西澤 晋 の 映画日記

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2012年 11月 08日

エクスペンダブルズ2(2012) ☆☆

監督:サイモン・ウェスト
脚本:リチャード・ウェンク
    シルヴェスター・スタローン
撮影:シェリー・ジョンソン
音楽:ブライアン・タイラー
f0009381_1141061.jpg

出演:
シルヴェスター・スタローン (バーニー・ロス)
ジェイソン・ステイサム (リー・クリスマス)
アーノルド・シュワルツェネッガー (トレンチ)
ブルース・ウィリス (チャーチ)
ジェット・リー (イン・ヤン)
ドルフ・ラングレン (ガンナー・ヤンセン)
チャック・ノリス (ブッカー)
ユー・ナン (マギー)
ジャン=クロード・ヴァン・ダム (ジャン・ヴィラン)

     ×   ×   ×

70~80年代アクションヒーロー総出演!

しかし、みんなオヤジ。びゅんびゅん動けてたのはジェイソン・ステイサムジェット・リーだけで、あとはみんななんだがへろへろ、スタミナまったくナッシングな感じです。特にひどいのがドルフ・ラングレン。まったく動けません。

ただ、やっぱりみんなアーノルド・シュワルツェネッガー好きみたい。
シュワちゃんがでてくるのを、自分も期待してるし、そこでお約束があるとそれだけで嬉しくなる。

物語的にはじつになにもなくって、かんなりベタなストーリー構成で、ほとんど同人誌レベルです。
ま、お祭りとして見る分にはいいかも・・・。
ちなみに、今日現在での皆さんの年齢は

チャック・ノリス、72歳
シルヴェスタ・スタローン、66歳
アーノルド・シュワルツェネッガー、65歳
ブルース・ウィリス、57歳
ドルフ・ラングレン、55歳
ジャン=クロード・バンダム、52歳
ジェット・リー、49歳
ジェイソン・ステイサム、45歳

・・だそうです。
ちなみにみょうに肌のつやがよかったのがチャック・ノリスでした。すげえ若く見えた。

※参考までに吉永小百合、67歳。

<あらすじ>
冷戦時代にソ連が隠しておいたプルトニウムをめぐってジャン・クロード・ヴァンダムシルヴェスタ・スタローン率いる連中とが戦う話。
ブルース・ウィリスに頼まれて(脅されて)、ヨーロッパの山の中に墜落した飛行機からプルトニウムの隠し場所を示した地図を取り戻すことになったスタローン。しかし、いってみるとジャン・クロード・ヴァンダムもそれを狙っている。仲間のうちの一人を殺されて復讐にもえるスタローン一家は、チャック・ノリスのサポートあり、アーノルド・シュワルツェネッガーのサポートあり、でヴァンダム一家をやっつけるのでした・・・。

すいません。あまり書くことないのです、この作品。

# by ssm2438 | 2012-11-08 01:28 | S・スタローン(1946)
2012年 10月 29日

声をかくす人(2011) ☆☆

f0009381_6395474.jpg原題:THE CONSPIRATOR

監督:ロバート・レッドフォード
脚本:ジェームズ・ソロモン
撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル
音楽:マーク・アイシャム

出演:
ジェームズ・マカヴォイ (フレデリック・エイキン)
ロビン・ライト (メアリー・サラット)
ケヴィン・クライン (エドウィン・M・スタントン陸軍長官)

     ×   ×   ×

さて・・・どう語ろう。
大好きなロバート・レッドフォード監督作品なれど、『大いなる陰謀』といいこの『声をかくす人』といい、政治色がだんだんと出てきているような気がしてあまり楽しめない。レッドフォード自身がもっている弱者擁護の徹底した姿勢はそれでいいとしても、「強者批判」に傾いてくるとちょっといやあ~~~~なきがしてくるのです。

で、自己分析したのですが、レッドフォードの作品がどうのこうのというよりも、私の趣味として、<感情>が正義と同調する話は好きなのですが、<理性>が正義と同調する話には嫌悪感を感じるように出来ているらしいのです。
『普通の人々』は大好きな映画ですが、そのなかでひとつどうしても気持ち悪くて仕方がないシーンがあります。それは心が健全化してきたコンラッドが、クリスマス休暇から帰ってきたおかあさんにハグハグするところ。あそこはきもい! あれはレッドフォードの映画の中でも、どうしても受け入れがたいシーンでした。この映画は全体をとおしてそれを感じてしまうというか・・・。

<あらすじ>
新しいアメリカの象徴だったリンカーンが南部の残党によって暗殺される事件がおきた。主犯のブースは逃亡中に射殺され、共犯の8人は捕らえられた。彼らのために下宿を提供したとして共謀の罪によりメアリー・サラット(ロビン・ライト)も捕らえられた。
フレデリック・エイキン (ジェームズ・マカヴォイ)は、元司法長官のジョンソン上院議員(トム・ウィルキンソン)から彼女の弁護を頼まれる。被告たちは民間人でありながら、陸軍省が仕切る軍法会議にかけられた。スタントン陸軍長官(ケヴィン・クライン)は、、国を建て直すために、暗殺に関わった全員を容赦なく裁くつもりなのだ。審理が進むにつれ検察側の強引な手法が目立ち、弁護士として憤りを感じ始めていたフレデリックだが、判決は死刑が決まる。刑が執行されるまであと12時間。フレデリックは最後の手段として最高裁判事に会いに行く。

「偏見の中で被告を弁護するはめになった弁護士モノ」というジャンルの映画の一本。映画としては丁寧につくられているが、それ以上ではないというところに物足りなさを感じる。レッドフォード監督作品の気持ちよさがどんどん失われていく気がしてなんだか悲しい。それ以前の作品というのは、「自然の調和と人間」というテーマで描かれているものがおおく、それはすこぶる気持ちがいい。
しかし、近年の2本をみると『人間のつくった真理』について語り始められるような気がする。これだとなにか胡散臭いものを感じてしまう。それななんだろう?で考えてみた。その結果は・・・、自然原理より、人間原理を優先させ始めた・・ということなのかもしれない。
では自然原理とはなにか? 「弱肉強食」の原理である。これに対する人間原理とは「弱者を助ける」である。
おそらくそれまでの作品では、自然原理のなかで、「弱者を助ける」行いが機能してたからきもちよかったのだと思う。ところが、ここ数作品においては自然原理を批難してるような気がする。

突然物理の話に飛ぶのだが、量子論が生まれたとき、人はその特異性に拒否感をあらわした。あのアインシュタインまでも、信じようとはしなかった。しかし、今では量子論こそが物理学の根幹にあるようにも解釈され始めた。今回のレッドフォードは、量子論を拒んでいるように見えるのだ。つまり、時代おくれに見えてしまうのだ。
物理学の歴史をひもとくと、それは個の絶対性の否定、あるいは個の特殊性の否定といっていいのかもしれない。古代のギリシャ人たちは、地球が宇宙の中心だと考えた。しかし、コペルニクスがその特殊性を打ち破る。地球が宇宙の中心ではなく、地球が太陽の周りを回っているのだ!と。これによって、神によって作られたと解釈されていた人間の世界が絶対的に特殊なものではない、その他大勢のなかの一つに過ぎないことがわかった。絶対性の崩壊はさらに続く。
ニュートンは、絶対的位置の概念を破壊した。総ては相対的な位置関係にあり、絶対的な位置グリッドなど宇宙には存在しないというのだ。絶対性の破壊はまだまだ続く。アインシュタインは、絶対的時間の概念を破壊する。全宇宙が共有できる時間などはなく、時間はそれぞれの固体がもっている概念である。それはその重力場に依存する。誰もがそれで絶対性の破壊は終わったと考えた。しかしまだ先があった。
量子論の登場により、粒子の基本概念「一個であること」とうい、個体性がが破壊された。1個の固体を、1個の固体として考えることはもはや無用で、それは総合的にいう量子のなかに一部だと考える思考である。
判り易く言ってしまえば、土星の輪をズームアップすれば岩や氷の塊で出来ているが、エアブラシで描いた土星の輪の描写のように、びやあああああああっとした実態のあやふやな霞のようなもので、その動きは、波動の流れとして理解しようと・・というものだ。

量子論における [Sum over histories] の概念(粒子は考えられる総てのパースをとるという概念)。仮にその一部をズームアップしたとしても「たまたまその部分を特定したら、その位置に居た」というだけのことだ。じつは、人間の歴史もまた量子として解釈するのが正しいと思っている。個々のイベントはその人に起きた特殊事情だと考えるのは私の中では終わっている。過去において起こったことの総ては人類のだれもが経験しうることで、それを特定して「誰が悪い」ということ事態が古臭い。いまだに「固体」の絶対性を信じているのか?と思ってしまう。

思い立ったことを文章にしてるとこんな風になった。さて・・・私はなにを言いたいのだろう??
要は・・・「加害者否定をする人間が嫌いだ」ってことかもしれない。
ははは・・・・まったく説明になってないな。
しかし・・・・、こう書けば、判る人には判るだろうって文章の書き方は、いい加減やめないといけないな・・・。
もちろんそんなつもりは全くないが・・・。

あ、それでも、ロバート・レッドフォードは好きです。この人の映画をみると、自分の中で理解しておきたいいろんな感情のよどみが具現化され、自分なりの答えを見出したくなってしまう。いつも自分をみつめるきっかけを与えてくれる。それだけで素晴らしい。
次になにかを作ってくれたらやっぱり見に行きます。

# by ssm2438 | 2012-10-29 06:44 | R・レッドフォード(1936)
2012年 10月 27日

狼男アメリカン(1981) ☆

f0009381_9592299.jpg監督:ジョン・ランディス
脚本:ジョン・ランディス
撮影:ロバート・ペインター
音楽:エルマー・バーンスタイン

出演:
デヴィッド・ノートン (デビッド)
ジェニー・アガター (看護婦さん・アレックス)

     ×   ×   ×

ジェニー・アガダーたけはいいのだけど・・。

まあ、ジョン・ランディスが好きか嫌いかだろうな。私は嫌い。なんでこういう風にしかつくれないんでしょうねえ??

