主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

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顔(1957) ☆☆☆

f0009381_20412420.jpg監督:大曾根辰保
原作:松本清張
脚本:井手雅人/瀬川昌治
撮影:石本秀雄
音楽:黛敏郎

出演:
岡田茉莉子 (水原秋子)
大木実 (目撃者・石岡)
笠智衆 (長谷川刑事)

     ×   ×   ×

岡田茉莉子のアゴかとんがってる!??

後にアンパンマン顔になる岡田茉莉子だが、このころはアゴの下の脂肪がほとんどなくかなりすっきりとした顔立ちに、ぎょろっとした目だけがついている感じ。後の彼女を知る人には考えられないかもしれない、けっこうきれいなのだ。

ま、それはいい。
この原作は松本清張で、実は映画を見る前に珍しく原作を読んだことがあるお話。しかし見事に全部ひっくりかえしてくれましたね。
原作の主人公は男で、ちょっと特異なニヒルな顔をもつ売れない役者。その役者がすこしづつメジャーになっていくのだけど、メジャーになればなるほど気になる出来事がある。それが数年前に殺した女のこと。
九州の飲み屋で働いた女の子だが、別れようとするとしつこくつきまとってくる。もしかしたらいつのもパターンで妊娠をひけらかしてたかもしれない。そんなこんなでその女を山陰のとある山奥の温泉町かどこかに小旅行と称して誘い出し、殺してしまうのである。ところが、こまったことに、その行きがけの汽車の中で、その女を知っている男に出くわしてしまう。主人公は隣に座っていたのだが知らない振りして外をみてたい。そこで計画をやめればいいもののを、やっぱり殺してしまったので、その時の男が自分の顔を覚えているのではないかと不安になって仕方がない・・・。なにせ、どこか得意な顔で「一度見たら忘れられない顔」と言われているのだから・・・。
彼が銀幕のスタートしてだんだんと名をはせていくと、その特異な顔がゆえに、あの男がどこかで主人公の出ている映画をみて「殺されたあの女の隣にいた男はあいつだ!」と警察に報告するのではないか・・という疑心暗鬼にかられていく。
主人公の男は、いてもたってもいられなくなり、あの男がホントに自分のことを覚えているのか、いないのか確かめずにはいられなくなり、殺された女の親戚だと偽りその男に手紙を書く。もし、その男が自分のことを覚えているようなら殺すしかない。覚えていないなら、安心してスター街道を突き進める。
彼を京都に呼び出した主人公だが、偶然のいたずらて、昼飯をとってるとこにその男がはいってきてこともあろうに相席になってしまう。となりには2人の刑事。まずいっと思ってると、どうやらその男はまったく気づかなかった。結局主人公はそのまんま、手紙のこともうやむやにして映画の仕事についた。
その目撃者は後に最後に主人公のでた映画をみてしまう。正面の顔は覚えていなかった彼だが、映画の一シーンのなかで、ずっと汽車の中からそとの海を見いる斜め向こう向きのシーンをみたとき「あ!! あのときのあの男だ」と分ってしまう・・・という話。

正直なところ、この話を読んだ時、これ、主人公を女性でやったほうがいいんじゃないかなあって思った。
別に主人公を殺人犯にしなくても、彼女の恋人か親族のだ彼が犯人で、素性を隠しておかなければならない状況にするとか・・・。
この映画は、その主人公を男を女に置き換え、それに付随する設定を変えてしまってある。
しかし・・・、あんまり変えすぎているので、松本清張のドラマというよりも、メロドラマに近い形になってしまっている。笠智衆が演じる長谷川刑事もかなりやぼったく、やたらとぐずぐずしていて結構いらいらする。総合的にみると、けっして悪い出来ではないが、いまひとつしっくりこない映画であった。。。

<映画のあらすじ>
本作の主人公・水原秋子(岡田茉莉子)はファッションモデルで、恋人はプロ野球選手の江波。
しかし彼女は、その昔無免許の堕胎医師と付き合っていたが、別れ話からもみあいになり、走る列車の中から突き落としてしまう。ところがこの事件が起きる前に、堕胎無免許医と水原秋子がもめてるのを見た男がいた。彼は石岡三郎(大木実)といい、その事件の前に女が被害者ともみあっていたのを見たと警察で証言してしまう。
やがて警察も水原秋子の存在をかぎつけ、モデル会場の控え室で、石岡に一人ずつチェックさせる。石岡は彼女を認識したが、その時は知らない振りをして警察をけむにまき、そのことをネタに秋子を我が物にしようと試みる・・・。
しかし、秋子は「お金が欲しいの、体が欲しいの」と、抱きたいならとっとと抱けば・・という純情さのかけらもない態度をとってしまう。そんな人間性がいやになり、石岡は彼女を抱くことをやめ部屋を出て行く。ナイフを手に、殺意を抱いて石岡を追った秋子だが、その石岡も不運にも交通事故にあい絶命する。
しかし、警察は無免許医殺しは秋子の仕業であることを特定していた。。
by ssm2438 | 2012-04-21 20:41 | 松本清張(1909)
f0009381_1202930.jpg原題:AMERICAN GRAFFITI

監督:ジョージ・ルーカス
脚本:ジョージ・ルーカス
    グロリア・カッツ
    ウィラード・ハイク
撮影:ロン・イヴスレイジ/ジョン・ダルクイン

出演:
リチャード・ドレイファス (カート・ヘンダーソン)
ロン・ハワード (スティーブ・ボランダー)
シンディ・ウィリアムス (スティーヴの彼女・ローリー)
キャンディ・クラーク (デビー)
ハリソン・フォード (ボブ・ファルファ)

     ×   ×   ×

みんな若い! ロン・ハワードに髪がある!

基本的に男の子は、旅立ち前の、それ以前の時間を共に生きた人たちを描いた青春物が好きだ。不思議なことに、これは男の子特有の性質のような気がする。『東京ラブストーリー』の中で、織田裕二が愛媛のふるさとのことを懐かしそうに語るときの感情の輝きをみると、男の子ってこういうの好きなんだよなあっと実感してしまう。その思い出が甘かろうが酸っぱかろうが、その時代を共に生きた友達は永遠なのだ。

スティーヴン・キング原作の『スタンド・バイ・ミー』ピーター・ボクダノヴィッチ監督/ラリー・マクマートリー原作の『ラストショー』スティーブン・クローヴス原作の『月を追いかけて』ニール・サイモン原作の『ブルースが聞こえる』、新しくはジョエル・シューマカー『セント・エルモス・ファイアー』・・など、どの世代で描いてもついつい懐かしく思えてしまう。それは、生まれた土地を巣立っていく前までの時間を共有した「友達」と呼べる人たちとの不滅の時間への郷愁は、全ての男の子の持つ共有できる感情なのだろう。
わが友ニーチェは、『ツァラトウストラはこう言った』のなかで「女には友情を育む能力がない!」といい切っているが、おそらく、この感覚は男にしか分からないものなのだろう。

