西澤 晋 の 映画日記

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2011年 04月 16日

バーバレラ(1967) ☆☆

f0009381_14595162.jpg監督:ロジェ・ヴァディム
脚本:クロード・ブリュレ他
撮影:クロード・ルノワール
音楽:ミシェル・マーニュ/チャールズ・フォックス

出演:ジェーン・フォンダ (バーバレラ)

        *        *        *

まったくのおバカ映画。しかし愛すべきおバカ映画

ひたすらジェーン・フォンダがさわやかに、いやらしく、エロティックに可愛らしい。
話はほとんどみるところないです。セットもださださです。でもジェーン・フォンダだけは素晴らしい。監督は女ったらしのロジェ・ヴァディムブリジット・バルドーカトリーヌ・ドヌーブときて、このころはジェーン・フォンダとつきあってたからこの映画をとったのでしょうが・・、演出的にはかなりダサいとおもう・・・というか、この映画にかぎらずヴァディムの映画は大した映画はない。でも、女にだけは持てる。まあ、ジェーンフォンダを見せる映画なので、ダサくてもいいといえばいいけど・・。

<あらすじ>
女宇宙士のバーバレラ(ジェーン・フォンダ)は、強力な宇宙破壊光線を完成したデュラン・デュランを探しだす使命をおび、リテオン惑星に向った。地下三千フィートに建設された巨大な夜の都市ソゴに行けばデュラン・デュランがいるという。地下の迷路にもぐったバーバレラは、黒い女王(A・バレンバーグ)が支配するソゴの国で犠牲となった盲目の天使パイガー(J・フィリップ・ロー)と出会い、ソゴに運んでもらう。だが二人はあっというまに捕えられてしまった。女王の前につきだされた二人はいたぶられるが革命グループのリーダーであるディルダノ(D・ヘミングス)が二人を救った。デュラン・デュラン(ミロ・オシー)はすでに彼は発狂しており、黒の女王をひきずりおろして自分が王位につくことを計画していた。デュラン・デュランと革命家グループの間に死闘が展開され、共倒れとなって地下都市ソゴは爆破し、潰滅した。
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by ssm2438 | 2011-04-16 15:02
2011年 03月 25日

男はつらいよ22/噂の寅次郎/大原麗子(1978) ☆☆

f0009381_10394576.jpg監督:山田洋次
脚本:山田洋次/朝間義隆
音楽:山本直純

出演:
渥美清 (車寅次郎)
大原麗子 (荒川早苗/水野早苗)
志村喬 (博の父・一郎)

       *        *        *

大原麗子シリーズ第1弾
いやああああ、大原麗子がものごっつうう可愛い!


この映画の大原麗子は実ににかわいい。可憐だ。美しい。この人のすごいところは、美しいのに可愛らしいってとこなのだ。この二つの相容れない要素を持っている人など、ほかには思いつかない。

誰しも大好き過ぎて「この漫画だけはアニメ化してほしくない」とか、「この小説だけは映画化してほしくない」というものがあるだろう。私の場合は大原麗子。大原麗子にの出演した映画をみていない。見たくない。イメージがこわれるのがいや。私のなかで、素敵な日本人女性ナンバーワンなのである。
そうはいっても、物心つく前はなんどかテレビなどで大原麗子をみていたし、たまたま不幸にしてつけたテレビで大原麗子がでている『獄門島』をみてしまったりとか・・・、しかし実際ほとんど彼女の映画テレビドラマは見たことがなかった。そんな重い腰をあげて『男はつらいよ』のなかで大原麗子の出ている話をなんとなく見てみようと思った。

映画のなかの大原麗子はよかった。
ただ・・・、実は大原麗子がでるまでにかなり時間かかるのはいただけない(苦笑)。

物語は諏訪から始まる。
温泉にきていたらしい博の父・一郎(志村喬)とあった寅次郎は、その晩一緒にとまることになる。その後一郎は死に、32作では寅次郎が一郎の墓参りに岡山県高梁市を訪れるエピソードとなる。先にこちらをみておくと、その墓参りのシーンもなんだかちがった感動になっていたかもしれない。ちょっと残念。私は先に32作目をみてしまっていたので、この志村喬を見たとき、「ああ、これが博のとうちゃんだったんだ」と妙に感動した。時間前後もわるくない。
その晩、一郎から『今昔物語』の一節を引き合いにだされ、妙に人生のはかなさを知る寅次郎、翌日その金色物語の本をもって柴又に帰るのであった。そのまえに恋人にふられた泉ピン子に会うエピソードがるのだが、ま、これはよかろう。

そのころ《とらや》では店のパートを募集していた。そして職業安定所からの紹介できたというのが荒川早苗(大原麗子)というが店にやってくる。その夜帰ってきた寅次郎は、翌日すぐに出かけようとするが腹痛になる寅次郎。そこに出社してきた早苗が手際よく救急車を呼んでしまう。しかし「単なる栄養失調」と診断されけろっとして帰ってくる寅次郎。だいたいこんな腹痛くらいで誰が救急車なんか呼ぶんだ!と悪態をつく寅次郎に「私です。ごめんなさい」という早苗。そんな早苗に一気に心を奪われる寅次郎。

このあとの寅次郎の描写はまるで中学生の初恋のようなもので、ちらっと彼女の姿をみられるだけでもうれしい、声をかけてもらえるだけでもうれしい、彼女を手伝うことができただけでもうれしい。食事は弁当を持参できているのだが、食べるところを見られるのも恥ずかしいらしく「見ちゃイヤ」という早苗。くぁわいいい!!
いまどきごお弁当たべてるところを見られるのが恥ずかしいなんて、今どきいないですよ。
しかし、彼女は訳ありで、今夫と別居中で離婚も秒読み段階。たぶん姉妹のだれかのうちにしばらくおいてもらっているようすだ。そんなわけで贅沢な弁当もつくることがきず「見ちゃいや」だったのかもしれない・・とあとあと思ったりした。

