西澤 晋 の 映画日記

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2011年 12月 12日

必死剣 鳥刺し(2010) ☆☆☆☆

f0009381_0455177.jpg監督:平山秀幸
原作:藤沢周平『必死剣 鳥刺し』
脚本:伊藤秀裕/江良至
撮影:石井浩一
音楽:EDISON

出演:
豊川悦司 (兼見三左エ門)
池脇千鶴 (里尾)
岸部一徳 (津田民部)
吉川晃司 (帯屋隼人正)
戸田菜穂 (睦江)

       *        *        *

サラリーマンの哀愁ここにあり!

正直なところ、今の時代に時代劇を作っても、面白いものが出来るわけがないと食わず嫌いを決め込んでいたのですが、それでも、なんとなくぴくぴく来る何ががあり、遅ればせながら本日見るに至りました。

いやああああ、久しぶりに映画らしい映画を見せてもらいました。
こういう映画がつくれるなら、まだ日本映画も捨てたものではない。

原作は『たそがれ清兵衛』藤沢周平、8篇の短編からなる『隠し剣孤影抄』のなかの一つ、『必死剣鳥刺し』。サラリーマンの哀愁をヒシヒシと書いておられる。そしてその短編をここまで完成度の高い映画にしてくれたスタッフの皆さんに感謝。

時代は江戸時代、舞台は、東北の小藩・海坂藩。
サクラの花も散る春のある日、城内では能の宴が終わろうとしていた。終劇のさいにも誰も反応しないなか、藩主・右京太夫の愛妾・連子が手を叩き始めると、右京太夫も手を叩き始める。そして遅ればせながら家臣たちも手を叩き始める。
何かが変なのである。あれ・・?これって、奥さんはみんなに嫌われているのかな・・?とか思っていると、退場のときにいきなり豊川悦司演じる兼見三左エ門にブスっと胸をさされて絶命する。

唐突に始まり、物語の背景がみえないまま、つかみのイベントとしてはかなりパンチの効いた始まりであった。その後あたふたする周りに家臣たちと対照的に、既に覚悟をきめている様子の兼見三左エ門。潔さの描写もすばらしい。
切腹もゆるされず、打ち首が相当という判断が体制をしめるなか、津田民部(岸部一徳)の計らいもあり1年の閉門と給料半分という、在り得ないほど軽い刑で処分が決定される。
屋敷内の蔵に幽閉される兼見。
そして、回想シーンが始まり、これまでのいきさつが語られていく。


どうやら、この藩は天災などもあり、財政破綻寸前に追い込まれているらしい。
江戸からも緊縮財政の御達しがあるも、藩主妾の連子(関めぐみ)には、不憫な生活は出来ないらしく、浪費思考を変えることが出来ない。親族優遇のために、寺院の改築工事を強行するためにさらに年貢を上げるという。これに反対して騒ぎ始めた農民たちの首謀者たちは打ち首。これに意見できるのは御別家の帯屋隼人正(吉川晃司)のみ。しかし、殿様は結局は連子の言いなりになり、財政難を理由に藩の会計主任が春の宴の席を取りやめにすること聞くと、これに切腹申し付けるしまつ。
誠実に生きているものたちが連子のわがままのためにどんどん死んでいく。
愛妻・睦江(戸田菜穂)を病で亡くし、死に場所をもとめていた兼見は、春の宴の席で連子の胸を刺し、殺してしまう。

屋敷の納屋に幽閉されることになった兼見の世話をするのは亡妻の姪・里尾(池脇千鶴)。毎日毎日食事をつくり、幽閉されている兼見にそれを届ける。減俸処分になった家計をやりくりするために、家のまえの藪を開拓し畑にする。
言葉にせずとも、愛にあふれているこの一年間の描写には心を打たれる。
古き良き日本映画の慈しみがここにある。

1年の幽閉期間が過ぎた兼見は、なぜか経理主任に抜擢される。上司の津田は、なんとか間を取り持ってくれているようだが、殿さまには嫌われている様子。自ら辞職を申し出るが却下。・・・・・なぜ?
ここからは社会派サスペンスの時間。
民衆のことを考え、藩の財政のことを考えると、このまま兄を藩主の職にとどめておくのはまかりならんと考えた、右京太夫の弟・帯屋隼人正は、必要とあらば兄を殺害し、江戸の子供を呼び寄せ藩主にしようと考えていた。必死剣・鳥刺しを体得している兼見は、殿を帯屋隼人正から護るための雇われているボディーガードだったのだ。

正義の味方・帯屋隼人正と、悪代官の手下として戦わなければならない兼見三左エ門。自分の行為が正義に背くとわかっていても、サラリーマンには唱えるべき異議はない。
里尾と一夜を過ごした兼見には、生きることへの執着心も出てきている。生き残らなければならない!

そしてある雨の日、帯屋隼人正は殿を斬るために城内に上ってくる。
そのまえに立ちふさがる兼見三左エ門。
死闘の末、帯屋隼人正を殺した兼見三左エ門。
しかし、そこに津田が現れ、兼見三左エ門は乱心して隼人正様を殺害した。兼見を斬れと命令する・・・。

愛する女への想いを胸に、それでもサラリーマン人生を生きるしかなかった兼見三左エ門。
最後の必死剣・鳥刺しは・・・・・ちょっとイマイチでしたが、それでも充分堪能できる日本映画でした。

でも、最後のエンディングの歌だけはなんとかしてほしい。
せめて、音楽だけに出来なかったものか・・・。

by ssm2438 | 2011-12-12 00:48
2011年 12月 10日

オーケストラ!(2009) ☆☆☆☆

f0009381_0551320.jpg原題:LE CONCERT

監督:ラデュ・ミヘイレアニュ
脚本:ラデュ・ミヘイレアニュ
    アラン=ミシェル・ブラン
    マシュー・ロビンス
撮影:ローラン・ダイヤン
音楽:アルマン・アマール

出演:
アレクセイ・グシュコフ (アンドレイ・フィリポフ)
メラニー・ロラン (アンヌ=マリー・ジャケ)
ドミトリー・ナザロフ (サーシャ・グロスマン)
ミュウ=ミュウ (ギレーヌ・ドゥ・ラ・リヴィエール)

       *        *        *

ギャグを全部斬り飛ばして再編集したら傑作になる!

