッドのような雰囲気を出しているシーンがあって「・・・あれ?」と思ったのだが、ウィキペディアなどを読むと、彼はイーストウッドのファンらしい。・・・なるほど。
そんなわけで、この映画は自分の映画好きのエッセンスと遊び心で、敷居を高くすることなくお気楽にとった映画なのである。なので、この映画は、映画の内容がどうのこうのというよりも、作っている人たちが楽しくつくっているのだなあっていうその感じが伝わればいい、それだけでなかなか幸せにみられる映画だ。

監督は『プレデター』『ダイハード』で一躍有名監督の仲間入りしたジョン・マクティアナン。ただし、この映画ではあまりにもエベントが大雑把過ぎるのであまりマクティアナンのよさは出てないかな。もうちょっとシリアス・・というか、コンセプトの縛りをしっかりしてたらこの人の良さが出るのに・・・惜しい。

やはりアクション映画の楽しさは、限定された状況の中ではらはらどきどきしながら戦うことにあるので、なんでもありになってしまうと危機感もなくなってしまう。映画のそとの主人公が映画の中に入っているときはそれなりに楽しかったのだけど、その反対に、映画の主人公達がこちらの世界に来たときはもうちょっと作られた世界のキャラクターとしての味が出せなかったものか・・って思う。
それに彼らの撃つ銃がこちらの世界でも機能するというのがどうも気になってしまった。映画の中ではその銃をうつとちゃんと敵もやられてくれるのだけど、こちらの世界で弾の入っていないただの空砲・・みたいな。

ちなみに撮影は『ダンス・ウィズ・ウルヴス』のタタンカ狩りを撮った私のごひいき撮影監督ディーン・セムラー。この人の夜の色使い(ライティング)などは、かなり好みなのである。

<あらすじ>
ウェイトレスの母アイリーン(マーセデス・ルール)と2人暮しの少年ダニー(オースティン・オブライエン)の楽しみは、タイムズ・スクエアのうらにある二番館でアクションヒーロー、ジャック・スレイター(アーノルド・シュワルツェネッガー)が活躍する『ジャック・スレイター』を観ること。ある日ダニーは、映写技師のニック(ロバート・プロスキー)の手伝いで、次回上映作『ジャック・スレイター』のフィルム・チェックに立ち会えることになった。
そこで別世界へのパスポートとなる魔法のチケットをもらったダニーは、その上映会の夜最新作の『ジャック・スレイター』を鑑賞しはじめる。
映画が始まるとダニーの魔法のチケットが輝き、ダニーはスクリーンの中の世界に呑みこまれた。物語の導入部を既に見てしまっただダニーは、悪役が誰で、何処にいるか知ってしまっているため、スレイターに協力することが出来る。しかし、チケットが入った財布を殺し屋ベネディクト(チャールズ・ダンス)に巻き上げられ、彼はその魔法のチケットの力で現実の世界へ逃げこんでしまう。ダニーとスレイターもそれを追う。
執拗に追ってくるスレイターを抹殺するには、現実の世界で彼を演じたアーノルド・シュワルツェネッガー(アーノルド・シュワルツェネッガー)を殺せばいいと考えた殺し屋ベネディクトは、本人を初め有名陣があつまる新作『ジャック・スレイター』のプレミア上映会の会場に、前作でスレイターに殺されたザ・リッパーを送り込む・・。

by ssm2438 | 2011-01-01 10:27
2011年 01月 01日

バーレスク(2010) ☆☆☆

f0009381_2093149.jpg監督:スティーヴン・アンティン
脚本:スティーヴン・アンティン
撮影:ボジャン・バゼリ
音楽:クリストフ・ベック

出演:
クリスティーナ・アギレラ (アリ)
シェール (アーレスクのオーナー・テス)
スタンリー・トゥッチ (ショーン)

