主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

<   2011年 05月 ( 25 )   > この月の画像一覧

f0009381_2195111.jpg監督:矢口史靖
脚本:矢口史靖
撮影:喜久村徳章
音楽:ミッキー吉野

出演:
田辺誠一 (副操縦士・鈴木和博)
時任三郎 (機長・原田典嘉)
綾瀬はるか (CA・斎藤悦子)
吹石一恵 (CA・田中真里)
田畑智子 (地上スタッフ・木村菜採)
寺島しのぶ (チーフCA・山崎麗子)
肘井美佳 (デスパッチャー・中島詩織)
岸部一徳 (高橋昌治)

       *        *        *

こういう専門的知識をいっぱい盛り込んだお話は好きなんだ。。。

『ウォターボーイズ』『スウィングガールズ』矢口史靖の監督作品。この人の作品ってそんなに好きなわけではないのだけど、この映画は空港が舞台というのでついつい見てしまった作品。なかなか楽しい時間をすごさせてもらいました。空港で勤務している人間たちのドラマってそれだけでついつい見てしまいます。『狂っちゃいないぜ』とか『エアポート24時・グランドコントロール』など、管制室だけの芝居なのですがその言葉のうやりとりのなかで表現される緊張感が好きなのです。
映画的には低予算で作れるし、もどってくる空港は常に自分のろこの空港で離発着はロケハンだして本物の飛行機のそれをとってくれば良くって、あとは室内劇を、精密なセットを組んでやればいいだけという、かなりの安上がり映画。『エアポート24時・グランドコントロール』なんて真剣に安上がりでした。でも、あの緊張感がたまらない。
この映画は、空港で働く人たちの奮闘を描きつつ、ハワイにむけて飛びだったボーイング747-400が、カモメの体当たりにより、スピードを測るフィンを失い、それが原因でトラブル発生、フタタに羽田に引き返して無事着陸するまでを描いた映画。ジャンル的にはシチュエーションコメディの『エアポート75』という感じでしょうか。

矢口史靖の監督作品なので恋愛ネタはほとんどないのはいつものことですが、それがなくてもシチュエーションコメディだけでもっていってしまう。なおかつ、部分部分で、ほろりとさせられる演出がとってもいい。あのスパナをなくした若い整備士のためにみんなが必死でスパナを探してりときの必死さ。たかが一本のスパナだけど、もしかしたらそれがエンジンの中に残っててエンジンが故障したのではないかという心配ではらはらどきどき。みんながもくもくと探してる。その整備士君もどきどき。もしかしたらもしかしたらもしかしたら・・・。で、見学にきた小学生がもってったことが判明して、「ありましたー」でみなさんほお~~~~っとする。あの安堵感は素晴らしい。
実はそこにはきちんとスパイスが効かせてあって、その整備士君に辛らつな態度をとっていた先輩整備士君が、ちょっと憎まれ口たたいてその場を去っていくのだけど、その時「ああ、この人もよかった~~」って心の中でも思ってるんだなって雰囲気をにじましてくれてるところ。
あのかもし出し方は素晴らしいね。

あと、めっちゃ不機嫌はお客がひとりいて、なにかと難癖つけるて吹石一恵はもう泣きべそ間近、「機長を呼べ」というそのお客さんにチーフCAの寺島しのぶが納得させるくだりもいい。
シチュエーションコメディなんだけど、かなり感動させるポイントをもってる作品である。

最後のランディングも、横風厳しい中斜め向いて着陸するジャンボのその斜め向いてる感がまた露骨でいい。ええええ、ここまで横向いてるの~~~~って、それで横風の環境演出しているのだが、あれだけ斜め向けられるとなかなか感動してしまう。

あと、グランド・コントロールの岸部一徳をひそかに想っているらしいデスパッチャーの肘井美佳がとってもいい感じ。ちなみに「デスパッチャー」というのは、旅客機のフライトプランを制作する人だそうな。こういう専門職のおネーちゃんはなんだかんだいいても魅力てきですな。。
by ssm2438 | 2011-05-31 21:09
f0009381_19413199.jpg監督:ジェニファー・リンチ
脚本:ジェニファー・リンチ
撮影:フランク・バイヤーズ
音楽:グレーム・レヴェル

出演:
シェリリン・フェン (ヘレナ)
ジュリアン・サンズ (ニック)
カートウッド・スミス (同僚の医師・アダム)
ビル・パクストン (ヘレナの自称恋人・レイ)

       *        *        *

才能のない素人監督がつくる典型例な映画・・・。

とりあえず、キワモノっぽいストーリーだけは作ったが・・・、今ひとつ表面的になってしまって、どこかでみたことのありそうな画面で構成されいてるだけの映画になってたような・・・。まあ、素人監督によくあるパターンですね。とりあえずやってみたさだけがありやってみたが、実はやっぱり自分のなかに描きたい物がないのに気づいてしまいました・・というパターン。結局ドラマ作りって、自分のなかに「これだけは言っておきたい、死ぬまでに誰かに伝えたい!」って物がなかったら作れない。それがない人がつくるとこういうように表面的にちゃらちゃらしただけの映画になるよという見本のような作品。1993年のラジー賞最低監督賞を受賞したジェニファー・リンチなれど、この最低監督賞はきわめて妥当な選択だったかもしれない。

