西澤 晋 の 映画日記

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2011年 05月 31日

ハッピーフライト(2008) ☆☆☆☆

f0009381_2195111.jpg監督:矢口史靖
脚本:矢口史靖
撮影:喜久村徳章
音楽:ミッキー吉野

出演:
田辺誠一 (副操縦士・鈴木和博)
時任三郎 (機長・原田典嘉)
綾瀬はるか (CA・斎藤悦子)
吹石一恵 (CA・田中真里)
田畑智子 (地上スタッフ・木村菜採)
寺島しのぶ (チーフCA・山崎麗子)
肘井美佳 (デスパッチャー・中島詩織)
岸部一徳 (高橋昌治)

       *        *        *

こういう専門的知識をいっぱい盛り込んだお話は好きなんだ。。。

『ウォターボーイズ』『スウィングガールズ』矢口史靖の監督作品。この人の作品ってそんなに好きなわけではないのだけど、この映画は空港が舞台というのでついつい見てしまった作品。なかなか楽しい時間をすごさせてもらいました。空港で勤務している人間たちのドラマってそれだけでついつい見てしまいます。『狂っちゃいないぜ』とか『エアポート24時・グランドコントロール』など、管制室だけの芝居なのですがその言葉のうやりとりのなかで表現される緊張感が好きなのです。
映画的には低予算で作れるし、もどってくる空港は常に自分のろこの空港で離発着はロケハンだして本物の飛行機のそれをとってくれば良くって、あとは室内劇を、精密なセットを組んでやればいいだけという、かなりの安上がり映画。『エアポート24時・グランドコントロール』なんて真剣に安上がりでした。でも、あの緊張感がたまらない。
この映画は、空港で働く人たちの奮闘を描きつつ、ハワイにむけて飛びだったボーイング747-400が、カモメの体当たりにより、スピードを測るフィンを失い、それが原因でトラブル発生、フタタに羽田に引き返して無事着陸するまでを描いた映画。ジャンル的にはシチュエーションコメディの『エアポート75』という感じでしょうか。

矢口史靖の監督作品なので恋愛ネタはほとんどないのはいつものことですが、それがなくてもシチュエーションコメディだけでもっていってしまう。なおかつ、部分部分で、ほろりとさせられる演出がとってもいい。あのスパナをなくした若い整備士のためにみんなが必死でスパナを探してりときの必死さ。たかが一本のスパナだけど、もしかしたらそれがエンジンの中に残っててエンジンが故障したのではないかという心配ではらはらどきどき。みんながもくもくと探してる。その整備士君もどきどき。もしかしたらもしかしたらもしかしたら・・・。で、見学にきた小学生がもってったことが判明して、「ありましたー」でみなさんほお~~~~っとする。あの安堵感は素晴らしい。
実はそこにはきちんとスパイスが効かせてあって、その整備士君に辛らつな態度をとっていた先輩整備士君が、ちょっと憎まれ口たたいてその場を去っていくのだけど、その時「ああ、この人もよかった~~」って心の中でも思ってるんだなって雰囲気をにじましてくれてるところ。
あのかもし出し方は素晴らしいね。

あと、めっちゃ不機嫌はお客がひとりいて、なにかと難癖つけるて吹石一恵はもう泣きべそ間近、「機長を呼べ」というそのお客さんにチーフCAの寺島しのぶが納得させるくだりもいい。
シチュエーションコメディなんだけど、かなり感動させるポイントをもってる作品である。

最後のランディングも、横風厳しい中斜め向いて着陸するジャンボのその斜め向いてる感がまた露骨でいい。ええええ、ここまで横向いてるの~~~~って、それで横風の環境演出しているのだが、あれだけ斜め向けられるとなかなか感動してしまう。

あと、グランド・コントロールの岸部一徳をひそかに想っているらしいデスパッチャーの肘井美佳がとってもいい感じ。ちなみに「デスパッチャー」というのは、旅客機のフライトプランを制作する人だそうな。こういう専門職のおネーちゃんはなんだかんだいいても魅力てきですな。。

by ssm2438 | 2011-05-31 21:09
2011年 05月 29日

沙耶のいる透視図(1986) ☆☆☆☆

f0009381_18392015.jpg監督:和泉聖治
脚本:石井隆
撮影:佐々木原保志
音楽:一柳慧

出演:
高樹沙耶 (北村沙耶)
名高達郎 (カメラマン・橋口裕)
土屋昌巳 (ビニ本編集者・神崎繁)
加賀まり子 (神崎の母親)

        *        *        *

高樹沙耶がすばらしい。彼女のベスト1の映画。

このときの高樹沙耶はむちゃくちゃすばらしい。美しい。ミステリアス。なのにこの後の映画はなんだ! 彼女を無駄使いしただけの映画ばっかり。唯一この映画だけが彼女を生かして撮れている映画。監督の和泉聖治は・・・・、正直な話、これ以外の映画はどれもしょぼい。なんでこの映画だけがまともにとれたのはいまだに謎だ。

原作はすばる文学賞の受賞作品。今では死語になってしまった『ビニ本』の写真家がある日出合った沙耶という女性。しかし、彼女は感じない身体をだった。それでも付き合うようになっていく主人公の写真家と沙耶。なぜ、彼女がそんな精気のない人間になってしまったのか・・・その訳を紐解いていく心理サスペンス。

やや、ヤン・デ・ボンににてるかもしれない照明も実にわざとらしくていい感じ(苦笑)。石井隆のシナリオがいいのか、はたまた原作がいいのか、どっちもそれなりにいいのだろうな・・、ミステリアスな雰囲気はとてもいい映画だ。隠れた名作だと私は思っている。