下らんコメディシーンをいれるので、気持ち良い流れが全部ぶち壊しになるのがかなり悲しいが、もう一回再編集しなおしたら傑作になるポテンシャルをもってる。時間があったら自分で再編集して自分だけの『ラ・コンサート』を作っておきたい気になってしまう。
しかし・・・このくらい全部のギャグがいらないという映画も珍しいな・・(苦笑)。

ロシア・ボリショイ交響楽団で劇場清掃員として働くさえない中年男のアンドレイ・フィリポフ(アレクセイ・グシュコフ)は、30年前に指揮棒を折られて楽団から追放された指揮者だった。共産主義の当時、国がユダヤ人排斥の政策を強行、ユダヤ系の演奏家たちも例外なく排斥されることにアンドレイらは反旗を翻したことから、メンバー全員は楽団から追放された。そんな彼がフランスから届いた一通のファックスを盗み読む。急遽出演できなくなった楽団の代わりに、ボリショイ交響楽団に来て欲しいという依頼だった。アンドレイは、30年まえの楽団の仲間をあつめて今のボリショイ交響楽団の替りにパリ公演を自分達でやってしまおうと計画を立てる・・・。

初めはハートフルコメディの流れだったのです。
電話の向こうのパリのプロモーターはハイソな生活。それにくらべて主人公たちの生活は貧乏暮らし。昔の仲間をあつめたって、楽器さえ持ってない人間も多い。大体パスポートだってない。仕方がないのでパスポートは、空港に自分の写真をもってこさせて待合室で偽造パスポートを作るという始末。
ただ、まだこのアタリまではギャグやっててもよかったのです。昔の栄光から30年も遠ざかり、今は共産党のおかげで、「人民の敵だ!」とかいわれ、才能がありながらも誰でもできるような仕事しかさせてもらえない貧乏人。今はぼろぼろの彼らだがみんなが集まれば・・・・そんな彼らの起死回生のコンサート。サクセスドラマの王道である。

ところが物語はそこにもうひとつの物語がからんでくる。ユダヤ人排斥運動に反対した楽団のソリストだったレアというヴァイオリニストは、その活動にのめりこみすぎてシベリア送りになる。彼女には生まれたばかりの子があったが、その子は秘密裏にフランスに送られて育てられた。
その娘は今は大人になり、フランスでも有名なソリストになっていた。アンドレイは、パリでおこなうコンサートの曲は『チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲』のソリストにフ彼女を指名する。

一行がパリに着き、この物語が主導権をにぎりはじめると、きもちいい流れをギャグがことごとくぶち壊していく。勘弁してよ~~って思ってしまう。パリにきた楽団のメンバー達は、リハーサルもそっちのけで観光にうつつをぬかしまくり。このあたりの描写が邪魔で邪魔で・・・。こんなことなら、メンバーのもうひとりふたり、カルマをもたせて、それをこのコンサートで浄化するような描き込みができなかったものか・・・。かりに出来なかったとしても編集でこのクソギャグシーンをカットできなかったものだろうか・・・。

コンサートの前の夜、ソロをやるアンヌ=マリー・ジャケ(メラニー・ロラン)と共に食事をするアンドレイ。自分は誇示であり両親が誰なのかもしれないと話す彼女。「なぜ私を選んだのか?」という質問に、アンドレは彼の目指すハーモニーとレアというヴァイオリニストのことを語る。アンドレイが求めているのはレアだと知り、自分の存在意義を失ったアンヌ=マリーは一度はコンサートに出ないことを決める。
そんなアンヌ=マリーをコンサートに出すためにアンドレイの友人のサーシャ・グロスマンは、「コンサートの終わりに、両親がわかるかもしれない」となぞめいたことを告げる。

やがて始まるコンサート。しかし30年ぶりの演奏はかなりさび付いていた。しかし、アンヌ=マリーのヴァイオリンが彼らの過去をよびさます。彼女の音楽はまさにレアの再来だった。
30年前に中断されたコンサート。政治批判のために指揮棒をおられたあのコンサート。その時の指揮棒をセロハンテープでつなぎとめて振るアンドレイ。総ての想いがアンヌ=マリーのヴァイオリンの音色にリードされて昇華していく・・・・。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・泣けます。

<物語>って素晴らしいですね・・・。
この物語の感動を邪魔するくそギャグ連打にもめげず、監督他のテレ隠しギャグにもめげず、物語の本質が、ひたすら突き進んでいきます。どんなに糞監督/糞スタッフが邪魔しようとも、物語の本質がそんな糞演出を打ち負かして正しき道に導いていきます。それを作ってるスタッフの無能ささえも、物語の本質がなぎ倒していくこのラストコンサートは素晴らしいの一言です。
久々にいいものをみせてもらいました。。。。

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by ssm2438 | 2011-12-10 00:50
2011年 11月 09日

ハスラー(1961) ☆☆☆☆

f0009381_18244555.jpg原題:THE HUSTLER

監督:ロバート・ロッセン
脚本:ロバート・ロッセン/シドニー・キャロル
撮影:ユージン・シャフタン
音楽:ケニヨン・ホプキンス

出演:
ポール・ニューマン (ファースト・エディ)
ジャッキー・グリーソン (ミネソタ・ファッツ)
パイパー・ローリー (サラ)
ジョージ・C・スコット (バート)

       *        *        *

「明日のために、今日の屈辱に耐えるのだ!それが男だ!」

これは『宇宙戦艦ヤマト』1話のなかの沖田十三の言葉である。このあと古代守は「戦って、戦って、戦い抜いて死ぬのが男じゃないんですか?」と反論する。当時これを見ていたときは沖田艦長「かっこわり~」とか思ったのだが、のちに『男おいどん』『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』にもこの趣旨の言葉が多々登場するのを発見、大人になってみると、実に現実味を帯びた理想的な言葉であることを実感する。