<あらすじ>
男を屋敷に誘い込み、子供をしっ、しっとする母。そんな母が死に、彼女の家に引っ越してきた外科医ニック(ジュリアン・サンズ)。母のおかげで女性というものに対してある種の劣等感をもってしまった彼だが、以前いちど“H”したことのある性悪女のヘレナ(シェリリン・フェン)に憧れていた。そして都合のいいことか、彼女が近所に住んでいる。ジョギングの最中に彼女の部屋を覗き込みと、レイ(ビル・パクストン)という男を部屋に引き込み“H”に励んでいた。しかし気分が乗らなくなると相手のことはかまわず「出て行って」と追い返す始末。ニックは、そんな彼女となんとかお近づきになりたいぞと計画し、新居への引っ越し祝いということでホームパーティを催しヘレナを呼ぶ。そんなヘレナは散々自分を見せびらかした後、男と出て行ってしまうが、彼女の残した手帳を餌に、再び自分のうちに呼ぶことに成功。しかしニックの卑しい態度に頭にきた彼女は手帳を取り返すとそそくさと出て行くのだが、そこで交通事故に遭遇、両足をもぎ取られるがどとく損傷してしまう。
それから数週間、ニックは欠勤していた。同僚のアラン(カートウッド・スミス)がニックを訪ねてくるとそこには、両足を失った状態で介護されているヘレナを見つける。自分の地位を譲るという条件でアランを口止めし、追い返すニック。籠の鳥同然になったヘレナだが、男として劣等感をもっている彼は減ヘレナを求める勇気がない。どんなに愛情をもって彼女を世話しても、ヘレナは性的不能者とニックをなじり、ニックをリスペクトすることはなかった。ニックついにヘレナの両腕も切断してしまう。
ここからあとの展開が在りえないのだが、無抵抗となったヘレナは折れ、ニックを求める。いつしかふたりの間には奇妙な愛情が芽生えていたが、ヘレナを探すレイが屋敷にやって来てニックと乱闘。銃の台尻で殴られたニックが倒れるとそこにフロアに立っているミロのビーナス倒れてくる…。

ニックはヘレナが入院している病室で目覚めた。病室にいってみると、両手のあるヘレナが寝ている。どうやら足もついているようだ。・・・つまりそれまでのことは、事故のあとのヘレナを病院に運んだニックの夢だったとういうことらしい・・・。

かなりクソオチである。才能のない人間って、なんでこんなに意味もないことやるんでしょうね? やるべきことが何にもわかってないから、とりあえず変化のつけられそうなことをやってみました・・という、素人そのまんまのディレクションで、あまりに情けない。


・・・しかし、ちょっと時間を置いて情報分析してみた。
もしかしたら、ジェニファー・リンチって同性愛っ気があるのかもしれない。あと感じるのは、男に対しての圧倒的な劣等感をもっているな・・という感じ。つくる映画も(2~3本つか作らせてもらってないのだが)、男性だったらこんなのが受けるだろうな・・という思想の元に、私でもこのくらい出来るのよという強がりをかましているように感じる。この物語の主人公のニックって、ジニファー・リンチなのだろうって思った。
もちろん、ほとんどの映画の主人公は自分であり、自分の切り売りしか出来ないのが映画監督というものなのだが、この人には生産性というものはまったく感じない。それが如実にこの物語の主人公に投影されている気がする。
by ssm2438 | 2011-05-29 19:41
f0009381_18392015.jpg監督:和泉聖治
脚本:石井隆
撮影:佐々木原保志
音楽:一柳慧

出演:
高樹沙耶 (北村沙耶)
名高達郎 (カメラマン・橋口裕)
土屋昌巳 (ビニ本編集者・神崎繁)
加賀まり子 (神崎の母親)

        *        *        *

高樹沙耶がすばらしい。彼女のベスト1の映画。

このときの高樹沙耶はむちゃくちゃすばらしい。美しい。ミステリアス。なのにこの後の映画はなんだ! 彼女を無駄使いしただけの映画ばっかり。唯一この映画だけが彼女を生かして撮れている映画。監督の和泉聖治は・・・・、正直な話、これ以外の映画はどれもしょぼい。なんでこの映画だけがまともにとれたのはいまだに謎だ。

原作はすばる文学賞の受賞作品。今では死語になってしまった『ビニ本』の写真家がある日出合った沙耶という女性。しかし、彼女は感じない身体をだった。それでも付き合うようになっていく主人公の写真家と沙耶。なぜ、彼女がそんな精気のない人間になってしまったのか・・・その訳を紐解いていく心理サスペンス。

やや、ヤン・デ・ボンににてるかもしれない照明も実にわざとらしくていい感じ(苦笑)。石井隆のシナリオがいいのか、はたまた原作がいいのか、どっちもそれなりにいいのだろうな・・、ミステリアスな雰囲気はとてもいい映画だ。隠れた名作だと私は思っている。

