西澤 晋 の 映画日記

ssm2438.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

タグ:☆☆☆☆ ( 198 ) タグの人気記事


2011年 08月 03日

グラディエーター(2000) ☆☆☆☆

f0009381_18333184.jpg監督:リドリー・スコット
脚本:デヴィッド・フランゾーニ
    ジョン・ローガン
    ウィリアム・ニコルソン
撮影:ジョン・マシソン
音楽:ハンス・ジマー

出演:
ラッセル・クロウ (マキシマス)
ホアキン・フェニックス (コモデゥス)
コニー・ニールセン (ルッシラ)
リチャード・ハリス (マルクス・アウレリウス)

        *        *        *

映像派リドリー・スコットの王道映画。

それまで映像派というイメージがあったリドリー・スコットだが、本作では怒涛の王道ストーリーをやってのけた。そしてアカデミー賞5部門受賞。しかし王道ストーリーというのは特にコメントすることもないのがたまにきず。
とりあえず一度はアカデミー賞とってほしい監督さんだったので取れたことは素晴らしい。・・が、むちゃくちゃ良いかといわれるとそうでもない。やはりインパクトは『エイリアン』、『ブレードランナー』のほうが強かっただろう。この2本はリドリー・スコットにしか撮れない映画だったが、今回の『グラディエーター』はそういうカラーはちょっと押さえてた感じがしたかな。というよりも、最近はあまり露骨にリドリー色をださなくなっているようなきがしないでもない。そういう意味ではちょっとさびしい。

主演のラッセル・クロウ『LAコンンフィデンシャル』でみせたタフガイぶりは、本作にも十二分に発揮されている。2000年前後の数年はばラッセル・クロウの時代だったといっていいだろう。
敵役の、どうも顔がすきになれないホアキン・フェニックスリバー・フェニックスの弟。今リバー・フェニックスが生きてたら、かれよりもうちょっとおじさんだったのかなって思ったりする。意外と『ボーン・シリーズ』のマット・デイモンみたいなかんじかもしれないなあ。

<あらすじ>
帝政期ローマ。マルクス・アウレリウス皇帝(リチャード・ハリス)は、兵士たちから絶大な信頼を得ているマキシマスを時期皇帝に推挙するが、マキシマスはこの申し出を辞退し、戦いの恩賞として故郷への一時帰還の許しを申し出るのみであった。しかし自分が父の後継者に指名されるとばかり思い込んでいたアウレリウスの息子コンモドゥス(ホアキン・フェニックス)は、怒りに任せて父を抱擁したまま胸の中で窒息死させ、自ら次期皇帝の座に着く。姉の皇女ルッシラ(コニー・ニールセン)は彼女の息子の保身のため弟への忠誠を誓う。
コンモドゥスはマキシマスにも自分への忠誠を求めるが、マキシマスは皇帝の死に疑問を感じこれを拒否する。コンモドゥスはマキシマスを反逆罪で処刑するように命令をくだす。
処刑の寸前でマキシマスは兵士を倒して逃げ延びたが、故郷に辿り着いた時には、焼き打ちされれた家の前に吊るされた妻と子の変わり果てた姿をみる。絶望と疲労で倒れるマキシマス。
気づけば奴隷商人に捕らわれの身になるマキシマスだが、持ち前の技量で一躍剣闘士として頭角を現しはじめる。いっぽう、皇帝となったコモドゥスは元老院の反対を無視し、首都ローマの巨大コロシアムで剣闘試合を開催。奴隷剣闘士としてローマへ帰還したマキシマスは、闘技場で死闘を繰り返しながら、民衆の心をつかんで行き、最後はコロシアムでマキシマスと直接対決。かくしてマキシマスはコモドゥスを倒し、自らも果てるのであった。

by ssm2438 | 2011-08-03 11:20 | リドリー・スコット(1937)
2011年 07月 24日

ミシシッピー・バーニング(1988) ☆☆☆☆

f0009381_729370.jpg監督:アラン・パーカー
脚本:クリス・ジェロルモ
撮影:ピーター・ビジウ
音楽:トレヴァー・ジョーンズ

出演:
ジーン・ハックマン (ルパート・アンダーソン)
ウィレム・デフォー (アラン・ウォード)

        *        *        *

重苦しいテーマだが、サスペンス仕立てで観易い。

物語は実際に起きた話を基にしており、黒人差別のある環境での殺人事件の捜査の話。KKK(クー・クラックス・クラン)を正面きって取り上げている。
クー・クラックス・クランは白人至上主義の秘密結社。プロテスタントのアングロサクソン、ゲルマンなど白人のみがアダムの子孫であり、唯一魂を持ち一切の罪を犯していない神(イェホバ)による選ばれし民として他の人種から優先され隔離されるべきである、と主張する(ウィキペディアより抜粋)。
ただ、映画ではもちろんクー・クラックス・クランの犯罪を暴くのではなく、クー・クラックス・クランの振りをした犯人が、被害者を殺すとう方向性。まあ、さしあたりないようにするよくある手段のひとつ。

監督のアラン・パーカーは、古くは『小さな恋のメロディ』の脚本、最近では・・・・なんかあったっけ? 最近あんまり聞かないかも。ちょっとまえなら『ミッドナイト・エクスプレス』あたりが有名のその他には『フェーム』『エンゼル・ハート』などがある。

個人的には撮影監督がピーター・ビジウってのが気になる。エイドリアン・ライン『ナインハーフ』『運命の女』などはこの撮影監督さんのカメラ。まあ、エイドリアン・ラインの場合は誰が撮ってもかっこいい画面になるように出来ているが、エイドリアン・ラインの映画にからんでる撮影監督のなかではかな時地味なほうだと思っている。なので、エイドリアン・ラインとピーター・ビジウが仕事をすると、必要以上にあざとくない、けっこういい感じの画面になるという印象があるのだが・・・。
本作の監督はアラン・パーカー。このコンビはどうだろうか??って思ったが、個人的にはそれほど絶賛するほどではなかった。とにかくやたらと夜の青がおおくて、画面的な印象としてあまりバリエーションがなかったかなという印象だった。・・しかし、そういうと聞こえが悪いが、人工照明をやたらと使わず、暗いシーンでも最低限度の補助ライトだけで、可能な限り存在する光で撮影してる感じ。アカデミー撮影賞を取っている。