映画のなかで、彼らは大人に成り急ごうとしている。そして経験するそれぞれのエピソードが散文的に描かれている。正直なところ、個人的にはこの映画はそれほどすばらしいとも思わないし、ジョージ・ルーカスの演出がそれほどすばらしいとも全然思わないのだけど、少年時代を共に過ごした友すごした時間は永遠の宝物なのである。それだけですばらしい。

この映画の主人公の一人、スティーヴを演じたロン・ハワードは、いまや髪は薄くなり、骸骨のような顔になってしまったが、『ダ・ヴィンチ・コード』『アポロ13』の監督として有名になってしまった。個人的には『ガン・ホー』こそが彼の最高傑作だと信じてやまないのだが、どうも世間の人には余り知られていない。
もう一人の主人公カートを演じたのはリチャード・ドレイアファス『未知との遭遇』の思い込みオヤジであり、『JAWS/ジョーズ』と戦って生き残ったサメ学者である。彼の役がダブルは、『セント・エルモス・ファイアー』のエミリオ・エステベスかな。自分の思い込みだけでひたすら夢みてしまう。
めがねのチャールズ・マーティン・スミスと一緒にいる白いドレスのおねーちゃんはなんと、『ブルーサンダー』のヒロインだったキャンディ・クラークである。
田舎町の最速やろうに挑む外者イケメン野郎はハリスン・フォード
みなさん若くてほほえましく思えてしまう。

そしてこの映画の素敵なところは、大学に行くためにその田舎町を出て行くロン・ハワードと、高校時代にずっとつきあっていたローリーが、最初のうちには強がって分かれようとしてたのだけど、ハリスン・フォードとのドラッグレース事故してグルグル体験したあと、最後自分のエゴを爆発させ、ロン・ハワードを田舎町に引き止めてしまう青臭さが実に素敵だ!!

<あらすじ>
1962年。カリフォルニア北部の小さな地方都市。
高校を卒業したカート(リチャード・ドレイファス)とスティーヴ(ロン・ハワード)はアスになれば東部の大学へ進学するため街を去っていく。その夜は、田舎に残るものと出て行くものが過ごす最後の夜だった。
スティーヴとカートの妹ローリー(シンディ・ウィリアムズ)は恋人同志だが、これからはお互いに別の恋人をつくることを許しあおうという彼の提案に腹立たしいものを感じ、なにかとグレていた。
一方カートは街中でちらりとみた白いサンダーバードを運転する美女(スザンナ・ソマーズ)になぜか「アイ・ラヴ・ユー」と言われて、その彼女を一晩中さがしまくる。その結果、伝説の海賊放送DJに会うことが出来たカートは、電波にのせて、とある駐車場の公衆電話に電話をかけてくれるように思いを飛ばす。
ローリーがぐれたはらいせに、走り屋ボブ(ハリスン・フォード)の車に乗り込み、ながれでドラッグレースを経験してしまう。しかしそのレースの中で彼の車は横転、二人はなんとか車の外に這い出したが車は炎上してしてしまう。生死の間をさまよう体験をしたローリーは、駆け寄ってきたスティーブに「行かないで!」と本心をぶつけてしまう。スティーブは大学行きを放棄し、その田舎町で彼女と生きることを選ぶ。
一方朝までその公衆電話の前でまっていたカートは、その電話のベルがなる音を聞く。まさかとおもってとってみるとサンダーバードの彼女だった。彼女に会うことが出来なかったが彼女の声は聞くことが出来た。旅立つカートがのる飛行機の眼下を、あの白いサンダーバードが見送るように走っているのが見えた。

カートの夢女が乗る白のサンダーバード(↓)
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by ssm2438 | 2012-04-20 12:01
f0009381_10572049.jpg原題:JOHN AND MARY

監督:ピーター・イエーツ
脚本:ジョン・モーティマー
撮影:ゲイン・レシャー
音楽:クインシー・ジョーンズ

出演:
ダスティン・ホフマン (ジョン)
ミア・ファロー (メリー)

     ×   ×   ×

名前を名乗らない同士の話なのに、タイトルは『ジョンとメリー』・・・。

1969年のキネマ旬報ベストテン9位の作品。昔から気にはなっていたのですが監督がありきたり真面目演出のピーター・イエーツ。なのでキネ旬の順位もあまり信用できず、長らく見ないままになっていた映画のひとつです。見ました。・・・やっぱり普通の映画でした。。。

どうも私は、ピーター・イエーツとは相性が悪いな。
ただ、誤解されるといやなのできちんと擁護しておきますが、この監督さん、すっごい真面目な監督さんなのです。すくなくとも画面からはそうみえます。私の大嫌い小手先だけで目先を帰るような糞演出家ではありません。その点に関しては充分リスペクトできる監督さんなのです。ただ・・・、なんというか・・・、非難されるのがいやで、なにからなにまできちんと撮り過ぎるので面白くないというか・・・、シナリオにある言葉を間違いなく見ている人に伝えようというような見せ方をするのです。見ている人期待させるように撮るのではなく、見ている人にひたすら説明するように撮る人なのです。なので・・・映画みてて退屈というか・・・つまらないというか・・・、わくわくしないというか・・・。

しかし、話自体は作り方によっては面白くなりそうな物語です。
ある夜バーで出会った二人が、その夜とりあえずエッチしてしまうのだけど、相手がどんな人なのかもよく知らない。なので、朝起きて、それから「昨日エッチしたこの人はいったいどんな人なのだろう?」と思い始める。お互いが、神経の触手を伸ばして、ちょんちょんっと心の縁をつっつてみながら相手を少しづつ知っていくという話。

女は、実は既婚者と不倫してて、この先どうしようかなって思っている状態。
男は、同居してた女に出て行かれたけど、まだよりを戻したいと心のどこかでは思っている状態。

ただ・・・、これもイエーツの演出はけっこうまどろっこしくて、見ている私としてはじれったい。「あああ、もうめんどくせえなあ、もう全部普通に話しちゃえばいいじゃん」って思うしまう。
それが本当に隠しておかなければいけないことなら、その事実があきらかなになっていくことで、見ている人をひきつけることモできるのだろうけど、別に隠しておかなくてもいいことなので、ただただまどろっこしいだけ・・・。

