西澤 晋 の 映画日記

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2012年 03月 29日

鑓の権三(1986) ☆☆☆☆☆

f0009381_12503788.jpg監督:篠田正浩
原作:近松門左衛門・『鑓の権三重帷子』
脚色:富岡多恵子
撮影:宮川一夫
音楽:武満徹

出演:
岩下志麻 (市之進女房・おさゐ)
郷ひろみ (笹野権三)
火野正平 (川側伴之丞)
田中美佐子 (伴之丞妹・お雪)
津村隆 (浅香市之進)
水島かおり (市之進娘・お菊)
嶋英二 (市之進伜・虎次郎)
大滝秀治 (おさゐの父・岩木忠太兵衛)
河原崎長一郎 (おさゐの弟・甚平)

     ×   ×   ×

恐るべし、近松門左衛門。

この物語は、不義密通の疑いをかけられた権三とおさゐが逃避行の末、女仇討ちの末命を落とすというもの。1986年のベルリン映画祭銀熊賞を獲得している。

近松門左衛門の原作作品は増村保造『曽根崎心中』につづいて2本目。ひとことで言うなら全てが「潔い」のである。そこには「武士の面子」、堅持しなければならない武士のプライドという基本コンセプトがある。そして感情がどう訴えかけようが、決められたルールは守らねばならないという、武家社会の制約がある。この物語の「潔さ」というのは、感情よりも理性を重んじる美学だといっていい。
しかし、だからといって感情を否定しているものでもない。
物語というのは、「作者が訴えかけたいものを犠牲者とする」というのは基本法則である。このドラマのなかでの犠牲者は「感情」のほうである。理性に縛られている感情があばれだしたくて仕方がないのに、それを意地で封印している人間の哀れさがとても切ないのである。

監督は『瀬戸内少年野球団』『少年時代』『スパイ・ゾルゲ』篠田正浩。嘗ては大島渚吉田喜重とともに松竹ヌーベルバーグの旗手と呼ばれたが、先の二人ほどわけの分からない映画を撮る人ではなかった。世間的には評価されているのかもしれないが、個人的にはカッティングや画面構成の感性が合わない監督さんの一人である。魅せたい画面なのに説明的に撮ったり、説明でいい画面なのに、意味なくカッコいい画面になってたり・・と、気持ちのズレを感じてしまう。「なにか・・、もっといい画面が出来そうなのにその画面でいっちゃったの???」という感じがする撮り方なのだ。しかし、それをまあまあ見られる画面にしてあるので、どこかごまかされたようなきになってしまう。

撮影監督は往年の巨匠・宮川一夫。良くも悪くもスタンダード。見せるべきことをきちんと説明する画面を基本にしている。今だからこういう言い方が出来るのだろうが、「誰が見ても誤解のないような絵作り」を提供してくれる人である。しかし我々の世代からみると、映画の画面というよりも、テレビの時代劇の画面、色使いだな・・という印象がつよい。
ただ、この人が開発した「銀残し」という撮影スタイルは今でも使われている、デビット・フィンチャーの『セブン』ではこの方法が使われている。再度を落とし、白と黒のコントラストをする撮影方法である。残念ながら『鑓の権三』では使われていなかったのだが、この「銀残し」の画面はかっこいいのは確かである。

この映画をみて最初に思い浮かんだ映画は、デビット・リンチ『マルホランド・ドライブ』だった。その映画のなかでは、主人公のナオミ・ワッツの妄想が前半部で描かれ、後半で現実が描かれる構成になっている。そこの映画がすごいのは妄想部のリアリティだった。妄想というのは、自分の全部都合のいいモノにするのではなく、それなりに自虐的な設定にしながらも、自分の都合のいい展開を思い描くものなのである。
この妄想=「自虐的な設定にしながらも、自分に都合のいい展開」を現実の進行にして、見事のドラマの中に落とし込んでいるのがこの『鑓の権三』なのだ。

おそらく近松門左衛門はホモである。出なければ性同一障害者であろう。普通男がドラマを作る時には、ドラマの中に登場する男が「人間」だが、女性は「記号」になるものだ。反対に女性が書くドラマというのは、女性が「人間」になり、男性は「記号」になりがちである。感情移入がそういうように出来ているのだがそれは仕方がない。
この物語では、権三はあくまで記号なのである。そして「人間」なのは、権三と逃避行をすることになる浅香市之進の妻おさゐ(岩下志麻)であり、権三の婚約者であったお雪(田中美佐子)であり、母に旦那を奪われた娘のお菊(水島かおり)だろう。この構成をみると、間違いなく近松門左衛門はホモだ。
そしてこの物語は、ホモである近松門左衛門が切に妄想したその結果なのだだろう。

ジャニーズのようにまぶしく輝く美青年の権三。そして、彼のことを想いながらも、既に結婚している身のおさゐ。いくら妄想してもそれ以上にはならない権三とのなれあい。そかし、ささやかな誤解から不義モノの汚名をきせられ逃避行の旅に出る。
それは、傍目には理不尽で不幸な出来事だったかもしれない。しかし、おさゐにとっては至福の時間だったにちがいない。近松門左衛門は、この自虐的なシチュエーションを構築しそのなかで、自分の妄想をあますところなく愉しんみ、酔いしれたのだろう。

<あらすじ>
出雲の国、松江藩。笹野権三(郷ひろみ)は器量はよく、槍さばさのみごとさでは右に出る者もなく、「鑓の権三」と呼ばれていた。藩の女たちはみな権三に憧れをいだいていた。しかし権三には既に契りをかわした女性がいた。権三の茶道仲間の川側伴之丞の妹・お雪(田中美佐子)である。彼女は権三に契り証として、権三の家の紋章と自分の家の紋章を縫い付けた帯をプレゼントする。
そんなある日、御世継が誕生したと吉報が出雲に届けられる。国許では近隣の諸国一門を招き、茶の湯がひらかれることになった。しかし、藩を茶道を預かる浅香市之進(津村隆)は1年の江戸詰めに出ており、弟子の川側伴之丞(火野正平)、笹野権三のうち一人がその大役をつとめることになった。
権三は、茶道の師匠・浅香市之進の妻・おさゐ(岩下志麻)をたずね、師匠がもつ茶道の巻物を見せて欲しいと申し出る。その巻物は一子相伝、見せることは出来ないと断るおさゐだったが、娘のお菊(水島かおり)を嫁としてもらってもらえるのであれば息子同然、巻物をお見せしようと言う。同意する権三。

おい! そんなにあっさり合意するのかい???
そう、この物語のなかで権三は、武士のたしなみをしっかりしているものの、女性関係には執着心が乏しいキャラクターなのである。男にはこんな男は描けない!!

おさゐはかねてから権三に想いをよせていたが、すでに浅香と結婚したみ、せめて娘の婿に権三をと願っていた。しかし、そんなおさゐをお雪の母がたずねてくる。なんでも権三とお雪は既に婚約をしており、その仲人を師匠である浅香にして欲しいというのだ。なにもかもが悔しいおさゐ。
その夜お忍びで浅香の家を訪ねる権三だが、権三の節操のない態度に怒りを覚えたおさいは感情を爆発させる。そして権三の帯に権三とお雪の家の紋章が縫い付けてあるのをみると、その帯を強引にほどいてポイと庭にすててしまうおさい。「なにをする」という権三に、そんなに帯が必要ななら私のものをお使いくださいと、自分の帯をといて権三に渡すおさゐ。「女の帯が使えるか!」と権三もポイとそれを庭に捨ててしまう。
しかしそこに、お雪の兄川側伴之丞が登場。彼はかねてからおさゐに恋心を抱き、夜這いの隙をうかがっていたのであった。嫉妬に狂った伴之丞は二人を帯を証拠として持ち去り、二人の不義密通を越えたからかに、深夜の街にふれまわって歩くのだった。
もはやこれまで、と切腹しようとする権三に泣きすがるおさゐ。このままでは夫に申し訳わけがない、せめて夫に討たれてくれと懇願するおさゐ。ともかくも二人はあてもなく逃れていくのだった。