<あらすじ>
1964年、ミシシッピー州ジュサップの町で起きた3人の公民権運動家の失踪事件を調査するために、2人の腕きき捜査官が現地に派遣された。ひとりは元郡保安官でたたきあげのルパート・アンダーソン(ジーン・ハックマン)、もう一人はハーバード大出のエリート、アラン・ウォード(ウィレム・デフォー)。
黒人差別がまだ根強い南部だけに、人々は捜査に非協力的だった。そして少しでも彼らに協力的な態度を見せた人々は、何者かに家を焼かれたり、リンチにあい、再び口を重く閉ざすのだった。
理詰めで捜査するウォードに対して、アンダーソンは融通性と人間味で捜査を進めていく。やがて保安官スタッキー(ゲイラード・サーテイン)とその助手ペル(ブラッド・ダリフ)の仲間たちが事件に関わっているという確信をもったアンダーソンは、ペルの妻(フランセス・マクドーマンド)を訪ねる。夫とこの町に嫌悪している彼女から3人の遺体が埋められた場所などを聞き出すが、彼女はペルにめった打ちにされ重傷を負う。
怒りに逆上するアンダーソンをなだめるウォードだが、アンダーソンに同意し、プロの脅し屋を雇い、陰で糸を引く町長を痛めつけて口を割らせる。そして次々と町長の口から事件に関与した人物たちの名前とその動機が語られた。

by ssm2438 | 2011-07-24 07:29
2011年 07月 21日

マリリンとアインシュタイン(1985) ☆☆☆☆

f0009381_482636.jpg監督:ニコラス・ローグ
脚本:テリー・ジョンソン
撮影:ピーター・ハナン
音楽:スタンリー・マイヤーズ

出演:
テレサ・ラッセル (女優)
マイケル・エミル (プロフェッサー)
ゲイリー・ビジー (ボールプレーヤー)
トニー・カーティス (上院議員)
ウィル・サンプソン (エレベーター・アテンダント)

        *        *        *

原題は「インシグニフィカンス」(=無意味なこと)。エンディングテロップでは、特定の名前が特定されているわけではないが、女優、プロフェッサー、ボールプレーヤー、上院議員はそれぞれ、マリリン・モンローアインシュタインジョー・ディマジオジョセフ・マッカーシー上院議員を意味している。

物語はかっことしたストーリーがあるわけではなく、これらの登場人物をつかった会話劇である。それぞれの登場人物が劣等感と後悔、悔しさをもち、表の顔と裏の心を表現しながら会話劇はすすんでいく。
アインシュタインを前に、特殊相対理論を説くマリリン・モンローのシーンはとても印象深い。これは数ある映画のなかの名シーンの一つに上げてもいいくらいだ。

アインシュタインは、ナチス・ドイツが先に核兵器を保有する事を恐れるあまり、ルーズベルト大統領に書簡を送ったことがアメリカ政府の核開発への動きをうながす最初のものになったことを後悔している(※)。そして彼の懐中時計は広島に原爆がおとされた8時15分でとまったままであった。そして朝の8時15分になると、きまって原爆が落とされたその現象を夢見てしまう。

マリリン・モンローは、自分を表面的アイテムとしか扱わない社会に絶望している。いつも見られる対象だが、ほんとの自分を誰も求めてはくれない、その孤独感にさいなまれている。まだ髪がブロンズではなかった時代の彼女も登場する。彼女自身もみてくれは美しいが、体の内面はぼろぼろであり、妊娠してもすぐ流産してしまう。それでも子供はほしいと思っているが・・・、今回も流れた。

ジョー・ディマジオは、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグが引退したあとのヤンキースをささえた永久欠番プレイヤー。1954年2月1日にマリリン・モンローと結婚。自分はかつて人気ものの野球選手だったことを懐かしそうに誇るが、あたまの悪さに劣等感を覚えている。愛するマリリンをいくら求めても、そんな自分を決して人間的にみとめようとはしない彼女。やりきれない切なさを単純な人間でるように振舞うことでなんとか持ちこたえている。現実の世界でもマリリン・モンローとの結婚は9ヶ月しか続かなかった。

マッカーシー上院議員は、1948年頃より1950年代前半にかけて行われた赤狩りでアメリカにおける共産党員、および共産党シンパと見られる人々の排除を推し進めた中心的人物。昔は「いい子ね」っていわれていたのに、今では誰もが忌み嫌うファシスト政治家になってしまったことが許せない。なぜ自分は正しいことをしているの、世間はこんなに自分を嫌うんだ・・と。あんなに愛されていたはずに子供のころの自分はどこにいったのだ・・と。

※ アインシュタインがルーズベルトに送った原爆開発への進言だが、どうもほんとはアインシュタインのものではないらしい。真実は、亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラードらが、1939年、同じ亡命ユダヤ人のアインシュタインの署名を借りてその考えを提案したとのころだ(ウィキペディアより)。

<あらすじ>
f0009381_3513990.jpg1954年3月のニューヨーク。今まさに国民的な人気女優マリリン・モンロー(テレサ・ラッセル)の白いワンピースのスカートが地下鉄の風でまくれるシーンのロケ中であった。やじ馬の中には彼女の夫でジョー・ディマジオ(ゲイリー・ビジー)の顔もあった。
そんな撮影風景をホテルの部屋から見下ろすアインシュタイン(マイケル・エミル)。彼は、翌日の世界平和会議に出席することになっているが、部屋では宇宙の大統一理論の研究に没頭していた。そんなアインシュタインをマッカーシー上院議員(トニー・カーティス)が訪れる。彼は翌日平和会議への出席をとりやめ、反共産主義の公聴会への出席を要請しにきたのだ。そんなマッカーシーをなんとか追い払ったアインシュタインは眠りにつくが、午前3時、ノックの音がする。でてみるとマリリン・モンローだった。世間ではみてくれだけだと思われている彼女は、もっと認められるべき人間なのだ・・ということを示すために、特殊相対性理論の知識勉強し、それをアインシュタインに聞いてもらい、わかっているかどうかをを確かめるためにやってきたのだ。

モンローを追うように夫のジョー・ディマジオが登場。トイレで貧血になり倒れたモンローにディマジオ夫妻にアインシュタインは部屋を譲り、しばし他の部屋にうつる。意識が戻ったモンローはどうやら妊娠しているらしく、今回は産めるかもしれないと希望をもっていることを話す。朝になってディマジオが部屋から出ている時にマッカーシーがやってくる。彼は、アインシュタインが公聴会に出ないのなら、アインシュタインが今研究しているその書類を全部押収するという。しかし、ベットに寝ていたのはモンローだった。彼女は色仕掛けでなんとかアインシュタインの研究書類を守ろうとするが、そんな色仕掛けにはのらないとばかりに隣にすりよってきたモンローの腹をなぐり、彼女は妊娠していた子供を流産してしまう。自分の生涯の研究が、原爆開発に利用されたことに責任を感じていたアインシュタインは、ホテルの窓から研究書類の一切を投げ捨てる。