<あらすじ>
ビニ本のカメラマン橋口(名高達郎)は、編集者の神崎(土屋昌巳)から沙耶という女性(高樹沙耶)を紹介される。彼女は都内のデザイン会社のアーティストだった。神秘的な表情に心魅かれ、ホテルへ誘い込むが、「私、感じないんです」としらけたムードに、橋口もやる気をなくす。沙耶が置き忘れたスケッチブックには、男の性器がケロイドで被われた春画風のデッサンが描かれていた。数日後、伊豆ロケに行った橋口は、神崎が連れて来た沙耶と再会する。神崎と沙耶のなにかありそうな関係がさりげなくきになる橋口。そしてみてしまう、神崎の太股にある焼けどのあと。神崎は事故の原因は母親で、自分に彼女が出来た時に母親が嫉妬でお湯をかけたからだと説明した。
その夜再び沙耶を抱く橋口。たとえ女が感じてなくても男はセックスは出来る。沙耶は橋口に神埼との出会いを語る。分裂症で入院していた病院で、精神を病んでいる神崎の母親と会い、それが原因で神崎と知り合ったことを告げる。橋口と沙耶の関係は順調にいき一緒に暮らし始める。
一方神崎は裏本の製本で逮捕されてしまう。
橋口と沙耶の生活もギクシャクすることがおおい。沙耶がぐれている時は何を言っても仕方がない。沙耶は橋口が何を言っても返事をせず、食べることも拒否しだした。途方にくれた橋口は沙耶との関係を絶った。一カ月後、裏本で逮捕された神崎は出所した翌日、橋口を呼びだした。かねてからの「視姦」のビニ本を作ろうとうのだ。
呼び出されたマンションの一室にいってみると沙耶が裸で横たわっていた。となりにはバイブレーターがうにょうにょ動いていた。雨の降る屋上で神崎は、橋口にケロイドの真相を語る。母を見舞いにいった精神病院で出会った沙耶と付き合い始めた神崎だったが、沙耶は『性』が愛を裏切ると神崎を拒もうとした。ならば自分の性欲を殺すと、沙耶の眼の前で神崎は自分のペニスに熱湯をかけたのだった。二人の間には入っていけないと感じた橋口は、部屋に戻り敗北宣言。苦しみのシェアができた沙耶ははじめて橋口の前に笑顔をみせる。そのすがすがしさに感動した橋口は思わずカメラを構えシャッターをきったとき・・、おくの窓を落下する神崎の姿が映った。
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by ssm2438 | 2011-05-29 18:40

影なき淫獣(1973) ☆☆

f0009381_1222515.jpg監督:セルジオ・マルチーノ
脚本:エルネスト・ガスタルディ/セルジオ・マルチーノ
撮影:ジャンカルロ・フェランド
音楽:グイド&マウリツィオ・デ・アンジェリス

出演:
スージー・ケンドール (ジェーン)
ティナ・オーモン (ダニー)

       *        *        *

誰が主人公なんだよう・・って思った、あなたでしたか・・・(苦笑)。

<あらすじ>
ペルージャの町で、女子大生が惨殺されるという事件が起きる。証拠としての残されたのはスカーフ。そのスカーフから警察は、犯人を突き止めようと操作を開始する。生徒のひとりダニー(ティナ・オーモット)はそのスカーフに見覚えがある気がしていたが、捜査のストレスから逃れるために、ジェーン(スージー・ケンドール)や他の友人達数人と別荘に引き篭ることにする。

最初のうちはティナ・オーモットのほうが主人公なのかなって思ってみたら、スージー・ケンドールのほうが最後まで生き残ってしまった(苦笑)。他の女優陣はおっぱい提供部隊というところか。
不運なことに、着いた次の日ジェーンが捻挫してしまい、地元の医者にお世話になる。ささっと走って逃げられないような段取りをさりげなく踏んでいる。その後も、犯人らしい男を登場させて見ている人に推理させるねたを提供してくれる。
最後はその別荘のほとんどの女の子が惨殺され、足の不自由なスージー・ケンドール危機一髪というところで、犯人かと思われていた男が登場、真犯人と格闘の末物語は終了。


中田英寿がセリエAに移籍したとき在籍したのがこの街じゃなかったっけ・・?
そのペルージャを舞台にしたセルジオ・マルチーノが監督した『13日の金曜日』系の映画。ちゃらちゃら“H”してる学生連中がある男に惨殺されていく・・という、来るぞ来るぞ連続猟奇殺人サスペンススリラーで、登場するお姉ーちゃんはみなさんサービスよろしく、惜しげもなくすらりと伸びた裸体を披露してくれます。でも主人公っぽいお姉ーちゃん(実は最後まで誰が生き残るのかわからないように話がつくられているので、誰に感情移入してみたらいいのか分らない)はちょっと乳首がすけて見えるくらいのドレス程度で終わってるのがちょっと残念。

