西澤 晋 の 映画日記

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2012年 03月 14日

王将(1948) ☆☆☆☆☆

f0009381_13331440.jpg監督:伊藤大輔
原作:北条秀司
脚本:伊藤大輔
撮影:石本秀雄
音楽:西梧郎

出演:
阪東妻三郎 (坂田三吉)
水戸光子 (妻・小春)
三條美紀 (娘・玉江)

     ×   ×   ×

この物語は、明治~大正にかけての活躍した関西屈指の棋士であった阪田三吉をモデルにした北条秀司の戯曲『王将』を、伊藤大輔が監督した映画である。

まず、時代背景の説明。
この映画の舞台になっているのが、大正時代。当時の将棋界は、小野五平が「名人」であった。しかし、当時の名人位は、一度襲位すると死去するまで名人であり続けた。その小野が長命であったため、次の名人の座が約束されていた関根金次郎は、全盛期のうちに名人を襲位することができなかった。この物語の最後に関根金次郎が名人を襲名するが、このころには坂田に対しても対戦成績はよくなかった。生涯32局戦い、関根の15勝16敗1分だそうな。
このような背景があり、関根は70歳を迎えたときに名人位を退くことを英断、その後はトップ棋士の総当りのリーグ戦が設定され、その後、前年度の名人に挑戦するシステムに代わっていった。

その関根金次郎とのライバル関係にあったのがこの物語の主人公、坂田三吉である。関根の流麗で穏やかな人柄に対して、坂田三吉はやや知能指数の低い、低脳型天才として描かれている。たいした教育もうけておらず、社会性も乏しい。記録によると被差別部落の出身だったとか。
しかし、そんな坂田でも、関西では屈指の将棋指しであり、彼を後押ししてくれる人たちがいっぱいいた。この映画が、そんな中で自分のわがままを通し、情に溺れ、人に愛され生きた、坂田三吉と、その妻小春、そして娘の玉江物語を、関根金次郎との対決を軸に描かれている。

<あらすじ>
明治も終わりごろ、坂田三吉(阪東妻三郎)は、大阪は天王寺の貧乏長屋に住み、麻裏草履をこしらえてその日暮らしの生活を送っていた。そんな三吉は、将棋が三度の飯より好きで、手合わせする者は素人も有段者も相手構わぬナデ切り、負けたためしがないというツワモノ。しかし、家業はおろそかで収入は減る、家財道具は持出す、狭い長屋の一室は空っぽという有様。ついには朝日新聞主催の将棋大会の会費の二円を工面するために、玉江の一張羅の晴衣を質に置いて出掛ける。妻の小春(水戸光子)はそれを知り今はこれまでと、娘をつれて自殺を計る可く鉄道線路の方に出ていった。
その話をきいた三吉は勝負半ばで駒を放り出して帰ってくるが、家には誰もいない。さすがの三吉が帰ってきてくれるなら将棋をやめると誓い、駒を火鉢にしててしまう。
そんなおり小春は帰ってくる。小春は言う。

「わしが悪かった。あんたがそんなに好きな将棋をやめろというのは無理なはなしや。指しなはれ。そして指す以上は日本一になりなされ」
「あかん、ワシやさっき妙見さまに誓いを立ててしもうた。もう将棋は指さんって」
「あんた、ほんとにやめられるんか?」

出来すぎた妻である。
しかし、そのとき三吉が捨てたはずの駒の一つが火鉢のそとに残っていた。それが「王将」の駒であった。小春はその駒をお守りにしてずっと生涯持っていたのである。

折も当時実力名声共にナンバーワン、次期名人確実といわれていた折関根八段(滝沢修)が来阪し、三吉と平合わせた。相方ゆずらぬ熱戦の後、終盤近く三吉の打込んだ2五銀が功を奏し三吉は勝った。関西の将棋関係者輪沸いた。もしかしたら名人位が関西にくるかもしれない。しかし三吉の娘玉江(三條美紀)だけはその2五銀の意味を知っていた。
「あの銀はまがい物の手だ。敗勢にかたむいていたおとっつあんが、なんにも考えずに打った手や。それで関根さんは困惑して自滅してしもーた。あんな手は美しゅうない!」といって非難されてしまう。

実際坂田三吉の手のなかにそのようなものがあったのかどうかは不明だが、このあたりは戯曲としてのアレンジなのだろう。しかし、作劇としての勢いなのだ。みていて感動してしまった。玉江ちゃん、カッコよすぎです!!

その後二人は何度と泣く戦った。無学無教養の三吉もさすがに大人としての立ち振る舞いもできるようになってきた。既に盛りを越えた関根は坂田に対して分が悪く、近年の11戦では坂田が7勝していた。坂田が名人になるかもしれない。関西の将棋関係者はさらなる盛り上がりをみせた。しかし、確かに実力的には坂田のほうが上だが、関根のこれまでの実績と、坂田の品性の悪さを理由に十三世名人を関根にあたえることを決定した。関西の将棋関係者は坂田に「関西名人」の称号をあたえようとするが、坂田は「名人は二人はいらない」といい「関西名人」の称号は拒否。関根の名人就任式に出かけるのだった。

そしてこのあと理性の美しさが展開される。
関根にあうことができた坂田三吉は、「わしはいままであなたを恨んどった。あんたに負けたのが悔しゅうずっと恨んで将棋をさしてきた。もうしわけなかった」とけなげに平謝り。
「ワシには将棋を指す以外は何もできん男じゃ。あんたが名人になられてもなにを祝いにもってきたらええかわからんかった」といって、自分で編んだ麻裏草履をさしだす。すべてがあざといにもかかわらず、潔さを清潔さと人情深さと純粋さでぼろおおおおおおおおおおおおおって泣けてしまう。
さらに畳み掛けるように、大阪からの電話。
妻の小春が心臓病で倒れていて、今にも息をひきとりそうな状態。
「ワシが帰るまで死ぬんじゃないで」といい、南無妙法蓮華経と唱えだす。その声が大阪には受話器を通じてながされているなかで、小春が息を引き取る。手にはあの時の「王将」の駒がにぎられている・・・。


おおおおおおおおおおおおおお、なんちゅうスタンダードなこてこて!!って思うのだけど、やられます。
この映画を最初見たのはやはり映画修行時代でなんでもかんでもみていた25年くらい前の話。当時充分感動しました。で、今回みると、ややあざとさがみえるのだけど、途中からそんなことはどうでもよくなって、最後は充分泣かせてもらいました。しかし、これで泣けるのは年とったからでしょうか。以前はここまで泣けなかったような気がする。歳をとると涙もろくなってきます。

しかし・・・、今思うと『無法松の一生』にしてもこの『王将』にしても、昔の映画ってのは強引にまでに潔い映画がおおかったなあと感心してしまいます。いやいやすごいです

by ssm2438 | 2012-03-14 13:37
2012年 01月 01日

フィールド・オブ・ドリームス(1989) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

f0009381_3394633.jpg原題:FIELD OF DREAMS

監督:フィル・アルデン・ロビンソン
原作:W・P・キンセラ
脚本:フィル・アルデン・ロビンソン
撮影:ジョン・リンドレー
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:
ケヴィン・コスナー (レイ・キンセラ)
エイミー・マディガン (アニー・キンセラ)
ギャビー・ホフマン (カリン・キンセラ)
レイ・リオッタ (シューレス・ジョー・ジャクソン)
ジェームズ・アール・ジョーンズ (テレンス・マン)
バート・ランカスター (アーチボルド・グレアム)
ドワイヤー・ブラウン (ジョン・キンセラ)

       *        *        *

If you build it, he will come.....