二人の旅は、不義モノとして市之進に討たれるためしばらくの間、世間の目から逃れるためのものであった。市之進の面子を考えると、権三はそうするしかないと考えていた。しかしその逃亡の旅の間に、おさゐの感情があふれ出してくる。出来るならこのまま二人で生き延びたい。しかし頑として市之進に討たれることをゆずらない権三。どうせ死ぬ身なら、せめて自分のことを妻と呼んで欲しいと懇願するおさゐ。そして二人は肌をかさねる・・・・。

一方、事件を知ったおさゐの弟・甚平(河原崎長一郎)は、自分の家の名誉を汚した伴之丞を追い、その首を討つ。帰国した浅香市之進は、義弟の甚平をともない、女仇討ちの旅に出る。。宇治の川岸にかかる橋の上で、市之進は権三とおさゐに出会う。既に刀を売り竹光しか持ち合わせていない権三は短刀で戦うも、市之進に討たれて壮絶な最後をとげる。その一部始終をみていたおさゐも市之進に討たれて息絶える。

最後のカットがなかなかにくい。
事件が一件落着したあと、おさゐの息子・虎次郎が母の父・岩木忠太兵衛(大滝秀治)と、姐のお菊にお茶をたてている。最後はそのお茶を飲むお菊のアップ。
女仇討ちに出て行く父に「せめてかか様はつれて帰ってきて欲しい」というお菊だが、真意はどこにあったのだろうか? 自分が結婚するはずだった、藩内きっての美青年を、トンビにあぶらげを盗まれるように母に盗まれてしまったお菊。彼女の最後のすました表情の中に、なにか満足げなものを感じるたのは私だけだろうか・・・。

by ssm2438 | 2012-03-29 12:51
2012年 03月 14日

王将(1948) ☆☆☆☆☆

f0009381_13331440.jpg監督:伊藤大輔
原作:北条秀司
脚本:伊藤大輔
撮影:石本秀雄
音楽:西梧郎

出演:
阪東妻三郎 (坂田三吉)
水戸光子 (妻・小春)
三條美紀 (娘・玉江)

     ×   ×   ×

この物語は、明治~大正にかけての活躍した関西屈指の棋士であった阪田三吉をモデルにした北条秀司の戯曲『王将』を、伊藤大輔が監督した映画である。

まず、時代背景の説明。
この映画の舞台になっているのが、大正時代。当時の将棋界は、小野五平が「名人」であった。しかし、当時の名人位は、一度襲位すると死去するまで名人であり続けた。その小野が長命であったため、次の名人の座が約束されていた関根金次郎は、全盛期のうちに名人を襲位することができなかった。この物語の最後に関根金次郎が名人を襲名するが、このころには坂田に対しても対戦成績はよくなかった。生涯32局戦い、関根の15勝16敗1分だそうな。
このような背景があり、関根は70歳を迎えたときに名人位を退くことを英断、その後はトップ棋士の総当りのリーグ戦が設定され、その後、前年度の名人に挑戦するシステムに代わっていった。

その関根金次郎とのライバル関係にあったのがこの物語の主人公、坂田三吉である。関根の流麗で穏やかな人柄に対して、坂田三吉はやや知能指数の低い、低脳型天才として描かれている。たいした教育もうけておらず、社会性も乏しい。記録によると被差別部落の出身だったとか。
しかし、そんな坂田でも、関西では屈指の将棋指しであり、彼を後押ししてくれる人たちがいっぱいいた。この映画が、そんな中で自分のわがままを通し、情に溺れ、人に愛され生きた、坂田三吉と、その妻小春、そして娘の玉江物語を、関根金次郎との対決を軸に描かれている。

<あらすじ>
明治も終わりごろ、坂田三吉(阪東妻三郎)は、大阪は天王寺の貧乏長屋に住み、麻裏草履をこしらえてその日暮らしの生活を送っていた。そんな三吉は、将棋が三度の飯より好きで、手合わせする者は素人も有段者も相手構わぬナデ切り、負けたためしがないというツワモノ。しかし、家業はおろそかで収入は減る、家財道具は持出す、狭い長屋の一室は空っぽという有様。ついには朝日新聞主催の将棋大会の会費の二円を工面するために、玉江の一張羅の晴衣を質に置いて出掛ける。妻の小春(水戸光子)はそれを知り今はこれまでと、娘をつれて自殺を計る可く鉄道線路の方に出ていった。
その話をきいた三吉は勝負半ばで駒を放り出して帰ってくるが、家には誰もいない。さすがの三吉が帰ってきてくれるなら将棋をやめると誓い、駒を火鉢にしててしまう。
そんなおり小春は帰ってくる。小春は言う。

「わしが悪かった。あんたがそんなに好きな将棋をやめろというのは無理なはなしや。指しなはれ。そして指す以上は日本一になりなされ」
「あかん、ワシやさっき妙見さまに誓いを立ててしもうた。もう将棋は指さんって」
「あんた、ほんとにやめられるんか?」

出来すぎた妻である。
しかし、そのとき三吉が捨てたはずの駒の一つが火鉢のそとに残っていた。それが「王将」の駒であった。小春はその駒をお守りにしてずっと生涯持っていたのである。

折も当時実力名声共にナンバーワン、次期名人確実といわれていた折関根八段(滝沢修)が来阪し、三吉と平合わせた。相方ゆずらぬ熱戦の後、終盤近く三吉の打込んだ2五銀が功を奏し三吉は勝った。関西の将棋関係者輪沸いた。もしかしたら名人位が関西にくるかもしれない。しかし三吉の娘玉江(三條美紀)だけはその2五銀の意味を知っていた。
「あの銀はまがい物の手だ。敗勢にかたむいていたおとっつあんが、なんにも考えずに打った手や。それで関根さんは困惑して自滅してしもーた。あんな手は美しゅうない!」といって非難されてしまう。

実際坂田三吉の手のなかにそのようなものがあったのかどうかは不明だが、このあたりは戯曲としてのアレンジなのだろう。しかし、作劇としての勢いなのだ。みていて感動してしまった。玉江ちゃん、カッコよすぎです!!

その後二人は何度と泣く戦った。無学無教養の三吉もさすがに大人としての立ち振る舞いもできるようになってきた。既に盛りを越えた関根は坂田に対して分が悪く、近年の11戦では坂田が7勝していた。坂田が名人になるかもしれない。関西の将棋関係者はさらなる盛り上がりをみせた。しかし、確かに実力的には坂田のほうが上だが、関根のこれまでの実績と、坂田の品性の悪さを理由に十三世名人を関根にあたえることを決定した。関西の将棋関係者は坂田に「関西名人」の称号をあたえようとするが、坂田は「名人は二人はいらない」といい「関西名人」の称号は拒否。関根の名人就任式に出かけるのだった。

そしてこのあと理性の美しさが展開される。
関根にあうことができた坂田三吉は、「わしはいままであなたを恨んどった。あんたに負けたのが悔しゅうずっと恨んで将棋をさしてきた。もうしわけなかった」とけなげに平謝り。
「ワシには将棋を指す以外は何もできん男じゃ。あんたが名人になられてもなにを祝いにもってきたらええかわからんかった」といって、自分で編んだ麻裏草履をさしだす。すべてがあざといにもかかわらず、潔さを清潔さと人情深さと純粋さでぼろおおおおおおおおおおおおおって泣けてしまう。
さらに畳み掛けるように、大阪からの電話。
妻の小春が心臓病で倒れていて、今にも息をひきとりそうな状態。
「ワシが帰るまで死ぬんじゃないで」といい、南無妙法蓮華経と唱えだす。その声が大阪には受話器を通じてながされているなかで、小春が息を引き取る。手にはあの時の「王将」の駒がにぎられている・・・。


おおおおおおおおおおおおおお、なんちゅうスタンダードなこてこて!!って思うのだけど、やられます。
この映画を最初見たのはやはり映画修行時代でなんでもかんでもみていた25年くらい前の話。当時充分感動しました。で、今回みると、ややあざとさがみえるのだけど、途中からそんなことはどうでもよくなって、最後は充分泣かせてもらいました。しかし、これで泣けるのは年とったからでしょうか。以前はここまで泣けなかったような気がする。歳をとると涙もろくなってきます。

