西澤 晋 の 映画日記

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2011年 10月 24日

プライベート・ライアン(1998) ☆☆☆☆

f0009381_12472829.jpg原題:SAVING PRIVATE RYAN

監督:スティーヴン・スピルバーグ
脚本:ロバート・ロダット/フランク・ダラボン
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:
トム・ハンクス (ジョン・H・ミラー大尉)
バリー・ペッパー (ダニエル・ジャクソン狙撃兵)
マット・デイモン (ライアン一等兵)

       *        *        *

『プライベート・ライアン』とは「ライアン一等兵」のこと。「個人的なライアン」という意味ではない。。。

そのむかし、ゴールディ・ホーンが新兵卒になる『プライベート・ベンジャミン』とう映画があったが、この「プライベート」もも「兵卒」のこと。もっとも「プライベート」というのは一等兵、二等兵両方につかわれる言葉だそうな

映画界には表現のターニングポイントとなる映画がいくつかある。
たてば『スターウォーズ』。それまでのSF映画というは、『2300年未来への旅』みたいなに、「こういう風つくっておけば世間はSFとして解釈してくれる」という次元のものだったが、この『スターウォーズ』から一変した。現実にそれがほんとに存在するなこういう風にみえるはずだ!という本物感を真剣にビジュアルかするようになってきた。ま、映画の内容は古典的な西部劇だが、ビジュアルは革新的な変化を遂げた。
この『プライベート・ライアン』もそういった面をもっている。この映画の前とあとでは、戦争映画のリアリティの表現がまったく変わった。「こういう風に描いとけば、そういったことと理解してくれるんだよ」じゃなくて、「本との戦闘はこういうもんなんだ。それを再現しよう」ということに変わったのである。たとえば腕がもげたシーンがあると、それまでの映画では「こう描いておけば、観ている人は腕がもげたのだと解釈してくれる」というものを提示していたのだが、この映画では「腕がもげたらこうなるだろう」という表現に変わった。
つまり、この映画以前は、「腕がもげた」という記号的表現だったのが、この映画から「腕がもげた」という現実的表現をすることにかわってきたのである。
この映画は、戦争映画における、記号的表現からの脱却がなされた記念すべき映画である。
大絶賛!!!

ただ、物語自体はなんともいえない不条理さが残る話で、どう解釈していいのか悩ましい。軍という組織がそこまで一人に肩入れして肯定されるのかどうか・・・、見ている私たちはどうしてもその命令を受けて命を懸けていうトム・ハンクスのほうに感情移入してしまうので、どうにもやりきれない任務だなって思いながら、それが払拭されることもなく物語が進行し、さらに助けに部隊のほとんどが死んでしまう展開は、心のおくに拒否反応を覚えてしまう。。。
プロローグとエピローグをカットして、純粋に技術力だけの映画にしてくれたら、☆5つにしたのだけど・・・。

撮影はここ最近スピルバーグものを担当することのおおいヤヌス・カミンスキー
『マイノリティ・リポート』みたいにカメラが寄りすぎるのはいまひとつ気に入らないときもあるのだが、画調とか彩度に関してはかなり渋めでまとめてくれるので、色的には好きなほうの撮影監督さんである。

<あらすじ>
第2次世界大戦のヨーロッパ戦線。地獄絵図のようなノルマンディー上陸作戦を生き抜いたミラー大尉(トム・ハンクス)に、軍の最高首脳から「ジェームズ・ライアン一等兵を探し出し、故郷の母親の元へ帰国させよ」という命令が下った。ライアン一等兵は落下傘の誤降下で行方不明になっているという。
ミラー大尉は7人の部下を選出する。

「なぜライアン1人のために8人が命をかけなければならないのか? 」
それが誰もが感じた不条理だった。

前線へ進むうちミラーたちは空挺部隊に救われるが、その中にライアン二等兵がいたのだ。「戦友を残して自分だけ帰国することはできない」と言うライアン。ライアンが戻らないというのなら、共に踏みとどまりドイツ軍と一戦を交えるしかない。重火器にまさるドイツ軍にたいして乏しい兵力、装備という悪条件の中での戦いで、仲間たちは次々と銃弾に倒れていく・・・。

by ssm2438 | 2011-10-24 12:48 | S・スピルバーグ(1946)
2011年 08月 13日

ケス(1969) ☆☆☆☆

f0009381_1156308.jpg監督:ケン・ローチ
脚本:ケン・ローチ
    バリー・ハインズ
    トニー・ガーネット
撮影:クリス・メンゲス
音楽:ジョン・キャメロン

出演:デヴィッド・ブラッドレイ (ビリー)

       *        *        *

この物語の存在感は素晴らしい!

原作はバリー・ハインズ。あの『スレッズ』の脚本の人でしたか。・・・納得。

映画というのは、その製作者達が作った人工物である。しかし、をの人口物を、いかにも、実存するように描けるかどうかというのは、その作り手の技量による。この映画は、その物語がいかにも本当に存在したかのように描いている。この、「物語の存在感の構築」が、飛びぬけてすばらしいのである。

物語は、作り手によって構築された人工的なストーリーというよりも、ドキュメンタリー映像的に展開される。日常のなかでそんなシーンが展開されたらこうなるんだろうな・・という流れを素朴に描いていく。この物語はその積み重ねで構成されているので、エンタメ映画的な派手さはどこにもない。小説の一章節、一章節を丹念に映像化している感じだ。

この映画はぜひ、ドキュメンタリー・テイストを勘違いしているポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスに見せてあげたいものだ。
ポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスは、ボーンシリーズの2作目『ボーン・スプレマシー』、3作目『ボーンアルティメイタム』の監督さんで、世間ではポール・グリーングラスと呼ばれている。<ハンディカメラ>=<手ブレ>=<ドキュメンタリー>だと勘違いしてる大バカ野郎である。他にも、『ユナイテッド93』『ブラディ・サンデー』なども撮っている。
勘違いのポイントは、<現場性>を表現する撮り方と<映画性>を表現する撮り方の違いを理解していないことなのだ。

