主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

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氷点 (1966) ☆☆☆☆

f0009381_223806.jpg監督:山本薩夫
脚本:水木洋子
原作:三浦綾子
撮影:中川芳久
音楽:池野成

出演:
若尾文子 (辻口夏枝)
船越英二 (辻口啓造)
安田道代 (辻口陽子)
山本圭 (辻口徹)
津川雅彦 (北原)
森光子 (辰子)
鈴木瑞穂 (高木雄二郎)
成田三樹夫 (村井)

     ×   ×   ×

イエス・キリストは、人類全ての人の罪を背負って十字架に架けられました・・。

渋谷の町を歩いていると、宣伝カーのスピーカーからこのような言葉を耳にすることがある。しかし、正直なところ、キリスト教に疎い私はこの言葉の意味すら知らなかった。それを今日、教えていただいた(苦笑)。こういうことだったのですね・・・・。勉強にまりました。
きっとキリスト教信者の方ならすっごく酔えると思います。私はどっかに宗教に関して反感がある人間なので手放しには共感できない部分があるのですが、それをさておいても、物語はすっごいです。強烈です。こんな重厚な話が書けるっていうのはすごいですね・・・。そしてそれを大映パワーが見事に短時間の映画にまとめきってる。恐れ入りました。

<物語の発端>
北海道は旭川の病院長である辻口啓造(船越英二)の愛娘・るり子が暴漢に襲われ幼い命を落とす。川原で発見された自分の娘の遺体をみてショックで気をうしなう夏枝(若尾文子)。その倒れた夏枝をうけとめたのが眼科の医師・村井(成田三樹夫)。その姿をみて、自分の娘の死すら充分に悲しめない啓造。
じつは村井医師と夏枝は不倫関係にあり、辻口啓造はそのことを知っているのだが、憎しみを打ちに秘めていた。そして、自分を裏切った妻に対して恐ろしい復讐を思いつく。
それは、自分の娘を殺した男の子を引き取り、夏江に育てさせるというものだった。陽子は、自分の出生に秘密をしらないまま、辻口家の養女となった。

この設定もスゴイなあ。
どろどろですよ。

しかし陽子の素性をしらない夏枝は我が子のように陽子を溺愛した。それがあるとき一変する。夫の日記をみた夏枝は、陽子が、自分の娘・るり子を殺した男の子供だということを知ってしまう。その時から夏枝の憎しみは急に溢れ出し、止められなくなる。このあとの若尾文子のいじめっぷりが理性が効いてていいんだ。表面的なんじゃなくって、どこか理性の聞いた中でのつめたい仕打ち。周りの人はそのことを知らないので、陽子にやさしくする。特に兄の徹(山本圭)は誰よりも陽子を愛しているのが判る。周りの人に陽子が優しくされればされるほど憎らしくなってしまう夏枝。このあたりの描写がとっても素敵。

この夏枝という今回の敵役の母親は、もとは普通に愛をもった女性だったのです。それが、なんの因果かこんな憎まれる母になってしまった。「自分が普通である」と思っていた人でもこうなるのだよ・・という実例とされてるのでしょう。

やがて、陽子(安田道代)は恐ろしいほど健全に育ち、叔母さんにあたる辰子(森光子)は、自分のもとに引き取って大学にやりたいという。兄の徹は、健全な恋人候補としてひとつ年上の北原(津川雅彦)を紹介する。しかし、それも夏枝が反対、邪魔をする・・・。北原からの手紙を、陽子には渡さずに北原に返してしまったり、それだけでなく北原を誘惑したり・・・となかなかの悪女ぶり。

そんなこんなで引き離されてしまった陽子と北原。そしてそんな陽子を愛していけるのは自分しかいないと、自らの愛を告白する兄の徹。おおおおおおおおおおおおお、メロドラマの王道です。しかしそこは陽子の健気さで健全な兄妹という設定にもどるのだが、偶然旭川の雪祭りであった陽子と北原は誤解をといて幸せな気分になってしまう。

しかーし、陽子の幸せを絶対許せない夏枝は、ついに陽子の出生の秘密を暴露してしまう・・・・。

自分は健全に生きていこうと思ってきたが、自分の健全ささえも母・夏枝にとっては不愉快以外のなにものでもなかったのだろう。自分は殺人者の娘であり、母が私を憎むのは仕方のないことだ。辻口家の不幸は私のなかにある殺人者の血のせいだ・・って、陽子は、るり子が殺された川原で、睡眠薬を飲んで自殺を図る。

正直なところ・・・だからといってなんでそこで自殺になるの???という、ある種のいかがわしさが鼻につくも、やっぱり物語のどろどろ感が素敵なので、とりあえずそのテンションで見ていけてしまう。
妻の不倫から発生した恐るべき不幸のなすりあい。本来、憎むべきではないと判っていても幸せになってほしくないと願い続けた夏枝の心。しかし、さらにお約束のどんでん返しがもう一発用意されている。
陽子は、るり子を殺した殺人者の娘ではなかった。さすがに殺人者の娘を、夏枝に育てさせるのは不憫のおもった孤児院の高木医師(鈴木瑞穂)は、大学時代の同級生が不倫した結果生まれてしまった子を素性を隠して辻口家に養子として送ったのだった。

本来なんの関係もない女の子をただ、憎んで自殺にまで追いやってしまったことに、嘔吐する夏枝。それは夏枝だけではなく、父の啓造とて同じこと。これらはすべて普通の人がもつ普通の憎しみである。それを全部ひきうけて、死を選ぶ陽子。
f0009381_2229161.jpg

おおおおおおおおおおおおお、キリスト教ってそういうことだったのか・・・ってやっと判った。

もう恐ろしいほどドラマとしては素晴らしい出来栄えです。
見事!というしかありません。

ただ・・・・、それでもなおかつ、やっぱり気持ち悪いのが、「なんで陽子は自殺しなきゃいけなかったの?」ってこと。「ほらごらんなさい、我々の邪悪な心が、なんの罪もない子を自殺においやってしまったのよ」という罪悪感を植えつけるためにそうしてるようで、なんか・・・・、すっごく押し付けがましいものを感じる。
自分で罪悪感を感じている時は健全だと思うのだけど、それを他人から指摘されて、押し付けられると、おっきなお世話だ!!って思っちゃうじゃないですか。それが本当でも、そんなこと知るかああ、いや、知らないふうに意地張りつくしてやるううううううううって。

その、押し付けがましい部分が気にならない人にはいいんですけど、そこが気持ち悪いので☆一つ減らした。
by ssm2438 | 2012-07-05 22:29
f0009381_1453551.jpg監督:増村保造
原作:有吉佐和子
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:林光

出演:
若尾文子 (妻・加恵)
高峰秀子 (於継)
市川雷蔵 (雲平=華岡青洲)

       *        *        *

猫が・・・・猫が・・・・。
その猫・・・、どこまで本当なのですか?