しかし・・・、今思うと『無法松の一生』にしてもこの『王将』にしても、昔の映画ってのは強引にまでに潔い映画がおおかったなあと感心してしまいます。いやいやすごいです

by ssm2438 | 2012-03-14 13:37
2012年 01月 21日

秋津温泉(1962) ☆☆☆☆☆

f0009381_17133070.jpg監督:吉田喜重
脚本:吉田喜重
撮影:成島東一郎
音楽:林光

出演:
岡田茉莉子 (新子)
長門裕之 (河本周作)
日高澄子 (お民)

       *        *        *

おおおおおお、岡田茉莉子が異様に美しい。

この映画が公開されたのが1962年6月15日、私が生まれる25日まえのことだった。

監督の吉田喜重は、後の『煉獄エロイカ』をちらと見たことがあったのですが、やたらと気をてらった画面作りばかりだったので、実相寺昭雄みたいにつまらないものだと思い込んで、そのまま放置プレーしておりました。ヒロインもやたらと奥さんの岡田茉莉子ばかりなので、あえてこの人の映画をみようという気はなかったのですが、このたびみてみたら・・・・・、大変失礼しました。とてつもなく面白かった。
『秋津温泉』・・・、傑作ですね。

この舞台になったのは、岡山県の奥津温泉。映画では「秋津温泉」ということになっているが、このネーミングの響きが素晴らしい。奥津は小学校のバス旅行で人形峠に行った時に通過したことだけは覚えているのだけど、風景がなぜか懐かしい。山の尾根のリズムなのかな・・・。これが不思議と中国地方の山々だと、「自分は思っているヤマの尾根のラインの凸凹はこういうものだ」というのが知らず知らずに根付いていて、その波長が合うのだろう。これは『男はつらいよ・寅次郎恋やつれ』を見たとき、なぜか懐かしい気がした。舞台になったのは島根県の津和野あたりだったのだけど、なぜか風景が懐かしいのである。

そんな奥津を舞台にしたこの映画なのだが、とにかく風景がいい。渓谷の間に立てられた温泉旅館は階段や坂があり、それだけで絵になってしまう。吉井川にかかる橋もまたいい。これらの自然の風景をキレイに切り取ってくれる画面がいい。そしてコントラストもいい。これはでしゃばらないけど、きちんと意図して演出してるライティングのおかげだろう。なにからなにまで好みである。
と同時に不思議なきもした、後の撮ることになる『煉獄エロイカ』などはなんであんなカッコつけただけの画面になってしまったのか・・・。60年後半から70年初頭はアメリカン・ニューシネマだとかヌーヴェルバーグだとか、すぐ旧くなる表面的な奇天烈さに走った糞映画がやたらと多い時代だったが、その影響をはやりうけたのだろう。

しかーし、この映画の素晴らしさは画面の素晴らしさだけではない。そんなものは添え物すぎない。
この映画の素晴らしさは想いの出し入れのタイミングのずれ、そしてそこから発生するもどかしさだろう。恋愛経験がある人なら誰しもわかるだろう。“どうして「うん」といって欲しい時に言ってくれないの”という、あのもどかしさが全編に展開されている。求められて、ついついかわしてしまう。すると自分が求めた時にかわされてしまう。求められた時の全部に「いいよ」と言ってしまえば総てがうまく行ってたかもしれないのに・・・。
この感情のやりとりの切実さに恐ろしくリアリティを感じてしまうのである。

さらに女性原理を見事に描いた傑作だといえる。
男にとって「機能性がある、役に立つ」ということは、自らの存在意義にほかならない。しかし、女性の場合はそうではない。女性の場合は「世話してあげる=必要とされる」ということこそが存在意義になっている。

本来コテコテの恋愛ものというのは、完全無欠のヒーローと完全無欠のヒロインのラブロマンスではない。
ダメ男とそんな彼を世話して上げられる女の物語である。
しかし、この2人をくっつけると物語りは描きたい部分ではなく、経済的なところから破綻していくものだ。
ダメ男と結婚した女はさんざん世話をやくはめになる。作り手にしてみれば、ドラマとしてはもってこいの展開である。しかし、男が甲斐性なしすぎると、経済的に破綻してくるので、そっちの流れもフォローしなければならなくなる。そんなことをしていると、あれよあれよというまに貧困に呑み込まれる2人のドラマになってしまう。
この映画の上手いところは、ダメ男はそのままに、女の経済基盤をそれとは別のところに別けたところにある。その結果、ダメ男をを世話するだけという、女にとっては一番酔えるシチュエーションだけをとりだして、一本のストーリーラインに落とし込むことに成功している。

<あらすじ>
f0009381_17324916.jpg昭和20年の夏、東京の学生だった河本周作(長門裕之)は、岡山の叔母を頼ってやって来たが、空襲でやられていた。結核に冒されていた彼は、親戚のある鳥取に向かう途中病に倒れ、岡山県県北の秋津温泉の“秋津荘”担ぎ込まれる。結核のため離れに床をかりた河本を看病したのが17歳の新子(岡田茉莉子)だった。終戦の時を向かえ新子は泣いた。自暴自棄になっていた河本だったが、心が健康似反応する新子をみていると、なんとなく生きてみようかと思えるようになる。

それから3年、ふたたび河本は秋津を訪れる。作家をめざし地道に活動していた河本だったが、未来が開けない状況に身も心もすさんでいた。「一緒に死んでくれ」と頼む河本に、「私がホントに好きならいいわよ」と心中を決意する。睡眠薬を飲み、お互いの身体を一緒に縛って水に飛び込こむはずだったが、彼女を抱き寄せると、くすぐったいとけたけたと笑い始める新子の屈託のない反応に、自殺するきもさめてしまう河本だった。

そしてまた3年がたち、再び河本が秋津にやってくる。作家仲間の妻の兄・松宮(宇野重吉)が文学賞を受賞したというのだ。自分だけがおいてけぼりになった河本は傷心した心を癒すために秋津を訪れる。傷心の旅に自分を訪れ、元気になって返って行く河本をみるのが好きだった新子だが、女中のお民から河本が結婚していることを聞かされる。

翌年、ふたたび秋津を訪れる河本。2人が出会ってから10年の年月がたっていた。新子は死んだ母をついで“秋津荘”のお上となっていた。今度河本が来たのは、別れを告げるためだった。松宮の紹介で東京の出版社に勤めることになったのだ。その夜二人は初めて肉体の関係を持った。翌朝の新子は幸せに満ちていた。一人でひっそりと帰ろうとする川本に無理やりついていき、津山の鶴山公園で2人の時間をもうすこし愉しむ。しかし、川本の出発時刻が近づくと無口になっていく新子。最終の岡山行きの改札が始まると、おもわず川本を連れ出してしまう。汽車の発車音が聞こえる。「もう帰れない」という河本。2人は駅の近くのホテルに泊まることになる。たしかに引き止めたのは新子だった。しかし、河本の妻のことを考えると罪悪感に襲われ、感情を殺すしかなくなる新子。それでも、河本は新子の身体を求めてくる・・・。

昭和37年、最初の出会いから17年が過ぎていた。河本は作家として大成した松宮の取材旅行の随行員として再び岡山にもどってくる。そして秋津を訪れた。新子は魂の抜け殻のようになっていた。10年前、津山駅の4番ホームでもう戻ってくることはない河本を見送ったとき、新子の生きがいは消滅したのだろう。
新子は“秋津荘”を売り、かつて、結核の河本を介抱したあの離れに住んでいた。その離れも2日後には取り壊されるという。肌を合わせる河本に「一緒に死んで欲しい」という新子。
翌日、強引に河本の見送りについていく新子は、かみそりをとりだし、一緒に死んで欲しいと再び迫る。とりあえずその場を収めた河本は、煩わしいものにはもうかかわりたくないというようなそぶりで、ありきたりの言葉を残し去っていく。その河本の後姿をみながら、新子はかみそりで手首を切るのだった。

f0009381_17123979.jpg

PS:確かに音楽はうるさいも・・・、もうちょっと効果的に使えば良いのに。『レザレクション・復活』モーリス・ジャールを思い出した・・(苦笑)。でも、画面作りが異様に確りしているので、それほどの不快感にはならなかった。
あと「ストレプトマイシン」の名前を久々に聞いた(笑)。ああ、そういえば結核の特効薬として世に出た最初に抗生物質だった。この言葉一つで「ああ、戦後なんだ~」と思えてしまうレトロな季語である。