この手の映画は「GIALLO物」(ジャーロ/ジャッロ物)と呼ばれるもので、1970年代のイタリアで絶頂期を迎えた。狂気や疎外感、偏執病といった猟奇的なテーマを導入することを典型とし、エロと残虐描写を見せ場とするが生産性がまるでない(苦笑)。このジャンルの監督としては、セルジオ・マルティーノの他にダリオ・アルジェントマリオ・バーヴァルチオ・フルチアルド・ラドウンベルト・レンツィプーピ・アヴァティなどがメジャーだろう。
しかし、この『影なき淫獣』はこのジャンルの映画としては、かなりまとまってる作品なんじゃないだろうか。低俗さは当たり前だが、それでもかなり上品に作られていると思う(苦笑)。そんなに数多くみてるわけではないが、<脅し>のレパートリーや、音楽の入れ方、ショック音の入れ方、殺された死体をどのように見せればきちんと残虐的に見えるのかなど、技術的なポイントはきわめてきちんと押さえてある映画で、その手の演出を見るにはなかなかスタンダードな教本となるかもしれない。

ちなみにセルジオ・マルチーノといえば全部がジャーロ物かといえばそうではなく『ドクターモローの島』とか『アリゲーター』とか、イタリアのB級SF、B級パニック映画も提供してくれる監督さん。個人的に上の2作はバーバラ・バックを画面に出してくれただけでけっこう嬉しいのだけど。
さらに、この映画だけに関して言えば、イタリアの街がいい! こういうヨーロッパの庶民の街っていう意味ではイタリアは魅力だ。こういう街並みを見てるだけで、「ああ、ここを舞台にドラマをつくってみたい」と思う人もおおいでしょう。
by ssm2438 | 2011-05-29 12:03

馬(1941) ☆☆☆

f0009381_8132767.jpg演出:山本嘉次郎
脚本:山本嘉次郎
撮影:唐沢弘光(春)
    三村明(夏)
    鈴木博(秋)
    伊藤武夫(冬)
音楽:北村滋章

出演:高峰秀子 (小野田いね)

     *      *      *

素晴らしき哉、戦意高揚映画!

キネ旬ベストテンの第2位
戦意高揚映画といえば聞こえは悪いが、しかし、ハリウッド映画なんて全部戦意高揚映画である。勝つための団結! それがみんなの好きな戦意高揚映画なのである。
戦前の日本にはこのようは映画がけっこうあった。それも、みてみるとなかなかすがすがしい。戦後のじめっとした映画とは対照的に晴れやかなのだ。敗戦を経験したこの国の人々はその後「勝とうとすることはけしからん」「負けることも悪いことではない」、そうしてなんとか自己肯定をして、それが映画に反映されていた。

これは日本だけではない、敗戦国特有の心理に思われる。ドイツの映画にしても、面白くもクソもない。イタリア映画にしても、戦後のイタリア映画は人情劇に優れていたが、その後はエログロ系に走ってしまった。なさけない男の欲望のはけ口のような映画ばかりだった。それはフランスも同じだ。結果的には勝った連合軍の中だが、その実態はドイツに占領され屈辱を味わった国であることには間違いない。ポーランドもそうだろう。戦中はドイツに支配され、戦後派ソ連共産党に支配された国。これらの国の映画というのは、勝つことをもとめることへの恐怖感が水面下に横たわっている。そのじめっとした感じが、この『馬』という映画にはないのである。

冒頭のシーンは馬の《競り》から始まる。ここでの最高の栄誉は軍隊に最高の値をつけてもらい、競り落とされること。この世界では軍隊がその価値をみとめる役割であり、その目に適うものを作り上げたものが名誉を勝ち取る。このメカニズムはどこの世界でも同じなのだが、「軍隊が・・」というポイントが嫌なにおいを発していることは間違いない。しかし、それはその当時の権力と評価のシステムがそうなっているとうだけで、ドラマの主人公たちは、その物語のなかで認められるために戦うのである。
この物語では、高峰秀子演じる農家の娘が、父が病気になたり、馬が病気になったりとなかなか大変。病気になった馬には、青草がいいと獣医がいうので、高峰秀子はかんじき履いて、スキーのスティック片手に山をこえた温泉地までいって取ってくる。雪山をさんざん歩いたどり着いた温泉地。このあたりの音楽はすこぶる気持ちがいい。成し遂げた感をしみこませてくれるスタンダードな演出なのだ。
そんな逆境のウェーブに耐えながら、愛情をもって馬を育て、その馬が軍馬として買われていくというところで晴れやかにおわる。この晴れやかさが実にさわやかで、勝つための努力し、人と角ことを成し遂げた充実感を演出してくれているのだ。まさにハリウッドのようはエンタメ精神の映画が、この時代の日本ではつくられていたのである。

しかし・・・、正直なところこの映画をみるにはかなりの忍耐が必要だ。
地道に東北の農家の日常を描いているのでかなり退屈なシーンも多い。丁寧に撮ろうとしている精神は認めるのだが、観ている人がそれを見たいかどうかはかり疑問。もうすこし、観ている人が観たいなと思うシーンを大量投入して欲しかった。
さらにネガティブポイントがひとつ。言葉が分りづらい。録音状態もそうだが、東北弁もわかりっづらいのである。もっともがちがちの本場東北弁ではなく、標準語圏の人が東北弁を話しているのである程度は分るのだが、出きるなら字幕が欲しいくらいだった(苦笑)。
by ssm2438 | 2011-05-28 08:19

友達(1988) ☆☆

f0009381_2211217.jpg監督:シェル・オーケ・アンデション
原作:安部公房
脚本:シェル・オーケ・アンデション
撮影:ペーテル・モクロシンスキー

出演:
デニス・クリストファー (ジョン)
ヘレーナ・ベルイストレム (次女・ボニー)
レナ・オリン (長女・スウ)

       *        *        *

スウェーデン映画なれど、これも安部公房。でも英語だったような記憶があるが・・気のせい???