<あらすじ>
ビニ本のカメラマン橋口(名高達郎)は、編集者の神崎(土屋昌巳)から沙耶という女性(高樹沙耶)を紹介される。彼女は都内のデザイン会社のアーティストだった。神秘的な表情に心魅かれ、ホテルへ誘い込むが、「私、感じないんです」としらけたムードに、橋口もやる気をなくす。沙耶が置き忘れたスケッチブックには、男の性器がケロイドで被われた春画風のデッサンが描かれていた。数日後、伊豆ロケに行った橋口は、神崎が連れて来た沙耶と再会する。神崎と沙耶のなにかありそうな関係がさりげなくきになる橋口。そしてみてしまう、神崎の太股にある焼けどのあと。神崎は事故の原因は母親で、自分に彼女が出来た時に母親が嫉妬でお湯をかけたからだと説明した。
その夜再び沙耶を抱く橋口。たとえ女が感じてなくても男はセックスは出来る。沙耶は橋口に神埼との出会いを語る。分裂症で入院していた病院で、精神を病んでいる神崎の母親と会い、それが原因で神崎と知り合ったことを告げる。橋口と沙耶の関係は順調にいき一緒に暮らし始める。
一方神崎は裏本の製本で逮捕されてしまう。
橋口と沙耶の生活もギクシャクすることがおおい。沙耶がぐれている時は何を言っても仕方がない。沙耶は橋口が何を言っても返事をせず、食べることも拒否しだした。途方にくれた橋口は沙耶との関係を絶った。一カ月後、裏本で逮捕された神崎は出所した翌日、橋口を呼びだした。かねてからの「視姦」のビニ本を作ろうとうのだ。
呼び出されたマンションの一室にいってみると沙耶が裸で横たわっていた。となりにはバイブレーターがうにょうにょ動いていた。雨の降る屋上で神崎は、橋口にケロイドの真相を語る。母を見舞いにいった精神病院で出会った沙耶と付き合い始めた神崎だったが、沙耶は『性』が愛を裏切ると神崎を拒もうとした。ならば自分の性欲を殺すと、沙耶の眼の前で神崎は自分のペニスに熱湯をかけたのだった。二人の間には入っていけないと感じた橋口は、部屋に戻り敗北宣言。苦しみのシェアができた沙耶ははじめて橋口の前に笑顔をみせる。そのすがすがしさに感動した橋口は思わずカメラを構えシャッターをきったとき・・、おくの窓を落下する神崎の姿が映った。
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by ssm2438 | 2011-05-29 18:40
2011年 05月 21日

ラストタンゴ・イン・パリ(1972) ☆☆☆☆

f0009381_15124655.jpg監督:ベルナルド・ベルトルッチ
脚本:ベルナルド・ベルトルッチ/フランコ・アルカッリ
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:ガトー・バルビエリ

出演:
マリア・シュナイダー (ジャンヌ)
マーロン・ブランド (ポール)

        *        *        *

何を撮ってもおもしろくないベルトルッチの中では、面白いほうの映画。

見る前は「きっとベルトルッチだから面白くないだろうなあ」って思ってたら・・、以外に良かった。ヴィットリオ・ストラーロの描き出す色がいいからついつい見ちゃうって部分もあったかな。この人のコントラストは好きだなあ。

人は誰でも逃げ込む場所が必要なのだ。それが人によっては書斎であり、主婦だったら台所かもしれない。あるいは浴室かもしれないし、大都会の駅の公衆トイレかもしれない。とにかく自分を確保できる場所が必要なのだ。このレビューを書くまえにジェーン・カンピオン『ピアノ・レッスン』を書いた。ホリー・ハンター演じるエイダは口がきけなくて、そんな彼女が自分にひたれす時間といえばピアノを弾いているときだけだったのだろう。そしてこの映画では、マーロン・ブランドマリア・シュナイダーが自分にひたれる場所が、あの空間だったということなのだろう。しかし、あの部屋がいいのは、自分に浸れるが、それをシェアしてくれる人もいる・・という、実に魅力的な空間として設定されているということだろう。現実から隔離された空間。

恋人と住む部屋を探していたジャンヌ(マリア・シュナイダー)が、「空き部屋あり」の張り紙がアパートを見つけ、管理人に部屋を見せてもらいたいと言うと、その鍵が見当たらない。仕方なく帰ろうとすると、合鍵があるという。その部屋に入ってみると、中年の男ポール(マーロン・ブランド)いた。二人はそこでセックスをした。それからというもの、男はその部屋を借りることにし、最低限度の生活備品を用意した。ベットはなく、床にはマットレスを敷いた。ジャンヌもときどきその部屋をおとずれるようになり、二人はお互いの名前もあかさず、そこで密会をするようにある。
f0009381_8412280.jpgちまたの解説を読むと、ここにはセックスしかないような書かれ方しているものが多いが、けっしてそういういみではない。心がふれあう場所として、この部屋が存在している。その一環としてセックスもしたくなったらする。しかし、心を暴露するわけでもない。隠したかったら嘘も言う。ホントかもしれない。話したいことを話す。精神カウンセラーとの会話みたいなものだ。

一方ジャンヌの現実の世界では、TVディレクター兼恋人のトム(ジャン・ピエール・レオ)がいて、彼の演出のもとで「少女の肖像」というドキュメントを撮っている。たぶんこれは意図的にコントラストをつけているのだろう。マーロン・ブランドと会うあの部屋では、嘘ともホントともとれるどうでもいい会話をしているのだが、そこでは心が純粋でいられる。怒りを感じた時は怒ればいい。しかし、現実の世界で、それもドキュメントを取っているにもかかわらず、その中にいるジャンヌ自身は実にうそ臭い。

ポールは下町で簡易ホテルを経営していた。彼の妻ローザは自殺した。彼にはその理由が分らなかった。彼は、妻と肉体関係を結んでいたホテルの住人マルセル(M・ジロッティ)を訪れ、妻の話を聞いた。妻は自分よりもこの男を愛していたようだ。花にかこまれた妻・ローザの遺体のまえでぼそぼそと悪態をついた言葉をなげかけながらも、喪失感に耐えられないポール。
既に死んでいる妻の痛いに向かって「まるでオフィーリアのような格好をしてどうしたんだ?」といいうような台詞があるが、ちょっと嬉しかった。ヴァージニア・マドセン『ファイヤーウィズ・ファイヤー』という映画のなかでこのオフィーリアを再現しようとして自分をモデルに写真をとっているシーンがあった。これはこの画を知っている人がみるとちょっと嬉しいシーンだった。

