西澤 晋 の 映画日記

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2011年 03月 31日

男はつらいよ11/寅次郎忘れな草/浅丘ルリ子(1973) ☆☆☆☆

f0009381_16353044.jpg監督:山田洋次
脚本:山田洋次/宮崎晃/朝間義隆
撮影:高羽哲夫
音楽:山本直純

出演:渥美清(車寅次郎)/浅丘ルリ子(松岡清子)

       *        *        *

リリーさんの本妙は松岡清子である。

リリーさんシリーズの中では一番好きである。しかし、このあと登場する『男はつらいよ・寅次郎相合い傘』『男はつらいよ・寅次郎ハイビスカスの花』に比べるとリリーさんの描きこみ比は少ない。後の2本というのはリリーさんに特化した話なのだが、この話はまだ全体のバランスの中で、一話数のマドンナとして描かれている。リリーさんの人格的な背景を紹介するにたるだけのダークは描写があり、リリーさんの不幸さが一番表面化している。もしかしたらリシーズのなかで一番好きかもしれない。なにせ全部見てないからなんともいえないが、リリーさんシリーズで一番といえば、シリーズで一番の可能性は高いのである。

しかし、寅さん映画というのは1969年から年に2本づつ(多いときには3本の年もある)作られていたのですね。知らなかった。それが後半になってくると年に1本ペースにかわってくる。これは『釣りバカ日誌』の脚本も手がけるようになっており、さすがに山田洋次が他の作品も作ってみたくなったのだろうと勝手に推測する。

シリーズを通じて重要な立場になっていくリリーとの出会いはこんな感じだった。
北の大地をひた走る夜汽車のなかで寅次郎(渥美清)は涙をふく女をみかける。やがて網走におりたった寅次郎は品もを仕入れて街角でレコードを売うる。しかしなかなか客はくいついてくれない。橋の上でしょんぼりしてると「なかなか売れないねえ」と声をかけてくる女がいた。地方のキャバレーを廻って歌っている三流歌手で松岡リリー(浅丘ルリ子)といい、レコードも出したことはあるらしい。寅次郎の売っているレコードのなかに「私のレコードもあるかしら」と言うはあるはずもない。しかし同じドサ回り人生、互いの気持ちがどことなくシンクロしていく。

この映画の感動ポイントの一つは音楽。
リリーさんの登場シーンでかかる松岡リリー愛のテーマ(ニーノ・ロータ『ゴッドファーザー愛のテーマ』風)が実に哀愁をさそうのである。その物悲しいテーマ曲をバックにリリーがかたるドサ回り人生。
ここの画面がまたいい。手前に丘に上がった漁船の舵とおっきなスクリューなめて二人を撮っている。できるなら夕暮れまでひっぱってこの絵をシルエットの望遠で切り取るカットを一発入れてほしかった。

この出会いで、自分達を「あぶくのような人生」と語るリリーの言葉に心機一転、寅次郎は北海道の開拓農家の手伝いをボランティアでやりたいと申し出る。希望者を紹介する機関を通じて玉木という農家に受け入れてもらった寅次郎だが、慣れないハードワークでダウン。その連絡を受けたさくらが寅次郎を回収にはるばる北海道までやってくるしまつ。そして柴又もどった寅次郎をリリーが尋ねてくる。《とらや》で家族のいる空気に触る。

そのあと寅次郎の昔の恋愛ネタなどが紐解かれるが、このくだりが実に楽しい。つぎから次へと出てくる失恋相手の女の名前。そんな話からリリーの恋愛に話をふられる。「あんたに惚れる男なんて一杯いるだろう」という言葉に「惚れられたいんじゃないの、惚れたいの」というリリー。付き合った男はいるけど、好きになった男はいなかったと言うリリーに、「でも初恋はあるだろう? リリーさんの初恋は?」と聞かれ沈黙のリリー。幼少のころから家を飛び出したリリーにそう呼べる恋愛などなかったのだ。・・・・そして、「もしかしたら私の初恋は寅さんかもしれない」と言う。
その夜は《とらや》に泊まることになるリリー。布団を敷かれていると服をきたままそのなかにもぐりこむ。のりのはってあるシーツに感動するリリー。声をかければ隣から寅次郎の声がする。下にはおじちゃんとおばちゃんがいる。
さりげなくリリーの不幸がにじみ出る描写が素晴らしい。

そしてその後、リリーの不幸の描写が具現化してくる。飲み屋をやっている母をたずねるリリー。個々では清子と呼ばれる。彼女の本名である。会えば金をせびる母。娘の名前でなんとか客を自分の店につなぎとめようとする母、そんな母に「それでも親のつもりかい。あんたなんか、大嫌い。いなければいい」と言うリリー。

誰もが寝静まったその夜《とらや》の戸口を叩くリリーの声がする。世間体など考えず、酔って悪態ついくリリー。歌っているとよっぱらない絡まれ、その男をひっぱたいたらマネージャーに怒られたというのだ。今すぐに旅に出ようというリリー。ああ、出よう出ようと寅次郎。
寝静まった《とらや》の店内でなんとかなだめようとする寅次郎に「寅さんにはこんないい家があるんだもんね。あたしと違うもんね・・」というリリー。おばちゃんも心配してふすまから顔をだす。酒を飲んで歌いだすリリーはさすがにうるさい。「昼間はみんな働いて、疲れてねてるんだから・・、ここはカタギの家なんだぜ」とさとす寅次郎。
「あたし帰る」といって戸口に向かうリリーを止める寅次郎だが、「どうせここはあたしの来るところじゃないだろう。寅さん、あたしの話なんにもきいてくれないじゃないか・嫌いだよ」と涙を一杯駆け出していくリリー。さすがに深夜の、それも《とらや》での悪態に怒りをおぼえる寅次郎は、おばちゃんの「止めなくて?」の言葉も「かまわねえよ」と吐き捨てる。

そのあと寅次郎がリリーアパートを訪ねる。はいってみると鍵はかかってない。汚く狭い4畳半のアパート、となりは子供の声がうるさいアパート。今朝方いるものだけもって出て行ったとか。「こんなところであいつはひとり暮らしていたのか・・」とリリーの人生を知る寅次郎。めちゃくちゃ切ない。

その後そのまま旅に出ることにした寅次郎は上野駅までさくらに荷物を持って来させる。自分の留守中にリリーが来たら、二階に下宿させるようとさくらに頼み、子供に飴でもかってやれと札だそうとするが財布の中には500円札1枚。それをみて、自分の財布から札をとりだし、綺麗に伸ばして寅次郎の財布にいれてやるさくら。なんでこんなんで泣かされるんだとおもうくらい、こんな描写でも泣かされてしまう。

その後《とらや》にリリーからはがきが届く。寿司屋の板前石田良吉(毒蝮三太夫)と結婚して小さな店を出したという。その店を尋ねたさくらは、以前とは想像もつかぬ程血色がよく、生き生きと働いている清子と呼ばれるリリーを見るのだった。

by ssm2438 | 2011-03-31 05:37 | 男はつらいよ(1969)
2011年 03月 26日

男はつらいよ21/寅次郎わが道をゆく/木の実ナナ(1978) ☆☆☆☆

f0009381_2045915.jpg監督:山田洋次
脚本:山田洋次/朝間義隆
撮影:高羽哲夫
音楽:山本直純

出演:
渥美清 (車寅次郎)
木の実ナナ(紅奈々子)
武田鉄矢 (後藤留吉)