<あらすじ>
ニューヨークの朝。女(ミア・ファロー)はある男(ダスティン・ホフマン)の部屋ベッドで目をさます。二人は昨晩、バーで知り合い一夜を過ごしたのだった。
女は大学教授で妻子のある男ジェームズ(マイケル・トーラン)と不倫関係にあった。男はファッション・モデルのルース(サニー・グリフィン)と同棲していたが、彼女に出て行かれてしまった。お互い相手のことは嫌いではないが、感情をインベストしてもいいのか悪いのか測れないでいる。さりげなく見え隠れする相手の異性関係も気になる。
男は、女にもうすこしいて欲しいおも思うようになった時に、女は、ルームシェアしている相手に電話をかけ、帰るという。女にとってその夜は、同居人が男とエッチをするというので、どこか外で泊まるところを探していたのだ。その彼女が、実は男が来なかったから落ち込んでいるという・・・。
男は女を帰らせてしまう。そして後悔する。強引に引き止めておけば・・・と。
女は、深入りしすぎないほうがいいのかもしれない・・と考え始める。
彼女との会話のなかで交わした言葉をヒントにニューヨークを探しまわる男。しかしみつからない。しかしど部屋に帰ってきとき、そこに彼女が待っていた・・・。そして初めてお互いの名を告げるのだった。「ぼくはジョンだ」「私はメリーよ」と。

ウディ・アレンが絶好調の時に作ってくれると面白かったかもしれない・・・。
by ssm2438 | 2012-04-19 10:57
f0009381_17272434.jpg原題:THE ULTIMATE WARRIOR

監督:ロバート・クローズ
脚本:ロバート・クローズ
撮影:ジェラルド・ハーシュフェルド
音楽:ギル・メレ

出演:
ユル・ブリンナー (カーソン)
マックス・フォン・シドー (バロン)
ジョアンナ・マイルズ (メリンダ)

     ×   ×   ×

「巨人」って書いてるけど、原題のそれに当たる言葉は「ウォーリアー」なので、普通サイズの人間です。


ジャン=クロード・ヴァン・ダムの映画みたい・・・。
『サイボーグ』ってこの映画が原点なのかもしれないって思ってしまった。
あ、ちなみにこの『サイボーグ』ってのは、ジャン=クロード・ヴァン・ダム<がサイボーグなんじゃなくて、彼が守ることになった女がサイボーグなのである。

監督はブルース・リー主演で大ヒットした『燃えよドラゴン』ロバート・クローズ。なのでこの映画も、ブルース・リーのようなアクションを頭に描きながら物語をつくったのかもしれない。
本作ではユル・ブリンナーが女を守って旅する主役のアウトローをやってるのですが、アクションシーンも、バイオレンスシーンも、それほど際立ったものはないのが現実。ただ、荒廃した未来社会(いっても設定は2003年なので昔になってしまったが・・)に地下鉄、というビジュアルはやっぱりときめいてしまう。

ただ・・・ライティングはもうちょっと凝れなかった・・・。地下鉄をとおっていくシーン、真っ暗なはずの地下鉄のなかをたいまつを焚いて進んでいくのだけど、回りがたいまつの必要のないほど明るいのでなんだかしらけてしまう。もうすこし暗くして、たいまつの灯りがとどきそうなところだけ、遠くからライトを当てるようなことはできなかったのものか・・・。確かに全部真っ暗にするとストレスたまるので、そこまデする必要はないけど・・・、でももうちょっと灯りの演出こだわって欲しかったなあ。。。。

<あらすじ>
2003年のニューヨーク。猛烈な疫病が世界中を襲い、人類の殆どが死滅していたなか、バロン(マックス・フォン・シドー)をリーダーとする生存者は、肩を寄せ合い、ひもじさに耐えながら生きていた。コミューンの外は、原始人のような兇悪な人間たちが徘徊し、たちどころに人肉にされてしまう。
カーソン(ユル・ブリンナー)は集落のために雇われた用心棒で、外部からの侵入者を容赦なく殺していた。
バロンの娘メリンダ(ジョン・マイルズ)が身ごもったため、バロンはカーソンをボディガードにつけて未来を信じてニューヨークから脱出させようとする。メリンダとカーソンは嘗て地下鉄の通っていた地下道を抜け、未来の土地を目指すのだった。
by ssm2438 | 2012-04-18 17:28
f0009381_10592554.jpg原題:THE ARTIST

監督:ミシェル・アザナヴィシウス
脚本:ミシェル・アザナヴィシウス
撮影:ギョーム・シフマン
音楽:ルドヴィック・ブールス

出演:
ジャン・デュジャルダン (ジョージ・ヴァレンティン)
ベレニス・ベジョ (ペピー・ミラー)
ジョン・グッドマン (アル・ジマー)
ジェームズ・クロムウェル (クリフトン)

     ×   ×   ×

きわめてテクニカルな映画だなあ・・・。

2011年のアカデミー作品賞受賞作品である。

無声映画のスタイルを巧みに使った映画。なので、表現は微妙ながら、無声映画とはちと違う。無声映画の場合は、観客はと俳優の声や効果音は聞こえないが、この映画を見ている人は、どこかでそれが入ることを期待してみている。無声映画が無声映画でなくなる瞬間がどう演出されるのかを期待していのである。ゆえに、「無声映画のスタイルをたくみに使った現代の映画」なのである。

<無声映画で語られている映画のあらすじ>
クラーク・ゲーブルふうのジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)は無声映画時代の花形スター。いつもワンちゃんと一緒に映画にでて人気を博していた。公衆の面前でのインタビューのさなか、観客の中にいたペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)は、財布を落とした拍子にうしろからおされて、その場に押し出されてしまい、その場のノリでもりあがり、ヴァレンティンの頬にキスしてしまう。そんなエピソードが世間で話題になてちた。
そんなペピーは役者志望で、ダンサー役の一人として映画のキャストに名を連ねていたが、徐々に人気を博し、ヴァレンティンと共演するまでになる。
一方映画会社のプロデューサー、アル・ジマー(ジョン・グッドマン)は、無声映画をやめ、全ての映画をトーキーに切り替えるという。あくまで無声映画にこだわるヴァレンティンはジマーの映画会社を離れ、独自に映画をつくる。そんな時大恐慌が襲う。映画産業も大打撃をうける。ヴァレンティンの映画を上映する映画館には客あしもまばら、そんな不況のなかでも、ペピーを主演に抜擢して撮られたジマー制作の映画だけは、長蛇の列が出来ている。
破産したヴァレンティンは没落していく。結婚は破綻し、家財はオークションにかけられる。お抱えの運転手だったクリフト(ジェームズ・クロムウェル)にはもう1年も給料をはらえていない。そんな彼に車を譲ることで出て行ってもらった。
自暴自棄になったヴァレンティンは、自室で貯蔵していた自分の映画のフィルミに火をかけてしまう。フィルムはよく燃える。またたくまに部屋中に炎がひろがっていく。
そんなヴァレンティンが助け出された時、1巻のフィルムを抱えていた。
その映画はペピーと初めて共演したときに映画だった。

その映像が流されると・・・・、ついついうるうるきてしまう。
<ニューシネマ・パラアイスの法則>である。

そのあとは、もうすこしばたばたするのだが、最後はハッピーエンドで終わるこの物語。悪くはない。充分泣ける。・・・・ただ、いまひとつのめりこめないものがある。
それはなぜでしょう???というのがこの映画の最大のテーマである。