ある日、ジャンヌがその部屋へ行ってみると、家具は既に運び出されていた。あの男が何処に言ったのか聞き出そうと管理人にせっつくが、分らないというだけ。「夢は終わったのだ」と悟り、管理人が呼び止める言葉も聴かずでていくジャンヌ。あの時ジャンヌの中ではその部屋での自己にひたる時間は終了したのだろう。
数日後、そこに恋人のトム連れて入る。二人で住む部屋を探していたのが本来の目的だったので、その部屋をトムに見せたのだが、トムは気に入らないようで、先に帰ってしまう。その部屋の戸締りをして一人帰っていくジャンヌの前に再び現れるポール。彼はそれまで語らなかった自分を語りはじめ、再びやり直そうと迫る。
社交ダンス・コンテストが開かれていたホールのテーブルで二人は散々酒をあおり、とりとめのない会話をかわした。そしてコンテストの決勝に残った数組のダンスが始まると、二人はその会場に乱入、彼らなりのタンゴを踊った。会場は異様な雰囲気につつまれ、審査員に彼らは追い出されてしまう。逃げるジャンヌを、ポールは執拗に追い、最後は彼女の家へ押し入った。

ジャンヌにとって夢の終わりは現実だったが、ポールにとっては、夢の終わりは更なる夢の始まりだった。
そのすれ違いが悲しい結末にむかう。

by ssm2438 | 2011-05-21 08:41
2011年 05月 16日

ワイルド・チェンジ(1989) ☆☆☆☆

f0009381_0401853.jpg監督:ジョン・G・アヴィルドセン
脚本:マイケル・シファー
撮影:ヴィクター・ハマー
音楽:ビル・コンティ

出演:
モーガン・フリーマン (クラーク校長)
ビヴァリー・トッド(レヴィアス先生)
ロバート・ギローム (フランク・ネピアー医師)
アラン・ノース (ドン・ボットマン市長)
リン・シグペン (レオーナ・バレット)

        *        *        *

この強引な実行性をみよ!怒涛の校長先生クレージー・ジョー、そこまで頑張るか!!

時代は『いつも心に太陽を』をもっていた1960年代ではない。校内には麻薬もアリ、ナイフもある。もう過激に戦わなければ学校荒廃は浄化できない。そんな荒れ果てた学校に赴任してたとことん実行派の過激な校長モーガン・フリーマン。こちらの校長は、荒れてどうしようもなくなった連中はとりあず締め出す。で、不良学生やその仲間が学校にはいってこないように、校舎の周りには鍵をかける。子供を指導するにはまず、教師からと、教師のプライドも考えずに、出来ない、やる気のない、教師にはとことん厳しく罰を与える。本当に目的のために、何かを実行していくとこはこういうことだ!!と実践していく。もちろんこんなことやってたらついて粉人も多いし反感も買う。でも、やりぬく。生徒も教師もみんな敵状態。それでもやり抜く。

これほどの強引は行動力は果たしていいものなのか? 確かにこれだけ荒廃した状況のなかでは仕方ないのだろうと思ってしまう。この映画は、生徒や教師をにやる気にさせるというよりも、無理やりにでもやらせる環境を作っていくのだ。たぶん、温和な教育者にとってみればかなり反感を持つに値する校長だとおもう。
それは判っていても、やっぱりやってしまうこの校長がすばらしい。結局何かを変えようと思ったら矢面に立たないと話しにならない。誰にも嫌われないことを優先事項にしていては何も出来ないのだ。

・・・これだけ、やり抜くことを実践してくれた映画はそうないだろう。すばらしい。

監督は『ロッキー』『ベストキッド』ジョン・G・アヴィルドセン。音楽も『ロッキー』の時おせわになったビル・コンティだ。

<あらすじ>
かつて名門だったニュージャージー州のイーストサイド高校、今では荒廃しきってしまったこの高校に、かつてこの高校で教壇になった熱血教師ジョー・クラーク(モーガン・フリーマン)が校長として20年ぶりに戻ってくる。かつての名声は見るかげもなくただただ、荒廃しきったその高校。着任早々彼は、麻薬常習者など更生不可能な生徒を放校処分にし、仲間の不良分子が校内にはいって授業を邪魔させないように鎖で門をしめきった。“クレージー・ジョー”の呼び名通りの荒治療を開始。クラークは、市の教育委員会から、その高校の学力レベルを1年のうちに、一般的な最低限度のレベルまで引き上げる使命を背負わされていた。
クラークは恐ろしいほどに厳格で厳しく、それは、生徒にたいするだけでなく、教師に対してもそういう態度をとった。この高圧的な姿勢は多くの保護者や市の教育委員会、そして学校職員や教師たちからも反感をかった。
そんな四面楚歌の状態のクラークに、一人の女性教師が
「あなたはいつもがなれいたててるばかり。それでは教師たちも着いてこなくなります。もっと私たちを信頼してください。いい学校にしたいと思っているのはあなただけではないのです」
そんな言葉に、強引なクラークの態度もすこしづつ軟化していった。それまで一人で戦っていた感のあるクラークをみんながサポートしていく。
その甲斐あって、生徒たちの成績は少しづつ向上し、校内の風紀も著しく改善されていった。
しかし、教育委員会の判断は、クラークのやり方はあまりに強引過ぎるという見解であり、解任の決定が今にもくだされようとしてた。それを知った生徒たちが、市庁舎におしよせてくる。「ここは一つ冷静な判断をしてくれ」とおさめるクラークのもとに、学力テストの結果が届けられた。
生徒たちも、成し遂げた!
教育委員会は、クラークの解任を撤回するしかなかった。

by ssm2438 | 2011-05-16 00:40
2011年 05月 06日

ホテル・ニューハンプシャー(1984) ☆☆☆☆

f0009381_10312213.jpg監督:トニー・リチャードソン
原作:ジョン・アーヴィング
脚本:トニー・リチャードソン
撮影:デヴィッド・ワトキン
音楽:レイモンド・レポート

出演:
ボー・ブリッジス (ウィン・ベリー)
ロブ・ロウ (ジョン・ベリー)
ジョディ・フォスター (フラニー・ベリー)
ナスターシャ・キンスキー (スージー・ザ・ベア)

        *        *        *

不幸との格闘技、それが人生だ!

めちゃくちゃ好きというわけではないが、ジョン・アーヴィングの小説で映画になったものは不思議と全部みている。そのなかで一番好きなのがこれ。アーヴィング原作の映画というのは子宮の臭いがするのだが、これはそれほどしない。一番さらっとしてる。そのさらさら感が好きなのか・・・な?