       *        *        *

なんで雨の中で踊る奈々子が描けんかったかなあ。。。。

若き日に槇村さとるの『ダンシング・ゼネレーション』『ニューヨークバード』に燃えた私としては、この手の話は好きなのでついついなんでも感動してしまうスイッチが入るようになっていて、なんでもOKモードになってしまう。しかも物語としてもとってもいいと思う。ただ・・もうちょっとスマートに、ハードにできんかったかな。生理的に武田鉄矢が嫌いで・・・、画面のなかで観たくないんだ(笑)。素材が良かっただけにちょっともったいない気持ちにはなった。。。

ただ、構成的にはかなりしっかりしてると思う。「夢・・・、夢の終わりは現実」。
女が現実を選択していくのに対して、ブ男連合のふたりはそれでも見果てぬ夢を追い続けるという流れで終わってます。ただ、この二人で描かれると、夢を追うというの名の現実逃避という風にもとれなくもないのでどうなんかな・・。

今回のマドンナ・紅奈々子(木の実ナナ)はさくらの同級生で、小さい頃からダンサーになりたくて、成し遂げた人。しかし、その彼女も30を越え、徐々にせまってくるからだの衰えに恐怖しつつ、今をキープしようと必死に努力している。そんなときにずっと付き合っていた男からプロポーズされ、どうしようかと悩んでいる夢と現実のハザマで生きている女性。
私もアニメーターになりたいと子供の頃からおもい、それを成し遂げるために実行してきたので、この想いは実に切実にわかる。ただ、私達の仕事はもうちょっと歳とってもやれるけど、プロのダンサーはそういうわけにはいかない。歳ともに身体の衰えは容赦なく襲ってくる。プロポーションだっていつまで保てるか・・。そのためには食事制限もしつづけなければならない。
ここまでくるともう、「夢」とか、そう呼べるものではないのである。夢見て努力してきたかつての自分を裏切らないために、意地をはっているだけなのだ。実際それにしか人生かけてないので、いざやめたからといってほかに何か出来るなんて器用な生き方が出来るとも思えない。結局のところそこにしがみつくしかないのである。それが判ってて彼女も、私も今の仕事を選んだのだから文句は言わないのだけど・・・、でも、ダンサーの寿命のほうがアニメーターよりはるかに短いので大変だ。

<あらすじ>
九州から柴又に連れ戻された寅次郎(渥美清)は、さくらの同級生の奈々子(木の実ナナ)と再会する。嵐のように《とらや》に現れては嵐のように去っていくにぎやかな奈々子。子供の頃からの夢を成し遂げて、いまはSKDの舞台にたっている彼女だが、人に言えぬ悩みがあった。30を越えた彼女は、老いが迫ってくるのに恐怖しつつ、一方で10年つきあっている男からプロポーズを受けていた。その世界では結婚すれば引退というのが慣わしらしい。ダンスは続けたい。でも老いはいずれ自分を捕まえる。なので結婚もして安心したい。夢と現実が彼女の心の中で渦巻いている。そんな時の寅次郎と奈々子の再会だった。
奈々子は、意地で、かつて「夢」だったもにしがみついた。男に「さよなら」を言った。
気持ちがすさんだ奈々子は《とらや》を訪れる。さくらに男と別れたことを告げる。雨が降ってくる。寅次郎は奈々子を彼女の部屋まで送っていく。孤独にさいなまれた奈々子は、帰ろうとする寅次郎を引きとめ一晩中飲み明かそうという。しばし考えた寅次郎だが残ることにする。

べつに“H”にいたる流れではないのだろうが、明らかにそれを意識する作りになっている。『男はつらいよ』のなかで、ここまで“H”への流れを感じさせたのは後にも先にもこのシーンくらいだろう。のちのち『寅次郎あじさいの恋』でそれらしいシーンがあったが、あの時はいしだあゆみのほうにその意思はなかっただろうから。あのときあったのは「誤解されるといやかも」という想いだっただろう。しかし今回のこのシチュエーションは、明らかに奈々子は「そうなったらなったでもいいや」と思っているのである。寅次郎が性の対象として描かれたのはこれが最初で最後かもしれない。そのくらい貴重なシーンだ。

しかし、ドラマはもちろんそういう方向には流れない。雨がふっている窓辺にたって奈々子が言う。

「こんな日は外に飛び出して雨のなかで踊りたくなるの」。

・・・・なぜそうしない!!!!!!!!!
そのシーンを見ている人は見たがっているのに。なぜ!!!!!
このあとの山田洋次演出ははっきりいってダサすぎです。

外をみていると外に別れを言った彼が雨の中こちらをみている。どうしようかと思っている奈々子。私などは、寅次郎が窓辺に歩いていかないか心配で仕方がない。そとから奈々子の部屋をみている男に、奈々子に歩み寄る男の影なんか見せたらどうなるんだ???ってもう心配で心配で・・・(苦笑)。
結局のところは奈々子が雨のなかに飛び出して、キスして、どうやらそのあと結婚=引退をきめたらしい・・という展開。

その前の段階で「私踊ってくる」とか言わせて雨のなかに飛び出す奈々子。
「おいちょっとまてよ」とかいっておいかける寅次郎。
雨の中で切なく踊っている奈々子の頬が濡れているのは雨に濡れただけではなさそうだ。
ふとみると、ちょっとはなれたところでずぶ濡れで踊っている奈々子をみている人影あり。
以下、その男にかけよりキスする奈々子。
人知れずその場をあとにする寅次郎。そしてまた旅に出る。

・・・でよかったのに。

それから1ヶ月して、最後の公演の始まる。
その公演が始まる前に、先輩のダンサーに結婚引退の報告。この辺の流れはなんかいいやね。そのお姐さんはきっとそういうこともあっただろうに、チキンで、男と一緒になれなかったのだろう。そういう人生もあったのだぞ!という描き方がなかなか味わい深い。

舞台に出る前に、「私やめたくない」というシーンはちょっとドキ!
この映画の流れをみてて、その言葉がどこまでホントだったのかちょっと不自然に感じた。
この台詞だと、ダンスが結婚かの二者択一を迫られて、やめたくないけど結婚をとったという流れを意味する。しかしそうなのだろうか? 私の感じだと、老いと戦うことに疲れて辞めたのだと思っている。疲れたというのはちょっと違うかもしれない。ただ、今はまだ戦えるけど、あと5年したらどうなのだろう・・?と考えた時にそこまでもたないかもってどこかで感じたのだと思う。だからだから退けることにしたのだと解釈した。たぶんその流れのほうが正しかったと思う。その場合は「私やめたくない」は合い得ない台詞なのだ。

そして最後の歌。ステージで歌う奈々子をみつめるさくら。じつはその会場には寅次郎もひとしれず来ていて彼女の歌を聴いていた。そして途中で出て行く寅次郎。会場の外に出ると、アホな山田洋次は歌をきりやがる。で、かめらが会場にもどるとまた歌がイン。・・・・ここは許せんかったなあ。そこはベタ流しだろう。
会場をでて人ごみをあるいて去っていく寅次郎にもベタ流しで歌をかけて、やがて会場にカメラを戻し最後まで歌わせてフィニッシュ・・・・。