玉突きやるひとなら一度はみる映画・・かな?
「ハスラー」というのは本来「詐欺師・騙し屋」的な意味の言葉だが、金をかけてビリヤードをしてる人をそう呼ぶと理解してもいいだろう。
この映画の中で、主人公ファースト・エディ(ポール・ニューマン)は、当時最強とうたわれていたミネソタファッツに戦いを挑む。最初はリードしていたものの、セリフコントロールが出来ずに後半ぼろぼろ。無残に敗北する。有り金を全部すってしまったエディが、今一度ミネソタ・ファッツに戦いを挑むためには資金がいる。安い金では受けてくれないのだ。そこにエディの才能に目をつけたバートというスポンサーが現れる。バートは勝ち金のほとんどを吸い上げ、エディの取り分は2割程度。それでも、ファッツとの再戦のためにバートと旅を始めるエディであった・・・。
この映画の25年後にマーティン・スコセッシによって映画化された『ハスラー2』で一時期ビリヤードが人気になったこともあったが、こちらは、勝ち負けよりも騙しあいのほうにウエイトがおかれていて、今ひとつ消化不足だった。それにくらべて、この『ハスラー』は、賭けビリヤードを題材にはしているが「勝つ」ことにこだわったつくりであり、とっても見心地がよいのである。ただ、この映画で行われているゲームはナインボールではない。それが今ひとつ映画の楽しみをそぐ原因にもなっているかもしれない。

この映画のなかでおこなわれているのはストレート・プール(14-1)と呼ばれるゲームである。15個の的球を用いて行われるポケットのエニーボール種目(どの球でもねらってOK)で、得点は1個1点で、全てコールショットで行われるゲーム。ファウルは1点マイナス。オープニングブレイク時のファウルはマイナス2点。3回連続したファウルはマイナス15点のペナルティとなる。テーブル上の的球が残り1個(ブレイクボールと呼ばれる)を残した時点で、他の14個をラックする。そしてブレイクボールをポケットしつつラックを割ることで継続していく。
初心者のうちは、ブレイクショットをもったほうが最初にファールすることになる。だいたいブレイクショットなのにどの球をどこに入れるかって、そらほとんど無理だとおもうのだけど・・・。すくなくとも私のような素人には無理である。
このゲームのすごいところは、とにかくゲームが延々につづく。やめようというまで続く。『ハスラー』のなかでは、このゲームを何日にもわたって延々突きつづけている。このマラソンゲームがいいんだよなあ。

ファースト・エディの恋人役にはパイパー・ローリー『キャリー』のおかあちゃんである。このころはなかなかチャーミングだったのだ。しかし・・・、ドラマ的にはかなり沿えモノ的な扱いであり、今ひとつこの人の使われ方は的を得てなかったような気がする。物語の途中でにっくき敵役のバートに抱かれてしまい、その結果自殺してしまうのだが、その必然性も今ひとつ。ま、主人公の最後の「起こったぞ!」の起爆スイッチに使われるエピソードだけど、もうちょっと納得いく形に出来なかったものか。最後にポール・ニューマンがバートの非道さを語るのだが、それもいまいちピンとこない。もうちょっと物語を整理して、効果的に構成されていたらけっこういい映画になっていたと思うのだが・・・。

<あらすじ>
シカゴの若手ハスラー、エディ・フェルソン(ポール・ニューマン)は賭けビリヤードで資金をあつめ、当時最強と言われていたミネソタ・ファッツ(ジャッキー・グリーソン)に挑戦した。勝負は36時間にわたるストレート・プール。初日の前半はほとんどエディがリードしたが、図に乗って酒を飲みながら勝負を続けたエディは残り12時間というあたりで逆転され、そのまま追いすがることも出来ずに敗北した。その勝負をひそかに観戦するバート(ジョージ・C・スコット)。
自暴自棄になったエディは酒にふけったが、作家志望の女子大生サラ(パイパー・ローリー)と出会い、意気投合して一緒に暮らし始める。そんなエディにバートが話しかけてくる。彼は、エディのスポンサーになり、掛け金を出すという。75%はバートがもらい、25%はエディがとるというもの。一度はことわるエディ。
それから間もなくある撞球場で小金を稼いだエディは、ハスラーであると因縁をつけられ袋だたきにされた。その上、両手の親指を折られていよいよ文無しになってしまう。無一文になったエディは、バートの申し出をうけることにする。あとで判明するのだがこれもバートの仕組んだわなだった。
傷の癒えたエディはバートのマネージングのもとに、ビリヤードをやりバートをもうけさせる。ファッツに再戦を挑むには今はバートの資金のもとで、いかに不利な条件でも戦わなければいけないエディ。その姿を嘆いサラだが、なりゆきでバートに押し倒されてしまい自殺する。
バートと手を切ったエディは、二たびミネソタ・ファッツに挑戦する。勝負は一方的にエディの勝ちとなる。バートはマネジャーとして分け前を要求するがエディはバートの脅かしに耳も貸さずに立ち去るのだった。
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by ssm2438 | 2011-11-09 18:30
2011年 10月 24日

プライベート・ライアン(1998) ☆☆☆☆

f0009381_12472829.jpg原題:SAVING PRIVATE RYAN

監督:スティーヴン・スピルバーグ
脚本:ロバート・ロダット/フランク・ダラボン
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:
トム・ハンクス (ジョン・H・ミラー大尉)
バリー・ペッパー (ダニエル・ジャクソン狙撃兵)
マット・デイモン (ライアン一等兵)

       *        *        *

『プライベート・ライアン』とは「ライアン一等兵」のこと。「個人的なライアン」という意味ではない。。。

そのむかし、ゴールディ・ホーンが新兵卒になる『プライベート・ベンジャミン』とう映画があったが、この「プライベート」もも「兵卒」のこと。もっとも「プライベート」というのは一等兵、二等兵両方につかわれる言葉だそうな

映画界には表現のターニングポイントとなる映画がいくつかある。
たてば『スターウォーズ』。それまでのSF映画というは、『2300年未来への旅』みたいなに、「こういう風つくっておけば世間はSFとして解釈してくれる」という次元のものだったが、この『スターウォーズ』から一変した。現実にそれがほんとに存在するなこういう風にみえるはずだ!という本物感を真剣にビジュアルかするようになってきた。ま、映画の内容は古典的な西部劇だが、ビジュアルは革新的な変化を遂げた。
この『プライベート・ライアン』もそういった面をもっている。この映画の前とあとでは、戦争映画のリアリティの表現がまったく変わった。「こういう風に描いとけば、そういったことと理解してくれるんだよ」じゃなくて、「本との戦闘はこういうもんなんだ。それを再現しよう」ということに変わったのである。たとえば腕がもげたシーンがあると、それまでの映画では「こう描いておけば、観ている人は腕がもげたのだと解釈してくれる」というものを提示していたのだが、この映画では「腕がもげたらこうなるだろう」という表現に変わった。
つまり、この映画以前は、「腕がもげた」という記号的表現だったのが、この映画から「腕がもげた」という現実的表現をすることにかわってきたのである。
この映画は、戦争映画における、記号的表現からの脱却がなされた記念すべき映画である。
大絶賛!!!