レナ・オリンが出てたのと、安部公房の原作がスウェーデンという他国のスタッフでどのように作られるのか脅威をもって、当時劇場に足を運んだ作品。日本の安部公房ファンのなかでも、この映画を見た人はあまりいないと思う。あ、だんだんと思い出してきた。そうだそうだ、これカナダで撮ったとか、パンフレットに書いてあったような・・・。

パンフレットに書いてあった事をを徐々に思い出した。
この映画、実は監督は別の人だったようだが、シナリオと合わなかったのか、その才能がなかったのか、撮影を始めてもマトモに仕事もせず、結局シナリオライターだったシェル・オーケ・アンデションが監督までやることになったというエピソードがかかれていた。
多分ライターの人は、天下の安部公房の原作、それなりに想い入れがあったのだろう。しかし、監督の人にはその作品感が分ってもらえず、最後はぐれられて結局自分でやるしかなくなった・・ということなのだと思った。『砂の女』は全世界に衝撃を与えた映画であり、その前後につくられた安部公房の映画を知っている人なら、特に海外でその映画を見た人なら、あの独特の理不尽さの世界観を再現してみたと思ったとしても不思議ではない。きっとこのシナリオを書いたシェル・オーケ・アンデションもそんな想いが強かったのだろう。

映画を一言で言うと、なんの生産性も持たないパラサイト一家が、ヤッピー青年に巣食う話。表面的には理性的な人々のように見えるのだが、やってることは理不尽そのもの。巣食われたほうにとっては腹立たしいかぎりだ。

物語の主人公ジョン(デニス・クリストファー)は弁護士助手。大都会(トロントだったかな?)の中にそびえるガラス張りのこ高層ビルに一室を借りていた。彼には婚約者もいて、何不自由のない生活を愉しんでいた。そんな彼の部屋に、ある日突然窓ガラスを突き破りラジコン飛行機が飛び込んでくるところから不幸が始まる。
そのラジコン飛行機の持ち主であるというボニー(ヘレーナ・ベリーストロム)という少女が彼の部屋を訪れ、陳謝する。しかし彼女はワケありな様子。ついつい優しくしてしまったジョンは彼女を一晩とめて、いかがわしい妄想を愉しむ。そんな彼女は翌日、実は友達がいるのだが連れてきても良いかという。ささやかなスケベ心に支配されたジョンにはその言葉を否定する力などなかった。そしてその部屋を訪れた友達というのは、彼女の家族だった。
その日から彼女の家族はその部屋にいついてしまう。礼儀正しい印象の彼らだったが、道徳心などを逆手にとり、次第にジョンを支配権を奪っていく。警察に連絡するも警察に冷静で礼儀正しい客人たちを犯罪者年はみとめずい帰っていってしまう。彼らを泊めたことから恋人との関係も悪化、自分の家なのに、自分の決定権がまるでない状態に陥ってしまう。それでもボニーはジョンのことを想っているようで、なんとか彼女を引き子ふたりでこの環境から逃げ出そうと画策するジョンだったが、不覚にも姉のスウ(レナ・オリン)っと関係をもってしまい、さらにそのことをボニーにも見られ、ジョンの脱出計画は暴露されてしまう。拘束具を着せられ室内に軟禁されるジョン。もはやその世界の支配権は彼にはまるでなく、彼の世界はその家族に乗っ取られてしまう。
ある日一家が出かけた後で、留守番として残ったボニーに戒を解かれたジョンは、彼女と屋上に登り、そして幻覚のうちに身を投げる。「またおまえはやってしまったな・・」と父親に戒められるボニー。収入源たる主を失った一家はその部屋を去っていく。
数日後、次の獲物を狙った再びラジコンの飛行機が高層ビルの窓ガラスに突っ込む。
by ssm2438 | 2011-05-26 22:13

影の車(1970) ☆☆☆

f0009381_8524587.jpg監督:野村芳太郎
原作:松本清張
脚本:橋本忍
撮影:川又昂
音楽:芥川也寸志

出演:
加藤剛 (浜島幸雄)
岩下志麻 (小磯泰子)
小川真由美 (浜島啓子)

        *        *        *

『鬼畜』と『影の車』は、見たくないところをぐりぐりねじ込んでくる。

『鬼畜』はわが子を捨てに行く、あるいは殺してしまう・・という、人間感情的にどうしてもみていてつらい部分があるが、この『影の車』も、同じような受け入れがたい部分を切り裂いてくる。それは「おかあさん」というのは、子供にとって犯してはいけない存在。聖域である。これとセックスする男なんて、感情的に許せるわけがない。
しかし、子供も大人になり、性欲を持ち、人間なのだからセックスはするのだ・・という概念が備わってくれば、おのずと許せてきてしまう。なので離婚する家庭は子供がせめて高校を卒業するまで・・ってことにこだわるのだろう。