1989年~1990年は映画ファンにとっては夢のような時代だった。
89年の年明け『ベルリン・天使の詩』『ニューシネマ・パラダイス』『恋恋風塵』『バベットの晩餐会』、年をまたいで『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』『フィールド・オブ・ドリームス』『霧の中の風景』『恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカーボーイズ』・・・・こんなにスゴイ当たり年はもう二度と訪れないだろうと思う。

『ニューシネマ・パラダイス』で散々泣かされて、もうこれ以上泣ける映画はないだろうっておもってたら翌年のこの『フィールド・オブ・ドリームス』でまたまた爆涙だった。眼がねは涙でくもり、あんまり我慢してたので見終わった時に鼻水がつるーーーーーっとスジを引いた。あんまり涙を我慢してたら鼻から出てくるというのは子の事なんだと知った。

でも、なぜこの映画がここまで泣けるのか・・・不思議な魔力をもっているのか・・・・、謎の深い映画でもある。

If you build it, he will come.....

アイオワに移り住んで農業を営んでいるレイ・キンセラ(ケヴィン・コスナー)が、ある日トウモロコシ畑のなかで、その声を聞く。“If you build it, he will come.....” やがてトウモロコシ畑の一角に野球場のイメージが浮かび上がり、続いてシューレス・ジョーのイメージが一瞬垣間見えた・・・かのように思えた。レイは、妻のアニー(エイミー・マディガン)にそのことをつげる。この時の会話からすでにウルウルきていた。

「私は、彼が老いていくのが許せなかった。
 今の私と同じ年のころには、すでに彼は擦り切れた老人のようにみえた。
 きっと彼は、何一つスポンティーニアス(衝動的)なことはしなかった。
 私も彼と同じようになっていくのかと思ったら怖い。・・・私はきっと狂るってるな」

この奥さんも良く出来た奥さんで、
「そうよ、あなたは狂ってるわ。でも、もし、あなたが、どうしても、ほんとにそうしたいって思うならするべきよ」と言ってくれる。

翌日からレイは育ったトウモロコシを刈り取り、そこに野球場を作っていく。そしてなにもないまま、時は過ぎ、野球場は雪に埋もれ、クリスマスをやり過ごした。そんなある日、妻のアニーは家計は火の車だといつ現実をつきつけられていることをレイに話す。衝動にかまけてまずいことをやってしまったな・・と思ってるレイに、娘のアニーが声をかける。「ああ、うるさい、後で聞くから」と邪険にするレイだが、アニーはしばらくしてまたレイに声をかける、「誰か来てる・・・」。
フィールドには父が憧れた野球選手、シューレス・ジョー・ジャクソンが来ていたのだ。

上手いんだ。
期待させておいて、もうダメかなっと思わせ、ぎりぎりのところですくっていく。

このあとの展開も日本人には在り得ない展開かもしれない。なんと既にこの時点で秘密を家族と共有するのである。おそらく日本のドラマなら、ここは主人公だけの秘密にしておくところだろうが、この物語では家族とシェアする。アメリカ的である。
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シューレス・ジョーは、メジャーリーグに在籍したプレーヤーで生涯打率は .356。1911年には147試合出場、なんと打率.408を残している。しかし、シカゴ・ホワイトソックス在籍中のワールドシリーズで八百長試合をしたとして、他の7人のプレーヤーとともに球界追放になってしまった。
詳しい話はこの事件をテーマにした『エイトメン・アウト』参照のこと・・。

そのシューレス・ジョーがレイの野球場に現れる。
どうやらこの場所は、<過去に刺さったトゲ>を浄化する場所らしい。
この映画のツボは、この<過去に刺さったトゲの浄化>にある。人は誰でも1つや2つのトゲが心のどこかにささったままになっているものだ。この物語では、その悔しさを癒してくれるがゆえに、怒涛の涙をさそうのである。

そしてさらなるお告げがレイの耳に届く。
<過去に刺さったトゲ>を浄化しなければならない人は他にもいるらしい。
そしてそれは、自分自身であることに気づいていく。。。
レイは、子供の頃、父のヒーローだった、シューレス・ジョーをののしって家を出たのだった。

I could never respect a man whose hero was a criminal.

シューレス・ジョーが八百長をしたかしなかったかなどもはや意味はない。レイがもっている自責の念は、あの時、父を傷付けることを意図してその言葉を吐いた・・ということだろう。
それはまさに、『普通の人々』のなかで、コンラッドを傷付けるために、悪意をもってフレンチトーストをディスポーザーで処分したメアリー・タイラー・ムーアのようなものだ。

その後コンラッドが若くして死に、あのときに自責の念から自分を解放されないまま、メアリー・タイラー・ムーアが歳をとったとしたらそれは不幸としかいいようがない。そしてもし、その自責の念が解消されたなら・・・sらな誰だって泣くよ・・・。

この映画においては、父とするキャッチボールなんかはどうでもいいのである。アメリカ国民の文化としての野球の賛美なんかどうでもいいのである。この映画のツボは、過去に刺さったとげは、その気になれば自分で浄化できるんだ。・・・確かに、このフィールドにいる人たちは、ここでしか浄化できないかもしれない。でも、君たちは、やろうとおもえばすぐにでも出来るんだ!と語ってくれている。

もっとも感動敵なのはバート・ランカスター扮するアーチボルド・グレアムのエピソードだろう。
かれはジャイアンツで一度だけメジャーリーグのフィールドにたった。勝ってる試合の8回裏、守備固めとして外野の守備についた。たったそれだけが彼のメジャー人生だった。その後再びマイナーリーグに戻され、そして引退した。その後は医者になりすでに余命を全うしていた。そんな彼の望みは「一度でいいからメジャーのバッターボックスに立ってみたかった」というもの。やがてグレアムは、少年の姿でそのフィールドにたち、メジャーのピッチャーを相手に犠牲フライを打ち、貴重な打点を記録する。

そのとき、レイの娘、カリンが観客席から落ちて気をうしなう。そのときアーチー少年は、夢のフィールドを後にしてコチラの世界に踏み入れる。フィールドを出たとたんに医者だった自分にもどり、カリンの危機を救う。サンドイットを喉につまらせていたのだ。。。彼がこの夢のフィールドから出るところから終わりまでもう泣き通しである。

If you build it, he will come.....

彼とは父のことだった。
キャッチャーマスクをとったその男は、まだレイを生む前の若々しい父だった。
自分はあなたの息子だ」とは言わずに自己紹介するレイ。別れ際に「キャッチボールしない、ダッド」というと、その言葉の意味がよくわからないまま、“I 'd like that.”と、戸惑いながらこたえる若い頃の父の言葉をきいて再びどあああああああああああああと涙があふれてくる。
卑怯この上ないね。
きっとあれが、本人の顔をしてたらだめなんだろうな。面とむかって伝えるとどうしても芝居がかかってくる。どこかうそ臭くなる、照れて何もいえない・・・。でも、自分の存在を知らない父になら言える・・・・。
だああああああああああああああ、
ああああああああああああああああああああああああああああああああ、ダメだああ、
これ書いてても泣けるぞ、くそおおおおおおおおおおおおおお。。。

きっと、この映画をみたらベルイマンも泣いただろうなあ。

自分の心のなかに刺さっているいくつかのトゲの、きっといつかは、
こんな風に浄化されるのだろうなあ思うと、やはり泣けてくる。
でも、それは今、浄化されなくていいのけど。
今はもうすこしだけ復讐心をもっていたいと思う。

by ssm2438 | 2012-01-01 03:25
2011年 12月 10日

オーケストラ!(2009) ☆☆☆☆

f0009381_0551320.jpg原題:LE CONCERT

監督:ラデュ・ミヘイレアニュ
脚本:ラデュ・ミヘイレアニュ
    アラン=ミシェル・ブラン
    マシュー・ロビンス
撮影:ローラン・ダイヤン
音楽:アルマン・アマール

出演:
アレクセイ・グシュコフ (アンドレイ・フィリポフ)
メラニー・ロラン (アンヌ=マリー・ジャケ)
ドミトリー・ナザロフ (サーシャ・グロスマン)
ミュウ=ミュウ (ギレーヌ・ドゥ・ラ・リヴィエール)

       *        *        *

ギャグを全部斬り飛ばして再編集したら傑作になる!