ジョン・ランディといえば、マイケル・整形手術大好き・ジャクソンの『スリラー』の映像監督さん。結局この人のやりたいのはああいうことで、オカルト着ぐるみコスチュームごっこが好きな人なのです。きっとホモですね(苦笑)。
でも、部分部分の見せ方は実にしっかりしてる。
ただこの人に足りないのは、演出家として自分を暴くこと。ほんとの恐怖とか悔しさとか悲しさとか、そういうものを描くことにテレを感じる人で、そういうドラマ作りのホントに重要な部分が描けない。メンタル的に突き抜けることが出来ない。そういう部分になるとホラーに逃げるか、記号的表現に逃げるかパロディに逃げるしか出来ないひと。演出としてはチキンな部類の監督さん。監督がそうなので、見る側も、真剣に映画を観る人には向かないでしょう。自分と向き合うことのない凡人ユーザー向け監督です。
でも、演出家としてシリアスな部分を要求されないなら、演出技法だけできちんと撮れる人。
ひとつ上手い演出をあげておくと、お恐怖シーンの見せ方。
くるぞくるぞとそのシーンをみせないままひぱって、最後にそれを見せるのは1秒もないくらいの短いカット。で次のカットにすぐ切り替えてゴオオオオオオオオオオオと地下鉄の音を脅しとして聞かせたり、電話のベルの音を脅しとしてジリリリリリリリリリリリんと聞かせたり、お恐怖ものの王道の演出表現はしっかりしてるのです。

f0009381_9585434.jpgジェニー・アガターは私の憧れた女優さんのひとり。かといってあんまり大した映画にでてるわけではないのだけど『2300年未来への旅』の彼女(←)はとても素晴らしい。あの映画だけで彼女のファンになってしまいました。ニコラス・ローグ『ウォーク・アバウト』の女子高生(中学生かも)の姿もすてきです。この映画も、彼女がでてるというだけで観たかった映画なのだけど、監督が私の大嫌いなジョン・ランディスなのでかなり長い間放置プレーにしてました。
仕方がないのでみてしまいましたが・・・。

<あらすじ>
アメリカ人の若者デイビッド(デイヴィッド・ノートン)と親友のジャック(グリフィン・ダン)はイングランドの北の湿地帯にまぎれ込んでしまい、何者かに襲われる。満月の夜の出来事だった。
気がつくと、デイビッドはロンドンの病院のベッドに横たわっていた。ジャックは死に、目撃者の証言では、2人を襲ったのは凶暴な精神異常者だということだった。自分を襲ったのは人間などではなく動物だったと訴えるデイビッドを、医者のハーシュ(ジョン・ウッドヴァイン)も看護婦のアレックス(ジェニー・アガター)も信じなかった。アレックスと恋仲になってしまったデイビッドは退院すると彼女のアパートに住み込むことになる。
しかしある夜、血まみれのジャックが現れ、
「自分たちを襲ったのは狼人間で、満月の夜には、デイビッドも狼人間に変身して人間を殺すだろう。だから人間を殺す前に自殺しなくてはいけない」とアドバイスを残して去る。
満月の夜、アレックスは当直で居ない。ジャックは予言どおり狼男に変身する。その朝アレックスは動物園の狼のおりのなかで目をさます。新聞にはロンドンで6人惨殺したいが発見されたという記事が踊っていた。
きっと自分がやったんだとさとったデイビットは自首するが本気にしてもらえない。映画館のなかで再びモンスターに変身してしまったデイビッドは街中をパニックにおとしいれるが、袋小路においつめられ、駆けつけたアレックスの呼びかけも空しく警官隊に撃たれて死ぬ。
・・・おしまい。

物語にさして重要性はなく、血まみれ着ぐるみシーンを描きたいだけで、でもホラーにするんじゃなくって、どんなにシリアスが画面でもポップな音楽をかけて真剣に怖がらないように演出してある。
個人的にはこういう演出スタイルは大嫌いなので、好きな人だけどうぞ・・という感じの映画だ。

# by ssm2438 | 2012-10-27 10:23
2012年 10月 24日

ゴーン・ベイビー・ゴーン(2007) ☆☆

f0009381_23525514.jpg監督:ベン・アフレック
原作:デニス・レヘイン『愛しき者はすべて去りゆく』
脚本:ベン・アフレック/アーロン・ストッカード
撮影:ジョン・トール
音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ

出演:
ケイシー・アフレック (パトリック・ケンジー)
ミシェル・モナハン (アンジー・ジェナーロ)
モーガン・フリーマン (ジャック・ドイル刑事)
エド・ハリス (レミー・ブレサント刑事)
ジョン・アシュトン (ニック・プール刑事)
エイミー・ライアン (ヘリーン・マックリーディ)
エイミー・マディガン (ビー・マックリーディ)
マデリーン・オブライエン (アマンダ・マックリーディ)

     ×   ×   ×

なかなかやるじゃん、ベン・アフレック!

『グッド・ウィル・ハンティング』でアカデミー脚本賞をとったベン・アフレック。その第一回監督作品。原作は『ミスティック・リバー』デニス・レヘインがかいた人気シリーズ『私立探偵パトリック&アンジー』の4作目『愛しき者はすべて去り行く』。ボストンを舞台にした探偵小説で、刑務所暮らしも経験したことのあるパトリックが闇のコネクションをてがかりに事件を解決していくハードボイルド小説。ただ、今回の主人公はケイシー・アフレック(ベン・アフレックの弟)が演じてることも在りうやや、青二才の感じはいなめない。出来れば、40前後の渋めのオヤジにやって欲しかった。

ドラマはかなり気持ち悪いエンディングになっている。
しかし、出来が悪いわけではない。むしろいい。
先にあらすじを書いてしまおう。

<あらすじ>
そのころボストンではアマンダという女の子が失踪/誘拐されたというニュースがとびかっていた。警察も既に公開捜査に踏み切っている。そんななかパトリック&アンジーの探偵事務所に、そのアマンダの叔母がやってきて調査を依頼した。
アマンダの母親ヘリーンは麻薬におぼれ、自堕落な生活をおくっていた。娘のことはさほど心配している様子もなく、しかしマスコミへのパフォーマンスだけは熱心なようだった。そんな母親の姿をみていると気が乗らないパトリックだがしぶしぶ依頼をうけることになった。
やがて彼女と彼女の旦那が麻薬の運び屋をやっており、打ち上げ金の一部をくすめたことが判って来る。頭にきたバイヤーのボスが彼女の娘を人質に取り、金を返すように促しているというわけだ。
やがてその旦那の惨殺死体がみつかる。椅子に縛られ拷問を受けたあと殺されていた。このことを知っているのは捜査にあたっていたブレサント刑事(エド・ハリス)とプール刑事、そしてパトリック(ケイシー・アフレック)とアンジー(ミシェル・モナハン)だけだった。ブレサントとプールは、見つかれば首だが、彼女の安全を考え、くすねた金を返し子供を取り戻すことを考える。交渉はパトリックとアンジーが担当することになる。しかしこのことはブレサント刑事の上司であるドイル刑事(モーガン・フリーマン)にも知られてしまう。4人はお咎めをうけるかと覚悟するも、オフレコでの犯罪者との交渉でアマンダを奪回することに合意し、5人で麻薬組織のボスたちと合間見えることにる。
人質の解放と現金の受け渡しは湖畔の別の場所でおこなわれることになり、パトリックたちが配置につこうとしたとき、闇夜に銃声がこだまする。銃撃戦になったらしい。何かが湖に落ちる音がする。アマンダは、目隠しをされたまま恐怖にかられ走り出し崖から湖におちたらしい。死体は上がらなかった。

ここまではややタイクツな展開だったのだがしかし・・・、ここから盛り上がってくる。

パトリックは、事件の流れの中になにか腑に落ちない点がある。そして再び警察官に聞き込みをしていく。ブレサント刑事と一緒にいた刑事は殺されたヘリーンの旦那のいとこであり、アマンダの不憫さを知っていた。ブレサント刑事は男気のある警官だった。上司のドイル刑事は、以前似たようなケースで娘を失っていた。
アマンダは生きていた。ドイルの妻に世話をされながら別荘で幸せに暮らしていた。あの母親のもとに返せば娘は不幸になると思った3人の刑事は、アマンダの死を偽装し、アマンダに別の人生を与えていたのだ。何が正しいことなのか考えろというドイル。アンジーもこのままにしておこうという。しかしパトリックは通報してしまう。

