主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

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f0009381_3394633.jpg原題:FIELD OF DREAMS

監督:フィル・アルデン・ロビンソン
原作:W・P・キンセラ
脚本:フィル・アルデン・ロビンソン
撮影:ジョン・リンドレー
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:
ケヴィン・コスナー (レイ・キンセラ)
エイミー・マディガン (アニー・キンセラ)
ギャビー・ホフマン (カリン・キンセラ)
レイ・リオッタ (シューレス・ジョー・ジャクソン)
ジェームズ・アール・ジョーンズ (テレンス・マン)
バート・ランカスター (アーチボルド・グレアム)
ドワイヤー・ブラウン (ジョン・キンセラ)

       *        *        *

If you build it, he will come.....

1989年~1990年は映画ファンにとっては夢のような時代だった。
89年の年明け『ベルリン・天使の詩』『ニューシネマ・パラダイス』『恋恋風塵』『バベットの晩餐会』、年をまたいで『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』『フィールド・オブ・ドリームス』『霧の中の風景』『恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカーボーイズ』・・・・こんなにスゴイ当たり年はもう二度と訪れないだろうと思う。

『ニューシネマ・パラダイス』で散々泣かされて、もうこれ以上泣ける映画はないだろうっておもってたら翌年のこの『フィールド・オブ・ドリームス』でまたまた爆涙だった。眼がねは涙でくもり、あんまり我慢してたので見終わった時に鼻水がつるーーーーーっとスジを引いた。あんまり涙を我慢してたら鼻から出てくるというのは子の事なんだと知った。

でも、なぜこの映画がここまで泣けるのか・・・不思議な魔力をもっているのか・・・・、謎の深い映画でもある。

If you build it, he will come.....

アイオワに移り住んで農業を営んでいるレイ・キンセラ(ケヴィン・コスナー)が、ある日トウモロコシ畑のなかで、その声を聞く。“If you build it, he will come.....” やがてトウモロコシ畑の一角に野球場のイメージが浮かび上がり、続いてシューレス・ジョーのイメージが一瞬垣間見えた・・・かのように思えた。レイは、妻のアニー(エイミー・マディガン)にそのことをつげる。この時の会話からすでにウルウルきていた。

「私は、彼が老いていくのが許せなかった。
 今の私と同じ年のころには、すでに彼は擦り切れた老人のようにみえた。
 きっと彼は、何一つスポンティーニアス(衝動的)なことはしなかった。
 私も彼と同じようになっていくのかと思ったら怖い。・・・私はきっと狂るってるな」

この奥さんも良く出来た奥さんで、
「そうよ、あなたは狂ってるわ。でも、もし、あなたが、どうしても、ほんとにそうしたいって思うならするべきよ」と言ってくれる。

翌日からレイは育ったトウモロコシを刈り取り、そこに野球場を作っていく。そしてなにもないまま、時は過ぎ、野球場は雪に埋もれ、クリスマスをやり過ごした。そんなある日、妻のアニーは家計は火の車だといつ現実をつきつけられていることをレイに話す。衝動にかまけてまずいことをやってしまったな・・と思ってるレイに、娘のアニーが声をかける。「ああ、うるさい、後で聞くから」と邪険にするレイだが、アニーはしばらくしてまたレイに声をかける、「誰か来てる・・・」。
フィールドには父が憧れた野球選手、シューレス・ジョー・ジャクソンが来ていたのだ。

上手いんだ。
期待させておいて、もうダメかなっと思わせ、ぎりぎりのところですくっていく。

このあとの展開も日本人には在り得ない展開かもしれない。なんと既にこの時点で秘密を家族と共有するのである。おそらく日本のドラマなら、ここは主人公だけの秘密にしておくところだろうが、この物語では家族とシェアする。アメリカ的である。
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シューレス・ジョーは、メジャーリーグに在籍したプレーヤーで生涯打率は .356。1911年には147試合出場、なんと打率.408を残している。しかし、シカゴ・ホワイトソックス在籍中のワールドシリーズで八百長試合をしたとして、他の7人のプレーヤーとともに球界追放になってしまった。
詳しい話はこの事件をテーマにした『エイトメン・アウト』参照のこと・・。

そのシューレス・ジョーがレイの野球場に現れる。
どうやらこの場所は、<過去に刺さったトゲ>を浄化する場所らしい。
この映画のツボは、この<過去に刺さったトゲの浄化>にある。人は誰でも1つや2つのトゲが心のどこかにささったままになっているものだ。この物語では、その悔しさを癒してくれるがゆえに、怒涛の涙をさそうのである。

そしてさらなるお告げがレイの耳に届く。
<過去に刺さったトゲ>を浄化しなければならない人は他にもいるらしい。
そしてそれは、自分自身であることに気づいていく。。。
レイは、子供の頃、父のヒーローだった、シューレス・ジョーをののしって家を出たのだった。

I could never respect a man whose hero was a criminal.

シューレス・ジョーが八百長をしたかしなかったかなどもはや意味はない。レイがもっている自責の念は、あの時、父を傷付けることを意図してその言葉を吐いた・・ということだろう。
それはまさに、『普通の人々』のなかで、コンラッドを傷付けるために、悪意をもってフレンチトーストをディスポーザーで処分したメアリー・タイラー・ムーアのようなものだ。

その後コンラッドが若くして死に、あのときに自責の念から自分を解放されないまま、メアリー・タイラー・ムーアが歳をとったとしたらそれは不幸としかいいようがない。そしてもし、その自責の念が解消されたなら・・・sらな誰だって泣くよ・・・。

この映画においては、父とするキャッチボールなんかはどうでもいいのである。アメリカ国民の文化としての野球の賛美なんかどうでもいいのである。この映画のツボは、過去に刺さったとげは、その気になれば自分で浄化できるんだ。・・・確かに、このフィールドにいる人たちは、ここでしか浄化できないかもしれない。でも、君たちは、やろうとおもえばすぐにでも出来るんだ!と語ってくれている。

もっとも感動敵なのはバート・ランカスター扮するアーチボルド・グレアムのエピソードだろう。
かれはジャイアンツで一度だけメジャーリーグのフィールドにたった。勝ってる試合の8回裏、守備固めとして外野の守備についた。たったそれだけが彼のメジャー人生だった。その後再びマイナーリーグに戻され、そして引退した。その後は医者になりすでに余命を全うしていた。そんな彼の望みは「一度でいいからメジャーのバッターボックスに立ってみたかった」というもの。やがてグレアムは、少年の姿でそのフィールドにたち、メジャーのピッチャーを相手に犠牲フライを打ち、貴重な打点を記録する。

そのとき、レイの娘、カリンが観客席から落ちて気をうしなう。そのときアーチー少年は、夢のフィールドを後にしてコチラの世界に踏み入れる。フィールドを出たとたんに医者だった自分にもどり、カリンの危機を救う。サンドイットを喉につまらせていたのだ。。。彼がこの夢のフィールドから出るところから終わりまでもう泣き通しである。

If you build it, he will come.....

彼とは父のことだった。
キャッチャーマスクをとったその男は、まだレイを生む前の若々しい父だった。
自分はあなたの息子だ」とは言わずに自己紹介するレイ。別れ際に「キャッチボールしない、ダッド」というと、その言葉の意味がよくわからないまま、“I 'd like that.”と、戸惑いながらこたえる若い頃の父の言葉をきいて再びどあああああああああああああと涙があふれてくる。
卑怯この上ないね。
きっとあれが、本人の顔をしてたらだめなんだろうな。面とむかって伝えるとどうしても芝居がかかってくる。どこかうそ臭くなる、照れて何もいえない・・・。でも、自分の存在を知らない父になら言える・・・・。
だああああああああああああああ、
ああああああああああああああああああああああああああああああああ、ダメだああ、
これ書いてても泣けるぞ、くそおおおおおおおおおおおおおお。。。

きっと、この映画をみたらベルイマンも泣いただろうなあ。

自分の心のなかに刺さっているいくつかのトゲの、きっといつかは、
こんな風に浄化されるのだろうなあ思うと、やはり泣けてくる。
でも、それは今、浄化されなくていいのけど。
今はもうすこしだけ復讐心をもっていたいと思う。
by ssm2438 | 2012-01-01 03:25
f0009381_12381882.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス

出演:ジェラルディン・ペイジ
    ダイアン・キートン
    メアリー・ベス・ハート
    クリスティン・グリフィス

        *        *        *

ウディ・アレンイングマル・ベルイマン信者であることは誰もが知っていることだが、この映画はアレンが、どうしてもベルイマンを一度やってみたかったのだろう、そしてやってしまった映画。しかし・・・本家に勝るとも劣らない素晴らしい映画に仕上がっている。この分野でエンタテイメント性というのもおかしな話だが、少なくともベルイマンの映画よりはそれはある。ウディ・アレンの中では一番好きな映画である。