下らんコメディシーンをいれるので、気持ち良い流れが全部ぶち壊しになるのがかなり悲しいが、もう一回再編集しなおしたら傑作になるポテンシャルをもってる。時間があったら自分で再編集して自分だけの『ラ・コンサート』を作っておきたい気になってしまう。
しかし・・・このくらい全部のギャグがいらないという映画も珍しいな・・(苦笑)。

ロシア・ボリショイ交響楽団で劇場清掃員として働くさえない中年男のアンドレイ・フィリポフ(アレクセイ・グシュコフ)は、30年前に指揮棒を折られて楽団から追放された指揮者だった。共産主義の当時、国がユダヤ人排斥の政策を強行、ユダヤ系の演奏家たちも例外なく排斥されることにアンドレイらは反旗を翻したことから、メンバー全員は楽団から追放された。そんな彼がフランスから届いた一通のファックスを盗み読む。急遽出演できなくなった楽団の代わりに、ボリショイ交響楽団に来て欲しいという依頼だった。アンドレイは、30年まえの楽団の仲間をあつめて今のボリショイ交響楽団の替りにパリ公演を自分達でやってしまおうと計画を立てる・・・。

初めはハートフルコメディの流れだったのです。
電話の向こうのパリのプロモーターはハイソな生活。それにくらべて主人公たちの生活は貧乏暮らし。昔の仲間をあつめたって、楽器さえ持ってない人間も多い。大体パスポートだってない。仕方がないのでパスポートは、空港に自分の写真をもってこさせて待合室で偽造パスポートを作るという始末。
ただ、まだこのアタリまではギャグやっててもよかったのです。昔の栄光から30年も遠ざかり、今は共産党のおかげで、「人民の敵だ!」とかいわれ、才能がありながらも誰でもできるような仕事しかさせてもらえない貧乏人。今はぼろぼろの彼らだがみんなが集まれば・・・・そんな彼らの起死回生のコンサート。サクセスドラマの王道である。

ところが物語はそこにもうひとつの物語がからんでくる。ユダヤ人排斥運動に反対した楽団のソリストだったレアというヴァイオリニストは、その活動にのめりこみすぎてシベリア送りになる。彼女には生まれたばかりの子があったが、その子は秘密裏にフランスに送られて育てられた。
その娘は今は大人になり、フランスでも有名なソリストになっていた。アンドレイは、パリでおこなうコンサートの曲は『チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲』のソリストにフ彼女を指名する。

一行がパリに着き、この物語が主導権をにぎりはじめると、きもちいい流れをギャグがことごとくぶち壊していく。勘弁してよ~~って思ってしまう。パリにきた楽団のメンバー達は、リハーサルもそっちのけで観光にうつつをぬかしまくり。このあたりの描写が邪魔で邪魔で・・・。こんなことなら、メンバーのもうひとりふたり、カルマをもたせて、それをこのコンサートで浄化するような描き込みができなかったものか・・・。かりに出来なかったとしても編集でこのクソギャグシーンをカットできなかったものだろうか・・・。

コンサートの前の夜、ソロをやるアンヌ=マリー・ジャケ(メラニー・ロラン)と共に食事をするアンドレイ。自分は誇示であり両親が誰なのかもしれないと話す彼女。「なぜ私を選んだのか?」という質問に、アンドレは彼の目指すハーモニーとレアというヴァイオリニストのことを語る。アンドレイが求めているのはレアだと知り、自分の存在意義を失ったアンヌ=マリーは一度はコンサートに出ないことを決める。
そんなアンヌ=マリーをコンサートに出すためにアンドレイの友人のサーシャ・グロスマンは、「コンサートの終わりに、両親がわかるかもしれない」となぞめいたことを告げる。

やがて始まるコンサート。しかし30年ぶりの演奏はかなりさび付いていた。しかし、アンヌ=マリーのヴァイオリンが彼らの過去をよびさます。彼女の音楽はまさにレアの再来だった。
30年前に中断されたコンサート。政治批判のために指揮棒をおられたあのコンサート。その時の指揮棒をセロハンテープでつなぎとめて振るアンドレイ。総ての想いがアンヌ=マリーのヴァイオリンの音色にリードされて昇華していく・・・・。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・泣けます。

<物語>って素晴らしいですね・・・。
この物語の感動を邪魔するくそギャグ連打にもめげず、監督他のテレ隠しギャグにもめげず、物語の本質が、ひたすら突き進んでいきます。どんなに糞監督/糞スタッフが邪魔しようとも、物語の本質がそんな糞演出を打ち負かして正しき道に導いていきます。それを作ってるスタッフの無能ささえも、物語の本質がなぎ倒していくこのラストコンサートは素晴らしいの一言です。
久々にいいものをみせてもらいました。。。。

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by ssm2438 | 2011-12-10 00:50
2011年 01月 16日

星願 あなたにもういちど(1999) ☆☆☆☆☆

f0009381_8205641.jpg監督:ジングル・マ
脚本:ロー・チーリャン
    ヤン・シンリン
撮影:ジングル・マ
音楽:ピーター・カム

出演:リッチー・レン
    セシリア・チャン
    ウィリアム・ソー
    エリック・ツァン

        *        *        *

いやあああ、泣ける。この映画は泣ける。劇中で3~4回くらい泣いたおぼえがある。

この映画の監督シングル・マはその昔『ラブソング』を撮った時の撮影監督さんである。今回は監督もやってるようで・・。いやいやしいかし、『ラブソング』といいこの『星願、あなたにもういちど』といい香港のラブストーリーはすごいですね。きちんと一般のエンタテーメント作品とし成立してます。おまけに泣ける。あと人工照明がうざいけど美しい。たぶんあれがなかったらぜんぜん古臭い建物なのだろう。ぎんぎんにライトアップしてモダンにみせている。多少露骨過ぎるが、そんなことはこのさいどうでもいいだろう。『天国から来たチャンピオン』『ゴースト』などのシチュエーションも上手く使われている。しかし・・・おちついてみるとけっこうあらがあり、完成度としては高くない。それでもこの映画の勢いはすさまじいものだ。

<あらすじ>
子どもの頃の網膜剥離で視力を失い、脳に炎症をおこして話すことも出来なくなったオニオン。オニオン(リッチー・オニオン)。そんな彼だが持ち前の明るさと手話と点字で人々の役に立っている。病院のカフェではたらくジャンボ(エリック・ツァン)というおじさんがいる。彼のところで塩レモンソーダを飲むのが彼の日課になっていた。塩をいっぱいかけて飲むオニオンをみてジャンボは「そんなにいっぱいかけてると早死にするぞ」ってよくいっていた。
オニオンは、いつもやさしくしてくれる看護婦のオータム(セシリア・チャン)に密かに恋心をいだいていた。彼にとっての至福の時間はオータムが散発をしてくれる時間だった。あまり心を他人に話さないオータムだが、オニオンには気を許せてなんでも話せた。彼女が言うにはオニオンに話してもだれにも告げ口しないからだそうな。オニオンはそんな彼女を思いながら夜になるとサックス吹いていた。

