西澤 晋 の 映画日記

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2013年 12月 02日

虹をつかむ男(1996) ☆☆☆

f0009381_5455395.jpg監督:山田洋次
原作:山田洋次
脚色:山田洋次/朝間義隆
撮影:長沼六男
音楽:山本直純

出演:
西田敏行 (白銀活男)
吉岡秀隆 (平山亮)
田中裕子 (十成八重子)
田中邦衛 (常さん)

     ×   ×   ×

結局男って、好きな女に認められたいから生きてるんだろうなあ・・・。で、それができなくなると、どうでもよくなっちゃうんだろうなあ・・・

そのネタを失ったとき、ジョーはそういうしかなかったんだろうなあ。

丈「…じゃあどっからか連れてこいよ…もう一度力石徹よ…!」

葉子は連れてきたけど・・・、誰も代わりがいなかったらへたるよ、男は。あそこで田中裕子がいなくなったら、なんのために映画上映しつづけるんだ? 誰かが代わりを持ってこられるならいいけど、来なかったら続けられないよ。だってかっちゃんは映画を上映したあとに「この映画よかったね」って田中裕子に言ってもらいたいためにやってたわけだから・・・、しんどいよ、あのあと続けるのは・・・。

しっかし、男心を描かせるという事に関しては、今回ほど赤裸々な映画は山田洋二のなかではなかったかも。
かなり男の願望描いてます。


本来『男はつらいよ』の49作目として作られる予定だったお話だが、渥美清の死去によりタイトルをかえて別作品として作られた映画。なの寅さんコンセプトはそこかしこにあります。これは作り手の云々かんぬんよりもきっと映画の公開予定とか営業面とかいろいろな大人の都合があってそういうことになってしまったのだろうという気はします・・が、ある意味それが味だったり、別の意味ではそれが嫌味であったり、捉え方がなにかと複雑な映画です。

物語の冒頭、就職浪人の平山亮(吉岡秀隆)は親とけんかして家を飛び出し青春○○切符ていうのかなにかしらないが、そんなんで鈍行のりつぎ旅しています。そしてたどり着いた徳島のひかり町。そこにオデオン座という古びた映画館があり、そこに住み込みで働くようになったのでした。

映画館のオーナーは白銀活男(西田敏行)。寅さんのキャラをダブらしたようなこの男・・ってことは、これが寅さんがやる役だってことなのか? ということは、49作目では、田中裕子のほうが見せのオーナーで、寅さんがころがりこんで・・って展開だったのかなと思ってみたり。ま、それはいいや。

ヒロインになるのが田中裕子演じる十成八重子。活男を友人の妹で出戻り女で父の支援で喫茶店をやってる女性。オデオン座では毎週土曜日に名画の上映会をやっており、その選考委員をやってるといういつながり。
今週の映画はなんとあの『ニューシネマパラダイス』。
一番燃えるシーン見せないようについばんで見せているのだが、それでも思い出して泣けてしまう。だいたい、この映画を映画のなかでみせてしまうことじたいがずっこい! 

そしてオデオン座以外でおこなわれる上映会。
私が小さい頃は、地域の公民館に上映屋さんがきて上映された映画をみた覚えがかろうじてありました。まだ、そんなことやってるのか??と思いますが(この映画公開されたのが1996年、ちなみに劇中の田中裕子は40歳)、懐かしく思えてしまいます。今の人はそんなことが行われてたことなんて知らないでしょう。『恋々風塵』のなかでも地域での野外上映をやってましたが、昔はああいうこともあったのです。
その公民館で上映されたのが『野菊の如き君なりき』。おおおおお、実はこの映画私もまだみてません。
ここでのエピソードは、公民館の責任者である柄本明が「規則だから9時までに終わらせろ」というがそれでは途中できりあげなければいけなくなる。結局柄本も一緒にみることになり、はまってしまい、「9時ですがおわらせますか?」と活男がいうが「あほ、ここで終わらせられるか」と自分がのめりこんでしまう・・という展開。ありきたりだがわくわくしてしまった。

その後も上映いろいろあり。『かくも長き不在』、『東京物語』、と昔の映画ファンなら誰でもみた映画が連打される。劇中「面白くて受ける映画を」って言ってたが、このラインアップでは倒産もやむなしだろう(苦笑)。。。このあたりになってくると、最後に上映される映画はなんだ??って疑問がわいてくる。

やがて地方の小学校での文化祭。生徒はひとり。この分校も今年が最後で、最後の文化祭に生徒一人のために活男が映画上映をすることになる。もっともその教室(ちいさな体育館かもしれない)には先生や父兄のや分校関係者のひとがいてけっしてさびしいわけではない。そこで上映される『禁じられた遊び』。この映画で果たして小学生が楽しんだかどうか・・・あ、でも私がこの映画を始めてみたときも中学生くらだったのでにたようなものか・・・と思った。でも、私が見たときは水曜ロードショーで吹き替えだった。ここで上映されたのは字幕スーパー。この子が読書障害でなかったことを祈ろう。