増村保造の映画の中では『清作の妻』『赤い天使』『陸軍中野学校』が好きなのですが、その次といえばこの『華岡青洲の妻』でしょう。嫁と姑の水面下の壮絶な争いの話なのでが、正直なところ男はあまり見たいという感情がわかない、というか見たくないという部類の映画です。なので「良い」とは聞いていたのですがずっと放置してあった映画。ついに見てしまいました。
・・・・しかし、あいかわらずこの2人(増村保造&新藤兼人)が組むと壮絶ですな。

華岡青洲は江戸時代後期に実際に存在したお医者さん。文化元年10月13日(1804年11月14日)、全身麻酔手術に成功している。西洋での全身麻酔手術は、1846年にアメリカで行われた、ウィリアム・T・G・モートンによるジエチルエーテルを用いた麻酔の手術であるが、これよりも40年も早いことになる。
前身麻酔にいたるまでは、犬や猫の動物実験をおこない、その後この映画のなかにあるような人体実験をしたのち、実際に全身麻酔の手術がおこなわれる。この映画のなかでは、母と妻がその人体実験の被験者として申し出るが、本人自身も自分に投与していたようである。また、文献によれば、近親者も被験者として申し出た人がいたという。

物語の中核をなすのが、この嫁と姑との水面下の争いなのだが、この描写がなかなかスゴイ。2人とも対外的な面子をたもちつつ、自分の存在意義のために熾烈な心理戦を繰り広げている。
これはほとんど星一徹星飛雄馬との対決のようでもある。なんでも星一徹の背番号84の意味は、星飛雄馬の背番号16と足すと100になる。父が息子を飲み込み100になるか、それとも息子が父を飲み込み100になるか・・・、それがゆえに星一徹が望んでもらった背番号だという。この物語もまさにそのような感じである。

物語は冒頭からなかなかぎょお!!である。
加恵(若尾文子)を嫁に欲しいといって彼女の実家をたずねたのは雲平(華岡青洲のこと)の母、於継(高峰秀子)であった。しかし本人は京に修行にでており、本人不在のまま結婚式が行わる。白無垢の加恵の隣には華岡家の医学書がつんでる。そのなかで、雲平の父が家族の構成を説明したり、「華岡家がいかにすごい」かということをえんえんと語る。加恵が雲平(市川雷蔵)と会うのはそれから1~2年してからなのだ。しかし、だからといって加恵が不幸だったかといえばそうではない。むしろ一番幸せだった時間がこの次期だったかもしれない。実は雲平の母、於継こそが、加恵の幼き頃からの憧れであり、姑と一緒にいられることが加恵の幸せでもあった。しかし、雲平が還って来て、加恵が息子と床を一緒にするようになってからは於継の精神状態が変化してくる。

そしてぎょぎょおおお!!とするのが猫。麻酔薬をつくるために猫があっちこっちからもらわれてきては、無理やらに試薬を飲まされ、二度と起きないまま土に埋められていく。死んでいる猫の描写は、投薬されてらりってる猫の様子などけっこう痛々しい。さらに投薬され、眠っている猫のはらにメスを突きさせしてみる。ぎゃあっと暴れだす猫。「まだ効いてなかったか・・・」と残念がる雲平。このあたりもちょっと目をおおいたくなる。ホントにやっちゃってるかもしれない・・と思えてしまうシーンなので、けっこう肌寒いものを感じる。どこまでリアルなのかは不明だが、演出ならスゴイ。本当ならかなり嫌悪感を感じる。

良くも悪くも増村保造であった。
by ssm2438 | 2011-09-20 14:56 | 増村保造(1924)
f0009381_12381882.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス

出演:ジェラルディン・ペイジ
    ダイアン・キートン
    メアリー・ベス・ハート
    クリスティン・グリフィス

        *        *        *

ウディ・アレンイングマル・ベルイマン信者であることは誰もが知っていることだが、この映画はアレンが、どうしてもベルイマンを一度やってみたかったのだろう、そしてやってしまった映画。しかし・・・本家に勝るとも劣らない素晴らしい映画に仕上がっている。この分野でエンタテイメント性というのもおかしな話だが、少なくともベルイマンの映画よりはそれはある。ウディ・アレンの中では一番好きな映画である。

ベルイマン映画のなかでは、常に高圧的支配者が登場する。『秋のソナタ』ならイングリットバーグマン演じる母。『沈黙』ではイングリット・チューリン演じる姉。『野いちご』では、やはりイサクの母。『ファニーとアレクサンデル』では義父の神父。そういった支配的環境のなかでいかに自己を守っていくか、あるいは嫌われないために自己を放棄していくか・・、そういったアイデンティティの存続を描けた戦いが描かれている。

ウディ・アレンが作った『インテリア』のなかでは、3姉妹の母がその高圧的な支配者となっていた。その環境下で育った3姉妹が、大人になった時、そしてその母が以前より弱くなっていったとき、彼らがどう対処したか・・それが描かれている。この映画では、支配的な立場いた母の影響力が弱体化してきてるなか、本人はまだそれをもっていたいと思っているが、そうではない現実がある。この状況ではかつて支配者だった母ですらも彼女のアイデンティティの崩壊の危機にたたされている。

そして、人が社会の中で生きていく以上は、被支配的立場と支配的立場の両方を経験することになる。そういう意味ではここに登場する誰にでも感情移入できる部分があるはずだ。あるときは母の立場に・・、あるときは長女レナータの立場に、そしてある時は次女ジョーイの立場に・・・、そしてあるときは、父の立場に・・・。

<あらすじ>
ロングアイランドの海岸ぞいにたつモダンな白い家。富裕な実業家アーサー(E・G・マーシャル)が、インテリア・デザイナーである妻イブ(ジェラルディン・ペイジ)と30年間すごした家である。彼らには3人の美しい娘がいた。長女のレナータ(ダイアン・キートン)は、売れっ子の女流詩人。次女のジョーイ(メアリー・ベス・ハード)姉レナータにライバル意識をもっているが、自分になにがむいているのか分らないで苦しんでいる。三女フリン(クリスティン・グリフィス)は恵まれた容貌と肢体を生かしてとりあえずTV女優として活躍していた。

その日3人の娘のまで父は、妻イブと別居したいと話す。自分なりの美意識と創造力で家庭を支配してきたイブの生き方には耐えられなくなった、というのだ。イブは家を出ていった。イブの生き方は、まさにインテリアデザイナーなのだ。それは家族の人もそのように配置する。「これはこうあるべき」「それはそこがいちばんにあっている」、ゆるぎない完全主義者なのだ。その影響かで育った長女のレナータは、もっとも母の期待にこたえた人だろう。そんな姉にどうしてもかなわなかった次女のジョーイ。彼は常に劣等感を持って生きていた。どんなにがんばっても姉のようにはなれない。母の期待には応えられない・・・。三女のフリンは姉と知能で対決することは避けて美貌で人生を切り開いた。といっても、有名女優には程遠い。

イブは自分の存在意義に自身をうしないガス自殺を企るが、一命はとりとめた。一方、アーサーは既に新しいパートナーを見つけ、彼女と再婚することを娘たちに話す。彼女はパール(モーリン・スティプルトン)といい、母とはまったく正反対のタイプので、ひとことで言えば、「彼女からは劣等感を感じそうにない女性」だった。娘たちは、特にジョーイは強く反対した。
彼女にしてみれば、母は確かに高圧的な人で、姉と比較されればいつも惨めなのは自分だったのだが、一番認めてほしい存在は確かに母だったのだ。しかし、父が連れてきた新しい母になるであろう人には、自分を認めてほしいと思えないのだ。こんな人をなぜ・・!!と思うジョーイ。

父はイブに正式離婚を申したて、パールと結婚した。父の願いを入れて結婚式に列席した3人の娘たちだが、式後のパーティでは空虚しか感じられなかった。その夜、みんなが寝静まったロングアイランドの家にイブがそっとやってきた。ひとり寝付けなかったジョーイが母と話最後の人となった。
ジョーイは、母の期待に応えたくても応えられない、姉と比べられ劣等感と無力さのなかで常に苦しんでいたことを告発する。そんな自分を一度でも理解してくれようとしたのか? 愛すべき母なので、憎くくてしかたがなかったことを・・。
自己満足の為に家族を支配してきたことを痛烈に批判されたイブは絶望し、自己を肯定する要素をすべて失ってしまった。そしてその早朝、一人灰色の海へ入っていくのだった。