なにをもって正しい行いというのか?という問が永遠にのこる映画である。なのでかなり気持ち悪い。ベン・アフレックもその答えを出してはいない。原作者もそうなのだろう。
後日アマンダの家を訪ねると、母のヘリーンは厚化粧をしてデートにでかける仕度をしている。マスコミからの問いかけには、世の母たちに「決して子供は他人にまかしちゃだめよ。自分でみまもるの」とメッセージを送り娘を取り返した悲劇のヒロインとしてマスコミに祭り上げられてはいるが、実生活では娘への感心などほとんどない。
「この娘をおいていくのか?」とパトリックが彼女に尋ねると、バツが悪そうに「あと5分でベビーシターがくることになってるわ・・、でも、貴方が居てくれるとたすかるわ」といって出て行く。ひとことふたこと言葉を交した後、アマンダとパトリックはソファの両端にすわりテレビで放映されているカートゥーンをだまってみているだけだった。

物語が、まるっきり答えを出せないまま終わっているのである。せめて作り手ならどちらかの自分なりの思想を提示して欲しいと思うのだが、それがない。なおかつ物語りもどちらに触れても正論のように語られている。
これは『アリーmy Love』シーズン1の最終話に匹敵するやっかいな問題だ。
<肩代わりしてよい不幸>と<それをすべきでない不幸>がこの物語の問題提示であり、それは物質的な便利さではなく心のなかにある、その人がもっているモラルの存在、「理屈ではそうなのだけど、なぜかそれはいかんと思う」という部分に切り込んだ話であった。
『アリーmy Love』のデヴィッド・E・ケリーは、<肩代わりできない不幸は存在する>のほうで答えをだしていたが、本作はほんとに宙ぶらりんのままおわってしまう。

モーガン・フリーマンは言った。
あの母親のもとに返したあとの彼女を想像してみろ。彼女もヤクに溺れ、自分の子供にあたりちらす母親になっているだろう・・と。
一方パトリックはこう反論している。
ボクが恐れるのは、十数年後の彼女に会ったときに、「なんであの時親の元にもどしてくれなかったの? たとえそんな母親であっても」と責められることだ・・と。

私は・・・・ややパトリックの意見に賛成だ。
おそらく、人は不幸に接して、自分を作り上げていくのであって、やっぱりその人の人生はその人が決めていくもので、モーガン・フリーマンの行動は正論に見えるが、人の人生に介入しすぎだと思う。

さすがに原作者もちょっと不完全燃焼だったのだろう。後にこのシリーズの最終話(『ムーンライト・マイル』)としてに12年後のアマンダを登場させているらしい。気になるので先ほどアマゾンで中古を取り寄せてしまった。

f0009381_23564095.jpgあと、この作品、さりげなく撮影監督はジョン・トール『レジェンド・オブ・フォール』『ラストサムライ』『シン・レッド・ライン』の名匠撮影監督である。贅沢な撮影監督さんをつれてきたものだ。

キャスト的にはもうひとつふたつ。自堕落な母親を演じたエイミー・ライアンは各方面でいろいろ賞を獲ったり、ノミネートされたりしているようだ。そしてアマンダ嬢を演じたマデリーン・オブライエン(→)は・・・・かわいい。ゆくゆくどんな女優さんになるのかかなり期待である。

# by ssm2438 | 2012-10-24 23:53
2012年 10月 23日

グリマーマン(1996) ☆☆

f0009381_19583786.jpg監督:ジョン・グレイ
脚本:ケヴィン・ブロドビン
撮影:リック・ボータ
音楽:トレヴァー・ラビン

出演:
スティーヴン・セガール
キーネン・アイヴォリー・ウェイアンズ

     ×   ×   ×

これ、悪くない!

スティーブン・セィーガルの映画というのは、近年は「とりあえず作ってます!」みたいなのりであんまりトキメキがないのだけど、このころまではよかった。というか、個人的に一番好きなのはケイシー・ライバックシリーズ(といっても2本しかないのだけど)、そのうちに『沈黙シリーズ第3弾/暴走特急 』(1995)はけっこう好きである。この『グリマーマン』はその翌年つくられた作品。なの、というかこれを最後にしてもいいかもしれないが、彼の映画にパッションを感じたのはこの『グリマーマン』までです。この後の作品はどこかありきたい感しかない作品群になっていくいようなきがする。

今回は、ちょっと物語りにサスペンス・テイストを加味してる感じです。頑張ってる感じはするのですが、物語構成的にはサスペンステイストをもうちょっと上手く生かしてあげてもよいのでは?という感じはしたかな。
ま、セガ爺の映画なので主人公の名前が変われで、生い立ちが変われど、どれをとってもセガ爺なので、そういう意味では「代わり映えないじゃん」と言う人も多いでしょう。実際その通りだと思います。んが、セガ爺映画をみるほとはそれでいいのです。セガ爺にエイリアンと戦ってくれとかバンパイアと戦って暮れとか、そんなことは望んでません。その、いつもの水戸黄門テイストのなかで愉しくお話を展開させてもらえればそれで充分なのです。
で、この映画もけっこうそれはできてたと思う。
演出的に「おお!」と思ったのは、室内のアイテムを縦横無尽に壊すところ。ほとどミニチュアのビルを壊すゴジラのように、室内のいろんなものを壊しながら戦ってます。
監督はジョン・グレン。映画通の方なら「あれ、007の監督さん??」って思われるかもしれませんが、どうやら違う監督さんみたいです。でも、見せ方はしっかりしてる。レンズ選択も、見せ方も、かなりしかりしてます。
お話の構成は、バディムービーの部類に入り、セガ爺と相棒の刑事が丁々発止のやりとりを重ねながら事件を解決するというもの。

たしかに、すでに新鮮さはないのですが、セガ爺主演の映画のなかではきちんと映画として成立してるなという感じの映画でした。

<あらすじ>
90年代のロスアンゼルス。十字架にかけられたキリストを模して犠牲者を壁に磔刑にするという連続猟奇殺人事件が頻発していた。ロサンゼルス市警の殺人課刑事ジム・キャンベル(キーナン・アイヴォリー・ウェイアンズ)は、ニューヨークから赴任してきたコール(スティーヴン・セィーガル)と捜査にあたることになる。コールという刑事はやたらと東洋かぶれした哲学の持ち主で洞察力もするどい。その行動には新鮮さを覚えたキャンベルがコールの素性をしらべると、かつては「グリマーマン」と呼ばれ、ベトナムをはじめ各地で活動していた特殊工作員だったことがわかってくる。
やがて、コールの元上司ミスター・スミス(ブライアン・コックス)が街の顔役ドナルド(ジョン・M・ジャクソン)と組んで、ロシアから流出した核兵器を密輸していた事実が明らかになっていく。先の十字架連続殺人犯の仕業と思われる犯行のなかに、ドナルドの暗殺者の仕事も含まれていた。彼らは連続殺人犯の犯行を隠れ蓑に暗殺活動をおこなっていたのである。その暗殺者の名前はフランク(ボブ・ガントン)。
コールは、ドナルドとフランクが仲間割れするよう仕向けた。ドナルドを殺したフランクと対峙したコールは、壮絶な肉弾戦の末に相手を倒すのだった。

# by ssm2438 | 2012-10-23 19:59
2012年 10月 15日

ホタル(2001) ☆

f0009381_23122749.jpg監督:降旗康男
脚本:竹山洋/降旗康男
撮影:木村大作
音楽:国吉良一

出演:
高倉健 (山岡秀治)
田中裕子 (山岡知子)

みてて気持ちよくないかも・・・。

2001年の日本アカデミー賞で、主演男優賞に健さんがノミネートされたが辞退した作品。
なんとなく判るかも・・・。

とにかく観てて気持ちが良くない。
いや、前半の40分くらいは悪くないのですよ。それはそれでけっこう泣けるシーンもあるし。でも、後半にいたっては企画コンセプトから嫌悪感を感じて興ざめ。なんでこんな話にしなければならなかったのでしょうか? というかなんでこんな映画を降旗康男さんや健さんは田中裕子木村大作がつくらなければならなかったのでしょうか??? 