ベルイマン映画のなかでは、常に高圧的支配者が登場する。『秋のソナタ』ならイングリットバーグマン演じる母。『沈黙』ではイングリット・チューリン演じる姉。『野いちご』では、やはりイサクの母。『ファニーとアレクサンデル』では義父の神父。そういった支配的環境のなかでいかに自己を守っていくか、あるいは嫌われないために自己を放棄していくか・・、そういったアイデンティティの存続を描けた戦いが描かれている。

ウディ・アレンが作った『インテリア』のなかでは、3姉妹の母がその高圧的な支配者となっていた。その環境下で育った3姉妹が、大人になった時、そしてその母が以前より弱くなっていったとき、彼らがどう対処したか・・それが描かれている。この映画では、支配的な立場いた母の影響力が弱体化してきてるなか、本人はまだそれをもっていたいと思っているが、そうではない現実がある。この状況ではかつて支配者だった母ですらも彼女のアイデンティティの崩壊の危機にたたされている。

そして、人が社会の中で生きていく以上は、被支配的立場と支配的立場の両方を経験することになる。そういう意味ではここに登場する誰にでも感情移入できる部分があるはずだ。あるときは母の立場に・・、あるときは長女レナータの立場に、そしてある時は次女ジョーイの立場に・・・、そしてあるときは、父の立場に・・・。

<あらすじ>
ロングアイランドの海岸ぞいにたつモダンな白い家。富裕な実業家アーサー(E・G・マーシャル)が、インテリア・デザイナーである妻イブ(ジェラルディン・ペイジ)と30年間すごした家である。彼らには3人の美しい娘がいた。長女のレナータ(ダイアン・キートン)は、売れっ子の女流詩人。次女のジョーイ(メアリー・ベス・ハード)姉レナータにライバル意識をもっているが、自分になにがむいているのか分らないで苦しんでいる。三女フリン(クリスティン・グリフィス)は恵まれた容貌と肢体を生かしてとりあえずTV女優として活躍していた。

その日3人の娘のまで父は、妻イブと別居したいと話す。自分なりの美意識と創造力で家庭を支配してきたイブの生き方には耐えられなくなった、というのだ。イブは家を出ていった。イブの生き方は、まさにインテリアデザイナーなのだ。それは家族の人もそのように配置する。「これはこうあるべき」「それはそこがいちばんにあっている」、ゆるぎない完全主義者なのだ。その影響かで育った長女のレナータは、もっとも母の期待にこたえた人だろう。そんな姉にどうしてもかなわなかった次女のジョーイ。彼は常に劣等感を持って生きていた。どんなにがんばっても姉のようにはなれない。母の期待には応えられない・・・。三女のフリンは姉と知能で対決することは避けて美貌で人生を切り開いた。といっても、有名女優には程遠い。

イブは自分の存在意義に自身をうしないガス自殺を企るが、一命はとりとめた。一方、アーサーは既に新しいパートナーを見つけ、彼女と再婚することを娘たちに話す。彼女はパール(モーリン・スティプルトン)といい、母とはまったく正反対のタイプので、ひとことで言えば、「彼女からは劣等感を感じそうにない女性」だった。娘たちは、特にジョーイは強く反対した。
彼女にしてみれば、母は確かに高圧的な人で、姉と比較されればいつも惨めなのは自分だったのだが、一番認めてほしい存在は確かに母だったのだ。しかし、父が連れてきた新しい母になるであろう人には、自分を認めてほしいと思えないのだ。こんな人をなぜ・・!!と思うジョーイ。

父はイブに正式離婚を申したて、パールと結婚した。父の願いを入れて結婚式に列席した3人の娘たちだが、式後のパーティでは空虚しか感じられなかった。その夜、みんなが寝静まったロングアイランドの家にイブがそっとやってきた。ひとり寝付けなかったジョーイが母と話最後の人となった。
ジョーイは、母の期待に応えたくても応えられない、姉と比べられ劣等感と無力さのなかで常に苦しんでいたことを告発する。そんな自分を一度でも理解してくれようとしたのか? 愛すべき母なので、憎くくてしかたがなかったことを・・。
自己満足の為に家族を支配してきたことを痛烈に批判されたイブは絶望し、自己を肯定する要素をすべて失ってしまった。そしてその早朝、一人灰色の海へ入っていくのだった。


この映画は、自己の劣等感と真剣に戦っている人に捧ぐ同士の詩だ。

そして最後にもうひとつ、この映画にはBGMがない。言葉と息づかいだけで物語が進行する。それを氷のフィルターを持つ男=ゴードン・ウィリスが的確な画面としてきりとる。そのレイアウトの完成度の高さはまさにインテリア・デザインを彷彿させる、研ぎ澄まされてバランス感覚の画面だ。このゴードン・ウィリスのカメラなしにこの映画は成り立たなかっただろう。
by ssm2438 | 2011-04-13 11:24 | ゴードン・ウィリス(1931)
f0009381_1352149.jpg監督:ピーター・メダック
脚本:フィン・テイラー
ジェフリー・D・ブラウン
撮影:トーマス・クロス

出演:テッド・ダンソン
メアリー・スティーンバージェン

     ×     ×     ×

ある日自分の愛車、ポンティアックがあと◯◯マイルで地球と月との距離を走り切る事になるこを発見した小学校の理科の教師テッド・ダンスンは、アポロ11号の打ち上げと同時に出発し、アポロ11号が月に着陸するのと同時にその距離を走破しようという試みを息子と一緒にやってしまうハートウォーミングなお話。 映画的にはそれほど完成されてるわけではないんだけど、とにかくセリフが熱い。もうライターのパッションだけで書きなぐってるようなお話。 冒頭の会話をちょっと紹介しよう。もうこれだけのこの映画の紹介は十分だとおもうんだけど、じゃん!

<物語り冒頭の息子のモノローグ>   

ママが言ってた。   
昔エジプト人は星の移動する音を聴いて『天空の調べ』と呼んでいたって‥‥。   
今も満月になると鳴るけど、人が聴くことを忘れてしまったそうだ。   
パパは迷信だと言う。   ‥‥たぶんパパが正しのだろう。   
パパは事実を重んじ、いつもなにかを調べている。総てを解く答えを探してるみたいだ。
パパは‥‥他の人とは、どこか違ってる‥‥。

<小学校の理科の時間> おもむろに話しはじめるその少年の父(テッド・ダンスン)。  

「人間の男性が射精するとき、2億もの精子が放出される。いいか、2億だぞ!
 2億っていったらアメリカの人口に匹敵する数だ。その精子が争うように卵子を目指す。
 たどり着けるのはそのなかのたった100で、授精を果 たすのはそのなかの1つだ。2億のなかのたった1つだ。
 その競争に勝ち残るの確率といったらまさに天文学的数字だ。
 君達は1人ひとりが2億の分の1の勝者なんだ」  

「そこで我々が学んでいる『種の起原』だが、   
 ダーウィンの説に拠るなら“私は何故ここにいるのか?”   
 “君達は何故、生まれて来たのか? 何故この世の中に存在している?”   
 紙切れを書き散らすためか?(といって、テスト用紙を宙にばらまく)   
 ちがう、ちがうんだ!! そこにななにか大きな目的があるはずだ。   
 今ここに存在すうこと自体が謎なんだ‥‥」

<別の日の理科の時間>  

「人類は下等動物から進化を重ねて来た。
 そして我々の頭脳はついに、33万4400キロ彼方の月へ到達する乗り物をつくり出したのだ。
 そこで、君達に質問だ、この大いなる挑戦はなんのためなのか?
 危険を犯し、命をかけて、なぜ月に行こうとするのか?」

ある生徒が手を上げて答える。
「人類のためになる鉱物資源を発見するため?」  

「うん正解だ、それも1つの理由だろうな。いろいろな理由があげられる。
 ロシアに勝つためだとか‥‥、ほかにもあるだろう‥‥。
 しかし、そんなのは全部口実だ!   
 彼等が月に行くのは、   
 それは、まだ誰もやってないからだ! 面 白いからだ! 危険だからだ! 胸が踊るからだ!!
 それが挑戦の動機であり、進化の原動力だ」  

「君達は人生のなかでどんな挑戦がしたいのか?   
 どんなことに命をかけれるのか? それが今日のテーマだ。   
 25分で作文をかいてくれ(といって、紙をくばりはじめる)。   
 忘れるなよ、君達1人ひとりは、2億の分の1の勝者なんだから。   
 ‥‥どんな挑戦を描き出すのか、期待している!」  