津山駅の待合室なんて、懐かしかったなあ。
もっとも、この映画が撮影されたころは私はまだ受精卵くらいの時で、実態は存在してなかったのですが、子供の頃みた津山駅はあんな感じでした。汽車が出る10分前くらいから改札に駅員さんがたって切符をきるのです。津山線は4番ホームで、SLとディーゼルが併用されてました。SLはC-51だったと記憶してます。

by ssm2438 | 2012-01-21 17:34
2011年 12月 01日

情事(1960) ☆☆☆☆☆

f0009381_14425274.jpg原題:L' AVVENTURA/THE ADVENTURE

監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
原案:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ
    トニーノ・グエッラ
    エリオ・バルトリーニ
撮影:アルド・スカヴァルダ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ

出演:
モニカ・ヴィッティ (クラウディア)
ガブリエル・フェルゼッティ (サンドロ)
レア・マッセリ (大富豪の娘・アンナ)

       *        *        *

素晴らしき哉、アントニオーニ・マジック!

ローマの上流階級のひとり娘アンナ(レア・マッサリ)には若い建築家のサンドロ(ガブリエレ・フェルゼッティ)と付き合っているが、その恋愛にも行き詰まりの感がただよっている。アンナは女友達のクラウディァ(モニカ・ヴィッティ)をさそい、上流階級の友人たちとヨットの旅にでる。しかし立ち寄った小島でアンナが行方不明になり、捜索隊を呼び寄せることになる。しかし死体も見つからない。
彼女は死んだのか、自殺したのか、それとも失踪したのか・・・、全ての可能性があるのだが、どれも確実ではない。結局捜査は打ちきられるが、サンドロとクラウディアは生きているかもしれない、彼女が生きている可能性をもとめて彼女の行方を捜すたびに出る・・・。

今回はあまり暗くないモニカ・ヴィッティの役どころは、ルネ・クレマン『太陽がいっぱい』アラン・ドロンのような立ち位置から始まる。
彼女の友達のアンナは上流階級の娘であり、若手建築家のサンドロという恋人もいる。しかし二人の恋愛には倦怠感がただよっているのだけど、それでも、「彼氏がいるという優越感」をクラウディアはいつもみせつけられている。おそらく、クラウディアは、サンドロのことを方面にはださないまでも、気にしているのだろう。多分アンナもそれを知っていて、「これは私のものよ。多少不誠実なことをしたとしても、彼は私をもとめることをやめないわ」みたいな態度をとっている。
クラウディアをまたせておいて、アンナはサンドロの部屋に行き、クラウディアを待たせるのは悪いと思っているサンドロに、強引に自分をだかせる。下で待っているクラウディアにも二人がベットでエッチしていることがわかるように、窓からちらっと見えるように行動する。
自分がないがしろにされていることを、笑顔で知らないふりをするしかないクラウディア。このシチュエーションはまさに『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンのようなものだ。ちなみに『太陽がいっぱい』も1960年の作品であり、同時期に同じようなシチュエーションで展開する。

この映画の中にも、「アンナになりかわりたい」というクラウディアのささやかでしぶとい願望があるようにみえる。ただ、それはほとんそ表面的には見えない。それが垣間見られるのが、アンナが失踪した翌日、彼女の父親が島に来た時。前日の雨でぬれた服の変わりにアンナの服をきているところを父親にみられて、どぎまぎと言い訳をする。別に大いなる意味があったわけではないのだろう。しかし、自分のかすかな想いが具現化してることに、はたときずぎ、その服がアンナのものだということを知っている彼の父に対しては、ある種の罰の悪さが表面化したのだろう。
こういうさりげないところの演出がアントニオーニはすばらしい。

アンナの失踪の様子もこれまた不確実性の表現ですばらしい。
突然いなくなったアンナ。落ちたら死ぬな・・というような断崖をみせる一方で、誰もいないと思われていた島には小屋があり、その管理人が時々来ている事実がある。さらに、突然たんたんたんたんたんたん・・とボートのエンジン音。でもそのボートはみえない。のちにそれは密輸業者が小船でその島のまわりを通っていて、その船に乗せたられたかもしれない・・という可能性提示しておく。

アントニオーニの「見せないで魅せる」手法は、他の人よりもかなり見せない。なので見る人が感受性を繊細にしておかないと気づかない。というか、見ている人というのは、それに気づいたとしても、それがなぜそうなのか理解できないと忘れてしまうように出来ている。そうでなければ、その不確実な信号に不愉快さを感じて観続けることをやめてしまう。アントニオーニはそんな人を置いてけぼりにしてしまう。

アンナが失踪した翌日、潮の流れにそって捜索隊と一緒にさがしてみるというサンドロと、ヨットのなかでつかぬ間の二人だけの時間。よくわからないけど、それがあたりまえのように、キスをもとめられるクラウディア。でキスしてしまう二人。
これ以降二人の感情がすこしづつ表面化していく。

人によっては「こんな突然なのはありえないいー」と思うかもしれないが、私はこの流れはきわめて自然に見えた。多分サンドロも、アンナとエッチをしているときに、いつもアンナと一緒にいるクラウディアを抱くところをを想像したことがあったはずだ。理性で考えるとありえないことなのだが、それをわかる人にだけ納得するように、最小限の説明で見せるのがアントニオーニのすごいところだ。

そのあと、大富豪の娘が失踪したというニュースが新聞で公になると、彼女を観たかもしれないという情報もはいってくる。一方j警察も密輸業者のチンピラを捕まえていた。これらのことから判断すると、一概に彼女が死んだとは言えないように思えてくる。そしてサンドロとクラウディアは彼女の目撃情報をたよりに彼女を探すたびに出る。
旅の間、二人のきもちはどんどん接近する。その旅は、アンナを見つけるためのものではなく、アンナはいないんだということを確信するための旅になっていた。情事の旅を続けながらアンナのイメージは二人の念頭から薄らいで行った。あるパーティの夜。友人たちは当然のようにこの新しいカップルをむかえた。その夜、酔ったサンドロは見知らぬ女を抱いた。不安の一夜を明かしたクラウディアはそんなサンドロの姿を発見して絶望する・・・。


この映画をみて思い出されるのが『欲望』のなかのダンスホールのシーン。
BGMはハイテンポなのだが、うごきはスローーーーーーーーーーーーーーで見せるあのシーン。あるいは黒澤明『野良犬』の最後の格闘シーンのバックに、近くの保育園かどこかからきこえてくる童謡をBGMでながすシーンがある。一般的には「対位法」と呼ばれる手法である。
画面内で行われていることと正反対のBGMを重ねて演出する手法なのだが、アントニオーニはこの映画では、BGMを操るのではなく、ふたりの感情を描く時に、それとは正反対の環境をつねにセッティングしているように思える。おそらく確信犯であろう。この相容れない不条理な構成が、揺れる人間の感情を妙にリアルに演出してしまう。

これは60年代のアントニオーニのなかでも最高傑作だと思う。
彼の演出は、複雑で繊細で、きわめて戦略的だ。恐るべし、ミケランジェロ・アントニオーニ

by ssm2438 | 2011-12-01 14:45 | M・アントニオーニ(1912)
2011年 11月 05日

映画に愛をこめて アメリカの夜(1973) ☆☆☆☆☆

f0009381_23484542.jpg原題:LA NUIT AMERICAINE/DAY FOR NIGHT

監督:フランソワ・トリュフォー
脚本:フランソワ・トリュフォー
    ジャン=ルイ・リシャール
    シュザンヌ・シフマン
撮影:ピエール=ウィリアム・グレン
音楽:ジョルジュ・ドルリュー

出演:
フランソワ・トリュフォー (監督・フェラン)
ナタリー・バイ (ジョエル)
ジャクリーン・ビセット (主演女優・ジュリー)

     ×     ×     ×

ナタリー・バイ燃えるううううううう!!