ポイントになるのはそのあとのシーン。上映が終わって学校関係者が活男に感謝して飲みの関をもうけてくれた。その席で夫婦だと間違われた八重子が挨拶することになる。夫婦に間違われるエピソードってのは妙にこそばゆく心地の良いものである。『男はつらいよ 寅次郎物語』でもこのコンセプトはやってたのだがやはりはにかんで見てしまう。
で、男の至福の時。好きな女が自分のことを「うちの主人が」といい、そんな主人を誇りに思うといってくれる。
男にとって好きな女に認められるのがなにより幸せなのである。だああああああああああああああああああああああ、あいかもかわらず泣いてしまった私。その音楽のつけ方も卑怯なのである。周りの人がのりのりで花笠音頭とかおどりだしコミカルでにぎやかしのシチュエーションを作りながら物悲しげな音楽を流すという卑怯音楽の付け片法。コミカルなシーンに切ない音楽を流すと超効果的だし、緊張感のあるシーンに牧歌的な音楽を流すとこれまた効果的という、一種のBGM付けの技のひとつなのだがここでやりやがった。
でも、だあだあ泣いてる私・・・ははは、ああ単純。

やがて八重子の父親が亡くなり葬式。あたふたしてるところに八重子をずっとおもいつづけていた男(旦那の友人)が現れる。このあたりは『続・男はつらいよ』(2作目)のでの展開と同じである。ヒロインはやっぱり、結婚するのはやっぱり他の人ね・・ということで寅さん、今回は活男のもとを去っていくのであった・・・。

「今日の映画もおもしろかったー」を言ってもらいたいがために上映していた映画。しかしその人はもういない。オデオン座を占めることを決意した活男が最後の上映に選んだものは・・・・。

ええええええええええ、そこでこれをもってくる!?
できれば第8作目を選んで欲しかった。

・・・・・しかし、男って好きな女に認められたい生き物なのです。
切ないなあ・・・男って・・・。


ちなみに、私は愛した女が結婚したとき、「おめでとう」なんていってません。「幸せになってください」なんてアホな言葉もはいててません。「いつか言うから」とはいいましたがうそです。
男ってのは好きな女が不幸なほど、幸せなのです。
ううううううむ、いい台詞だ。この映画の価値はこの台詞を言わせたことかもしれない。

・・・・というわけで、いろいろごった煮の映画でしたが、まあまあ楽しませていただきました。
うん、面白かったよ。卑怯で、ずるくて、適当で、大人の都合で作られたかもしれない映画だけど・・・。

by ssm2438 | 2013-12-02 05:46 | 男はつらいよ(1969)
2013年 08月 25日

原子力戦争(1978) ☆☆☆

f0009381_1324415.jpg監督:黒木和雄
原作:田原総一朗
脚本:鴨井達比古
撮影:根岸栄
音楽:松村禎三

出演:
原田芳雄 (坂田正首)
山口小夜子 (山崎明日香)
風吹ジュン (青葉翼)
佐藤慶 (新聞記者・野上)
岡田英次 (神山教授)
石山雄大 (青葉守)

     ×   ×   ×

おおおおお、何を撮っても面白くないパクラのような映画・・・、面白い!!

最初に書いておくが、私は原発推進派である。
・・・が、以下に書いたものは、私の主義主張とは関係なく、フィクションとしてのこの映画に関して書いたものだ。

しっかし、原発が画面のなかにあるだけで、なんだか燃えますね。全然関係ないけど、数日前にディスカバリーチャンネルで「チェルノブイリ原発第4棟みました。いやあああいいですな。まるでアンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』のような雰囲気です。見てた番組は『怪物魚を追え』というシリーズで、番組のパーソナリティのジェレミーが世界各地をとびまわり伝説の怪物魚を釣り上げるというシリーズなのですが、今回はチェルノブイリ原発の冷水池に住む巨大ナマズの話。いまでも被爆防止のために滞在時間が制限されてるとか・・・。

ま、それはされておき、こちらの映画は原発事故をかくそうとする巨大な政治勢力と、それを暴こうとする原田芳雄佐藤慶の話。もっとも佐藤慶が相棒なので最後に裏切るのはみえみえなのですが・・・(苦笑)。雰囲気はめざせ『パララックス・ビュー』! この映画もゴードン・ウィリスが撮っていればもっとかっこよくなったのに・・・(笑)。でも、日本でもその社会的隠蔽工作のダークな雰囲気をだそうとしてかなりがんばってるきがします。もいっともパクラファンでなければかなり面白くない映画と捉えられても仕方がない部分は大いにありますが・・・。
舞台になっているのは某県某所の大浜原発(架空)。ただ現実問題ロケしたのは福島第1/2原発らしい。