「彼等が月に行くのは、それは、まだ誰もやってないからだ!」 もうこれを言い切ってしまうハイパーさが素敵。 ほかにもこの映画、もえる言葉がいっぱいあります。

この映画には、<やってしまえる人間>のパッションがいっぱいつまっているんです。 彼等がこの映画のなかでやってしまったことは、実はだれでも出来ることで、大した事ではないんです。 ただ、この誰にでも出来ることを、やって確認してみることが、その人自信につながっていくんです。 やって確認しないと、そこには“もしかしたら出来ないかも知れない”って可能性がのこされるわけで、それが自信をなくさせるんです。

私が東京から中央町まで歩いて帰ってみたのも、実は誰でも出来ることなんです。 アニメーターになってしまったのもも、実は誰にもで出来ることなのです。 ためしに、アニメーターになりたいって思う人がいたら、朝おきて朝食をとるように、寝る前に誰かの漫画(上手い人限定)の2~3ページを3年間模写 し続ければ、アニメーターになりうるだけの画力なんて身につきます。 同窓会だってそう、“どうやったら出来るか”なんて誰だって安易に想像できます。それをやってみて「ああ、できるんだ」って確認するだけのことです。

そしてもう1つの『真実』、<やりたいな~の人>は、<やらない人>のカテゴリーに入ると言う事。 だってこの世の中には、<やりたいな~の人>と<やってしまえる人>の2種類しかいないんですから。 私はこの映画を当時みてえらく感動して、さきごろもう一回みようとおもったらもうどこ探してもレンタル屋においてない。 しかたがないので、ネットであっちこっち中古の映画販売サイトをあさってやっとみつけて購入したんですが、 どうやら<観たいな~の人>には決してみる事の出来ない映画かもしれない。
by ssm2438 | 2010-12-11 14:02
f0009381_129141.jpg監督:スティーヴ・クローヴス
脚本:スティーヴ・クローヴス
撮影:ミヒャエル・バルハウス
音楽:デイヴ・グルーシン

出演:
ミシェル・ファイファー (スージー)
ジェフ・ブリッジス (ジャック)
ボー・ブリッジス (フランク)

     ×     ×     ×

私のなかの大好きな映画のひとつ。
いまとなってはハリポタシリーズの脚本家として有名なスティーヴ・クローヴス。実はそのハリポタはみてないのだけど、この人の初期の作品『月を追いかけて』もけっこう好きだ。しかしあんなん書いてたら大衆受けはしないだろうなあって思っていたのだが、その次に書いたこの『恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』もあまり世間では知られてないかも。
しかし、これは間違いなく傑作のひとつだ。

15年間ペアを組んでホテルをまわりピアノの連弾を披露するベイカーボーイズと名乗る兄弟フランクとジャック(ボー・ブリッジズジェフ・ブリッジズ)。妻子もちでチームのマネージメントもかねる堅実な兄と天才だがその才能が認めず脚光を浴びないまま今の生活をつづけている弟。しかし現状のやり方に限界を感じ女性ボーカルを追加しようとするところから始まる。オーディションをするがまともな応募者は誰もいない。そんな中遅れてやってきたスージー(ミシェル・ファイファー)。彼女が加入したことで彼らはどこのホテルに行っても人気ものになっていく。3人でおこなるコンサートは、ふたりのピアノがスージーの輝きを引き出していく。

そんなある日、フランクの子供が交通事故にあったと連絡がはいり、彼だけツアーをはなれることになる。ジャックとスージーだけでやるコンサート。これが実にいいムードなのだ。
しかしジャックとスージーの二人のコンサートは、艶っぽく、お互いを官能しあうコンサートなのだ。ジャックの弾くピアノの上で歌うスージーの絵は映画史上でも燦然と輝く名シーンのひとつとっていいだろう。そしてコンサートが終わってとっちらかったままの早朝、一人で弾くジャックに歩よるスージー。
舞台に座るジャックに背中をあずけ首筋をマッサージしてもらうスージー。その手がやさしく愛撫する手になり、それを受け入れるスージー。スージーの赤いドレスが脱がされていく。スージーは体をジャックのほうにむけキスをする。。このへんの流れが実に色っぽい。実にロマンチック。素晴らしいの一言。

この映画のすごいところは、観客に想像させる演出術のすばらしさ。
情報を提示するだけのアホ監督が多い中、スティーヴ・クローヴスの演出は期待させること、思わせぶり、想像させること、これが圧倒的に上手い。これほど上手い監督さんは思いつかない・・。

彼の演出術のおかげで、ジャック(ジェフ・ブリッジズ)とスージー(ミシェル・ファイファー)がセックスにいたるまでの展開はほんとに面白いのである。きっとこの調子で最後までいったらこの映画はビッグヒットだっただろう。
しかしこの物語はここからややこしくなる。
すこしづつギクシャクするユニット。やがてスージーに舞い込むソロの仕事。
「そんな仕事なんか断って、俺らとやっていこうぜ」って言えばこの物語はさらなるハッピーな展開になるはずなのに、それがいえないジャック。結局ユニットは分裂、フランクは「ピアノ教師でもやるさ」といい、ジャックには「良かったら店で弾いてくれないか」という話がくる。

やるせなさで酔っ払い転がり込んだファミレスで寝込んでいるジャックにいつぞや聞いた下手な歌声。オーディションで落とした女がそこでバイトをしていた。彼女はファビュラス・ベイカーボーイズのファンだという。みれば壁には幸せそうな笑顔の3人のユニットの輝かしいころの写真がはってある。


この映画の問題点は大衆受けしないストーリー展開。
この人は決してサクセスストーリーが書きたいわけじゃなくって、才能あるのに世間に認められない自分を書いているのだろうと思う。
劇中のなかでバーでピアノを弾くジェフ・ブリッジズの姿をみるミシェルファイファーというシーンがある。翌日喧嘩別れすることになるのだが、「俺たちは2度寝た、それだけだ。俺のことなんかなにも知らないくせに」というジャックにむかって売り言葉に買い言葉で言うスージー。

 「ひとつ知ってるわ。昨日バーで弾いてるあなたを見たの。
  昔の夢をひっぱりだして誇りを払ってるあなたをね。
  毎晩どこかのバーで自分を叩き売ってる。
  ・・・私だって経験あるわよ。行きずりの男と寝た後自分にこう言い聞かせる夜の。
  なんにも気にすることはない。記憶を空っぽにすればいいんだから。
  ・・・でも空っぽになるのは自分自身なのよ」

これは効くね。
きっとスティーヴ・クローヴスが自分自身に言ってる言葉なのだろう。下世話になれない天才過ぎる人の言葉。これは『月を追いかけて』を一緒にみればこの監督さんの本質が見えてくる。けっして飾らない、とても純粋で身の丈以上のものなど書こうともしない人。あの話も自伝的要素が強いのでは??って思ってしまう。
だから決してサクセスストーリーは書けない。嘘が書けない人なのだろう。自分が分かる範囲の物語しか書けない人。だから私がこれほどまでに惹かれるのだろうと思う。自分ににた人間だと感じているのだろう。
(これはジャンカルロ・フィジケラにもいえることなのだけど)

そんなスティーヴ・クローヴスもハリポタの脚本を得てビッグネームになりつつある。技術力はホントにある人なのだが、エンタが出来ない不器用さが災いしてメジャーになれなかった彼が、エンタなファンタジーの脚本を書く事で世間に認められつつあるのはうれしいことだ。

嘘つきになれない、純粋すぎる天才たちに栄光あれ!
by ssm2438 | 2010-08-08 01:31
f0009381_17115363.jpg監督:ジェームズ・ブリッジス
脚本:ジェームズ・ブリッジス
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:ティモシー・ボトムズ
    リンゼイ・ワグナー
    ジョン・ハウスマン

     *     *     *

リンゼイ・ワグナーつながりでもうひとつ。私の大好きな『ペーパーチェイス』『ふたり』とともに見たくて見たくてしかたがなかった映画であるが、こちらは幸いにしてVHSが発売された。20代の頃の私はこの映画をレンタルビデオ屋で見つけてどれだけ幸せになったことか。しかし、そのときはこの映画の価値など理解してもいなかった。ただ若き日のリンゼイ・ワグナーが出てる映画というだけしか興味はなかったのだが、みてみて驚いた。良い!! 恐ろしいまでにツボだった。いろんな意味でツボにはまった。