結局旦那は一度も出てこない。夫の義兄・添田(室田日出男)が夫、待ち合わせの喫茶店に離婚届けをもってくる。すでに名前の書かれた横に、自分の名前を書き、判子を押し、市役所に出して離婚成立。結論からいえば、この義兄がずっと早苗のことが好きで、最後は一緒になるのだけど、実にこのあたりからその雰囲気を匂わせている。上手いなあって思った。

午後から《とらや》にやってきて仕事をはじめる早苗に何も知らずに声をかける寅次郎。「もう荒川さんじゃないの。今日から水野なの」という早苗。ことのしだいを理解してない寅次郎だが、さくらたちはその意味を理解した。そのあと急に孤独におそわれた早苗は「寅さん、私、泣いてもいい」といって一人二階に上がっていく。おっていくさくら。
離婚するまでは、これがおわればさっぱりする・・と思っていたが、終わってみると・・・とても空虚でたまらない心情をさくらに語る早苗。あああ、なかなか涙涙である。

離婚が成立し、新しくアパートをかりた早苗の引越しを手伝いにでかけてみるとそこには添田がすでにきていた。添田は学校の先生なのだが、非番の時に高校生たちを連れて手伝いにきてくれていたのだ。やがて、そんな添田が、《とらや》に早苗を訪ねて来る。あいにく早苗は外出していたのだが、手紙と預金通帳を早苗に渡すように、寅に託して立ち去るのだった。添田が出て行くと、入れちがいに早苗が戻って来た。その手紙は、「僕は学校を辞めて、故郷の小樽に帰る」という内容が書かれてあり、通帳には100万円がはいっていた。

最後に添田をおって小樽に帰った早苗から年賀状が届けられるのであった。


物語はたいしたことはないのだが、ひたすら大原麗子がそのまんま美しく、可愛い。彼女を見ているだけで幸せになれる映画である。

by SSM2438 | 2011-03-25 10:40 | 男はつらいよ(1969)
2011年 03月 14日

男はつらいよ34/寅次郎真実一路/大原麗子(1984) ☆☆

f0009381_063278.jpg監督:山田洋次
脚本:山田洋次/朝間義隆
撮影:高羽哲夫
音楽:山本直純

出演:
渥美清 (車寅次郎)
大原麗子 (富永ふじ子)

       *        *        *

大原麗子シリーズ第2弾!
今回のモチーフは『無法松の一生』!


この次の次の『柴又より愛をこめて』『二十四の瞳』をモチーフにつくられていたが、これは『無法松の一生』でした。私が見たのは三船敏郎高峰秀子のほうで、板妻の『無法松の一生』ではみていないだけど・・、どちらも良い出来だと聞きます。恩義のある吉岡大尉の妻(高峰秀子)に惚れてしまう松五郎(三船敏郎)。しかし吉岡大尉は病気をこじらせて死んでしまう。のこされた未亡人を世話することに必要とされることに充実感を覚える松五郎が発した言葉がこれ、

「オレの心は汚い!」

・・・・よくこんな台詞かけたものだ。すごい!
それを今回は寅次郎が言っている。ずるい!

<あらすじ>
証券会社に勤める富永健吉(米倉斉加年)と飲み屋で知り合った寅次郎(渥美清)はすっかり意気投合、目が覚めた時には富永の家にやっかいになっていた。しかし富永はいない。彼は茨城県に家を建て、東京に1時間半もかけて通勤しているサラリーマンだった。株の売買がはじまる9時の1時間半前にはその日の方向性を決めるミーティングがあり、富永は6時半には家を出なければならい。
やさしくしてくれる富永の妻・ふじ子(大原麗子)の優しさに感動しながらも葛飾にかえる寅次郎。そんなふじ子から寅次郎に電話がかかってくる。富永が金曜に家を出たっきり帰ってこないと言うのだ。再び茨城の富永の家に行く寅次郎。「もしかして富永に別の女がいるのでは・・?」と聞きづらいことを聞くふじ子に対して「あの人はそんなひとじゃない」ときっぱり言う寅次郎。その一言でふじ子の心が癒されていく。それから数日がたち、寅次郎はふじ子とその子供・隆を《とらや》にまねいて食事をご馳走する。いつも隆とふたりっきりの食事しかしてなかったふじ子は、《とらや》の人々にかこまれたその時間にこみ上げるものを感じる。
数日がたちふじ子のもとに「彼の故郷・鹿児島で健吉を見た」という人がいるという電話を富永の実家からうけて、鹿児島に飛ぶふじ子。そのふじ子に同行する寅次郎。

鹿児島についた二人はまず富永の実家に行き、健吉のいきそうな場所の心当たりを聞いく。夫の思い出の地を巡りながら夫の心のコアをみた気持ちになるふじ子。夫の思い出の場所めぐりの旅は、寅次郎といるととても親近感のあるものに感じられるふじ子。こんな風景のなかでそだった彼が自殺なんかしない・・、そう確信できるようになる。
そんなふじ子に必要にされている自分に幸せ感じる寅次郎。

結局富永は見つからなかったが、ふじ子は安心して帰ることが出来た。しかし柴又に帰った寅次郎はふさぎこんでいる。

「おれは醜い」


この後がち超無粋。
博(前田吟)がそれを解説するんだ。
そんな解説するなよ! そのまんまの言葉だけで充分だろう! 判らんやつなどほっとけ!!!!!

しかし、あの言葉はいかにも説明的だったなあ。さすがの山田洋次もこの話でそれを言っても判ってもらえないと判断したのだろうか・・・。私が観たこのシリーズのなかでもっとも意気でない、最低の台詞だった。あそこだけ編集でカットできなかったものか・・・。

そんな《とらや》にひょっこり現れる富永。そのままタクシーを飛ばし、ふじ子のもとに彼をとどける。帰ってきた富永にしがみついて泣く大原麗子のシーンはじいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃんと来る。

by ssm2438 | 2011-03-14 00:07 | 男はつらいよ(1969)
2011年 02月 03日

おかあさん(1952) ☆☆☆

f0009381_14371559.jpg監督:成瀬巳喜男
脚本:水木洋子
撮影:鈴木博
音楽:斎藤一郎

出演:
田中絹代 (福原正子)
香川京子 (長女・年子)
岡田英次 (平井信二郎)
加東大介 (木村庄吉)

        *        *        *

どおおおおおおおおおおおお、香川京子が可愛い!!