部屋にもどってきたディマジオは、「テレビもみない。本も読む、野球の話ももうしない・・だからやり直そう」と伝えるのだが、おなかの子を流してしまったモンローには既に求める希望は無く、離婚してほしいと涙ながらに頼むのだった。すべての希望を失ってさっていくディマジオ。
そして朝の8時15分、ふたたびアインシュタインは原爆に焼かれるイメージをみる。気丈に明るく部屋からでていこうとするモンローの白いドレスを原爆の炎が焼き尽くす・・。

by ssm2438 | 2011-07-21 03:52
2011年 07月 10日

櫻の園(1990) ☆☆☆☆

f0009381_15321158.jpg監督:中原俊
原作:吉田秋生
脚本:じんのひろあき
撮影:藤沢順一/竹内正樹

出演:
中島ひろ子 (演劇部部長・志水由布子)
宮澤美保 (2年生舞台監督・城丸香織)
白島靖代 (ヒロイン・倉田知世子)
つみきみほ (杉山紀子)
梶原阿貴 (久保田麻紀)

       *        *        *

女は1人だと不安になり、2人だと素直になり、
3人よると微妙になり、4人以上集まるとバカになる。


その描き分けが絶妙である。集団のなかでは、どうでもいい会話、本音を話さないための会話を連打しながら孤立感をさける女の会話がほとんどを占める中、ポイントポイントで、2人になったときに交わされる本音の会話がとても素晴らしい。

ドラマは女子高の演劇部のなかでの、「好き」な感情をみずみずしく描いているのだが、これ恋愛ドラマ/同性愛ドラマだと言うと間違いだろう。性的交渉があるわけではないのだが、それでも「好き」な人はいる。男子校なら在りえないことなのだが、女子高特有の宝塚に憧れる女子生徒間の恋愛、男に対して恋愛することに臆病な時代に、世間で言う恋愛というものを同性間でやってみる予行演習的恋愛、それを描いたドラマといっていいだろう。しかし、これがなかなかよいのである。

毎春、創立記念日にチェーホフの舞台劇『櫻の園』を上演することが伝統となってい私立櫻華学園高校演劇部の、その舞台開演までの2時間を描いた映画。物語は2年生で来年は部長候補の舞台監督・城丸香織(宮澤美保)が、演劇部の部室で彼氏と居ちゃいちゃしてるところから始まる。カメラがいきなりフカンからはいり、役者の顔もみえないまま延々長回しさせるのでなんじゃこりゃって印象わるかったのだが、カメラが水平ラインに降りてからは普通にみられた。
この城丸さんは男とすでに恋愛をし、キスなどしているので、通常恋愛に既に移行している人であり、このドラマの中ではニュートラルな位置のキャラクターとして描かれている。
このドラマの真の主役は中島ひろ子演じる3年生の部長の志水由布子。今回の『櫻の園』では小間使いの役をやることになっている。部活動の中心的人物だが、その日の朝は突然なにを思ったか、パーマをかけてきて他の部員達を驚かせる。

男目線であれば、パーマをかける=老けて見える、不細工に見える、キャバ嬢にみえるというネガティブな印象以外ないのだが、女性はそれを「大人びた行為」と理解するらしい。

そんなさりげない、しかし、校則違反を突然やってきた部長さんの小さな非日常から物語がころがりはじめる。そして主役を演じるはずの倉田さん(白鳥靖代)は時間なのにまだ姿を現さない。そして、さらに深刻さをます。部員の一人3年の杉山紀子(つみきみほ)が、昨晩補導されたことから、職員会議が開かれ、伝統の『櫻の園』んじょ上演も出来なくなるかもしれないという事態に発展していく。なんでも杉山は土曜の夜、別の学校の女友達と喫茶店でタバコを吸っていた所みつかり補導されたというのだ。

このつみきみほが登場してから物語りは俄然面白くなる。
中島ひろこがつみきみほに、どうしてそうなったのか?という状況を問いただす。この2人の時間がなかなか素敵なのである。
話をきいてみると、つみきみほが昔から仲の良かった女友達と喫茶店で話してると、彼女等がタバコを吸はじめ、そこを取り押さえられたため、彼女も一緒こたになって、「タバコをすってた」というくくりにされてしまったという。やがてその状況説明がおわったあと、なぜ、中島ひろ子がパーマをかけてきたのか?という謎解きがされていく。

「倉田さんにみてもらいたかったんでしょ?」

志水は部員で長身で花形部員の白鳥靖代が好きだったのだ。一瞬どきまぎする中島ひろ子だが、つみきみほの自然で誠実な態度に「そいう、倉田さんが好き」と告白してしまう。のちのち判明するのだが、つみきみほは実はこの中島ひろ子のことが好きでありいつも彼女をみていたので、彼女がいつも倉田さんのことをみつめていたことをしっていたのだ。

やがて『櫻の園』の上演は決定される。
おくれてきた白鳥靖代も舞台のまえのストレッチに余念がないが、実は彼女は、今回ヒロイン役をやるということになりナーバスになっている。出来るならこの舞台が中止になればいいとさえ思っていた。彼女はそれまでその長身のおかげで、ほとんど男性役ばかりやっていて、今回のように女性を演じることがなかったのだ。そんな自分が女を演じることへの屈辱感にもにた拒否反応が彼女の心のなかにあったのだろう。

そんな彼女のために中島ひろ子が用意した胸のかざり。これを白鳥靖代のドレスに縫い付けて、その糸を噛み切るときの中島ひろ子のしぐさがとても色っぽい。この映画のなかでは、こういったさりげないシーンの、色っぽさをクローズアップのスローで切り取った画面が非常に素敵なのだ。

中島ひろ子にこころをほぐされた白鳥靖代が、ふたりで記念写真を撮るシーンがある。
そして「私、倉田さんのことが好き」と告白してしまう中島ひろ子。「うん」としか応えない白鳥靖代だが、もう少し寄って撮ろうという中島ひろ子と一緒に、徐々によりながら一枚一枚、2人が一緒にうつった写真をとっていく。けっこううるうるきてしまう。さらにそのシーンをつみきみほがさりげなく見ているが、そっとみまもっているだけ。やがて2人を呼びに城丸さんがくるのだが、つみきみほがそこは制して、「舞台の時間だよ」と見えない位置から声だけかけるくだりが素敵。