まず第一に、私はお勉強映画というのがけっこう好きだ。本作品は時代が時代だけにアンチ権力、アンチ権威的な匂いもしないではないが、それでもそれと戦うには最低限度の力をつけなければ何も出来ない。それを見せ付けてくれる。実力がなければなにもいえない世界。何かを主張したいのなら実力をつけなければならない。その厳しさがきちんと描かれていてることがとってもうれしかった。

第二に、リンゼイ・ワグナーがやっぱり美しい。私が知っていた彼女は『バイオニック・ジェミー』の彼女であり、この映画はそれより何年か先につくられている。がゆえに私がそれまで知っていた彼女よりも若いのだ。残念ながらグラマーなたいぷではないが、それでもかのじょがもつゴージャスさは十分にかもしだされていたし、どんな服装をしてみ素敵だった。そして彼女が出ている映画が「良い映画」だったってことがうれしかった。

そして第三にゴードン・ウィリスの画面。この映画ほど「氷のフィルター」をつけた感じの映画はないだろう。キングスフィールドの講堂、冬の公園やスタジアム、レッドセットの棚。とくにこの図書館に代々保管されているという教授のノートが保管してあるレッドセットの棚。あの赤さは素敵だ。この映画はキューブリック『2001年宇宙の旅』とさりげなくリンクしていると感じるのだが、あのコンピュータHALとこの映画のレッドセットの棚は実に同じ空気を感じる。もちろん作っている当事者はそんなことはきにかけてもいなかっただろうが、偶然にしてもあの同じように冷たく赤いあの感じは素敵だ。

最後に、そこに描かれている人間性。どうも私はあのくらいの人間と人間の距離感がすきらしい。ちかすぎてべたべたするのもあんまり好きではないし、かといって離れすぎてクールすぎるのもいまいち好きになれない。ちょっと距離をおいたつながり・・というのだろうか。あの空気感が好きだ。
結局のところ、この映画のもってる空気感が肌にあうのである。

そしてもうひとつ記しておきたいことがある。この映画実はイングマル・ベルイマンがシナリオを書いた『もだえ』と実にシチュエーションがにているのだ。こちらはラテン教師なのだが、『ペーパーチェイス』に出てくる完全無欠の歩く法律キングスフィールドは、あのラテン教師がベースに違いないと勝手におもいこんでいたりする。


この物語は主人公のハート(ティモシー・ボトムズ)はハーバード大学法学部の学生、そんな彼もキングスフィールド(ジョン・ハウスマン)の講義初日にその甘さをしたたかにうちのめされる。寮に帰るとトイレにはいり絶叫を便器にぶちまける。一筋縄では蹴落とされることを初日に心にきざむことになったハートは、向かいの部屋の血筋のよさげなフォード、巨漢で傲慢な部分があるベル、のちにアリーマイラブでアリーの父親役をやるケビン、常にマイペースでスマートに総てのことをこなしていくアンダースンたちとスタディグループをつくる。そこでは各自が講義の担当を決めてその講義に関しては責任を持ちノートをまとめ、テスト前にはそれを交換しあう約束をかわす。そのなかでハートはあえて強敵キングスフィールドの契約法の担当に自ら名乗りをあげる。

彼らにとって<女>は禁物だといわれている。女に割く時間があれば勉強したほうがいい。ペースの乱れが総てを台無しにしかねない。ハートもそれをわきまえてこつこつを勉強していくうちにキングスフィールドの講義でも徐々に頭角をあらわしてく・・が、ある晩ピザを買いにでかけたよるスーザン(リンゼイ・ワグナー)と知り合い付き合うようになると、勉強のペースがみださてていく。そして実は彼女がキングスフィールドの娘であることにきづく。
この物語の基本構造は、人間性ゼロの法律マシン=キングスフィールドと人間性の必要性をとくちょい甘のスーザンとの間でゆれるハート・・・という構成になっており、結局のところ人間性をもちつつキングスフィールドの知識も得る方向性でまとめあげている。

勉強のほうも少しずつ落ちこぼれていくものも出てくる。ケビンもその一人だ。
キングスフィールドのクラスにおいてはソクラテス方式の講義が行われている。Q&A、Q&Aの繰り返し、そのなかから自分なりに体系的にまとめ思考することを養っていく。しかしケビンは写真的記憶力にたより、思考することを得意としなかった。それがそれまでの彼の勉強スタイルだったのだろうがここではまったく通用しない。ことごとく総てのテストで落第点をとり、仲間からも大事にされない存在になり、自殺をはかろうともする。それは未遂に終わるが最終的には挫折して大学をさることになる。

一方と意外と大胆な行動力をみせるハートは早朝の図書館に忍び込み、一般には閲覧することが出来ない教授たちがのこしたノート=レッドセットを覗き見ることに成功する。そこで発見したものは・・・、自分たちが受けている講義とまったく同じ内容がそのノートにかかれているという事実だった。キングスフィールドの講義内容も彼自身のアドリブではなく、彼がうけた講義の転写でしかないのだ。その棚に並ぶレッドセットと呼ばれるノートはまるでデータとしてのこされたコンピュータのメモリのようであり、人から人へと受け継がれながら未来へおくられていく進化しないデータでしかないのだ。

そうしてキングスフィールドの思考体系を理解しつつあるハートは、講義のあとに呼び止められ、彼自身の仕事を手伝ってくれないかと要請をうける。認められた感をもったハートはその仕事を引き受けるが、その反面スーザンとのデートをすっぽかすはめになる。結果はハートの手に余る仕事であり、期限までに間に合わせることが出来なかったハート。もう少し時間が欲しいと申し出るが、キングスフィールドの言葉は冷たく「すでに上級生に頼んだ、君のはもう不要だ。帰って休め」と言うだけのものだった。

父は人間的な感情では付き合えない人なのだというスーザン、しかし何かしら期待をかけてもらっていると信じているハート。最終試験においても猛勉強のすえ高得点をえる。最後の講義の後「あなたの講義は素晴らしかった。おかげで力がついたと思います」と一言感謝の言葉をつたえるハートだったが、キングスフィールドの言葉は「・・・・君はだれだったかな」。その法律の伝道師はハートのことなど記憶すらしていなかったのだ。

成績が発表されるまでの間、ハートとスーザンはとある岬で休暇をとていた。そしてとどけられる成績通知書。ハートは中味を読まずにそれで紙ヒコーキを作り、海に向けてそれを飛ばし、それは波間に消えていった。


私が思うに、男という生き物は<認められたい生き物>なのだ。どんなに努力して自分が自分を認めたとしても、自分以外の誰かに認められなければその努力むなしいと感じる。
この物語は、<認められたい>と思い、それに挑んだが、その相手は認める能力すらないメモリーマシンだったというある種の悲劇なのだが、しかし、それは実際の世界ではここまで徹底的に認められないことはないまでも多かれ少なかれあることであり、その認められるための努力がその人を作っていくのだと思う。

PS:このキングスフィールドの演技でジョン・ハウスマンアカデミー助演男優賞を獲得した。

画像あつめてきました。
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by ssm2438 | 2010-04-26 03:29 | ゴードン・ウィリス(1931)
f0009381_3101155.jpg監督:フランク・キャプラ
脚本:フランセス・グッドリッチ
    アルバート・ハケット
    フランク・キャプラ
撮影:ジョセフ・ウォーカー
    ジョセフ・バイロック
音楽:ディミトリ・ティオムキン

出演
ジェームズ・スチュワート (ジョージ・ベイリイ)
ドナ・リード (メリイ)
ライオネル・バリモア (銀行家のポッター)

        *        *        *

いかに夢想家の夢といわれようとも、いかに理想主義といわれようとも、いかに白人しかでない映画といわれようとも、この映画はやっぱり好きだ。この映画のすばらしいところは、絶対的に自分肯定思想の映画だということ。

ミスター・アメリカの良心=ジェームス・スチュアートここにあり! 善良な映画としては永遠のナンバーワンではなかろうか。これぞフランク・キャプラの真骨頂。
心がささくれ立ってる人は、ぜひともクリスマスにこの映画をみよう!!!
なお、心がささくれ立ってない人は、『群衆』のほうがいいかも。

しかし、この映画が公開された当時は、批評家からは「センチメンタルすぎる」との評価を受け、興業的にも52万5千ドルもの赤字を出して散々な結果に終わった。第19回アカデミー賞では作品、主演男優、監督、編集、録音賞の5部門にノミネートされたが無冠。しかし、時がたつにつれてこの作品の持つ素晴らしさ、親しみやすさが再認識され、アメリカ映画の傑作の一本に数えられるようになり、70年代頃からアメリカではクリスマス映画の定番となった。