ニュース映像などでみる、戦場にカメラが入って撮った映像にはドキュエメンタリーである。そこに本物の戦場があり、そこにカメラマんが存在する。まさに真実の映像だ。<ドキュメンタリー>とは、「作り手によって作られていない現実をカメラに記録すること」である。ここではハンディカメラの手ブレも、その困難な撮影現場の雰囲気を伝えることになる。
なのでこのポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスは、「ハンディカメラ+手ブレで撮られた映像はドキュメンタリーっぽく見える」という表面的なちゃらちゃらした印象だけで映画を撮る。しかしここには大きな落とし穴がある。
それは「カメラのもつ現場性」に関する考察なのだ。

たとえば日本に反乱するアダルトビデオや、大学の映画サークルが撮った自主映画などは、映画の画面のようにはみえない。あたかも、映画を撮っている現場のように見える。これは、<映画性>を表現する撮り方で撮っているのではなく、<現場性>を表現する撮り方で撮っているからである。

<現場性>を表現する撮り方というのは、カメラ場その場にいることを提示する撮り方である。たとえば、手ブレ。手ブレが起きるということは、それがカメラマンによって撮影されているという意味を、見ている人に伝えてしまう。戦場に入ったカメラが手ブレを起こすのは、そうとしか撮れないのだから仕方がない。そしてその不便さが<現場性>を伝える。しかし、自主制作の架空のドラマを撮っているときに手ブレが起きると、それは架空のドラマではなく、「架空のドラマを撮っている撮影現場の映像である」という情報が見ている人に伝わってしま作り手が大事にしなければいけない基本コンセプトは、<映画性>を保つこと。つまり、そこに描かれているお話は架空のモノではあるが、撮影現場で撮られていないと感じさせることなのである。

<映画性>を阻害し<現場性>を提示してしまうもう一つの大きな要因は広角レンズである。頭の悪いアニメーターや漫画家は、やたらと広角で描きたがるのだが、実際広角レンズでとられた画面の映画をみると興ざめする。それは構図うんぬんの問題ではなく、「そこにカメラが存在している」ということが見ている人に伝わってしまい、<映画性>を感じさせなくしてしまうからだ。「そこにカメラが存在している画」=「撮影現場の映像」になってしまう。

ポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスは、主人公のボーン(マット・デイモン)が、スパイ活動を行っている時でも、ハンディカメラで撮ってしまうので、見ている人は無意識に「なんでそんなところを撮れるカメラが存在するんだ?」と<現場性>=<これは映画として撮影されている画面である>を感じてしまう。おかげでその撮り方に興ざめしてしまう。
真実の映像を伝える時に<カメラの存在>を提示する、<現場性>を表現する撮り方をするのは妥当だろう。しかし、映画のように、<映画性>を表現しなければならない時に、<カメラの存在>を感じさせる撮り方をされると、見ている人は無意識のうちに興ざめしてしまう。


話は『ケス』に戻るが、この映画はほんとにドキュメンタリー・テイストで撮られている。作り手が作ったのではなく、あたかもホントにその物語があるかのように撮られているのである。しかも、ポール【くそハンディカメラ・手ブレ】グリーングラスのように小手先のちゃらちゃらした表現手段で描くのではなく、<映画性>を保ちながら(カメラの存在を意識させないまま)、本物っぽく撮れているのである。
この<本物っぽさ>が素晴らしい。
ちなみにこの映画の監督のケン・ローチは愛称であり、本名はケネス・ローチ(Kenneth Loach)である。

日本では『少年と鷹』というタイトルでテレビ放映されたようだが、データを調べてみるとケスは「falcon」であり、鷹ではなくハヤブサのようだ。

<あらすじ>
ヨークシャーの炭鉱労働者である兄ジャド(フレディ・フレッチャー)と母(リン・ペレー)と3人で暮らしていたビリー(デイヴィッド・ブラッドレー)の生活は苦しく、彼も毎朝新聞配達のアルバイトなどをしていた。そんなビリは森の古い僧院の壁にハヤブサの巣を見つける。彼はそのヒナを巣かな盗み出し「ケス」と名づけた。古本屋で『ファルコニー』(鷹匠術)の本を万引、基礎知識をつけたうえで、ケスを訓練していく。国語教師ファーシング(コリン・ウェランド)はある日、彼にクラスの前で話をさせる。最初はひっこみがちなビリーも、ハヤブサの話になると目を輝かせて話し始めた。同級生達もその話を聞き入っていく。

物語は思わぬところから悲劇を迎える。ある朝、兄に馬券を買うよう頼まれたビリーだが、売り場の人に「これは外れるから買わなくていい」と言われ、預かった金を別のことに使ってしまう。ところがこの馬券が大穴で当たってしまった。兄はビリービリーを探して学校にまで押しかけてくるが、ビリーは逃げ回る。憤慨して帰っていく兄。ふと悪い予感がして、ケスの小屋に走るビリー。しかし、ケスはジャドに殺されゴミ缶に捨てられていた。

この感じは痛いほど良くわかる。
起きるのです、こういうことは・・・。

by ssm2438 | 2011-08-13 11:57
2011年 02月 24日

真昼の決闘(1952) ☆☆☆

f0009381_15512611.jpg監督:フレッド・ジンネマン
脚本:カール・フォアマン
撮影:フロイド・クロスビー
音楽:ディミトリ・ティオムキン

出演:
ゲイリー・クーパー (ウィル・ケイン保安官)
グレイス・ケリー (ウィルの妻・エイミー)

        *        *        *

ヒロイックな西部劇と思ったら大間違い!