この映画は、自己の劣等感と真剣に戦っている人に捧ぐ同士の詩だ。

そして最後にもうひとつ、この映画にはBGMがない。言葉と息づかいだけで物語が進行する。それを氷のフィルターを持つ男=ゴードン・ウィリスが的確な画面としてきりとる。そのレイアウトの完成度の高さはまさにインテリア・デザインを彷彿させる、研ぎ澄まされてバランス感覚の画面だ。このゴードン・ウィリスのカメラなしにこの映画は成り立たなかっただろう。
by ssm2438 | 2011-04-13 11:24 | ゴードン・ウィリス(1931)
f0009381_2514694.jpg監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト

出演:
イングリッド・チューリン (長女・カーリン)
ハリエット・アンデルセン (次女・アグネス)
リヴ・ウルマン (三女・マリア)
カリ・シルヴァン (侍女・アンナ)

        *        *        *

イングマル・ベルイマンの怒涛の演出力を見よ!

スゴイ映画が。人間の内なるおぞましさをさんざんと見せえつけておいて、最後は一番幸せだった時の思い出をひきだしてきて、人間性の美しい部分もみせてくる。これは『野いちご』のラストと同じ構成だとはいえるかもしれないが、・・・すさまじい映画だ。これだからベルイマンはやめられない。実はこの映画と『秋のソナタ』はLDを持っている。この2本は宝物だよ。

19世紀末らしい。長い闘病生活で死期の近づいた次女アグネス(ハリエット・アンデルセン)を見守るために長女カーリン(イングリット・チューリン)と末娘マリア(リブ・ウルマン)、そして侍女のアンナ(カリ・シルヴァン)がつきそっている。そこで語られる人間のもつおぞましさ。そう、この映画は人間のおぞましさをあますところなく存分に描き出している。

長女のイングリット・チューリンは理性の人で、人に触れられることを極端に嫌っている。心からのふれあい、肌のふれあいに嫌悪感をもっているのである。ひさしぶりにあった旦那とセックスするのがいやで、壊れたグラスのかけらで自分の性器を斬り、出血させ、生理を装う。これであなたは私をだけないわよね・・とばかりに股間から流れ出るんちを口のまわりにぬりたく。それじゃあキスもできんだろうなあ。こういう演出がすさまじいい。
イングリット・チューリンが「嫌いなものは嫌い」といってしまえるのに対して、リブ・ウルマンは決して本性を明かさない女。表面的には馴れ合いを求めているようでも、その仮面のしたは、決して自分をみせない卑怯者。表面的には猫のように艶やかで、人間性があるふれるように装っているが、その卑怯さに姉のイングリット・チューリンはリブ・ウルマンを嫌っている。
しして次女のハリエット・アンデルセンは、病魔におかされている。このあえぎ方はベルイマン独特のセンス。『沈黙』でも、病気のイングリット・チューリンがあえぎまくっていたが、後に、黒澤明『赤ひげ』のなかでこのあえぎを再現していた。この病気もだえ演出は実におぞましい。人間の逃れられない死の恐怖と、それを迎える肉体的な痛みを前面に打ち出している。そういえば『秋のソナタ』にも小児麻痺の女の子がのたうっていた。
そんなおぞましさのなかで、侍女のアンナだけは愛を表現している。このコントラストが実に素晴らしい。

そして、貴族描写もヴィスコンティに負けていない。食事も、ベッドも、装飾品も、総てが貴族風味。そしてイングリット・チューリンの着替えのシーンのすごさ。この重厚さだけでおおおおおおおおおって思ってしまう。こんな服着てたら、そら一人じゃ着替えもできんだろうなって。

さらにもうひとつ、撮影はスヴェン・ニクヴィストに変わっている。白黒時代はグンナール・フィッシャーが多いという印象だったが、カラーになるとスヴェン・ニクヴィストが多いと思う。この人も才の豊かな撮影監督さんだ。
実はこの映画、1973年のアカデミー撮影賞を撮っている。英語圏の映画しか対象にはならないと聞いていたが、撮影に関してはどこの映画でもいいってことなのだろうか・・。

<あらすじ>
時は十九世紀から二十世紀に移る頃の秋である。長年闘病生活をしていたアグネス (ハリエット・アンデルソン)はいよいよ死期を迎えようとしていた。彼女の世話は侍女のアンナ(カリ・シルバン)がしていたが、姉のカーリン(イングリット・チューリン)と妹のマリア(リブ・ウルマン)が駈けつけてきた。
姉のカーリンは人との接触を拒む理性の人。世間には貞淑な妻と見せかけていたが、心は常に冷え切っていた。末の妹マリアも結婚し、子供のいたが、彼女自身大きな子供のようなもので、美しくして人眼をひくことにしか関心を示さず、決して自分をさらすことはなかった。そしてアグネスの主治医であるダーヴィッドと情事をかさねていた。
やがてアグネスは死んだ。カーリンとマリアの旦那が来た。
マリアの旦那は、主治医が昨晩泊まったことをしると、ことの次第を理解した。一方カーリンは旦那と肌を触れあるのを極端に嫌っていた。しかし食事の後にはセックスの時間がまっている。同様でワイングラスを倒して壊してしまう。ドレスを脱ぎ、ナイトドレスに着替えたカーリンは、侍女のアンナを遠ざけ、壊れたグラスのかけらで自らの性器を切り裂き出血させる。これでセックスはお預けである。
カーリンとマリアがアグネスの日記を読むと、そこには友情や神の恵みについての言葉があふれていた。彼女がそれを心から感じていたのか、それともそれらに飢えていたのか・・・。カーリンはマリアへの憎しみを正直に口にしてしまう。大人の態度でなかったことを謝ると、二人は思いの総てを吐き出すように語り合った(・・しかし、マリアはその振りをしていたといったほうがいいかもしれない)。
その夜、侍女の誰かのアンナが泣き声を耳にする。そのほうへ向かうと、カーリンとマリアが魂が抜けたようにたたずんでいた。そしてその部屋に向こうにはアグネスの屍があるがずだったが・・・、彼女が泣いていた。
死んだはずのアグネスが目から涙をこぼしていたのだ。カーリンに救いを求めるが、彼女はアグネスを愛していないと冷たく言い放つ。次に、マリアがアグネスに呼ばれる、最初は愛想をふりまっていたが、死人であるアグネスに抱き疲れると恐怖から突き放してしまう。やはりマリアも彼女を愛してはいなかったのだ。
アンナだけが「私が面倒をみます」といい、二人を締め出してアグネスのベッドにはいる。母親に甘えるようにアンナの膝に頭をもたれて再び永遠の眠りにつ。

カーリンとマリア、そしてその家族がさったとの屋敷でアンナはひとりアグネスの日記を読む。
「姉妹三人が昔のように集まったので、久しぶりにそろって庭を散歩する。明るい日光、明るい笑い。世界中でいちばん近くにいてほしい人が、皆私のそばにいてくれる。わずか数分間のたわむれだが、私にとっては楽しかった。人生に感謝しよう。人生は私に多くのものをあたえてくれた」・・と記されていた。
by ssm2438 | 2011-02-12 02:51 | I ・ベルイマン(1918)
f0009381_0412067.jpg監督:ルネ・クレマン
脚本:ポール・ジェゴフ/ルネ・クレマン
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:ニーノ・ロータ