しかしある日オニオンは交通事故で死んでしまう。しかし天使の計らいで、地上に5日間だけ戻れることになった。しかしもどれても姿かたちは違うし声も違う。本人であることを名乗ろうとすると発作をおこしてそれはいえない。オニオンは、とりあえずその5日間をオニオンが生前かけていた保険会社の社員チョク・チーマンと名乗ることにして、その保険金の受取人をオータムとして処理しようとする。なんとかオータムにちかづく口実を得たが、彼女しか知らないようなこと、たとえばチーズケーキは嫌いで、グミのキャンディが好きだとか、も知っているオニオンをオータムは不振に思い警戒し始める。手紙を書いて渡してもその文字はぼやけて読めない。テープに吹き込んでもその声は録音されていない。自分がオニオンだと言おうとすれば発作を起こしてはなせなくなる。

なとか彼女と接点をもちたいオニオンは「オニオンの日記をもっている」と嘘をついてしまう。夜に会いたい連絡があり、なんとか日記を一夜漬けで(点字で)書こうとする。しかし・・・大変なので一行書いただけでギブアップ。点字のよめないオータムはチョクに読んで聞かせてほしいと言う。
何も書いてない日記を指で触って読んでいる振りをしながら思いでも語るオニオン。はじめてオータムが病院にきたこと、はじめてオータムが髪を切ってくれたときのこと、髪を切ってくれてるとき間違って耳を切ってしまいなきじゃくってたオータムのこと・・・、聞いているうちにオータムは流れる涙をとめられない。
「やめて、その日記は燃やして」といって駆け出すオータム。
「さっきオニオンが近くにいたようなきがしたの」とオニオンとの連絡につかっていたポケベルにかぶせたねずみさんにむかって泣きじゃくるオータム。

オニオンは自分の死んだ場所にいってみると、彼をひいたカップルが花を供えにきていた。そこにジャンボおじさんが現れる。彼のうちにいくと死んだ娘の写真があった。薬のやりすぎでしんだそうな。
レモンソーダと塩をさしだすジャンボ。ひとつ肩をもんでくれないかと頼むと、生きていたときのように彼の肩をもむオニオン、何かをさとったかのように飛び上がるジャンボ・・・、
「いつか帰るんだ、台湾へ? また来るのか?」
「二日後、もう来ない」
「だったらもう何もするな。つらくなるだけだ」
その言葉をきくとポケットからいくつかある札束を差し出すオニオン、「向こうじゃつかえないから」
帰り際にぼそというジャンボ、
「バカ娘にあったらめんどうみてやってくれ」
「分かった・・」

その日からオータムのまわりで不思議なことがおきはじめる。あとでかたずけておこうとしたダンボールが既にかたずけてあったり、スーパーで買い物をしていると、グミのキャンディがかごのなかにはいっている・・。
そのキャンディを都会の駐車場に車をとめて一晩中かけて食べるオータム。

夜になるといつものサックスの音がきこえてくる。「オニオン!?」と駆け出すがそこでサックスをふいてたのはウー先生(ウィリアム・ソー)だった。彼の胸でなくオータム。もう自分はいられないと悟ったオニオンはオータムをウー先生にたくそうとしていた。しかし・・・嘘をつききれないマー先生「僕じゃない、サックスを吹いていたのはチョク・チーマン」だと告げる。
オニオンは近くにいる、「オニオン、オニオン」とかけだすオータム。

無数の星が降る夜・・・・オニオンは光につつまれて帰っていくのだった。

怒涛のぼろ泣き映画。すごいぞ、シングル・マー!!
アジア至上、最高に泣ける映画かもしれない。
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by ssm2438 | 2011-01-16 22:23
2010年 08月 02日

トイ・ストーリー3(2010) ☆☆☆☆

f0009381_02237.jpg監督:リー・アンクリッチ
脚本:マイケル・アーント
    ジョン・ラセター
    アンドリュー・スタントン
    リー・アンクリッチ
音楽:ランディ・ニューマン

声の出演:
トム・ハンクス/唐沢寿明 (ウッディ)
ティム・アレン/所ジョージ (バズ・ライトイヤー)

       *        *        *

うむむむ、これは良質の純粋Mマインドエンタテーメント映画だ。

物語というのは、どこかしらSMマインドが描かれていなければ面白くないものだが、この映画にはそれが満載だ。このシリーズをはじめてみた時から薄々は感じていたのだが、この映画はSMマインド(特にMマインド)の宝庫であり、受動的にしか愛せない玩具という立場を効果的につかって作られたこの映画。所有され、いじられる悦び。飽きられる哀しさ。そして主人の残酷さを受け入れる玩具たち。そして、相手が主体性のない玩具だからこそ誘発される子供の持つ残忍性=加虐性。
これくらい人間の本質の一部がおそろしく赤裸々に語られた映画なので、見る人の心に深くかたりかけるものがありつづけたのだろう。個人的にはR指定にしたいくらいだ。


17歳になったアンディは、その秋から大学に行く。昔からの荷物やアンディが大事にしていた玩具たちも、ゴミとして捨てるか、屋根裏部屋に残すか、大学にもって行くかの決断をせまられる。今となってはほとんど手にとって遊ぶことのなくなった玩具たちだが、それでもゴミとしては捨てられない。しかたなくアンディはその玩具たちをゴミ袋につめて屋根裏部屋に残すことにする。
ここで主人の残酷さが発揮される。バスもふくめてほどんどの玩具はゴミ袋にいられられ屋根裏部屋に運ばれることになったが、ウディだけは大学へもっていくダンボールの中に区分けされた。みんな一緒とおもっていても、そこには序列というものが存在し、一番愛されていたのはウディであることを他の玩具たちも認めるしかない。その決断に対しては文句を言わない玩具たち。

そこで手違いがあり、お母さんがそのゴミ袋を要らないものだ思いゴミ回収に出してしまう。なんとか危機一髪逃げ出した彼らだったが、「自分たちは捨てたれた」と認識した彼らはサニーサイドと呼ばれる託児所に寄贈されるダンボールに紛れ込み、新しい主人をもとめてアンディのもとを去ることに。
ここでもウディは、アンディはみんなを捨てたわけではないと誤解をとこうとする。我々はアンディのものなのだから、戻ってやがてアンディが子供をつくり、その子たちと遊べる暇で屋根裏部屋で待つべきだと主張。けなげである。

そのあとはサニーサイド幼稚園のエピソード。はじめは幸せいっぱいの世界にみえたが、子供たちはビーストであり、玩具たちは過酷な労働をしいられる。しかしその一方で、玩具たちのリーダー、ピンクの熊のぬいぐるみ・ロッツォとその仲間たちは、お行儀の良いお子様クラスでしあわせそうに可愛がられていた。夜はドアに鍵がかけられ逃げることも出来ない。そんななかでウディがかれらを助けにもどり、みんなで脱獄する話が展開される。
お子様たちはここが楽しいのかもしれないが、個人的にはここはもっとカットしてほしかったかな(苦笑)。

結局脱獄したがごみ焼却場におくられ、絶対絶命のピンチ。燃え盛る炎をまえに死を覚悟してみんなが手をとるあたりは実に感動演出。その後は都合よくピンチを脱出し、アンディのもとにもどる玩具たち。そして最後の玩具とお別れシーン。結局玩具たちはサニーサイド幼稚園に通う引っ込み思案だがイマジネーションゆたかな女の子のもとに送られることになる。
ダンボールのなかから、玩具たちとりだしては愛ちゃくをもって紹介していくアンディ。もうこのあたりからぼろぼろ涙がでてくる。新しい玩具の主人となる女の子と一緒に、玩具たちと最後の夢想の世界をたのしんだアンディは、彼らをゆだねて去っていく。