それまでカッコいいヒーロー像が多かったゲイリー・クーパーを主演にしたこの映画だが、この主人公は決してヒロイックではない。ごくごく普通の人間であり、怖いものは怖い。等身大の人間としての怖さを認識しつつ、やっぱり監督はフレッド・ジンネマンなので意地張っちゃうわけだ。

ドラマは、最近の『24』のようにほぼリアルタイムで進行する。かつてゲイリー・クーパーに逮捕された荒くれ者が、刑務所をでて町に帰ってくるという知らせが舞い込んでくる。彼らは復讐にやってくるのだが、その町に来るまでの間に、町にのこって戦うか、逃亡するか、プライドを撮るか実利をとるか、選択しなければならない。これがクリント・イーストウッドのマカロニ・ウェスタン・ヒーローなら恐れることなどないのだが、この主人公は等身大の主人公なのだ。復讐に来るとなれば恐ろしい。町のモノは、逃げたほうがいいといってくれる人もいる。しかし、反対に保安官を差し出して、荒くれ者のご機嫌をとったほうがいいと考える人もいる。クーパーは逃げ出すことをやめ、一緒に戦ってくれる人を探してあるのだが、なかなか一緒に戦ってくっる人はいない・・。そんな八方塞のなか、びくびく主人公クープが意地を張り通す映画なのだ。

ただ・・・、配役とドラマとがあっていたのかといえばちょっと疑問がのこる。ヒロインはその後モナコ王子と結婚したグレイス・ケリー。ヒッチコックが好きそうなクールビューティだ。ゲイリー・クーパーも暑苦しくないハンサムガイなのだ、このようなリアルでおどおどしつつも意地をはってしまう主人公というのは、今ひとつ喰い合わせが悪いような気がした。このような美男美女カップルをだすとなるとどうしてもハーレクイン・ロマンス的なドラマを期待してしまう(苦笑)。

<あらすじ>
西部の町ハドリーヴィルでは、この町の保安官ウィル・ケイン(ゲイリー・クーパー)がエイミー(グレイス・ケリー)との結婚式を挙げていた。彼は結婚と同時に保安官の職を辞し、他の町へ向かうことになっていた。そこに電報が届いた。ウィルが5年前に逮捕したフランク・ミラーが保釈され、正午到着の汽車でこの町に着くという知らせだった。停車場にはミラーの弟ベンと彼の仲間の2人が到着を待っていた。時計は10時40分をさしていた。
エイミーは予定通り町を去ろうと言い、ウィルもエイミーと共に逃げようとするが、思い直して引き返す。エイミーはひとり正午の汽車で発つ決心した。ウィルは無法者たちと戦うため、助っ人を探しはじめる。判事は早々に町から逃げ出した。保安官補佐のハーヴェイはウィルの後任に自分が選ばれなかった恨みもろもろの因縁もあって協力を断る。酒場の飲んだくれ達はウィルよりもフランク一味を応援している始末。教会では意見が分かれて議論になるが、結局ウィルが町を去るのが一番良いという結論が出る。保安官仲間たちは居留守や怪我を理由に辞退する。結局一人も集まらない。彼は1人で立ち向かう決心をして遺言状を書きつづった。
時計が12時を指すと共に汽笛がきこえミラーを乗せた汽車が到着した。入れ替わりにエイミー乗るが、銃声を聞くといたたまれず汽車から降り、町へ走る。ウィルは2人を倒しており、エイミーの助けもあってあとの2人も射殺した。戦い終わって町の人々がおそるおそる集まってくると、胸のバッジをすててウィルはエイミーと立ち去るのだった。

by ssm2438 | 2011-02-24 15:52 | フレッド・ジンネマン(1907)
2010年 09月 10日

波止場(1954) ☆☆☆☆

f0009381_11233039.jpg監督:エリア・カザン
脚本:バッド・シュールバーグ
撮影:ボリス・カウフマン
音楽:レナード・バーンスタイン

出演:マーロン・ブランド
    エヴァ・マリー・セイント
    リー・J・コッブ
    ロッド・スタイガー

        *        *        *

怒涛の村八分もの。やっぱり村八分ものはいいですな。たとえ社会がどうであろうと、俺はこうするんだ!!みたいな強い意思があり、社会からの圧迫と自分の意思のせめぎあい。ドラマとしての基本中の基本でしょう。そして3番の陪審員リー・J・コッブはやはりこの時代の誰もが知っている悪役の代名詞だった。

ジョニー・フレンドリイ(リー・J・コッブ)の暴力によって支配されているニューヨーク港。そこでの仕事は彼によって分配させるので、彼に逆らうものは仕事にありつけないのだ。ある夜、労働者のひとりがジョニーの子分チャーリー(ロッド・スティガー)に謀殺された。彼の弟のでやはりジョニー一派のリー(マーロン・ブランド)も片棒をかついでいた。
事件はうやむやにされそうになるが、波止場の正義派バリー神父(カール・モルデン)や殺された労働者の妹イディー(エヴァ・エヴァ・マリー・セイント)はこれを非難、それを快く思わないジョニー一味は教会を襲う。その場に居合わせたイディーはテリーに救けられた。イディーに心をよせるテリーは、バリー神父の忠告に従ってイディーの彼女の兄が殺させたいきさつを告白するテリー。しかしジョニー一味からの圧迫は強くなく。一切の秘密を口外するなと脅させるが、聞き入れなかった。そのためテリーの兄のチャーリーも殺させた。間もなくジョニイ一味は、2つの殺人事件について法廷で尋問されテリーは彼の犯罪事実を証言した。翌朝波止場にあらわれたテリーは、労働者仲間から卑怯者として村八分にさせる。誰もテリーを守ってくれない。ジョニーの子分たちにぼこぼこにさせるテリー。しかし彼は渾身の力をふりしぼって立ち上がり、仕事場へむかう。静かに道をあける労働者たち。先頭に立って仕事場へむかうてリーのあとに他の労働者たちもつづいていく。
ジョニーの支配がおわった。