出演:
アラン・ドロン (トム・リプレイ)
マリー・ラフォレ (マルジュ・デュヴァル)
モーリス・ロネ (フィリップ・グリーンリーフ)

       *        *        *

This is the アラン・ドロン! ・・である。

ルネ・クレマンの中でも最高傑作だと思う。そしてそれはアラン・ドロンにとっても言えることだろう。

劣等感と変身願望、マゾヒズム‥、人間の根幹にささやかに巣食っているが本来表面化しない人間性の陰部を、表面化を極力おさえつつ臭わせる演出が実にすごい。
個人的にはアラン・ドロンに魅力を感じたことがないのだが、彼の映画の中でこの1本だけは傑出している。この映画にくらべたら他のアラン・ドロンの映画はまったくといっていいほどカスといっていいだろう。

表面的には完全犯罪の話である。・・が、それはどうでもいいことだ。
この映画がこれほどまで刺激的なのは、猛烈な劣等感からくる、変身願望の達成だろう。

この物語の主人公トム・リプレイ(アラン・ドロン)は貧乏なアメリカ青年。そんなリプレイがいつも一緒にいるのがフィリップ(モーリス・ロネ)という金持ちのどら息子。彼はナポリに部屋を借り、職につくこともなく、親の金で毎日遊び歩いていた。
そんな息子に業を煮やした親が、昔からの旧友であるリプレイに5千ドルの契約で、息子を連れ戻すようにヨーロッパによこしてきたというシチュエーション。(1$=100円換算で、50万円。当時の値段なので、その10倍くらいの価値があったかもしれない)

f0009381_126625.jpgさらにフィリップにはパリ生れのマルジェ(マリー・ラフォレ)という彼女がいた。決してフィリップが彼女を大事にしているとは思えないが、そんなフィリップをマルジェが慕っている。トムにとって、彼らの生活は決して届くことのない、理不尽で在りえない雲の上の生活だったのだろう。子供の頃からの旧友だが、フィリップはトムのある種の卑しさを嫌っていた。そんななかで、トムの心の中にはさりげなく殺意が育っていたのだろう。

この映画のスゴイところの一つは、このアラン・ドロンの発する自分に限界を感じてしまっている人間の卑しさが実ににじみ出ているところなのだ。自分にはなにもない。しかしフィリップは、自分がほしいものを総て持っている。自由になるお金も、マルジェも。その圧倒的な劣等感は、すでにリプリーに自分を自分の思うものに進化させていくという地道な努力などさせる健全さを完全に奪い、出来ることなら彼になりってしまいたい思うようになっている。
ほとんどの人は<変身願望>というのはそれなりには持っているものだが、現実的に力を得るには自分自身を成長させていくしかない。名ので現実の中で努力し、経験をつみ、少しづつ自分を強くしていき、そんな自分の在り方を自己肯定して生きていくしかない。しかし、強くなるための努力があまりにも強大に見えてしまったものはそのとてつもなさに自己進化を放棄し、このままでいい、弱いままでいい、自分は誰かの下でいい・・と思い、そう思うことのほうが楽になってくる。自分の惨めさをいとおしく思うようになる、仕えること心の安らぎを見出す。
そうなった人間でも、心の中には憧れがある。強くなる努力をしないで、そうなりたい・・という憧れ、それが<変身願望>となる。リプリーは、このメンタリティに至っているのである。

f0009381_1301094.jpgフィリップを殺すにいたる前の、二人のやり取りも実にいい。
マルジュを伴って友人のパーティーに向うフィリップは、いつものようにトムと連れてヨットに乗り込む。マルジュと“H”をしたいフィリップは、トムに操舵をまかせ船上においやると、船室へのドアを閉め抱擁を始める。嫉妬する天窓から中の様子がみえるトムは嫉妬し、乱暴に操舵し船を揺らせる。起こったフィリップは、トムを備え付けの小船においやり、船外へ流してしまう。なんとかロープを引き寄せヨットにもどろうとするがロープが切れてしまい一人絶望しながら海上にとりのこされてしまう。
事を終えたフィリップが船上にでてみるとトムを隔離したはずのボートがない。あわててユーターンして戻ってみると、炎天下のなか太陽に焼かれて背中が真っ赤になったトムが海上にのこされた小船の上でぐったりしている。さすがに罪悪感を感じるフィリップ。看病するマルジェ。トムのセーターを取りにいったフィリップは、トムが自分の口座の数字を逐一メモしている紙を発見してしまう。

以前にトムが、自分の服と靴を履き、自分のしゃべり方をまね、鏡の中の自分にキスするトムの姿をみたことがあった。“もしかしたらトムは、自分の人生そのものを欲しているのかもしれない・・・”、フィリップはトムの水面下の欲求に恐怖を覚える。
そして身体が回復してきたトムに聞いてみる。

「ボクを殺したいと思っただろう?」
「今回は思わなかった・・」

そのあとマルジェとささいなことからケンカになり、マルジェは船を下りてしまう。船の上でトムと二人になったフィリップ。ポーカーをしながら、自分の殺人計画とその後の展望を聞いてみる。 自分は賢いからきっとやれるとさらりというトム。2千500ドルかけてを申し出るフィリップ。わざとまけてある程度のお金をつかませ、その計画をやめさせようとするが、自分の手札はキングのペアと10のスリーカード。このままでは勝ってしまう。トムがよそ見をしている間に自分の有利な手札を捨てて負けのカードにするが、トムは見破っている。
かまわず2500ドルの小切手を切ろうとするが、全部いただくと、冗談のようのさらりと言うトム。

小切手に自分のサインを書いてみせ、まねが出来るのかと言うフィリップ。
今は出来ないが練習すればというトム。
サインが偽造できても手紙はかねないというフィリップ。
タイプライターがあるというトム。

「すでにお前を殺すことは頭のなかでシュミレートしてあるんだ」ということを、その空気で表現するルネ・クレマン。フィリップにしても「なんとか殺さずに生かせてくれないか」という願いを、それを表面化することなく行われる心理的言葉のやり取りが素晴らしい。

そしてあっけなくプスっと胸をさして殺し、そのあとあいきなり洋上の風の音と並みのざわめき、そのなかで死体を毛布に来るに碇をワイヤーでくくりつけて沈める準備を鼻息荒く行うアラン・ドロン。チェンジ・オブ・ペースも実に素晴らしい。そんなことしてるとマストにボコッと不意にアタックされて死体と一緒に海に落っこちてしまう。なんとかワイヤーをつたって命からがらヨットに戻って、ワイヤーを解くと毛布にくるまれた死体は水没しながら後方に消えていった。そして船室にもどり洋ナシ(?)にかぶりつくアラン・ドロン。
後に第二の殺人を犯すことになるのだが、そのあとは宿屋のおばちゃんに「あの鶏肉食ったかい?」と言われて、思い出したようにそれをレンジから出し喰うアラン・ドロンというカットがある。小心者がなんとか平常心を取り戻そうとする必死のあがきが鬼気迫るほど素晴らしい。

ルネ・サディスト・クレマン一世一代の大傑作である。
by ssm2438 | 2011-01-03 00:45 | ルネ・クレマン(1913)

夜(1961) ☆☆☆☆

f0009381_628016.jpg監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ
    エンニオ・フライアーノ
    トニーノ・グエッラ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ

出演:
マルチェロ・マストロヤンニ (ジョヴァンニ)
ジャンヌ・モロー (リディア)
モニカ・ヴィティ (ヴァレンティーヌ)