実に完成度が高い映画である。
・・・しかし、<受身の愛>というコンセプトが心地よいけど、それだけだとちと哀しいかな。だからこそこの映画が面白いのは百も承知だが、私の好きなテリトリーとは違う分野だったてことだろう。

どうも私は主体性=エゴから発生する愛が好きらしい。人は大人になり、与える側にならなければいけないものであり、そのためには己を成長させていかねばいけない宿命にあり、私の好きな話は、見ている人が、その与える力をもてるようになる背中を押してあげる方向性の映画なのだろうな。それが描けるのがピクサーのなかでは『Mr.インクレディブル』『レミーのおいしいレストラン』をつくったブラッド・バードだけなのだ。

ジョン・ラセターアンドリュー・スタントンらのオリジナルなピクサーのメンバーは、子供の立場になり(与えられる立場になり)、“こういう愛し方をする親がいたらいいな”・・みたいな大人にならない者たちの夢を描いてくれる。それに対して、ブラッド・バードだけは、大人社会(与える立場の者たちの社会)の現実を描きつつ、“こういう大人になっていきたいね”・・という、大人になっていく子供たちへのメッセージを提示してくれている。
そのあたりが、世間にはうけるピクサーの映画の中にあってひとり大人の映画を作る外様のバードの特異性なのだろうな・・。

頑張れ、ブラッド・バード! 負けるな、ブラッド・バード
少なくとも私は君の次回作を期待しているぞ!

by ssm2438 | 2010-08-02 00:20
2010年 06月 15日

次郎物語(1987) ☆☆☆☆

f0009381_0433863.jpg監督:森川時久
原作:下村湖人
脚本:井手雅人
撮影:山崎善弘
音楽:さだまさし/渡辺俊幸

出演:
加藤剛 (次郎の父)
高橋恵子 (次郎の母)
泉ピン子 (次郎の育ての親・お浜)
伊勢将人 (次郎)

       *        *        *

さだまさしの「男は大きな河になれ」が泣ける。すっごく力を与えてくれた歌だった。

この映画が放映された年に私は東京から故郷の岡山県久米郡中央町(今の美咲町)まで歩いてかえったことがある。しかし最初の1週間は悲惨だった。さすがに歩きなれてないのに突然そんなことをはじめたものだがかかとは悲鳴をあげるが、足の裏は水ぶくれで血まみれ。ついに小田原で医者にかかった。そこで予定外に2日も休み、そこからなんとか歯を食いしばって熱海まで歩いたがもうそこでも2日休んだ。その熱海での二日目の午後、なんぞ時間でもつぶすことはないかと映画館にはいった。そこでみたのがこの『次郎物語』。泣けたね。映画も良かったが、さだまさしのモルダウを編曲した『男は大きな河になれ』の歌詞が実に沁み込んだ。

なぜこの映画があんなに良かったのだろうと考えた。さして特別な、映画的なイベントがあるわけでもない。でも良い。で、一つの答えが出た。それは・・登場人物一人一人が自分に誠実だからなのだ。人生の中には思い通りにいかないことも多い。でも、自分への誠実さをすててまで楽をしたいとは考えない。自分への誠実さを誰もが大事にしている。それがいいんだろうな。
     
<あらすじ>
次郎は、母親のお民(高橋恵子)が病弱だったためにお浜(泉ピン子)の家に預けられて幼少の時代をすごした。そんなお民がほぼ回復し、次郎を実家に引き取ることになったが、次郎の実家本田家は、古くから続いた由緒正しい家柄で、士族の格式を守り子供たちの躾も厳しかった。そんな本田家に合わない次郎はたびたびお浜のうちに逃げ帰っては連れ戻された。自分に懐いてくれない次郎がお浜に懐いているのがいたたまれないお民はお浜に辛らつにあったった。お浜、次郎がほんとの母ではなく自分に懐いていることに罪悪感をかんじていた。
10歳になった次郎(伊勢将人)は、ようやく本田家の毎日に馴染むようになったが、その頃から、悪いことが続くようになった。次郎を可愛がってくれた祖父、恭亮が死に、その看病疲れからお民も発病、そして本田家の破産。一家は町に移り慣れない商売を始めたが、次郎は正木一家でお民の看病をすることになった。同じ頃、お浜の一家も夜逃げ同然に故郷を離れ、消息が知れなくなっていた。お民の病は重かったが、一所懸命看病する次郎にお民もうちとけ、二人の間にはようやく母と子の愛情が通じ合うのだった。夏になり、浮立の踊りに参加する次郎の衣裳を縫いあげ送り出しすお民。そんなお民の様態の悪化をききつけたお浜がお民のもとに駈けつけたてきた。お浜にこれまでの非礼を詫びるお民。「男の子は、ただ愛してやればいいんやね」って言う言葉が泣ける。浮立連の中で踊っていた次郎だが、そのころお民の息をひきとった。


そして流れるエンディング。

男は大きな河になれ ~モルダウより~
作詞:さだまさし/作曲:スメタナ・補作曲:さだまさし

せつないことがあったなら 大きく叫んで雲を呼べ
それでも雲でおおえぬほどの 男は大きな宇宙(そら)になれ
嬉しい時は腹から笑え 笑えば嬉しい花が咲く
心の花でうすめてみせろ 女は優しい風になれ

苦しい時ほど意地をはれ 目をそらさずに雨を見ろ
泣かずに雨を集めてそして 男は大きな河になれ
寂しいのは一人だけじゃない 歩けば転ぶ怪我もする
そこで捨てたら負けになる 男は大きな夢になれ

喜びは人と分かち合え 悲しみは人に預けるな
許せる限り受け止めてやれ 女は大きな海になれ
寂しいのは一人だけじゃない 歩けば転ぶ怪我もする
泣かずに雨を集めてそして 男は大きな河になれ 男は大きな河になれ


この歌詞が、そのあと歩いている間どれだけ勇気をあたえてくれたことか・・。
ふと気付くとこの歌詞をくちづさんでいた。

苦しい時ほど意地をはれ 目をそらさずに雨を見ろ
泣かずに雨を集めてそして 男は大きな河になれ ・・・である。
だあああああああ、今思い出しても涙が出てくる。

by ssm2438 | 2010-06-15 00:45
2010年 01月 22日

二十四の瞳(1954) ☆☆☆☆

f0009381_0171311.jpg監督:木下恵介
脚本:木下恵介
撮影:楠田浩之
音楽:木下忠司

出演:高峰秀子 (大石久子先生)

        *        *        *

なんども映画化されたスタンダード。やっぱりウルウル来る。ただ、個人的には反戦映画としてはみておらず(もっとも反戦映画というのは嫌いなので)、人類の生命力をみせられた感じがとても良いのだ。どんな逆境でも、自覚崩壊しそうになったときでも、人にはその悲劇をさらりと受け流す柳の枝のようなしなやかなしたたかさをもっているように思う。悲劇を無感知する機能なのかもしれない。たぶんこの映画の戦時中の状況というのは、そんな感じなのではないかと思う。旦那や、教え子たちが出兵していき、死亡が伝えられる。たぶん心の準備はしているのだろう。そしてそのときには無感動になるようにあらかじめ既にセッティングされているのだろう。
ふと思い出すが、私の父が癌になり、あと半年はもたんじゃろうと電話が来た時、あの時は一番ショックだった。ぞわぞわっとする寒気が背筋を走った。そのとき、いつか父が死ぬのだろうというっ心の準備が出来ていたのだろう。いざ父が死んだ時はそれほど悲しいという感情は不思議なくらいわいて来なかった。
この映画を見ると、そういう人間の悲劇に対するショックアブソーバー的な感性を垣間見ることが出来る。そしてさらり、戦後再び集まった教え子の息子や娘たちの顔。それでも人は命をつむいでいるのだなあと、その秘められた生命力に感動した。悲しみというのはその世代でおしまいなのだ。そして次の世代はそんな悲劇すら体感せずに健やかにそだっていく。
なかなか感慨深い映画だった。