びっくりしてしまった。こんなに可愛い人だったとは!? 花嫁姿、美しいです。文金高島田姿で肩をすくめてちょろっと舌出して・・、でふすまに隠れられたら可愛すぎです。そのあと、恋人の岡田英次のパン屋さんにいって顔合わせそうになるとこそっと隠れて、出てきてウインク。だああああああああああああああ、めっちゃ可愛い。にわか香川京子ファンになってしまった。いやあああ、いまさらながら気付きました、『赤ひげ』で狂人女を演じてたのが香川さんだったなんて。おお、狂わしいまでび妖艶で恐ろしく美しかった。ああ、思い出した思い出した。そうでした、『悪い奴ほど良く眠る』の三船敏郎が結婚した娘さんが香川京子でした。おおおおおおおお。『まあだだよ』もそうでしたか。今まで気付きませんでした。なんという愚かさ。全然修行がたりないですね。『モスラ』借りてきて見ないといけないか・・(笑)。

昨日に引き続き、朝から日本映画専門チャンネルの成瀬特集見てました。今日は『おかあさん』。なんでも松竹の黄金時代を築き上げた城戸四郎(1954年、松竹の社長に就任)は、成瀬巳喜男を称して「小津はふたりもいらない」と言ったそうだが、この映画はたしかに小津的な要素で構成されている。さすがに『浮雲』のあとだとインパクトは弱いかな。ただ、『浮雲』自体が成瀬巳喜男の中では特殊なほうであり、これを基準に考えるのはどうかと思うが・・・。

50年代の映画なので(私もまだ生れていない)、さすがに東京も田舎っぽい。こういう映画をみていると、松本清張の小説の中の状況描写が「ああ、こんなんだったんだ」と思えてくる。・・・しかし、よくこんな東京から今のような東京に変わったものだと、人間の力に関心してしまう。
この映画はクリーニング店を営む福原一家の物語。早くに長男を亡くし、そのあとすぐ夫を亡くした田中絹代とその長女を香川京子を中心に、悲喜こもごもの人生をつづっている映画。劇中、夫の亡き後クリーニング店をてつだってくれた加東大介と田中絹代が再婚するのでは・・?ということにささやかに心をいためる香川京子が描かれている。これは『晩春』みたいに、香川京子が結婚するか、田中絹代が再婚するかで終わるのかな?ってみてたら、どっちもないまま終了。そういうイベント性で物語をつづるよりも、普通の日常性の描いた映画になっている。

<あらすじ>
戦後の東京。父・福原良作(三島雅夫)は工場の守衛、母・正子(田中絹代)は露店の飴売り、長女の年子(香川京子)は今川焼きを売り、妹・久子と母の妹・栗原則子(中北千枝子)の子・哲夫を預かってそだてていた。そして戦前にやっていたクリーニング屋を再び開くことができた。そんななか長男は病死する。店は父の弟子であるシベリア帰りの木村のおじさん(加東大介)が手伝ってくれることになり、順調なスタートを切った。しかし、父も病気に亡くなり、店は木村の手ほどきをうけながら、母が切り回すことになった。木村と母の間についてあらぬ噂が立っていることに年子は娘心をいためるが、年子の恋人である信二郎(岡田英次)は、「お母さんの幸せも考えてあげないといけない」」とさとす。妹の久子を親戚の養子だすことになる。

f0009381_143982.jpg母の妹は美容師になるために住み込みで見習いをしているが、コンテストに出るとかで、年子に着付けのモデルを頼みに来る。母も一人立ちできるようになり、木村は自分で店を出すために去っていった。母と年子と哲夫だけがのこされた福原家に、新しい書生さんがはいることになる。彼は16歳。クリーニングの仕事をやりながら勉学に励むのだろう。最初の晩、彼は与えられた机にすわり手紙を書きかけたまま眠ってしまった。「母上様・・・・・」。

最後の一行にはなかなか感動させられた。
それまで一度も出てこなかった登場人物の、その青年が書いている手紙に「母上様・・・」って書かれてるだけ。それだけなのにぞわぞわぞわ・・と感動するものがあった。まさに「おかあさん」という普遍性を描いたからこそ、その感動が湧き上がってきたのだろう。
ささやかな感動がなかなかちりばめられている映画だ。母が再婚するのではないかと心配していた、父の弟子の加東大介が、店をでて行くシーン。このまま行かせてしまっていいの・・?という疑問を持ちながら、結局なにもしない香川京子の複雑な感情がとっても素敵だった。
そのほかにも、養子にもらわれている妹の久子と、哲夫のさりげない別れのシーンとか・・、久子が養子にだされることを決意した晩のエピソードとか・・、ささやかに感動するシーンがかなり連打される。

by ssm2438 | 2011-02-03 14:40
2011年 02月 03日

泪壺(2008) ☆☆☆

f0009381_12172721.jpg監督:瀬々敬久
原作:渡辺淳一
脚本:佐藤有記
撮影:鍋島淳裕
音楽:清水真理

出演:
小島可奈子 (朋代)
いしだ壱成 (雄介)
佐藤藍子 (愁子)

       *        *        *

いやあああああああ、良かった!!!!
瀬々敬久版の『恋のエチュード』・・かな?