       *        *        *

「保険」の終わりは「恋愛」の終わり。

その昔、こんな(↓)言葉を交わした女がいた。

私:「女に男を愛する能力はない」
その女:「男だって愛しませんよ」

彼女に一度アントニオーニの『さすらい』『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』『赤い砂漠』までを見てもらいたいものだ。きっと魂の同一間を感じるだろう(苦笑)。・・・しかし、実は魂が一緒なのではなく、そこにたどり着いてる人と着いていない人がいるだけの話なのだけど。

アントニオーニは、男と女の恋愛のメカニズムをいつも冷淡に描いている。
女という生き物は、「便利性」に恋するのであって、その男に恋するわけではない。「便利性」というもの、意味はいろいろあって、言葉どおり相手の男が物質的に便利なこともあるが、精神的に便利という意味もある。特に女の場合は「必要とされること」というのはその女の存在意義であり、「必要とされている」ということで、安心感を得るように出来ているようだ。この「安心感を得られる」ということも、「精神的便利性」の中にはいる。

これに対して、男のという生き物は、自分の中の理想の女性像に恋をする。しかしそれは決して実存することはない。しかし、それを追い求める。この世の中にはそんな女性がいるはずだ!・・と。そしてその可能性のある人に期待する。勝手に「この人こそ、そうであるに違いない」。その夢をみていられる時間が男にとっての「恋をしている」時間になる。

恋愛というのは、そうしてお互いに期待したい男女が、相手の期待に応えたいと思っている期間を云う。

アントニオーニはこのメカニズムをいくつかのパターンで映画化している。それが『愛の不毛』3部作であり、その前後の『さすらい』と『赤い砂漠』である。これらの映画のなかに登場する女達はほとんど期待する力を失っている。ましてや期待に応えたいと思う力などもってはいない。それが観られるのは『さすらい』に出てくる、男が求めなかった女達くらいだ・・。
結局「恋愛」とは「期待力」である。それが枯れると愛は蒸発する。


映画の冒頭、作家のジョヴァンニ(マルチェロ・マストロヤンニ)と妻リディア(ジャンヌ・モロー)を伴って、末期癌(映画ではいってないかもしれないが、そんな感じ)の友人トマーゾを見舞う。トマーゾはジョヴァンニの親友であるが、同じ女性を愛してた。それがリディアである。結局リディアはジョヴァンにを選び現在に至っている。

リディアはトマーゾにとって、自分の憧れを投影できる女性だった。彼女の本質的な部分をかなり理解していたのだろう。しかし、全部がみえているわけではない。憧れで盲目になっていて見えない部分は、彼の理想で補完していたのだろう。
一方のジョヴァンには、彼女にとって憧れだったのだろう。彼と一緒にいることが楽しい。刺激になる。そうして彼に憧れ、彼の求めることに応えようとしたのだろう。ジョヴァンニも、そんな彼女と一緒にいるのが居心地がよかった。そして二人は結婚した。しかし現実が二人の期待力(期待する力/期待に応えようとする力)を奪ってしまった。リディアはジョヴァンニと一緒にいてもこころが刺激されることがもうないのである。

リディアは、ジョヴァンニのサイン会の会場に同行するが、そこでもなにも感じない。自分の感覚を再確認するためか、ひとりミラノの街を歩いてみる。そこでみる、男や老婆、少女、ケンカをしたりロケットを打ち上げる男達・・・、どうやら何かを感じる力はのこっているようだ。しかし、それらはリディア人生の中では大した意味をもたない。
リディアは、ジョヴァンニと一緒に出かけてみることにする。その感情はもうないとは分っていても、自己肯定をしたかったのだろう、「自分がトマーゾではなくジョヴァンニを選んだことは間違いではない」・・と。しかし、夫と一緒にいる時間にときめきはない。心が振るえない。彼女の心のなかにそれを肯定する要素がみあたらないのである。そのあと二人はある富豪のパーティに出る。彼はジョヴァンニを彼の会社に招こうとしているのだ。そしてジョヴァンニはその富豪の娘ヴァレンティーヌ(モニカ・ヴィティ)に興味をしめしていく。そんな夫をみてもなにも感じない。

時間をもてあましているリディアは病院に電話をかける。そしてトマーゾの死を知る。

トマーゾの存在は、リディアにとっては恐ろしく重大な精神の「保険」だったのだろう。たとえ、ジョヴァンニとの愛が終わっても、いや、他の誰かから裏切られたとしても、あの人だけは自分を求めていてくれている・・、そう思えることが彼女を精神の保険だったのだ。それがその電話をかけたてトマーゾの死を知った瞬間に消滅した。

おそらく、恋愛に「保険」は不可欠なのだろう。
「保険」無しに恋愛することは、こころの不安定さを招くことになる。それを人間の心は知っているようだ。
しかし、「保険男」は決して女に愛されることはない。ただ必要とされるだけだ。それも男の心は知っている。

おそらくもう、リディアは恋愛をすることはないだろう。
男にとって「髪の終わりは青春の終わり」であるように、女にとって「保険の終わりは恋愛の終わり」である。


アントニオーニの映画は初見の段階では意味が判らないのでかなりしんどい。そういう私も、若き日の初見では途中リタイアしている。この映画は最後まで行って、トマーゾとリディアの関係を理解し、自分が書いて送った入魂のラブレターさえ忘れているジョヴァンニとの今の関係を理解してから振り出しに戻る。そこではじめてそこに描かれている内容が理解できる・・という、なにかと手間のかかる映画である。
by ssm2438 | 2010-11-24 22:16 | M・アントニオーニ(1912)
f0009381_924193.jpg監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:エンニオ・デ・コンチーニ
    エリオ・バルトリーニ
    ミケランジェロ・アントニオーニ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ

出演:
スティーヴ・コクラン (アルド)
アリダ・ヴァリ (イルマ)
ベッツィ・ブレア (昔の女・エルヴィア)
ドリアン・グレイ (ガソリンスタンドの女・ヴィルジニア)
リン・ショウ (娼婦・アンドレイーナ)

       *        *        *

お父さん、お父さん、ロジーナのパンツがみえてまっせ!!

この映画は、リアルなメンタリティを描く映画ではなく、男のメンタリティとはこういうものだというメンタル・システムを具現化した話。いやあああああああああ、実にアントニオーニだった。この人は男のメンタリティ正直に描きすぎる。後の作品群をみると女もだけど。実に正直な映画監督だなあと思う。

戦後のイタリアには、名匠とよばれる監督さんがやらたと多かった。ロベルト・ロッセリーニヴィットリオ・デ・シーカフェデリコ・フェリーニルキノ・ヴィスコンティピエトロ・ジェルミ、そしてミケランジェロ・アントニオーニ。その中でも一番好きなのはこのミケランジェロ・アントニオーニだ。この人の映像センスと、描く題材は実に衝撃的で、メンタリティは男女の心理を描き出しし、映像は心象風景的な・・、どこかミステリアスな雰囲気をかもしだしてくれる。60年代のアントニオーニは傑作ぞろいだと思う。
残念ながら70年代からはイタリア映画全体がはかなりへたってくる。下世話な映画ばかりになり、エッチとエログロ、残虐性が前面にでてきてあまり関しない時代がしばらく続くことになる。アントニオーニの映画ですら、なぜか60年代の彼の作品ほどときめくものはない。