おそらく、この映画はドラマを見せてる映画ではなく、演出技法をみせてる映画として、心が理解してしまうからだろう。
無声映画というのはあくまで無声映画なのだ。それはドラマを語るスタイルとしてそういうスタイルがとうじとしては最高の表現手段だったのだろう。しかし、あくまでそれはドラマを語るための媒体だった。
この映画に今ひとつのめりこめないのは、ドラマ自体が、無声映画を語るためのネタとして扱われてしまった。どうもそこが、私の心は気に入らないらしい。

以前見た『トラフィック』をいうスティーヴン・ソダーバーグの映画があったが、あれを見たときも似たような印象をもった。
<物語>をみたいと思って映画館にいってるのに、<物語>でなく<テクニック>を見されられた感じなのだ。
一般庶民的にはそんなことどうでもいいのだろうが、ドラマ産業にかかわる人という立場で心の感じ方を分析すると、それは純粋に気持ちのいい感動とはなにか違うもののような気がした・・・。
by ssm2438 | 2012-04-17 11:00

丑三つの村(1983) ☆☆☆

f0009381_0171250.jpg監督:田中登
脚本:西岡琢也
撮影:丸山恵司
音楽:笹路正徳

出演:
古尾谷雅人 (犬丸継男)
田中美佐子 (やすよ)
池波志乃 (えり子)
夏八木勲 (赤木勇造)
五月みどり (赤木ミオコ)
大場久美子 (竹中和子)

     ×   ×   ×

池波志乃さん体ってほんと昭和ですね。

津山事件をモチーフした映画といえば、1977年に製作された『八つ墓村』がある。もっとも『八つ墓村』の場合は、津山事件の物語のネタにつかっただけで、そのものを描いたわけではない。それにくらべてこの『丑三つの村』は津山事件を再現しようとしている映画にあたる。

見終わった感想は・・・、思った以上悪くない。
つまり、主人公がそこにいたる気持ちもわからんではないな・・と思わせてくれるから、遊び半分でスプラッタやってみました・・というのとは違うなと思えるからである。この映画の中の主人公は、おそらくかなりの理想主義者だったのだと思う。そして、やらなければ自分がやられるとう状況でもあった。ただ・・・、もうすこし追いつめてもよかったかな。あそこまでみんなを撃ち殺していくモチベーションとしてはやや緩かったような気がする。
残虐シーンが話題になった映画だが、今見るとそれほど残虐というものではなかったような気がする。もっとも、最近はお下劣なスプラッターどろどろモノが反乱しているので、それになれてしまった部分はあるかもしれない。
以下、その事件を起こすにいたる要因を整理してみよう。

時代背景は、大陸ではそろそろ日中戦争が勃発しはじめている昭和12年。村の男達は、徴兵検査に合格して戦場に行くことを誇りに思っていた時代。もっとも、本心ではそうではないかもしれないが、若い頃からお利口さんとして育った主人公・犬丸継男(古尾谷雅人)にとっては、学校で教えられた規則や理想をそのまま受け取っていたのだろう。
しかし彼は理想はもろくもう打ち砕かれる。彼は父と母を結核でなくし、自らも結核もちであり、徴兵検査では「丙種合格」(早い話が不合格)となる。「兵隊に行かなくてもよい」という状況はいろいんな意味で村の者から忌み嫌われることになる。

この村には「夜這い」という週間がある。家の男が、仕事や兵隊で外に出ているときに、その女の家を男達がたずね、“H”をしていくのである。ある夜、散歩をしていると、人妻のえり子(池波志乃)と村の有力者、赤木勇造(夏八木勲)が絡み合っているのを目撃する。赤木は夜這いの取り締りを提案した張本人で、彼のことを汚いと思うが、同時に自身の性のうずきも強く感じるのだった。
ただ、この「夜這い」の取り締まりというのも、村の業がかなり反映されている。そのころ村には、他の土地から来たごろつきの若者がいて、自分大が「夜這い」をするのはいいが、彼等が村の女たちを抱きまくるのは許さん!ということだったのだろう。

数日後、継男はえり子の所を訪ね、赤木のことを話すが逆に床に誘われてしまう。抵抗できない継男。あえなくしごかれて即発射。「えろう早撃ちなんじゃなあ」とあしらわれる。
えり子を演じた池波志乃さんのからだが素晴らしいです。実に昭和女の体。
また、継男の家にお金をかりにきた親戚にあたるみや子(五月みどり)にも、「今お父ちゃんが外にでていないの・・」と夜這いを誘われる。無事初体験を済ませる継男。
しかし、彼女等も、継男が結核もちであり、徴兵検査に合格しなかったことから毛嫌いをし始める。

そんな中で、和子(大場久美子)は親切にしてくれたが、それは継男の結核を知らなかっただけで、病気のことをしると他の村人以上に冷たくなった。継男は腹いせに和子に夜這いをかけるが、間違えて母の常代の布団に入ってしまい、母娘二人からなじられる。これはかなりみっともない・・・。

その夜、闇の中でよそ者のごろつき男をみんなで袋叩きにしているところを目撃してしまう。翌日首をつったその男の姿があった。駐在さんに真実を話そうとする継男だが、赤木勇造らに封じ込められてしまう。
「村のことはわし等で決める、お前のこともな。みんなでどうするか決めるけん、結果がでたらあとでおばばのところに話しにいく。まっとれ」とすごまれる。

これらの要素が融合して狂気に発展していったというわけだ。

そしてその狂気に発展していく継男を正常にたもっていたのが幼馴染のやすよ(田中美佐子)の存在。しかし、彼女とは遠縁の親戚にあたり、結婚は出来ない。やがてやすよは親が決めた結婚相手のものにとついで行く。しかし、そのやすよが離縁されてもどってくる。継男と付き合っていたのが原因という。やすよの風呂場をのぞいていた継男は風呂場に侵入、彼女をおしたおしてしまう。継男には抱かれてもいいとおもっているやすよだが、突然発作を起こし湯船のなかに吐血してしまう。なせけない継男。
「わしゃあなんにも出来んなさけない男じゃあ」と、その血でそまった湯船の湯を桶ですくって頭からかぶる継男。
「べつのあなたの血なら平気よ」って感じでやすよも桶ですくって自分であたまからかぶる。
この一連の動作が2~3回繰り返されるのだが、ひたすら田中美佐子が可憐である。
どろどろした世界のなかで、この田中美佐子だけがひたすら美しいのである。この田中美佐子が描けただけでこの映画には意味がある。すばらしいです。

結局この場は逃げ出してしまう継男ですが、のちに草むらのなかで2人は“H”することになる。
よかったねー継男君!
しかし、そんなやすよも再び嫁に出て行く。
よりどころを失った継男はかねてから計画していた浄化のための戦いに出て行く。


陰惨なドラマだが、とにかく田中美佐子だけは傑出して美しい。心も身体も・・・。
この美しさがあるからか、悪趣味なだけの映画には見えなかった。
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by ssm2438 | 2012-04-08 00:17

愛の陽炎(1986) ☆

f0009381_11423157.jpg監督:三村晴彦
脚本:橋本忍
撮影:羽方義昌
音楽:福島新一

出演:
伊藤麻衣子 (新井ルミ子)
萩原流行 (関口岩松)
司葉子 (西谷克子)
風祭ゆき (飯田弘江)

     ×   ×   ×

現代において「呪い」は果たして成立するのか?