そして忘れてならないのが、梶原阿貴演じる久保田麻紀の存在。感情にながされないクールな参謀、Mr.スポックみたいな役どころなのだ。他のキャラクターが理性と感情のハザマで揺れながら生きているのに対してこのキャラだけ冷静の人。常に正論を言う人。<その人自身>としてとしては存在してないので、誰からも非難されない人。一番卑怯な立ち居地なのだが、ドラマにはこういうキャラも必要だ。彼女の存在がいるからこそ、中島ひろ子、つみきみほ、白鳥靖代のドラマが際立ってきている。

実にみずみずしい映画であった。

by ssm2438 | 2011-07-10 15:32
2011年 07月 07日

ジュリエットからの手紙(2010) ☆☆☆☆

f0009381_20194372.jpg監督:ゲイリー・ウィニック
脚本:ホセ・リベーラ/ティム・サリヴァン
撮影:マルコ・ポンテコルヴォ
音楽:アンドレア・グエラ

出演:
アマンダ・サイフリッド (ソフィ)
ヴァネッサ・レッドグレーヴ (クレア)
ガエル・ガルシア・ベルナル (ソフィの恋人・ヴィクター)
クリストファー・イーガン (クレアの甥・チャーリー)
フランコ・ネロ (ロレンツォ)

       *        *        *

原題は『ジュルエットへの手紙』(LETTERS TO JULIET)なんだけど・・・。

でも、この日本語タイトルのほうがセンスを感じる。『LETTERS TO JULIET』というタイトルはの由来は、 『ロミオとジュリエット』の舞台としてして知られるイタリア、ヴェローナの街を訪れた世界中の恋に悩める女達が、そのバルコニーの下の壁に思いを寄せて書いた手紙を貼り付けて帰っていくのである。その手紙が「ジュリエットへの手紙」。この映画のタイトルの『ジュリエットからの手紙』は、ちとややこしい。
本編中、その世界中から寄せられるジュリエットへの手紙に返事を書く女性ボランティア=自称く《ジュルエットの秘書》の仕事に魅了されたジャーナリスト志望の主人公が、その手紙の主クレア(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)に送った手紙が『ジュリエットからの手紙』。この流れでは主人公が書いた手紙のことになる。このほうが素晴らしい!

この物語の主人公を演じるのは、このところ飛ぶ取り落とす勢いのアマンダ・サイフリッド。世間ではセイフライドと表記されることが多いが、発音表記をみてみるとサイフリドである。ウィキペディアからリンクした正しい発音サイトにいってみると確かに「サイフリッド」と発音しているように聞こえる。
まず、この映画の魅力はなんといってもそのアマンダ・サイフリッド嬢の美貌だろう。先の『クロエ』で娼婦を演じ、『赤ずきん』ではグリム童話の伝説のヒロインを演じ、そしてこの映画では一番マトモな爽やかなヒロインを演じてる。特に彼女のファンというわけではないだが、やはり魅力的な女優さんである。

物語の流れでは、彼女は既に婚約していて、その婚前旅行でイタリアのヴェローナに行くという設定。その婚約している相手というのがガエル・ガルシア・ベルナル演じる「パスタ命!」のシェフ、ヴィクター。はっきり言ってこの物語のなかで一番自分に近いキャラは誰かなって思ったらこのヴィクターだ。アマンダのようなベッピンサンの恋人がいても、彼のなかではパスタが好き、料理が好き、根っからの職人なのである。女のおこって「仕事と私とどっちを取るの?」ってきくと、なんの迷いもなく「そんなの仕事にきまってるじゃん!おまえはパスタよりも愛されていると思ってるの?」というであろう男である。女にとってはけしからん相手かもしれないが、私にしてみれば、この男がアマンダ嬢にフラれるのは悲しい・・・。

ま、それはさておき、そんなしがらみがありながら訪れるヴェローナ。その値でジュリエットの秘書達の仕事をかいまみたソフィはトランズレイターと間違われて仲間に引き入れられる。彼氏がワイン選びや新しいレシピの創造で躍起になってるなか、ソフィはジュリエットの秘書たちの仕事に魅了されていく。そして、その壁の中から偶然みつけた50年まえのふるい手紙。ヴェローナを訪れ、その土地の男に恋をしたが、その恋をあきらめてイギリスに帰った女性からの手紙だった。ソフィー(アマンダ・サイフリッド)はその手がに返事を書く。

その手紙の主はヴァネッサ・レッドグレープ。知る人ぞしる『ジュリア』の彼女である。そしてミケランジェロ・アントニオーニ『欲望』でオッパイを披露したあのヴァネッサ・レッドグレープである。おおおおおお。見ている間は気づかなかった。この人は、昔は荘でもないけど、歳取ってからはとっても素敵である。

<あらすじ>
ジャーナリスト志望のソフィ(アマンダ・サイフリッド)は、婚前旅行で婚約者のヴィクター(ガエル・ガルシア・ベルナル)とともに『ロミオとジュリエット』の舞台であるヴェローナを訪れる。新装開店するレストランにおくワインさがしに夢中の恋人をおいておいて、ソフィは、ジュリエットへの手紙に返事を出すジュリエットの秘書達の仕事に魅了されていく。そしてソフィが返事をかいた手紙に勇気をもらったクレア(ヴァネッサ・レッドグレープ)という女性が甥のチャーリー(クリストファー・イーガン)をつれてヴェローナに訪れる。奇蹟的な出会いにときめくソフィ。そしてソフィの言葉に背中をおされて50年前の思い人を探すことにしたクレア。悲劇的な結末を想像するあまりあまり乗り気でないチャーリーのとげとげしい態度を気にしながらもクレアとソフィ、そしてチャーリーの旅はつづく。

この映画の素晴らしいところは、とにかく期待の持たせ方が非常おおおおおおおおおおおぬに上手い! 来るぞ来るぞ来るぞ来るぞと期待させといて、もちろんそうじゃろう!そうこなくっちゃ!!って結果をを与えてくれる。期待通りに展開してくれて、きもちがいい。この奇をてらわない演出に好感度アップ! 
期待をさせるということは、はっきりいって演出の仕事の総てだといっていいだろう。これが上手い。クレアの探す「ロレンツォという男、。この人かもしれない、この人かもしれない・・とおもわせつつはずしていく。でこのはずし方も素敵なのだ。ここでこの人だったらダメでしょうって思いながらみてるのだけど、ほらやっぱりちがったって結果をだしてくれる。しかし、その結果の出し方がとっても素敵。残念というよりも、次のロレンツォを見つける楽しさを引き出してくれる。さらにソフィのこころも、だんだんとチャーリーに傾いていく。はたしてロレンツォは見つかるのか? チャーリーの思いはどうなるのか? そしてソフィの想いは・・・。ついつい見入ってしまう。さのおかげでこの映画最初から最後までわくわくしながら見られるのである。