ただ、物語自体はなんともいえない不条理さが残る話で、どう解釈していいのか悩ましい。軍という組織がそこまで一人に肩入れして肯定されるのかどうか・・・、見ている私たちはどうしてもその命令を受けて命を懸けていうトム・ハンクスのほうに感情移入してしまうので、どうにもやりきれない任務だなって思いながら、それが払拭されることもなく物語が進行し、さらに助けに部隊のほとんどが死んでしまう展開は、心のおくに拒否反応を覚えてしまう。。。
プロローグとエピローグをカットして、純粋に技術力だけの映画にしてくれたら、☆5つにしたのだけど・・・。

撮影はここ最近スピルバーグものを担当することのおおいヤヌス・カミンスキー
『マイノリティ・リポート』みたいにカメラが寄りすぎるのはいまひとつ気に入らないときもあるのだが、画調とか彩度に関してはかなり渋めでまとめてくれるので、色的には好きなほうの撮影監督さんである。

<あらすじ>
第2次世界大戦のヨーロッパ戦線。地獄絵図のようなノルマンディー上陸作戦を生き抜いたミラー大尉(トム・ハンクス)に、軍の最高首脳から「ジェームズ・ライアン一等兵を探し出し、故郷の母親の元へ帰国させよ」という命令が下った。ライアン一等兵は落下傘の誤降下で行方不明になっているという。
ミラー大尉は7人の部下を選出する。

「なぜライアン1人のために8人が命をかけなければならないのか? 」
それが誰もが感じた不条理だった。

前線へ進むうちミラーたちは空挺部隊に救われるが、その中にライアン二等兵がいたのだ。「戦友を残して自分だけ帰国することはできない」と言うライアン。ライアンが戻らないというのなら、共に踏みとどまりドイツ軍と一戦を交えるしかない。重火器にまさるドイツ軍にたいして乏しい兵力、装備という悪条件の中での戦いで、仲間たちは次々と銃弾に倒れていく・・・。

by ssm2438 | 2011-10-24 12:48 | S・スピルバーグ(1946)
2011年 10月 20日

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ(1984) ☆☆☆☆

f0009381_14331565.jpg原題:ONCE UPON A TIME IN AMERICA

監督:セルジオ・レオーネ
脚本:レオナルド・ベンヴェヌーチ
    ピエロ・デ・ベルナルディ
    エンリコ・メディオーリ
    フランコ・アルカッリ
    セルジオ・レオーネ
    フランコ・フェリーニ
撮影:トニーノ・デリ・コリ
音楽:エンニオ・モリコーネ

出演:
ロバート・デ・ニーロ (ヌードルス)
ジェームズ・ウッズ (マックス)
ジェニファー・コネリー (子供の頃のデイジー)
エリザベス・マクガヴァン (デイジー)

       *        *        *

ギャング世界での家族愛をテーマにした映画が『ゴッドファーザー』がであるとするなら、こちら友情をテーマにした映画といえるだろう。ただ、それを賛美するのではなく、それを踏みにじらなければならない状況下におかれた人間のドラマだといえる。

<あらすじ>
1923年、17歳のユダヤ移民の子、ヌードルスはマックス出会う。
折りからの禁酒法施行を利用して稼ぐことを覚え、その金を共同のものとして駅のロッカーに常置しておくことを誓い合った。地元のやくざバグジーたちの抗争のなか、仲間の一人が殺される。怒ったヌードルスはバグジーを刺し殺してしまう。
6年の刑期を終え、刑務所から出てきたヌードルス(ロバート・デ・ニーロ)をマックス(ジェームズ・ウッズ)ば迎えに来た。ギャングとして成長していたマックスはヌードルスを新しい「仕事」にひき入れる。
マックスが全米一の警備を誇る連邦準備銀行を襲撃する計画を打ち明けるが、ヌードルスは頑強に反対。
マックスの愛人になっているキャロルは、彼の命を助ける方法は警察に密告してマックスの計画を潰す以外にないとヌードルスに懇願する。ヌードルスはキャロルの願いを聞き入れ、ダイヤルを回した。
しかし、マックスはヌードルスの前で警察の銃弾に倒れる。仲間たちは、裏切り者となったヌードルスを追う・・・。

映画は、逃亡したヌードルスを追うマックスの手下・・とういうシチュエーションから始まる。
さらに60歳を越えたヌードルスが登場する。
この物語は時間軸を解体してあるので、全貌を把握するに時間がかかってしまう。

1928年、60歳を越したヌードルスは、マックスと仲間が眠るニューヨークの墓地で1個の鍵を発見した。それはあの駅のロッカーの鍵だった。ロッカーの中には鞄が置いてあった中にあるはずの金はなかった。マックスは生きていた。彼はベイリー財団の理事長として政財界に君臨していた。マックスの死は、警察まで巻き込んだ大芝居であり、他の仲間はその場で死に、ヌードルスは裏切り者として追われ、彼らがためていた金はすべてマクックすが独り占めしたていたのだ。
そんなマックスにも法の手が伸びる。自分が手に入れたものをすべて失うのは時間の問題だった。そんなときマックスはヌードルスは自宅のパーティに呼び、「これでカリはなしだ」と自分を撃ち殺すようにと拳銃を差し出す・・・。


そもそも、私はギャング映画とかヤクザ映画とかは生理的に好きではない。なので、この映画が1984年のキネマ旬報ベストテンの1位になった時もほとんど観たい気持ちにはなれず、長い間放置してた。そんな映画を見る気にさせてのは、ジェニファー・コネリーの若き日の後姿の全裸映像があるということと、『普通の人々』でヒロインを演じたエリザベス・マクガヴァンのエッチシーンがあるというどうしようもない突破って衝動・・・今から20年まえくらいでした(苦笑)。

はじめてみた感想は、時間軸があっちこっち飛ぶので良くわからない・・という印象だった。そしてデイジーを演じた子供の頃がジェニファー・コネリーなのにたいして、大人になった彼女がエリザベス・マクガヴァンというのがどうにも違和感を感じてしまった。なのでそこでどうにも物語りにはいれなかった。個人的にはエリザベス・マクガヴァンも好きな役者さんのひとりなのだけど、この映画には似合わなかった。だいたい、あのうりざね顔のジェニファー・コネリーが大人になったらぽっちゃり顔のエリザベス・マクガヴァンというのはキャスティングの不自然さを呪った。