橋本忍といえば、誰もが一目をおく日本の脚本家の第一人者である。そんな橋本忍が今の時代に「五寸釘を藁人形に討ち込む呪い話を書いたという。それも主演は伊藤麻衣子。現代でこの題材を本気にでやるのかギャグでやるのか、それともたんなるアイドル映画なのか・・、正直見るまでは想像できなかった。そんな私はこの映画をわざわざ劇場で見たのでした・・(苦笑)。

『八つ墓村』で、現代のリアリティ→ちゃぶ台返しの呪いファンタジーの大技をやってのけた橋本忍がさらに、もういっぱう、現代における呪い話を手がけてみたのがこれ。
物語の中では二十歳の現代っ子が、付き合っていた男に金を貢ぎ、じつは既に既婚者であったことも発覚、絶望のふちでばあちゃんから教えてもらった古からの呪いの儀式、藁人形に五寸釘を打ち付けるという、あれをやって恨みをはらそうとする話。

話の発想を知った時は、これは・・・、もしかしたら橋本忍ならまじめに取り組んで面白いものが出来るかもしれないと、正直妙に期待してしまいました。ただ、パッケージはクジラの目をもつ伊藤麻衣子のアイドル映画っぽいし・・・、どうなるんだろうとわくわく・・・、ハズレは充分覚悟して言ったのですが、もしかしたら拾い物!って期待もかなりあったとさ・・・。

ただただハズレでした。

あと、キャスティングもどうなん?
萩原聖人じゃなくて、萩原流行ですよ。アイドルスターだった伊藤麻衣子は、キスシーンの本番の時に、いきなり舌をいれられたとか・・・(苦笑)。おい!

<あらすじ>
埼玉県飯能市。田中製材所で働く20歳の新井ルミ子(伊藤麻衣子)は、製材に出入りするトラック運転手・岩松(萩原流行)という恋人がいた。結婚を約束していてた二人はモーテルでエッチもしていた。
ルミ子には夢があった。日高の高台に家を建て、岩松と一緒に住みたい・・・、そのために二人はこつこつと貯金をしていた。ルミ子のおばあちゃんは、彼に一度会ったことがあるが、あまりいい印象は持たなかった。瀬絵権の評判もあまりよくない。
そんな悪評に悩みながらもルミ子は、岩松に土地代の手付金として200万円を渡す。だが、事務所で、その士地の持ち主である後家の西谷克子(司葉子)は、土地を売るわけがないという話を聞きショックを受けるルミ子。そして追い討ちをかけるように、岩松には弘江(風祭ゆき)という妻がいることが分かった。面と向かって岩松を問いつめたが、彼はのらりくらりと要領を得ない。
絶望に打ちひしがれて泣くルミ子に、おばあちゃんは《呪い釘》の言い伝えを教える。
ルミ子はやってみることにする。
その教えのとおり、丑の刻(午前二時)、白装束にローソクを頭に立てて神社の神木に、わら人形を呪う相手に見たてて五寸釘を打ち込む。これを10日間つづける・・・。

f0009381_11491780.jpgふしぎなもので、現代においてこのパフォーマンスをやるとギャグにしか見えないのだが、それをぎりぎりギャグにならない雰囲気でもっていってくれる。で、ついつい期待もされされる。
でも、結果的にはちょっと効能はあったように見られるが(弘江とエッチをしていた岩松が苦しみだし入院)、しかし原因不明のリカバリーあり、何事もなかったように退院する。

やっぱり駄目だ・・とがっかりしながらもとりあえず10日間はつづけてみるルミ子。するとある夜。偶然、岩松のトラックが通りがかり、白装束の女に驚いた彼は運転を誤まって事故死してしまった。
岩松の死後、ルミ子は、西谷克子が岩松に土地を売る約束をしており、彼は弘江と別れてルミ子と結婚しようとしていたことを聞かされる。

・・・・・・おい、それで終わりかよ!!!
伊藤麻衣子が白装束を身にまとい、神社に登っていき、ズガン、ズガンと五寸釘を藁人形に打ち付けて、萩原流行が苦しみだすアタリはけっこう燃えたのですよ。カメラもきちんと映画の画面でっとてるし・・、絵作り的には充分映画としてなっとくできる画面です。なのに・・・・・・・・。
ちゃぶだいひっくり返しきったらよかったのに、なんか現代における理性で寸止め。結果がバッドエンディングになって、この映画をみた時間の有意義さをまったく、一粒も感じさせてもらえなかった・・・。
ただただ無意味さに驚愕する映画でした(苦笑)。。。。
by ssm2438 | 2012-04-06 11:50

八つ墓村(1977) ☆☆☆

f0009381_23325810.jpg監督:野村芳太郎
原作:横溝正史
脚本:橋本忍
撮影:川又昂
音楽:芥川也寸志

出演:
萩原健一 (寺田辰弥)
小川真由美 (森美也子)
中野良子 (辰弥の母・鶴子)
山崎努 (多治見要蔵・久弥)
山本陽子 (多治見春代)
市原悦子 (多治見小竹)
山口仁奈子 (多治見小梅)

渥美清 (金田一耕助)

     ×   ×   ×

なんと、基本コンセプトは『エクソシスト』かあっ!??