やはりエリア・カザンに関しては、あの赤狩り時代の名簿告発事件がのちのちまでバッシングされていることは有名。すこし経歴を紹介しておこう。
トルコのギリシャ人家庭に生まれたカザンは4歳のときにアメリカに移住、演劇を志すが1930年代の半ばごりに短期間ながらアメリカ共産党に席をおいていた。第二次世界大戦が終わり、ソ連との冷戦状態にはいっていたアメリカでは「赤狩り」が万延、共産主義的思想の芸術家や文化人は糾弾され仕事をほされていた。元共産党員だったカザンも共産主義者の嫌疑がかけられ、カザンはこれを否定する。しかし演劇界・映画界において精力的に活動を続けられる立場を得るためには司法取引をすることになり、当時共産主義思想の疑いのある者として友人の劇作家・演出家・映画監督・俳優ら11人の名前を同委員会に表した。そのなかには劇作家・脚本家のリリアン・ヘルマン、小説家のダシール・ハメットなどの名もあった。
1998年、エリアカザンは長年の映画界に対する功労にたいしてアカデミー名誉賞を与えられることになったが、赤狩り時代の行動を批判する一部の映画人からはブーイングを浴びた
リチャード・ドレイファスは事前に授与反対の意思をあらわす声明を出し、ニック・ノルティ、エド・ハリス、イアン・マッケランらは受賞の瞬間も硬い表情で腕組みしたまま沈黙の抗議、スティーブン・スピルバーグ、ジム・キャリーらは拍手はしたが、席を立とうとはしなかった。通常、名誉賞の授けられる瞬間は全員が起立し祝福の拍手が慣例のため、会場内は異様な空気に包まれた。私もそのシーンをテレビでみていたが、腕組みしてたたないエド・ハリスの映像はかなり衝撃的だった。

by ssm2438 | 2010-09-10 08:59
2010年 08月 11日

アルジェの戦い(1965) ☆☆☆☆☆

f0009381_17212162.jpg監督:ジッロ・ポンテコルヴォ
脚本:フランコ・ソリナス
撮影:マルチェロ・ガッティ
音楽:エンニオ・モリコーネ

出演:ブラヒム・ハギアグ
    ジャン・マルタン

     *     *     *


以前サンライズで演出志望の進行さんを相手に演習講座をやっているのだが、そのネタの一つとしてこの映画をみてもらおうと思い、久しぶりに見てみた。いや~~~~、すごいすごい。このリアリズムはやっぱりすごい。
監督はジッロ・ポンテコルヴォ。作品数は少ないのだがインパクのある監督さん。といっても私もこの『アルジェの戦い』しかみていなかいのだけど。この作品、アルジェリアの独立運動を描いているのだけど、とにかくその捉え方がリアル。まるでドキュメンタリーとかんちがいしてしまいそうなくらいリアル。たぶんほとんどセット撮影されてないからなのだろう。階段のおおい立体的アルジェリアの町並みはとっても素敵。まるで宮崎さんの『母をたずねて三千里』の描いたジェノバのレイアウトのよう。平面的な舞台設定ではなく、階段のおおい画面っていうのはとってもいいよね。。

その昔ビデオという概念が普及した頃、OVA=オリジナルビデオアニメというジャンルが発生した。それまでは、テレビ、映画に流すということを目的にしてつくられていたのだが、テレビ会社の介入なしにアニメ制作会社が独自に企画をたて、ビデオで作品を売り出そうというもの。その記念すべき第1作がスタジオぴえろが作った『ダロス』というアニメ。じつはその『ダロス』がこの『アルジェの戦い』をネタにつくっていたんだよね。
この作品を選択するセンスの良さにはおそれいってしまう。

それから長きにわたり、アニメ業界でテロ活動とその取り締まりをする側を描く時は、かならずといっていいほどサンプリングされた作品といってもいい。21世紀になってもやっぱりパソコンものの基本はジョン・バダム『ウォーゲーム』であるように、テロものの基本はこの『アルジェの戦い』かもしれない。


アルジェリアはフランス領だったのだが、1962年7月2日に独立した。全く関係ないが、翌日7月3日にトム・クルーズがアメリカで生まれ(苦笑)、独立日から一週間して私が生まれた。‥‥はは、実にどうでも話ですいません。
この映画では、その独立までの10年間くらいを、アルジェリアの独立運動を先導してたアルジェリア解放戦線の活動家アリと、その活動封じ込めるためにフランスから送られてきた空挺部隊の隊長マチューを中心に描いている。
決して善悪を説いた映画ではない。ともすれば、加害者=悪、被害者=善って概念に転びがちだが、この映画そんな感性はもっておらず、ひたすら人間の性に基づいてうまれた植民地という概念と、そこでの独立をニュートラルな立場で双方の活動を描いている。解放戦線側も、フランス人の地元警察員をぼこぼこ殺していったり、ハイソなフランス人たちがあつまるカフェはダンスホールを爆破するだけでなく、売春や麻薬を斡旋してる同胞のアルジェリア人業者も殺してしまう。暴力的に浄化である。
そんな混乱した情勢を収束させるためにフランスは軍隊を送って来た。それが第◯◯空挺部隊。この隊長マチューはとってもクールで、かっこいい。解放戦線の組織構成はこうこうこうなっており、地道な作業だけどこれをひとつひとつつぶしていく。その指示出しが的確で、非合法な情報入手(拷問など)も必要なら[OK]という暗示を出すとともに、これが自分が指示であり、その責任は自分にあるといことも部下たちにきちんと提示している。このへんの潔さがとっても好感をもってしまう。人望がある人といのはこういう人なんだなって感心させられる。

やがて、解放戦線の組織は徐々に摘発されていき、上層部まで捜査は及び、一番頂点までたどりつく。彼は彼でとっても理性的な人物で、おいつめられて逃げ場がなくなると「無益な戦いは無用だ」と一緒にいる女と投降してしまう。仕事場の上司像としてどちらも潔く素敵なのである。連行される車のなかで解放戦線リーダーはクールに対処しているが、「まだアリがいるわ」といい放つその女。解放戦線側はそのアリっていう青年を視点にして描かれているのだけど、彼は正義感たっぷりの熱血漢系。最終的には彼が死に解放戦線は崩壊するのだけど、その2年後、自然発生的に起きた独立運動が引き金になり、アルジェリアは独立へ向かっていくって映画。

この映画、リアリズムの教本になるかなって思ってたけど、みてみると、
「上司とはこうあるべき」という、ビジネス現場における上司の人望獲得教本なのかもしれないって、別のところで感動してしまった。

by ssm2438 | 2010-08-11 13:55
2010年 08月 06日

ジュラシック・パーク(1993) ☆☆☆☆

f0009381_12523872.jpg監督:スティーヴン・スピルバーグ
原作:マイケル・クライトン
脚本:マイケル・クライトン/デヴィッド・コープ
撮影:ディーン・カンディ
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:
リチャード・アッテンボロー (ジョン・ハモンド)
サム・ニール (アラン・グラント博士)
ローラ・ダーン (エリー・サトラー博士)
ジェフ・ゴールドブラム (イアン・マルコム博士)

       *        *        *

おおお、本物の恐竜がうごいてるみたいだ!!