       *        *        *

全編通してパワーがあってよいのだが、
感動したのはシェールの「わたしはまだ負けない」ソングのとこだった・・。


しかし、なかなかパワーがあってよかったんじゃないでしょうか。
ミュージカル映画が大嫌いなわたしだけど、この映画のように舞台の上だけミュージカルにしてくれるのなら全然問題なく受け入れられる。

この映画は、クリスティーナ・アギレラの歌と踊りを見せる映画なので、お話はそれを展開するためガイドラインでしかない。アイオワ出身のいなか娘のアリー(クリスティーナ・アギレラ)は、トップダンサーを夢見てロサンゼルスにやってきた。強引にバーレスクというダンスバーでウェイトレスとして働き始め、強引にステージダンサーの役をつかみ、さらに歌手としても認められスターダムにのしあがるという話。

一応味付けとして、そのバーレスクというバーは、負債を抱えており債務不履行で取り上げられようとしているシチュエーションと、アリーが同居するそのバーのバーテンダーとのラブロマンスがあるが、これらも本筋とはあまりきっちり絡んでいないのがちょっとさびしいし、恋愛も、どこまで本気なのかもわからない薄っぺら感じなので、ストーリーベースでみるようには作られていない。
しかし、「ステージダンサーになりたいなら、あなたのもっているものを見せてみなさいよ」というシェールに対して、やってやるクリスティーナ・アギレラのガッツ、そして認められるシーンや、シェールに始めてメイクをおそわるシーンなど、ありきたりといえばそうなのだが、やっぱりツボにはまるシーンは用意されている。さらに債務不履行直前の店をまもろうとするオーナーのシェールの「私はまだまだ負けないぞソング」を歌い上げるシーンはなかなかの感動ものだった。

それに『プラダを着た悪魔』でも、強権支配の女ボスにつかえていい味をだしていたスタンリー・トゥッチが、ここでもいい味をだしている。

<あらすじ>
成功を夢見てロサンゼルスにやって来たアリ(クリスティーナ・アギレラ)。安ホテルの一室に宿をかり、仕事を探すがなかなかみあたらない。そんなある夜、《バーレスク》というダンスバーで、ショーにみせらられ、オーナーのテス(シェール)に会うがあっさりあしらわれてしまう。それでもめげないアリーは、強引にウェイトレスの仕事を確保、そのバーにいついてしまう。
しかし、ある夜ホテルの自室に帰ってみると部屋はあらされていた。ありーは、ホモだと確信しているバーテンダーのジャックの家に泊めてもらったことから居候することになる。実は彼にはれっきとした彼女がいたのだが、その彼女は今東海岸に行ったままもどってこない。お互い距離を置いた関係だが、ジャックは彼女を次第に想い始めていた。
やがてテスに認められてダンサーになったアリ。さらに酔っ払ってステージに上がろうとした看板スターに怒りを覚えたテスは彼女をステージからはずし、すべてのダンスを覚えていると言ったアリをその代役に立ててしまう。せステージ上ではクチパクなので誰がやっても変わらないのだである。しかし、ステージがはじまると、下ろされた彼女は音声のジャックを引き抜いてしまう。音声が流れない会場。ざわつく客たち。テスはステージの幕を下ろそうしたとき、アリが歌い始める。結果としてステージは大成功、一夜にしてアリは《バーレスク》のスターになった。
しかし、そんな《バーレスク》は債務不履行でテスの手からとりあげられようとしていた・・・。

結果として、この債務は別のところからの投資がきまりなんとか解決されるのだが、それがアリーの歌からなんとかなる・・という展開ではないのが今ひとつ消化不良。どうせこれだけありきたりの展開なので、そんなところだけ、別口路線で解決しなくても良いだろうとおもうのだが・・・。
なにはともあれ、アリはジャックと引っ付き、《バーレスク》はテスの手元にのこり、新しいスターを発掘したその店はどんどん発展していくだろう・・というところで物語りは終わる。

by SSM2438 | 2011-01-01 09:27