(とは言え、『恋のエチュード』はそれほど面白いとは思わなかったが)

監督の映像センスの悪さと、いしだ壱成のキャスティングの軽薄さ以外は、渡辺淳一の原作の映画化されたなかでは一番いい。原作の評判をチェックしてみると、実はあまりよくない。不思議な作品である。この監督、画面つくりのセンスはよくない(もうす少しはなれてズームで絞らないと「映画の画面」にはならない。カメラが近すぎる画面だでは、カメラ存在を感じてしまうのでムードぶち壊しである・・)が、物語全体の構成力はあるということなのだろうか・・。とりあえず原作よまないと、どこまで監督の力量で、どこまでが原作のよさなか判断しようがない。ブックオフにでもいって中古本を探してこよう。

さっそく探してきて読んだ。60ページくらいの短編でした。そしてわかった。この監督さん絵作りの才能ないが、物語を作る才能はとってもある。原作よりもぜんぜん良い! というかほとんど別の話である。
でも、この映画はすばらしいです。はい。

いやああ、しかし、私としてはこういうシチュエーションの話は大好きですね。求めたいのに求められない。ずっとずっと想いを抑えて、でもずっとずっと求めていて、でも好きな人は別の妹と結婚してしまう。で、運良く妹が癌で早死にしたが、罪悪感から求められない。そうしてずうううううううううっとずううううううううううっと想いを封印しいてたのが開放される時がくる。
おおおおおおおおおおお、まさに王道の恋愛もの。
同じように『ヒマラヤ杉に降る雪』もこんな感じ。もっともあっちのイーサン・ホークは求めても求めても、ずっとあたえられないままで終わってしまうどうしようもない切ない映画だったが、こちらは最後求めて与えられたので実に良かった。こういうのはかなり個人的な問題で、この映画を見ている間ずっと『ヒマラヤ杉に・・・』のイーサン・ホークが脳裏にあり、あの切なさがこの映画の小島可奈子に投影されてみていたので、想いが遂げられたときはイーサン・ホークの想いまで昇華してくれたような気持ちになった。

小島可奈子も実にいい。実はこの映画をみるまではまったく意識したことのない人でした、すいません。この映画でおもいっきり好きになってしまった。
いしだ壱成が主演ということで、この映画はかなり損をしていると思う。もう少し年齢あげて作ったらよかったのに。中学生の頃と現在でキャスティングが違うのだけど、もうちょっと年齢話してやればそのあたりは違和感少なく出来たのにって思った。個人的にはこの人の顔が好きではないし、おまけに髪型もどうも嫌いだ。

ちなみに冒頭に書いたフランソワ・トリュフォーの『恋のエチュード』だが、こちらは二人に姉妹と二人が恋する一人の男の話。ただ、この男がかなりいい加減な男で、どうにも感情移入できなくて、シチュエーション的には同じなのかもしれないが、メンタリティはかなり違うものだと思う。すくなくとも『恋のエチュード』は、見初めてすぐ退屈になり、見るのをやめようかと思ったくらいだった。トリュフォーの映画ってハズレるときはかなり苦痛である。

<あらすじ>
1986年の冬、友人二人と東京から天体観測に来ていた雄介が腹痛を起こし朋代の父の病院を訪れたかの二人の出会いの始まりだった。下痢がひどくキャンプは無理だと判断した朋代の父は、彼を家にとめることにする。朋代はそんな彼に惹かれるものを感じた。しかしその雄介と結婚したのは朋代の妹・愁子(佐藤藍子)だった。
最初に出会いから20年が過ぎていた。朋代(小島可奈子)は地元で音楽の教師をしていた。そして妹は癌のためにこの世を去る。愁子は、「自分の遺骨を壷にして、ずっとそばに置いてほしい」と雄介に遺言を残していた。雄介(いしだ壱成)はその言葉どおり愁子の遺骨をすりつぶし壷を製作する。ところが、出来上がった白い壷にはまるで. 愁子の泪のように朱色の傷がついていた。
愁子の四十九日。もう会う事もあまりないだろうから、泊まっていけという父の言葉一晩とまることにする雄介。一方で、朋代には「人に言えないような妄想はするな!」という父。その言葉をきいておもわず駆け出してしまう朋代。
その晩田んぼに落ちてずぶぬれになっていいるところを同僚の教師に助けられる。でずっと朋代のことを想っていた彼は自信なげに朋代に想いを告白し求めてくる。一瞬は拒んだものの、求めても得られないものを求め続けることに悲劇のヒロインをえんじてみたくなった朋代は彼に抱かれる。処女だった。

妹の荷物の整理に雄介の家を訪れた朋代だが、そこには妹の遺灰でできた壺がある。教師をやめた朋代はバーでピアノを弾いて生計をたてていたが、自分を傷つけるように男性経験もつんでいく。よった勢いで教え子と再会、一晩を共にする。妹に命日には雄介が別の女を連れてくる。“私がこれだけ自分の想いを抑えているのになんでこんな女と一緒なのよ!!”と許せない想いがこみ上げてくる。

このぼろぼろ感がとても素敵だ。
そのあとはときがたつにつれて二人の間に暖かいものが復活しやっと雄介に抱かれる朋代。幸せすぎて恐ろしくなり実家に帰ってしまう。でも、やっぱり・・・。そのころ雄介も朋代のもとに車を走らせていた。そして再び自分の幸せに納得できる朋代。

そのあとはなくてもいいのに・・・。
幸せな時間をすごしたあと雄介を東京まで送っていく途中、交通事故にあって死んでしまう朋代であった。

あの原作をここまでほとんど別の構成に変えて、成功させているというのはとても素晴らしいことだけど、ここまで勝手に変えるなら、もうちょっと整理してほしかったな。
朋代が死んでからの流れは非常にじゃまくさく、びっこひいいて街のなかをあるいているいしだ壱成なんて絵になってないし、そもそもそのシーンの必要性をほとんど感じない。そのあとの回想シーンのきっかけにするなら、回想シーンは交通事故に遭う前の夢見心地のところとか、事故後の生死をさまよってるあたりでも良かったのに・・。
もっともっと、良くなる可能性を持った映画なのに、ここまでで終わったか・・というもったいなさを感じてしまう。
でも、ダメなところはいっぱいあれど、すばらしいところもいっぱいある映画です。