ちなみに、この物語のモチベーションとなるクレアが捜し求めるロレンツォはなんと、フランコ・ジャンゴ・ネロである。ちょっとデブだったのでわかりづらかったが「あれ、これもしかして・・」って思ったらやっぱりそうだった。

なにはともかく2011年ナンバーワンの可能性がある映画である。見るべし!
ちなみにこの映画はこの監督ゲイリー・ウィニックの遺作となってしまった。
脳腫瘍だったそうな・・・。

by ssm2438 | 2011-07-07 20:20
2011年 07月 01日

八甲田山(1977) ☆☆☆☆

f0009381_21463099.jpg監督:森谷司郎
原作:新田次郎「八甲田山死の彷徨」
脚本:橋本忍
撮影:木村大作
音楽:芥川也寸志

出演:
高倉健 (徳島大尉)
北大路欣也 (神田大尉)
三國連太郎 (山田少佐)

      *       *       *

やはり健さんには雪が似合う。

原作は『劔岳 点の記』新田次郎。ちなみに『鉄道員(ぽっぽや』浅田次郎。よく間違える(苦笑)。

この物語、意外ととっつきにく。「天は我々を見放したああああ」という台詞だけは有名だが、なぜ、彼らがあの雪山にいなければならなかったのか・・というその目的が希薄なため、凡人感情としてなかなか物語として実に捕らえづらいのだ。
そもそも彼らは八甲田山を越えて雪の中を歩いていたのは、雪の中を歩くためであり、どこかにたどり着くためではない。日露戦争を目前にして陸軍は中国大陸で起こりうる寒冷地での戦闘に慣れておくために、耐寒訓練として八甲田のふもとをを舞台にして雪中行軍を行った。しかし雪山の知識が乏しく、訓練に参加した兵士たち210名のうち199名が死亡した。この物語は、この事件を基にして作られたフィクションであり、戦うためではなく、訓練のために死亡した兵士たちの物語である。

なお映画では、弘前歩兵第31連隊青森歩兵第5連隊との競争意識のなかで雪中行軍がおこなわれているが、実際はそうした競争意識のなかで行われたものではないらしい。また映画に登場する人物も、それに相当する人物は存在するが、その名前の人物は存在しない。あくまで実話をもとにしたフィクションとして作られている。

雪山での撮影は困難をきわめ、それは画面からも伝わってくる。確かにつらそうな撮影だ。撮影監督は『劔岳 点の記』の監督/撮影をつとめた木村大作。この人のとる怒涛の望遠画面はいつもながら素晴らしい。木村大作は、宮川一夫斉藤孝雄の撮影助手として付いていたが、もっとも影響をうけたのは黒澤明だと述べている。黒澤作品においては撮影助手としての参加となっているが、一本立ちしてからは本作の監督、森谷司郎作品が多い。そのご東宝を退社してからは降旗康男深作欣二といった監督との付き合いが多いようだ。
私がもっとも影響を受けた映画人はこの木村大作だろう。私にとっては世界一のシネマトグラファーである。

<あらすじ>
日露戦争開戦を目前にした明治34年末。軍部は、ロシア軍と戦うためには、雪と寒さに慣れておく必要があると判断、耐寒訓練として冬の八甲田山を軍行する計画をたてた。神田大尉(北大路欣也)の青森第5連隊と徳島大尉(高倉健)の弘前第31連隊がこれに参加することに決まった。双方は青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという進行が大筋で決った。翌年1月20日、徳島率いる弘前第31連隊は、雪になれている27名の編成部隊で弘前を出発した。一方の神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐(三國連太郎)に拒否され210名という大部隊で青森を出発した。

神田の青森第5連隊の実権は大隊長山田少佐に移っており、神田の用意した案内人を山田がことわってしまう。神田の部隊は、低気圧に襲われ、磁石が用をなさなくなり、白い闇の中に方向を失い、次第に隊列は乱れ、狂死するものさえではじめた。一方徳島の部隊は、女案内人を先頭に風のリズムに合わせ、八甲田山に向って快調に進んでいた。体力があるうちに八甲田山へと先をいそいだ神田隊。耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。狂暴な自然を征服しようとする210名、自然と折り合いをつけながら進む27名。
出発してから1週間がたち、徳島隊はついに八甲田に入った。天と地が咆え狂う凄まじさの中で、神田大尉の従卒の遺体を発見。神田の青森第5連隊の遭難は疑う余地はなかった。そして徳島は、吹雪きの中で永遠の眠りにつく神田と再会。青森第5連隊の生存者は山田少佐以下12名。徳島の弘前第31連隊は全員生還。のちに山田少佐は拳銃自殺。そしてこの訓練に参加した全員が日露戦争戦死することになる。

by ssm2438 | 2011-07-01 20:39 | 木村大作(1939)
2011年 06月 23日

処女の泉(1960) ☆☆☆☆

f0009381_15451262.jpg監督:イングマール・ベルイマン
脚本:ウルラ・イザクソン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:エリック・ノードグレーン

出演:
マックス・フォン・シドー (カリンの父・テーレ)
ビルギッタ・ペテルスン (殺される娘・カリン)
グンネル・リンドブロム (養女・インゲリ)

       *        *        *

いやあああ、ベルイマンの芝居付けに感動!