ウィリアム・フリードキンの撮った『エクソシスト』は、その環境では「悪魔などいるわけがない」という前提の人間社会を描きつつ、実はやっぱりいた!という特殊性を盛り上げる演出をしていた。
一方、横溝正史というのは、一件オカルトちっくな怨念殺人事件なんれど、結局は人間が仕組んだことなんだよってことで終わらせるパターンである。そして味付け程度に、「でもちょっとだけ怨念はやっぱりあったのかも・・」を付け加えられている。ところがこの野村芳太郎が作った『八つ墓村』は、『エクソシスト』の基本概念で作られているのである。前半はリアリティでどんどん押しておいて、最後はちゃぶ台ひっくりかえしの術。落ち武者の怨念ホントにありいいいいいいい!!!というオカルトモノに終わらせてしまった。
前半の描写は描写はそれまでやってた松本清張ものの展開をおもわせるリアリティが構築されているのだけど、後半は一機のオカルト映画、最後は小川真由美が鬼の形相で主人公の辰弥をおいかけまわすという展開。さらにその祖先をたどると、八つ墓村で殺された8人の落ち武者の出身地の出であること、そしてその血縁者だってことまでなっている。さらに、主人公の父親は、当初多治見要蔵と思われていたが、実際は別の男で、その男もやはり出雲の出身だったということオチ。
最初がリアリティで押されただけにその怨念もリアリティをおびてきてしまう。

原作者の横溝正史の作品のなかでは岡山県を舞台にしたものがいくつかある。『本陣殺人事件』 『獄門島』 『八つ墓村』など。これは横溝正史が戦時中の疎開の時に岡山にいたからであり、その土地の風土や習慣などをモチーフに描いているからだろう。
そして本作の32人殺しのエピソードも、実は昭和38年に実際にあった.
この物語も昭和13年(1938年)におきた津山事件を基にしている。実際に起きたのは津山市の外の西加茂村なのだが現在は吸収合併により津山市に所属している。この怒涛の惨殺事件は事件は後に『丑三つの村』で映画化された。田中美佐子のヌードが見たい人は一件の価値在り。

この『八つ墓村』はかなりのアレンジが加えられている。根本的に違うのは、この物語が展開されているのが現代。といってもこの映画が製作された1976年あたりである。金田一耕助の物語というのは戦後数年した昭和が舞台になっている。
物語は、「山の中に逃亡してくる尼子の落ち武者達」のシーンからはじまる。戦いに敗れ、負傷した身体をひきずるように森の中を故郷の出雲を目指し中国山地を上っていく。途中で死んでいくものもいたりすが、8人の落ち武者はなんとか、後に八つ墓村と呼ばれる村を見下ろす丘の上に立つ。
そしてどでええええええんと『八つ墓村』のタイトル。
タイトル明けはいきなり現代の飛行場。田中角栄のロッキード事件で問題になったロッキード・トライスターが着陸してくる。以下は現代の空港の描写。そこで働いているマーシャラーが本作の主人公寺田辰弥(萩原健一)である。
シナリオ意図がすっごく際立っている。前半部は徹底したリアリティ演出で、この物語はリアルな刑事ものなんですよ・・と暗示をかけておいて最後はオカルト・・・。そこにもっていくための徹底したアンチテーゼから出発している。

そう、この物語の金田一耕助は、昭和後期に活躍した探偵さんとなっているのである。

<あらすじ>
羽田空港の発着誘導員の寺田辰弥(萩原健一)は、大阪北浜の諏訪法律事務所で、母・鶴子の父・井上丑松(加藤嘉)に会う。辰弥は岡山と鳥取の県境に旧家多治見家の後継者だと言うのだ。懐かしさに涙をあふれさせる井上丑松だが、その直後痙攣を起こして血を吐いて死ぬ。それが最初の殺人事件だった。
やがて多治見の家から森美也子(小川真由美)が使いのモノとして現れ、辰弥を郷里に誘う。美也子は多治見の分家にあたる森家に嫁したが、夫に死別、いまは関西で手広く事業を経営していた。祖父の井上丑松の葬儀もあり、生まれ故郷にもどった辰弥は、その村が昔「八つ墓村」と呼ばれていたことを知る。

その村には昔、毛利の軍勢に破れて敗走した出雲の尼子義孝(夏八木勲)とその家臣たちが落ち延びてきたという。彼等はその村の近くに住み着き、山をきりひらき、畑をつくり生活を始めた。最初は怖がっていた村の人たちも、その良心的な態度にうちとけていった。
しかし毛利軍は、彼らに報奨金をかけた。村の総代であった多治見庄左衛門は彼らを祭りにまねき、毒草入りの酒を飲ませ彼らを惨殺した。その後毛利家から莫大な山林の権利を与えられ、一躍近郷きっての財産を得て現在の多治見家の基礎を築いた。
しかしある夏の日、庄左衛門は突如発狂し村民7人を斬殺、自ら自分の首を斬り飛ばして自害した。村の人たちは落ち武者の祟りと信じ、野ざらしになっていた落ち武者たち8人を弔い墓をつくったという。それが八つ墓村の語源だった。

村ではさらなる殺人事件が起きる。辰弥の病弱な兄・多治見久弥(山崎努)が毒を盛られて死んだ。一方、辰弥はその久弥にそっくりにミイラを地下の洞窟で発見する。それこそが辰弥の父、多治見要蔵だった。
要蔵は多治見家の当主であり、妻もありながら、当時21才の鶴子を欲した。多治見家の離れに牢を作り、鶴子を監禁、欲望のままに彼女を犯し続けた。やがて辰弥が生まれた。そして1年、鶴子は辰弥をつれて失踪した。その事件が引き金となり要蔵はある夜発狂し、正妻を斬殺、さらに村民31人を日本刀と猟銃で虐殺した。
その後行方不明となっていたいが、その要蔵のミイラがそこにあった。
一度は舞い戻った要蔵を小竹と小梅その洞窟にかくし、やがて毒をもって殺したというのだ。

その後も殺人事件は続く。
辰弥の出生の秘密を知っている小学校の工藤校長が毒殺された。さらに祈祷師の濃茶の尼が毒殺される。
毒物はすべて硝酸ストリキニーネである。やがて小梅が洞窟内で絞殺され、最も嫌疑をかけられていた財産継承者の一人、久野医師も洞窟内で小海と相前後して毒殺されているのが発見される。村人が暴動を起こし辰弥をもとめて暴れまわると、辰弥は洞窟に身を隠す。さらに彼の身を案じて洞窟に入った義理の姉・春代(山本陽子)も真犯人に襲われる。春代は、息を引き取る前に、犯人の指に噛み付いたことを辰弥に告げる。
犯人は森美也子だった。
彼女は多方面にわたり事業を展開していたが多額の借金を背負っていた。総ての遺産継承者がいなくなれば遠縁の森家にその権利がまわってくる。辰弥に真犯人であることを見破られた美也子は鬼の形相になり達也を追う。

この鍾乳洞ないでのおっかけシーンがかなりマヌケ。必要のないシーンの重複や、無理やりのエッチシーンなど、もうすこし物語を整理できなかったものが・・・。最後の一賭けシーンもそとでは金田一耕助が、みなの前で彼が調べた裏事情を暴露しているのだが、これがけっこうのんきに行われているので、同時進行の洞窟内のおっかけが人事のようにみえてしまう。
あそこを真剣に描くなら、洞窟内のおっかけをスローで撮って、事情説明の金田一のセリフをかぶせるだけでよかったのでは? 必要以上にそとのシーンをのんきに撮ってしまったので、盛り上がりにかけてしまった感がいなめない。