ああ、もったいない。

いろいろ文句のある話でしたが、『男はつらいよ』の中ではけっこう上位にはいる話でした。
私の記憶の中で、木の実ナナがここまで輝いた映画はほかにない。

by ssm2438 | 2011-03-26 05:46 | 男はつらいよ(1969)
2011年 03月 18日

男はつらいよ30/花も嵐も寅次郎/田中裕子(1982) ☆☆☆☆

f0009381_11593746.jpg監督:山田洋次
脚本:山田洋次/朝間義隆
撮影:高羽哲夫
音楽:山本直純

出演:
渥美清 (車寅次郎)
田中裕子 (小川螢子)
沢田研二 (三郎青年)

       *        *        *

個人的には寅さんシリーズベスト1である。
きっと反対意見は多いだろう(苦笑)。

見た目はハンサムだが、自分に自信がなく対女性関係はまるで駄目な男が、寅さんのプッシュもあってめでたく好きな女性と結婚するというお話。
そのハンサムだが自信のない男を沢田研二が演じ、彼が恋する女性を田中裕子が演じている。実生活でもこの映画がきかけとなって付き合い始め(当時沢田研二は既婚)、7年後に周囲の反対を甘んじて受けながら結婚することになる。

とにかく田中裕子がめっちゃかわいい。『夜叉』のときの田中裕子もかわいいが、この映画の田中裕子もそれに勝るともおとらないくらいかわいい。おまけに「螢子」という名前がいい。今回は和服ではない現代風の女性。白いセーターにジーパン、黒い髪を長く伸ばして遠くから見るとむちゃくちゃエレガント。しかし近づいてみるとこれが恐ろしいほどのあどけなさがあり、なおかつそこに大人の色気があるという魔性を感じるかわいさです。この人のかもし出すあの空気感はすばらしい。日本映画の至宝のひとつですね。

3人の出会いはこのようにして始まる。
東京の同じデパートの同僚・小川螢子(田中裕子)と一緒に九州を旅行中のゆかり(児島美ゆき)は、大分の温泉町・湯平でハンサムな男を発見、その男(沢田研二)の入っていった旅館にその日は泊まることにする。実はその旅館、寅次郎(渥美清)のなじみの場所であり、寅次郎もその旅館に泊まることにする。夜は宿の主人と晩酌を楽しんでいた寅次郎。そこにさっきの二枚目青年が現れる。彼は三郎といい、昔ここで女中をしていた女の息子だという。生前三郎のははこの旅館の思い出をかたっていたため、納骨のまえに母のゆかりの旅館に足を運んできたのだ。その話に感動した寅次郎は彼女の知り合いの人をあつめ、坊さんを呼び供養をしてあげることにする。そこにたまたまひっぱりだされたゆかりと螢子。
そんなことがこの物語の始まりだった。

初登場のシーンではメガネをかけてあまり顔がみえない田中裕子だが、そのかもし出す雰囲気はとても素敵。めだたせないように演出されていてもやっぱり彼女を見てしまう。ぜいたく温泉につかるシーンもあるがヌードはみせてくれない。残念。一緒にはいっている児島美ゆきも『ハレンチ学園』などで有名でありヌードも疲労しているので、めずらしく二人で温泉につかるシーンくらいはいれたのだろう。
美保純のときもそんなもんだし。ま、彼女の場合はとりあえず後姿のヌードはみせてくれたけど。このシリーズではこのくらいのサービスが限界だろう。

翌日旅館を出るゆかりと螢子は寅次郎と一緒に駅までいくことになる。それこに納骨をすませた三郎がいっしょになり、しばし大分のサファリパークなどの観光地めぐりで楽しい時間をすごす。先に航路で東京にかえる二人を見おくる寅次郎と三郎。螢子は寅次郎との楽しい時間に去りがたい思いを残すが、三郎もまた螢子に一目ぼれしてしまい、別れぎわに「ぼくとつきおうてください」とぶっきらぼうに言ってしまう。戸惑う螢子はそのままホバークラフトにのり去っていってしまう。
「そんないきなりじゃだめだ」と恋の手ほどきをする寅次郎。あいもかわらず他人の恋愛には強気発言連発なのである。

今回《とらや》で家族団らんにひたるのはマドンナではなく沢田研二。いつも死んだ母とふたりでの食事だったので、《とらや》のにぎやかな団らんに幸せを感じる。彼はやがて帰り際に、螢子との出会いをなんとかセッティングしてくれないかとお願いする。
そんなわけで、珍しく自分から螢子の職場に電話をかけた寅次郎は、螢子とちょっとおしゃれなバーで飲むことに。再開をよろこぶ螢子。飲み屋の席での田中裕子もまためっちゃかわいい。この人の動きをみているだけで魅了されてしまう。しがし話が三郎のことになるとちょっと・・・・、「だって・・・二枚目過ぎない?」という螢子。

今回の寅次郎はアドバイザーとう立場なので決して降られることのない安全地帯の恋愛(←あえて恋愛と書く)なのである。三郎は螢子のこごが好きすぎてなにも言えない。そんな三郎が嫌いではないが、一緒にいてもチンパンジー(三郎は動物園の飼育係)の話しかしない三郎を見ているとどうしていいのかわらない螢子。そんな螢子は三郎よりも自分と一緒のときのほうが楽しく見える。それが寅次郎にとってはとても優越感を感じる幸せな時間でもある。
世間でもよく発生する状況である。付き合っている同世代の男女だが、いまひとつギクシャクして一緒にいてきもちよくない。そんな彼女にとっては、あまりがつがつしていない年上の男のほうがいっしょにいて居心地のいい。そんな男の心裏がとても素敵な映画なのだ。

そんな決して振られることのな安全地帯の恋愛スタンス、それがこの映画の寅次郎の立ち居地なのだ。しかし、それでも最後は沢田研二と田中裕子はひっつくのが物語の定め。絶対に切られないはずの立ち居地なのに切られる寅次郎。今回、ふたりがひっついたという話をきいて再び旅にでる寅次郎の姿には涙がでた。たぶんそれまでの話のなかでは一番ダメージでかかったんじゃないだろうか。他の話ではマドンナのほうから好意的に想われていても、結局最後はチキンで自分で降りてしまうパターンがほとんどだが、今回の話では自分のほうがナンバーワンだと思っていたのに、実はそうじゃなかったという圧倒的な優越感からの喪失感なのだ。

この映画はライト感覚な映画ではあるが、恋愛映画の超スタンダードであり、男心を繊細に謳った傑作だと思う。すばらしい!!!

by SSM2438 | 2011-03-18 23:28 | 男はつらいよ(1969)
2011年 03月 16日

男はつらいよ32/口笛吹く寅次郎/竹下景子(1983) ☆☆☆☆

f0009381_1235452.jpg監督:山田洋次
脚本:山田洋次/朝間義隆
撮影:高羽哲夫
音楽:山本直純

出演:
渥美清 (車寅次郎)
竹下景子 (朋子)
中井貴一 (一道)
杉田かおる (ひろみ)
松村達雄  (和尚)