1961年のキネマ旬報1位がこの作品。お話はたいしたことないのだが、芝居付けがばらしい。

イングマル・ベルイマンが、黒澤明『羅生門』からインスピレーションを得た映画とう言葉で言われるが、この二人はさりげなくお互いを映画を意識しあっていた感がある。このほかにも黒澤明の『赤ひげ』(1965)のすい臓がん患者の死ぬ前のぱくぱくは、ベルイマンの『沈黙』(1962)のイングリット・チューリンの病床でのもだえシーンを移植したような感じもした。この二人の作品には、「あの映画のあのシーンだが、オレならこのように撮る」という暗黙の駆け引きを感じるのである。しかし、この二人、決定的な違いがある。それは感情移入へのアプローチなのだ。
黒澤明の映画をみても感情移入はほとんど起きない。黒澤の映画というのは、「強さ」とか「弱さ」とかを象徴する芝居を演じさせているが、あくまで記号であって、「そう描かれれば強いことになる」「そう描かれれば弱いことになる」という一般的な理性による解釈なのだ。その記号がダイナミックなのが黒澤映画なのだが、所詮は記号なのでどっか感情移入できない。
ベルイマンの演出というのもダイナミックな芝居付けをする時があり、特にこの『処女の泉』は芝居付けのダイナミズムという点においてはベルイマンのなかでも一番だろう。しかし黒澤明と根本的に違うところは、人間性を描いているところだろう。ベルイマンの演出な感情移入の宝庫なのだ。
この映画の芝居をみると、理性は、“そうすべきではない”と主張するが、感情が“そうしたい!”と叫んでいる、あるいはその反対もあり、内面を表現していることに気付く。その感情のブレているのである。理性と感情の間で、本人がどちらを選ぶかという戦いがそれぞれの登場人物の内部で猛烈にせめぎあっているのだ。

f0009381_15453134.jpgカリン(ビルギッタ・ペテルソン)は、純粋培養されたような無垢で可憐な少女である。彼女が教会へロウソクを届けるために森を通り抜けようとして3人の三人の羊飼いに会った。見た目はいかにも気持ち悪そうな3人だが、おそらくカリン「人を容姿で判断してはいけません」と教えらているのだろう。そんな3人に森の中で食事を施するカリンはまるで天使である。ただ、彼女の心がほんとうにそれを奉仕する喜びとして行っていたとえばそんなことはないだろう。心は「逃げたい」叫んでいたにちがいない。結果として彼女は犯され、頭を殴打されて死んでしまう。

その一部始終をみていた養女インゲリ(グンネル・リンドブロム)。石を握り木陰から飛び出そうするが体は動かない。彼女は、物語の冒頭のほうで、カリンの不幸をオーディーンの神に祈ったくだりがある。だからといって、現実におきていることを望んだわけではなく、おそらく、祈ったそのことが現実に起きてしまい、恐ろしくなって何も出来なかったと解釈するほうが自然だろう。そして後に「あの兄弟は悪くはない。カリンの不幸を神に祈った私が悪い」とカリンの父テーレ(マックス・フォン・シドー)に告白する。

何の因果か、カリンを犯して殺したその3人の羊飼いは、夜露を凌ぐ場所をもとめてカリンの家に泊めてもらうことになる。寝る場所と食事を与えられた3人は、カリンの母メレータ(ビルギッタ・ヴァルベルイ)にお礼として絹の衣をゆずることにする。しかしそれこそはカリンの着ていた服であり、それには血もついていた。さらにインゲリの告白から彼ら3人がカリンを殺したことを知った父テーレは、3人を惨殺する。
ここでもテーレの心は「こいつらでも殺すべきではない」と叫んでいるが、「娘を犯され殺された父が、こいつらを許すべきではない」という理性の主張を受け入れ、彼らを惨殺する。

※世間では彼の惨殺行為を「怒りに任せて」と表現する人も多いが、それは違う。この殺しの場面では、娘をころされた父親の面子(つまり理性)の誘導によって3人を殺したと感じ取るほうが正しいだろう。

理性と感情の間での揺らぎというのは、誰しも経験したことがるものなので、これを芝居の中に挿入されていれば、いやおう無しに感情移入できてしまうのだ。しかし、黒澤映画のように<ブレない記号>になってしまうと、そこに人間性を感じることはなく、作り話のなかのアイテムとしてしか理解されなくなってしまう。

お話のまとめてとして、殺されたカリンの遺体のあった場所からあふれ出る泉。そしてその水を手ですくって顔を洗うグンネル・リンドブロムがとたんに美しく見え始める。本来グンネル・リンドブロムは美しい人の部類にはいるはずなのだが、本編中の彼女はめっぽう薄汚い。それもこのシーンのためにそうしてあったのだとあとから感心してしまった。やっぱりグンネル・リンドブロムは綺麗でないといかん。ベルイマン映画のヒロインのなかでは、彼女が一番すきである。

by ssm2438 | 2011-06-23 15:49 | I ・ベルイマン(1918)
2011年 06月 16日

JFK(1991) ☆☆☆☆

f0009381_123817.jpg監督:オリヴァー・ストーン
脚本:オリヴァー・ストーン/ザカリー・スクラー
原案:ジム・キャンベル
撮影:ロバート・リチャードソン
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:ケヴィン・コスナー (ジム・キャンベル検事)

       *        *        *

こいつが犯人だ!と言い切るオリヴァー・ストーンの潔さが素敵。

ケネディ大統領が暗殺されたのは私が生まれた翌年、1963年のことだ。リー・ハーヴィー・オズワルドという男が犯人として逮捕されたが、事件の2日後、移送途中にダラス市警本部の地下通路でジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)に射殺された。ケネディ大統領が頭部を打たれたときの映像をみると、前方から狙撃されたように見えるが、オズワルドがいた場所は、大統領ののった車の後方の建物でだった。
はたして誰が、何の目的で大統領を暗殺し、オズワルドに罪をなすりつけたのか? その後各方面の隠ぺい工作も行われ真実が見えないまま現状に至っているわけだ。
そんな事件をオリヴァー・ストーンが自分なりに解釈し、その思想を世間に提示したのがこの映画だといる。

ケネディ大統領暗殺計画の主犯は誰かという疑問に対して現在2つの説がある。

サム・ジアンカーナを中心としたマフィア主犯説。
サム・ジアンカーナは、ケネディ家と古くから深いつながりを持っており、ケネディの当選の陰の功労者であることが明らかになっている。
だけでなく、暗殺の黒幕の一人とも言われている。しかし、ケネディ政権が弟のロバート・ケネディを中心にしてマフィアに対する壊滅作戦を進めたことを「裏切り」と受け取ったジアンカーナらを中心としたマフィアが、「裏切り」への報復と壊滅作戦の停止を目論んで行ったとするもの

◆軍産複合体の意を受けた政府主犯説
ケネディはその大統領就任中に、ベトナム戦争からの早期撤退を計画したが、急進的なベトナム戦争撤退の方針が産軍複合体の利害と対立して、ケネディ暗殺につながったという一説がある。