アーヴィングの映画のもうひとつの特徴はポジティブなスピリットだろう。
私は、アーヴィングの映画は「悲しみのリセット映画」だと思っている。人は誰でも悲しいことのない人生なんておくれるはずもない。何処かしらになにか悲しみがある。それに同対処するのか・・というのがその人のもつドラマになってい来る。
人がなぜ悲しむのだろう・・?って考えると、きっとその人は悲しみたいから悲しんでいるのである。アーヴィングの映画をみるといつもそう感じる。つまりそれは、自分が失ったものがとても大事なものなんだ・・という見意識のアピールだと思う。人間の心というものは、傷ついても、時間をかければ徐々にリセットできてしまうのである。あとになって「今はこんなにリセットできてるのに、なぜ、あの時あんなに悲しんだのだろう?」と考えてみると、先の答え「人はその時悲しみたかったから、悲しんだのだ」って答えにもどってくる。
アーヴィングの映画をみてると、<悲しみたいから悲しんでいる人>と、<どうせ未来になったらリセットできてるのだから、だったら今やってしまおうという人>と、二種類出てくるような気がする。特にこの映画はそのリセット力の強い人たちが出ていると思う。というか、ほとんどみんながそうだ。それがアーヴィングの映画の前向きな姿勢につながってくるのだと思う。

つい最近見た『ドア・イン・ザ・フロア』では、<悲しみたいから悲しんでいる人>と、<どうせ未来になったらリセットできてるのだから、だったら今やってしまおうという人>とを、子供を亡くした母、キム・ベイシンガーと父、ジェフ・ブリッジズで演じ別けてる。こういう映画のほうがドラマ的にはコントラストがついていいのかもしれない。しかしこの『ホテル・ニューハンプシャー』では、悲しみに対してスポーツマン精神で戦っているような雰囲気さえ感じる。

「悲しみよ、来たけりゃいくらでも来い! 
 片っ端から忘れていってやる、さあかかってこい! さあっ!!」

・・・みたいな。
ちなみに、『ドア・イン・ザ・フロア』ではポジティブ父ちゃんをジェフ・ブリッジズが演じていたが、この『ホテル・ニューハンプシャー』ではその兄・ボー・ブリッジズが演じている。どちらもとてもいいキャラだが、この映画の父ちゃんが素晴らしい。大好きなキャラクターだ。彼のポジティブさが、暗くなっても仕方がないようなこの映画を、“人生そんなに悪くないかも・・”って思わせてくれているのだろう。

<あらすじ>
学生時代にアルバイトをしていたホテルでは曲芸をする熊を飼っていたことから、ウィン・ベリー(ボー・ブリッジス)もいつか熊のいるホテルを経営したいと思っていた。彼はメアリー(リサ・べインズ)と結婚し、メアリーの母校である女学校を買いとって改造された「ホテル・ニューハンプシャー」でホテル経営をはじめる。
子供たちは、このホテルで成長していく。同性愛者の長男フランク(ボール・マクレーン)、しっかり者の長女フラニー(ジョディ・フォスター)、姉を愛する次男のジョン(ロブ・ロウ)、成長のとまった文学少女の次女リリー(ジェニー・ダンダス)、そして耳の不自由な三男エッグ(セス・グリーン)。
フラニーの憧れをいだいていたダブ (マシュー・モディン)は、フラニーのことを想うジョンをからかい、いじめる。そんなジョンをかばうフラニーは、タブとその仲間にレイプされてしまう。はじめは順調だったホテル経営も祖父の急死の頃から傾き始める。ウィーンで第二の「ホテル・ニューハンプシャー」をはじめることにするが、メアリーとエッグが途中飛行機事故で死亡。経営が軌道にのると、ホテルをアジトとしていたテロリストたちが近くのオペラ座爆破未遂事件を起こし、その犠牲となってウィンも視力を失った。
リリーが書いた一家の物語「大きくなりたくて」がベスト・セラーになり一家はアメリカに戻る。しかし第2作は散々酷評され、メアリーは自殺してしまう。
多くの愛する者たちを失ったウィンだったが、メアリーとの思い出の地でついに熊のいるホテルを開設する。結婚するフラニー。姉への想いをふっきって、スージー(ナスターシャ・キンスキー)を愛するジョン。彼らの新しい人生が始まろうとしていた。

by ssm2438 | 2011-05-06 10:32
2011年 04月 30日

殺しのベストセラー(1987) ☆☆☆☆

f0009381_0132987.jpg監督:ジョン・フリン
脚本:ラリー・コーエン
撮影:フレッド・マーフィ
音楽:ジェイ・ファーガソン

出演:ジェームズ・ウッズ
    ブライアン・デネヒー

     *     *     *

日本未公開の映画なのですが、おまけにタイトルもダサいし(こんなタイトルだと絶対誰もみないと思う)、しかしこの映画、けっこう私のツボだったのです。こういうのはいいですね。誰もが好きになる映画じゃなくて、自分だから好きになれる映画ってのは。
で、この映画の注目のポイントは3つ。

1、脚本が異能ライターのラリー・コーエンである。
2、ジェームス・ウッズの愛すべき狂演。
3、バイオレンスアクションの巨匠、ジョン・フリンの復活。

ラリー・コーエンといえば、知る人ぞ知る『悪魔の赤ちゃん』‥‥70年代に流行ったモンスターパニックものもラリー・コーエンにかかれば愛すべき赤ちゃんがモンスターになってしまう。いかにB級お下劣モンスター映画作り手でも、出来れば生まれ立ての新生児を殺りくをくり返すモンスターとは描きたくないはず。でもラリー・コーエンは“これだけは避けたいなあ”って思う心情のところをあえて行ってしまう。そんな殺りく赤ちゃんモンスターでも両親を求める刹那さを描いてしまうラリー・コーエン。
こいつの描くペーソス、刹那さは、なんかいいんだ。そのペーソスはラリー・コーエンのB級スピリットにあってもとってもいい味付けをしてくれてる。