       *        *        *

竹下景子シリーズ第1弾
地元(岡山)が舞台になるのはいい。でもこの話の舞台は高梁市なので、縁もゆかりもないのだけど・・(苦笑)。


このシリーズは全部で10本くらいしか見てないと思うのだけど、私が見た中では一番心にのこってる作品。総合的には寅さんの良さがかなり出ている映画だと思う。しかし、みてないまでも一応のリサーチをしたところのよると、お話的には浅丘ルリ子のリリーさんモノが人気があるらしい。残念ながら浅丘さんはみていないのだ。

ただ、個人的にはマドンナ・ベストワンは竹下景子さんである。なんでも竹下景子はこのシリーズで3回マドンナを演じたとか。でも、浅丘ルリ子みたいに「リリー」を3回演じるのではなく、別々のキャラクターを3回演じたとか。こまったことに全部みてしまった(苦笑)。その3回のうち、一番最初に登場したのがこの『・・・口笛を吹く寅次郎』だとか。この作品がシリーズ32作目ということだが、このシリーズは48作目まで続くことになる。つまりシリーズ後半の17作のうち3作もマドンナをやっているのが竹下景子さんなのだ。たぶん馴染んだんだろうね。あるいは、ほかに適当な人がいなくて、おさまりのよさそうな人を使ったとか・・・。
なにはともかく、竹下景子さんが岡山県を舞台にした作品に出てくれたことは嬉しい限りだ。

寅さんの魅力とはいったいなんなのだろう?と考えてみる。
ほとんどの場合魅力というのは強さである。寅さんの場合もやはり魅力は強さなのだ。でも、腕力の強さではなく、神経の図太さ。別な言い方をすると「心配する能力に欠けている」のである。そんなわけで、失敗を恐れない。そのおおらかさがこの作品の一番の魅力となっているといっていいだろう。
そしてもうひとつ、人情味のある昭和の世界観。近所同士の付き合いが当たり前だった時代の人間の付き合い方。私が子供の頃はやっぱりこの映画にあるような人と人の付き合い方だった。当時の西澤少年にしてみればなんだか煩わしいものでしかなかった。今もそうであるが・・(苦笑)。私の場合は、あまり人付き合いは得意なほうではないので、出来るかぎりほっといてくれ!といいたいほうの人間だ。しかし、この映画のなかでは、その人付き合いのある生活とその親近感が実に肯定的に描かれているのだ。私もふくめて、この感覚が共有できるひとは少なくなってきてると思うが、こういう世界観の中では、寅さんというは機能する人間なのだ。
ただ・・、平成の世界観ではやはり浮いてしまうだろう。やはり寅さんというのは昭和の遺物だったのだなと思う。

<あらすじ>
今回寅次郎(渥美清)がふらりと訪れたのは岡山県の高梁市。そこで住職の和尚とその娘朋子(竹下景子)と出会う。人付き合いのよさで和尚と意気投合した寅次郎は、すすめられるままに昼間から酒をのみすっかり上機嫌。翌日二日酔いで法事に出られない和尚に代わって寅次郎が変わりに出て行くが、こまったことにそつなくこなし、法事の席でも人気者になってしまう。そんなこんなでしばらくその寺に居つくことになってしまった。
実はその高梁市、妹さくらの夫・博の実家があるところだった。そこで三回忌の法事にやってきた、さくらと博に遭遇、さくらは寅次郎が坊さん姿で法事をつとめていることに驚く。

このあたりの心配能力欠乏症の寅さんの大胆さというのは庶民感覚するとうらやましい限りである。なにせほぼ現代人の私などは、法事などの親戚がよりあつまる席が苦手である。古くからの習慣を知っているというだけで、権威と安心をもっている彼らはどうにもあまり相手にしたくない人種なのだ。それを寅さんというのはさらりとうけながし、いつのまにやらその場の雰囲気に馴染んでしまうのである。
この寅さんのすごさは、「相手の人を決して否定しない」という人間の大きさなのだ。その点私は、自分肯定するのに忙しくて、相手のことなど気を回す余裕がない。もっとも、自分を肯定するって事は対照的に相手を否定するということになってしまうので仕方がないのだけど。もちろん、寅さんは自分を肯定していないので、それだけの余裕がもてるのだけどね。

和尚には一道(中井貴一)という息子がいた。彼は仏教大学に通っていたのだが、写真をやりたいと大学をやめ、勘当されて東京の写真スタジオで働いていた。寅次郎は酒屋の娘ひろみ(杉田かおる)と親しくなるが、彼女こそが一道の恋人だった。一方朋子も寅次郎のことがかなり気に入っているらしく、「寅を養子に貰うか」という和尚の言葉にも照れるばかり。その会話を耳にした寅次郎は翌朝東京に逆戻り。帝釈天で仏門の修行にはいることにした。
そこにひろみと一道が訪ねてくる。上京してきたひろみを泊めてほしいとのことだった。結局、二人共二階の寅次郎の部屋に泊まり、寅次郎の説法も功を奏し二人は結ばれる。数日後、朋子がそのお礼に訪ねてきた。朋子の中では寅次郎と結婚してもいいと思っていたのだが、寅次郎はジョークで煙にまいてその恋愛をおわらせてしまう。自分の恋愛になるとチキンな寅次郎であった。

       *        *        *

見直してみた。良い!!!!! この話。
どわああああっと涙がでるわけではないが、すっごく観ていて気持ちが良い映画である。
巧妙な会話も、微妙なメンタリティーも、中井貴一と杉田かおるの恋愛劇も、なんか全部ここちいい。

by ssm2438 | 2011-03-16 21:56 | 男はつらいよ(1969)
2011年 03月 09日

男はつらいよ39/寅次郎物語/秋吉久美子(1987) ☆☆☆☆

f0009381_16264660.jpg監督:山田洋次
脚本:山田洋次/朝間義隆
撮影:高羽哲夫
音楽:山本直純

出演:
渥美清 (とーさん・車寅次郎)
秋吉久美子 (かーさん・高井隆子)
伊藤祐一郎 (秀吉)

       *        *        *

寅次郎子育てシリーズ第2弾
擬似夫婦のシチュエーション設定がラブリー!


今回のマドンナの秋吉久美子は、色っぽすぎて、娼婦性があり、女性のしっぽり感がありすぎるので、この『男はつらいよ』のシリーズには似合わないような気がしていたのだが、ここで彼女は演じている隆子は悪くない。くわず嫌いすいませんでした・・・。

今回の物語の発端は《とらや》に秀吉(伊藤祐一郎)という子供が尋ねてくるところから始まる。この子、寅次郎のテキ屋仲間のマサの子供なのだが、酒と賭博と女にあけくれ妻には家を出て行かれ、「俺が死んだら寅をたよれ」と言い残し、死んでいったという。その子の母親は和歌山にいるらしいという情報をつかんだ寅次郎(渥美清)は秀吉を連れて母親さがしの旅に出る。
この母親というのはてっきり秋吉久美子だとおもっていたら違った。秋吉久美子はまったく関係のない人。

その母親が勤めていたというホテルや旅館をたずねつつ、新和歌浦から吉野へたどり着く。そこで働いているとおもいきやすでにやめてしまったとか。とりあえずその夜はそのホテルでとまることにしたのだが、その晩、秀吉は旅の疲れから高熱を出し、旅館で寝込んでしまった。どう対処していいのか分からない寅次郎は深夜にさくらに電話をかける。「深夜でもなんでも医者をよびなさい」というさくら。急いで旅館の管理人をたたき起こして近所の医者までタクシーをとばすそうとする寅次郎。そのあいだ、面倒をみてくれたのがたまたま隣の部屋にひとりで宿をとっていた高井隆子(秋吉久美子)という化粧品のセールスの女性。