<アメリカの夜>というのは、アメリカ映画などでよくつかわれる手法で、夜のシーンを撮影するとき、昼間撮影してそれに青黒のパラフィンのせて夜のようにみせる手法。まあ、明らかに地面の影がこかったりして昼間に撮影されたことは分かるのだけど・・。

で、この映画、たまたまテレビをつけたらBS2で『映画に愛をこめて アメリカの夜』をやっていた。ちょうど舞踏会のロウソクのトリックをみせてるしーんで、覚えの悪い年配の女優さんがなかなか芝居が出来ないでカンニングペーパーをカメラからみえないところに張っていくくだりのシーン。
そのシーンがどのあたりにあったのか定かではなかったが、まだジャクリーン・ビセットはでてないので始まったばっかりっぽい。そんなわけでついつい最後までみてしまった。

いや~~~~、この映画好きなんだ。
だいたいトリュフォーの映画で面白い映画はほとんどない(年配の評論家さんには怒られそうだが)といっていいのだけど、それでも時々あたりがるから捨てきれない。これがゴダールくらいに確実にいつもハズレ(年配の評論家さんには怒られそうだが)ならあっさり見捨てられるのに(苦笑)。
そんなトリュフォーのなかでもまれにみる大好きな映画。

この映画は『〇〇〇』という映画を撮影しているスタジオ内でおきる悲喜こもごものエピソードを映画の完成までの道のりとともに描いている散文的映画で、一貫性のあるストーリー主体の映画ではない。なので私の趣味としてはいまいちはずれているのだけど、見終わったあとに「ああ、みんな映画づくりがすきなんだなあ」とおもわせてくれるハートフルなエピソードのつまった映画。主人公のこの映画の監督さんはトリュフォー自身が演じており、ぐれる主演男優やら引きこもる主演女優やら、撮影途中に交通事故で死んでしまう男優さんんやら、つぎからつぎへおこる難題をなんとかごまかしながらクランクアップへもっていく監督を演じている。

実際監督などという職業はそういうものなのだ。
世間では絶対的権力ある立場のように思われてるかもしれないが(確かにそういう人もごくまれにいるかもしれないが)、実際はなんとか壊れそうになる製作過程をぎりぎりのところでたもちつつ、妥協に妥協をかさね妥協の産物として一本のフィルムにしていくのが監督の仕事といっても過言ではない。
私も監督をやったことがあるものとして切実にその不憫さは理解できる。

私の場合は、コンテを描いているときまではとても幸せなのだ。この作品はとんでもなくいいものになるって尾確信しながら、自分に良いながら描いているのだが、それがいったん作画にはいるとその夢はがらがらとくずれていく。なんでこいつらはこんな絵しかかけないんだ??って思うことがほとんど。それで作画なら時間の許す限りで自分がなとか直せばいいけれど、背景だとそうもいかない。音楽の選曲が全然とんちんかんな音響監督もいる。それでも直してくれればいいが、怒って出て行くクソ音響監督もいた。
時間がなければ全部直せないので、直せる優先順位をつけてやるはめになる。『ガンダムS/スターゲイザー』のときなんか、もう直しのキャパはいっぱいだというので監督なのに動画までやったよ。まあ、作品が良くなるために出来る総てのことをやるのが監督の仕事だと思ってるのでそれでもいいんだけど・・。

そんなトラブルを乗り越えてなんとか映画を完成させようとするトリュフォー演じる〇〇監督だが、そんな彼を補佐する役の(役職は・・・なんなんでしょうね?監督補佐かタイムキーパーだと思う)ナタリー・バイがとても素敵。
もちろんこの映画のテロップ上の主演はジャクリーン・ビセットなのだけど、圧倒的な存在感はナタリー・バイなのだ。もし彼女がいなかったらこの映画はぜったい完成しないんじゃないだろうかっておもわせるほど、きびきびてきぱき物事をこなす。このナタリーバイの演じた監督補佐の彼女は最高ですね。この映画のなかでぴかぴか輝いているのは彼女ですよ。

おかげでナタリー・バイのファンになってしまった。おかげで他の映画でもしゃべらなければナタリー・バイは『アメリカの夜』のあの監督補佐の性格だと勝手にきめてほれ込んでいる私。
のちに同じトリュフォーの『緑色の部屋』に主演ででているのだけど、これも良かった。

ちなみにこの『アメリカの夜』では、最後の最後で主演の男優さんが交通事故にあい、あと5日をのこしてラストシーンがとれないことになってしまう。しかたがないのでそこはそれ映画のエンディングを変えて、その男は最後殺されるという展開に。でも代役つかわなければいけないので顔もみせず背から撃たれて死ぬという展開に変更。そんなこんなで段取りのいじくりでなんとか切り抜けて映画は完成させる映画はまさに妥協の産物なのだが、出来ないよりはいい。そして出来てしまえばみんな幸せ。
映画もアニメも実に大勢の人がからんでいて、それぞれが何かしらの思いをもってその物語を具現化していく。みんながこの一本をささえているんだって感謝したくなるときがある。

見終わったあとに妙にあったかくなれる映画なのでした。

ちなみに音楽はジャック・ドルリュー『イルカの日』よかったですね。ドルリューの音楽にあわせてカットがつながっていくシークエンスは実に心地よいです。



<この映画のなかで撮られている映画が『パメラ』という映画のあらすじ>
英国で婚約者みつけて主人公が、フランスに新妻ジャクリーン・ビセットをつれて帰ってくる。
しかし、ジャクリーン・ビセットと主人公の父親が愛し合ってしまい、ビセットは交通事故で死に、主人公の父は主人公に撃ち殺されるという話。

by ssm2438 | 2011-11-05 03:07 | F・トリュフォー(1932)
2011年 10月 06日

チャンス(1979) ☆☆☆☆☆

f0009381_12514340.jpg原題:BEING THERE

監督:ハル・アシュビー
原作:イエジー・コジンスキー
脚本:イエジー・コジンスキー
撮影:キャレブ・デシャネル
音楽:ジョニー・マンデル

出演:ピーター・セラーズ
    シャーリー・マクレーン
    メルヴィン・ダグラス

        *        *        *

原作はイエジー・コジンスキー『BEING THERE』、昔英語の原書を本屋でみつけて読んでみたのだが、短編で英文も難しくなく終わりまで読めた。

いつの頃から彼がそこに住んでいるのかもわからない。その屋敷の主人は彼に自分の部屋を与え、庭師としてそこに住まわせていた。彼の唯一の楽しみはテレビをみることだけで、塀の外には出たこともない。そこにはたらくメイドも詳しい素性はしらない。ただそこにいたというだけの男チャンス(ピーター・セラーズ)。

そんな屋敷の主人がある朝亡くなった。やがて管財人に屋敷を出て行くように言われたチャンスは生まれてはじめて塀の外に出る。見るもの、出合ううものが総てが珍しい彼が、彼には悪意とか不安とかという普通の人が持つ概念は存在しない。喧嘩をうられてても、からかわれててもその意味がわからない。つねに穏やかな紳士なのだ。そんなチャンスが俗世間の有様に気をとられていると、出発しようとした1台の高級車に足をはさまれてしまう。中に乗っていた婦人イブ・ランド(シャーリー・マクレーン)は手当てをしたいので家に寄って欲しいと言われた。名を問われ、庭師チャンスと名のるが、彼女はそれをチャンシー・ガードナーと聞き違えた。その後彼はチャンシー・ガードナーという人物であると勘違いされていく。