<あらすじ>
雪の降るクリスマスの夜、事業に失敗、多額の借金をかかえたジョージ・ベイリイ(ジェームズ・スチュアート)は橋のうえにたち、自殺しようと考えていた。

子供の頃、凍った池で溺れ、方耳の聴力を失ったベイリイは、いつかはベタフォードの町を出でて世界一周をしたいと思っていた。彼の父は住宅金融会社を経営し、町の貧しい人々に低利で住宅を提供して尊敬を集めていたが、町のボス、銀行家のポッター(ライオネル・バリモア)はこれを目の仇にして事毎に圧迫を加えた。大都会のカレッジを卒業したジョージはいよいよ海外を見て回りたい思っていたが、父が過労のため世を去り、株主会議で後継社長に推され、承諾せねばならぬ羽目となってしまう。
海外旅行もおあずけ。弟が大学を卒業したら会社を譲ることにしていたが、大学を卒業した弟は大工場主の娘と結婚、その工場を継ぐことになっていた。再びジョージの夢は全く破れ去った。
やがてジョージは幼馴染みのメリイ(ドナ・リード)と結婚した。そして新婚旅行に出発しようとした時、経済恐慌のため、ジョージは旅費として持っていた5000ドルを貧しい預金者たちに払い戻してやり、急場をしのいだ。
新婚旅行は出来なくなったが、2人は幸福な結婚生活に入り、次々と4人の子供に恵まれた。住宅会社の業績も着々と上り、それに恐れをなしたポッターはジョージ懐柔策に出たが、彼は断固拒絶した。第2次大戦が起こり、海軍飛行将校として従軍したジョージの弟は、殊勲をたてて大統領に表彰された。しかし、ささいなミスから会社の金8000ドルが紛失してしまう。実はその金はポッターの手に入ったのだが、彼はそれを秘してジョージを苦しめ脅迫さえした。

絶望したジョージは橋の上から身投げしようとした。と、それより一瞬早く奇妙な老人が彼のそばで身投げした。ジョージは夢中になってその老人を救った。老人はクラレンスといい、自分は2級天使で翼をもらうためジョージを救ったのだと語った。自棄になったジョージが、この世に生まれなければ良かったと洩らすと、クラレンスは彼を望みどおりジョージの生まれて来なかった世界にをかいまみさせる。そこでは、今幸せな人たちが不幸のどん底にあえいだいた。
今、ジージは8000ドルを失って自殺しようとしているジョージが存在したからこそ、他の人たちがこれだけ幸せなのである。再び現実に戻ったジョージは、クリスマス・イヴの祝いを待つ我が家に駆けもどった。あれほどジョージをいらだたせた子供たちも可愛くて仕方がない。いつも取れてしまう階段の手すりも愛らしい。警察がきてジョージを横領の罪で逮捕しようとするが、それさえも大したことではないように思えた。そんなジョージのもとにそれまでのジョージの良心をうけた人々かあつまってきて・・・

怒涛のハッピーエンド。あふれる感動幸せ感。
まさに「古き良きアメリカ」映画の傑作だ!
by ssm2438 | 2009-12-13 03:13 | フランク・キャプラ(1897)
f0009381_1628966.jpg監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
撮影:ブラスコ・ジュラート
音楽:エンニオ・モリコーネ

出演:フィリップ・ノワレ
    ジャック・ペラン
    サルヴァトーレ・カシオ
    マルコ・レオナルディ

     *     *     *

メジャーな映画はあまり取り上げないつもりだったのだけど、やはり一つの記録としてこの映画は語らなくてはならないだろう。公開されるやいなや圧倒的な感動を映画ファンとにわか映画ファンに与えた『ニュー・シネマ・パラダイス』。私も劇場で観て大泣きした一人なのだが、この映画を劇場で観られた事はかなりの幸せものである。
そしてその後、ビデオ/DVDの発展にともない『ニュー・シネマ・パラダイス/完全版』なるまた別の映画が登場してしまった。年が経ち、落ち着いてみれば、これはこれで一つ映画だと理解出来るのだが、公開当時の『ニュー・シネマ・パラダイス』のドラマの流れ、リズム、ノスタルジア、感動があまりに見事に調和していたので悔しいような‥‥この完全版をどう理解するかはかなりやっかいな問題へと発展した。出来る事なら劇場公開版のみでほんとに良かったのだが‥‥、しかし、あったものは仕方がない。


◯ カッティング=編集という作業について

テレビ、映画のフィルムというのはカッティングされているものなのだ。だこのカッティングの作業がなければ全てのテレビ番組が同じ時間枠で放送されるわけがない。1カット、1カットは後に在る程度カッティングされることをふまえて長めに撮ってあり、それを繋いだ後で気持ちのいい長さに調整しつつ、決められた時間内におさめるように編集していくのである。必要ならその尺を延ばす事もある。
創っている監督自身も撮ったフィッルムを全てつなげたから良くなるとはけっして思っていない。もちろん創ってる時は「このカットは必要だ、このシーンは必要だ」って思って創っている。しかし全部を撮り終わった後つなげて客観的にみると「このカットはいらなかったな」「このカットはもう1秒6コマ、短いほうがいいなあ」「このシーンはごっそりないほうがいいだろう」を思う部分はかずかずあるもの。そして必要ないと判断した部分は削り、その反対もうちょっと欲しいなと思う部分は尺を延ばしたりして(その場合はもう一度取り直すことになる)在る程度のトータル尺に収め込むのである。
このカッティングという作業が上手く行けば、見ている人は気持ちよくさらりと観られるし、ぎこちなければなんか見心地のよくない映画になる。

最近私がみた映画で下手なカッティングと言えばソフィア・コッポラ『ロスト・イントランスレーション』。お話的には決して嫌いなタイプの映画ではなかったのだが、カッティグの悪さ、絵の繋ぎ方の悪さはかなり観づらい映画にしてしまっていた。特に下手下手二十丸印は『マルコムX』『モ’ベタブルース』などのスパイク・リー。この監督の映画のどれも見心地の悪さは飛び抜けている。この二人は編集のひどさというよりも監督の絵のツナギの下手さ、見せ方の下手さ、演出の下手さで観づらい映画になっているような感じ。
編集そのものどうしようもなくひどかったのは『ザ・ペーパー』。監督はロン・ハワードでばりばりの娯楽作品メーカーで本来見やすい映画を提供する人なのだけど、『ザ・ペーパー』は他の彼の作品に比べてあまりに見心地が悪かった。編集がもっと気持ちよい切り方をしたらこの映画はもっとテンポよく、気持ちよく観られたはずなのに‥‥。これは監督の力というよりも明らかに編集がド下手、編集のヒドさをチェックするいい映画参考になるかもしれない。

この『ニュー・シネマ・パラダイス』劇場公開版の編集作業ははミラクルである。
あるストーリーの中から不必要なシーンを削るという以上に、根本的な意味合いまで変えるしまう編集になっている。そして見終わった感想はこの編集されているほうが遥かにどどおおおおおおおおおおおっと感動が来るのである。
編集マジックと言おうか‥‥、とにかくすごい奇跡。勇気いった編集だったろうなあって思う。あるいは何も考えてないけど成功してしまったか。


◯ 劇場公開版 vs 完全版

この映画というのは、男がもつ「好き」という能力の讃歌なんだろうって思う。
真剣に好きになる事。その純粋さ。そのひたむきさ。弱さ。かっこ悪さ。好きすぎるからこそ籠ってしまう可能性。それでも好きを肯定する映画なのだろうなあって思う。編集された劇場公開版の映画はそういうスピリットに意味合いを持っていっていたのだ。

で、蛇足といわれた完全版‥‥、こちらはどうなのかというと、この本来もっていた<純粋に好き過ぎるスピリット>にブレーキをかけているのである。きわめて理性的で作り手としては実に理解出来る作りなのだ。過去を好き過ぎてノスタルジアという重力にとらわれて動けなくなってしまうことから無理矢理解放してやる役目こそが、トルナトーレがアルフレードに課した仕事だったのだ。
「おまけは映画オタクになる人ではなく、映画人になる人なんだよ」と無理矢理過去の暖かさを切り取るのである。 けっこう痛い。

私事ながらこんな話がある‥‥、私は中学生の時に買ったシャーペンを高校、大学、そしてアニメーターになった1年目までずっと使っていた。それでないと描けないと思っていた。絶対それでないとダメだと思っていたのだが、そのシャーペンが在る時からなくなってしまった。6年間私の青春を共にしたシャーペンなのだ。ショックはでかかった。もし「あのシャーペンがないからもう描かない」って決意してしまってたら今の私は存在しなかったのだ。
他人からみてれば大した事ではないかもしれないが、私にとっては一代決心だった。「シャーペンなんて他にもあるんだ。あのシャーペンがなくたって‥‥」そう自分に解らせるどれだけエネルギーを使った事か。<好き力>が強すぎる一つの消失から動けなくなるのだ。それからは机の上消しゴムは常に2つ以上。定規も2つ以上持っておく事にした。必要以上に一つの事に好きになることに予防線をはったのかもしれない。私はたぶん‥‥ひとより<好き力>は強いと思う。が、それが暴走し始める、いったん失いでもしたら自分自身を動けなくしてしまうことがある。それを防ぐ処世術を強制的に身につけたのだ。