実はこの隆子は不倫の関係にあり(勝手に推測)、ここで男と会うはずだったが相手が来なかったので一人で泊まっていたのだ。さらに以前子供を下ろしたことがあり、産んでいれば秀吉くらいの年頃だったらしいこともあり、その子に感情移入してしまう。
寅次郎を秀吉のお父さんだと勘違いした隆子が寅次郎を「お父さん」と呼ぶようになり、呼んでき医者(実は耳鼻咽喉科)は、ふたりを夫婦と勘違いし隆子のことを「お母さん」と呼ぶ。治療中、いちいちそれを改正する必要を感じなかったふたりはお互いを「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになり、なんとかその晩のどたばた騒ぎを切り抜ける。その晩の出来事があってから、秀吉をはさんでふたりは「お父さん」「お母さん」と呼ぶようになり、しばしの擬似夫婦のファンタジクな時間をすごすことになる。
《とらや》からかかったきた電話でも、「お父さん」「お母さん」モードで話す寅次郎。そしてそのそばにいるらしい女性の声が寅次郎のことを「おとうさん」と呼んでいることにびっくり。

この映画の幸せ感は、この二人は擬似夫婦の時間を楽しんでいるときなのだ。見ている人もその時は幸せになれる。やがて伊勢志摩で秀吉の母がいることが分かる。明日は別れの日だという晩、秀吉を寝かしつけた寅次郎の部屋にはいってくる隆子。日本酒を飲みながら最後の夜の会話をしたあと、「今晩ここで寝ていい?」と秀吉によりそうようにとなりにもぐりこむ隆子。「寅さんもいらっしゃいよ」と隣の呼ぶ隆子。ま、いいかとテレながらも幸せそうに隣のねようとする寅次郎だが、ここで秀吉が寝小便をして良いムードは終わり。残念。

翌日隆子と別れて伊勢志摩へむかう寅次郎と秀吉。しかし、秀吉にとっては寅次郎と隆子と一緒に時間は実に幸せな時間だったので、それ以上のお母さんに会えるかどうか不安でもある。連絡船にのって秀吉の母が働いているという真珠店へ行くと、母は病気のため近くの療養所で休んでいるという。なんだか『母をたずねて三千里』のシチュエーションである。現実をみるまでの不安感いっぱいの秀吉がとってもいい。そして対面。店のおかみさんがやさしい人で食事の用意をしてくれていて、それをご馳走になる一同。しかしそのあとはあっさりさっていく寅次郎が実に男らしい。
船着場で連絡船にのる寅次郎だが、秀吉は「一緒に柴又に帰りたい」という。ふたりを母親にところまで連れて行ってくれたその船の船長さんも、「今晩だけでも一緒にとまっていけば」と言葉をかけてくれるのだが、きっぱりと否定し、別れをさっさと切り上げる寅次郎。泣けるんだ。

<未来のための思い出を裏切る>というのは泣かせの常套手段ではある。捨てるべき思いで部分を散々幸せいっぱいに演出しておいて、幸せかどうかも分からない未来のために捨てさせる。王道すぎて卑怯だとも思うがやっぱり泣ける。だああああああああああああああああああああ。

やがて、時がたち正月になり《とらや》に隆子がたずねてくる。寅次郎のいない《とらや》で擬似夫婦をやっていた思い出話にはなを咲かせているころ、寅次郎は二見が浦で露店を開いていた。そこで秀吉とその母、そしてあのときの船長さんが仲むつまじく一緒にあるいているのをみて安心するのであった。

by SSM2438 | 2011-03-09 12:54 | 男はつらいよ(1969)
2011年 02月 21日

リービング・ラスベガス(1995) ☆☆☆☆

f0009381_342463.jpg監督:マイク・フィギス
原作:ジョン・オブライエン
脚本:マイク・フィギス
撮影:デクラン・クイン
音楽:マイク・フィギス

出演:
ニコラス・ケイジ (ベン・サンダーソン)
エリザベス・シュー (娼婦サラ)

        *        *        *

アルコール依存症映画は、その昔はけっこうあったような気がするが、最近ではこれだろう。といってももう15年も前の映画だが・・。
人生の敗北者である脚本家のベン・サンダース(ニコラス・ケイジ)は、妻には離婚され、仕事の依頼もなく、会社も首にされ、それでもその社長さんはとってもいい人らしく、退職金として結構な額のお金をしはらってくれたようだ。そんなベンは死ぬまで飲み続けると心に決め、身辺整理し、ラスベガスに乗り込んだ。そして出会った娼婦のサラ(エリザベス・シュー)。お互いの孤独を舐めあうように二人は求め合い、孤独を癒されたサラはベンと同棲を一緒に暮らしたいと申し出る。ベンの出した条件は「決して『もう飲まないで!』といわない」こと。

ほんとに水を飲むように飲む。破滅的に飲む。死ぬことを決意したどうしようもない男の死ぬまでのアルコールに溺れつくす時間と、それをみまもることしかできないエリザベス・シューを描いた映画。これ以上頑張らないでいいという状況でひたすら飲み続ける。シャツも下着も洗わない。その日新しいものを一着買ってきる。そして次の日もまた買う。
実に刹那的でいい。映画の題材としてはクソ映画なのだが、それでも、この刹那さは沁みる。マイク・フィッギス一球入魂の映画だ。

ただ、ここまでくるとベンは記号的なキャラクターであり、状況に応じて感情に変化を見せるのはサラのほう。彼女は多分LAでなにか嫌なことがあったのだろう、ラスベガスに流れてきて娼婦をやっている。しかし彼女にはヒモがついており、稼いだ金は彼が巻き上げる。その彼も借金取りにおわれているらしく、最後は殺し屋がやってくる。
しかし、それはサラにとっても悲しい出来事だったのだろう。それからというもの、何のために娼婦をやっていくのか? ヒモの男が殺された時点で、彼女を必要としてくれる人間はこの世から一人もいなくなってしまった。そのとき彼女がひたすら会いたいと願ったのが、ベンだった。彼女は「誰かに必要とされる」ことが必要だったのだ。それこそが彼女自身の存在意義だった。

最初の夜は、ベンが一晩に500ドル払うと申し出た。「500ドルなら何でもできるわ。顔に出してもいいわ。でも髪にはかけないでね、今洗ったばっかりだから」とベンの股間に顔をうずめフェラチオをはじめる。しかし、ベンは「しなくていいから、一緒にいてくれ」といった。
ヒモの男が殺されてからは、ベンと一緒に食事をし、そのあと自分の部屋にくるように言う。そして一緒に住んで欲しいと申し出る。ベンが越してきた日、ベンは「ここは君の家だから家賃を払うといくらか渡そうとするがサラは「家賃は無料、さらに家主のブロージョッブ付」という。