その車は経済界の大立物ベンジャミン・ランド(メルビン・ダグラス)の大邸宅にはいっていく。イブは彼の妻だった。ランドは高齢で健康状態もすぐれなかったが、チャンスの子供のような無垢さと、何事にも動じず、虚栄心のまったくないその穏やかな態度に気持ちが安らぐのを感じた。数日後、ランドを見舞いにやって来た大統領と会う時にもチャンスを同伴した。彼らは停滞するアメリカ経済をどう再生させるかという話をしていたが、ランドはチャンスにも意見を求めた。経済のことなどまったくわからないチャンス。そんな彼は、四季を通じて移り変わりながらも少しづつ成長を遂げる庭に接していた体験を穏やかに話す。
翌日大統領はTV放送のスピーチでチャンスの言葉を引用し、それをきっかけに彼の名は一躍全米に知れ渡るようになる。大統領も意見を仰ぐチャンシー・ガードナー。それから政治経済の知識人としてチャンスのTV出演などの奇妙な生活がはじまる。しかし活字もよめないチャンス。どこの新聞を読みますか?とのマスコミの問いに「私はテレビが好きです」と答えるチャンス。「著名人のなかで新聞を読まないと公言したのは彼がはじめてです!」と祭り上げられる。
あまりの影響力にCIAもチャンスの素性調査に乗り出すが彼の正体はまったくつかめない。
やがてランドが大往生を遂げる。後ろ盾を失った現大統領では選挙が戦えないと次期候補を模索する政界。
そこにチャンシー・ガードナーの名前が挙がってくる。
政治的に利用されるようになることを知ってか知らずか、チャンスは姿を消していくのだった。

庭師チャンスは多分<天使>か何かなのだろう。決して悪意を持つことのない精霊・・? しかし、本人もそのことを知らないようだ。

「育てる」ということは、庭の木々を育てるのも、人材を育成するのも、国の経済を育てるのも同じこと。この映画はコメディではなく、宇宙の真理をといた映画。

そしてこの穏やかなドラマを高品位で映像化したのがキャレブ・デシャネル『ワイルドブラック』『ライトスタッフ』『ナチュラル』『グース』など、数は多くないがきわめて気品のある画面を提供してくれるシネマトグラファー。彼の画面はほんとにすばらしい。大好きな撮影監督のひとりだ。

by ssm2438 | 2011-10-06 11:35 | C・デシャネル(1944)
2011年 09月 19日

泥の河(1981) ☆☆☆☆☆

f0009381_319460.jpg監督:小栗康平
原作:宮本輝 『泥の河』
脚本:重森孝子
撮影:安藤庄平
音楽:毛利蔵人

出演:
朝原靖貴 (板倉信雄)
田村高廣 (板倉晋平)
藤田弓子 (板倉貞子)
桜井稔 (松本喜一)
柴田真生子 (松本銀子)
加賀まりこ (松本笙子)

       *        *        *

この映画の銀子ちゃん以上に憧れを抱ける女性キャラなんてそういないでしょう。

『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』のサガちゃん(メリンダ・キンナマン)と双璧をなす美少女キャラといえばこの『泥の河』の銀子ちゃん(柴田真生子)しかいないでしょう。
こんな女の子がいたらそりゃもう、一生のマドンナになってしまいますよ。この物語の主人公の信雄は、一生彼女以上の女性にはめぐり合えないでしょう。彼は銀子ちゃんを理想の女性として心のそこに定着させ、この物語のあとに続く人生のなかでも、彼女を投影できる女性を追い求めることでしょう。しかし、「この子はあの銀子ちゃんじゃない!」って現実を認識すると、その時点で恋はさめちゃうのでしょう。まさに少年の日の憧れどこまでも・・て感じです。

この映画をみたのは20年前で、当時はその昭和30年初頭という世界をよくこれだけ再現できたものだと感心できないくらい感動しました。それは昭和30年を再現した画面ではなく、昭和30年に撮ったような世界観、空気感そのまんまなのです。この空気を再現しただけでもこの映画はスゴイ。
しかし、そんなことをスゴイっていうのはチキンでしょう。それ以上にすごいのがこの映画が描き出す少年時代のみずみずしいメンタリティ。そして大人の世界の片鱗を垣間見る時のトキメキと嫌悪感。そして自分の無力さと、甘ったれ具合に対する罪悪感。

結局「人生」というのは麻雀のようなものであり、自分のどんな牌が回ってくるかなんてのは選べないのである。そしてそのまわってきた牌で戦うしかないのである。そこにはラッキーな奴もいればドツボの牌が回って来た奴もいるだろう。そして残念なことに、麻雀のように何回も繰り返されるわけではない。ドツボな牌がまわってきても人生は1回しかないのだ。

<あらすじ>
この物語の信雄は小学3年生、家は川辺でうどん屋をやっていた。時代は戦後復興まっさかりで、どんどん経済成長が加速していくなか、取り残されたような環境だといっていい。ある日のこと、信雄が気づくと、反対側の岸に一隻の舟がいつからか停泊ている。
ある雨の日、信雄は喜一という少年と知り合う。喜一の家はその舟らしい。その舟に遊びにいき、喜一の姉の銀子(柴田真生子)とであう。岸でころんで泥だらけんなった足を、銀子は丁寧に洗ってくれる。

--いきなりの色気にトキメイてしまう。と同時に、ある種のいかがわしさを感じてしまう。銀子は11歳なのだが、すでに「女」の立ち振る舞いが身についているのである。
信雄がうちに帰り、「今度キっちゃんを家に呼んでもいいか」と父親(田村高廣)にたずねると、1秒間をおいてから「ああ、いいよ」と答える。しかしその後「夜はあの舟に遊びにいったらいかんぞ」と理不尽な言葉が付け加えられる。やがて彼女の母(加賀まりこ)は、その舟で男に抱かれ生活をしていることが判って来る。この物語は、まだオネショもやまない小学生が、大人の世界を徐々に垣間見始める物語なのだ。

f0009381_3154863.jpg食事にまねかられキッちゃんと銀子は信雄の両親に手厚いもてなしをうけるのだが、信雄の母(藤田弓子)に「べっぴんさんやなあ」と言われると、一瞬表情をこわばらせる。きっと母を抱きにきた男達に同じ言葉をなんども言われているのだろうと推測する。
食事のあと母が、自分のお古を銀子に着せてみる。あまりの可愛さに、弟の喜一も、信雄もまともに見ることが出来ない。きっと一緒にくらしている喜一でさえ、姉に対してあまずっぱい性の香りを感じてしまうのだろう。11歳という年齢ながら、あまりにも「女」としてその立ち振る舞いが完成されすぎているが、2~3つ年上で子供として接することもできる女の子。
のちに、店が忙しい時に銀子が手伝ってくれるようなエピソードがある。仕事のあとなのだろう、銀子が信雄の母とお風呂にはいっているシーンがある。そこで藤田弓子の背中を流しながら「内風呂にはいったのはこれが2回目だ」という話をする。船上をオシッコをするときどうやってするのか・・ということをなんのくったくもなく話す銀子ちゃん。外で信雄の父親の手品にみとれていたキッちゃんが「姉ちゃんが笑ろてる」ってぼそと言う。

祭りに日、親にお小遣いをもらってキッちゃんと一緒にいく信雄だが、「一緒にもっといて」とキッちゃんにわたした50円玉ふたつは、キッちゃんのポケットにあいた穴からいつの間にか落ちてなくなっていたりする。悪いとおもったのだろうキっちゃんは「いいもの見せたるわ」と信雄を舟に招く。舟につくとキッちゃんは河につけた竹ボウキを引き上げる。そこにはカニがいっぱい張り付いていた。「これ全部おまえにやる」というキッちゃん。
やるといわれてもまったく欲しいとも思えない信雄。
「こうすると面白いで」と、そのカニをアルコールランプのアルコールに漬けて、舟の窓辺をあつせつつ、キッちゃんはそのカニにマッチで火をつける。燃えながら移動するカニ。信雄にとっては面白いどころか恐ろしいだけだった。その火のついたカニがいっぴき舟の後方に張っていく。家事になってはと思い這い出て燃えてるカニを追う信雄。そして信雄はそこで、男に抱かれている信雄の母を見る。

自分が無力で幸せなことに無性に罪悪感を覚える信雄。悲しくなって家に帰ろうとすると、橋の上で銀子に出会う。きっとうどん屋の手伝いにいっていたのだろう。そしてその銀子に「ああ、この人も大人になったらああなるのかな」と想う信雄。なんだか生き急げていない自分が悲しくなるのであった・・・。キッちゃんと銀子が生活している世界は、信雄にしてみれば、明らかに大人の世界なのである。