・・・当時は感動した。確かにCGの技術の発展でこのくらいは当たり前に出来る時代になることはわかってたけど、いわゆる特撮物で、怪獣/恐竜がj記ぐるみではなく、ロボットでもなく、人形でアニメでもないかたちで実に本物のように作られたというのはこれが初めてだったのだろう。
もっともわれわれの子供のころは『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に出てくる気ぐるみの怪獣で十分たのしめたのだが、というか、あれはあれで今でも楽しめるた。あれの面白さは、見ている側のイマジネーションでき「現実にこれがおきたら、こんなふうになるんだろうな」って作り物だと分かっている画面を見ながら頭のなかで補完する部分がとても刺激的だったのだろう。
さすがにいまのようなCGではもう、完全に本物っぽい画面をみせられるので、「ああああ、まるで本物っぽいなあ」でその部分だけ感動しているので、見ている人の補完活動がなくなってしまうのがちと寂しい。ドラマや、映画って、結局この見ている人が、どれだけその物語を寝たにそのうらにメンタルや、トリックを想像するところにあるのであって、全部提示しすぎることがそれほどすばらしいことだとは思えないところもあるのだけど。

原作は『アンドロメダ・・・』『未来警察』マイケル・クライトン。その時代その時代の最先端のアイテムは発想をもとに物語と理詰めでつくってくれるので、基本的にはいつもそこそこ楽しく見せてもらえる。
恐竜の再生に関しても、もっともらしいとんちを働かせているし、その設定ならだまされてもいいなっておもわせる程度の説得力はとりあえずつけてある。あつめられた科学者たちもいろいろ個性的で数学者のイアン(ジェフ・ゴールドブラム)なんかはいい味をだしている。
これは『アンドロメダ・・・』の時もマイケル・クライトンが使っている登場人物の集め方なのだが、かならず一人は、全然関係ないような人を入れ込むというもの。こういった特殊事情で専門分野であればあるほど、見方が一方的になりがちであり、そこに別次元からの意見を挟みこむためには、全然関係がないキャラクターの存在が必要なのだそうが。
個人的にはもうひとりくらいビジュアル的にみてて楽しめるきれい系の女性がほしかったかな。ローラ・ダーンではいまひとつ欲情しない(苦笑)。

スピルバーグの演出はあいかわらず、恐竜の怖さをえがきつつ、それだけではない親近感もあわせて描いているように思う。これはスピルバーグの基本コンセプトなのだろうが、『ET』や『未知との遭遇』のようにはじめてあう異性物に対しても敵対心を抱かないように描くことをすごく大事にしている。そういはいっても恐竜の獰猛性もかかないと面白いわけがないのでそこはそれ、過激になりすぎず、甘くなりすぎないころあいのいいところでまとめている。個人的にはもうちょっところあいをはずしてほしい部分はあるのだけど、お子様から大人までという全方位外交の映画なのでこうなるのはしかたないだろう。

<あらすじ>
恐竜の化石の発掘調査を続ける生物学者のアラン・グラント博士(サム・ニール)と古代植物学者のエリー・サトラー博士(ローラ・ダーン)は、ハモンド財団の創立者ジョン・ハモンド氏(リチャード・アッテンボロー)にのオファーにより、コスタリカ沖のある孤島の視察に向かうことになる。他にも数学者のイアン・マルカム博士(ジェフ・ゴールドブラム)、ハモンド氏の顧問弁護士、それにハモンド氏の2人の孫も招かれていた。

島に到着した彼らの目の前に現れたのは群れをなす本物の恐竜たちだった。ハモンド氏は研究者を集め、古代の蚊から恐竜の血液を取り出し、そのDNAを使い、クローン恐竜を創り出したのだった。

パークの安全制御を担当するコンピュータ・プログラマーのネドリーは、ライバル会社に恐竜の胚の入ったカプセルを売り渡すために陰謀を企てていた。彼が悪さをしたために、恐竜から人間をまもる防護フェンスの高圧電流も止まってしまった。視察にでかけていたグラントたちは巨大なティラノサウルスに襲われ、パークの中をサバイバルしながらコントロールセンターを目指す。
ネドリーはティロフォサウルスに襲われてしまう。グラントたちを捜しに出たエリーは、マルカムを助け、ティラノに追われながらもセンターへ帰還する。システムを元に戻すため一度電源を切り、落ちたブレーカーを戻すためエリーは電気室へ。グラントと子供たちもなんとかコントロールセンターにたどり着き、安全装置と通信機能を回復させる。ヴェロキラプトル2頭についに追いつめられるが、そこにティラノサウルスが現れ、恐竜たちが闘っている隙にグラントたちは、地下室に隠れていたハモンド氏やマルカムと共に島を脱出するのだった。

by ssm2438 | 2010-08-06 12:52 | S・スピルバーグ(1946)
2010年 07月 25日

プラトーン(1986) ☆☆☆☆

f0009381_11561654.jpg監督:オリヴァー・ストーン
脚本:オリヴァー・ストーン
撮影:ロバート・リチャードソン
音楽:ジョルジュ・ドルリュー

出演:
チャーリー・シーン (クリス・テイラー)
トム・ベレンジャー (バーンズ軍曹)
ウィレム・デフォー (エリアス軍曹)