この映画では、そういった子供の聖域のなかに、男がづかづかと土足であがりこみ、自分が寝ている部屋のとなりで母とセックスをしているのである。こんな男を許せるわけがない。本来は、それは男なら(それが子供であっても)理解できる感情なので、そんなことは決してしないものだが、この映画の加藤剛それをやってしまっている。ゆえに、見るのがつらい映画だ。
別な言い方をすれば、松本清張自身が、自分のなかの心と向き合い、精神的な神聖なもの、犯さざるげきもの、それを失った時にとてつもなく悲しいもの・・、そういうものを、自分のなかできちんと確認できているからこそ書けるのだと思う。精神のストリップ力がスゴイ人だとつくづく思った。

しかーし、生理的にこの映画はみるのがしんどい。ドラマを人事して見られる人には普通の映画かもしれないが、真剣に自分と向き合って見る人にはけっこうつらい映画だ。

しかし、岩下志麻はきれいだ。1941年生まれなので、この映画の撮影している時は28~29歳だろう。ひざ上10センチのスカート姿がとても刺激的だ。

<あらすじ>
浜島幸雄は、幼いころ、母の愛人である男を殺した。その男は優しかったが、夜になると幸雄の母を抱いていた。子供にご機嫌をとるために、その男は幸雄を釣りに誘った。嶮しい岸壁で、命綱を腰に巻き、釣りをしているその男のさおに大物がかかったらしく、海へとひっぱられるその力に命綱と腕力で戦っていた。その時、彼はナタで彼の命綱を切った。男は前のめりに岩に頭をぶつけ、気を失ったまま海へを落ちて死んだ。後にその男が発見され、彼の棺おけをのせた一行が浜島の実家の前を通っていく。泣き崩れる母。

そんな過去の出来事を、今度は浜島幸雄(加藤剛)が幼馴染の小磯泰子(岩下志麻)と知り合い、その子供の聖域を土足で踏みにじることになる。
ある週末、その日は新設する旅館のおひろめがあるとかで、家をあける言い訳をつくった浜島は泰子の家に泊まった。そしてその夜も、子供が寝静まると泰子を抱いた。朝方目を覚ました浜島がトイレに立ち、出てくるとそこには斧をもった子供がいた。恐怖にとらわれた浜島はその子の首をしめて殺してしまう(実は一命を取り留めた)。

警察の取調べに対して浜島は、子供の殺意を感じ、恐ろしくなって首を絞めた・・と供述するが、刑事は信じようとしない。「6歳の子供がそんな殺意をもつわけがない」と一蹴する刑事に、浜島は搾り出すように応える「あるんだ・・・」。
by ssm2438 | 2011-05-26 08:51 | 松本清張(1909)
f0009381_15124655.jpg監督:ベルナルド・ベルトルッチ
脚本:ベルナルド・ベルトルッチ/フランコ・アルカッリ
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:ガトー・バルビエリ

出演:
マリア・シュナイダー (ジャンヌ)
マーロン・ブランド (ポール)

        *        *        *

何を撮ってもおもしろくないベルトルッチの中では、面白いほうの映画。

見る前は「きっとベルトルッチだから面白くないだろうなあ」って思ってたら・・、以外に良かった。ヴィットリオ・ストラーロの描き出す色がいいからついつい見ちゃうって部分もあったかな。この人のコントラストは好きだなあ。

人は誰でも逃げ込む場所が必要なのだ。それが人によっては書斎であり、主婦だったら台所かもしれない。あるいは浴室かもしれないし、大都会の駅の公衆トイレかもしれない。とにかく自分を確保できる場所が必要なのだ。このレビューを書くまえにジェーン・カンピオン『ピアノ・レッスン』を書いた。ホリー・ハンター演じるエイダは口がきけなくて、そんな彼女が自分にひたれす時間といえばピアノを弾いているときだけだったのだろう。そしてこの映画では、マーロン・ブランドマリア・シュナイダーが自分にひたれる場所が、あの空間だったということなのだろう。しかし、あの部屋がいいのは、自分に浸れるが、それをシェアしてくれる人もいる・・という、実に魅力的な空間として設定されているということだろう。現実から隔離された空間。

恋人と住む部屋を探していたジャンヌ(マリア・シュナイダー)が、「空き部屋あり」の張り紙がアパートを見つけ、管理人に部屋を見せてもらいたいと言うと、その鍵が見当たらない。仕方なく帰ろうとすると、合鍵があるという。その部屋に入ってみると、中年の男ポール(マーロン・ブランド)いた。二人はそこでセックスをした。それからというもの、男はその部屋を借りることにし、最低限度の生活備品を用意した。ベットはなく、床にはマットレスを敷いた。ジャンヌもときどきその部屋をおとずれるようになり、二人はお互いの名前もあかさず、そこで密会をするようにある。
f0009381_8412280.jpgちまたの解説を読むと、ここにはセックスしかないような書かれ方しているものが多いが、けっしてそういういみではない。心がふれあう場所として、この部屋が存在している。その一環としてセックスもしたくなったらする。しかし、心を暴露するわけでもない。隠したかったら嘘も言う。ホントかもしれない。話したいことを話す。精神カウンセラーとの会話みたいなものだ。