ブライアン・デネヒー演じるデニス・ミッチャムは警官でありながら、その体験談をいかして小説をかいている。そんなデニスにクリーブ(ジェームス・ウッズ)と名乗る殺し屋から依頼がある「おれのことを書いてくれ」 。
クリープは地元の有力者/暗黒街の大ボスに雇われていたのだが、今では仲たがいしらしく、「自分のことを書くことで彼を破滅させることができる」という。半信半疑のデニスだがクリ-ブに彼が殺した人たちの殺人現場を案内される。自分の殺人の記録をしゃあしゃあと警官であるデニスに説明していくクリ-ブ、どんなに説明されてもそれで殺人があったとは立証できないと反ばくするデニス。実に奇妙な会話である。そうこうしてると、大ボスからの使いのものが二人を殺そうとする。こと細かく説明を受けている間にことの『真実』を理解しはじめる。

小説を書くためにはその「殺し屋」を形成するにいたったその人格形成の場所、家族をみたいと言う。 しぶしぶクリ-ブは彼の家族にあわせる。なんの変哲もない家族がそこにあった。帰りの飛行機の中、クリ-ブはデニスに共同手筆の記念としてクリ-ブからデニスへと刻印された高級腕時計をわたそうとする。断るデニス。「殺し屋からは受け取れないとうのか? オレには人間らしいことをする権利はないというのか?」というクリーブだが、無視するデニス。ここが切なくていいんだ。スーパー凄腕の殺し屋なんだけど、人並みに愛されたいと思っている。それを望んでいる。まるであの悪魔の赤ちゃんの新生児のモンスターみたいに‥‥。どっか劣等感があって、認められないことに寂しさを覚えて、でも求めてしまう。リスペクトされたいと思ってしまう。とっても愛されたいんだよね。

やがてロスにもどったデニスは彼女の愛人(妻は何年か前に癌でなくしてそのごは娘と二人暮し、ときどきこの女のところにきてるらしい)に原稿を読ませて感想をもとめたりしてる。「これで◯◯(ボスの名前)も終わりね」といったあと、「クリーブのこと、好きなのね」とぼそり。答えないデニス。

自分がその小説のなかでど のように書かれているのか知りたくて仕方がないクリ-ブはその夜彼女の部屋にしのびこむ。とそこには別の男を送りだすその女の姿。親友が裏切られてるように無性に腹立たしくなるクリ-ブ。「自分はどように書かれている? コピーはないのか?」その女を恐怖させるクリ-ブ。
立場上なれ合いの許されないはずの二人が、言葉に出来ない友情を抱いてるのがまた切ない。

やがて大ボスはデニスの子供を人質に取り、小説を出版させない工作をする。
人質にされた彼女の運命はいかに‥‥?
そこに乗り込むクリーブの運命やいかに‥‥??


こんなに愛すべき非道な、劣等感のある、ヒステリックな、普通 の人の、冷酷な殺し屋はいないよ。
めちゃめちゃ切ない。刹那さランキングは<ごんぎつね級>といってもいい。

ストーリー自体がかなりナンセンスなとっかかりなんで、タイトルもダサイ。どうなんだろう??って疑問に思うんだけど、見てみると一見あり得無さそうなストーリーが実にまともに仕上がっている。これはひとえにジョン・フリンの力によるところがおおきいと思う。バイオレンス描写 もクールで素敵。
いままでいろんな殺し屋と呼ばれたキャラクターが数々の映画に登場してきたけど、このクリーブ以上のキャラクターはいないね。私のなかではベスト中のベスト殺し屋、お気に入り殺し屋ランキング1位 はぶっちぎりで『殺しのベストセラー』クリーブですよ。これやっぱりジェームス・ウッズでしかなし得なかったキャラだと思う。
いいわ。。

by ssm2438 | 2011-04-30 23:02
2011年 04月 21日

テロリスト・ゲーム(1993) ☆☆☆☆

f0009381_1415294.jpg監督:デヴィッド・S・ジャクソン
原案:アリステア・マクリーン
脚本:デヴィッド・S・ジャクソン
撮影:ティモシー・イートン
音楽:トレヴァー・ジョーンズ

出演:ピアース・ブロスナン
    アレクサンドラ・ポール

     *     *     *

またまたマイナー映画『テロリスト・ゲーム』(原題:Death Train)。実はニシザワ、この映画えらく好きなのである。 30代の前半東京ムービーが陣取る新井薬師に住んでいたのだが、そのとき入ったビデオ屋に「店長おすすめ!」のタグがはられていたのがこの映画。いやあ、実に期待せずにみたが面白かった。原作は アリステア・マクリーン『ナバロンの要塞』『荒鷲の要塞』『黄金のランデブー』『軍用列車』…etc、戦争ベースのあるミッション遂行させる派とそれを妨げる派の男臭い鬩ぎあいもので有名。願わくばアリステア・マクリーン&ジョン・フランケンハイマーでなにか傑作ものをひとつ撮ってほしかった。ただ、アリステア・マクリーンものが市場で成功した例はほとんどなく、この『テロリスト・ゲーム』もその例外ではない。ただ、B級好きにはどうやらハマる作品らしい(笑)。ま、私自身がそれほどB級好きではないのだか、B級の出来のいい作品ってのはやっぱり憎めない魅力がある。

主役は5代目ジェームス・ボンド で有名な、ボンドをやる前のピアース・ブロスナン。確かによかったのである。というか、主人公の記号として実にそのまんまだったのである。この時代、B級もののアクション主人公といえば、ピアース・ブロスナンというイメージだったのだが、実にボンド役にはぴったり。そう思ってたらなってしまった(苦笑)。
この『テロリスト・ゲーム』の1作目のあとボンドに就任、『テロリスト・ゲーム』の主人公のイメージをそのまま引き継いだのだが、その数年後に発表になった『テロリスト・ゲーム2/危険な標的』では、ボンドとイメージがかぶり過ぎるということなのか、ヒゲをはやしたキャラとして登場してきた。うむむ~~~、『テロリスト・ゲーム』ファンとしてはちょっと納得行かないものが合ったなあ。