       *        *        *

オリヴァー・ストーンの中では一番見やすいかな・・・。

自身の戦争経験にもとづき描いているだけあってリアルだ。リアルさを感じさせるツボを心得ているといったほうが確かかもしれない。夜間の銃撃戦はすごかった。

『プラトーン』におけるオリヴァー・ストーンの銃撃戦の特徴は、「撃たなければ死の恐怖が近づいていく。しかし、何を撃っていいのかわからない」という実践心理が映像化されているところだろう。<認識できないことの恐ろしさ>演出と私は勝手に呼んでいる。このストレス描写はストーンの映画にはよく感じることだ。
シナリオを書い『800万の死にざま』でのロザナ・アークエットとの人質交換の場面の切羽詰った緊張感。演出はしてないにもかかわらずず(監督はハル・アシュビー)、そのシーンはまるでオリヴァー・ストーンが演出したようにみえる。あれはきっとシナリオであのこまかなカメラの振りまで書いてあったのだろうなって想像する。あの映画も見せきらないで、見ている人にどうしたらいいのか判断出来ない心理状態をつくりだしていた。それは『サルバドル』でもそうだし、この『プラトーン』でも発揮されていたし、後に撮る『7月4日に生まれて』でも、あの<認識できないことの恐ろしさ>演出がさえていた。この頃のハリウッドではやたらとオリヴァー・ストーンがもてはやされていた。

物語の構造は、チャーリー・シーンを主人公(=感情移入の対象)に設定、その両サイドに二つの人格を配置している。戦時化では頼りになるが、人間性をうしなっているトム・ベレンジャーと、戦時化でも人間性をつねにもちつづけるウィレム・デフォー。ま、構造的にはよくある構造で目新しくないが、王道の構造というところだろう。効果抜群である。

ただ、オリヴァー・ストーンの見せ方というのは、散々叩いて、観客の頭の中に見せたい情報をつめこんでいくのだけど、それが定着する時間をあたえないのである。なので、みていてしんどい。これでもか、これでもかと、認識しなければならない情報が与えられる。きっとそれは、認識させない演出があり、ゆえに認識できるシーンではなんとか認識しようと観客が一生懸命みているからなのだろう。見えないものをあえてみなくてはいけないという意識にさせられるからしんどいのだ。
それでも、それが終わったら一休みの穏やかなシーンをもうすこし入れてもらえれば見る側としてはらくなのだが・・そういうシーンもあまりない。映画のなかでの抑揚のつけ方のド下手な監督さんであることには間違いない。

<あらすじ>
1967年、大学を中退してベトナムを志願したクリス(チャーリー・シーン)が現地に降り立った。最前線の戦闘小隊(プラトーン)に配属されたクリスにとって、戦争の現実は彼の想像をはるかに超えた苛酷なものだった。その小隊のなかでもっとも頼りになりそうなのは隊長バーンズ軍曹(トム・ベレンジャー)。かれの冷酷非情は判断は戦場ではただしく思えた。一方班長のエリアス軍曹(ウィレム・デフォー)は戦場にありながらも人間性を大事にしていた。ある日、ベトコンの基地と思われる小さな村を発見した。バーンズは真実を吐かない村民を銃殺、それに怒りをおぼえるエリアスは「軍法会議にかけてやる」と叫ぶ。エリアス軍曹の平和主義的言動に心良く思っていなかったバーンズは、エリアスが単身斥候に出た時、後を追って卑劣にも射殺してしまう。銃声をきいたクリスは不信感を抱くがべトコンは迫ってくる。
小隊がヘリコプターで後方の大隊陣地へと撤退していくなか、クリスとバーンズは、敵兵に追撃されながらなんとか密林から逃げ出してきたエリアスを見る。編隊長は救出を試みるが、援護射撃もむなしくエリアスは敵弾に倒れる。狼狽したバーンズをみて彼がエリアスを殺害を試みたのでは、と直感的に疑念を抱くクリスは陣地に帰頭後、バーンズに詰め寄るが、簡単に組みしかれる。彼の直感は正しかった。

やがて血みどろの夜戦が始まる。圧倒的な敵兵力の前にもはや大隊は壊滅寸前であった。絶望的な戦いを続けているクリスは計らずもバーンズの命を救う形となる。しかし殺戮マシーンと化したバーンズはクリスをも手にかけようとする。その時味方航空機による大隊本部へのナパーム弾投下ですべての戦闘が終息する。翌朝意識を取り戻したクリスは屍のなかを歩く。そこでなんとか生きているバーンズを発見、しかし、クリスは彼を射殺するのだった。

by ssm2438 | 2010-07-25 11:56
2010年 06月 20日

ブラック・サンデー(1977) ☆☆☆☆☆

f0009381_15562658.jpg監督:ジョン・フランケンハイマー
原作:トマス・ハリス
脚本:アーネスト・レーマン
    ケネス・ロス
    アイヴァン・モファット
撮影:ジョン・A・アロンゾ
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:ロバート・ショウ
    ブルース・ダーン
    マルト・ケラー

     *     *     *

ジョン・フランケンハイマー ! とにかく無骨に映画を撮る人である。大好きな映画監督の一人だ。

どう説明したらいいだろう‥‥、例えばアニメとか戦隊モノだとちょっと都合が悪くなるとジャンプして場所移動が常套手段なのだけど、それをしない監督さんといったら一番イメージが沸くかもしれない。
それが実存する人間ならA地点からB地点まで行くには走っていくか、歩いていくかよじ登るかしないといけないのである。仮面ライダーみたいに「とぉー」っと一声かけてジャンプして到達出来る訳ではない。ジョン・フランケンハイマーはそういうご都合主義を排除し、そこまで主人公が走らせるのである。
物語の語り口にも同じことが言える。とにかく出来ない事を「映画だから」という言い訳のものとに無理矢理ミラクルにやってしまうことが嫌いなのだと思う。出来る事だけで物事を描こうとする。こういう姿勢、大好きなんだなあ。
最近のお子様向け映画でCGふんだんにつかい出来もしなことを絵にしてしまうアホ監督がやたらと多く、そうんな映像だから物語にリアリティがなくなって「なんか賑やかだけど眠たいなあ」って感じる事がやたらと多い。しかしジョン・フランケンハイマーの映画はそういうことは決してない。
最近の『RONIN』でもやはり、ジョン・フランケンハイマーは久々に復活してジョン・フランケンハイマーだった。出来る事の積み重ねで映画をつくるのである。うれしい! 子供相手の映画なんてもういい加減飽き飽きしてるのできちんとこういう硬派な監督さんの描く映画を見てみたい物だと思うのだが、最近こういう実に無骨か演出を出来る人がいなくなってしまった。