物語は特攻隊で死んでいった人をその生き残りの人たちが忘れない・・という映画。
そういえば大雑把に説明できるかもしれないのだけど、コンセプト事態を思想的に使われた気がしてかなり不快感を感じますね。
物語は、特攻隊に志願した中に在日朝鮮人がいて、その人の形見の品を故郷の親御さんのもとに返しに行こうって話。一応特攻隊は「志願者」で構成されてるようですが(こればっかりは私がみてないのでなんともいえませんが)、当時の空気では国家全体が集団洗脳状態みたいなものですら、いやだと言い切れずに行ってしまった人もいたでしょうね。一方韓国でも、「朝鮮民族なのに、日本のために志願して特攻するとはなにごとか!」ということで、ほとんどとりあげられることもないそうです。
そんな戦時下のなかで(すっごくかっこよく書くと)、知子という日本人の女性を愛した一人の在日朝鮮人の人が、その人の未来を守るために、その人を愛した朝鮮人として特攻隊に志願し死んでいった・・。その遺品をせめて家族のもとに返したい・・って話。
かなりデリケートな内容を、かなり頑張ってさしあたりのなさそうなおとしどころに落としてはいるが・・・、作品や作品を作っている人がどうというよりも、なんか・・・・、すっごく観てて外堀に嫌悪感を感じる内容だった。

ちなみに木村大作が撮影監督ではあるのだけど、絵はなぜか良くない。
とくにゼロ戦などの特撮(?)が悲惨。質感ぼろぼろ。さらに、ホタルが・・・・なにそれ?? お前、ホタルが光るところみたことないだろう!みたいなかなりしょぼ過ぎる画面加工なので興ざめもいいところ。
シーン、シーンでは泣けるとも(前半部に限っては)あったのだけど、スタッフやキャストさんの能力を無駄遣いしたような映画でした。観終わったあとの後味が悪すぎる。というか、後半のほうとんどが、なんでこんな話にせにゃならんかったのかわからん。ただただ生理的に嫌悪感だけを残してくれた映画でした。

# by ssm2438 | 2012-10-15 23:13 | 木村大作(1939)
2012年 09月 29日

緯度0大作戦(1969) ☆

f0009381_1261337.jpg監督:本多猪四郎
脚本:関沢新一/テッド・シャードマン
撮影:完倉泰一
音楽:伊福部昭
特技監督:円谷英二

出演:
ジョセフ・コットン (クレイグ・マッケンジー)
宝田明 (田代健)
岡田眞澄 (ジュール・マッソン)
リチャード・ジャッケル (ペリー・ロートン)
大前均 (甲保)
リンダ・ヘインズ (アン・バートン)
中村哲 (岡田博士)
中山麻理 (岡田鶴子)
平田昭彦 (姿博士)
シーザー・ロメロ (マリク)
パトリシア・メディナ (ルクレチア)
黒木ひかる (黒い蛾)

     ×   ×   ×

なんと、キャプラ映画もどきでしたか、これは!?

フランク・キャプラ
の映画に『失はれた地平線』という映画がある。このモチーフそれだったのですね。ただ、それに『ドクター・モローの島』『海底二万マイル』が合わさってる。

戦争のない理想郷、シャングリラ。それを緯度0に置き換えてつくったのがこの映画。キャプラなのなかでも理想主義にはしりすぎてかなり温い映画ではあるのだが、そこになお一掃のおトボケ着ぐるみモンスターの話が加味されてるからかなりたるい。物語りも、恐ろしいほどカートゥーンな世界だった。
原作が1940年代にNNBCラジオで放送された、テッド・シャーマン原作の"Tales of Latitude Zero"(緯度0の物語)でだそうな。当時ドン・シャープがこの物語の企画をすすめており、東宝のスタッフが日米合作というスタンスでこの物語を映画化することを持ち込んだという。
なので、コスチュームのデザインやその色は思いっきりカートゥーンのデザインや色なのである。そして物語りもかなりのステレオタイプで、深みもなんにもない。かなりファミリー向けなテイストである。

唯一燃える要素が、万能スーツの万能手袋。マシンガンや火炎放射、レーザービームを指先から放射できるすぐれもの。実は、若き日の西澤少年は、この映画を劇場で親と一緒にみた覚えがあります。あの万能手袋には魅了されたものです。
あともうひとつ、強いてあげるならアン・バートン演じるリンダ・ヘインズの後ろがざっくりあいてるコスチューム。彼女の後姿だけにはときめくものがあった。ちなみに彼女は知る人ぞ知る『ローリング・サンダー』のヒロインでもあのです。

<あらすじ>
緯度0付近の海流調査の為に潜水球でしばしの海底滞在をこころみた物理学者田代健(宝田明)、海洋地質学者ジュール・マッソン(岡田眞澄 )と記者ペリー・ロートン(リチャード・ジャッケル)の三人は、突然の海底火山の噴火に遭遇、不思議な潜水艦アルファー号に救われた。そして連れて行かれたのが緯度0にくつられた海底都市。そこは海底二万メートル、人工太陽の下のパラダイスだった。彼らの寿命は恐ろしいほど長く、アルファー号の艦長であるクレイグ・マッケンジー(ジョセフ・コットン)は200歳を越えるという。
その宿命のライバルがブラット・ロック島に基地を持つ悪の天才マリク(シーザー・ロメロ)。彼らは、「緯度0」を粉砕し、人類を征服する野望をもっている。彼らが狙ったのは、放射能免疫血清の方程式でノーベル賞受賞の科学者岡田博士とその娘鶴子。その血清を注射しておけば核兵器が使われても放射能におかされることがないという。マリクに捕らえられた岡田博士とその娘を救出するためにクレイグ・マッケンジーたちは、ブラッド・ロック島にむけて出撃する。

そして、デザイン的に言えば、今回登場するアルファー号とムーンライトSY-3は、東宝特撮モノのなかではやたらとカッコイイ印象をのこしてくれていた。今見ると、アルファー号はもうちょっと船体が長くてもいいのだけど・・・。せめて轟天くらいあったらカッコよかったのに・・・。

# by ssm2438 | 2012-09-29 01:26
2012年 09月 27日

あ・うん(1989) ☆☆☆

f0009381_0155126.jpg監督:降旗康男
原作:向田邦子
脚本:中村努
撮影:木村大作
音楽:朝川朋之

出演:
高倉健 (門倉修造)
富司純子 (水田たみ)
板東英二 (水田仙吉)
富田靖子 (水田さと子)
山口美江 (まり奴)
真木蔵人 (石川義彦)
宮本信子 (門倉君子)

     ×   ×   ×

今回の健さんはめずらしくけっこう浮気者。。。

ぱっとみ地味そうで、観たい役者さんも富田靖子以外いないのでかなりお間放置プレーしてた映画ですが、えいやーと見てみました。以外や以外、そこそこ面白かった。

『ノルウェーの森』のなかで、三角関係だからバランスがとてる関係があることについて書かれていたが、まさにそんな感じ。仲のいい男同士が、一人の女を好きになり、女はそのうちの一人を選ぶのだが、選ばれなかった男にとってはマドンナとして永遠の憧れになる。今回の健さんは、その選ばれなかったほうである。

そんな健さんも、結婚してとある中小企業の社長になっているのだが、本来の憧れの君を手に入れてないがゆえに、あっちこっちの色恋沙汰が耐えない。一途なんだけど、一途さゆえにその反動がでて表面的浮気モノを演じてるような人。奥さんとは、特に波風もたてるわけでもなく、家の中は穏やかに過ぎているのだが、時折外で女を作っては、それがばれて妻を悲しませている。しかし、親友と親友の奥さんだけには誠実に向き合っている・・・という、現実世界でもたまにある人物設定である。

一途なんだけど浮気モノ。
・・・私の知る範囲でも、そういう人が一人います。

そんな、ちょっと得意なキャラクターが今回の主人公。ま、いつもの健さん映画なら在り得ないタイプの主人公だが、今回の原作は向田邦子なのだ。暗くもならず、渋くもならず、しかしきわめて繊細に爽やかにそんな人物が描かれている。みていて気持ちがいいのである。

本編のなかでも

「人生には絶対手に入らないものがあって、それは我慢しなくちゃいけないんだ」ってある。

それを、それほど絶望するわけでもなくさらりと言ってしまうようなテイストがこの映画の魅力なのだろう。しかし、波風がたたなかればドラマにはならず、やはり心の中の欲望と理性と罪悪感から、2人の友情に日々が入る。あらららら・・・このまま痛いままおわるってことはないだろうなあって見てると、これまた爽やかに仲直りしてしまう。

<あらすじ>
昭和12年。戦友として知り合い、20年来の友人である水田仙吉(坂東・83奪三振・英二)が家族をつれて仙台の赴任先から東京にもどってくる。門倉修造(高倉健)の心はときめいた。水田の妻、たみ(富司純子)は、門倉にとって永遠に手が届かないマドンナであったが、その想いを封じ込め、誠実に付き合う門倉と水田、そしてたみは3人で一つの完成されたユニットのようであった。
ある日、水田の娘・さと子(富田靖子)は門倉の妻・君子(宮本信子)の紹介で帝大生・石川義彦(真木蔵人)と見合いをしたが、仙吉は身分不相応と断わった。しかし、さと子と石川は互いに惹かれ合い、デートを重ねるのだった。
傾きかけていた門倉の会社もなんとか持ち直し、水田を夜の街に連れて行く余裕がでてきた。女に真面目だった水田も門倉の紹介で知り合った芸者まり奴(山口美江)に執心。給料をまえがりしてまでもまり奴のところに通いつめる水田。しかしある日、まり奴は店をやめたことをきっかけに、トラブルの芽はたたれたようだった。
しかし、ある日君子が、水田の家を訪れる。門倉がまた女を囲ったらしいというのだ。一人ではいけないから水田さん、一緒に来てほしいと頼まれ、相手の女の家を訪れると、そこにはまり奴がいた。男としてのプライドが傷付けられた水田は憤慨する。一方門倉もたみえの想いが噴出しそうになるのを君子に指摘され、終止符を打とうと、あえて水田を怒らせ絶交することになる。
しかし、水田がジャワ支店長として転勤することが決まった時、門倉は最後の別れを言いに水田家を訪ねた。その時義彦も召集令状を受け取りさと子に別れを告げにやって来た。門倉は雪の中を去っていく義彦をさと子に追わせ、自分は水田家で久しぶりに仙吉、たみと酒をくみ交わしたのだった。