この映画ではあ、後者にほう。そしてこの映画のきもちのいいところは、軍事産業にからんでいた実業家のクレー・ショーが主犯であるといいきってしまう気持ちよさであろう。

主人公はニューオリンズ州の地方検事ジム・ギャリソン、当時飛ぶ取り落とす勢いだったケヴィン・コスナーが演じた(まだ髪もあった)。好感度ナンバーワンの俳優を主人公に据えるのも、自分の解釈を世間に受け入れ安くするひとつの重要な手段だったろう。この映画は、この問題に取り組むギャリソン検事と、その家庭事情を描きつつ物語は展開していく。
オリヴァー・ストーンだけにとにかく情報量がおおい脚本になっていて、それが延々3時間ちかくつづく。かなりしんどい。この人も映画はとにかく観客に情報を与えることがすべてて、彼らにそれを浸透させ、理解してもらう時間をなかなか与えない。観ている人の脳を一休みさせたり、しばし高揚感にひたらせるような気持ちの緩みをいれるともうすこし観やすくなるのだが・・・・。
先ごろ公開された『ソーシャルネットワーク』の脚本家、アーロン・ソーキンもこの手の脚本を書く人。政治的知識をベースに脚本を書く人というのは、どうしてもこの手に方向性におちいりやすい。映画作りの手法としてはあまり上手いとはいえないが、それでも怒涛のように与えられる情報はとても見ごたえがあり、見終わった後どどどどどと疲れを感じる。観るのに体力の要る映画である。
個人的には、ありきたりの「アメリカのお父さんはこうあるべき」シーンを削ってもらえるともっとコンパクトにまとまったのではないかとおもった。ま、それをやっちゃうと、この映画はほんとに事件解明物だけになってしまい、個人の意見を押し付けるだけの映画になるのが嫌だったのだろうが、でも、オリヴァー・ストーンの映画ってのはだいたいいつもそうなのだからいまさら・・ってきもした。

<あらすじ>
第35代大統領ジョン・F・ケネディが暗殺され、犯人としてオズワルド(ゲイリー・オールドマン)が逮捕された。しかしそのオズワルドもマフィアの関係者によって移送中に射殺される。ジム・ギャリソン地方検事(ケヴィン・コスナー)は一連の経過に疑問を抱きはじめる。
副大統領だったリンドン・ジョンソンが第36代の大統領となる。その背景で、ケネディがあのまま大統領を続けていれば撤退していたはずのヴェトナム戦争はますます泥沼化していた。ギャリソンは身近なスタッフと共に捜査を開始する。捜査が真相に近づくにつれギャリソンはマスコミの攻撃や政府からの脅しを受け、妻(シシー・スペイセク)や子供たちとの私生活も危機に見舞われる。
やがてギャリソンは、軍の極秘任務によりキューバ侵攻のゲリラ作戦を進めていた元FBI捜査官ガイ・バニスターやデヴィッド・フェリーらが暗殺を図ったことと、首謀者は実業家として知られるクレー・ショー(トミー・リー・ジョーンズ)であることを突き止めた。
この事件は軍やFBIや CIAをも巻き込んだクーデターであることを知らされ、遂にクレー・ショーを暗殺の共謀罪で告訴する。だがクレー・ショーは無罪に終わった。全ての真相が明らかになるには、オズワルドやジャック・ルビーについての非公開の極秘報告書が公表される2039年まで待たなければならない。

by ssm2438 | 2011-06-16 12:02
2011年 06月 14日

クロエ(2009) ☆☆☆☆

f0009381_1442637.jpg監督:アトム・エゴヤン
脚本:エリン・クレシダ・ウィルソン
オリジナル脚本:アンヌ・フォンテーヌ
撮影:ポール・サロッシー
音楽:マイケル・ダナ

出演:
ジュリアン・ムーア (キャサリン・スチュアート)
アマンダ・セイフライド (クロエ)

       *        *        *

エゴヤンのわりには面白いぞ!

『スウィート・ヒアアフター』でガツンなインパクトを与えてくれたアトム・エゴヤンなれど、その後、その前の作品はあまりぱっとせず困ったもんだとおもっていて、そんな時代が長く続いたものだから今回もあんまり期待してなかったら・・・・、いやいや、面白かった。
アトム・エゴヤンが、とにかく若ティーンの女の子に愛されたい人で、彼のとっている映画はまったく一つのコンセプトで出来上がっているといっていい。それは

「不誠実な私でも、ひたすら愛してくれるような女の子がいたらいいなあ・・・」

このありえない、もてない男のドリームを映像化しているのがアトム・エロオヤジ・エゴヤンだといっていいだろう。しかし今回の物語はちょっとひねりをきかせてある。いつものことだから、てっきり主人公がリーアム・ニーソンだとおもったらぜんぜん違った。そっちはただの刺身のつまみで、エゴヤンが自分を投影しているのはなんとジュリアン・ムーアであった。女性に自分を投影しているところで、いつものオヤジ的ないやらしさがやや緩和されている気がした。
しかしジュリアン・すでに妖怪・ムーアの肌のしみはひどくほとんどヌードなんかになれたものではない。顔もかなり妖怪化がすすんでいる。『ハンニバル』のときはよかったけど、ここまでくると人目で抱きたいと思えない風貌になってきている。そういう意味ではなかり哀しい女優さんになってきているのだが、劇中でもかなり哀しい人妻を演じている。

この映画のジュリアン・ムーアのメンタリティはほとんど『ベニスに死す』の主人公だろう。ビヨルン・アンデエルセンを求める自分の老いに嫌悪感を感じるダーク・ボガード。その感情がそのまま今回の映画のジュリアンムーアに移植されているといっていいだろう。しかし、『ベニスに死す』のビヨルン少年は決して手の届かないただの憧れだったのにたいして、この『クロエ』ではなんと、その美しい対象が自分をひたすらにもとめてくれてるのである。おおおおおおおおお、これこそまさにアトム・エゴヤニズム!!! さらにいつもの「自分は不誠実でも・・」の要素もいっぱい詰め込まれている。

物語の中では夫の浮気を感じたジュリアン・ムーア演じるアトム・エゴヤンが、娼婦クロエをやとって旦那を誘惑してもらうい、その真意を確かめるというところから始まる。しかし、クロエはどういうわけか、自分のことを気に入っているらしい。それはのちのちひたすら求め続けられる陶酔として描かれていく。一応映画のなかでは「恐怖」という風に描かれているが、そんなのこエゴヤンのテレ隠しでしかなく、エゴヤンにとってはこれこそが至福の時なのだろう。