そして、ピアース・ブロスナンよりも遥かにこのドラマに影響力をもっているキャラがサブリナ役のアレクサンドラ・ポール。いや~~~、お懐かしい。遠い昔『アメリカン・フライヤーズ』で健康的なオッパイをみせていただいてすっかりファンになり、その後は『800万の死にざま』で 無惨に殺され、その後『ドラグネット・正義一直線』のヒロインとして登場、しかし映画的にはあまりにインパクトなく、彼女の最初で最後のヒロイン役かと思われたその作品も大失敗。そのご彼女をみることなどないのかと思っていたならなんと、こんなところで再会できるとは思いませんでした。いや~~なつかしゅうございました。
映画のなかのサブリナという女性もとってもチャーミング。オリンピックでの射撃のメダリスト、数ヵ国語をあやつり頭脳鮮明。多分ピアース・ブロスナンより物語の重要な機転機転で正確に対処しています。サブリナがいなかったらこの物語は成立してないのです。アレクサンドラ・ポールが一番輝いていた役所ではなかったと思います。というわけで、この世の中に数少ないアレクサンドラ・ポールファン必見のアレクサンドラ・ポールアレクサンドラ・ポールによる、アレクサンドラ・ポールのための映画です。
頭はちっちゃいく頭身的にはシャーリズ・セロンと同じなのですが 身体はすごい。肩幅く、ワークアウトとのたまもので脂肪はほとんどなく筋金入りの筋肉、ヌードの写真集だしてほしいです。デッサンの勉強用に買いますよ。この物語はまだ、そんな彼女ががいがしワークアウトに励む前なのかな?一番良い頃ではなかったでしょうか。映画の中からも感じられる彼女のがんばり感、一生懸命感がとっても伝わって来ます。


物語りはというと‥‥、
米ソ両国の冷たい戦争が終わってしばししたのち世界、以前の冷戦状態のほうが望ましいとロシアの極右軍人がドイツで核爆弾を製造、それをイラクへと陸路輸送する話。
この陸路っていうのがとってもいい。爆弾は鉄道にのせてイラクへ。爆弾を運ぶ側にしても、ちょっと切り替えポイントをいじくられればそれで終わりの可能性大、そんなハンディを背負っての輸送。ゆえに列車には人質がとられ、犯人サイドかrなお要求が通 らなければ人質がひとりひとり殺されて行く。いや~~、鉄道モノっていいですね。移動する限定去れた世界。道すがらが決まっているので手が出せそうなものだけど、その手をださせないための手段がいろいろ。実に事件の設定がアナログで良いのです。

そして、この物語の数年後続編が登場『テロリスト・ゲーム2/危険な標的』、こんどは北朝鮮相手。さすがに2作目はちょっとコミカル感/B級度が増した感じでイマイチだった。しかし、これはこれでそこそこ楽しい。そしてサブリナ@の一生懸命さもやはりここでも発揮されててどうにもアレクサンドラ・ポールファンいはたまらない映画。
このシリーズは、電子工学的にあまりにも進み過ぎてた007シリーズとくらべて、まだアナログ感覚がのこった70年代~80年代の007を見るような そんな楽しさがあるのです。

私のなかでは、007ってこういうふうに作ってくれたら面 白いのになあ‥‥って思わせてくれる、もう一つの007映画っていう気がします。というわけで、アレクサンドラ・ポールファンの以外の方でも、アナログ感のある007が好きだった方はちょっと試しにみてもいいかもって思います。けっこう気に入ると思います。

アレクサンドラ・ポールの若かりし頃
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by ssm2438 | 2011-04-21 01:36
2011年 04月 05日

東京物語(1953) ☆☆☆☆

f0009381_205675.jpg監督:小津安二郎
脚本:野田高梧/小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:斎藤高順

出演:
笠智衆 (平山周吉)
東山千栄子(妻・とみ)
原節子 (二男の嫁・紀子)
杉村春子 (長女・金子志げ)
山村聡 (長男・平山幸一)
香川京子 (二女・京子)

    *     *     *

小津映画のまさしく金字塔、無敵のベスト1

でも、高校生か大学生のころ私はこれを見て、面白いとは思えなかった(苦笑)。すいません。修行がたりませんでした。でも、その頃の私が面白と思わなかったのだから、それも重要な意見の一つ。今の自分だけが観たらなら☆5つにするかもしれないが、昔の自分の感性も信じているのでちょっと間引いた。

まず今回見たのは状況は、NHKプレミアムが特集している『BSシネマ 山田洋次監督が選んだ日本の名作100本』、その第一回ということで観ることになった。前々から「もう一回はきちんとみないといけないな」とは思っていたので、これは良い機会だと思ってとびついた。
で、観た印象は・・・、『男はつらいよ』のルーツはここにあったんだ!って思った。霧笛の使い方とか、汽車の音とか、山田洋次がつかっている演出パターンがけっこうここにもある。ああ、これ、山田洋次って小津映画をかなりみてるなって思った。職人ゆえの演出パターンをいくつかもっているのである。自分なりの演出法則とか演出ブロックがいうのが既に構築されていて、使うべきところにそれを当てはめて使っていく。これは山田洋次にも、見て取れることなのだが『男はつらいよ』を見た後これをみるとそれがよくわかる。
『晩春』の結婚式にむかう紀子を送り出した後、杉村春子がもどってきて、部屋のなかを一周して出て行くシーンがあるが、この『東京物語』この「杉村春子、やっぱりもう一回」演出が登場する。母親が既得だという知らせ絵をうけて、兄と相談し、喪服はもっていったほうがいいわねと決めて、その日の夜の急行の切符を買いに出て行くシーン。玄関までいった杉村春子がまた戻ってきて、なにか兄に言うことがあったんじゃないかな・・と言いかけるのだが、そのまま戻って出て行く・・というシーンがある。
ああ、これ、小津のパターンの一つなんだって思った。

この映画の前半のテーマは「二人で味わう『みんな元気』」。『みんな元気』というのは、『ニューシネマ・パラダイス』ジュゼッペ・トルナトーレの映画で、妻を亡くしたマルチェロ・マストロヤンニが、自分の子供達を訪ねて旅をするという話。しかし、そこで遭遇するのは「お父さん、元気だった!」とかいう暖かい歓迎ではなく、心の中では邪魔者扱いされてるのだが、表面的には気をつかって愛想を降りまわれている状態。そんな中でみんなの中にいるのに疎外感=孤独を感じる・・という映画だった。
きっとトルナトーレもこの『東京物語』は見てるね。この映画では、それが尾道から東京に出てきた老夫婦(笠智衆東山千栄子)なのだ。ペアで味わう疎外感というのが実に微妙でよい。