話の発端はこんな感じ。
冒頭原発の街、大浜市の海岸に男女の溺死体があがる。手をつなぎその手は紐でかたく結ばれていたので警察も心中と判断。同じころ大浜を訪れる一人の男がいた。チンピラ風のその男は坂田正首(原田芳雄)。と青葉のぞみという女を捜しにきたという。なんでも50万を彼女に貸したままなのだが彼女が田舎に帰ったきり東京に戻ってこないので探しにきたという。
浜にあがった心中死体の女のほうが彼の恋人だった。坂田はのぞみの<ひも>であり、のぞみは大学をやめてソープで働きながら坂田を食わせていた。そんなのぞみがほかの男と心中などするわけがない。これは怪しいと考えた坂田が真相を追究していく・・・。

普通この手の物語は新聞記者とかそのあたりが動き出すのだが、今回はヤクザな男というところがちょっと柄が悪くなっている。しかし、この主人公の場合は社会問題とかは一切関係がなく、のぞみを殺した男が憎いというのだけが行動のモチベーションになっており、背後にあるのが巨大な隠ぺい工作なのだが主人公は実行犯に指示した男らしい人物をプスと刺してとりあえず復習したことになっている。
ま、最後は巨大な力にころされちゃうのだけど・・・。

そしてこの主人公が暴れまわるとなにかしら探りが入れやすくなると考えているのが新聞記者の野上(佐藤慶)。こちらは東京から地方にとばされ、なんとかスクープをとって本社に戻りたいとおもっているやさぐれ男。もっとも演じているのが『水戸黄門』悪役専門の佐藤慶なのでどうみてもそう思ってしまうのがちょっと残念。この男、最後は寝返るのだが、佐藤慶だと苦渋の決断にみえない(苦笑)。やさぐれてても正義感のありそうな人が願えるとけっこうインパクトあると思うのだがこの人だとねえ・・・、山本圭とかあたりだと良かったのに。

その後主人公をサポートしてくれる第一ヒロインが吹雪ジュン。おお、かわいい! 昔の彼女はこんなにかわいかんだ。・・・もっともとしとっても可愛いけど。『男はつらいよ 寅次郎の青春』(45作目)にマドンナとしてでてました。もうちょっとタッパがあったらかなりストライクゾーンでした。
こちらは死んだ姉から主人公のことは聞いていてちょっと興味をもってた女の子という設定。

さらにここから第二ヒロインが登場。心中したと思われる男のほうの妻。山口小夜子があやしい雰囲気だしてます。彼女の夫というのが原発で働いていた技師で、ある事故を告発しようとして殺された・・・というのがメインストーリー。一緒に殺されたのは心中ということにすれば後がらくだ・・・という理由。

もう一人のキーキャラクターが岡田英次演じる神山教授。どうも事故がおきたらしいということで原発に呼ばれた専門家がこの人。新聞記者の野上が原発事故の証拠書類をみせたのがこの神山教授。この人の言葉がかなり説得力があり、原作者の田原総一郎が取材をしてきたなかで得た数字や情報を盛り込んで原発推進はの立場をしっかり述べている。

・・・ここまでの設定で物語を転がせてればけっこう良かったのに最後一発蛇足がついた。
この神山教授と殺された山崎技師は師弟関係にあり、山崎の明日香と教授ができていた・・というオチ。これがあるがゆえにちょっと物語の軸がぶれてるような気がする。
もうひとつ要らないのはマイケル・ムーアみたいにアポなし取材を原発に慣行、ゲートのところで警備員とのやり取りをハンディカメラで撮っているのを入れ込んでいる。ちょっと胡散臭いな・・・。

・・・・でも、いろいろ面白かった。
とりあえず撮るだけとって、どうするか後で考えようって感じがATGらしい・・・(苦笑)。
でもこの映画、ATGのなかではけっこう普通に見られる映画だと思うのだけど。

by ssm2438 | 2013-08-25 13:26
2012年 10月 24日

ゴーン・ベイビー・ゴーン(2007) ☆☆

f0009381_23525514.jpg監督:ベン・アフレック
原作:デニス・レヘイン『愛しき者はすべて去りゆく』
脚本:ベン・アフレック/アーロン・ストッカード
撮影:ジョン・トール
音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ

出演:
ケイシー・アフレック (パトリック・ケンジー)
ミシェル・モナハン (アンジー・ジェナーロ)
モーガン・フリーマン (ジャック・ドイル刑事)
エド・ハリス (レミー・ブレサント刑事)
ジョン・アシュトン (ニック・プール刑事)
エイミー・ライアン (ヘリーン・マックリーディ)
エイミー・マディガン (ビー・マックリーディ)
マデリーン・オブライエン (アマンダ・マックリーディ)

     ×   ×   ×

なかなかやるじゃん、ベン・アフレック!