しかし、全体を通してみると、悪くはない。好きではないが、悪くはないのである。
友情というのを絶対不可侵の心の軸として考えていたヌードルス。その彼が、友情という名の下に友人を裏切り、その結果、彼らは警察の銃弾に倒れてしまった。そして彼が最後にみせる「にやり」。どんなに理性で友情を大事におもっていたとしても、心のどこかで自分が生き残り、その富を独り占めにしたことへのダークサイドの満足感はあったのだろう。
これはもう、男としての「業」なのだろう。ライオンの世界では、一番強いオスだけが群れのメスを支配し、残りのオスは路頭に迷って生きることになる。男の世界では、どんなにつらくても、「自分だけが勝ち残らなければならない」という動物的本能が潜在的に在る。それが表面化した瞬間だったのだろう。

ふたをあけてみると、ヌードルスが欲したものはすべてマックスが奪っていた。金もデイジーも。マックスは、友情よりもオスとしての「業」を優先した。60歳にしてヌードルスが出会ったマックスは、自分が「友情」よりも「業」を優先したときにもう一人の自分だったのだろう。

ヌードルスは、マックスを撃たずにそのまま去っていく。
そんなマックスは、ゴミ収集車のディスポーザーの中に身を投じこの世から消滅する。

by ssm2438 | 2011-10-20 14:33
2011年 10月 14日

(ハル) (1996) ☆☆☆☆

f0009381_14462222.jpg監督:森田芳光
脚本:森田芳光
撮影:高瀬比呂志
音楽:野力奏一/佐橋俊彦

出演:
深津絵里 (ほし/藤間美津江)
内野聖陽 (ハル/速見 昇)

       *        *        *

なつかしい「パソコン通信」なる響き・・

私が始めて買ったパソコンはパワーマック7100AV。OSは漢字Talk7.5。まだOS9とかいわれる以前のOSです。そのときはフォトショップを使うことが目的の総てで、パソコン通信なるものにはまったく興味がなかったのです。それが英会話をはじめるようになって、そこの生徒さんから刺激をうけてパソコン通信をしてみようと思い始めたのが30歳のころ。いまから20年前の話です。

当時は「パソコン通信」と呼ばれるネットワーク(=通信団体)で、私が入ったのはニフティ・サーブ。そのこのアニメのフォーラムをみながら、自分が参加しているアニメ作品で、自分が演出をやった話数の反応を見始めたのがさいしょでした。当時のニフティは実名で発言する人が多く(もちろんハンドルネームを使う人も居た)、ゆえに無責任な暴言もあまりなかったように思えます。あのころの通信形態を体験してると実名表記のフェイスブックは実に居心地がいいものです。そこでメールフレンドも募集するところがあり、こわごわながらメールを送ってみたのが始まりでした。その頃の付き合いのある人とはいまだに連絡が取れている人もいます。あの頃のメル友さんというのは、きちんと文章で自分の考えや感想を自分の名前のもとに発言できる人が多かったのだなと思ってしまいます。

その後、インターネットの普及におされ、ニフティサーブに所属してることがあまり有益ではなくなってきたので、辞めてしまいました。しかし、同じようにインターネット上でメル友さんを探してみるも、メル友の質が明らかに劣化してしまいました。そこではハンドルネームが当たり前になっており、きちんとした文章での自己主張や感情が表現できない。短い文章で「きゃああ、かわいいい」とリアクションするがほとんどで、マトモなメル友さんはみるからなくなり・・、ネットでメル友とよばれる人を探すのは辞めてしまいました。

この映画にあるように、パソコン上で知り合った人と合ってみることも何回かありました。いやああ、どきどきしましたね。当時は、「メル友とあったらそれで終わり」という伝説があったものです。不思議とニニフティ時代に出会ったメル友さんとは会っても続いていたのですが、インターネットで知り合ったメル友さんとは不思議ときれてしまいました。パソコン通信で出会った人というのは今思うととても貴重な存在でした。この映画には、インターネットでみるけたメル友ではなく、パソコン通信で出会ったメル友が描かれているのです。

<あらすじ>
パソコン通信のある映画フォーラムで知り合った速見 昇(内野聖陽)と藤間美津江(深津絵里)。ふたりは、それをぞれ(ハル)と(ほし)と名乗り、お互いの顔も名前も知らない気安さから、悩みごとなどを相談するようになっていく。速見は(ローズ)というハンドル名の女性と知り合い、実際に会って何度かデートするようになったと云う。一方、転職を繰り返していた美津江は、仕事先で知り合った山上という男に結婚を申し込まれ戸惑っていると書く。
ある日、速見は出張で青森に行くことになり、美津江は新幹線の速見に向けてハンカチを振る約束をする。当日、線路沿いの田んぼに立つ美津江と新幹線の車中の速見は、互いにハンカチを振る相手の姿をビデオに収めながら、一瞬だけの対面を果たすのだった。
しかし、美津江は、妹が(ローズ)というハンドル名でパソコン通信をやっていることを知る。速見は、ローズと会ったその日にホテルへ行ったと、フィクションを語ったことがある。ローズが美津江の妹だと知った速見は、あわてて本当のことを伝えるが、美津江は、速見にメールを出すのをやめてしまう。
しかし、メールのやり取りで知らないうちにお互いを支えあっていたことに気づいたほしは、再びハルにメールを送り、ふたりは、もう一度最初から互いの関係をやり直すことにする。


パソコン通信のメル友というのは、相手をくどこうとか・・そういうのではなく、自分の恋愛事情を相手に語るときにとっても役立つプライベートな精神科医みたいなものなのでした。この映画でも、自分の恋愛事情を相手に話ながら、徐々に相手の存在が大事になっていくプロセスが描かれている。そう、まさに、こんな感じでした。私にとってはとても愛しい時代をきりとった映画です。なので☆ひとつおまけ!

ちなみにインターネットとパソコン通信の違いは・・・一言で言うと、「パソコン通信は、その所属しているネットワークの中でしかコミュニケーションできない」ってことでしょう。このようなネットワーク=通信団体は「ニフティサーブ」のほかに当時は「PC-VAN」や「アスキー」がありましたが、これらに所属する人たちとは通信できなかったのです。しかし、インターネットが世界的に普及していくと、一つのネットワークだけに所属することに意味がなくなり、人々が離れていき、一つの時代が終わったのでした。

by ssm2438 | 2011-10-14 14:47
2011年 09月 20日

華岡青洲の妻(1967) ☆☆☆☆

f0009381_1453551.jpg監督:増村保造
原作:有吉佐和子
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:林光

出演:
若尾文子 (妻・加恵)
高峰秀子 (於継)
市川雷蔵 (雲平=華岡青洲)

       *        *        *

猫が・・・・猫が・・・・。
その猫・・・、どこまで本当なのですか?