二人でいるということは、どこか二人で共通認識をもとうとする潜在意識がある。それぞれが、「疎外感を感じる」と思っていても、相手にはそう自分が思っているとは感じさせたくない。その微妙はやり取りがとても演出冥利に尽きるのである。
長男・山村聡のところでは、二人が泊まることになって部屋を明け渡さなくてはならなくなった孫達には毛嫌いされる。本来なら体裁のために愛想くらいふりまいてくれそうなところを、露骨に避けられる。東京見物にでもと思っていると、その日にいきなり急患(長男は街医者)がはいりいけなくなると、子供達の不満は爆発。それは長女の杉村春子にしても同じ。彼女は美容院をひらいているのだが、そっちのほうで手一杯、親夫婦の相手などしている暇はない。なんとか相手してくれるのは死んだ次男の嫁である原節子だけ。

「描きたいものがあったら、その反対を描け」というのは演出の鉄則である。原節子の思いやりを絵が問うとするにはまず、原節子でない人間の思いやりのなさを描くのが大切。それがあってはじめて原節子の思いやりが際立ってくるのである。

子供の頃は「こんな親、うざいなあと思ってみていたのだが、自分がだんだんとうざがられる存在になりかけている今、この映画を見るとなかなか切実なものがある。昔は必要とされていたが、今は不要とされ、邪魔ななものとして存在しているのである。そこに自分の存在意義がないのである。それをおのおのが感じ取りながら、でも、それを共有するのは惨めであり、お互いの人生をなとか肯定していたいとする二人でする無理やり納得。しかしそうするしかないのである。そして二人だからそれが出来るのである。
しかし、東京から帰ってすぐ妻の東山千栄子は危篤に陥り命を落とす。行事として集まる子供達。葬式もおわるととっとと帰ってしまう子供達だが、原節子だけはもう少し残ることにする。
若い末娘には兄姉達の非人情がたまらなかったが、原節子が大人の心情というものを肩って聞かせる。そしてもその夜、自分も夫のことを既に忘れかけていることを告白する。そんな原節子をみて、笠智衆は、「忘れて良いんだよ。それが自然なことだ」とさとし、亡き妻の形見の時計を原節子に贈りのであった。

by ssm2438 | 2011-04-05 20:57
2011年 04月 04日

フランケンシュタインの花嫁(1935) ☆☆☆☆

f0009381_21144866.jpg監督:ジェームズ・ホエール
脚本:ウィリアム・ハールバット
    ウィリアム・ボルダーストン
撮影:ジョン・メスコール
音楽:フランツ・ワックスマン

出演:
ボリス・カーロフ (人造人間)
コリン・クライヴ (ヘンリー・フランケンシュタイン)
アーネスト・セジガー (プレトリアス博士)
エルザ・ランチェスター (女性型人造人間)

       *        *        *

タイトルはB級映画だけど、実は『フランケンシュタイン』の原作をきちんとつくろうとしている。

<1931年に制作された『フランケンシュタイン』のあらすじ>
若き科学者ヘンリー・フランケンシュタイン(コリン・クライヴ)は、生命創造の研究に没頭し、助手のフリッツと共に墓地から盗み出した死体を接合し、雷光の高圧電流を浴びせ新たな人間を創造するという実験を行う。だが、その肉体には犯罪者の脳が埋め込まれてしまったため、凶暴な怪物が誕生してしまう。怪物は研究室から脱走し、村で無差別に殺人を犯す。怒れる村人たちに風車小屋に追い詰められた怪物は、燃え盛る小屋諸共崩れ去った。

しかし、その怪物は死んではいなかった・・というのがこの話。
前作の映画では、フランケンシュタイン博士が、人造人間を作る過程とその結果出来上がってしまった人造人間が人間を恐怖に陥れるという部分にスポットをあてたホラー映画であった。しかし、メアリー・シェリーが描いた『フランケンシュタイン』という物語はそのあとが実に面白い。というか、そのあとこそが彼女が書きたかったこのドラマなのだろう。そしてそれを映画にしたのがこの『フランケンシュタインの花嫁』である。

ちなみに原作の主人公の名前はヴィクター・フランケンシュタイン。この映画の主人公はちょっと変えてあってヘンリー・フランケンシュタインとなっている(苦笑)。

実はこの映画のLDを持っている私(笑)。前作の『フランケンシュタイン』には興味を示さなかったのだけど、もろもろの本をしらべてみると、こちらのほうが断然面白いうので、20年前にこの映画のレーザーディスクを買ったのでした。

原作のフランケンシュタインの怪物は、優れた体力と人間の心、そして、知性を持ち合わせていたが筆舌に尽くしがたいほど容貌が醜かった。そのあまりのおぞましさにフランケンシュタインは絶望し、怪物を残したまま故郷のスイスへと逃亡。厳しい自然の中を獣のように生き延びるが、醜さゆえ人間達からは忌み嫌われ迫害される。
これに対して前作の映画コンセプトは、犯罪者の脳が埋め込まれている・・ということになっているので、その辺は多少の違いが生じているのだけど、人間性をもってきてはじめて、自分の醜さしり、嫌われることしかない人生に絶望感を覚えるその怪物。

森の奥に逃げ込んだ怪物(ボリス・カーロフ)がたどり着いたのはある一軒家。その山小屋から漏れ聞こえる楽の音に心引かれて訪れると、小屋の主は親切にもてなした。その老人は目が見えないのだ。初めて火との親切を知った怪人は老人から言葉を教わり、楽しい幾日かを送ったが、またまた追手に発見されて逃亡する。
納棺堂に隠れた怪物は、そこでプレトリアス博士(アーネスト・セジガー)と出会う。プレトリアス博士は、その怪物のために伴侶を作ろうといい手名づける。プレトリアス博士はフランケンシュタイン博士の新妻エリザベス(メアリー・ゴードン)を怪人に襲わせ人質にとる。エリザベスを助けるためにあの手術をやるしかないフランケンシュタイン博士。かくてついに女怪の創造は成功した。同じ醜いもの同士なら自分は愛されると考えた怪人だったが、女怪(エルザ・ランチェスター)は自らのおぞましさに絶望し炎の中に身を投じた。怪人は怒りと失望の余り、全屋に通ずる電流のスウィッチを入れ自らも自殺をはかる。怪人はプレトリアス博士と女怪と共に死んでしまった。フランケンシュタイン博士は、エリザベスと共に逃れるのだった。