『グッド・ウィル・ハンティング』でアカデミー脚本賞をとったベン・アフレック。その第一回監督作品。原作は『ミスティック・リバー』デニス・レヘインがかいた人気シリーズ『私立探偵パトリック&アンジー』の4作目『愛しき者はすべて去り行く』。ボストンを舞台にした探偵小説で、刑務所暮らしも経験したことのあるパトリックが闇のコネクションをてがかりに事件を解決していくハードボイルド小説。ただ、今回の主人公はケイシー・アフレック(ベン・アフレックの弟)が演じてることも在りうやや、青二才の感じはいなめない。出来れば、40前後の渋めのオヤジにやって欲しかった。

ドラマはかなり気持ち悪いエンディングになっている。
しかし、出来が悪いわけではない。むしろいい。
先にあらすじを書いてしまおう。

<あらすじ>
そのころボストンではアマンダという女の子が失踪/誘拐されたというニュースがとびかっていた。警察も既に公開捜査に踏み切っている。そんななかパトリック&アンジーの探偵事務所に、そのアマンダの叔母がやってきて調査を依頼した。
アマンダの母親ヘリーンは麻薬におぼれ、自堕落な生活をおくっていた。娘のことはさほど心配している様子もなく、しかしマスコミへのパフォーマンスだけは熱心なようだった。そんな母親の姿をみていると気が乗らないパトリックだがしぶしぶ依頼をうけることになった。
やがて彼女と彼女の旦那が麻薬の運び屋をやっており、打ち上げ金の一部をくすめたことが判って来る。頭にきたバイヤーのボスが彼女の娘を人質に取り、金を返すように促しているというわけだ。
やがてその旦那の惨殺死体がみつかる。椅子に縛られ拷問を受けたあと殺されていた。このことを知っているのは捜査にあたっていたブレサント刑事(エド・ハリス)とプール刑事、そしてパトリック(ケイシー・アフレック)とアンジー(ミシェル・モナハン)だけだった。ブレサントとプールは、見つかれば首だが、彼女の安全を考え、くすねた金を返し子供を取り戻すことを考える。交渉はパトリックとアンジーが担当することになる。しかしこのことはブレサント刑事の上司であるドイル刑事(モーガン・フリーマン)にも知られてしまう。4人はお咎めをうけるかと覚悟するも、オフレコでの犯罪者との交渉でアマンダを奪回することに合意し、5人で麻薬組織のボスたちと合間見えることにる。
人質の解放と現金の受け渡しは湖畔の別の場所でおこなわれることになり、パトリックたちが配置につこうとしたとき、闇夜に銃声がこだまする。銃撃戦になったらしい。何かが湖に落ちる音がする。アマンダは、目隠しをされたまま恐怖にかられ走り出し崖から湖におちたらしい。死体は上がらなかった。

ここまではややタイクツな展開だったのだがしかし・・・、ここから盛り上がってくる。

パトリックは、事件の流れの中になにか腑に落ちない点がある。そして再び警察官に聞き込みをしていく。ブレサント刑事と一緒にいた刑事は殺されたヘリーンの旦那のいとこであり、アマンダの不憫さを知っていた。ブレサント刑事は男気のある警官だった。上司のドイル刑事は、以前似たようなケースで娘を失っていた。
アマンダは生きていた。ドイルの妻に世話をされながら別荘で幸せに暮らしていた。あの母親のもとに返せば娘は不幸になると思った3人の刑事は、アマンダの死を偽装し、アマンダに別の人生を与えていたのだ。何が正しいことなのか考えろというドイル。アンジーもこのままにしておこうという。しかしパトリックは通報してしまう。

なにをもって正しい行いというのか?という問が永遠にのこる映画である。なのでかなり気持ち悪い。ベン・アフレックもその答えを出してはいない。原作者もそうなのだろう。
後日アマンダの家を訪ねると、母のヘリーンは厚化粧をしてデートにでかける仕度をしている。マスコミからの問いかけには、世の母たちに「決して子供は他人にまかしちゃだめよ。自分でみまもるの」とメッセージを送り娘を取り返した悲劇のヒロインとしてマスコミに祭り上げられてはいるが、実生活では娘への感心などほとんどない。
「この娘をおいていくのか?」とパトリックが彼女に尋ねると、バツが悪そうに「あと5分でベビーシターがくることになってるわ・・、でも、貴方が居てくれるとたすかるわ」といって出て行く。ひとことふたこと言葉を交した後、アマンダとパトリックはソファの両端にすわりテレビで放映されているカートゥーンをだまってみているだけだった。