<原作のあらすじ>
乳癌をわずらった愁子は、自分が死んだら、骨で壺をつくっていつでもそばにおいてくれと頼んで死んだ。その言葉に従って雄介は愁子の骨をすりつぶして壺を作った。妻の死から1年がたつころ、スタイリストの麻子と仲良くなり体の関係をもつようになったが、壺をいしきしすぎる雄介に嫌気がさして別れることになった。そのご上野朋代という妻よりも10歳も若い女性と結婚した。家具も全部処分したが壺だけは残した。しかし朋代もやはり壺を嫌い、交通事故で死んでいった。雄介は「やはりお前だけを守っていくよ」と壺とともに生きることにするのである。

原作では、愁子と朋代は兄弟でもなくなんでもない、朋代に感情移入する要素はまったくない構成。これを朋代の物語にしてしまうとは・・・。これだと渡辺淳一は怒るんではないだろうか。ここまで別作品だとね・・・ただ、出来上がったものはすばらしい出来でした。

by SSM2438 | 2011-02-03 12:20
2011年 01月 31日

ビリー・ジョー/愛のかけ橋(1976) ☆☆

f0009381_23142172.jpg監督:マックス・ベア・Jr
脚本:ハーマン・ローチャー
撮影:ミシェル・ユーゴー
音楽:ミシェル・ルグラン

出演:
ロビー・ベンソン (ビリー・ジョー・マカリスター)
グリニス・オコナー (ボビー・リー・ハートレイ)

       *        *        *

ゲイだと自覚して自殺してしまうのですか・・・。求めればそこにグリニス・オコナーがいるというのに・・・。

前半は『草原の輝き』のようなストーリーなのだが、後半から一気にいたたまれない青春ストーリーにかわっていく。圧倒的に保守的な土地柄のなかでおきたゲイの性交渉。それをうけとめるにはあまりにもこころがせまい地域性。そのなかで、ゲイであることを認識してしまい、好きな女の子を求められなくなったビリー・ジョー。自分が好きで、彼となら駆け落ちでもなんでしていいと思っていた女の子ボビー・リー。二人の恋愛は切ないです。
グリニス・オコナーの演じる主人公の人間性という点においては、このボビー・リーが一番よかったかもしれない。ちなみに、ここで16歳と記述しているボビーの歳だが、これは数え年であって、物語のなかではまだ15歳である。

1953年夏。16歳のボビー(グリニス・オコナー)と18歳のビリー(ロビー・ベンソン)は子供の頃からの幼馴染だったが、その年になるとセックスのことを考え始める。しかし彼らの地域は南部であり保守的な土地柄。親は二人の交際など早すぎるという。それでも男の子は求めてしまう。女の子は拒んでしまう。
そんな街のカーニバルの日。娼婦達もそのカーニバルに紛れ込んでいた。バンドのコンテストが行われている裏で娼婦達は男と寝たいてた。興味半分でその場を訪れたビリーは友達に背中をおされて一人の娼婦にひきつけられるように近づいていく。
それから2日間、ビリーの姿は消えた。街の人たちも彼をさがすがみつからない。そんななか薄汚れたビリーがボビーの前にこっそりと現れる。しかし様子がおかしい。夕方二人で橋の上であう約束をしてその場は別れる二人。そしてふたたび夕暮れの橋の上であう二人。

ここまでは普通に『ロミオとジュリエット』な話だったのだけど、ここから一気に急転。ボビーはビリーと一緒に町を出ても良いと思っていたのだろう、それだけの覚悟があった。もとめるなら身体も許すつもりで来ていた。このあたりの潔さはとっても素敵なのである。
そして森の中で唇を重ね、草によこたわり、『ジェレミー』の時のように、お互いを大事に大切にするような愛撫とキスが続く。しかし・・・っビリーはそこで止めてしまう。泣きながら「出来ない」という。あのよりは娼婦とは寝なかった。男と寝たんだ。それも自覚していた・・と。

その話を聞いても動揺することなく、それでもビリーをもとめるというボビー。「さっきのつづきをやりましょう」ってビリーの手をとって草の上に座ろうとするボビー(グリニス・オコナー)がとてもいいんだ。この一連のグリニス・オコナー演じるボビーのやさしさと覚悟をきめた潔さは絶品である。
しかし・・・ビリー・ジョーはその手から自分の手を抜き去り去っていく。そして次の日溺死体として引き上げられた。

その後、ボビーが妊娠したといううわさが待ちにひろまっていく。父親はそのせいで教会の役員をはずされ、兄は堕ろすか、それがいやならどっか遠くへいって産めという。そしてボビーは街を出ることにする。兄も、母も、ボビーが出て行くことを感じながらもきずかないふりをしている。
やがて6時40分のバスにのるために橋をわたるボビーの前に男があらわれる。兄が働いている製材所のデューイ(ジェームズ・ベスト)という妻子もちの中年男。彼は「君が妊娠などしているわけがない」という。ビリーがゲイであることを知っているのはボビー以外には誰もいない。もしいるとしたら、それはカーニバルの夜ビリー・ジョーと寝た男だけだ。彼がその男だった。

ボビーが妊娠などしてないという事実を話しに彼女の家に行く途中だったと云う。自分には妻も子もあり、そのことを考えると真相を話す勇気がなかったと・・、しかし、総ての不幸をボビーー人が背負うのは不公平だから、自分は話に行くのだと・・。
しかし彼女はその申し出を断る。ビリー・ジョーは、好きな女の妊娠させて、自殺した。だから彼は伝説になるのよ・・って。そして彼女がバス停に向かうと、デューイは彼女のカバンをもってあげるのだった。。

最後はきわめて複雑な思いのする展開だった。
このラストだと、グリニス・オコナーは、ボビーの<男>を守ったということになる。でも真実は・・・、やっぱり彼はゲイだったのだ。これは、「ビリー・ジョーがゲイだった」という事実よりも、自分にとっては「ビリー・ジョーは男」だったと願望を優先させたということなのだろう。真実よりも、自分の妄想(エゴというほうが適切かもしれない)を優先させる終わり方は・・・いいのか悪いのか。
・・・・良いのだろうな、多分。そのくらのわがままくらい通しても。

グリニス・オコナーがとっても素敵な映画でした。

by ssm2438 | 2011-01-31 23:23
2010年 11月 01日

マネキン(1987) ☆

f0009381_1037437.jpg監督:マイケル・ゴットリーブ
脚本:エドワード・ルゴフ/マイケル・ゴットリーブ
撮影:ティム・サーステッド
音楽:シルヴェスター・リヴェイ

出演:
アンドリュー・マッカーシー (ジョナサン)
キム・キャトラル (マネキン=エミー)
ジェームズ・スペイダー (リチャード)

       *        *        *

今をときめく『SEX AND THE CITY』のサマンサ=キム・キャトラル登場!