一方ジャンヌの現実の世界では、TVディレクター兼恋人のトム(ジャン・ピエール・レオ)がいて、彼の演出のもとで「少女の肖像」というドキュメントを撮っている。たぶんこれは意図的にコントラストをつけているのだろう。マーロン・ブランドと会うあの部屋では、嘘ともホントともとれるどうでもいい会話をしているのだが、そこでは心が純粋でいられる。怒りを感じた時は怒ればいい。しかし、現実の世界で、それもドキュメントを取っているにもかかわらず、その中にいるジャンヌ自身は実にうそ臭い。

ポールは下町で簡易ホテルを経営していた。彼の妻ローザは自殺した。彼にはその理由が分らなかった。彼は、妻と肉体関係を結んでいたホテルの住人マルセル(M・ジロッティ)を訪れ、妻の話を聞いた。妻は自分よりもこの男を愛していたようだ。花にかこまれた妻・ローザの遺体のまえでぼそぼそと悪態をついた言葉をなげかけながらも、喪失感に耐えられないポール。
既に死んでいる妻の痛いに向かって「まるでオフィーリアのような格好をしてどうしたんだ?」といいうような台詞があるが、ちょっと嬉しかった。ヴァージニア・マドセン『ファイヤーウィズ・ファイヤー』という映画のなかでこのオフィーリアを再現しようとして自分をモデルに写真をとっているシーンがあった。これはこの画を知っている人がみるとちょっと嬉しいシーンだった。

ある日、ジャンヌがその部屋へ行ってみると、家具は既に運び出されていた。あの男が何処に言ったのか聞き出そうと管理人にせっつくが、分らないというだけ。「夢は終わったのだ」と悟り、管理人が呼び止める言葉も聴かずでていくジャンヌ。あの時ジャンヌの中ではその部屋での自己にひたる時間は終了したのだろう。
数日後、そこに恋人のトム連れて入る。二人で住む部屋を探していたのが本来の目的だったので、その部屋をトムに見せたのだが、トムは気に入らないようで、先に帰ってしまう。その部屋の戸締りをして一人帰っていくジャンヌの前に再び現れるポール。彼はそれまで語らなかった自分を語りはじめ、再びやり直そうと迫る。
社交ダンス・コンテストが開かれていたホールのテーブルで二人は散々酒をあおり、とりとめのない会話をかわした。そしてコンテストの決勝に残った数組のダンスが始まると、二人はその会場に乱入、彼らなりのタンゴを踊った。会場は異様な雰囲気につつまれ、審査員に彼らは追い出されてしまう。逃げるジャンヌを、ポールは執拗に追い、最後は彼女の家へ押し入った。

ジャンヌにとって夢の終わりは現実だったが、ポールにとっては、夢の終わりは更なる夢の始まりだった。
そのすれ違いが悲しい結末にむかう。
by ssm2438 | 2011-05-21 08:41
f0009381_23171632.jpg監督:ジェーン・カンピオン
脚本:スザンナ・ムーア/ジェーン・カンピオン
撮影:ディオン・ビーブ
音楽:ヒルマル・オルン・ヒルマルソン

出演:
メグ・ライアン (フラニー)
マーク・ラファロ (マロイ)
ジェニファー・ジェイソン・リー (ポーリーン)
ケヴィン・ベーコン (ジョン・グラハム)

        *        *        *

ジェーン・カンピオンの実力が出てしまいましたな。

これはひどい。メグ・ライアンが脱いでるっていうことで、話題になった映画だが、話題はそれだけで、中身は全然おもしろくもなんともないクソ映画。画面もばっち。まるで『シックスセンス』タク・フジモトが撮ったようなばっちいどぶねずみ色をジャン=ピエール・ジュネの赤と緑で料理したようなひでぇ色。

もっとも、メグ・ライアンのオッパイが見たければ普通『プレシディオの男たち』を見るよね。こちらはまだメグ・ライアンがラブコメの女王になるまえの映画。まだ青臭さがぬけてないころのメグ・ライアンがみられる。画面も見やすい。

<あらすじ>
大学の文学講師フラニー(メグ・ライアン)は閉鎖的なせいかくであり、他人と距離をおいてひっそりと陰湿に生きていた。彼女にとって、唯一心が許せる相手は、腹違いの妹ポーリーン(ジェニファー・ジェイソン・リー)だけ。ある日、フラニーの家の近隣で猟奇的な殺人事件が発生、犯人らしき人物をフラニーが偶然目撃した。刑事マロイ(マーク・ラファロ)が聞き込みに訪れが、フラニーが認識できたのは手首に彫られたタトゥーだった。なりゆきでマロイとは肉体関係を持つようになるフラニーだが、さらなる殺人事件がおき、今度は妹のポーリーンが犠牲者になった。フラニーは、自分が目撃したものと同じタトゥーを彫っているマロイが犯人だと思い込むが、真犯人は、マロイの相棒、リチャード(ニック・デミッチ)だった。彼に襲われたフラニーはリチャードを射殺し、マロイのもとへと戻った。
by ssm2438 | 2011-05-20 23:17

砂の女(1964) ☆☆☆☆☆

f0009381_22534998.jpg監督:勅使河原宏
原作:安部公房
脚本:安部公房
撮影:瀬川浩
音楽:武満徹

出演:岡田英次(仁木順平)/岸田今日子(砂の女)