降旗康男ものの中では、かなりほんわかムードの爽やかな映画であった。

# by ssm2438 | 2012-09-27 00:16 | 木村大作(1939)
2012年 09月 26日

ザ・レイプ(1982) ☆☆☆

f0009381_2254369.jpg監督:東陽一
原作:落合恵子「ザ・レイプ」
脚本:東陽一/篠崎好
撮影:川上皓市
音楽:田中未知

出演:
田中裕子 (矢萩路子)
風間杜夫 (恋人・植田章吾)
伊藤敏八 (レイプ犯・谷口明)
津川雅彦 (高木三郎)
後藤孝典 (弁護人・黒瀬勇一郎)

     ×   ×   ×

そのむかし文化放送で「セイ!ヤング」というラジオ番組がありました。落合恵子はそのパーソナリティの一人でときおり聴いておりました。そのラジオ番組だったかどうかは覚えてないのですが、自分の小説が映画になるって話を聞いた覚えがあります。しゃべり方も穏やかな人で、雑誌なんかにのっていた写真も拝見したことがあるのですが、とっても綺麗なひとでした。ただ・・・、不思議と価値観を共有できる言葉がなかったな・・という印象がある人でした。

この映画は当時一度見たことがあって、その時の印象は「まあまあよく出来てたな」というものでした。今見返してみると・・・・、実に女性の感性でつくられたお話だという印象でした。レイプとその裁判というイベントを果実にして客を惹き、種の部分は「女って男が夢見ているような生きものじゃないのよ」という、決して男と女が相容れない部分を提示していっているような話。
物語の構成的には、裁判モノというのは本性暴きモノにしやすいのですが、まさにそんな感じ。で、男が観ていてみていて気持ちの良いものではないのです。それもかなり意図的ですね。「ほおおおら、男がみたいのはこうなんでしょ、でも、気持ちよくみせてあげないもんね~~~」っていう、ある種の敵対心すら感じます。

田中裕子演じる主人公・路子は、会社のあと彼氏のところで“H”をして、終電(かそのあたりの電車)で返ってきて駅からアパートまでの帰り道でレイプされてしまいます。今時のお下劣なバイオレンスもののようなガシガシのレイプシーンではなくかなりおとなしい感じです。が、ま、それはよいのです。
そのあと憔悴した彼女が家に帰ってくると、彼氏からの電話(当時携帯はない)。ずっとかけてたのに何故でないんだ??と質問責め。とにかく今はほっといてよって時の男からの電話が超ウザい。それでも男にしてみれば、電話の向こうの様子が明らかに変なので心配でしようがない。女の心配ではなく、自分の幸せな時間が崩壊するかもしれない危機感。もしかしたら別の男と・・・いう不安。それを払拭したいがための質問責め。
男という生きモノの精神的虚弱体質な部分をぐさりと突き刺してきます。

やがて裁判になり、路子の男性関係が暴かれていきます。
「自分だけの女」だと思って女には、過去において複数の男性関係があり、そこには娼婦性がかいまみえたりします。それは既に過去のことなのか・・・、それとも自分と付き合っていた時も平行しておこなわれていたものなのか・・・。男にとっては事実がどうかということよりも、そう想像できてしまう次点でもう大問題なのです。男の弱点をグサリとグサリと突いてくるのです。
だいたい、男という生きものは、実際に在る物がどうのこうのではなく、その上にどれだけ夢を投影できるか否かが重要な生きものなのです。女にとって、夢が破れて妄想することができなかうなった男ほど使い物にならないものはないのでしょう。もっとも、妄想しかしてない男も使い物にはならないのですが・・・。

とどのつまり、落合恵子という人は、男に対して醒めた感情しかもってないのだなあ・・と改めて認識したのでした。
そういう意味では東陽一の演出は、物語と波調があってたのかもしれません。個人的にはこの人の演出は、気持ちよく観ていたいシーンなのにあえて興醒めするようなカットをいれこんでくるので、どうも好きになれない・・・。

しかし、最後の判決が出た後の描写は素晴らしかった。
自分のことを執拗にせめたてた相手の弁護士に「いろいろ勉強させてもらいました」とクールに言葉をかけ、立ち去っていく田中裕子。このシーンのカッコよさが絶大である。

<あらすじ>
恋人・植田(風間杜夫)と情事の後、家路についた路子(田中裕子)は、駅からの帰り道に中古車販売店の店員・谷口(伊藤敏八)にレイプされてしまう。裁判になるとかつての男性関係も明らかにされていくと、恋人の植田がショボく見えてくる。かつての不倫相手だった高木(津川雅彦)に再会してみる。<女の現実>と<男の夢>、<女の夢>と<男の現実>がつねにネジレの位置にしかないことに気づいた路子は・・・・おそらく、期待する振りをするのを辞めた・・・・・のだろう。

・・・そんな話でした。。。

悪くはないけど・・・、楽しめる映画ではないな・・・。

見て損はない映画だと思うけど・・・・、なんでだろう、
やっぱり「期待するのをやめた人」が作る話には魅力を感じないのでした。

そりゃあ、期待したら裏切られるのは判ってるけどさ、それでも期待してしまうのが人生ってもんでしょう。
裏切られて傷つくのが怖いから期待しなくなり、期待する能力がのこってるひとをアザけるのはあまり感心しないなあ。それってラース(・フォン・トリア)な精神だと思うが。
この映画も、そこに向かいつつある要素が内在してるきがする。

# by ssm2438 | 2012-09-26 22:55
2012年 09月 16日

告白(2010) ☆☆

f0009381_12101063.jpg監督:中島哲也
原作:湊かなえ『告白』(双葉社刊)
脚本:中島哲也
撮影:阿藤正一/尾澤篤史
音楽プロデューサー:金橋豊彦

出演:
松たか子 (森口悠子)
西井幸人(渡辺修哉)
橋本愛 (北原美月)
藤原薫 (下村直樹)
木村佳乃(直樹の母・優子)
岡田将生(寺田良輝)

     ×   ×   ×

「翔丸組にはいるのだ」・・・な~んてね。

2010年の日本アカデミー賞作品賞受賞作品。

物語は一人の教師の独白的な告白で始まる。その内容は、彼女が担任したそのクラスに、自分の娘を殺した生徒がいるというもの。彼らは少年法で守られているため、刑事責任はとわれない。なので、その2人の生徒に飲ませた牛乳の中にエイズ感染者の血を混入させておいた・・と告白する。
物語は表面的なストーリー展開一般描写とし、その人だけが知っている自分の価値観を語ったシーンを、主要キャラクターの告白というような形で表現されている。表面的にはおちゃらけた世界にみえるそのうらにはこういうリビドーがあるんだよ・・みたいな表現なので、本来私の好きなタイプの作品なのだけど・・・なぜかはまれない。物語は、結局最後まで見させるような惹きの強さをもっているので、《どうなるのか知りたい欲求》にかられて最後までみてしまうのだから、つまらないとはいえないのだけど、なぜか好きになれない・・・・。なぜなのか? それが監督の中島哲也がもつ演出スタイルの問題点なのだろう・・・。

<あらすじ>
シングルマザーの教師・森口悠子(松たか子)には3歳になる娘がいた。父となるはずの男はエイズだと判り結婚を断念、しかし幸い生まれた子にも悠子にも感染はなかった。そんな娘が学校のプールで水死体となって発見される。そして学期末の最後の日に、「娘を殺した犯人がこのクラスにいる。彼ら2人には昔の婚約者の血液を混ぜた牛乳を飲ませた」と告発する。
新学期が始まるがクラスの顔ぶれは一緒。犯人の一人渡辺修哉(西井幸人)はずけずけと登校してき、みんなからのイジメにあう。もう一人の犯人・下村直樹(藤原薫)は登校拒否に陥る。
クールに状況を傍観していた学級委員長の北原美月(橋本愛)は、修哉のイジメに加わらないことから制裁をうけ、彼と無理やりキスさせられてしまう。そんな美月は修哉に呼び出されて、HIVに関して陰性である診断書をみせ、「君はエイズにはかかってないから安心しろ」といわれる。これを機に2人の仲は急速に進展していく。
それぞれの人には心に闇が設定されている。
修哉は、自分を捨てていった大学教授の母に認められたい願望。
直樹は、だれでもいい、自分をみとめてほしい願望。
美月は、私だけは貴方を理解してるのよ。だから大切にして願望。