実は劇中もう一つ、平凡にみえていた自分の父と母にも過去に男と女の出来事があったことを知るエピソードがある。どうやら父と母の結婚は略奪愛だったようだ。なにげない一言一言、その立ち振る舞いのなかに、その背景にある不幸や劣等感、そしてそれを感じなくて良い瞬間の描写が丁寧に塗りこめられている。それがこの映画なのだ。

80年代の日本映画のなかでも傑作の一つだろう。

by ssm2438 | 2011-09-19 03:19
2011年 08月 18日

昼下りの情事(1957) ☆☆☆☆☆

f0009381_17582057.jpg監督:ビリー・ワイルダー
脚本:ビリー・ワイルダー
    I・A・L・ダイアモンド
撮影:ウィリアム・C・メラー
音楽:フランツ・ワックスマン

出演:オードリー・ヘプバーン
    ゲイリー・クーパー

        *        *        *

オードリー・ヘプバーンといえば『ローマの休日』って言う人もおおいかもしれないが、私個人的にはこの『昼下りの情事』ほうが好き。なぜかって云えば、シンプルのこっちのラストシーンにつづくシークエンスはオードリーがけなげで泣けたから。実はオードリー・へプバーンの映画で泣ける映画はほとんどないんだけど、最後の汽車をけなげにおいかけるオードリー・ヘプバーン、どうするんだクープ!おいおいおいおい、まだまだおっかけてきてるぞ、クープ!って、あの健気なオードリーに泣けるんだ。この映画だけはちょっとやられたかなって感じでした。

これは別のところにも書いたのだけど、そのドラマのなかで女優さんがいかに輝くかは、その女優さんが恋している相手次第だと思うんだよね。そういう観点から好くとグレゴリー・だいこん・ペックじゃないんだなあ。どうも彼は私の中では政治くさい顔してて、ほんとの笑顔をださないというか・・、ロボットっぽいというか、弱みをみせないというか、エイハブ船長ならいいんだけど、ああいう新聞記者はちょっとだめだなあ。そのてんこの映画のフラナガン・クープのほうがなんか人間くさくていいんだよね。

f0009381_1858143.jpg<あらすじ>
パリの私立探偵クロード・シャヴァッス(モーリス・シュヴァリエ)の娘アリアーヌ(オードリー・ヘップバーン)は父の扱う事件記録を読むのを楽しみにしていた。そのなかでもっとも興味をしめしていたのがアメリカの億万長者フラナガン(ゲイリー・クーパー)に関する資料。ある依頼人から彼の妻とフラナガンの情事の証拠写真とるように要請されていた。その依頼人が写真を見ると「フラナガンを殺す」といきまく。それを聞いてしまうアリアーヌ。翌日この事件が気になってフラナガンの泊まっているホテルへ行くアリアーヌ、彼女の機転で夫人は逃れ、危ういところを助かったフラナガンは、彼女と明日の午後を約束する。
翌日、あんな浮気男とデートなどすまいと思ったものの、アリアーヌは結局ホテルを訪れる。この映画のなかではちょっと背伸びをしようとするオードリーが実にかわいいのだ。食事と美しいムードミュージック、しかしやがてフラナガンがパリを出発する時刻が来て、2人はいかにも世慣れた遊び人同士の如くあっさり別れるのだった。
f0009381_18581077.jpg数ヵ月後、再びパリを訪れたフラナガンはアリアーヌに会うことになる。皮肉にも今度はフラナガンがアリアーヌに参ってしまう。偶然出会った婦人の走行調査を依頼した男にあい、「ある女のことを調べたいのだが、誰かいないか?」と相談すると、私立探偵のクロード・シャヴァッスをすすめた。アリアーヌの父である。
シャヴァッスが調査してるとそれが自分の娘であることが判明。シャヴァッスはフラナガンに「あの婦人は箱入り娘で当人の言ったことは全部作り話、あの娘を愛しいと思ったら、パリを離れることだ」と報告する。
世慣れた風を装い、アリアーヌはリオン駅ホームまで見送るが、お互いに別れがたい。やがて発車の時、フラナガンの乗った列車をおって走るアリアーヌ。精一杯つよがっているオードリーが健気で健気で・・。
さあ、どうするんだクープ!!

by ssm2438 | 2011-08-18 17:36 | ビリー・ワイルダー(1906)
2011年 07月 20日

ジャッカルの日(1973) ☆☆☆☆☆

f0009381_2174883.jpg監督:フレッド・ジンネマン
原作:フレデリック・フォーサイス
脚本:ケネス・ロス
撮影:ジャン・トゥルニエ
音楽:ジョルジュ・ドルリュー

出演:
エドワード・フォックス (殺し屋ジャッカル)
ミシェル・ロンズデール (ルベル警視)

        *        *        *

どんな圧迫感のなかでも信念を貫き通す男を描き続けるフレッド・ジンネマンドゴール大統領の暗殺を依頼された孤高の殺し屋ジャッカルと、フランス警察の全県を委任されたルベル警視の怒涛の頭脳戦。ルベルの包囲網がどんどん圧迫してくるなか、ひたひたと大統領暗殺のヒットポイントにちかづいていくジャッカル。ここでもジンネマンの圧倒的な圧迫感とそのなかで信念を貫く男の生き様が息苦しいまでにストイックに描かれている。
のちにアメリカのでブルース・ウィリス主演で『ジャッカル』という映画がつくられたが、こっちはただのにぎやかなアクション映画。間違っても同じものだとはおもわないように・・。

この物語の時代背景は以下の通り。
フランスは1954年に始まったアルジェリア戦争の泥沼状態に陥った。アルジェリア民族解放戦線(FLN)の爆弾テロや残虐行為はおさまることなく、フランス国内においても世論は分裂していく。1958年、シャルル・ド・ゴールが大統領に就任、ドゴールは戦費拡大による破綻寸前の財政などを鑑み9月にアルジェリアの民族自決の支持を発表、1961年の国民投票の過半数もそれを支持し、1962年に戦争は終結した。
しかしこれに反対していた現地軍人の一部は秘密軍事組織OASを結成、現地アルジェリアでテロ活動を続け、フランスでも政府転覆を狙って対ドゴール暗殺を企てていた。現役のエリート軍人らによるドゴール暗殺計画はことごとく失敗し、組織の優秀な軍人達は逮捕され銃殺刑に処され、OASの組織も壊滅的な打撃をうけ、その幹部たちは国外に退去していた。

<あらすじ>
1963年、チリー大佐によるドゴール暗殺の失敗、およびチリー大佐の逮捕と処刑の報を聞いたOAS幹部たちは、組織外のプロ暗殺者を雇うことを決める。彼のコードネームは“ジャッカル”。
契約金は50万ドル。その金を用意するためにOASはフランス各地で銀行強盗を決行した。しかしその突然のテロ行為はフランス当局を警戒させるもととなった。「OASがドゴール大統領暗殺のために新たな殺し屋“ジャッカル”を雇ったらしい」という情報を得たフランスの警察機構は、ルベル警視(ミシェル・ロンスダール)と補佐のキャロン(デレク・ジャコビ)に全権を与えるとともに、定期的に治安組織の官僚たちに捜査報告を行うことを求めた。
ルベル警視は、ジャッカルの正体を洗うべく世界中の警察に問い合わせを行い、怪しいイギリス人をつきとめる。その情報を元に、フランス全土の警察・憲兵らを指揮し不審者の入国を阻止しようとするが、ジャッカル(エドワード・フォックス)はすでにアルファ・ロメオの車内に銃を隠し、偽造パスポートで南仏から侵入したあとだった。

f0009381_21563752.gif全国の国境やホテルから毎日届けられる入国者・宿泊者リストを洗い、南仏一帯で何度もジャッカルらしき者を追い詰めるが、ジャッカルは寸前で逃げ、何度も偽造パスポートを取り替えて変装を変えパリを目指す。ルベル警視はおそらく、ジャッカルがOASの極秘の連絡網を利用して、治安トップの報告会の内容やルベル警視たちの対策を全て知っているのではないかと疑い治安官僚総ての電話を盗聴する。そしてOASのスパイの女性とそれとは知らずに愛人関係を持ったひとりの官僚を突き止める。
捜査もむなしく、ジャッカルはパリに入り、意外な姿に変装して忍びながらその日を待った。パリでは全国の警察力とユニオン・コルスまで総動員し、裏町の隅から隅まで情け容赦ない大ローラー作戦を行うが、ジャッカルは見つからない。
8月25日のパリ解放記念式典。ジャッカルは傷痍軍人を装い、警官を安心させて非常線を通り抜け、大統領の式典が行われるモンパルナス駅前の1940年6月18日広場を見渡せるアパートにもぐりこみ、住民の老婆を傷つけ、狙撃の場を確保した。ジャッカルは松葉杖に偽装した狙撃銃を組み立て、大統領に狙いをださめた・・・。

by ssm2438 | 2011-07-20 21:09 | フレッド・ジンネマン(1907)
2011年 07月 02日

浮雲(1955) ☆☆☆☆☆

f0009381_21341734.jpg監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子『浮雲』
脚本:水木洋子
撮影:玉井正夫
音楽:斎藤一郎