完全版におけるアルフレードの行動は(トトとエレナをある種の裏切りで引き離したことを含むノスタルジアからの引き離し)、映画の作り手としてはまったもって正しい方向性である。なにも文句がつけようがないほど正しい判断だ。だからこの完全版が存在することにはなんも文句がつけようがない。しかし劇場公開版では、そんな理性的な完全版からこの抑制のがきいたストーリー展開部カットし、<純粋に好き過ぎるスピリット>の映画にしてしまったのだ。
一観客として観るなら、利害抜きで好きになって重力の間に囚われて、それでも好きで没落してもいいじゃない‥‥ってくらいの愛をみたい気がする。それを観られるから見る側としては気持ちよかったりもする。劇場公開版ではそれを編集で実行してしまった。実際この映画ではその生き方をサルバトーレの母が演じている。「いいじゃない、一つの好きににこだわって‥‥、それで社会的に成功しなかったとしても何がいけないの」みたいな一つの<好き>に殉じた生き方。そしてトルナトーレ自身も「それはそれでいいじゃないか‥‥」って描き方をしているように見える。

これが意図的におこなわれたのかどうかは実はかなり疑問である。公開にあたり長過ぎる尺を切るとき「なんでこんなことになるんだ?」って何も考えずに編集する人が切ってしまったとも考えられる。というか、その可能性はかなり高い。
解る人が見れば完全版の意味合いはとても理解できるのだが、感情論でいけば「なんでお前(アルフレード)、そこで伝えない」ってどうしても思ってしまう。実際そう思って正解だとも思うし‥‥。
良くも悪くもいろんな偶然が重なってあれだけ感動する映画になってしまったのだと思う。

これから観る人には、劇場公開版を勧める。とにかく劇場公開版の気持ちよさはミラクルなのだ。歴代の映画でここまでのミラクルはそう出会えない。絶対無敵ミラルク感動ナンバー1である。
それをこなしたあとでどうしても完全版が観たい人はそのあとに観るのがいいと思う。

ただ、私が思うに、この完全版で別の形のストーリーの繋ぎ方があったのでは‥‥?と思う。
物語が始まってアルフレードの死を聞かされ、地元に戻って来てエレナの子供をみて、大人になったエレナを窓越しにみてそこから懐かしい少年時代からの物語に突入。劇場公開版の流れをそのままに、最後にローマに戻って来てからキスシーンをあつめたフィルムをみながら、エレナ(大人)との再会のピソードを断片的にインサート。でひたすら『ニュー・シネマ・パラダイス』愛のテーマをながしまくる‥‥っていうのがよかったのでは???って思う。

あと、どうでもいいことなのだが、大人になったエレナがブリジット・フォッセー(『禁じられた遊び』のあの子だ)なのはちょっとなあ。どうみても、あのエレナが大人になったらシャーロット・ランプリングだろう。
by ssm2438 | 2009-11-19 18:40 | G・トルナトーレ(1956)
f0009381_118935.jpg監督:ジョン・G・アヴィルドセン
脚本:シルヴェスター・スタローン
撮影:ジェームズ・クレイブ
編集:スコット・コンラッド、リチャード・ハルシー
音楽:ビル・コンティ

出演:シルヴェスター・スタローン
    タリア・シャイア
    バート・ヤング
    バージェス・メレディス
    カール・ウェザース

        *        *        *

青春時代に見た映画というのは、それが世間でどう評価されようが、その人にとっては実にインパクトのある映画になる。理屈ぬきで名作になるのだ。私がこれをみたのは高校1年生のときで、その時代にこの映画をみられたのはとても幸せなことだったと思う。この映画は、私の中の挑む心に活力を与える永遠の応援歌だ。
一ヶ月前にこの映画を再びみて泣けて泣けて、以前はこんなに泣けなかったと思うが、最後のラウンド戦ってるあたりはもうぼろぼろ泣いていた。『ロッキー』ってこんなに泣ける映画だったっけ・・って再認識した。

それまでうだつの上がらない役が多かったシルヴェスタ・スタローン。自身で脚本を書き、自分が主役でナイトこの脚本は映画化させないと言って勝ち取った主役の座。そして大ブレイク。本人自身の夢と希望に満ち溢れつつ、うだつの上がらない世界でぶすぶすに煮えていた時代の悔しさをシナリオに書き込んだのだろう。そしてそれを一気にドラマのなかで解放していく。多分本人もこれほど大ブレイクするかどうかなんてわかってもいないなかっただろうし、もしわかっていたら多分、このドラマの最後は勝っていたんじゃないだろうか。でも、そこでは勝たせることを選ばなかった。謙虚というか、現実をわきまえていたというか、期待しすぎることへの恐怖だったのか・・、とにかく彼には、そこで勝って世界チャンピオンになるロッキーという姿が見えなかったのだと思う。だからああなったのだ。
この映画はシルヴェスタ・スタローンの本人の想いがとても染み込んでいる映画だ。そこがこの映画の素晴らしいところだと思う。これ以降のシリーズの映画は、メディアの望むものを作った結果で、ほとんど染み込むものは無く、ノリノリ演出をかもし出すパターンが確立されていったに過ぎない。これはこれでとても有意義なものだけど・・・。

そして、このドリームを後押しするビル・コンティの永遠の名曲ロッキーのテーマ。この音楽なしには、このドラマは語れないだろう。この脚本と、この音楽が同じ時間に同じ場所に存在したというミラクルも素晴らしい。

<あらすじ>
フィラデルフィアはサウスサイドのスラム。昼間はヤクザな借金取立てや、夜は場末の賞金稼ぎボクサー、そんな生活をしていたロッキー(シルヴェスター・スタローン)。ジムに有望な新人が現れると、ロッカーが足りないので、ロッキーはロッカーまで奪われる。4回戦ボーイのロッキーは、ラフファイトで勝利をおさめるが、「お前のようなガムシャラなファイトぶりではゼニにならん」と、ジムをほうり出されてしまう。そんなロッキーに人生最大のチャンスが訪れた。
ボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチのチャンピオン=アポロ(カール・ウェザース)の対戦相手がケガをしたため、代役として場末のボクサーを指名することになる。アポロは「イタリアの種馬」というネーミングがきにいったとロッキーを氏名する。かつてロッキーを見放したジムの老トレーナーのミッキー(バージェス・メレディス)も、協力させてくれと彼の自宅を訪れる。

相手は世界チャンピオン、なとか自分のもつ経験を少しでもロッキーに伝えたいと思うミッキー。そうすることが彼の残された唯一の存在意義であることがひしひしつたわってくる。もう話すことはないとトイレに入りドアをしめるロッキー。すがりつくようにトレーナーを申し出るが、ロッキーはトイレから出てこない。あきらめてドアを出て行くミッキー。だが、帽子をわすれたことに気付き、取りに戻るとトイレから出てきた、ロッキーと鉢合わせ、顔もみたくないと、またトイレに入るロッキー。露骨な拒否反応をしめされとぼとぼと帰っていくミッキー。ミッキーが部屋から出ると、階段をおりていくミッキーの足跡がきこえる。閉じられたドあにむかって、

「俺がほんとに助けてほしいときにはほったかして、今度は俺が景気が良くなると、その夢に便乗するのか。やってやるさ。一人でやってやる。お前の助けなんかいらない! なんだいまさら」とミッキーが出て行ったドラを殴りつけながら毒っけをぶちまける。
カメラはロングショットで階段をおりてくるミッキーをとらえる。その声はそとにまできこえている。完全に拒絶されてとぼとぼかえっていくミッキーの後姿がとても淋しそう。フレームの右端にミッキーが消えかけてたとき、ロッキーがドアをあけて出てきてミッキーをよびとめる。なにやら話している。ロングなので会話は聞こえてこない。そこに穏やかなピアノの旋律がショートバージョンで流れてくる。泣けるんだ。。。

f0009381_11263770.jpgロッキーの短期間の猛訓練が始まった。フィラデルフィアの美術館の階段をしんどそうなロッキーだが、みるみる動きがすばやくなり、活力があふれ出してくる。そこにロッキーのテーマが後押しする。片手で腕立て伏せもさくさくできてしまう。トレーニング期間の最後になると、あの階段もすばやく駆け上がり、夜明けのフィラデルフィアに向かって拳をふりあげる。