直樹の気持ちも、美月の気持ちも、修哉に向かっている。しかし修哉は彼らのことはたんなる人生のなかのアイテムであり、彼の想いはつねに母にむかっている。母にその存在を認めてもらえない修哉は、卒業式の日、学校を爆破することで自己アピールしようと試みるが、その爆弾は森口悠子によって別の場所に移動されていた。修哉が携帯から信号を送った時、その爆弾は、修哉の母のいる教授室を、彼女もろとも吹き飛ばした。
さめざめと泣き崩れる修哉。そこに悠子が登場。

ほら、命が軽いなんていってるあんたも、そうじゃないってわかるったでしょ。これが貴方の更正のはじまりなのよ・・・な~んてね・・・で終わる。


気分はラース・フォン・トリアー的であり、みていて気持ちのいいものではない。演出も『エヴァンゲリオン』っぽくってけっこううんざりするのだが、「実はこうだったんだ、実はこうだったんだ構成」で、最後まで観させる構成になっている。
そのくらい惹きつける構成なのに、なぜう・ん・ざ・りさせるのか・・・これが問題なのだ。

それは、若い世代の価値観の構造が根本的に変わってきているきがする。それにあわせて物語を作れる人がつくるとこういうことになる・・ということなのだろう。
では、どう価値観の構造がかわってきたのか・・・??
それはインターネットにより、自分の感じた痛みなどの感覚を、即効的に客観的な感覚に移し変えてしまう技を覚えてしまったことだ。映画やドラマなのでの痛いシーンを見たとしても、その反応をネットでチェックし、あ、みんなもこんな風に感じてるんだ、ふ~~~んで、自分の受けたショックを軽減化してしまう。
以前は、ネットなどの情報検索環境がなかったので、ドラマなどからうける痛みなどのショックは、自己のモノとして自分の細胞のなかに吸収されてそれが人格として形成されていったのだろうが、最近の場合は、その痛みを自分の中に吸収する以前に、ネットで客観的な捕らえ方に変換してしまい、ドラマで使われる記号として貯蓄してしまう。

中島哲也の演出というのは、物語をなかの痛みを真実として受け入れてもらうことをめざさず、今の世代が受け入れ易い記号化した情報として提示するのである。同人誌漫画ののりを映画にもってきているのである。彼が作る世界観というのは、シチュエーション・コメディ、シチュエーション・サスペンス、シチュエーション・ホラーと呼ばれる世界なのだ。
別の例として、『ソウ』にしても、やっていることは残酷なことなのだが、既に記号化して提示されたシチュエーションなのだ。なので、それを観て楽しめる人は、記号化された情報だとしてうけとる。もう、こういう映画は、見る側と作る側で、お互いの了解で出来ているようなきがする。
それが好かん。そういう風に描かれると、提示された総てが見たことのある情報で、うんざりしてしまう。

物語を作る人は、物語の中で展開するものを「真実」のものとして受け止めてほしいという願望がある。すくなくとも、昔は観る人もそうだった。そういうものを作りたいと思うし、そういうものを観たいと思ったし、そういうものでないと感動を残せないと考えた。ただ、今時の人には、それを「真実」として受け止めるには重過ぎるのである。それを記号として提示してあげないと食傷気味になってしまう傾向にある。どんなに残酷なショッキングな画面をみても、痛みを記号化し情報化して拡散してショックを和らげるようになれてしまった。痛みを自分のものとして受け止める能力を失いつつある。
そんなんでいいのか????って思う。

ヤな時代になったものだ・・・・。

# by ssm2438 | 2012-09-16 12:10
2012年 09月 06日

シティヒート(1984) ☆☆

f0009381_18473046.jpg監督:リチャード・ベンジャミン
脚本:サム・O・ブラウン/ジョセフ・C・スティンソン
撮影:ニック・マクリーン
音楽:レニー・ニーハウス

出演:
クリント・イーストウッド (スピア警部)
バート・レイノルズ (マイク・マーフィー)

     ×   ×   ×

シャーキーズ・マシーンとハリー・キャラハンだが・・・。

70年代に刑事ドラマの人気俳優といったらこの2人だったのだろうが、この映画ではその2人の共演しているという・・・、それだけが珍しい映画。内容的にはかなり眠かったかも。ひとつほめるとしたら、画調がシックでけっこう素敵だった。

というわけで、撮影監督のニック・マクリーンをチェックしてみると、作品数はけっこう少ない人でした。私がみたなかでは・・・、『ショートサーキット』『オーバー・ザ・トップ』『ステイン・アライブ』・・・、ほかにもちょこちょこあるんですが・・・トータル的にはウィリアム・A・フレイカー的な画面ですね。コントラストは適切です。ハードボイルドもハート・ウォーミング系もしっかりこなして観易い画面を提供してくれる人という感じ。印象わるくないです。

監督はリチャード・ベンジャミンは、まあ、穏やかに撮る人。『月を追いかけて』を撮ってくれてるのであんまり悪くいいたくないのですが、一言で言うと普通な映画ばかりでスゴイ映画、突き抜けてる映画をとるという感じではないですね。

物語の基本構成は、嘗て警察で同僚だったバート・レイノルズとクリント・イーストウッド。そのうちバート・レイノルズのほうが警察をやめて探偵事務所をはじめているという設定。でも、昔からの腐れ縁で反目しながらもなんとか2人で一緒に街のギャングを一掃していくという話。レイノルズのほうがチャラチャラした感じの愛キョの良い探偵で、イーストウッドがいつもはブスっとしてほとんど戦いに参加しないのだけど、自分に被害が飛び火すると怒りが急変して暴れまくるというキャラ。
ただ、その暴れっぷりが、いまとなってはおとなしいのでメリハリがないのがちとタイクツ。ま、昔はこれでもたのしめたのでしょうか????
でも、80年代の映画ですからねえ・・・、80年代でも、この程度の映画では観てる人は退屈だったと思うな。

<あらすじ>
禁酒法があけたころのカンサスシティ。街は2人のギャングのボス、レオン・コル (トニー・ロー・ビアンコ)とプリモ・ピット(リップ・トーン)がお互い反目しながら街をg牛耳っていた。私立探偵のマイク・マーフィー(バート・レイノルズ)は、コルの隠し帳簿を手に入れた。その帳簿が公表されればレオン・コルの失脚は明らかなだ。一方プリモも、ライバルを叩き潰すねたにはもってこいであり、二組のギャングが入り乱れてドンパチをやらかす。
当然、警察もうごきだす。スピア警部(クリント・イーストウッド)もこれを機に暗黒街のボスどもの排除にのりだす。かくしてスピアとマーフィーの喧嘩コンビが復活した。2人の手荒な暗黒街壊滅作戦によつて、両組織はあえなくカンサスから排除されたのだった。。。

# by ssm2438 | 2012-09-06 18:47
2012年 09月 03日

愛とセックスとセレブリティ(2009) ☆☆

f0009381_2133579.jpg原題:SPREAD

監督:デヴィッド・マッケンジー
脚本:ジェイソン・ディーン・ホール
撮影:スティーヴン・ポスター
音楽:ジョン・スウィハート

出演:
アシュトン・カッチャー (ニッキ)
マルガリータ・レヴィエヴァ (ヘザー)
アン・ヘッシュ (サマンサ)

     ×   ×   ×

グロイ!
これほどセンセイショナルなエンディングはそうないでしょう。


ちなみにパッケージの写真はエロそうですが、全然“H”系の話ではありません。
物語は、いい加減男の青春残酷物語といった感じか。先ごろデミー・ムーアと別れたらしいアシュトン・カッチャーですが、それを予感させるような映画でした(苦笑)。コメディ路線も、アクション路線もロマンチック路線も爽やかにこなす「次世代のトム・クルーズ」といえば、このアシュトン・カッチャーでしょう。そのアシュトン・カッチャーが制作もかねた本人にとっては意欲作・・??
映画の内容は、見た目のチャーミングさでセレブのお姉ーちゃんを引っ掛け、その家に上がりこみ住み込みでピンプをやってる男が、真面目な恋愛に目覚めるのだが、それも、彼女にしっかり愛されるのだが、最後は捨てられてしまうという、男の夢をぶち壊す映画でした。

懐かしいところでは、『6デイズ/7ナイツ』『ボルケーノ』アン・ヘッシュを久々にみました。良い感じで大人になってます。今回はロスで豪邸にする女性弁護士という役柄。

しかし、なによりインパクトがあるのがラストシーン。ことが終わって、好きな女をきちんと求めた時には、その女は既に他の男と結婚していた・・・、あの時きちんと自分が応じていれば・・という男にはよくある恋愛後悔のパターンです。そのかいあって、ピンプ業あきらめ、真面目に働くことをはじめた主人公、一番最初にあいてしてくれたアン・へッシュのところから自分のアパートに帰ってくると(冒頭では自分の住む所も無かったのだから、自分でアパートを借りてるのは彼にしてみればスゴイ進歩です。そして飼っているペットがでっかいカエル。仕事から帰ると、冷蔵庫からハツカネズミを一匹とりだしてそのカエルのいる水槽に降下させる。パクとそのネズミを食べるカエル。強烈です。そのネズミは既に死んでいたので口の中で動くことはないのですが、変えるの口からはネズミの尻尾がでてて、エンディングの間中、徐々にそのネズミを胃袋に移動させてるのでしょう。最後は口からぴろんと出ていたネズミの尻尾もカエルの口に中に納まってしまうという・・・、強烈なエンディングでした。
劇場でこのエンディングを最後まで観た人は、どんな衝撃を受けたのでしょう。近年まれに見る衝撃のエンディングでした。