出演:
高峰秀子 (幸田ゆき子)
森雅之 (富岡兼吾)
山形勲 (伊庭杉夫)
加東大介 (向井清吉)
岡田茉莉子 (向井の妻・おせい)

     *      *      *

この映画をみたのは20代の時だったが、たまたまケーブルでやっていたのでついつい見てしまった。大人になると少しは見方が変わるものだ。はやり成瀬の最高傑作といわれるだけあってスゴイ映画だ。生理的に好きになれる映画ではないが、映画作りの技術力と、描かれた業(ごう)と性(さが)の深さでは傑作だと思う。

日本屈指のメロドラマ!

成瀬巳喜男の描き方はとても上手いと思う。魅せ方も、芝居付けも、画面作りも、白黒映画時代の日本の監督さんのなかでは際会って上手い。フランス映画誌『カイエ・デュ・シネマ』では、成瀬を小津、溝口、黒澤に次ぐ日本の「第4の巨匠」と讃えた。私的には、この4人のなかだったら一番映画作りが上手い人だと思う。ただ、作る映画のテーマは・・・どうなんだろう。。。。
この『浮雲』にしても、映画としての完成度はすばらしい。技術的にはまったく私の好みなのだが、映画の内容はどうなんだろう・・、少なくとも私の好みではない。たぶんこの人の映画の中身をそれほど好きになれる人はあんまりいないんじゃないだろうか・・。
溝口健二に言わせると「あの人のシャシンはうまいことはうまいが、いつもキンタマが有りませんね」・・だそうな。まったくたしかにそうなのだ。男がかっこよくない。成瀬巳喜男は理想とかロマンとか、夢とか、憧れとか、そういう意味での映画を撮らない。話が生産性を欠いているのだ。それが見てるとつらくなる。

この映画の主人公の富岡という男も、実にキンタマのついてない男なのだ。とにかく頑張らない。意志力がない。言葉は道徳的だが、その言葉を実行する力はない。つねに自分が全部悪いんだって先に言ってしまう、本質的無責任男なのである。それでも女にはもててしまう。多分この人といると頑張る必要がないからだろう。そう、「頑張らなくていい」というのはかなりの安らぎである。その安らぎに女は揺らぐのだろう。
これらの男の描き方は、成瀬自身の価値観にもよるかもしれないが、この映画に関しては原作の方向性も大きな要因だろう。そして成瀬の感性がそれに近いものだということなのだろう。こも話は女性脳で描かれた話だといっていいだろう。男にはかけない。男は夢をみるものだが、この映画には現実しかない。いかに目の前にある現実を処理しながら、自分が安らげる状況をもとめるのか・・と、そういうテーマで書かれているような気がする。

f0009381_21351728.jpg<あらすじ>
第二次世界大戦も真っ只中の1943年、農林省のタイピストとして仏領インドシナ(現ベトナム)へ渡った幸田ゆき子(高峰秀子)は、そこで同じ農林省の技師として赴任してきていた富岡兼吾(森雅之)に会う。富岡は既婚者だったが2人は男女の関係を結ぶ。終戦を迎え、妻との離婚を約束した富岡は先に帰国する。しかし、遅れて東京に帰ってきたゆき子が富岡の家を訪れると、富岡は妻とは別れていないことが判る。失意のゆき子は米兵の情婦になる。それでもゆき子と富岡の関係は終わらなかった。
終戦後の混乱した経済状況で富岡は仕事が上手くいかず、世を捨てるつもりでゆき子を伊香保温泉へさそう。ゆき子も米兵と別れてついて行った。当地の「ボルネオ」というパブの主人・向井清吉(加東大介)と富岡は意気投合し、2人は店に泊めてもらう。清吉には年下の女房おせい(岡田茉莉子)がおり、彼女に魅せられた富岡はおせいと仲良くなってしまう。ゆき子はその関係に気づき、東京に戻ると富岡とも別れた。
しかし、ゆき子は妊娠しており、再び富岡を訪ねるが、彼はおせいと同棲していた。再び絶望するゆき子はかつて貞操を犯された義兄の伊庭杉夫(山形勲)をたずね、借金をして中絶する。術後の入院中、ゆき子は新聞報道で清吉がおせいを絞殺した事件を知る。退院したゆき子は富岡を訪ねる。富岡はまだおせいと同棲していた彼女の部屋にいた。

あんな女にまけるなんて悔しい。
もしあの女の幽霊がいるなら言ってやる。私はこの男と一生はなれないって。

ふたたび伊庭の囲われ者になったゆき子のもとを富岡が訪れ、妻の葬式のために2万円(今の価値だと20万くらい?)貸してくれという。ぽんと貸し出すゆき子。やがてなんとか雑誌に記事をかくことで仕事をみつけた富岡にゆき子から電報がどとく。伊庭から30万を盗み出し、逃げてきたというのだ。しかし富岡は屋久島で仕事を見つけて近々そちらに行くというのだ。引き帰すことの出来ないところまできているゆき子に、「このままではだめだ。別れよう。きみは伊庭のところに返るほうがいい」といつもの無責任言葉をやさしくなげかける。

私はどこへ帰るのよ? どこへも行くところがないでしょ。

結局ふたりは汽車にのり、鹿児島へ向かった。鹿児島では雨がふり、屋久島への船は出ないという。そんなとき身体の不調を感じていたゆき子の病状が悪化する。屋久島行きをしばし延期して医者に見てもらうゆき子。そこでも富岡は「君はここから帰ったほうがいい」と言う。
船内で医者からは屋久島行きを止められるが、ゆき子は無理強いをする。船を乗り換え小雨のなか屋久島にむかう二人。現地の官舎に落ち着き、島の人もよくしてくれる。ある豪雨の日、勤務中の富岡に急変を知らせが届くが、駆けつけた時には既にゆき子は息絶えていた。その夜、みんなを帰した後、富岡はゆき子に死化粧を施した。富岡は彼女のために始めて泣いた。

f0009381_21354630.jpgとにかく富岡という男、ひたすらな甲斐性なしなのだ。ゆき子が妊娠した時も、堕ろしてほしいと思っていても(そんなことは微塵もみせないのだが)、「産んでいいよ。なんとかするから」と言う。30万円を盗んできて戻れないのに、「君は伊庭のところにもどったほうがいい」と言う。屋久島までついてきたゆき子に「体が良くなったら東京にかえったほうがいい」と言う。
たぶん本心では「いて欲しい」と思っているのだろうが、本心がそう感じていることを理性が感知しないのだろうな。平気な顔して道理的な言葉を語る。自分から求めないことが、自分が傷つかない最良の手段だということを知っている。その生き方が身についていて、それが自然にできてしまう。世間からみると善い人なのだど、実際は恐ろしいほどの臆病者。そして相手の女が自分のためにそれを行ってくれることをひたすら待っている。

超最低男である。
・・しかし、男が持てる要素がここにあるのかもしれない。

by ssm2438 | 2011-07-02 21:41