前の晩、眠れないロッキーは明日の試合会場に行って見る。ゴージャスに飾られて明日のメインイベントをまる会場。垂れ幕に派手な衣装をつけたアポロの絵があり、その反対側に自分の垂れ幕がある。しかし、トランクスの色が違うのだ。「俺のは白の地に赤のストライプだ」と言うが、掃除のおじさんは「ああ、そうかね」と返すだけ。
はたと現実を認識するロッキー。相手はばりばりの世界チャンピオン。自分はぽっとでの四回戦ボーイ。たかが1~2ヶ月もう練習したくらいで勝てるわけがない。自宅に帰りエイドリアンにぼそと告げる。
「明日おれはぼこぼこにされるだろう。勝てるわけがない。でも、もし俺が15ラウンド終わったとき、まだリングに立っていられたら、おれはただのチンピラじゃないってことを証明できる」
・・・こういうところでもぼろぼろ泣けてくる。

もそして試合当日、賭け率は50対1。ロッキーの善戦、手を焼くアポロ。両者の腫れ上ったまぶたが目をふさいで見えない。「切ってくれ」というロッキー。まぶたを切ると血がぶちゅって飛び散る。かろうじて視界を確保したロッキーはボディーを連打し、アポロの肋骨を折る。最終ラウンドでは、肋骨をかばいながらも、チャンピオンの意地でせめるアポロ。ふらふらで倒れるロッキーにもう「寝ていろ」というセコンド連中。それでも立ち上がるロッキー。
このへんから最後まではもう涙ぼろぼろ。。。

試合終了のゴングが鳴り人々がなだれこでくる。もう世間のことも結果も、カメラもマイクもどうでもいいロッキーはひたすら「エイドリア~ン、エイドリア~~ン」と彼女の叫ぶ。

好きな女の名を公衆の面前で大声で連呼できる機会と自信にめぐまれる男が世界中で何人いるだろうか・・。
リングに駆け寄ろうとするエイドリアンの真っ赤な帽子が、誰かのひじにあたってとれてしまう。ちらとまたこれがいいんだ。きっとあの赤い帽子は、エイドリアンにしてみれば、公衆の場に出る時だけのための、今風に言うなら「勝負帽子」なんだろうね。人にはそんなものがある。晴れ舞台に出る時はあのネクタイじゃなきゃだめだとか、試験に臨むときはこのシャーペンじゃなきゃダメだとか・・、それを失うととたんに自信を失ってしまうようななにかってあるのだけど、それがあの赤い帽子。その帽子がぬげちゃったとき、チラッと気にするけど、それでも拾おうともせず前に進むエイドリアンがまたいい。
by ssm2438 | 2009-10-25 11:10 | S・スタローン(1946)
f0009381_242279.jpg監督:ダグラス・デイ・スチュワート
脚本:ダグラス・デイ・スチュワート
撮影:フレッド・J・コーネカンプ
音楽:デヴィッド・フォスター

出演:カーク・キャメロン
    ジェイミー・ガーツ
    ロイ・シャイダー
    ティム・クイル
    アマンダ・ピーターソン

     *     *     *

実はこの1年、私に多大な影響を与えてくれた英会話学校の先生が1年後の留学(予定)を控えて辞めてしまい、とっても残念な気持ちになってしまってる最中。プライベートでも仲がよかったのでほんとに淋しい思いをしてる。
彼女は‥‥、私が“アニメーターになるぞ!”って思たち、それを成し遂げたように、大学の間に英検1級を取ってしまった人。それも海外留学の経験などなくて、国内の勉強だけでそれを成し遂げしまった人。 1つの目的を成し遂げるとは、こういうふうにするんだ。こうしたら出来るんだ‥って知ってる人。
“これを成し遂げたい”って思い立ったら、その時はもう、その人のなかにそれを成し遂げるだけの力は存在してる。あとは、そこまでの道のりを具体的にイメージして、それを1つ1つ成し遂げて行けば、最後にはそれが出来てしまうんです。何かを成し遂げた人は、そのことを確かめだけ。誰もが出来ることを、自分も出来るんだって確かめただけ。私が東京から、岡山まで歩いて帰ってみたのも、誰もが出来ることを、自分も出来るんだって確かめてみただけ。 そのことを彼女も知ったんです。そんな彼女の事を想うと、やっぱりマイナーだけどこの映画は紹介しとかないといけないかなって思ってしまった。
今回はほんとにマイナー中のマイナー映画、この映画を知ってる人がいたら、かなりの目が肥えてる人だといって間違いないでしょう。 この映画、公開されたときは『青春!ケンモント大学』。 ビデオ発売になってか原題どおり『リッスン・トゥ・ミー』に変更されてます。 東京でもマイナーな公開で、銀座の映画館1館だけ、それでもどうしても観たくて行って、 えらく感動して、最終日にもう1回見に行ってしまいました。

当時の日本の内角は海部内角時代(だったと思う)。その海部首相が大学時代にディベート部だったってことが話題になったことがあったけど、この映画はそのディベート部の話。
当時‥‥というか、今もそうですが、私はシナリオ回しで見せてくれる映画が好き。裁判ものなんかは大好きでした。大袈裟なアクションも無ければ、ミラクルもない。ひたすら台詞回しだけで見せて行かなければならない、ライターさんの技量 次第ってところが大好き。この映画、裁判ではないけれど、似たようなものですよね。 監督は『愛と青春の旅立ち』のシナリオライターだったダグラス・デイ・スチュワート。 メガホンを取るのはこれが始めて。 “あの映画の脚本家の人が監督やって、それもディベートが題材なら意地でも見なければ‥‥”って思って観たのがこの映画。
観た感想は、とにかく言葉が熱い! 燃える! あと、お金、無かったのね‥‥(苦笑)。
キャストみても、ほとんどの出演料はロイ・シャイダーが持って行ってるんじゃ無いかと思うし、たぶんそうだろうし。 できるなら、主演の女の子はもうちょっと別 嬪さんにしてほしかった‥‥かな。


夏休みが終り新学期がはじまったケンモント大学に、ディベートの奨学生としてタッカー(カーク・キャメロン)とモニカ(ジャミー・ガーツ)が入学してくる。タッカーのルームメイトの上級生ガースン(ティム・クイル)、ディベート(弁論)部のエース。しかしそんな彼の本来の夢は作歌になる事で、ディベートは政治家である彼の親が、彼に跡を継がせようと試みてるその準備段階でしかなかった。
親の呪縛から逃れられないガ-スン、他人からみれば総てを持っているかにみえた彼は、「自分には何も無い」と嘆き、酔った勢いで強引にモニカに安らぎを求めるが、拒まれ、それがもとでタッカーとこずき合いになり、あげくの果てにガースンは道に飛び出して車にひかれ、命を落とす。大会の最終弁論は、タッカーとモニカが名門ハーバード大学に挑むことになる。テーマは妊娠中絶問題。押され気味の中、土壇場にモニカが14才の時のレイプ体験を告白、形勢を逆転した。最終弁論はタッカーが怒濤の熱弁、ダグラス・デイ・スチュワートの言葉力炸裂。

とにかく言葉が熱い映画でした。
それぞれのディベートのシーンで発するそれぞれのキャラクターの言葉に力があり、個性があり、熱い。 この映画をみてると、最近の『小説家を見つけたら』の最後で、ショーン・コネリー扮する伝説の作歌が朗読する主人公の作文を、台詞なしの音楽だけをかぶせて、雰囲気だけで見せてしまったあの逃げ腰演出とくらべると、全然インパクトが違った。やっぱり文字を書く人は、言葉で感動させないといかん!!って思ってしまったよ。 (そうはいっても『小説家を見つけたら』>はそれほど嫌いではない映画ですけど) 以下は、タッカーが入学してディベート部で始めて弁論するシーンの台詞。

帽子のなかにある紙切れを取ると、そこにテーマが書いてあってそれにそって演説するというもの。
彼のひいた紙には『人生の選択』(台詞だと“Character is Destiny”と言ってるように聴こえた)と書いてあった。

この紙には『人生の選択』と書いてある。
ワトンガ出身の田舎者流に解釈させてもらうなら、
人生には性格を選択する時が来る。
いつかは判らない、‥‥15歳か、50歳かもしれない。
たとえば道端に10ドル札が落ちていたとする。
神様以外は誰もあなたを観ていない。‥‥どうする?
ネコババするか、それとも落とし主を探すか‥‥、
決めた瞬間からあなたの性格は形作られて行く。
それが人生なのだ。 (ききほれるガースン、および一同)

貧乏な同級生が居て、古タイヤで作った靴を履いていた。
服は<慈善家の施し>というブランド。
貧困ダイエットで高1の時<くる病>にかかった。
公衆電話から金を盗み、彼は捕まった。
そして高2のほとんどを少年院で過ごした。
精神科医も見離した。
しかし彼が復学すると学年で最高の成績を取り、
有数の名門大学に引き抜かれた。奨学生だ。

(ガ-スンが合の手を入れる)
“Tell me, Country bay. How did he make his change?”
  