ベンの体調は悪化する一方で、そんな彼を見るのがつらいサラは「医者にみてもらったら」と言ってしまう。もちろん拒否するベン。「そろそろ自分のモーテルに戻る頃だな」というベンに、「私の望みはあなたがここにいること。この話はもうしないから、ここにいて」と泣いて懇願する。そんなサラの気持ちを感じ取ったのか、ベンはカジノで女を買い、サラの家につれこんでセックスをする。そのときかえってきたサラ。「出て行って」と案の定言われる。

それからはサラも孤独な日がつづいた。通りを歩いているとまだ高校生くらいの若い客に声をかけられる。彼らの部屋にいってみると数人がいて、かわるがわるやるという。一人づつ相手するから、他の人は出てというサラだが、その中に一人はアナルセクスをしたいという。サラが断ると彼はサラを殴り倒し、後ろから犯してしまう。顔にあざを作って帰ると大家が1週間以内に立ち退けと言われる。カジノに足を踏み入れれば、娼婦と気づいたホディガードからゴミのように追い払われる。
そんな失意と孤独のサラにベンから電話がかかってきた。急いで彼のモーテルを訪ねると、そこには衰弱しきったベンかいた。それでも酒を飲もうとする。そして、サラをみつめながら自分で自分のペニスをしごきはじめる。「私がやしてあげるわ」とベンのペニスをやさしく上下にうごかす。そしてサラはベンの上になり緩やかに動き始める。朝になると、ベンは動かなくなっていた。

同系列の映画、ベルトルッチ『ラストタンゴ・イン・パリ』よりもこちらのほうが刹那に破滅的な映画だろう。

by ssm2438 | 2011-02-21 21:43
2011年 02月 16日

ウホッホ探険隊(1986) ☆☆☆☆

f0009381_752985.jpg監督:根岸吉太郎
原作:干刈あがた
脚本:森田芳光
撮影:丸池納
音楽:鈴木さえ子

出演:
十朱幸代 (榎本登起子)
田中邦衛 (榎本和也)
藤真利子 (美際良子)
陣内孝則 (定岡勉)
斉藤慶子 (定岡みどり)
柴田恭兵 (景浦選手)

        *        *        *

「・・・・趣味は?」
「どんなものを?」
「美内すずえ作『ガラスの仮面』」


食品会社の研究所員である夫の仕事の関係で、夫と離れてくらしている主婦十朱幸代が、ある日突然、「実は女ができたんだ」と夫からいわれてショックを受ける。その後展開される子供のささやかな心使いと、残酷さを見事に台詞におこしている。監督は根岸吉太郎、『遠雷』『キャバレー日記』も好きだが、実はこの映画もかなり好きだ。とにかくシナリオがとても繊細だ。本音の部分と、本音を隠す部分のコラボレーションがとても素晴らしい。

女が出来たという話をきかされて数日、再び夫の田中邦衛から、彼女と会って欲しいと連絡がくる。行ってみるとまだ彼女は来ていない。しかたなく先にふたりで焼肉を食べることにする。十朱幸代が冷蔵庫をあけるとが肉があるのだがにんにくが浸してある。

「これ大丈夫かしら・・・、後から来る人に迷惑じゃないかしら・・・」

これから夫の愛人と会うというのに、にんにくの臭いをさせて会うなんて・・とか気にするあたりがとても繊細でいい。相手の女があらわれ、感情をおさえて厳かに挨拶を交わすと、彼女は無理にテンションをあげたように、「私も飲もう」って洋酒をグラスについで一気に飲む。だんだんとテンションがあがっていき、二人の女性の声は大きくなってくる。酒もあおる。結局愛人女性は酔いつぶれてしまう。酔いつぶれた彼女をふたりでベットにはこんであげる。

「この人、重いわね」
「え、そんなことないよ」

さりげない会話が楽しい。うちに帰って食事をしてると、子供たちと食事をしていると「お父さんとどんなことはなしたの?」って聞かれてしまう。ついつい「つまんないことよ」と言葉を濁すと、長男は「そんな言い方するなよ、なんで僕らがはなすことは全部つまんないことなんだよ」とぐれる。次男は料理のなかのにんじんがが大きい。〇〇君のところのにんじんはもっと小さく切ってあってほとんどとろけてるようだという。ぐさぐさである。
めいってしまった十朱幸代は

「どうしてあなたたちはそんなに敏感なの? お母さんだっていろいろあるのよ。たまには知らない振りしてよ」

・・・・こういう台詞がとてもいいんだ。

画面も素晴らしい。気持ちのいい望遠も多用されているし、室内の取り方も立体的に構成されたセットを十分に利用している。手前のナメ方もいいし、他の作品ではこれだけいいとはかんじなかったのだけど、この作品のカメラは素晴らしい。同じ根岸監督の作品で『遠雷』や『キャバレー日記』ではこれほどの完成度はみなかった。これは撮影監督丸池納の力だろう。ただ、この人のほかの作品がいいかというとそうともいえない。『ノーライフキング』なんてのはひどかった。こうしてみると、監督の趣味に合わせる人なのだろうが、本作品の画面構成文句なく素晴らしい。間違いなく根岸監督作品のなかでも図抜けて画面の安定感がある映画だと思う。

<あらすじ>
榎本登起子(十朱幸代)はある雑誌のインタビュア・ライターで、中学生の太郎と小学生の次郎という子供がある。夫の榎本和也(田中邦衛)は食品会社の研究所員で、人里はなれた地方の研究所に詰めている。そんな和也が家に戻って来た。久々に家族揃って食事し、公園にも出かけた。翌日、子供達を学校に送り届け登起子と二人きりになると、和也は「女がいる。一度会って欲しい」と告白する。
次の週末、子供達を母親に預け、登起子は和也のもとを訪れた。和也の同僚で愛人の美際良子(藤真理子)も遅れて和也の部屋にやってきた。三人は飲みながら自分の信じる主張をぶつけていく。誰の主張もそれぞれ理解できる本音であり、それがささやかな虚栄心にオブラートされている。
東京に戻った登起子は、ロック・ミュージシャン定岡勉(陣内孝則)にインタビューするが、彼の傍若無人ぶりに呆れかえる。家族の問題をゆっくり考えようと決意した登起子は暫く仕事を休むことにした。だが、家に一日中いると何をしたらいいかわからず、子供達の部屋を片付けたりもしてみたが、逆に息子たちはにしかられる始末。
精神が不安定になっているところに、定岡の妻・みどり(斉藤慶子)から電話がかかってきた。定岡の自宅に女を連れ込んでいちゃついているというのだ。「私だっていろいろあるのに、なんでこんなところにいるのよ」と登起子はみどりを家に連れ帰り泊めた。翌日の朝食はみどりがつくった。これが上手いとほめられついつい幸せになるみどり、「私、料理とセックスしか取り得がないから」と。

日曜日、登起子は太郎と次郎を連れて公園へ出かけ、キャッチボールをした。その夜、彼女は離婚する決意を子供達に打ち明けた。二人ともショックをうけたようだった。太郎は和也のもとを訪ね、良子とも会話を交わした。

「はじめまして」
「こちらこそ」
「・・・あの趣味は?」
「読書」
「どんなものを?」
「美内すずえ作、『ガラスの仮面』」
「ねえお父さん知ってる? 僕知ってるよ」
(急に盛り上がる太郎と良子)