物語が、まるっきり答えを出せないまま終わっているのである。せめて作り手ならどちらかの自分なりの思想を提示して欲しいと思うのだが、それがない。なおかつ物語りもどちらに触れても正論のように語られている。
これは『アリーmy Love』シーズン1の最終話に匹敵するやっかいな問題だ。
<肩代わりしてよい不幸>と<それをすべきでない不幸>がこの物語の問題提示であり、それは物質的な便利さではなく心のなかにある、その人がもっているモラルの存在、「理屈ではそうなのだけど、なぜかそれはいかんと思う」という部分に切り込んだ話であった。
『アリーmy Love』のデヴィッド・E・ケリーは、<肩代わりできない不幸は存在する>のほうで答えをだしていたが、本作はほんとに宙ぶらりんのままおわってしまう。

モーガン・フリーマンは言った。
あの母親のもとに返したあとの彼女を想像してみろ。彼女もヤクに溺れ、自分の子供にあたりちらす母親になっているだろう・・と。
一方パトリックはこう反論している。
ボクが恐れるのは、十数年後の彼女に会ったときに、「なんであの時親の元にもどしてくれなかったの? たとえそんな母親であっても」と責められることだ・・と。

私は・・・・ややパトリックの意見に賛成だ。
おそらく、人は不幸に接して、自分を作り上げていくのであって、やっぱりその人の人生はその人が決めていくもので、モーガン・フリーマンの行動は正論に見えるが、人の人生に介入しすぎだと思う。

さすがに原作者もちょっと不完全燃焼だったのだろう。後にこのシリーズの最終話(『ムーンライト・マイル』)としてに12年後のアマンダを登場させているらしい。気になるので先ほどアマゾンで中古を取り寄せてしまった。

f0009381_23564095.jpgあと、この作品、さりげなく撮影監督はジョン・トール『レジェンド・オブ・フォール』『ラストサムライ』『シン・レッド・ライン』の名匠撮影監督である。贅沢な撮影監督さんをつれてきたものだ。

キャスト的にはもうひとつふたつ。自堕落な母親を演じたエイミー・ライアンは各方面でいろいろ賞を獲ったり、ノミネートされたりしているようだ。そしてアマンダ嬢を演じたマデリーン・オブライエン(→)は・・・・かわいい。ゆくゆくどんな女優さんになるのかかなり期待である。

by ssm2438 | 2012-10-24 23:53
2012年 04月 17日

アーティスト(2011) ☆☆☆

f0009381_10592554.jpg原題:THE ARTIST

監督:ミシェル・アザナヴィシウス
脚本:ミシェル・アザナヴィシウス
撮影:ギョーム・シフマン
音楽:ルドヴィック・ブールス

出演:
ジャン・デュジャルダン (ジョージ・ヴァレンティン)
ベレニス・ベジョ (ペピー・ミラー)
ジョン・グッドマン (アル・ジマー)
ジェームズ・クロムウェル (クリフトン)

     ×   ×   ×

きわめてテクニカルな映画だなあ・・・。

2011年のアカデミー作品賞受賞作品である。

無声映画のスタイルを巧みに使った映画。なので、表現は微妙ながら、無声映画とはちと違う。無声映画の場合は、観客はと俳優の声や効果音は聞こえないが、この映画を見ている人は、どこかでそれが入ることを期待してみている。無声映画が無声映画でなくなる瞬間がどう演出されるのかを期待していのである。ゆえに、「無声映画のスタイルをたくみに使った現代の映画」なのである。

<無声映画で語られている映画のあらすじ>
クラーク・ゲーブルふうのジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)は無声映画時代の花形スター。いつもワンちゃんと一緒に映画にでて人気を博していた。公衆の面前でのインタビューのさなか、観客の中にいたペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)は、財布を落とした拍子にうしろからおされて、その場に押し出されてしまい、その場のノリでもりあがり、ヴァレンティンの頬にキスしてしまう。そんなエピソードが世間で話題になてちた。
そんなペピーは役者志望で、ダンサー役の一人として映画のキャストに名を連ねていたが、徐々に人気を博し、ヴァレンティンと共演するまでになる。
一方映画会社のプロデューサー、アル・ジマー(ジョン・グッドマン)は、無声映画をやめ、全ての映画をトーキーに切り替えるという。あくまで無声映画にこだわるヴァレンティンはジマーの映画会社を離れ、独自に映画をつくる。そんな時大恐慌が襲う。映画産業も大打撃をうける。ヴァレンティンの映画を上映する映画館には客あしもまばら、そんな不況のなかでも、ペピーを主演に抜擢して撮られたジマー制作の映画だけは、長蛇の列が出来ている。
破産したヴァレンティンは没落していく。結婚は破綻し、家財はオークションにかけられる。お抱えの運転手だったクリフト(ジェームズ・クロムウェル)にはもう1年も給料をはらえていない。そんな彼に車を譲ることで出て行ってもらった。
自暴自棄になったヴァレンティンは、自室で貯蔵していた自分の映画のフィルミに火をかけてしまう。フィルムはよく燃える。またたくまに部屋中に炎がひろがっていく。
そんなヴァレンティンが助け出された時、1巻のフィルムを抱えていた。
その映画はペピーと初めて共演したときに映画だった。