<あらすじ>
1928年の4月、大石久子(高峰秀子)は新任教師として瀬戸内海小豆島の分校へ赴任してきた。彼女が担当したのは一年生で、12人の生徒がいた。しかし自転車に乗り洋服姿で毎日登校するおなご先生は「ハイカラ」であり、当初は村の人達から敬遠されることも多かった。そんな排他的な環境のなかでめげずに教壇にたつ大石先生。そんな折、大石先生は子供たちの作った落とし穴に落ちてしばし自転車にのれなくなってしまう。分教場への通勤ができない先生は、本校へ転任することになるが、子供たちは二里も歩いて訪れてきてくれた。大石先生が子供たちにとってかけがえのない存在である周りの人たちも少しずつ理解していくのだった。
子供たちは5年生になり、本校に通うようになると大石先生と再会、しかし、子供たちのなかには家庭の事情や、病気などでで学校に行けなくなる子供でててくる。子供たちと修学旅行でいった金毘羅さんの思い出は子供たちにも、大石先生にふかく心に刻まれるものとなった。そのころには戦争の足音が聞こえてきていた。子供たちを天皇陛下のために戦う兵士として教育する当時の風潮には従えなかった大石先生は、翌年彼らの卒業とともに、大石先生は結婚して退職する。

そして開戦。夫も出兵し、子供たちも兵隊になると嬉々として語る。
「戦争なんてどうでもえんじゃ、お前たちさえ無事ならな」と言う久子に、子供たちは「そんなんじゃ靖国の母になれんぞ」という。「靖国の母なんかならんでええんじゃ」と無感動にいう久子。しばらくして夫の死亡通知がとどくことになる。
1946年、戦争が終わった。新しい教育が始まる。大石先生はふたたび教壇に復帰する。教壇にたった大石先生が出席をとると子供たちが返事を返してくる。その中に思い出深い生徒たちの子供が何人もいた。子供たちの名前を呼んでいると、懐かしいあの二十四の瞳を思い出す、そして、引き継がれる命の営みを感じる感動があふれてくるのであった。

・・・・引き継がれる命、引き継がれる魂、引き継がれる想い・・・、この手のネタには弱いらしい。
ぼろぼろきてしまう。

by ssm2438 | 2010-01-22 00:17
2009年 12月 22日

男たちの大和(2005) ☆☆☆☆

f0009381_428041.jpg監督:佐藤純彌
脚本:佐藤純彌
撮影:阪本善尚
音楽:久石譲

出演
仲代達矢 (神尾克己)
鈴木京香 (内田真貴子)

反町隆史 (森脇庄八)
中村獅童 (内田守)
松山ケンイチ (神尾克己)
蒼井優 (野崎妙子)
長嶋一茂 (臼淵)

        *        *        *

だあああああああああ、泣ける。戦闘シーンになるととたんにテンションさがるが、カメラが陸にあがると涙ぼろぼろ・・、いあああああ、泣けた泣けた。CGのシーンだけでも海外委託できなかったものかなあ。もったいない。というか、CGにしなきゃとれないところは撮らないことにしてこの映画を作ったらもっともっと燃えたものになったのに・・。

音楽はあの久石譲。しかし、ハンス・ジマーばりの旋律。きっと音楽総合プロデューサー(制作兼任)の角川春樹が真似しー根性を出し惜しみせず、「ハンス・ジマーにしてくれ!」って強引に言ったのだろうなあって思った。角川春樹って、新しいものを生み出す才能も観抜く能力もないけど、すでにあるもので、よさげなものを自分の映画に強引に活用する能力だけはアル。

・・・でも、よかった、この映画。しかし、最後の沖縄特攻のところは、「雪風」とか「矢矧」とか・・だしてほしかったなあ。それに、独断で護衛として飛んできた数奇の戦闘機もほしかったなあ。あと、下世話願望をいわせてもらうなら、渡哲也は最後、操舵器に自分を縛り付けてほしかったなあ・・。

<あらすじ>
物語は『タイタニック』みたいな2段構成。
2005年4月、鹿児島県枕崎の漁港に内田真貴子(鈴木京香)と名乗る女性が訪ね、戦艦大和が眠る場所まで船を出してほしいと懇願する。彼女が大和の乗組員・内田二兵曹(中村獅童)の娘と知り驚いた神尾(仲代達矢)は、小さな漁船を目的の場所へと走らせる。神尾も少年兵として大和に乗り組んでいたのだ。内田二兵曹の名前を耳にし、神尾の胸裡に60年前の光景が鮮やかに甦ってくる…。

そんな昭和19年の春、神尾(松山ケンイチ)、伊達、西、常田、児島ら特別年少兵をはじめとする新兵たちが、戦艦大和に乗り込んできた。乗艦した彼らを待ち受けていたのは、厳しい訓練の日々であった。そんな中、彼らは烹炊所班長の森脇二主曹(反町隆史)や機銃射手の内田二兵曹(中村獅童)に、幾度か危機を救われることがあった。同年10月、レイテ沖海戦で大和の乗組員たちも多数死傷し、内田も左目に重傷を負い、大和の任務からも外されることとなった。
昭和20年3月、日本の敗色が日増しに濃くなっていく中、大和の乗組員たちに出撃前の上陸が許される。全員が、これが最後の上陸になることを覚悟していた。森脇は病院の内田を訪れ、内田が下船する時にあずかっていたままの山本五十六から貰い受けたと言う担当を内田に返す。内田は、大和が最後の出撃にでることを感じ取る。
神尾は実家にかえる。しかしそこはひっそしと静まり変えに、仏壇には母の位牌までがあった。呉が空襲にあったときに米軍機に撃たれて死んだという。幼馴染に妙子(蒼井優)がロウソクとともしていてくれた。
「もう守る者がいなくなってしまった」と沖縄特攻に向かう覚悟をきめる神尾に、「死んだからいけん。あんたが死んだら私はどうなるん。私はあんがが好きじゃ」といって泣きながらかけだしてしまう妙子。そんな妙子も、広島に落ちた原爆で死んでしまう。
それぞれが肉親や恋人と思い思いの時間を過ごす。翌日、男たちはそれぞれの想いを胸に大和へ戻っていく。艦内には内田の姿もあった。彼は軍規違反を承知で病院を抜け出して、恋人の芸者・文子(寺島しのぶ)に通帳と印鑑を渡して、ひそかに艦に乗りこんでいたのだ。
同年4月1日、ついに米軍は沖縄上陸作戦を本格的に開始。4月5日、草鹿連合艦隊参謀長は、大和の沖縄特攻の命を伊藤第二艦隊司令長官に下す。臼淵大尉(長嶋一茂)に若い兵士たちに故郷に向かって、なんでもいいから叫べという。故郷に向かって、母を呼ぶもの。無言で語るもの、それぞれの「死二方用意!」であった。
また艦内では、このただの自殺行為的特攻作戦に疑問をなげかける兵たちもいた。彼らは上官と取っ組み合いとケンカをしていた。臼淵はかたる。「これから死ぬもの同士がいがみ合ってどうする。薩英戦争でまけた、薩摩や長州は、尊王攘夷の思想をすてて、西洋化をはかり、そして幕府を倒した。敗れて目覚める。それが今の日本に必要なことだ! その先駆けになるために俺たちは行くんだ」・・と。まがりなりにも自分たちの死に納得をするかすかな可能性が彼らを鎮めた。
大和の沈没からなんとか生き延びた神尾が戦友の西の母親のところに、彼の死を報告に行く。田植えをしている彼の母にその報告をするが、