子供たちは気丈に登起子の離婚はお母さんにまかせるという。登起子は離婚届を提出した。いちもあっさり受理された。不思議なくらいに・・。
和也も良子に離婚したことを伝える。それを知った良子は
「私は和也さんを愛していたけど、奥様から奪おうとは思ってなかった。私はこれ以上望まない。
 今度は、私が奥様の立場になるのは嫌です・・・」と涙ながらに訴えた。

彼女のもとに、以前インタビューした野球選手、景浦からホームランの贈り物をすると電話がかかってきた。嬉しがる母親をはやしたてる太郎と次郎。そこに和也から電話で登起子と子供達に会いたいと言ってきた。その日はまるで初デートの時のようなうきうきした気持ちで和也にあった。和也は良子と別れたと告げた。


ちなみにこのシナリオは森田芳光である。個人的にはこの人の映画はそれほど面白いとはおもわないのだけど、この映画だけはよかった。個性の違う根岸吉太郎森田芳光のコラボとして大成功した例だと思う。
あと、斉藤慶子がめっちゃかわいい。

by ssm2438 | 2011-02-16 07:53
2011年 01月 26日

ジェレミー(1973) ☆☆☆☆

f0009381_14542893.jpg監督:アーサー・R・バロン
脚本:アーサー・R・バロン
撮影:ポール・ゴールドスミス
音楽:リー・ホルドリッジ
    ジョセフ・ブルックス

出演:
ロビー・ベンソン (ジェレミー)
グリニス・オコナー (スーザン)

     *      *      *

This is the wispiest movie I've ever seen!

「wispy」というのは、ジェレミーとスーザンがはじめてエッチをしたあとの帰りのタクシーのなかで、今の気もをきかれて答えた形容詞。辞書でひいてしまいました。リーダーズの辞書が一番ロマンチクにこの意味をいいあててた。

wispy:
 小さく無造作に束ねた、ほっそりとして弱々しい(草など)、
 かぼそい、かすかな、わずかの、まばらな(髪などが)・・・・おい、それは余計だろう!、
 かすみのような、星雲状の、

いまが幸せすぎて不安になってる感じがじつにせつなくつたわてくる。。。

70年代の前半というのは、大人になりかけの青春物というのがやたらとはやっていた時期で、一番年端もいかないのは『小さな恋のメロディ』でしょう。それがイギリス。フランスは『フレンズ』(製作はイギリスだけど、舞台は南仏。そしてアメリカはこの『ジェレミー』でしょう。80年代になると『リトルロアンス』ってのがイタリア舞台にありました。コレもよかった。そのなかでもっとも切ない映画が『ジェレミー』。気分がグリニス・オコナー懐古にふれているので、ここはひとつ一番感動ものの『ジェレミー』に登場いただこうかなと。この切ない語り口がすばらしすぎて、監督のアーサー・R・バロンは73年のカンヌの映画祭で新人監督賞をとってしまった。でも、じつはこの映画だけ。恐ろしいまで一発やでした。

そのむかし、健さんが出ていたCMで、「男は男に生まれない、男になるんだ」ってせりふがありました。しかし、男になる前だって、自分にこれっぽっちの自信がなくったって、やっぱり女の子を好きになるのです。この自分に自信のないときに想う相手ほど心にのこる人はいないものです。そのころの想いがかなったらそれはもう幸せすぎておそろしいにちがいありません。このジェレミー(男の子です)は、そんな想いをいだいた女の子スーザンを想って想って、その結果エッチにいたってしまいます。超、超、超、超幸せすぎて怖いくらい・・、そんな感じが実にでてます。
もっとも、そのエッチのあとスーザンが家にかえると、父の引越し話がきまってて2日後には引っ越すという事実をきかされ、二人の恋愛はこの段階で一区切り、映画のなかでは唐突におわってしまいます。でも、追いかけていけない。高校生なんでしょうがないでしょう。このあたりが、まだ自分のちからではどうしよもない現実がある青春時代の恋愛物のせつないところでしょう。あの現実さが素敵なのです。しかし、その物語の何年後にはふたたびジェレミーはデトロイトまで会いにいってるでしょうね。別にこれが最終な別れではないのだけど、それほどに感じてしまうところが実にすばらしいんな。

f0009381_15181988.jpg<あらすじ>
チェロ演奏家になる夢をもつ15歳のジェレミー(ロビー・ベンソン)は、普段は黒ぶちおじさんメガネをかけていてる内気の少年。そんな彼が同じ音楽学校に通う、スーザン(グリニス・オコナー)のバレエの練習風景をちらっとみてしまう。(思えば『小さな恋のメロディ』のトレーシー・ハイドも黒のレオタードでバレエをやってましたね)。ジェレミーはそんな彼女に一目ぼれ。しかしスーザンには彼氏がいた。おちこむジェレミー。そんなジェレミーだが、演奏会のときスーザンの訪問をうけたりして二人の気持ちはさりげなく共鳴していく。

最初のデートのあと、スモークながれる通りをわたる二人のカットから、白桃いろの噴水のシーン。いいんだなあ。あ、その前に公園でワンちゃんたちに詩をきかせるジェレミーってカットってのもありましたね。あと、競馬場の望遠とか・・、二人がニューヨークの町並みを歩くシーンを望遠でとるだけでえになってしまう。
そこに切ない音楽、主題歌の「ブルー・バルーン」も「ジェレミー」これらの歌詞がながれてくるとそれだけでせつなくなってしまう。

雨の降るある夜に室内でチェスをしてるところから、視線がからみあってキスをかわし初めてのエッチ。ブラのホックをはずそうとしてもなかなか外れない。そうしてるとスーザンが体をはなす。あれ、ぐれちゃったかなっておもってるとおもむろにきていたセーターを脱いでブラも自分ではずして再びジェレミーの上に体をかさねる。

ストーリーはシンプルなのだけど、彼女の肌に触れるときジェレミーの手つきに愛を感じてしまう。それはもう、『未完交響楽』のシューベルトが質屋で自分のバイオリン手放すときにあの愛なのだ。

私の記憶だとエッチシーンは普通に演じているのだが、グリニス・オコナーがきちんと乳房をみせてくれたのは『カリフォルニア・ドリーミング』までなかったとおもう『ビリー・ジョー愛のかけ橋』で、川から上がったとすけたシャツのしたに乳首がみえたシーンあったかもしれないが、あれも直接的ではないし・・。なのでわれわれにとっては『カリフォルニア・ドリーミング』の彼女の乳房は待望のシーンだったのだが、いかせん映画がカス過ぎた。残念。

・・で、タクシーのなかの幸せすぎて・・・のシーン。そして帰ってみると案の定、まるで原作者がそうしたかったからそうしたかのように突然の別れ。おもいっきり唐突なわかれなのだが、こんな別れでもあのブルー・バルーンが流れてくるとせつなくなって胸がきゅうとなってしまう。
70年代の青春映画の傑作のひとつである。

by SSM2438 | 2011-01-26 14:58
2011年 01月 24日

鏡の中にある如く(1961) ☆☆☆☆

f0009381_10273346.jpg監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト

出演:
ハリエット・アンデルセン(カリン)
グンナール・ビヨルンストランド (父ダビッド)
マックス・フォン・シドー (カリンの夫・医師のマーチン)