愛情を注いで作ったマネキンが人間の姿になり、創造主とらぶらぶするというファンタジー。
当時はそれほど話題にならなかった映画だが、あのサマンサ役のキム・キャトラルがってことなら見る人がふえるかもしれない作品。ただ、きわめてオタク思考で、一人遊びにトリップしたい欲望を満たしてくれる引き篭り系のユートピア映画。そんなわけで主人公に人間力をあまり感じられず、根底にながれるスピリットに嫌悪感を感じる部分がある。

この映画を観て思ったのは、「恋愛」というのは社会性があって初めて満足感が得られるものなのだ・・とということ。ここで展開させる人間と、人間化したマネキンとの戯れは、やっぱり一人遊びで、社会とシェアできないものなのだ。安心できる恋愛ともいえる。ただ、それだけだと張り合いも乏しい。普通の恋愛というのは、「これだけ大勢のなかから、自分が選ばれた/自分を選ばせた」という自己満足、自己肯定欲、自己顕示欲などが得られる。ゆえに少し人間として自信もついてくる。人として成長するには絶対不可欠な要素なのだ。
しかし、この映画では、自分しか選ばれないなかで、自分が選ばれている。だれも彼女を選ばないのに、自分だけが彼女を選んでいる・・。安心感がある恋愛なのだが、これでいいのだろうか・・? 人間の心は安心をもとめるものだが、不安の中にあって安心できる環境を作り上げていくことがその人の成長であり人生だろう。そこでこういうファンタジーを愛するようになったら、それが出来なくなっくなっている危険信号なのだろう。社会のなかで生き抜く能力に乏しい人たちが憧れるファンタジーの世界だった。

キム・キャトラルはけっこう好きである。もしアメリカで『ふたりだけの恋の島』をリメイクするとしたら、若い頃の彼女にやってほしいと思うのは私だけだろうか(笑)。オルネラ・ムーティ系のビジュアルというはどうもそそられる。

<あらすじ>
フィラデルフィアのマネキン工場で働く青年ジョナサン(アンドリュー・マッカーシー)にとって、マネキン作りは商業活動というよりもアートだった。自分がもっとも美しいと思うマネキンをつくりたい!・・それが彼のモチベーションだった。しかし、普通の人なら1日に3~4体は作るところ、ジョナサンは1ヶ月もかけてしまう。あえなくクビ。その後もあっちこっちの仕事に着くが、ハングリーさがない彼は長続きしない。そんなある日デパートのオーナーを救ったことからそのデパートで雑用係りとして雇われることになる。
そのデパートで自分の創ったマネキンに再会。閉店後、自分のアートに見とれていたジョナサンに、そのマネキンが語りかけた。彼女はエミー(キム・キャトラル)と名のった。朝ウィンドーを見ると、エミーはマネキンに戻っていたが、素晴らしいディスプレイが施されてあった。毎晩デートを重ねるうちに、毎回見事なディスプレイができあがりデパートは繁盛、ジョナサンは副社長の座を手にする。
ライバルデパートの社長B・J・ワートは、スパイとしてもぐりこませているリチャード(ジェームズ・スペイダー)にジョナサンの秘密を探るよう命じる。そしてマネキンをあやしいとにらんだB・J・ワートは、エミーを盗みだしてしまう。マネキンが盗まれたことを知らされたジョナサンは、B・J・ワートの元にエミーを奪回に向かう。ベルトコンベアーにのせられてゴミ処理機の中に落とされそうになっているエミーを見つけた。たくさんのマネキンの中からエミーだけを引き上げることに成功する。

by ssm2438 | 2010-11-01 10:39
2010年 10月 21日

ピクニック at ハンギングロック(1975) ☆

f0009381_14525839.jpg監督:ピーター・ウィアー
脚本:クリフ・グリーン
撮影:ラッセル・ボイド
音楽:ブルース・スミートン

出演:ミランダ (アン・ランバート)
       *        *        *

ミステリアスな雰囲気だけはあるが・・それだけだというよく判らない映画(苦笑)。

やっぱりオーストラリア人の監督ってどこは変だ(苦笑)。ある種の惹きはあるのだけど、でも、だからいい作品かといわれるとどうなんって答える。とにかく見せられるだけの映画なのでひたすら退屈なのである。世間ではけっこう評判は良いのだが、彼等がほんとにこれが云いと思ってるかどうかかあり疑問である。タルコスフキーの映画が好きだとかいいつつ、映画館にいったら寝てる人を良く観るのと同じ。感情は退屈だ!っと信号をおくっているのだけど、理性のどこかでは「肯定しないといけない」という強迫観念を与える映画のひとつ。

画面は・・・もうちょっとディフュージョン・フィルターかけるとデビット・ハミルトンになりそうなところを、頑張って素で撮りつつ、画面の美しさを表現してる。そこにフルート(?)のミュージックがかぶせられなんだか観ていて気持ちがいい。でも画面のなかにはトカゲやら昆虫やらもでてくる怪しさも同時にある。ニコラス・ローグ『ウォーカバウト/素晴らしき冒険旅行』に近い雰囲気があるかもしれない。

<あらすじ>
f0009381_21132761.jpg1900年2月14日、オーストラリアの寄宿制学校アップルヤード・カレッジの生徒たちが岩山ハンギングブロックにピクニックに出かけた。アップルヤード校長は孤児セイラの参加を許さなかった。食事のあと、ミランダ(アン・ランバート)、アーマ、マリオンは岩山を散歩することにした。三人の後からでぶの不平屋イーディスもついて行く。イーディスがとめるのも聴かず、何かに惹かれるように三人はのぼって行った。
イーディスが全身すり傷だらけで下山してきたが三人は帰ってこなかった。数学教師マクロウの姿も見えなくなっていた。・・・なぜ??