       *        *        *

砂がなかったら、私なんか誰も相手にしてくれねー。

アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』で、ゾーンを破壊しにきた政府のこうさくいんに対して、ストーカー(ゾーンの案内人)が行ったの言葉が、これに近い意味のことばをはいている。「もし、ゾーンがなくなったら、オレは誰にも必要とされなくなる」。切実である。

1964年キネ旬邦画部門ベストテン第1位カンヌ国際映画祭審査員特別賞アカデミー外国映画賞ノミネート、全世界で絶賛された不条理サスペンス(?)の最高傑作。ちなみにこの年のアカデミー外国語映画賞はヴィットリオ・デ・シーカ『昨日・今日・明日』。申し訳ないが、こちらの『砂の女』のほうがはるかにスゴイ。あちらを選んだ選考員の方々はきっとあまりに衝撃的すぎてどう解釈していいのか分らなかったのだろう。

この映画、まだ20代のころリバイバル上映され、劇場でみさせていただいた。個人的には生産性のない不条理物というのは大嫌いな映画のうちなので、この作品もどうなるか心配だったのだか、いやいやいやいや、さすがにすごい。ミステリアスは雰囲気とエロチシズム、不条理の中で語られる<自由>の考察、必要とされることと存在意義、それらが抽象的な表現でがしがし描かれている。見てる間中緊張感と好奇心と頭脳労働で思想と五感がフル回転。実に素晴らしい映画のような映画で、傑作中の傑作である。

8月のある日、一人の教師・仁木順平(岡田英次)が昆虫採集にある砂丘地帯を訪れた。のんびりとした時間のなかで、浮世の煩わしさから解放された男はその開放感に寄っていたが、帰りのバスをやりすごしてしまい、日はおちていく。その部落の老人が「この村にゃあホテルなんかはないが、あんた一人くらい泊めてくれる家くらいある。都合つけてやろう」といい、ある家を紹介される。その家はすり鉢上の砂の中にあり、一方が湿った砂でできた切り立った崖になっていた。そこに滑車があり、下に下りていくという仕組みになっていた。
そこには30代の女性(岸田今日子)が一人住んでいた。その女は夜になると砂の浸蝕から家を守るため砂かきを始めた。翌朝目覚めた男が見たものは、素裸で砂にまみれて寝ている女を姿だった。外に出てみると上に登るための縄梯子は消えていた。そのとき男は、自分が砂かきのための労働力として囚人になったことを知る。

その女のヌードも出てくるし、砂にまみれた乳首もでてくるのだが、岸田今日子のそれではないようだ。しかし、岸田今日子がなんと妖艶なことか。通常はもんぺ姿なのだが、雰囲気があまりにエロいのである。女は自分の家を砂から守るために男を必要としていた。その労働力のかわりに、彼女は身体を与えることはいとわない。生活に必要な物資は部落の男が週になんどか届けてくれる。そんな外の世界から隔離されたこのアリ地獄。

「なぜ、ここから出て行こうとはしないか?」と男は問う。
「だって私の家だから」
「砂が憎くないのか?」
「この砂がなかったら私なんか誰からも相手にされない」

男はさまざまな手段を講じて脱出を試みる。滑車がある湿った砂の崖は、昇ろうとしてもすぐ崩れ落ちてしまう。そこでない方角はアリ地獄のように砂がスロープをつくり、登ろうとしても砂ごと滑り落ちてしまう。カラスをつかまえて伝書鳩にしようと試みるが失敗。
やがて錆びたはさみをロープの端にくくりつけて、滑車のほうに投げてみる。引っかかった。男はそれを昇り脱出した。しかし、運悪く底なし沼におちてしまい、部落の住人を呼ぶ始末。結局また穴の中に連れ戻されてしまう。しかし、カラスを捕まえるためにほった穴から水が湧き出していることを発見、水の心配をしなくてすむようになるとこころが豊かになる。
その後女は子宮外妊娠で腹痛のおそわれ、担架にのせられて外の世界に運び出される。そのとき縄梯子が放置されたままになり、男は苦もなくそとの世界に戻れる。
しかし嬉しくない。あれほど囚われの身で欲していた自由なのだが、いざ取り戻してみると何も感じない。男は再び砂の世界に戻っていくのである。

この映画のなかの「自由」は、それが得られないときは切望するのだが、得てしまうとおもしろくもなんともない・・という、実に矛盾のような真実を描き出している。そのむかしサン=テグジュペリは『夜間飛行』の中で、「自由とは責任の中にある」と書いていた。「責任」だけが「自由」を買える唯一の価値であり、「責任」の存在しない自由などはただただ空しいだけなのだ。たぶんこの『砂の女』という映画も、そのポイントこそがコアなのだろう。
抽象主義的映画、アート映画、そういう本来私が大嫌いなジャンルの中で、この映画はこれ以上にない傑作として存在している。

もうひとつ、おそらく実相寺昭雄がめざしていたのはこのような映画だったのだろう。しかし結果的に最後までたどり着けなかった映画。おそるべし勅使河原宏
by ssm2438 | 2011-05-19 22:54