あいかわらずキモいぞアトム・エゴヤン。

<あらすじ>
大学で教壇に立つ夫のサプライズパーティを予定していたキャサリン(ジュリアン・ムーア)だが、その夜夫は予定の飛行機に乗りおくれパーティは主役不在のシラケ解散。朝起きてみるとすでに夫は出かける支度をしている。ふとしたきっかけで夫の携帯をみるとそこには女子大生と一緒にとった写真がある。そんなことから夫の愛に疑問をもったキャサリンは、自分の仕事場の近くの高級ホテルでみかける娼婦クロエ(アマンダ・セイフリッド)にある依頼をする。それは夫を誘惑して、その反応を報告してほしいというもの。
クロエから報告される内容は、普通の男性の反応だった。綺麗な女の子にもとめられると拒めない男の性。その報告を聞きながら少なからず体にうずきを感じるキャサリン。しかし、キャサリン年老いた肌はしみにおおわれ、男に求められない対象になっていることを実感させられるキャサリン。そんなキャサリンにもやさしいクロエは、キャサリンおもやさしく包み込んでいく。クロエの愛撫に体を委ねるキャサリン。
しかしクロエの報告はなにもかにも嘘だった。夫はクロエという女などまったくしらないし、今まで浮気などしたことがないという言葉も真実だった。自分だけが疑心暗鬼からどうかしていたと悟ったキャサリンは、翌日クロエに手切れ金を渡して追い返す。求めるのを辞められないクロエはキャサリンの息子をに接触を試みる。キャサリンの家を訪ねたクロエは彼女の寝室で息子に抱かれる。セックスの最中もみつめているのはキャサリンの服やハイヒール。
そんなときにキャサリンが返って来た・・・・。

しかし、最後のあの髪留めは・・・、不誠実だったけど、やっぱり私もあなたを愛していたのよ・・・の証なのだろう。映画のネタは変われど、やってること『スウィート・ヒアアフター』とまったく同じなのでした。

今、もっともロリーなアイドルといえばこの人、アマンダ・セイフリッド(↓)
f0009381_9363052.jpg


by ssm2438 | 2011-06-14 09:37
2011年 06月 08日

麻雀放浪記(1984) ☆☆☆☆

f0009381_2052489.jpg監督:和田誠
原作:阿佐田哲也(『麻雀放浪記』)
脚本:和田誠/澤井信一郎
撮影:安藤庄平
音楽プロデューサー:高桑忠男/石川光

出演:
真田広之 (哲)
鹿賀丈史 (ドサ健)
高品格 (出目徳)
大竹しのぶ (まゆみ)
加賀まりこ (ママ)
名古屋章 (上州虎)

       *        *        *

アクションをしない真田広之もなかなかいい。

真田広之の映画のなかで一番面白いのは、もしかしたらこの映画かもしれない。戦後まもない上野のドヤ街を舞台に、賭博にあけくれた人々の生態を描いた映画。どこやらの権利書やどこやらの女の所有権はくるくる回る。
映画が制作されたのは1980年代なのだが、白黒映画である。監督もこれが初監督となった和田誠。イラストレーターであり、エッセイストであり、絵本作家であり、作詞家でもある。そしてシナリオには『Wの悲劇』『早春物語』澤井信一郎が参加している。

そういう私は麻雀はほとんどしない。むかしゲーム機相手にやったことがあるくらいで、卓を囲んでやったことはないのでほとんど素人なのだが、そんな私がみてもなかなか面白い。純粋にイキな男達を描いたエンタテイメントだと思う。そして加賀たけし扮するドサ健の台詞がいい。
「これはオレの女だ、オレの女だからオレは何をしても良いんだ」って恋人まゆみ(大竹しのぶ)を遊郭に売って博打のためのお金を作るという、破天荒な生き方。しかしこまったことにその台詞が説得力があるんだ(苦笑)。

麻雀卓を囲う紅一点は加賀まり子。ただ・・・、もうちょっと映画撮る前に練習してほしかった。いまひとつ牌捌きが素人っぽいし、なにより遅い。残念。

<あらすじ>
敗戦直後の上野の街。学校へもいかずぶらぶらしていた哲(真田広之)はチンチロ集落に足を踏み入れ、プロのバクチ打ちであるドサ健(加賀たけし)の張りにノッり相当な勝金を得ることができた。その大半を授業料だということで、ドサ健に持っていかれた哲だが、ドサ健のかっこよさに惹かれた部分があるのも否定できない。しかしそのしっぺ返しにあう。アメリカ兵相手の秘密カジノ「オックス・クラブ」へ乗り込み、勝つだけ勝ったドサ健はさっさと引き上げてしまう。哲は金を持っていない。結果ボロ負け。お金がない哲はアメリカ兵にぼこぼこにされてしまうが、カジノのママ(加賀まり子)が身体を売って助けてくれる。その夜、哲はママに抱かれ、初めて女を知った。
翌日からママのもとで本格的な麻雀修業が始まった。

--実にスポ根もののセオリーのような展開なのだ。
憧れるに値する、しかし認めたくない年上のライバル登場。そしてコーチ役の女性登場。まるで車田正美『リングにかけろ!』のようなシンプルな設定である。しかし、このシンプルな設定ほど見るものをときめかせるものはないのも事実である(笑)。そしてセカンドステージでは、出目徳という老麻雀士と出会い、裏技を教え込まれる。実にわくわくする展開なのだ。

出目徳(高品格)に裏技を教え込まれた哲は再びドサ健と対決。哲と出目徳、そしてドサ健一派との対決は、持ち金全部では足りず、恋人のまゆみ(大竹しのぶ)の家の権利書まで持ち出すが、あえなく完敗。ドサ健は再度の対決を挑むがタネ銭がないので、まゆみを吉原に売ってしまう。しかし、ゼゲンの達(加藤健一)のおかげでまゆみは女郎にならずにすんだ。
そして最終決戦。哲、ドサ健、達、そして出目徳。二昼夜、勝負が続く。突然、出目徳が倒れた。“九蓮宝燈” という大きな手に、ヤクで弱っていた心臓が耐えられなかったのだ。三人は、出自徳の死体を彼の家まで運んで行き、帰りに上州虎(名古屋章)をひろって、再び勝負を続けるべく、家に戻っていくのだった。


ストーリー構成が極めて王道であり、誰がみても楽しめる麻雀映画になっている。
麻雀映画の金字塔だろう・・(笑)、ちょっとほめすぎ??

by ssm2438 | 2011-06-08 20:52