増村保造の映画の中では『清作の妻』『赤い天使』『陸軍中野学校』が好きなのですが、その次といえばこの『華岡青洲の妻』でしょう。嫁と姑の水面下の壮絶な争いの話なのでが、正直なところ男はあまり見たいという感情がわかない、というか見たくないという部類の映画です。なので「良い」とは聞いていたのですがずっと放置してあった映画。ついに見てしまいました。
・・・・しかし、あいかわらずこの2人(増村保造&新藤兼人)が組むと壮絶ですな。

華岡青洲は江戸時代後期に実際に存在したお医者さん。文化元年10月13日(1804年11月14日)、全身麻酔手術に成功している。西洋での全身麻酔手術は、1846年にアメリカで行われた、ウィリアム・T・G・モートンによるジエチルエーテルを用いた麻酔の手術であるが、これよりも40年も早いことになる。
前身麻酔にいたるまでは、犬や猫の動物実験をおこない、その後この映画のなかにあるような人体実験をしたのち、実際に全身麻酔の手術がおこなわれる。この映画のなかでは、母と妻がその人体実験の被験者として申し出るが、本人自身も自分に投与していたようである。また、文献によれば、近親者も被験者として申し出た人がいたという。

物語の中核をなすのが、この嫁と姑との水面下の争いなのだが、この描写がなかなかスゴイ。2人とも対外的な面子をたもちつつ、自分の存在意義のために熾烈な心理戦を繰り広げている。
これはほとんど星一徹星飛雄馬との対決のようでもある。なんでも星一徹の背番号84の意味は、星飛雄馬の背番号16と足すと100になる。父が息子を飲み込み100になるか、それとも息子が父を飲み込み100になるか・・・、それがゆえに星一徹が望んでもらった背番号だという。この物語もまさにそのような感じである。

物語は冒頭からなかなかぎょお!!である。
加恵(若尾文子)を嫁に欲しいといって彼女の実家をたずねたのは雲平(華岡青洲のこと)の母、於継(高峰秀子)であった。しかし本人は京に修行にでており、本人不在のまま結婚式が行わる。白無垢の加恵の隣には華岡家の医学書がつんでる。そのなかで、雲平の父が家族の構成を説明したり、「華岡家がいかにすごい」かということをえんえんと語る。加恵が雲平(市川雷蔵)と会うのはそれから1~2年してからなのだ。しかし、だからといって加恵が不幸だったかといえばそうではない。むしろ一番幸せだった時間がこの次期だったかもしれない。実は雲平の母、於継こそが、加恵の幼き頃からの憧れであり、姑と一緒にいられることが加恵の幸せでもあった。しかし、雲平が還って来て、加恵が息子と床を一緒にするようになってからは於継の精神状態が変化してくる。

そしてぎょぎょおおお!!とするのが猫。麻酔薬をつくるために猫があっちこっちからもらわれてきては、無理やらに試薬を飲まされ、二度と起きないまま土に埋められていく。死んでいる猫の描写は、投薬されてらりってる猫の様子などけっこう痛々しい。さらに投薬され、眠っている猫のはらにメスを突きさせしてみる。ぎゃあっと暴れだす猫。「まだ効いてなかったか・・・」と残念がる雲平。このあたりもちょっと目をおおいたくなる。ホントにやっちゃってるかもしれない・・と思えてしまうシーンなので、けっこう肌寒いものを感じる。どこまでリアルなのかは不明だが、演出ならスゴイ。本当ならかなり嫌悪感を感じる。

良くも悪くも増村保造であった。

by ssm2438 | 2011-09-20 14:56 | 増村保造(1924)
2011年 09月 11日

イングリッシュ・ペイシェント(1996) ☆☆☆☆

f0009381_1014764.jpg原題:THE ENGLISH PATIENT

監督:アンソニー・ミンゲラ
原作:マイケル・オンダーチェ
脚本:アンソニー・ミンゲラ
撮影:ジョン・シール
音楽:ガブリエル・ヤーレ

出演:
レイフ・ファインズ (アルマシー)
クリスティン・スコット・トーマス (キャサリン)
ジュリエット・ビノシュ (ハナ)
ウィレム・デフォー (カラヴァッジョ)

        *        *        *

メロドラマなのに面白い! 語り口の上手い映画だ。

『恋愛ドラマ』と『メロドラマ』の違いは(これはあくまで私の勝手な解釈、いつか変わるともわからないが)、『恋愛ドラマ』<憧れた相手と引っ付くまでの話>、『メロドラマ』は<既に出来上がった二入を環境が引き裂いていく話>・・のように解釈している。しかし、出来上がるまでを夢見る話というのは、それじたい夢があるのでみていて楽しいが、メロドラマとなるとただただ崩壊していく様をみせられるので正直楽しいものが出来上がるとは思えない。そんなメロドラマをサスペンス仕立てに味付けして、興味をひきつけて話さない構成にしているのがこの映画。
サスペンスというのは謎解きという見ているものの興味をひきつけるネタがあるのでやっぱり魅せ易い。ただ、登場人物が記号的になりがちであり、話をこねくるだけになりかねないのがたまに傷。ヒッチコックの映画などはまさにそんんあ感じだ。あんなに登場人物が記号的になってしまうと、どうしても見ていて感情移入が出来ないのであまり面白いとは思えない。
この映画はメロドラマだけではベタになりそうな物語だが、その人が記憶喪失になり、徐々に本来のメロドラマの筋書きを思い出すという展開になっている。見せ方としては飽きのこない見せ方だ。
・・・・しかし、よくよく考えてみると、松本清張的でもある。松本清張の話というの・・まさにメロドラまとサスペンスの融合だ。

1996年のアカデミー賞では、作品賞、助演女優賞(ジュリエット・ビノシュ)、監督賞(アンソニー・ミンゲラ)、 撮影賞(ジョン・シール)他の部門で獲得している。
個人的には撮影賞をジョン・シールがとってくれたことは嬉しい。ジョンシールは、『刑事ジョンブック/目撃者』『レインマン』『今を生きる』などのみずみずしい画面が印象的な撮影監督さん。