「あんた一人ぬけぬけと、よう帰ってきたのう」 ・・・感情のない冷たい言葉を返させる。

翌朝その母親が田んぼに行ってみると神尾が田んぼの草取りをしている。

「あんた、名前は?」
「神尾克己といいます」
「歳は?」
「西くんと同じです」
「何処とまんったん?」
「・・近くの小屋に」

そんな神尾に昼食ようにつくったおにぎりを差し出す西の母親。
近くの水場で手をあらりそれを受け取って食べようとするが・・、その田んぼは西が送ったお金でやっと買えた田んぼだという話をきくとふたたびいたたまれず、ふたたびひれ伏して「許してください。自分ひとりだけ帰ってきてしもーて・・ごめん、ごめんなさい・・」

なんでこんな二十歳にもならないような子が、こんな言葉をはっせなきゃらないんだ!!っとおもうとたまらずぼろぼろ涙涙・・、西君の母親も女に彼のまえにひれふして「ごめんな、ひどい事いうて・・ごめんな・・・、あんんたは、死んじゃいけん、死んじゃいけん」って。もう号泣でした。。
さらに、広島に帰ってみれば、そこは原爆のおちたあと。幼馴染の妙子もそこの病院で働いていて被爆していた。元気になったら二人で働いて船を買おう、そして船の名前は「明日香丸」と名づけようという妙子だが、まもなく死んでしまう。

そしてカメラが船体からはなれていくと、今のっている船の名前がその『明日香丸』の文字が書かれている。

内田の言葉を神尾に伝える内田真貴子。
「生き残りの卑怯者だと言われても良い。俺は生きてやる。俺が死んだら、森脇や、唐木との思いでも、神尾や西たちの純粋な思いもなかったことになってしまう」
そして大和が沈んだその洋上についた真紀子は、父内田の遺骨を海へ流す。そして父の思いがのりうつったかのように海に伝える、

「内田一曹、ただいま還りました。
 長い間、生きさせていただき、ありがとうございました・・・」


ううううだああああああああああ、号泣映画だった。。。

by ssm2438 | 2009-12-22 04:28
2009年 11月 19日

ニュー・シネマ・パラダイス(1989) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

f0009381_1628966.jpg監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
撮影:ブラスコ・ジュラート
音楽:エンニオ・モリコーネ

出演:フィリップ・ノワレ
    ジャック・ペラン
    サルヴァトーレ・カシオ
    マルコ・レオナルディ

     *     *     *

メジャーな映画はあまり取り上げないつもりだったのだけど、やはり一つの記録としてこの映画は語らなくてはならないだろう。公開されるやいなや圧倒的な感動を映画ファンとにわか映画ファンに与えた『ニュー・シネマ・パラダイス』。私も劇場で観て大泣きした一人なのだが、この映画を劇場で観られた事はかなりの幸せものである。
そしてその後、ビデオ/DVDの発展にともない『ニュー・シネマ・パラダイス/完全版』なるまた別の映画が登場してしまった。年が経ち、落ち着いてみれば、これはこれで一つ映画だと理解出来るのだが、公開当時の『ニュー・シネマ・パラダイス』のドラマの流れ、リズム、ノスタルジア、感動があまりに見事に調和していたので悔しいような‥‥この完全版をどう理解するかはかなりやっかいな問題へと発展した。出来る事なら劇場公開版のみでほんとに良かったのだが‥‥、しかし、あったものは仕方がない。


◯ カッティング=編集という作業について

テレビ、映画のフィルムというのはカッティングされているものなのだ。だこのカッティングの作業がなければ全てのテレビ番組が同じ時間枠で放送されるわけがない。1カット、1カットは後に在る程度カッティングされることをふまえて長めに撮ってあり、それを繋いだ後で気持ちのいい長さに調整しつつ、決められた時間内におさめるように編集していくのである。必要ならその尺を延ばす事もある。
創っている監督自身も撮ったフィッルムを全てつなげたから良くなるとはけっして思っていない。もちろん創ってる時は「このカットは必要だ、このシーンは必要だ」って思って創っている。しかし全部を撮り終わった後つなげて客観的にみると「このカットはいらなかったな」「このカットはもう1秒6コマ、短いほうがいいなあ」「このシーンはごっそりないほうがいいだろう」を思う部分はかずかずあるもの。そして必要ないと判断した部分は削り、その反対もうちょっと欲しいなと思う部分は尺を延ばしたりして(その場合はもう一度取り直すことになる)在る程度のトータル尺に収め込むのである。
このカッティングという作業が上手く行けば、見ている人は気持ちよくさらりと観られるし、ぎこちなければなんか見心地のよくない映画になる。

最近私がみた映画で下手なカッティングと言えばソフィア・コッポラ『ロスト・イントランスレーション』。お話的には決して嫌いなタイプの映画ではなかったのだが、カッティグの悪さ、絵の繋ぎ方の悪さはかなり観づらい映画にしてしまっていた。特に下手下手二十丸印は『マルコムX』『モ’ベタブルース』などのスパイク・リー。この監督の映画のどれも見心地の悪さは飛び抜けている。この二人は編集のひどさというよりも監督の絵のツナギの下手さ、見せ方の下手さ、演出の下手さで観づらい映画になっているような感じ。
編集そのものどうしようもなくひどかったのは『ザ・ペーパー』。監督はロン・ハワードでばりばりの娯楽作品メーカーで本来見やすい映画を提供する人なのだけど、『ザ・ペーパー』は他の彼の作品に比べてあまりに見心地が悪かった。編集がもっと気持ちよい切り方をしたらこの映画はもっとテンポよく、気持ちよく観られたはずなのに‥‥。これは監督の力というよりも明らかに編集がド下手、編集のヒドさをチェックするいい映画参考になるかもしれない。

この『ニュー・シネマ・パラダイス』劇場公開版の編集作業ははミラクルである。
あるストーリーの中から不必要なシーンを削るという以上に、根本的な意味合いまで変えるしまう編集になっている。そして見終わった感想はこの編集されているほうが遥かにどどおおおおおおおおおおおっと感動が来るのである。
編集マジックと言おうか‥‥、とにかくすごい奇跡。勇気いった編集だったろうなあって思う。あるいは何も考えてないけど成功してしまったか。


◯ 劇場公開版 vs 完全版

この映画というのは、男がもつ「好き」という能力の讃歌なんだろうって思う。
真剣に好きになる事。その純粋さ。そのひたむきさ。弱さ。かっこ悪さ。好きすぎるからこそ籠ってしまう可能性。それでも好きを肯定する映画なのだろうなあって思う。編集された劇場公開版の映画はそういうスピリットに意味合いを持っていっていたのだ。

で、蛇足といわれた完全版‥‥、こちらはどうなのかというと、この本来もっていた<純粋に好き過ぎるスピリット>にブレーキをかけているのである。きわめて理性的で作り手としては実に理解出来る作りなのだ。過去を好き過ぎてノスタルジアという重力にとらわれて動けなくなってしまうことから無理矢理解放してやる役目こそが、トルナトーレがアルフレードに課した仕事だったのだ。
「おまけは映画オタクになる人ではなく、映画人になる人なんだよ」と無理矢理過去の暖かさを切り取るのである。 けっこう痛い。