この映画の基本コンセプトは「呪い」=ファンタジーなのだ。そのために外堀は徹底的に現実で固められている。森美也子の連続殺人目的はお金なのだ。ちなみに後に制作される市川昆バージョンのそれは愛であった。おそらく、原作の流れを忠実に再現しているのは市川『八つ墓村』のほうだと思われる。
しかし、本作はそのロマンスの部分をばっさり切り捨てた。徹底的に現実的なモチベーションで行われた今回の連続殺人事件。そのトリックを解くのが金田一耕助の仕事かとおもっていたら、どうもこの映画の中での彼の仕事はそうではないようだ。彼がこの映画の中で調べていったのは、森美也子の出生系図であり、寺田辰弥の出生系図だった。
それをさかのぼると、森美也子は、あのときの落ち武者の血を引く娘であり、寺田辰弥の父は、要蔵ではなく、これもまた出雲出身の男だった。この映画では、一件現実的に見えるこの事件も、実は落ち武者の怨念のなせる業だったのかもしれない・・というまとめ方なのである。

金田一耕助がこの映画のなかでといていったのは殺人のトリックではなく、ほんとに家系図だけだったという・・かなり特殊な話である。


あまりにも特筆すべき内容が多すぎるのがこの映画の特徴で、どうしても付け加えたいことがあといくつかある。その一つは・・・・・中野良子が美しい!!!!
映画というのは、その物語のなかで美しい人というのがかならずいるものなのだが、この映画のなかでは中野良子である。この人にときめいたのはNHKの大河ドラマ『国盗り物語』での明智光秀の妻を演じた時。濃姫(松坂慶子)も美しゅうございましたが、中野良子はめちゃめちゃ可憐でした。

あと、この映画のなかで中野良子が、辰弥の本当の父に抱かれたのは鍾乳洞の中の竜のアギドと呼ばれるとこになっているのだが、その場所で辰弥と森美也子が“H”するに至っている。どうもこの展開には無理があったように思われる。違和感を感じたのでちょっと調べてみたら、原作では“H”はしてても相手は森美也子ではなく里村典子ある。実はこの典子は野村『八つ墓村』では省かれてしまった人物で、市川『八つ墓村』のなかでは喜多嶋舞が演じた、里村慎太郎(宅間伸)の妹である。


全体を通して冷静にみると、決して成功してるとはいえないが、かなりチャレンジングな映画である。
怖い映画というジャンルよりも、『異人達の夏』的なファンタジー性の強い映画だ。そのファンタジーな部分を生かすためにリアリティで土台をつくった物語のコンセプトは絶賛に値する。

一見の価値、大いに在り!

ただ、橋本忍の没落はこのころから始まっている。
この映画ののち書いたファンタジックホラー『愛の陽炎』は大いにこけた。
by ssm2438 | 2012-04-04 23:34

八つ墓村(1996) ☆☆

f0009381_21273016.jpg監督:市川崑
原作:横溝正史
脚本:市川崑/大薮郁子
音楽:谷川賢作

出演:
豊川悦司 (金田一耕助)
浅野ゆう子 (森美也子)
高橋和也 (寺田辰弥)
喜多嶋舞 (里村典子)
岸田今日子 (田治見小竹/小梅)
宅麻伸 (里村慎太郎)
岸部一徳 (田治見要蔵/久弥/庄左衛門)
萬田久子 (田治見春代)
加藤武 (等々力警部)

     ×   ×   ×

豊川悦司の金田一耕助はないだろう。まるでオカマだ。。。

個人的には『悪霊島』加賀武史が一番あってると思う。それを野村バージョンでやった渥美清の金田一耕助の押さえ加減でやってくれるのが一番いいと思うのだけど・・・。

『八つ墓村』は、77年に橋本忍脚本、野村芳太郎監督で映画化されているが、今回の作品は『犬神家の一族』いらい横溝正史映画の監督をやたらとつとめている市川昆によるもの。野村『八つ墓村』はリアリティで押しながら最後はオカルトでまとめ上げた異様な映画であるのに対して、こちらはいつもの市川昆映画でした。
正直なところ、市川昆にはまったく才能を感じないので、この作品も面白いとは思えない。市川昆というのは、どこか上品で、結局「突き抜けられない人」という印象が非常に強い。業の強い作品には向かない、というか撮れない人だ。しかしその凡人さがゆえに、凡人が人に見てもらうために少々の姑息で洒落た小手先のカッコイイ描写も時たま入れてくるのも確かだ。

ただ、「ぎゃあああああああ」とか、「しまったあああああ」とかいうシーンで、アップのカットを露骨に入れるのはやめてほしいなあ。あるいはカッティングでもうちょっと美味いことできないものか・・・。
本作でも最後は『犬神家の一族』の高峰秀子同様、主犯の浅野ゆう子が最後ドクを飲んでよたよたとなりバタンと倒れるのだが、そのあと豊川悦司の大写しで「しまったああああああ」と入れてくるわけだ。これがわざとらしくて・・・。たとえば、浅野ゆう子がよたよたっとしたあと「しまったあああああ」のアップをいれて、すぐカットをきりかえしばたんと倒れる浅野ゆう子なら分るのだけど、もうことが起きた、あらたまって驚かれてもうそくさい・・・。
これは金田一耕助のシリーズの映画の市川昆のやった映画のどれをみても感じるところだ。どれも死体をみたあとの仰々しいアップがうそ臭い。ふつう、そういうショックを受けたときは息を呑むだろう。
それはカッティングの問題だけじゃなくて、感情のコンセプトをどのようにとらえるか・・にもよると思う。市川昆の映画のなかでは、いかにも記号的に仰々しくも息を吐く驚き方をするのである。

世の中には、これが平気なひととそうでない人がいる。普通才能のない人は、画面は説明するための手段だとおもっているから、それで充分過ぎるくらい説明されているの「よし!」とするのだけど、才能のある人は、それが存在する空気を描こうとする。この自然な空気を描こうとする人にとっては、あのような画面はあまりにも不自然なのだ。それが不自然なだけで、映画が「つくりものの世界」になってしまう。映画ってのは作り物の世界であっても、作り物でないようにいかに感じさせるかが重要なファクターの一つなのに、それが気にならないというのはこまったものだ。
こればっかりは一事が万事なのだ。作り手が大事にしているものが「自然さ」ではなく「説明」になってしまうと、映画の大事な何かが失われてしまう。。。
感情が穏やかな映画なら市川昆は機能する。『ビルマの竪琴』は私も好きだ。

<あらすじ>
第二次世界大戦が終結して3~4年たっていたある日。
諏訪法律事務所で、寺田辰弥(高橋和也)はと合間見えた井川丑松は、辰弥が岡山と鳥取の県境にある八つ墓村の資産家・田治見要蔵の遺児であることを伝えると血を吐いて死んだ。やがて本家・田治見家の使いで森美也子(浅野ゆう子)がやってきて辰弥は八つ墓村に招かれる。彼が村を訪れると汚らしい巫女のかっこをした気狂いバーさんが「八つ墓明神の祟りがある」と予言する。田治見家を実質支配しているのは色白の双子のバーさん小竹と小梅(岸田今日子)。