<あらすじ>
ほとんどヒモとしての放浪生活になじんでいるニッキ(アシュトン・カッチャー)。その夜は女性弁護士サマンサ(アン・ヘッシュ)とお近づきになり、彼女の豪邸で一晩を過ごした。カエルアパートも、朝になればでかけていく仕事ももってないニッキだが、“H”だけはおてのもので、サマンサに気に入られてしばらくそこにいつくことになる。
ところが、ニッキはダイナーで出会ったヘザー(マルガリータ・レヴィエヴァ)に一目惚れしてしまう。しかし、彼女も実は同業者であった。セレブとお近づきになり、パラサイト生活をおくっていたのである。そんな2人が惹かれあいながら、お互いを否定しながら、実は自分たち自身を否定しあっていたのだろうが、お互い同棲するようになる。
そんなヘザーがあるあさふさぎこんでいる。
どうしたの?と訊くニッキ。彼氏と別れたと伝えるヘザー。彼はアイスホッケーのチームオーナーで何不満のないセレブだった。
何故別れた?きくと、貴方を愛しているから・・と返事が返ってくる。

・・・・・素直に対応できないニッキは、外に飛び出していく。
返ってみると、ヘザーは、やはり彼のところへ行くと、置手紙をして出て行ったしまった後だった。
何度も電話をかけて彼女の帰りをまつニッキだが・・・、ついに覚悟をきめて、婚約指輪をもに、ヘザーの愛人宅に乗り込む。
相手の男はいなかった。驚いたヘザーだったが部屋には入れてもらえた。
そして指輪をだして一世一代のプロポーズ。彼女の心も確かに揺らいだ・・・。
しかし・・・、「私はもう結婚してるの」の言葉。
さらに、「2人で済むには部屋を借りなきゃならないの。貴方にはその経済力も、それを稼ぎ出す仕事もないのよ」、プータロウー・ピンプには強烈なボディーブローだった。そこに旦那が帰ってくる。
「あなた、グローサリー・ボーイにチップを渡して・・・・」
旦那からチップをもらったニッキは「女の現実」というものを認識し、感情が硬直したなかで静かに去っていくのだった・・・・。

で、ロスにかえった彼はグローサリー・ボーイ(スーパーの配達人)の職に付き、地道に働き始めました・・というお話。めでたしめでたし・・・。

# by ssm2438 | 2012-09-03 02:15
2012年 09月 02日

君よ憤怒の河を渉れ(1976) ☆☆

f0009381_2205137.jpg監督:佐藤純弥
原作:西村寿行「君よ憤怒の河を渉れ」
脚本:田坂啓/佐藤純弥
撮影:小林節雄
音楽:青山八郎

出演:
高倉健 (杜丘冬人)
原田芳雄 (矢村警部)
中野良子 (遠波真由美)

     ×   ×   ×

☆二つ以上はあげられないけど、このテンションに同調できるならけっこう面白い。

真面目一辺倒だった東京地検の健さん検事が、どういう因果かわからないが無実の罪をきせられ、自分の無実を証明するために、捜査網をかいくぐりながら、最後の敵を倒すという話。
以前一度だけ、西村寿行の小説は読んだ事のがあるのだが、これがなかなか勢いのある小説だった。潔さとバイオレンスと意志力の強さと負われながら成し遂げる物語が、ご都合主義と意志力の絶妙のバランスで綴れ折にされており、なかなかぐいぐい読ませるのである。
この映画もその片鱗はたしかにある。
ただ・・・、かなりアホなBGMをつけてる。
それでも、カルト的に愛される要素はもっている映画である。

では、この映画の何処がそれほど肯定されるのかというと、西村寿行のもってる人間の意志力は描けてると思う。そしてそれを実行するのに、人間のできる範囲のことでやってるところは賞賛に値する。さらに、中野良子がけっこう良かった(笑)。と、いいところはそれだけなのだが、でも、この物語のコアな部分でこれだけ意志力をしっかり描けてる作品はそうないきがする。70年代の良い部分と、マヌケな部分とが見事にブレンドされた映画なのだ。おそらく、これって、今の時代に、ハリウッドとかがこれをリメイクしたらそれなりに面白い作品になると思う。それが出来るだけの基本要素はあるのだ。ただ・・・、そのほかの部分でかなり「なんじゃこりゃあああああああ」度が強い作品で、ま、その部分を語りだすと尽きないという、かなりの珍作である。

<あらすじ>
東京地検検事・杜丘冬人(高倉健)は、身に覚えのない容疑で逮捕されるが、無実を証明するために逃走する。杜丘は、彼を罠にかけた女を捜しあてるが、既に彼女は殺されていた。頼みの綱は、偽証をしたもう一人の男・横路敬二である。彼を探し出して真相を素人試みる杜夫かに警察の手が伸びる。
杜丘は、横路敬二が北海道の様似に居ることを知り、北海道に飛んだ。そこで偶然熊におそわれかけた真由美という娘(中野良子)を助ける。彼女の父・遠波善紀は北海道知事選に立候補中だったので、一人娘が杜丘に好意をよせているのに困惑するが、杜丘に自家製セスナを与え逃亡の手助けをする。
東京に戻った杜丘は横路が何者かに強制収容されている事実をつきとめる。真由美の助けも在り、精神病院に患者を偽って潜入し横路と接触を企てるが、横道は新薬を投与されすでに廃人になっていた。
その病院では、代議士の長岡了介(西村晃)が院長・堂塔に命じて、精神を崩壊させる新薬を開発させていたのである。杜丘が陥れられたのは、その事実に触れかけたからだった。
しかし杜丘も強制的にその新薬を処方され、精神崩壊にいたった・・・。
が、実はそれはそういう芝居をしてただけで、本とは飲まされた薬をそのつど、喉の奥に指をつっこみ強制てきに嘔吐してはいていたのである。
長岡の悪事をあばいた杜丘は、矢村警部(原田芳雄)とともに彼の事務所にのりこみ、最後は長岡を矢村とともに射殺するのだった。

かなり偶然に支配されている映画なのだが、物語の展開がある意味現実的であり、ジョン・フランケンハイマーあたりに取り直してもらうとかなり面白い映画になったんじゃないだろうか・・・。
捨てがたい奇奇怪怪な映画である。

# by ssm2438 | 2012-09-02 02:21
2012年 08月 19日

居酒屋兆治(1983) ☆☆☆

f0009381_23581144.jpg監督:降旗康男
脚本:大野靖子
撮影:木村大作
音楽:井上堯之

出演:
高倉健 (兆治こと藤野伝吉)
加藤登紀子 (藤野茂子)
大原麗子 (神谷さよ)
田中邦衛 (岩下義治)
伊丹十三 (河原)

     ×   ×   ×

夢見る時代が終わっても、現実は残酷にも続もの・・・・。

健さんが出てくるからといって、この映画は任侠ものであはありません。サラリーマンを辞めた焼き鳥屋のオヤジの経営する居酒屋「兆治」を営む男と、その男に関係のある人たちと、その居酒屋にたむろしてくる人たちの人生模様を綴ったお話で、一点集中的なエンタメ系の映画ではありません。そのシーンシーンを情緒豊かに描いた映画ということになるのでしょう。

本作のヒロインはあの美しかりし大原麗子です。しかし、彼女の存在は物語の一部であって、全体を支えるものではないのが実態みたいですが、ま、映画として成立されるためには彼女の存在をメインにもってきて、物語り全体を構成しているようです。そんなわけで・・・・、個人的には大原麗子と高倉健の話で見たかった気がします。
この物語のツボは、大原麗子の「想い」、これが素晴らしい。求めるものが与えられないから、あとは壊れるしかないという薄幸は生き様。この切なさだけで物語りはかなり成り立ってます。ただ、なんでこんなになちゃったのか・・・、これって、ほっといていいの??? それが道義というものかもしれませんが、この話だと高倉健が一番根性ナシにみえてしまってます。お前がきちんと自分の感情を向かい合わなかったらこんなになってるんだろう!!!ってけっこう怒り心頭。それでも想い続けるしかない大原麗子が切なくて・・・・、ま、この切なさ描写を出すために総ての段取りというのならそれも理解出来るのですが、どうも物語的にはそこは一部にされてるのがなんか気に入らないといういか・・・、生き様的にはあんまり肯定できる主人公の生き方ではなかったですね。

なので、私の中ではこの映画はひたすら大原麗子の映画として解釈しました。
決して取り戻せないものにひたすら憧れて、いつまでもそれだけを求めて、手に入らないなら別の男で昇華して、キャバレーのホステスをし、酒に溺れて自分をいじめて、最後はダレもいない小さな一室でその男の写真を胸に血を吐いて死んじゃう・・・。
さらに、そんな女性がいたら、そら普通はほっとけないですよ。で、そんな彼女の美貌と哀れさにほれた男がまた手に入らないものを求めることになる・・・。