(タッカーが答える)
“One dark night, in a smelly cage for animals,
he decided to stop listening to all the negative voices
and all the negative people,
instead of believing his own potential was infinite.”

[‥‥総ての否定的な意見に耳を傾けるのを止め、総ての否定的な人に耳を傾けるのを止め、 その代わりに信じることにした、自分の可能性は無限であること] ‥‥この台詞はしびれましたね。

それを信じることは出来ないかもしれないけど、信じる事にする事は出来る‥って。 当時、この台詞はどうしても知りたくて、ビデオが発売されたらすぐ買ってしまいました。 今となってはどう考えてもDVDにはしてくれそうもない映画なので、私にとってはめっちゃくちゃ貴重な映画になってます。
この映画自体は、金が無くてチープなパッケイジングになっててて、宣伝もろくにしてもらえず、ほとんどの人に知らてない超マイナーな映画。それでも私の中では、この台詞だけで10点満点あげちゃいます。
そしてドラマの最後、タッカーの最終弁論の最後は、 これが卑怯にもドストエフスキーの言葉でしめくくるんだ。 やるなあ、ダグラス・デイ・スチュワート。見事にしてやられました‥‥って感じでした。
by ssm2438 | 2009-07-20 15:33
f0009381_305453.jpg監督:ロバート・レッドフォード
脚本:アルヴィン・サージェント
撮影:ジョン・ベイリー
音楽:マーヴィン・ハムリッシュ

出演:ティモシー・ハットン
    ドナルド・サザーランド
    メアリー・タイラー・ムーア
    ジャド・ハーシュ
    エリザベス・マクガヴァン

     ×     ×     ×

私の大好きな映画です。でも、なにを勘違いしてかアカデミー賞はとってますけど、 私の信頼するニューヨーク批評家賞もとってますので、ぜんぜんミーハー系ではないのです。 しかし、よくアカデミー賞とれたなあ(苦笑)。これを選んだやつらは偉いよ。

映画のジャンル分けにもいろいろありますけど、 もし<ベルイマンもの>というジャンルがあるとしたら、この『普通 の人々』はそれは入るでしょうね。 映画監督の巨匠といえばいろいろいますけど、北欧の巨匠といえばこの人イングマル・ベルイマンでしょう。
ニシザワの大好きな映画監督さんです。 メンタル描写にたけていて、メンタルスプラッタと言ってもいいそのグロさは天下一品。口のなかに手をつっこんで、内臓を内側からつかみ、ひっくり返して引き出したように出てくる出てくる人間の愛憎。かなり鑑賞力のある人でないと観られない映画です。
ベルイマンの映画では、もっとも愛すべき人なの憎しみの対象にもなってしまうものたちの愛憎劇、親と子、姉妹、妻と夫、といった人間関係の支配、非支配、独立、などがテーマになってます。すくなからず身近に想うことがありすぎて心が痛いんです。その痛みを受け止める事ができる人だけが観られる、見る人を選ぶ作品群です。 ロバート・レッドフォードの『普通 の人々』は、そのジャンルにはいると思うんだけど、でも、もっとクールに見易く仕上がってます。ベルイマンほどのグロさはないですね。でも、そのメンタル描写 はほんとに繊細で痛みがトクホンチールのように冷たく染込んでくるのです。

兄をボートの事故で失ったことで責任を感じて自殺未遂をおこしたコンラッド(ティモシー・ハットン)、やがて退院して普段の生活にもどってはいるがどうにもさえない。そんなコンラッドがまわりからの勧めでサラピストに行く。なかなかそのビルにはいりづらくてしばら道のむこうからそのビルをながめてる。なんとか意を決してビルはいってエレベーターのむかうと、おりてきたエレベーターのなかから男の人がでてくる。妙に意識してしまうコンラッド。入れ違いでエレベーターのなかに入り、落ち着き払ってすっくとたっているが、ドアは開いたままで、ちょっとあわてて<閉>のボタンを押す。エレベーターが上昇するあいだ、「ハーイ、ハウアユー」とかひとりでぼそぼそ言いながらこれから起きるファースコンタクトのシーンをシュミレートしてみたりする。落ち着き払った様子ドアベルをおしてまってると、後ろのドアがあき「あ、こっちからだ」って見事に出ばなをくじかれる。なかに入ると適当にちらかってて、普通におちつける空間、カウンセラーのバーガーがレコードプレーヤーの配線をいじくってBGM用のクラシックのレコードに針をおとしてコンラッドをイスにむかわせると、いきなりボリュームいっぱいの音。ビクンとするコンラッド。
不安が一杯のときのあの感じが実によく描けてて、それだけで十分すぎる程感情移入してしまう。 この映画にはほとんどBGMはなく、こういう繊細で丹念な感情表現のつみかさねの映画なんですね。 ほんと、すごいです。いまの映像世界にBGMなしで画面 をもたせてしまえ監督さんが何人いるんだろうかって思ってしまいます。

物語は、虚栄心の権化的な母親と、つねに批判されない役所を演じてしまう父親という、実にどこに在りそうな状況において、 自分のなかにある消せない過去の過ちにたえられない息子のコンラッドが、徐々に回復していくことをめざし、それを成し遂げて行くさまをクールに描いていきます。 <成し遂げモノ>の大好きなニシザワにとっては、「なんかの大会で優勝するんだ!!」っていうスポ根的なものも好きなのですが、この映画みたいに「暗い自分はイヤだ。明るい自分になりたいだ!!」っていう、もっとも根源的な目標をかかげてそれを成し遂げて行くさまを描いてしまったこの作品、地味だけど、めちゃめちゃすごい作品だと思ってます。 役者時代にはそれほど魅力を感じなかったロバート・レッドフォード、 監督としての仕事はほんとにいいですね~~。
彼のその後の監督作品はすべて劇場でみてますけど、どれも素晴らしいです。
基本的には「癒し」が彼の全ての根源にあるように思えます。
ロバート・レッドフォードの監督作品は 『普通の人々』 『ミラグロ』 『リバー・ランズ・スルー・イット』 『クイズショウ』 『モンタナの風に抱かれて』 『バガー・ヴァンスの伝説』 どれも、最高級に洗練された穏やかなじつにいい映画です。 ただ誤解のないようにもうひとこと描いておきますが、 <ベルイマンもの>とかぶっているのは『普通 の人々』くらいで、 あとは<ロバート・レッドフォードもの>といっていいかと思います。 『クイズショウ』はちょっとニュアンスがちがいますけど、他は基本的にはハートフルな<癒しもの>だと思います。 『普通の人々』だけがクールな<癒しもの>になりそうですね。

もうひとつ、 本家以外のベルイマンものといえばウディ・アレン『インテリア』☆☆☆☆☆。 これも大好きな映画です。 ウディ・アレンとえばコメディ系だとおもわれてますけど、シリアスとらせても実に上手い。 ウディ・アレン自身が、けっこういろんな作品のなかで言っているのですが、彼は実はベルイマンの大ファンらしく、 どうしてもいちどベルイマンをしてみたかったのでしょう。でやってしまったのが『インテリア』、 たしかにマネっこと言ってしまえばそれまでなのですが、でも、これも本家ベルイマンの勝るとも劣らないクールなメンタル映画です。
やはり『普通の人々』同様、ベルイマンほどのグロさはないのでとっても見易いです。
ついでに、本家ベルイマンの中で、じつにらしい作品も紹介しときます。 『もだえ』 『野いちご』 『沈黙』 『仮面/ペルソナ』 『秋のソナタ』 『ある結婚の風景』 『叫びとささやき』 『ファニーとアレクサンデル』。‥‥ ほかにも、ベルイマンの作品の中で有名なものは『処女の泉』とか『第七の封印』『冬の光』『鏡の中に在るごとく』とかあるけど、そんなにいいとはおもわんかったなあ。
ベルイマンのなかでは『沈黙』☆☆☆☆☆、 レッドフォードの中では『普通 の人々』、 ウディ・アレンのなかでは『インテリア』が一番すきですね。
by ssm2438 | 2009-07-15 21:13 | R・レッドフォード(1936)