その映像が流されると・・・・、ついついうるうるきてしまう。
<ニューシネマ・パラアイスの法則>である。

そのあとは、もうすこしばたばたするのだが、最後はハッピーエンドで終わるこの物語。悪くはない。充分泣ける。・・・・ただ、いまひとつのめりこめないものがある。
それはなぜでしょう???というのがこの映画の最大のテーマである。

おそらく、この映画はドラマを見せてる映画ではなく、演出技法をみせてる映画として、心が理解してしまうからだろう。
無声映画というのはあくまで無声映画なのだ。それはドラマを語るスタイルとしてそういうスタイルがとうじとしては最高の表現手段だったのだろう。しかし、あくまでそれはドラマを語るための媒体だった。
この映画に今ひとつのめりこめないのは、ドラマ自体が、無声映画を語るためのネタとして扱われてしまった。どうもそこが、私の心は気に入らないらしい。

以前見た『トラフィック』をいうスティーヴン・ソダーバーグの映画があったが、あれを見たときも似たような印象をもった。
<物語>をみたいと思って映画館にいってるのに、<物語>でなく<テクニック>を見されられた感じなのだ。
一般庶民的にはそんなことどうでもいいのだろうが、ドラマ産業にかかわる人という立場で心の感じ方を分析すると、それは純粋に気持ちのいい感動とはなにか違うもののような気がした・・・。

by ssm2438 | 2012-04-17 11:00
2012年 04月 04日

八つ墓村(1977) ☆☆☆

f0009381_23325810.jpg監督:野村芳太郎
原作:横溝正史
脚本:橋本忍
撮影:川又昂
音楽:芥川也寸志

出演:
萩原健一 (寺田辰弥)
小川真由美 (森美也子)
中野良子 (辰弥の母・鶴子)
山崎努 (多治見要蔵・久弥)
山本陽子 (多治見春代)
市原悦子 (多治見小竹)
山口仁奈子 (多治見小梅)

渥美清 (金田一耕助)

     ×   ×   ×

なんと、基本コンセプトは『エクソシスト』かあっ!??

ウィリアム・フリードキンの撮った『エクソシスト』は、その環境では「悪魔などいるわけがない」という前提の人間社会を描きつつ、実はやっぱりいた!という特殊性を盛り上げる演出をしていた。
一方、横溝正史というのは、一件オカルトちっくな怨念殺人事件なんれど、結局は人間が仕組んだことなんだよってことで終わらせるパターンである。そして味付け程度に、「でもちょっとだけ怨念はやっぱりあったのかも・・」を付け加えられている。ところがこの野村芳太郎が作った『八つ墓村』は、『エクソシスト』の基本概念で作られているのである。前半はリアリティでどんどん押しておいて、最後はちゃぶ台ひっくりかえしの術。落ち武者の怨念ホントにありいいいいいいい!!!というオカルトモノに終わらせてしまった。
前半の描写は描写はそれまでやってた松本清張ものの展開をおもわせるリアリティが構築されているのだけど、後半は一機のオカルト映画、最後は小川真由美が鬼の形相で主人公の辰弥をおいかけまわすという展開。さらにその祖先をたどると、八つ墓村で殺された8人の落ち武者の出身地の出であること、そしてその血縁者だってことまでなっている。さらに、主人公の父親は、当初多治見要蔵と思われていたが、実際は別の男で、その男もやはり出雲の出身だったということオチ。
最初がリアリティで押されただけにその怨念もリアリティをおびてきてしまう。

原作者の横溝正史の作品のなかでは岡山県を舞台にしたものがいくつかある。『本陣殺人事件』 『獄門島』 『八つ墓村』など。これは横溝正史が戦時中の疎開の時に岡山にいたからであり、その土地の風土や習慣などをモチーフに描いているからだろう。
そして本作の32人殺しのエピソードも、実は昭和38年に実際にあった.
この物語も昭和13年(1938年)におきた津山事件を基にしている。実際に起きたのは津山市の外の西加茂村なのだが現在は吸収合併により津山市に所属している。この怒涛の惨殺事件は事件は後に『丑三つの村』で映画化された。田中美佐子のヌードが見たい人は一件の価値在り。