<あらすじ>
第二次世界対戦の末期(1944年)のイタリア。北アフリカ戦線で銃撃された顔に顔に火傷をおい、記憶をなくした男が野戦病院に運び込まれる。記憶をうしなった彼を看病するハナ(ジュリエット・ビノシュ)。徐々に彼の記憶が紐解かれていく。
彼の名はアルマシー(レイフ・ファインズ)。ハンガリーの伯爵の家柄に生まれ、英国地理学協会に加わり、アフリカでサハラ砂漠で地図を作っていた。彼らの地図は、北アフリカ戦線をドイツと戦うイギリス軍にとっても貴重なものだった。1938年、協会のスポンサーのジェフリー(コリン・ファース)と彼女の妻キャサリン(クリスティン・スコット=トーマス)に出会う。夫のジェフリーは英国情報部のカイロに戻るが、キャサリンは砂漠のほかのメンバーと残ることにした。アルマシーは彼女に心奪われる。やがて二人は人目を忍び密会を重ねるようになる。2人の関係はやがてジェフリーに知れ、彼は小型機の助手席にキャサリンを乗せ、 『泳ぐ人の洞窟』近くでキャンプの引き上げ作業にあたるアルマシーめがけて突っ込んでいく。
ハナとアルマシーの前にカラヴァッジョ(ウィレム・デフォー)と名乗る男が現れる。彼は北アフリカで英国情報部に出入りしており、ドイツ軍に拘束され、拷問で親指を切断されていた。彼はその拷問にかかわった人物を殺して旅しているのだった。アルマシーもそのひとりだと彼は疑っていた。
記憶が戻ってくる。あの日、アルマシーに向かって飛行機を突進させるジェフリーだが、アルマシーは辛くもかわすことができた。ジェフリー機は地面に激突、ジェフリーは絶命し、キャサリンは重症だった。アルマシーはキャサリンを洞窟に運ぶと「助けを呼びに戻ってくる」とありたけの装備をのこし、砂漠へ出て行った。三日三晩、砂漠を歩き続けようやくたどり着いた町だが、取り次いだイギリス兵たちは、彼の名前から彼をスパイときめつける。暴行したアルマシーは容疑者として手錠を掛けられ護送されるが、彼は行くしかなかった。トイレに立つと言い、付き添われた兵士を殺し、護送列車から脱走。ドイツ兵に見つかった彼は、地図をドイツ軍に売り渡し、飛行機でキャサリンの元へ急いだが、時既に遅く、彼女は息絶えていた・・・。

by ssm2438 | 2011-09-11 10:02
2011年 09月 03日

ウォール街(1987) ☆☆☆☆

f0009381_2374429.jpg原題:WALL STREET

監督:オリヴァー・ストーン
脚本:スタンリー・ワイザー/オリヴァー・ストーン
撮影:ロバート・リチャードソン
音楽:スチュワート・コープランド

出演:
チャーリー・シーン (バド・フォックス)
マイケル・ダグラス (’ゴードン・ゲッコー)
ダリル・ハンナ (ダリアン・ディラー)
マーティン・シーン (カール・フォックス)
テレンス・スタンプ (ラリー・ワイルドマン卿)

        *        *        *

株屋映画のエンタテイメント!

オリヴァー・ストーンのなかでは一番おもしろいんじゃないかとおもったりするのだけど。同じ時期にロンドンの株式市場をテーマにした『ディーラーズ』なる映画もあったが、こっちは全然面白くなかった。これはレベッカ・デモーネイを見るだけ(苦笑)。主人公の役者もしらない。・・・そうしてみると、こちらの物語の語り口がうまくできていたのだろう。ま、比べる対象があんまりよくないだけかもしれないが・・・。

株というのはつくづく『勘違い経済』だなあって思う。映画では過剰な投資がもつ危険性を批判する面があるが、人間がもつイマジネーションが生んだものなのだがら、これも人間の一部だなと思っている。あるかどうかもあやふやな希望をえがくだけでどんどん株価が上がっていく。でも時として現実をみせられ冷や水をあびせせられる。その国の経済に希望があればどんどん株価は上がるが、ないと下がっていく。希望を持つことでお金持ちになるという・・変なシステム。夢を見ることが出来る人間だからこそ構築できたシステムだなあって思う。

<あらすじ>
ウォール街のプレデター、ゴードン・ゲッコー(マイケル・ダグラス)。彼は貧乏人から株式売買によってその財をなした。若き証券セールスマン、バド・フォックス(チャーリー・シーン)にとっては憧れの存在であり、だめもとでアポイントをとっていた。何ヶ月ものアプローチの末なんとかゲッコーと合える時間を持ったが、彼には既に専属のディーラーがいて、バドが提供する情報に興味を示さない。提供するネタのなくなったバドは、先日父から聞いた航空会社ブルースター・エアラインの内部情報提供する。インサイダー情報である。彼の父はその航空会社の労働組合の幹部だったのだ。
それをきっかっけにゲッコーはバドを仕事のパートナーとしてもてはやすようになる。女も与えられた。
ゲッコーはブルースター航空を乗っ取るべく策を弄する。しかし彼のの狙いは、会社を解体し、合併会社に買いとらせようというもので、会社を再建するつもりなど毛頭なかった。バドは自分がゲッコーに利用されていることに気づき、ブルースター航空会社を組合つきでゲッコーのライバル、ワイルドマン(テレンス・スタンプ)に買い取ってもらう交渉をした。ブルースター航空は生き残ることになったが、証券取引委員会はインサイダー取引の罪でバドを逮捕した。仮出所したバドを呼びだしたゲッコーは彼を殴りつけ、怒りにまかせて彼の仕事の偉大さと、それをだめにしたバドの姑息さを非難した。しかし、バドには隠しマイクがとりつけられており、ゲッコーがインサイダー取引で逮捕されるに充分な証拠をとることが出来たのだった・・。

by ssm2438 | 2011-09-03 23:08
2011年 08月 13日

ケス(1969) ☆☆☆☆

f0009381_1156308.jpg監督:ケン・ローチ
脚本:ケン・ローチ
    バリー・ハインズ
    トニー・ガーネット
撮影:クリス・メンゲス
音楽:ジョン・キャメロン

出演:デヴィッド・ブラッドレイ (ビリー)

       *        *        *

この物語の存在感は素晴らしい!