原作の物語の展開よりも、後につくられるケネス・ブラナーの『フランケンシュタイン』よりも、物語と流れてとしては、この『フランケンシュタインの花嫁』が一番原作のスピリットをスマートにちょっとセンチメンタルに、ドラマチックに、そして観易くつくった映画ではないかと思っている。

by ssm2438 | 2011-04-04 21:15
2011年 03月 31日

男はつらいよ8/寅次郎恋歌/池内淳子(1971)☆☆☆☆

f0009381_22222277.jpg監督:山田洋次
脚本:山田洋次/朝間義隆
撮影:高羽哲夫
音楽:山本直純

出演:
渥美清 (車寅次郎)
志村喬 (博の父)
池内淳子 (六波羅貴子)

       *        *        *

うぬぬぬぬぬ。これは地味だけど名作だ!

どわああああああとある一瞬から泣けるんじゃなくて、じわじわじわじわじわじわじわ・・ってきていつの間にか目の周りが湿ってる感じ。強烈な感動ポイントをつくってる映画じゃないのだけど、むちゃくちゃ質の高い映画だね。『男はつらいよ』のシリーズのなかで一番気品のある一本だろう。
この映画のなかでは、辛いことをみんなが心で噛みしめて出さない。意地でもださない。志村喬素敵。寅さんも素敵。池内淳子も素敵。この映画のあと死んじゃった森川信(おいちゃん)も素敵。みんな素敵過ぎる! 私の趣味はおいといて、寅さん映画の最高傑作はこれかもしれない。

どの映画にも幸せになっていはいけない人といのがいるものだ。『アリーmy Love』のイレインもそうだけど、この映画の志村喬も幸せになったらいかん人だね。この人がこれからの人生ずっと針のむしろだからこの映画は面白い。とくにこの映画においてに、博の父(志村喬)の全人生否定はすさまじい。これだけ否定されてなにも返さない志村喬も素敵だ。そしてその寂しさを汲んであげる唯一の存在の寅さんも存在感も素敵だ。

物語は、例によって車寅次郎が《とらや》のめんめんとけんかをして出て行ったあと、博のところに電報が届くところから始まる。「ハハキトク」。とりいそぎ岡山の高梁市にむかった博とさくらだが、とき既におそく母は死んでいた。この通夜の席がすごい。博の兄二人は、体裁をつくろった言葉しかはかないなかで、博だけは感情を爆裂される。

「おかあさんが人並みの女性のような欲望をもっていなかったなんて嘘だ。僕のてをひいて港にいき、出て行く船をみながら、私の夢は外国にいくことだったの。舞踏会で胸の開いたドレスをきて踊ることだったの。でも、お父さんと結婚してそんな夢はあきらめたわと笑っていってた」と話す博。「もう思い残すことはない」といって死んでいった母の言葉に、「最後まで嘘をついていたんだ」と嘆く。「おとうさんの女中みたな生活を幸せだなんて思っていたとしたら、これ以上可哀想ことがあるもんか」と号泣する博。
父ちゃん全否定である。よくもなあこんな残酷な台詞をかけたものだ感動してしまう。そして一言も反論しない志村喬。またこれがいいんだ。この葬式のシーンは名シーンだね。凄過ぎです!!

みんなが帰った後の志村喬はさびしそうだなと思い、《とらや》から電話をかけるさくら。しかしその電話にでたのは寅次郎だった。孤独な志村喬と一人だけ時間をともにすることができる寅次郎。山田洋次演出おそりべし!

東京にもどってからは今回のマドンナ池内淳子と寅さんの話。今回のマドンナ六波羅貴子(池内淳子)は夫と死に別れて、女で一つで子供を育てている喫茶店の主人。子供も、新しく転向してきたクラスになじめないでいる。しかし、寅次郎が近所の子供をまきこんで遊んでやると、貴子の子供も一気にまわりの子供達となかよくなって、喫茶店に友達をつれてくるようになる。しかし、貴子にも悩みがあった。どうも借金があるらしい。その取立てに苦労している貴子をみて、がむしゃらに道端で露店をひらいている寅次郎。切ない。警官がきて「あんた許可はとってるの」といい。「すいません、すぐ片付けます」といって切なくものをしまう寅次郎。その売っている本をみて「なに、つまんねえの」と吐き捨てる警官。無言の寅次郎。どんなに寅次郎がモノを売っても、こればっかりは何も出来ない。
「なにか、嫌な奴でもいるんじゃござんせんか。指の一本や二本、いや片腕くらいは・・」という寅次郎の言葉に感動する貴子だが、気丈な彼女はお金のことは大変だけど自分でなんとかしていくと言いきる。

貴子も苦しみを噛みしめて言葉にださない。寅次郎も、なにも言わず旅にでていく。みんながみんな自分の苦しみを自分の喉の奥に飲み込んで意地でもださない。

「私も寅さんみたいに旅にでたいわ」という貴子。もちろんそんなことは思ってもいない。貴子にとってはそれは現実逃避であり、憧れてはしてもありえない卑怯なこと。その言葉をきいて身を引く寅次郎。だあああああああ、泣ける。別れも言葉も失恋のイベントすらないのに、《とらや》にかえり荷造りをはじめる寅次郎。そとは木枯らしの夜。ひきとめるようとするさくらに「おまえ、オレのようになりたいか?」と聞くと、「なりたいわ、お兄ちゃんのようなって、私を心配させたい」という。また、だああああああああああああ。
そして木枯らしのなかを出て行く寅次郎。

この映画を最後においちゃん役の森川信が肝臓ガンでなくなりました。たぶんこの時すでにガンにおかされていたのでしょう。きっとおいちゃんも、苦しみを喉の奥に飲み込んで演技していたのでしょう。

総てが素晴らしい寅さん映画の金字塔である。

by ssm2438 | 2011-03-31 08:23 | 男はつらいよ(1969)