ミケランジェロ・アントニオーニは、男の愛し方、女の恋愛を正直に描く。この映画では男のメンタリティを暴露してくれた。
男というのは、本来一人の女しか愛さないように出来ている。常に心の中に理想の女をもち、「もしかしたらこの人は自分の<心の故郷の女>なのかもしれない」という夢を描き、それを相手の女性に投影しながら恋愛をする。期待するのである。「この女こそ、きっと自分の<心の故郷の女>なのだ」と。
しかし現実にはそんな都合のいい女などいない。どこかが違っている。「やはり違った。これは私がもとめている女性ではない」と認識する時が来る。そのとき恋愛というのは終わる。男の恋愛というのは、現実をゆがめて解釈し、無理やりそうではないものをそうだと思い込もうとしている時間。

この映画はそんな男の恋愛メンタリティを具体的な形として再現している。ただ、映画的にしかなく<心の故郷の女>と具体的な女として登場させるしかないので、イルマという女をその位置にすえてある。それをもってその男の<心の故郷の女>にするのはちと違和感を感じるが、まあ、映画構成上しかたがないことなのだろう。


<心の故郷の女>=イルマに見捨てられた男アルド(スティーヴ・コクラン)は娘と一緒に故郷をはなれた。昔自分を愛してくれた女のところによってみる。彼女は今も自分を愛してくれている。そこに居つけば心がやすらぐのに・・と思うのだが、イルマが荷物を届けてくれたことからやはりイルマの存在を再認識してしまう。

車の荷台に乗せてもらってたどり着いた先のガソリン・スタンド。一夜の宿を借りるつもりだったが、そのスタンドを切り盛りする若い精力的な女ヴィルジニア(ドリアン・グレイ)に惹かれてく。彼女は老父暮らしていたが、なにかと迷惑をおこすので施設にいれてしまう。一緒に旅をしていた娘のロジーナもイルマのところに返して、二人だけの生活になるはずだった。しかし、どこかでそれは頭をもたげてくる。「この女はイルマではない」。

再び放浪生活がはじまった。やがてベネズエラでリッチになってもどってきたとう成金男の船整備する仕事をもらう。彼は河岸の小屋で使用人たちと話していたが、アンドレイーナ(リン・ショウ)という娼婦らいし女を呼びつけ出て行った。彼女はは肺病をわずらっていたが、は無邪気で可愛かった。アルドにもなつき、彼と一緒に泥沼のような生活から浮び上ろうとした。しかし・・・「この女はイルマではない」。

アルドの足は本能的に自分の村へ向った。村では飛行場が建設されようとしておい、変化が押し寄せてきている予感があった。娘のロジーナを見つけ、彼女が入っていく家を覗き見た。イルマがいた。赤ん坊に湯を使わせていた。イルマは明らかに自分の女ではないことを理解するしかなかった。<故郷の女>を失ったアルドにとって、もうこの世に意味はなかった。


しかしなあ・・、<故郷の女>がアリダ・ヴァリってとこにちょっとしんどさを感じる。一応イタリアの名女優なのかもしれないが、どうみても、他の3人より美しくない(苦笑)。もうちょっと・・・ほんとに固執するにあたいするビジュアルをもった人はいなかったのだろうか・・。ちと残念。
by ssm2438 | 2010-10-28 09:04 | M・アントニオーニ(1912)
f0009381_22162011.jpg監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト

出演:イングリッド・バーグマン
    リヴ・ウルマン

         *        *        *

イングマル・ベルイマンの映画は難解だといわれることもあるが、正確には「難解なものもある」が正しいような気がする。すくなくとも私にはすごく判り易い映画がおおい。そしてそのなかでももっとも判り易いのがこの『秋のソナタ』ではなかろうか。また彼の映画は女性を描いた映画が多く、本作のように母と娘、あるいは『沈黙』のように姉と妹のような精神的支配-被支配関係のものが多いが、これも実は、ベルイマンと彼の父との関係をそのままのシチュエーションで映像化するのがてれくさく、女性に置き換えたというだけのような気がする。そんなベルイマンだが、最後の『ファニーとアレクサンデル』では<支配的な牧師の父>と<その子供>という多分ベルイマン自身の一番コアのシチュエーションに帰化している。
『ファニーとアレクサンデル』のパンフレットを読むとやはりベルイマンとその厳格だったウプサラの大司教の父との関係に触れている箇所があったような・・。結局ベルイマンの映画は、高圧的な支配の中で、おし押し殺させそうな自我のサバイバルが行われていたのだろうと予想される。

そんなベルイマンの父と、ベルイマン本人の人間関係を母と娘に置き換えたのがこの『秋のソナタ』という映画の基本コンセプトであり、ほとんど総てのベルイマン映画の基本コンセプトだといっても過言ではない。
しかし、これがベルイマン自身におきた特有のイベントだったかといわれるとそうではない。子供の頃は支配される立場が多いだろうが、大人になるにつれて支配的な立場もおおくなる。誰もがどちらの立場をも経験することになる。そうなった時、支配されているときの不満を思い出すとともに、支配している側の欲望を抑えることも難しいことを知る。

動物として、もっとも基本的な親の欲求としては、「子供を自分のコピーにしたい」という決して否定できない本能的願望がある。しかし子は親の情報だけを吸収していきていくわけではなく、親が子供時代に経験しなかった要素まで経験しながら大きくなる。どんなに親がそう思っても子供の自我は親の願うものと同じものにはならない。
『秋のソナタ』のなかに描かれた高圧支配を強いた母と、その母の環境下で育った娘の関係は、特別なものではなく親と子の関係において根源的なものだと思う。この母親が良いとか(そんな意見はほとんどないだろうが)悪いとかいうのでなく、支配する側としこういう要素は誰もが持っているものだということを認識することがとても大事なのだ。「私はこうじゃない」って言えるならそれは嘘だ。

私がこの映画をすごいと思うのは、「私はこうじゃない!」って言えない自分を認識させる強制力をもっているところなのかな・・と思う。認めたくない自分のダークサイドを強制的にみさせるのがベルイマン映画のすごいところ。感情移入の極致の映画だ。

感情移入というのは早い話、メンタルの共有性を感じることだ。ベルイマンは、誰もがもっているメンタルの共有特性をとことんまで追求している人物だろう。それは一般人が「ああ、これわかる、わかる」のレベルではない。それを越えて、「判りたくない、認めたくない」という部分をぐりぐりえぐりだす。
この映画で描かれていることは、この映画のような人物の関係によってのみに表意面化することもかもしれないが、誰もがもっている人の心の深淵になる共有性なのだ。この誰もがもっている共有性、つまり人間の本質を追求しているのがイングマル・ベルイマンだと思う。
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by ssm2438 | 2010-09-20 21:43 | I ・ベルイマン(1918)
f0009381_1134460.jpg監督:アンリ・コルピ
脚本:マルグリット・デュラス
撮影:マルセル・ウェイス
音楽:ジョルジュ・ドルリュー

出演:
アリダ・ヴァリ (テレーズ)
ジョルジュ・ウィルソン (浮浪者)

       *        *        *

女の恋愛は「好き」と相手に言わせるもの。

その昔、男の恋愛は「好き」というべきものだが、女の恋愛は「好き」と相手に言わせるものだ・・ということをきいたことがある。この映画はその、「好き」といわせようとしてなかなか言ってくれない、いらだたしさと、それでも待ち続けてしまう期待の間でゆれる女心の根源的な安心と不安を繊細に描き出している。
マストシーの名作のうちに入っているが、男性がみて面白いかというとこの点はちと乏しい。

1961年のカンヌでパルムドール賞を受賞。日本で公開された64年のキネマ旬報ベストテン1位の作品。原作・脚本はマルグリット・デュラス『愛人/ラマン』『二十四時間の情事』の原作者である。