原作はバリー・ハインズ。あの『スレッズ』の脚本の人でしたか。・・・納得。

映画というのは、その製作者達が作った人工物である。しかし、をの人口物を、いかにも、実存するように描けるかどうかというのは、その作り手の技量による。この映画は、その物語がいかにも本当に存在したかのように描いている。この、「物語の存在感の構築」が、飛びぬけてすばらしいのである。

物語は、作り手によって構築された人工的なストーリーというよりも、ドキュメンタリー映像的に展開される。日常のなかでそんなシーンが展開されたらこうなるんだろうな・・という流れを素朴に描いていく。この物語はその積み重ねで構成されているので、エンタメ映画的な派手さはどこにもない。小説の一章節、一章節を丹念に映像化している感じだ。

この映画はぜひ、ドキュメンタリー・テイストを勘違いしているポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスに見せてあげたいものだ。
ポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスは、ボーンシリーズの2作目『ボーン・スプレマシー』、3作目『ボーンアルティメイタム』の監督さんで、世間ではポール・グリーングラスと呼ばれている。<ハンディカメラ>=<手ブレ>=<ドキュメンタリー>だと勘違いしてる大バカ野郎である。他にも、『ユナイテッド93』『ブラディ・サンデー』なども撮っている。
勘違いのポイントは、<現場性>を表現する撮り方と<映画性>を表現する撮り方の違いを理解していないことなのだ。

ニュース映像などでみる、戦場にカメラが入って撮った映像にはドキュエメンタリーである。そこに本物の戦場があり、そこにカメラマんが存在する。まさに真実の映像だ。<ドキュメンタリー>とは、「作り手によって作られていない現実をカメラに記録すること」である。ここではハンディカメラの手ブレも、その困難な撮影現場の雰囲気を伝えることになる。
なのでこのポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスは、「ハンディカメラ+手ブレで撮られた映像はドキュメンタリーっぽく見える」という表面的なちゃらちゃらした印象だけで映画を撮る。しかしここには大きな落とし穴がある。
それは「カメラのもつ現場性」に関する考察なのだ。

たとえば日本に反乱するアダルトビデオや、大学の映画サークルが撮った自主映画などは、映画の画面のようにはみえない。あたかも、映画を撮っている現場のように見える。これは、<映画性>を表現する撮り方で撮っているのではなく、<現場性>を表現する撮り方で撮っているからである。

<現場性>を表現する撮り方というのは、カメラ場その場にいることを提示する撮り方である。たとえば、手ブレ。手ブレが起きるということは、それがカメラマンによって撮影されているという意味を、見ている人に伝えてしまう。戦場に入ったカメラが手ブレを起こすのは、そうとしか撮れないのだから仕方がない。そしてその不便さが<現場性>を伝える。しかし、自主制作の架空のドラマを撮っているときに手ブレが起きると、それは架空のドラマではなく、「架空のドラマを撮っている撮影現場の映像である」という情報が見ている人に伝わってしま作り手が大事にしなければいけない基本コンセプトは、<映画性>を保つこと。つまり、そこに描かれているお話は架空のモノではあるが、撮影現場で撮られていないと感じさせることなのである。

<映画性>を阻害し<現場性>を提示してしまうもう一つの大きな要因は広角レンズである。頭の悪いアニメーターや漫画家は、やたらと広角で描きたがるのだが、実際広角レンズでとられた画面の映画をみると興ざめする。それは構図うんぬんの問題ではなく、「そこにカメラが存在している」ということが見ている人に伝わってしまい、<映画性>を感じさせなくしてしまうからだ。「そこにカメラが存在している画」=「撮影現場の映像」になってしまう。

ポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスは、主人公のボーン(マット・デイモン)が、スパイ活動を行っている時でも、ハンディカメラで撮ってしまうので、見ている人は無意識に「なんでそんなところを撮れるカメラが存在するんだ?」と<現場性>=<これは映画として撮影されている画面である>を感じてしまう。おかげでその撮り方に興ざめしてしまう。
真実の映像を伝える時に<カメラの存在>を提示する、<現場性>を表現する撮り方をするのは妥当だろう。しかし、映画のように、<映画性>を表現しなければならない時に、<カメラの存在>を感じさせる撮り方をされると、見ている人は無意識のうちに興ざめしてしまう。


話は『ケス』に戻るが、この映画はほんとにドキュメンタリー・テイストで撮られている。作り手が作ったのではなく、あたかもホントにその物語があるかのように撮られているのである。しかも、ポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスのように小手先のちゃらちゃらした表現手段で描くのではなく、<映画性>を保ちながら(カメラの存在を意識させないまま)、本物っぽく撮れているのである。
この<本物っぽさ>が素晴らしい。
ちなみにこの映画の監督のケン・ローチは愛称であり、本名はケネス・ローチ(Kenneth Loach)である。

日本では『少年と鷹』というタイトルでテレビ放映されたようだが、データを調べてみるとケスは「falcon」であり、鷹ではなくハヤブサのようだ。

<あらすじ>
ヨークシャーの炭鉱労働者である兄ジャド(フレディ・フレッチャー)と母(リン・ペレー)と3人で暮らしていたビリー(デイヴィッド・ブラッドレー)の生活は苦しく、彼も毎朝新聞配達のアルバイトなどをしていた。そんなビリは森の古い僧院の壁にハヤブサの巣を見つける。彼はそのヒナを巣かな盗み出し「ケス」と名づけた。古本屋で『ファルコニー』(鷹匠術)の本を万引、基礎知識をつけたうえで、ケスを訓練していく。国語教師ファーシング(コリン・ウェランド)はある日、彼にクラスの前で話をさせる。最初はひっこみがちなビリーも、ハヤブサの話になると目を輝かせて話し始めた。同級生達もその話を聞き入っていく。

物語は思わぬところから悲劇を迎える。ある朝、兄に馬券を買うよう頼まれたビリーだが、売り場の人に「これは外れるから買わなくていい」と言われ、預かった金を別のことに使ってしまう。ところがこの馬券が大穴で当たってしまった。兄はビリービリーを探して学校にまで押しかけてくるが、ビリーは逃げ回る。憤慨して帰っていく兄。ふと悪い予感がして、ケスの小屋に走るビリー。しかし、ケスはジャドに殺されゴミ缶に捨てられていた。

この感じは痛いほど良くわかる。
起きるのです、こういうことは・・・。

by ssm2438 | 2011-08-13 11:57