この『八つ墓村』はかなりのアレンジが加えられている。根本的に違うのは、この物語が展開されているのが現代。といってもこの映画が製作された1976年あたりである。金田一耕助の物語というのは戦後数年した昭和が舞台になっている。
物語は、「山の中に逃亡してくる尼子の落ち武者達」のシーンからはじまる。戦いに敗れ、負傷した身体をひきずるように森の中を故郷の出雲を目指し中国山地を上っていく。途中で死んでいくものもいたりすが、8人の落ち武者はなんとか、後に八つ墓村と呼ばれる村を見下ろす丘の上に立つ。
そしてどでええええええんと『八つ墓村』のタイトル。
タイトル明けはいきなり現代の飛行場。田中角栄のロッキード事件で問題になったロッキード・トライスターが着陸してくる。以下は現代の空港の描写。そこで働いているマーシャラーが本作の主人公寺田辰弥(萩原健一)である。
シナリオ意図がすっごく際立っている。前半部は徹底したリアリティ演出で、この物語はリアルな刑事ものなんですよ・・と暗示をかけておいて最後はオカルト・・・。そこにもっていくための徹底したアンチテーゼから出発している。

そう、この物語の金田一耕助は、昭和後期に活躍した探偵さんとなっているのである。

<あらすじ>
羽田空港の発着誘導員の寺田辰弥(萩原健一)は、大阪北浜の諏訪法律事務所で、母・鶴子の父・井上丑松(加藤嘉)に会う。辰弥は岡山と鳥取の県境に旧家多治見家の後継者だと言うのだ。懐かしさに涙をあふれさせる井上丑松だが、その直後痙攣を起こして血を吐いて死ぬ。それが最初の殺人事件だった。
やがて多治見の家から森美也子(小川真由美)が使いのモノとして現れ、辰弥を郷里に誘う。美也子は多治見の分家にあたる森家に嫁したが、夫に死別、いまは関西で手広く事業を経営していた。祖父の井上丑松の葬儀もあり、生まれ故郷にもどった辰弥は、その村が昔「八つ墓村」と呼ばれていたことを知る。

その村には昔、毛利の軍勢に破れて敗走した出雲の尼子義孝(夏八木勲)とその家臣たちが落ち延びてきたという。彼等はその村の近くに住み着き、山をきりひらき、畑をつくり生活を始めた。最初は怖がっていた村の人たちも、その良心的な態度にうちとけていった。
しかし毛利軍は、彼らに報奨金をかけた。村の総代であった多治見庄左衛門は彼らを祭りにまねき、毒草入りの酒を飲ませ彼らを惨殺した。その後毛利家から莫大な山林の権利を与えられ、一躍近郷きっての財産を得て現在の多治見家の基礎を築いた。
しかしある夏の日、庄左衛門は突如発狂し村民7人を斬殺、自ら自分の首を斬り飛ばして自害した。村の人たちは落ち武者の祟りと信じ、野ざらしになっていた落ち武者たち8人を弔い墓をつくったという。それが八つ墓村の語源だった。

村ではさらなる殺人事件が起きる。辰弥の病弱な兄・多治見久弥(山崎努)が毒を盛られて死んだ。一方、辰弥はその久弥にそっくりにミイラを地下の洞窟で発見する。それこそが辰弥の父、多治見要蔵だった。
要蔵は多治見家の当主であり、妻もありながら、当時21才の鶴子を欲した。多治見家の離れに牢を作り、鶴子を監禁、欲望のままに彼女を犯し続けた。やがて辰弥が生まれた。そして1年、鶴子は辰弥をつれて失踪した。その事件が引き金となり要蔵はある夜発狂し、正妻を斬殺、さらに村民31人を日本刀と猟銃で虐殺した。
その後行方不明となっていたいが、その要蔵のミイラがそこにあった。
一度は舞い戻った要蔵を小竹と小梅その洞窟にかくし、やがて毒をもって殺したというのだ。