私事ながらこんな話がある‥‥、私は中学生の時に買ったシャーペンを高校、大学、そしてアニメーターになった1年目までずっと使っていた。それでないと描けないと思っていた。絶対それでないとダメだと思っていたのだが、そのシャーペンが在る時からなくなってしまった。6年間私の青春を共にしたシャーペンなのだ。ショックはでかかった。もし「あのシャーペンがないからもう描かない」って決意してしまってたら今の私は存在しなかったのだ。
他人からみてれば大した事ではないかもしれないが、私にとっては一代決心だった。「シャーペンなんて他にもあるんだ。あのシャーペンがなくたって‥‥」そう自分に解らせるどれだけエネルギーを使った事か。<好き力>が強すぎる一つの消失から動けなくなるのだ。それからは机の上消しゴムは常に2つ以上。定規も2つ以上持っておく事にした。必要以上に一つの事に好きになることに予防線をはったのかもしれない。私はたぶん‥‥ひとより<好き力>は強いと思う。が、それが暴走し始める、いったん失いでもしたら自分自身を動けなくしてしまうことがある。それを防ぐ処世術を強制的に身につけたのだ。

完全版におけるアルフレードの行動は(トトとエレナをある種の裏切りで引き離したことを含むノスタルジアからの引き離し)、映画の作り手としてはまったもって正しい方向性である。なにも文句がつけようがないほど正しい判断だ。だからこの完全版が存在することにはなんも文句がつけようがない。しかし劇場公開版では、そんな理性的な完全版からこの抑制のがきいたストーリー展開部カットし、<純粋に好き過ぎるスピリット>の映画にしてしまったのだ。
一観客として観るなら、利害抜きで好きになって重力の間に囚われて、それでも好きで没落してもいいじゃない‥‥ってくらいの愛をみたい気がする。それを観られるから見る側としては気持ちよかったりもする。劇場公開版ではそれを編集で実行してしまった。実際この映画ではその生き方をサルバトーレの母が演じている。「いいじゃない、一つの好きににこだわって‥‥、それで社会的に成功しなかったとしても何がいけないの」みたいな一つの<好き>に殉じた生き方。そしてトルナトーレ自身も「それはそれでいいじゃないか‥‥」って描き方をしているように見える。

これが意図的におこなわれたのかどうかは実はかなり疑問である。公開にあたり長過ぎる尺を切るとき「なんでこんなことになるんだ?」って何も考えずに編集する人が切ってしまったとも考えられる。というか、その可能性はかなり高い。
解る人が見れば完全版の意味合いはとても理解できるのだが、感情論でいけば「なんでお前(アルフレード)、そこで伝えない」ってどうしても思ってしまう。実際そう思って正解だとも思うし‥‥。
良くも悪くもいろんな偶然が重なってあれだけ感動する映画になってしまったのだと思う。

これから観る人には、劇場公開版を勧める。とにかく劇場公開版の気持ちよさはミラクルなのだ。歴代の映画でここまでのミラクルはそう出会えない。絶対無敵ミラルク感動ナンバー1である。
それをこなしたあとでどうしても完全版が観たい人はそのあとに観るのがいいと思う。

ただ、私が思うに、この完全版で別の形のストーリーの繋ぎ方があったのでは‥‥?と思う。
物語が始まってアルフレードの死を聞かされ、地元に戻って来てエレナの子供をみて、大人になったエレナを窓越しにみてそこから懐かしい少年時代からの物語に突入。劇場公開版の流れをそのままに、最後にローマに戻って来てからキスシーンをあつめたフィルムをみながら、エレナ(大人)との再会のピソードを断片的にインサート。でひたすら『ニュー・シネマ・パラダイス』愛のテーマをながしまくる‥‥っていうのがよかったのでは???って思う。

あと、どうでもいいことなのだが、大人になったエレナがブリジット・フォッセー(『禁じられた遊び』のあの子だ)なのはちょっとなあ。どうみても、あのエレナが大人になったらシャーロット・ランプリングだろう。

by ssm2438 | 2009-11-19 18:40 | G・トルナトーレ(1956)
2009年 09月 25日

シービスケット(2003) ☆☆☆☆☆

f0009381_4523295.jpg監督:ゲイリー・ロス
脚本:ゲイリー・ロス
撮影:ジョン・シュワルツマン
音楽:ランディ・ニューマン

出演:ジェフ・ブリッジス
    トビー・マグワイア
    クリス・クーパー
    エリザベス・バンクス

        *        *        *

これ泣けるうっ!映画だと分ってるのでついつい応援してしまうシービスケット!だああああああああああああああ!!!!
この馬の圧倒的な爆発力はすごい。この馬の疾走感は素敵だ。この馬が走り出すともう「いけええええええっつ!!」って叫んでしまう。ほんとにこんな馬がいたんだ。映画もすごいけど、事実もすごい。撮影もレベルすっごく高い。どのシーンも美しい。レンズの選択も文句なしに適切。ジョン・シュワルツマン、この人いままで知らなかったけど、この画面は実にいいです。過去の作品もちょっとみてみよう。

いやいやいやいや、ちょっと落ち着いてしらべてみよう。
まず、監督のゲイリー・ロス。何やってたのかなってしらべてみたら・・・『ビッグ』『デーヴ』の脚本、ああ、そりゃいいわ! この2本の脚本やってるんなら間違いない人だ。で監督は『カラー・オブ・ハート』から。でこの『シービスケット』が2本目。『カラー・オブ・ハート』はリース・ウィザースプーンの顔が嫌いで当時パスしたえいがだったのだけど、ちょっとチェックしてみるのもいいかも。

次に撮影監督のジョン・シュワルツマン『ザ・ロック』(1996)、『アルマゲドン』(1998)、『パール・ハーバー』(2001)、『ナショナル・トレジャー/リンカーン暗殺者の日記』(2007)・・・私がみたのはそれくらいだけど、正直それほどインパクトのあるものではなかった。『ザ・ロック』と『アルマゲドン』に関しては、悪くはなかったけど色の仰々しさがちょっと鼻についてたかな。これは監督のこのみなのかな。ということは今回の映画での監督のディレクションが良かったてことかな・・。すっごくシックでいい色をだしていた。通常シーンは望遠でかっこよく、馬が走ってるところは特に望遠がいい。レースシーンの騎手目線の小競り合いは広角をいれつつ、レンズの選択も適切だし画調も素晴らしかった。

しかし、この物語をこれだけ感動的なものにしたのはやはり前半のそれぞれの登場人物の歴史をきちんと書き込んだころだろうなあ。あれで見ている人が、登場人物の誰かしらに、自分自身の悔しい時代を投影させただろう。そうして見る人の感情移入を誘う土台をがっちり構築して、シービスケットが登場してから見てる人の思いをトビー・マグワイアと一緒にシービスケットにせて一気に開放していく。近年まれにみるすごく完成度のたかいシナリオ構成。そしてまわりの制作サイドもそれをきちんと理解してあげられたのだろう。怪獣と戦うウルトラマンだけみてそれで満足するようなバカがスタッフの中にいなかったこともすばらし(最近こういうバカがあまりに多いのでまともな作品が非常にすくない)。

f0009381_4595826.jpg劇中の当時無敵の三冠馬といわれたアドミラルとマッチレース、4人に3人はアドミラルが勝つと思っていたそのレース。しかし最終コーナーまわってシービスケットが魂を開放してやると一気に加速してぐんぐんアドミラルを引き離していく。1馬身、2馬身、3馬身・・一気にぶっちぎって勝ってしまう。あの圧倒的爽快感にしびれた。そして靭帯断裂からリハビリを経て復活したレース。最後尾から怒涛の追い上げ、すべての馬をぬき去りっていくあのスピード。シービスケットが飛び出したらそれだけでどあああああああああああああああああああああああああって体の中から喚起が湧き上がる。ひさびさに文句のない素晴らしい映画をみせてもらった。 すごい!! 傑作だ!!

by ssm2438 | 2009-09-25 04:51