お話は、戦中に行方不明になった夫に似た浮浪者として主人公の前に現れる。しかし彼は記憶を失っている。女は彼を夫だと信じ、そう期待する。浮浪者の男は、自分にやさしくしてくれる彼女には親しみを感じるが、記憶はもどらない。本当に自分がその女の夫だったのか、どうかわからないのである。
ここで男の選択肢は二つある。一つは、その環境が気持ちいいので、彼女の夫だったということでこれからの人生を歩んでいく。しかしそれは自分自身を譲り渡してしまう行為でもある。もうひとつは、戻らない記憶=現在の自分を優先させて、自分が認識していないものには自分の人生をゆだねない。
女の期待は増大していく。それにしたがって男のわけのわからない不安も増大してくる。今の自分を放棄していいものなのか、どうなのか・・・。
ドラマはこの二つの選択肢の間でゆれる男の心情と、ひたすら可能性に期待する女の心情をきめ細かく描いている。最後は期待されすぎて、こわくなり逃げ出してしまう男・・・。

<あらすじ>
テレーズ(アリダ・ヴァリ)は、戦時中に夫のアルベールをゲシュタポに連行されて以来、一人身でカフェレストランを切り盛りしていた。それから16年がたったある日のこと、その夫に良く似た浮浪者(ジョルジュ・ウィルソン)が自分の店のまえを横切るのを見た。それからというもの、テレーズは、その男が再び通りを現れるのをまった。そしてそのときが来た。
男は記憶を喪失だった。彼女は男の後をどこまでも尾けて行った。セーヌの河岸のささやかな小屋に彼ははいっていった。彼女はもしやという気持が、既に確信に変っていった。アルベールの叔母と甥を故郷から呼び、記憶を呼び戻すような環境を作って彼を自分のレストランに招待するが、彼の表情に変化は認められなかった。叔母は否定的だったが、彼女は信じて疑わなくなった。ある夜、男を招いて二人だけの晩餐、そしてダンス。テレーズの抑えられない期待があふれてくる。しかしその彼の記憶はもどらない。背を向けて立ち去ろうとする男に、思わず「アルベール!」と声をかけてしまう。聞えぬげに歩み去る男。近所の人たちも、口々に呼びかけた。「アルベール」「アルベール」「アルベール」。男は脱兎の如く逃げ出した。その行く手にトラックが立ちふさがった。あっという間の出来事であった。彼は消え去っていた(トラックに轢かれたわけではないのようだ・・)。
by ssm2438 | 2010-08-08 11:34

沈黙(1962) ☆☆☆☆☆

f0009381_6104455.jpg監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト

出演:グンネル・リンドブロム
    イングリッド・チューリン
    ヨルゲン・リンドストロム

     *     *     *     *

『鏡の中にある如く』『冬の光』に次ぐ、イングマル・ベルイマン<神の不在>三部作の三作目。ただこの映画がすべて関連性があるわけではなく、あくまでどれも神の不在をテーマにしたというもの。そしてベルイマンの作品のなかでは一番私が好きな作品である。・・・と同時に一番分かり易い作品だとも思う。

人がなんらかの行動を起こすとき、そこにはモチベーションがある。そのモチベーションの基本になるのが<知識>と<感情>。しかしここでいう知識とはどこからきたのだろうか? 知識といわれるものは自分のそとからきたものなのだ。
「うちに帰ったら手をあらいましょう」「人のものを盗んではいけません」「車は左、人は右」「朝起きたら歯をみがきましょう」・・など。これらはすべて両親であったらい、友達であったり、先生であったり、あるいは本屋や映画の一説から自分の知識として構築されたものだ。つまり、自分のなかの他人の言葉なのだ。
ではなにが自分の本当の言葉なのか?と考えるとそれは自分が感じること、心からそうしたいと思う欲望、それこそが本当の自分だということになる。
しかし現実問題として総てが欲望のままに行動するわけではない。それを実行したらそれで自分は社会的に抹殺されるということも知識として理解し、それが制御してくれるので感情と知識との間で自分の判断はゆれることになり、最終的に自分が「こうする!」と決めなければならない。

この映画は<知識・理性>を象徴するものとして姉のエステル<感情・欲望>を象徴するものとして妹のアンナをその中央にヨハン<自分>を配置している。はたしてこの映画の<自分>はどう判断して、なにを選んでいくのだろうか・・・?

<あらすじ>
多分第二次世界大戦のさなか、異国を旅する列車のなかのコンパートメントにエステル(イングリット・チューリン)とアンナ(グンネリ・リンドブロム)の姉妹が言葉少なげに向かい合って座っている。お互いに目をあわそうとはしない。しかし姉のエステルが発作を起こし苦しみだすと、アンナは息子のヨハン(ヨルゲン・リンドストロム)をコンパートメントの外に出ているようにと促しす。廊下にでたヨハンが窓のそをとみると、沢山の戦車をせた列車みえる。外の世界の脅威を表しているのだろう。

なぜ彼女らが旅をしているのか? これは物語のなかほどで明らかになるが、どうやらこの姉妹の実家に子供をしばらくの間疎開させることになったようだ。

ふたりは言葉も通じないどこかの国のホテルに宿をとることになったようだ。
ホテルに着くとベットによこになる姉エステル。その隣の部屋でやたらと動いているアンナ。そして床にすわってそんなアンナの足を見ているヨハン。バスルームにはいったアンナはやはりその中をいったりきたりしているが、最後は裸になって一方へ消えていく。そしてなかから声が、
「ヨハン、背中を流して」。
うれしそうに浴室へと駆け出すヨハン。

ここでのポイントは、ヨハンが自分の母親を<女>として意識している部分があることだ。そして後のシーンをみてわかるのだが、エステルにはその感情をもっていない。ヨハンに女として見られないエステルは、ある種の劣等感を感じているのかもしれない。

風呂から出たヨハンは母親にクリームをぬってもらいベットにもぐり込む。しばらくするとその手前に裸のアンナが寝そべり、乳房がベットと体の間でふくよかにつぶされる。エステルは隣の部屋で翻訳の仕事をしているが、ふたりが寝込むのを感じるとふたりの部屋にはいっていき、うつぶせに寝たアンナの背中をながめながらベットのそばに腰をかける。しばらくみているがアンナの髪をなでる。そしてヨハンの髪も・・・。

このシーンの意味が、そのとき分からなかったのだが二回目に見るとすごく意味があることに気づく。これも後の会話で判明するのだが、この姉妹は以前はお互いの体を慰めあった関係にあったことがわかってくる。しかし今は、妹のアンナはその関係をたち、姉はそれでもまだ求めていることが匂ってくる。
この映画ではそれを直接みせることはない。あくまで匂いで感じとならければならない。

自分のベットにもどったエステルはタバコをふかしながらアルコールを飲み干し、給仕を呼びアルコールをもとめる。年老いた給仕が現れる。・・英語は? フランス語は? ドイツ語は? どれもだめらしい。言葉が伝わらないながらも身振り手振りでなんとかコミュニケーションを成立させているエステル。給仕も極力愛想よくふるまおうとしている。
目を覚ましたヨハンだがアンナはまだ昼寝をしていたいとベットにはいったままだ。退屈になったヨハンは服をきて、玩具の銃をもって、ホテルの内部を探検にでかける。