前作を越えているのはこのキョンキョンの不気味さである。

やがて諏訪弁護士の依頼で金田一耕助(豊川悦司)も八つ墓村を訪れる。
翌朝第二の殺人がおきる。先に毒殺された井川丑松についで、辰弥の腹違いの兄・田治見久弥が毒を盛られ死ぬ。そして久弥の通夜の晩、気狂いバーさんが殺される。岡山県警の等々力警部(加藤武)は行方不明になっている要蔵の弟・九野医師を容疑者として捜査を開始するが、要蔵の叔母で双子の老婆の妹・小梅がさらに殺され、九野の毒殺死体も見つかったため、捜査はふりだしに戻った。
そして小梅の姉・小竹と久弥の妹・春代が新たな犠牲者となっていた。遺産相続の権利をもつものは辰弥と里村慎太郎(宅麻伸)だけになった・・・。

犯人は浅野ゆう子演じる森美也子なのですが、その動機は一番阻害されていた田治見親族の慎太郎(宅麻伸)を愛してしまったため、他の遺産相続の権利をもつ人々を殺していったという、愛に狂った話にしてあります。
by ssm2438 | 2012-04-04 21:27

浮草(1959) ☆☆☆

f0009381_18353465.jpg監督:小津安二郎
脚本:野田高梧/小津安二郎
撮影:宮川一夫
音楽:斎藤高順

出演:
中村鴈治郎 (嵐駒十郎)
京マチ子 (すみ子)
杉村春子 (お芳)
川口浩 (お芳の息子・清)
若尾文子 (加代)
野添ひとみ (散髪屋のあい子)

     ×   ×   ×

大映パワーおそるべし! 小津にこんなものを撮らせるんだ・・・。

小津が大映で撮った映画。いやああ、大映ドラマ爆裂してます。なんでも小津が大映で撮った唯一の一本らしいですが、いやいやすごいすごい。小津らしからぬどろどろ感がすばらしいです。
主人公は志摩半島にたちよった旅芸人の座長さん。その座長さんは看板女優の京マチ子と出来ているのだが、実はこの志摩半島には座長さんの昔の恋人杉村春子とその息子(実の息子)川口浩が住んでいるという設定。子供には「伯父さん」ということにしてあるようだが、今回の一連の出来事でそれがばれてしまう話。
個人的にはこれだけどろどろしてるとどうしても成瀬巳喜男でみたいきがする。

当時の成瀬巳喜男は、松竹の社長から「小津はふたりもいらん」と言われてたそうですが、いやいやそんなことはない。成瀬巳喜男のほうが遥かにすごいです。たしかに穏やかな画面作りで庶民的なつくりは似ているようにも見えますが根本的には大違い。小津安二郎はすべてが「家族」のドラマだけど成瀬巳喜男は「男と女」のドラマにしてしまう。この物語も、小津が監督している以上家族のドラマになってしまった・・・。

そういえばそのむかし、
「旦那は家族でしょ。家族とは“H”しないでしょ」とを言った女がいた。
まさに、小津安二郎と成瀬巳喜男の違いを一言であらわしたようなことだった。小津安二郎が撮るとどんな女でもの家族の一人になり、成瀬巳喜男が撮ると、家族の中でも女になるのである。
残念ながらこのドラマも家族の話になってしまった。きっと小津安二郎はテレ屋なのだと思う。

あと、撮影は往年の巨匠・銀残しの宮川一夫。今回の映画では銀残しBL影がけっこうきいてます。個人的にはもうちょっと彩度が落ちていればかなり気持ちのいいコントラストになったのではないかと思うのだけど、当時の絵なのでかなり天然色度が強いのが残念・・・。

<あらすじ>
志摩半島の西南端にある小さな港町を訪れる嵐駒十郎一座。総勢15人くらいの旅芸人なのだが、座長の駒十郎(中村鴈治郎)とすみ子(京マチ子)の仲は一座の誰もが知っていた。しかし、すみ子は心中穏やかではない。この時には駒十郎が三十代の頃に子供まで生ませたお芳(杉村春子)が移り住んでおり、昼間は毎日のように足を運んでいた。
やがてやけをおこしたすみ子はお芳の家に乗り込んでしまう。その時お芳の息子清(川口浩)が帰ってくる。清には、自分のことを叔父さんと偽って今日までかげながら世話していたのだが、その秘密がばれそうになると憤慨する駒十郎。あたまにきたすみ子はい妹分の加代(若尾文子)に金を渡して、清を誘惑させようとする。
誘惑するだけ誘惑してすぐにふるつもりだった加代だが、清と加代は真剣になって駆け落ちさえ考えるようになる。それに気づいた駒十郎が激怒、すみ子の策略と知り縁を切ることに発展。
客の入りもよくない日が続き、さらにメンバーの一人が一座の有金をさらってドロンしてしまう。
駒十郎は。衣裳を売り小道具を手放して僅かな金を手に入れると、一座を解散することをみんなに告げる。
ひとりお芳の店へ足を運んだ駒十郎はこの土地でお芳や清と地道に暮そうという気持にかたむいていく。しかし清が帰ってこない。こともあろうに加代に誘われて家をでたきり戻ってこないのである。駅前の安宿で、加代と清は一夜を明かし、仲を認めてもらおうとお芳の店へ帰って来た。
駒十郎は加代を殴った。清は加代をかばって駒十郎を突きとばした。お芳はたまりかねて駒十郎との関係を清に告げた。しかし、いまさら「オヤジ」とよべるわけでもない清は駒十郎にでていってくれと言い放ち二階に駆け上がっていく。
加代に「清をたのんだで」と言い残しでていく駒十郎。夜もふけた駅の待合室、そこにはあてもなく取残されたすみ子がいた。すみ子は黙って駒十郎の傍によりタバコに火をつけてやるすみ子。2人は夜汽車にのり旅立って行くのだった。

小津安二郎の撮り方がどうしても、それ以前の小津安二郎映画のイメージを崩すことを許さないので、見ている我々としては、いつもののほほんとした家庭モノだと思ってしまうのだが、やってることにほとんど成瀬巳喜男の世界。最後の2人はほとんど『浮雲』の世界で、こてこてのどろどろのメロドラマである。
しかし、暴君的な書き方をされていた座長の駒十郎だが、それでも今の価値観のドメスティック・バイオレンスの描写に比べればかなり節度がある。その節度のある範囲でのやり取りが小津安二郎映画ということなのだろう。
物語自体はおもしろのだが、やっぱり作品の質的には、小津安二郎の撮り方が最大限の効果を発揮するとは言いがたい。
by ssm2438 | 2012-04-03 18:31