初めてこの映画を見たときの印象は「なんとリアルな映画なんだ。まるでドキュメンタリーをみてるような感じの描き方だ」。勿論映画であり、フィクションなのだけど、実際に起きたことをカメラが同伴して撮ったかのような印象だった。当時はミュンヘンオリンピックの後の<黒い9月>事件の後でもあり後悔が打ち切りになってしまったが、映画としては圧倒的な重厚さをもっていたサスペンス/アクション/パニック映画なので、もっと多くの人にみて欲しい映画だった。

原作は知る人ぞ知るトマス・ハリス『羊たちの沈黙』『レッドドラゴン』などで有名だけど、やはり映画になったものとしてはこの『ブラック・サンデー』が最高傑作だろう。映画だけでなく原作としても、猟奇殺人というマニア受けしそうな題材よりも、この骨太のポリティカルサスペンスのほうが遥かに重厚さがある。もし機会あればレンタルビデオ屋で手に取ってみてほしい。
「ああ、男の映画とはこういう物なのだ!」って再認識するかもしれない。

場所はイスラエル。人里離れた民家(?)。これからの作戦の段取りをきめたあとシャワーを浴びにその場を離れたマルト・ケラー、そこを黒装束の武装勢力に襲われるところから始まる。武装勢力はそこにいる人たちを手際よく殺していく。実にプロらしい。そしてドキュメンタリーっぽい。ほんとの夜襲をカメラが同伴してるのかと思うくらいのリアリティ。
あらかたそこにいる男たちを殺した後シャワー室のカーテンを開くとそこに裸で無防備なマルト・ケラー。武装勢力のボスはある種のためらいがあったが、彼女を生かしたまたその場を離れた。
はっきり言ってこの時点ではどっちが良い者でどっちが悪者なのか分からなかった。このイマイチ訳の分からない導入部だけでももう、観ている者をこの映画にハメてしまう魅力が在る。それはけっして007ものようのうなハッタリ系ドンパチのツカミではなく、実にドキュメンタリー感覚の印象を提示してくれるのだ。
そしてこの夜襲の時に手に入れたテープから事件はアメリカへ展開していく。

やがてそのテープはアメリカのFBIのもとへ辿り着く。持って来たのはその夜襲をかけて部隊のリーダー、カバコフ少佐(ロバート・ショー)である。かれはイスラエルの特殊工作部隊の隊長。彼等が襲撃したのはパレスチナの過激派組織<黒い九月>だった。彼等はアメリカのイスラエルびいきの中東政策に反対し、ミュンヘンオリンピックでイスラエルの選手とコーチを人質に取り殺害してた。そしてその後にこの物語となるアメリカへのテロを計画していたのだ。
そしてカバコフが先の襲撃で手に入れたのは、そのテロ計画が実行された後に流されるはずであった犯行声明の録音テープだった。FBIとカバコフとで犯罪を食い止める捜査がはじまる。
犯行声明に使うはずだったテープがモサドに押収されたことにより、過激は組織の上層部はマルト・ケラーに作戦の中止もとめる。しかし彼女は作戦を実行に移していく。具体的に作戦を計画したのはアメリカの米軍兵ブルース・ダーン。捕虜生活が長くちょっと精神を病んでいる。そして彼等もギリギリの綱引きをしつつテロ計画を実行に移していく。そしてそれぞれのぎりぎりの折衝が出来る事の範囲内で行われてゆき、カメラがそれを記録していくのである。なかでもダーツ爆弾の予備実験に割り当てられた砂漠の真ん中にある小屋。ここの描写などは恐ろしくも美しい。
さすがに最後、飛行船に乗ってからはいささか大雑把になってきたが、それまでのリアリティは優れもの。実に無骨なポリティカル・サスペンス、大人だけの傑作娯楽大作だといっていい。テロを題材にしたクライム・サスペンスとしてはこの映画が最高傑作だろう。

この映画に一つ不満があるとしたら物語が犯人側とFBI側と両方から描かれているところかもしれない。できればFBI側だけから描けなかったものかなって思う。そしたらもっとドキュメンタリー性が出て来たのに‥‥。


この映画を見るとアニメの作り手としてはまたひとつ原点に戻される気分になる。
ジョン・フランケンハイマー師匠は多分こう思っているに違いない。

「ジャンプして場所移動はするなよ。この法則を守るだけでアニメは10倍良いもに仕上がる」

by ssm2438 | 2010-06-20 15:49 | J・フランケンハイマー(1930)
2010年 01月 29日

ペリカン文書(1993) ☆☆☆☆

f0009381_7242381.jpg監督:アラン・J・パクラ
原作:ジョン・グリシャム
脚本:アラン・J・パクラ
撮影:スティーヴン・ゴールドブラット
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:
ジュリア・ロバーツ (ダーヴィー・ショー)
デンゼル・ワシントン (グレイ・グランサム)

        *        *        *

アラン・J・パクラ復活ののろし!
『ソフィーの選択』を撮ってからというもの、長らく不調だったポリティカル・サスペンスの雄アラン・J・パクラが戻ってきた。いやあ、めでたいめでたい。しかし盟友のゴードン・ウィリスが撮影してないのはちょっと残念。ゴードン・ウィリスだったらもっとしまりのアル画面になっていただろうなあっと思うところがけっこうあった。そうはいってもやはりパクラの環境描写でどんどん追い詰めていく演出は見ごたえあり。というか、この価値に気付くだけの人がいるかどうかがまず問題なのだが、ほとんどの人はこの価値に気付かない。玄人受けしかしない監督さんだ。
しかしこの映画、多分アラン・J・パクラのなかでは一番おもしろいんじゃないだろうか。サスペンスとしてきちんとストーリーがしっかりしてる分、パクラのほかのサスペンスよりも断然エンタテーメントに出来上がっていると思う。といってもこの程度だけど(苦笑)。パクラにエンタメを求めるのは、豚に空を飛べって行ってるのと同じくらい不可能なことだ。