お姉ーちゃんが綺麗なのはここまで。そのあとは男の子二人が彼女等を探しに行き、疾走した3人女子学生のひとりアーマを見つける。彼女は記憶をうしなっていた。ミランダをしたっていたセイラ(残された女の子)は深く沈んでいた。級友は真相を話せと責めたてられるアーマはヨーロッパに行くことになる。授業料滞納で孤児院に戻すと宣告されていたセイラが屋上から落ちて不審な死をとげた。その後、しばらくして校長も不思議な死をとげた。

結局みたいと思う欲望になにも答えをだしてくれないのがこの映画。
ミランダを演じたアン・ランバートがあまりに美しく、彼女をみたい、話なんかどうでもいいから彼女を見たい!と思うのに、それがかなえられない歯がゆさ。で、結局彼女をもう一度みたと思いながら「いつ観られるんだ、いつになったら出てくるんだ?」って思ってたら結局出てこなかった。

by ssm2438 | 2010-10-21 21:06 | ピーター・ウィアー(1944)
2010年 10月 20日

クロコダイル・ダンディー(1986) ☆☆☆

f0009381_1505382.jpg監督:ピーター・フェイマン
脚本:ポール・ホーガン/ケン・シャディー
    ジョン・コーネル
撮影:ラッセル・ボイド
音楽:ピーター・ベスト

出演:
ポール・ホーガン (マイケル・ダンディー)
リンダ・コズラウスキー (スー・チャールトン)

       *        *        *

グッダイ!
・・・オーストラリア訛が当時さりげなくはやったのでした。


オーストラリアでは母音の「a 」=「エイ」が、「a 」=「アイ」になる。なのでウォーター(水)→ウェイター。ネイム(名前)→ナイムjになる。Have a good day! は「グッダイ」になるのである。

お話は、田舎者が都会にでてきてカルチャーショックを受けるという・・・まあ、よくある話ではあるが、本人は受けてないか。どっちかというと、都会人のほうが田舎者まるだしてニューヨークにあらわれたクロコダイル・ダンディをみて、カルチャーショックをうけるというほうが正しいだろう。
そしてラストの地下鉄のホームでも告白シーンが最高にいい。

都会のことをまるでしらないクロコダイル・ダンディのおちゃめぶりが実に楽しい。最初はエスカレーターをこわがってみたりとか・・、ちょっとお子様っぽい反応がじつに可愛い。
そしてリンダ・ゴズラウスキーがきれいだ。この人、この映画のまえはどこに隠れいていたのでしょう? こんなに美人だったらどっかで発掘されててもよさそうなのに、この映画まで名前すら知られてなかった。とはいえ、この映画のあとも、数本でただけで主演のポール・ホーガンと結婚してしまい、キャリア的にはさっと登場、ささって退場、実にもったいない。もうすこし彼女のTバックを見ていたかった。

ポール・ホーガン演じるクロコダイル・ダンディは、オーストラリアの平原でワニと戦い生き延びてきた男である。別にマッチョというわけではないが、オーストラリアの平原ではサバイバル能力にたけている男らしい。
そんな彼に興味を持ちし取材にでかけたのがリンダ・コズラウスキー演じニューヨークのジャーナリスト、スーである。早い話が《異文化接触ドラマ》である。
前半部はニューヨーカーのスーがオーストラリアに行き、後半はクロコダイル・ダンディがニューヨークに来るという構図。

<あらすじ>
ニューヨークの大手新聞社の記者であるスー(リンダ・コズラウスキー)は、オーストラリアの奥地でワニと格闘し、無事帰還したというマイケル・“クロコダイル”・ダンディー(ポール・ホーガン)に興味をもち、オーストラリアに飛ぶ。
スーは彼のアドベンチャー記事を書くためオーストラリアの奥地へと冒険の旅に出た。スーが沼で水浴びをしていると突然、ワニが現われ襲われそうになるが、この時もダンディーが助けてくれた。「ほんとにこの人はクロコダイルの殺し方を知っている人なのだ」と理解するスー。粗野だが、温かみもありユーモアのセンスのあるダンディに少しづつ惹かれるものを感じるスーは、彼のニューッヨークに誘ってみる。

ダンディもスーのことが気に入っていたのだろう。オーストラリアの都会ですらほとんどでたことのない彼がニューヨークにやってきた。しかし、ニューヨークでは、スーの恋人でもある上司のリチャード(マーク・ブルーム)が迎えに来ていた。ちょっと残念なダンディだが、それほどショックではなさそう。
見るものすべてが初めてといった感じのダンディーは物珍しそうにキョロキョロし、持ち前の人なつっこい笑顔で行き交う人々に“グッダイ"と声をかけるが、回りのひとは、怪しいものを見る目つき。お互いあんまり好きそうでないリチャードとダンディは夕食時に衝突。ぐれて夜の街にでるダンディはニューヨークの都会を体験する。スーと街へ出た翌日も、ひったくりの強盗をやっつけたり、、ストリート・ギャングに襲われたりするが、いつものサバイバルナイフで撃退。
新聞社ではパーティーが催され、その席上、リチャードがスーとの婚約を発表。しかしこころがダンディにかたむていているスーはふさぎこむ。出席者に祝福された。ダンディーにもそのことはショックだった。翌日ホテルを出るダンディを追うスー。そしては朝のラッシュで混雑する地下鉄のホームでダンディーを見つける。

混雑するホームのあっちとこっちでお互いを認めるが間には無数の人。そこまでたどり着けそうにもない。地下鉄をまつ人々の伝言ゲームをしつつお互いの気持ちを伝え合う二人。このユーモアのセンスがこの映画のすばらしさだろう。ラブロマンスの映画では良くある告白シーンだが、このシーンはとても気持ちの良いめーイシーンのひとつだと思う。
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by ssm2438 | 2010-10-20 05:31
2010年 10月 17日