廊下に出ると、はしごをもって廊下を横切るおじさん。どうやら廊下のシャンデリアを修理するらしい。はしごの上で修理をしているおじさんに向けて銃を構えて発砲(パシッと音がするだけで弾はでない)。無言でヨハンを見るおじさん。
廊下を歩いているとさっきの老給仕が昼寝をしている。しばらく眺めていると目を覚ましてヨハンに気づいく。愛想いい作り笑いで近づいてくるが、恐ろしく感じでその場を走り去ってしまうヨハン。
廊下にある大きなえを見てると小男(ホルモン異常で大人なのに体が子供くらいしかない)が廊下のむこうを通り過ぎようとしてヨハンにきずき、かるく手をあげてあいさつする。
とそのときさっきの給仕が「うわっ」と子供を脅かすようにうしろから捕まえる。びくっとおびえるヨハン。また走り去る。老給仕にしてみればなんとか子供に愛想を振りまこうとしているのだが、どうも裏目にでているようだ。それでもヨハンにしてみれば悪魔のような怖さなのだろう。
そんなことをしているとさっきの小男たちがいる部屋に入り込む。かれらは遊技団らしい。今日の出し物の打ち合わせをしているようだ。その中の一人を玩具の拳銃で狙って撃つと、ちゃんと撃たれた振りをしてくれる。ヨハンも楽しくなって一緒にワイワイとやっているのだが気づけば女の衣装を着せられている。

この一連の描写ではヨハンが未知なる物に対して笑顔で受け入れたらいいのか、それとも恐怖して逃げたらいいのか、怒って喧嘩を売るべきなのか、判断が出来ないような状況なのだ。それでも彼はどうするかを判断しなければならない。このあたりから「沈黙」というタイトルの意味が少しずつみえはじめる。

目を覚ましたアンナはそのふくよかな乳房を洗面所であらい、いろっぽそうな服をみにつけ、「ちょっと歩いてくるは」と一声かけて出て行く。ドアのしまる音がすると叫びだしたい気持ちを必死でおさえるエステル、それでもうめき声がもれる。酒をあおってもえずくだけ。
「惨めな気持ちだわ・・・、た得られない、惨めよ・・・うくくくくうううう」 もだえながらベットから転がり落ちる。
「冷静にならなきゃ・・・、理性を失いたくないわ・・・」

この時点ではこのシーンの意味もわからないのだが、のちにふたりの関係が分かってくると、このシーンの言葉の意味がわかってくる。以前は自分をもとめていたはずの妹が、今では他の男を求めるようになっている。それだけではなく、その屈辱感をわざと自分に感じさせている。そのことがこの「惨めよ・・・」になっているのだ。

そんな取り乱したエステルにやさしくしてくれるのは老給仕だけだ。
一方アンナの存在とそのしぐさは明らかに町の男たちの欲を刺激することに成功しているようだ。

冷静さをとりもどしたエステルは部屋にもどったヨハンと食事をしている。この時この旅が実家に向かっているたびだと分かる。同時に、ヨハンはエステルには女を感じていないことも・・。

ある小劇場にアンナが入るとヨハンが出会った小男たちが劇を披露している。しかしその後ろの席では男と女が愛欲の行為にふけっている。たまらなくなり出て行くアンナ。
戻ってきたアンナは服を脱ぎ洗面所に向かうと後ろに姉がたっている。脱ぎ捨てられた妹の服に泥がついていることを確認すると、なにも言わずに自室へ戻っていくエステル。一間おいてエステルの部屋にアンナがやってきて、「私のすることをいちいち詮索しないでほしいわ」と言ってドアをしめる。その口ぶりが許せないエステル。

夜になると露出のある服をきて「出かけてくるわ、ヨハンに本でも読んであげて」と言いドアへ向かうアンナ。
「・・私をおいて?」
立ち止まるアンナ、一瞬間をおいてきびすを返えし、覚悟したようにいすに座るアンナ。
「ヨハン、ちょっとアンと話があるの」とエステル。
「廊下にでてて」とアンナ。
・・・このへんの会話からすこしづつふたりの関係がみえかくれしてくる。

ヨハンが外にでると、
「昼間どこへ行ってたの?」と姉。
「散歩よ」とアンナ。
「ずいぶんながかったのね」
「・・・詳しく話す?」

嘘とも本当ともとれるストーリーで姉にジャブをあびせる妹。
「寝ないの?」とアンナ。
「寝るわ」とエステルがベッドによこになると
「・・・・私と一緒に寝てよ、ちょっとだけ」
その間にアンナがベッドのよこに腰をかけていたらしい。起き上がるとすぐそばに座っているアンナの首筋があり、息のかかるくらいのちかさにいる。すぐにも首筋に口づけ出来る距離なのに、理性で必死にこらえてるエステル。
f0009381_22382174.jpg「その男と会うの?」
「・・・・・」
「会わないでよ・・・・今夜はよして・・・・つらいわ」
「・・・・・なぜ?」
「・・・なぜって・・・・・私がみじめよ」
「・・・・・」
「嫉妬してるんじゃないのよ」
「・・・・・」
我慢できずアンナのほほに唇をおしつけるエステル。

「行くわ」っとアンナ。
一点をみつめるエステル、やがて目を閉じる・・・。バンと大きな音がして出て行くアンナ。

この一連の台詞と芝居でこのふたりの過去の関係が明白になってくる。この映画は画面でも言葉でも本当のことを言わないので、みている人が感情移入して二人の関係を認識していくしかない。

隣の部屋に男をつれこむアンナ。それをみてしまうヨハン。
「私たちふたりともママが好きね」と悲しげにおでこをあわせるエステルとヨハン。
情事の最中、アンナはエステルがドアの外にいることに気づき中に入れる。姉に見えつけるように愛撫をうけている妹。愛撫をうけながら「姉さんは自分が中心にいなければ我慢できないのよ」とののしるアンナ、
「ずっと私はお姉さんを見習ってたのに、お姉さんは私が憎かったのよ」
「そんなことないわ」とエステル。

たぶんそれはホントで嘘なのだろう。
エステルにとってアンナはまもってあげたい、そして自分が支配したい妹だったのも確かだし、自分が理性を基本として生きているのに対して、妹は感情を基本としていることを許せなかったのだろう。妹にとっての姉は独裁者であり、矯正者であり、偽善者であり、本来愛したいのに憎しみの対象になっていたのだろう。
これは総てのベルイマン映画に通じるコンセプトといえる。

泣きながら言ってしまう妹、
「可愛そうなアン」といってなんとか自己を肯定して出て行く姉。
勝ち誇ったように笑う妹。そんなアンナを愛撫しつづける男。笑おうと努力しているのに涙があふれ出るアンナ。

一夜があけて、ベッドには昨晩の男がまだ寝ている。服をきて部屋を出ようとするとドアの向こうでエステルが倒れている。ずっと一晩中そこにいたのだろう。愕然とするアンナ。

エステルのかたわらには老給仕がいて世話をしている。
アンナはヨハンと2時の列車で行くと告げる。

     *     *     *     *

余談ではあるが、ベルイマンの演出するうめき声、もだえはすごい。
この作品の3年後に黒澤明『赤ひげ』が公開されることになるのだが、すい臓がんの患者が死ぬときの絶え絶えの息づかいは、この『沈黙』を見ると、このエステルのうめきをコピーしているように思われる。
そしてベルイマンの『処女の泉』は黒澤の『羅生門』からインスパイアされたと言われている。このふたりは、お互い会うことはなくとも、フィルム上でお互いを意識しあってたのではないかと思えるのは勘違いだろうか?
by ssm2438 | 2010-07-25 08:29 | I ・ベルイマン(1918)