       *        *        *

風の音、波の音、無伴奏・・・

この映画が、いわゆるベルイマンの神の沈黙三部作:『沈黙』『鏡の中にある如く』『冬の光』の1本であり、そのなかでももっともシンプルな映画で、物語の流れもわかりやすい映画です。1961年のアカデミー外国映画賞もとっています。
しかし、この3本がつながってるわけでもなく、同じテーマで描かれたわけでもないので、このような仰々しいくくり方が必要だったのか?とも思えます。だいたい、この3本をみて関連など見当たらない。少なくとも若いころの私にはそうとしか見えなかった。・・・・しかし、大人になるっていいものですね。歳をとって、あるていど分別がついてくると「ああ、なるほど」って思えるようになってしまった。

そのなぞがとけたのは、幼年期自体のイングマル少年とその父との確執を知ったからです。そして、ベルイマンが作っている映画は誰に見せるために作られたのか・・?という疑問に、「それはかれの父である」という答えにたどり着いたからです。
ウプサラの司教さんだった厳格な父。その高圧的は支配。それはほとんど『ファニーとアレクサンデル』で描かれたようなものではなかったのかと予想します。
イングマル少年は幼少時から非常に体が弱く病気がちで、依存心が強く、学齢に達しても登校しようとしなかったとか。そんなイングマル少年を、父は厳しく罰します。暗いクローゼットの中に閉じ込めたり、笞で打つこともあったとか。そして19歳で家を出たイングマルと父との確執はベルイマンが大人になってからもつづいいたそうです。ベルイマンは48歳のとき、父は悪性腫瘍で倒れましたが、このときも父を見舞うことはありませんでした。
イングマル少年がみた父の姿は、それぞれの映画のなかに登場する高圧的な支配者に投影されているのでしょう。生涯を通じて父の非難を描き続けずにはいられなかった、その憎しみのエネルギーとはすさまじいものです。

神の不在なんて、日本人にとっては当たり前のこと。なのでピンとこないのですが、これが見せる対象が「彼の父」だったということが分かると、とたんに映画の意味が見えてきます。

『沈黙』というのは、自分が外の世界と接するときにどう行動するか、それは自分のなかの理性と感情をもとにして、自分の行動を自分で選択していかなければならない。そこには神の声なんて関係ないんだよ!って言っている映画。
『冬の光』では、原爆の恐怖という現実的な恐怖にたいして、具体的にどう対処するのかって時に、宗教というファンタジーは機能しないにもかかわらず、牧師さんはそれをやっていかなければならない哀れな職業なんだよってことを言ってる映画。
そしてこの『鏡の中にある如く』は、精神分裂病の娘の治療に関して、宗教はなんにも役に立たない。むしろ、そのファンタジーこそが、彼女の病状を悪化させたものではないか!と、いう主張。

おそらく、ベルイマンは神の存在は信じてたんじゃないでしょうか。無神論者ではないと感じます。
・・しかし、それが「宗教」という形をとる時、それに対しては懐疑的・・というより強烈なまでに批判的だったのでしょう。

<あらすじ>
作家ダビッド(グンナール・ビヨルンストランド)には二人の子供があいた。17歳の息子ミーナスとその姉カリン(ハリエット・アンデルソン)。カリンは医師のマーチン(マックス・フォン・シドー)と結婚していたが、精神分裂病に悩まされていた。ダビッドはマーチンと海に網打ちに出たとき、カリンの病状を聞くが、結果は悲観的なものだった。そんなダビッドは、カリンの行動やそれについての分析を日記にまとめていたが、ある夜カリンがそれを読んでしまう。ファンタジーに逃げ込んでいる自分と、現実の自分を強制的に認識させられた瞬間だった。
それからというもの、カリンの情緒はさらに不安定になっていく。
ダビッドとマーチンは町へ買いだしに出かけた留守中、カリンは雨宿りに寄った捨てられた朽船のなかで弟の体を求めてしまう。でその罪の意識でカリンはまたも乱れて衰弱していく。やがて彼女はヘリに乗せられ町の病院へと搬送されていく。

f0009381_10185117.jpgベルイマンの映画のなかでもストーリーが分かり安い映画が、一番ピンとこない映画でもある(苦笑)。
最後は姉と弟の近親相姦になるのだが、これ自体もそれほど罪の意識を感じるようなことではなく、まあ、なちゃったら仕方がないよねって思ってしまう程度のもの。太古の人間社会はよくあったことで、生命の本質からははずれているわけではない。ただ、より安全な種を発展を考えたときには不安定になるので確率的にしないほうがいいというだけの話である。
『山の焚き火』という映画の中でも姉と弟の近親相姦がテーマになっていたが、あれなんかきわめてほほえましい映画だった。
この映画においても、弟と姉の在り方を見てると、お互いの肌のぬくもりを求めたとしてもそれは自然であり、幸せになることはあっても、不幸になるとはとても思えない雰囲気なのである。
ベルイマン映画にん出ている彼女のなかで、それほど綺麗だとはいえないハリエット・アンデルセンが一番自然で綺麗みえたのは、この映画の弟と戯れている時なんじゃないだろうか(『不良処女モニカ』とか『叫びとささやき』の時の彼女はかなり醜悪である)。

しかしこの二人の自然な求め合いに罪悪感を感じるようになっていることが、宗教的妄想に犯されているカリンの精神状態からうまれる悲劇なのだ。
「悪魔が自分の体にはいってくる」というカリン。そもそも「悪魔」というのはなんだ?ってことになるのだが、これは神を肯定するためのアンチテーゼとして作られたもので、「悪魔」(吸血鬼でもいいんだけど)とい概念をつくった時点で純粋な信仰は勢力争いのプロパガンダに成り下がったのだと思う。これがベルイマンの非難している「宗教」というものなのじゃないだろうか。

とにかくベルイマンの映画の解釈というのは、世間一般で書かれていることがどこまで本当なのかかなり疑問である。どうみても、私の解釈が一番まともにみえてくるのだが・・・(はは、あいかわらず自画自賛の独りよがりレビューであった)。

by SSM2438 | 2011-01-24 10:31 | I ・ベルイマン(1918)
2011年 01月 09日

髪結いの亭主(1990) ☆☆☆☆

f0009381_19573080.jpg監督:パトリス・ルコント
脚本:クロード・クロッツ/パトリス・ルコント
撮影:エドゥアルド・セラ
音楽:マイケル・ナイマン

出演:
アンナ・ガリエナ (マチルド)
ジャン・ロシュフォール (大人アントワーヌ)
ヘンリー・ホッキング (子供アントワーヌ)

       *        *        *

ジャガール・ワールドが芳しい男の夢。

この映画はドラマというよりも、「私が想像する<至福の幸せ>とはこういうものだ」という夢想を、パトリス・ルコントが具現化してみせた夢物語。なのでこの映画をみて批評するなど無意味で、「じゃあ、これ以上の至福の幸せがどこにあるんだ?」と言われそう。とにかくルコントは、「至福の幸せとは・・?」というテーマでいろいろ哲学してみたのだろう。その結果がこれだった・・ということ。

以下、マルク・シャガールの絵を集めてきた。この映画を語るにはこの絵があれば充分だろう。

傑作である。
f0009381_19485245.jpgf0009381_19491137.jpgf0009381_1950195.jpgf0009381_1951221.jpgf0009381_19511485.jpgf0009381_19512120.jpgf0009381_19512824.jpg

by ssm2438 | 2011-01-09 19:58