この路線だけでいけば超メロドラマになってたのに・・・、なんか、エピソードがもったいなさ過ぎたというか・・・。あんまり納得いくような映画ではありませんでしたね。

しかし、それでも大原麗子だけは圧倒的に美しいです。
昭和史上、もっと美しい女優さんは大原麗子さんだと私は思っています。


<あらすじ>
北海道は函館で居酒屋『兆治』をいとなむ「兆治」こと、藤野伝吉(高倉健)。彼はその昔とある造船所で働いていたが、オイルショックで経営が傾きかけた会社を立て直すためにリストラを行う立場に抜擢されるが、同僚を裏切れない彼はドックをやめ、もつ鍋屋の松川(東野英治郎)に弟子入り、居酒屋を持つことになった。
子供を送り出した後は、妻の茂子(加藤登紀子)とともに店に出て鍋に火をいれ、自転車にのって市場に買出しに出るのが毎日変わらぬ朝の風景だった。居酒屋『兆治』の常連客には、かつてともに甲子園を目指した親友岩下(田中邦衛)をはじめ、元の会社の同僚有田やその部下の越智、近所の一年先輩で酒癖の悪いタクシー会社経営者河原(伊丹十三)たちおり、毎晩のように足を運んで賑わっていた。
そんな兆治に想いをよせる女がいた。肩を壊して野球をあきらめた頃、地元青年会で知り合った年下の恋人さよ(大原麗子)である。しかし旧家の牧場主神谷久太郎(左とん平)との縁談が彼女に持ち上がったとき、自分の未来に自信をもてなかったか兆治はさよの幸せを願って黙って身を引いたのであった。

・・・・・これ、今想うと、おそらく藤野ほうほうは彼女をそれほどまでに好きだったわけではないんでしょうね。すくなくとも、この映画の中では、そういった感性はまったく見当たらなかった。
・・・・そうか、だからつまらないんだ。ここで描かれているのは、一方的に、盲目的に想うさよの想いだけであり、兆治のほうが常に冷静がゆえに、おもしろくもなんともないのである。これが、今の妻を裏切っても彼女を求めたい!!って想いがあれば物語はさらにドラマチックになっていたのだろうが、そうはなってない。ある意味冷静な物語の設定だとおもいえるが、物語にそんな冷静さは見たくない気もする・・・。

求めるものがなくなってしまったさよは、神谷と結婚したものの精神をいため、なんどか蒸発することがあった。そして牧場が火事になった翌日、また失踪した。
一番の盛り上がりは、さよは札幌のすすき野でキャバレーではたらきつつ、ときどき兆治のもとに電話をかけてくるというくだり。そしてついに、ある日、開店前の『兆治』に現れてしまう。結局義理人情でと理性でなにもしない兆治。そしていなくなるさよ・・・。
でも、何もしない罪悪感からなのか、串焼き二本持ったまま雨の中に飛び出しさよを探す兆治・・・。その気配を感じてるさよだが姿はあらわさないまま去ってしまう。

以下、夢が終わった人たちの物語はちまちま展開されるなか、すすきのでさよを観たという情報がはいり探しにいく兆治。しかし、彼女をみつけたときには、、嘗ての自分とさよが映った写真をにぎりしめて彼女は死んでいた・・という悲しいいエンディング。

そんあこんなの物語の後、兆治の妻の一言がつきささる。
「人の想いは止められないもの・・・」

そしてまた同じ日常が繰り返されるのであった・・・・。


最後に、木村大作が撮影監督をつとめているのだが、彼が映し出す函館の町は素晴らしい!!
降旗康男さんの映画は、木村大作が撮るというだけで燃えてしまう。。。さらにその被写体が大原麗子だとなおさらである。
こうなったら評判のわるい『ホタル』もみてしまいたくなる。

# by ssm2438 | 2012-08-19 23:58 | 木村大作(1939)
2012年 08月 05日

キス&キル(2010) ☆☆

f0009381_1185960.jpg原題:KILLERS

監督:ロバート・ルケティック
脚本:ボブ・デローサ/T・M・グリフィン
撮影:ラッセル・カーペンター
音楽:ロルフ・ケント

出演:
アシュトン・カッチャー (スペンサー・エイムス)
キャサリン・ハイグル (ジェン・コーンフェルド)
トム・セレック (ミスター・コーンフェルド)
キャサリン・ウィニック (ヴィヴィアン)

     ×   ×   ×

CIAのエージェントだった男が、天真爛漫なお嬢さんと出会い結婚、そして3年後・・・という設定。普通の家庭に入ったはずが、過去のしがらみがふたたびまとわりついてきて、そうこうしているうちに、普通の家庭のなかに、殺し屋が入ってくる。そんなシチュエーションでも、日常的反応をするキャサリン・ハイグルが楽しいという・・・、コメディなのか、シリアスなのか、スパイアクションなのかよく判らないえいが。
ただ・・・、キャサリン・ハイグルが出てきて楽しい映画のはずなのにシリアスに死んでいく雑魚キャラもあり、あまり楽しめない映画でもある。

監督は、『男と女の不都合な真実』ロバート・ルケティック。軽いノリで突くのは得意なのだろうが、本作はなにかと喰い合わせがよくない。これだけ、人が死ぬと、その後処理を考えてしまうが、そこが全部オミットされてるので、どこまでシリアスなのか、どこまで真剣に心配していいのか、どこまで真剣にハラハラドキドキしていいのかよく判らないのである。

たとえばだ・・・、猫にむけてテニスボールを転がせると、猫はそのボールにじゃれて遊ぶかもしれない。でも、人間にむけてテニスボールを転がせると、人は、そのボールが転がってきたのか、その出所がどこなのだ、誰がそれを転がしたのか、とその出所に注目する。
人間の脳って、映画などを観る時は、目の前に展開している物語を愉しむのではなくって、それが意味するその裏側にあるもの、あるいはその後に展開されるだろう展開を想像しながらあれこれ愉しむ生き物なのだけど、この映画の見せ方だと、その部分が機能しないのである。
いろいろドンパチあり、何人かは死んじゃってるのだけど、「こんなことになっちゃって・・・・、どうやってこれを収拾するの」って思うのだけど、この映画はその答えをまったく見せてくれないのである。.広げえた風呂敷はどうまとめるのかという制約があるなかで物語を展開させるからおもしろいのだけど、それがないままどんな派手なドンパチやっても空騒ぎにしかおもえない。
回答が無い問題なんて面白くもなんともない・・・、そんな感じの映画であった。

それでも、キャサリン・ハイグルは相変わらず素敵である。美人なのにおトボケ系もOKっていう、シャーリー・マックレーン的な存在感なのだ。シャーリー・マクレーンと同様にやや顔もでかい(苦笑)。願わくば、目と目の間がもう1ミリ狭かったら完璧なんだけどなあ。
・・・しかし、ほんとこの人の下着姿というのはなにかと見とれてしまう。脱ぐところまでのサービスはしないのだけど、ジェシか・ビールはスカートは似合わなくって、パッツンパッツンのパンツルックがよく似合うように、このキャサリン・ハイグルは下着姿がいいんだ。あと冒頭のドレス姿もかなり色っぽかった。
ただ・・・、けっこう太り易い体質だと思うので、体がたるまないうちに綺麗なヌードの映画も撮っておくのがいいんじゃないかと思ったりするが・・・・。

f0009381_1192532.jpgもうひとり気になるのが、キャサリン・ウィニック(→)。
この人、実はひそかにファンなのです。あんまり出番がおおくないのだけどなんかいいんですよ。初めてみたのは『ドクターハウス』に出てた時でした。うわ、ゴージャス系の美人だって思いましたよ。基本テレビドラマのほうが主戦場みたいですが、映画にも一杯出て欲しいですね。

アシュトン・カッチャーは次世代のトム・クルーズなんでしょうか。この映画の前に出たのがアイヴァン・ライトマン『抱きたいカンケイ』だったのですが・・・、いまひとつコメディにはなじみづらい気がする。ぱっとみが真面目すぎるのかな・・・。

<あらすじ>
お嬢さんのジェン(キャサリン・ハイグル)は家族でニースにきていた。旅行に出る前に彼氏に振られていたジェンは傷心モードだったのだが、スペンサー(アシュトン・カッチャー)と出会い恋に落ちる。そしてそのまま結婚。そして3年が過ぎた。
そんなスペンサーにはCIAのエージェントとして活動していた過去があったが、普通の生活に戻りたいと切望していた彼は、ジェンとの出会いを境にエージェントとしての仕事を辞めていたのである。しかし、そこに嘗てのボスから連絡が入る。
それを機に、スペンサーは顔見知りの連中から命を狙われる。何者かがスペンサーの素性を調べ、殺し屋を配置していたのである・・・。

以下、アクション映画に打って変わるのだけど、ここから先はかなりばたばた・・・。日常生活にスパイアクション映画がはいりこんでくるのだけど、そんな状況にあってもキャサリン・ハイグルが日常的反応を示すのが楽しいとはいえ・・・、個人的には、前半の血なまぐさくないノリで最後までいけなかったものかと思ってしまう。

# by ssm2438 | 2012-08-05 01:15