原作はこの年あたりにやたらとブームだったジョン・グリシャム『ファーム/法律事務所』『依頼人』など、弁護士あがりの小説家さんだけあって、法律事務所がらみの物語がうまいことエンタテーメントに仕上がっている。そんな硬派な物語をアラン・J・パクラが監督するのだがら渋い映画になるのは当たり前。

<あらすじ>
ワシントンD.C.で、人の最高裁判事が殺された。
その殺しを指示したのは現職大統領への最大の献金者マティースだった。彼の会社はルイジアナの奥地で油田を掘り当てたが、その原油を運び出すには運河の建設が必要だった。しかしその運河はぜつめつ寸前のルイジアナペリカンなどが生息する湿地帯を通ることになる。この訴訟が最高裁まで行くとすると自然保護に熱心な判事が邪魔になる。と同時に、今、彼ら二人を消せば、大統領に政治資金の献金をしている今こそ、自分たちに有利な次期判事も指名要請できるからだ。

ペリカン訴訟のテレビ番組を覚えていたニューオリンズの法学部の女子大生ダーヴィー・ショウ(ジュリア・ロバーツ)は事件に興味を覚え、大学の講義も休み、図書館にこもって過去のデータをあさりまくった。そしてある仮説を打ち立ててレポートに書き上げた。彼女は恋人でもある大学教授キャラハン(サム・シェパード)にそのレポートを渡すが、それを読んだ彼は友人のFBI特別法律顧問に渡す。そしてその文書はFBI長官 、CIA長官から大統領補佐官(トニー・ゴールドウィン)、そして大統領(ロバート・カルプ) の手に渡り、いつしかペリカン文書と呼ばれるようになっていた。
そしてキャラハンがニューオリンズに戻ってきた夜、エンジンをかけたキャラハンの自動車が爆発炎上して彼は死亡した。キャラハンと同じく自分も命を狙らわれていると悟ったダーヴィーは、キャラハンが「こいつはガッツがある」とお気に入りだったジャーナリストのグレイ・グランサム(デンゼル・ワシントン)に連絡をとる。そして二人は、見えない敵から命をねらわれながら、真実と、それを照明する証拠を手に入れるのだった。

・・前半の見えない敵からの圧迫感は素晴らしい。事の真相がわかり、事件の真相を証明する証拠を探す段階になると普通のサスペンスになってしまうのがちょっと残念。そうはいってもなかなか見ごたえのあるリーガルサスペンスでした。

by ssm2438 | 2010-01-29 08:29
2010年 01月 16日

アルカトラズからの脱出(1979) ☆☆☆☆

f0009381_22521231.jpg監督:ドン・シーゲル
脚本:リチャード・タッグル
撮影:ブルース・サーティース
音楽:ジェリー・フィールディング

出演:クリント・イーストウッド (フランク・モリス)

        *        *        *

脱獄をテーマにした映画に傑作は多い。ジャック・ベッケル『穴』ロベールブレッソン『抵抗』『ショーシャンクの空に』『パピヨン』など、そのなかでも私は『抵抗』と『アルカトラズからの脱出』が好きだ。なにがいいかって、壁に穴をほるアイテムが小さいのがいい。そして何よりも、壁に穴を開けて独房をでたあと、そのあとの逃走経路をあらかじめシュミレートして、必要なものをさらに用意するために戻ってくる。この出ては戻ってくる、出ては戻ってくるの繰り返しで徐々に逃走経路を確保するところがリアルでよい。

アルカトラズ連邦刑務所は、アル・カポネやロバート・フランクリン・ストラウド、アルヴィン・カーピスら矯正不可能とみなされた者が主に服役した。数多くの脱獄が試みられたが、周辺は潮流が速く水温が低いため島からの脱出はほぼ不可能とされていた。脱獄者は34人いるが、7人が射殺、2人が溺死、5人が行方不明(遺体は未発見だが公式記録上は死亡扱い)、残りはすべて再捕獲された。行方不明者5人のうちフランク・モリスら3人が試みた脱獄劇は有名で、この映画『アルカトラズからの脱出』として再現されることになる。
本作ではその冷たい海を渡るのに、泳ぐことは無理と判断、レインコートでゴムボートをつくる。

そして脱獄物の引き立て約は、脱獄できないでそこに残るものの悲劇だろう。この映画では独房でしりあった絵を描くことを趣味にしている囚人がいるが、彼は絵を描くことを禁止され作業場の斧で自分の指を切断した。モリスとともに脱獄するはずだった隣の独房のチャーリーは準備が間に合わずにおいてけぼりにされる。『ショーシャンクの空に』ではモーガン・フリーマンは残る側の代表者として描かれる。これらの対比があってこその脱獄ものなのだ。

<あらすじ>
1960年1月18日の深夜、l人の囚人がアルカトラズ刑務所に移送されてくる。彼の名はフランク・モリス(クリント・イーストウッド)。全米国各州の刑務所で何度か脱走を企てこの刑務所に送り込まれたのだ。知能指数のきわめて高い新入りモリスは、特に所長に目をつけられ、部屋に呼ばれて警告を受けが、そのとき、所長のデスクからツメ切りをくすめる。
モリスは、ネズミをペットにしているノトマス(フランク・ロンチオ)という年配の囚人や、図書館の係員をしている黒人のイングリッシュ(ポール・ベンジャミン)、絵を描くのが趣味だというドク (ロバーツ・ブロッサム)と親しくなった。しかしウルフとは殴り合いの乱闘騒動まで起こし、D棟の独房に放り込まれた。そうこうしていると、別の刑務所でいっしょだったアングリン兄弟(フレッド・ウォードとジャック・チボー)がアルカトラズに送られてくる。彼らも何度も脱走を試みたためアルカトラズに送られてきたのだ。モリスは、2人の顔を見ていよいよ実行に移す決心を固めていた。モリスの独房のとなりのチャーリーが加わって脱走計画がスタートした。例のツメ切りや、食堂から盗んだスプーンを使い屋上へ出る穴を掘り、レインコートで作ったゴムボートで海を渡る計画だ。数ヵ月に及ぶ彼らの努力が着々と進められていった・・、そしてある夜・・・。

by ssm2438 | 2010-01-16 22:52