勇気あるもの(1994) ☆☆☆

f0009381_173247.jpg監督:ペニー・マーシャル
脚本:ジム・バーンスタイン
撮影:アダム・グリーンバーグ
音楽:ハンス・ジマー
歌:マーヴィン・ウォーレン

出演:
ダニー・デヴィート (ビル・レイゴー)
グレゴリー・ハインズ (キャス軍曹)
クリフ・ロバートソン (ジェームズ大佐)
ジェームズ・レマー (マードック大尉)
ステイシー・ダッシュ (ミランダ・マイヤーズ)
マーク・ウォールバーグ (トミー・リーヘイウッド)

       *        *        *

彼等のラップ・ハムレットはいかす!!

女性監督のなかではダントツに好きなペニー・マーシャル『プリティ・リーグ』ではぼろぼろ泣かせてもらった。『ビッグ』では楽しく笑わせてもらった。彼女のガッツでハートフルな語り口は実に素敵だ。

内容的には軍隊を舞台に『いつも心に太陽を』『長い灰色の線』をやってるような感じ。軍隊のなかでも学業的にオチこぼれをあつめた補修プログラムの担当講師になったダニー・デヴィートがシェークスピアを引き合いに出しながら、生きることとは自分で決断してきめていくことを教えていく。軍隊とシェークスピア、シェークスピアとラップという、ありえないパズルががちがちと組み合わさって出来ていく映画はなかなか楽しい。

軍隊のオチこぼればかりをあつめた「ダブルD」と呼ばれるクラスだが、みてみるとそれほどすさんではいない。『いつも心に太陽を』レベルなのだ。これが『ワイルドチェンジ』までいってたらかなりしんどかっただろが、ハートフルが機能する範囲でキャラクター設定が行われている。甘いともいえるが、暗くなりすぎないためには必要だったのかもしれない。
f0009381_17362337.jpgそのなかの紅一点、ステイシー・ダッシュ(→)がとてもチャーミング。黒人女性で彼女くらいチャーミングにみられる女性はそういない。しかし、この娘がこのクラスに来る必要があったのか??ということに多少疑問は残るが、「全部男ばっかりだったらつまらないから」という理由でなぎはらわれそう。
と兵士に中にマーク・ウォールバーグがいた。後に『シューター』で狙撃兵をやる彼はここでも狙撃上手を演じていた。

このタイトルはいただけない。原題どおり『ルネッサンス・マン』(ルネサンス的教養人という意味らしい)で良かったようなきがする。でも「ルネサンス的」とはどういうことなのだろう?
そもそも「ルネサンス」とは、イタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動を指す。しかし、単に「古いものを復興しよう」という考えとはちょっと違う。この言葉の場合は古いもののほうが新しいのである。ギリシャ時代に発達した、自然科学や真理の追究、人間の本来のあり方などの考えかたはキリスト教の出現により、中世と呼ばれる季節の中では捻じ曲げられてきた。キリスト教がファンタジーで世界を解釈しようとした真実逃避の概念から、今一度真実に戻そうという概念が「ルネサンス」の本来の意味になる。
この映画の主人公、ダブルDのクラスにはいっている兵士たちに、今一度学問を自らの意思で行い、自分達を「落ちこぼれ」と自分で決め付けていることから脱却させていく。そのネタとして古典文学シェークスピアの『ハムレット』を題材にし、物語の中の問いかけは、自らに課された問いかけであることを気づかせていく。

雨の中の軍事訓練中に、ダニー・デヴィートのクラスがほんとに機能しているのかどうか確かめるために、そのクラの一人に『ハムレット』の一説を暗唱させる。一人目はダメだった。しかしもう一人にやらせてみると、すらすら言葉が出てくる。雨とドロにまみれた軍事訓練の中、彼の言葉からシェークスピアの国を守る兵士達の熱き言葉が語られる、そこにハンス・ジマーの音楽が重なると、怒涛の感動がおしよせてくる。
これで感動させるのか・・、ペニー・マーシャル!! 巧いぞ!って思ってしまった。

f0009381_17322392.jpg<あらすじ>
会社を解雇されたエリート広告マンのビル・レイゴー(ダニー・デヴィート)は、職業安定所で陸軍の落ちこぼれ兵士たちに教える国語の教師の職を紹介される。そのクラスは「ダブルD」と呼ばれる落ちこぼれ兵士たちを集めた特別補修クラスだった。軍には入ったものの勉学に乏しい彼らは常に劣等感を感じそれを、ジョークで逃げてきた。そんな生徒達にビルはシェークスピアの『ハムレット』を教えはじめる。
しだいに『ハムレット』の内容を兵士たちは理解しはじめる。さらにクラスに一人に、圧倒的に頭のいい兵士が紛れ込んでいることに気づく。彼をもっと高度なところで学ばせてやりたいと思ったビルは、管理役の管理役のマードック大尉(ジェームズ・レマー)に彼の存在をしらせる。しかし数日がかれは逮捕されてしまう。彼は麻薬に密売に絡んでおり、捜査から逃げるために軍隊に逃げ込んでいたのだ。彼も含めて、みんながいい雰囲気で勉強に興味を持ち始めた矢先の事件にビルも落胆する。しかし、その兵士も獄中のなかで猛勉強にうちこんでいるという知らせがとどく。クラスのみんなでほんとのショーエクスピアの劇をみにいくイベントや、そして雨天の軍事練習の中の『ハムレット』の暗唱、そして最終テスト。
『ハムレット』から多くを学んだ兵士たちは、その学び舎を卒業し兵士として巣立っていく日がおとづれる。最後のパレードの時、ビルの前を行進すダブルDのクラスの兵士達が、彼に敬礼をして歩き去るのだった。

by ssm2438 | 2010-10-17 17:40 | ペニー・マーシャル(1943)