その後も殺人事件は続く。
辰弥の出生の秘密を知っている小学校の工藤校長が毒殺された。さらに祈祷師の濃茶の尼が毒殺される。
毒物はすべて硝酸ストリキニーネである。やがて小梅が洞窟内で絞殺され、最も嫌疑をかけられていた財産継承者の一人、久野医師も洞窟内で小海と相前後して毒殺されているのが発見される。村人が暴動を起こし辰弥をもとめて暴れまわると、辰弥は洞窟に身を隠す。さらに彼の身を案じて洞窟に入った義理の姉・春代(山本陽子)も真犯人に襲われる。春代は、息を引き取る前に、犯人の指に噛み付いたことを辰弥に告げる。
犯人は森美也子だった。
彼女は多方面にわたり事業を展開していたが多額の借金を背負っていた。総ての遺産継承者がいなくなれば遠縁の森家にその権利がまわってくる。辰弥に真犯人であることを見破られた美也子は鬼の形相になり達也を追う。

この鍾乳洞ないでのおっかけシーンがかなりマヌケ。必要のないシーンの重複や、無理やりのエッチシーンなど、もうすこし物語を整理できなかったものが・・・。最後の一賭けシーンもそとでは金田一耕助が、みなの前で彼が調べた裏事情を暴露しているのだが、これがけっこうのんきに行われているので、同時進行の洞窟内のおっかけが人事のようにみえてしまう。
あそこを真剣に描くなら、洞窟内のおっかけをスローで撮って、事情説明の金田一のセリフをかぶせるだけでよかったのでは? 必要以上にそとのシーンをのんきに撮ってしまったので、盛り上がりにかけてしまった感がいなめない。

この映画の基本コンセプトは「呪い」=ファンタジーなのだ。そのために外堀は徹底的に現実で固められている。森美也子の連続殺人目的はお金なのだ。ちなみに後に制作される市川昆バージョンのそれは愛であった。おそらく、原作の流れを忠実に再現しているのは市川『八つ墓村』のほうだと思われる。
しかし、本作はそのロマンスの部分をばっさり切り捨てた。徹底的に現実的なモチベーションで行われた今回の連続殺人事件。そのトリックを解くのが金田一耕助の仕事かとおもっていたら、どうもこの映画の中での彼の仕事はそうではないようだ。彼がこの映画の中で調べていったのは、森美也子の出生系図であり、寺田辰弥の出生系図だった。
それをさかのぼると、森美也子は、あのときの落ち武者の血を引く娘であり、寺田辰弥の父は、要蔵ではなく、これもまた出雲出身の男だった。この映画では、一件現実的に見えるこの事件も、実は落ち武者の怨念のなせる業だったのかもしれない・・というまとめ方なのである。

金田一耕助がこの映画のなかでといていったのは殺人のトリックではなく、ほんとに家系図だけだったという・・かなり特殊な話である。


あまりにも特筆すべき内容が多すぎるのがこの映画の特徴で、どうしても付け加えたいことがあといくつかある。その一つは・・・・・中野良子が美しい!!!!
映画というのは、その物語のなかで美しい人というのがかならずいるものなのだが、この映画のなかでは中野良子である。この人にときめいたのはNHKの大河ドラマ『国盗り物語』での明智光秀の妻を演じた時。濃姫(松坂慶子)も美しゅうございましたが、中野良子はめちゃめちゃ可憐でした。

あと、この映画のなかで中野良子が、辰弥の本当の父に抱かれたのは鍾乳洞の中の竜のアギドと呼ばれるとこになっているのだが、その場所で辰弥と森美也子が“H”するに至っている。どうもこの展開には無理があったように思われる。違和感を感じたのでちょっと調べてみたら、原作では“H”はしてても相手は森美也子ではなく里村典子ある。実はこの典子は野村『八つ墓村』では省かれてしまった人物で、市川『八つ墓村』のなかでは喜多嶋舞が演じた、里村慎太郎(宅間伸)の妹である。


全体を通して冷静にみると、決して成功してるとはいえないが、かなりチャレンジングな映画である。
怖い映画というジャンルよりも、『異人達の夏』的なファンタジー性の強い映画だ。そのファンタジーな部分を生かすためにリアリティで土台をつくった物語のコンセプトは絶賛に値する。

一見の価値、大いに在り!

ただ、橋本忍の没落はこのころから始まっている。
この映画ののち書いたファンタジックホラー『愛の陽炎』は大いにこけた。

by ssm2438 | 2012-04-04 23:34
2012年 02月 04日

ラルジャン(1983) ☆☆☆

f0009381_14223996.jpg原題:L' ARGENT

監督:ロベール・ブレッソン
原作:L・N・トルストイ
脚本:ロベール・ブレッソン
撮影:エマニュエル・マシュエル
   パスクァリーノ・デ・サンティス

出演:
クリスチャン・パティ (イヴォン)
カロリーヌ・ラング (妻エリーズ)

     ×   ×   ×

コストパフォーマンス最大級の演出映画。

この映画は、当時公開されたときに見逃した映画のひとつで、公開からほとんど30年たとうかという昨日、早稲田松竹で見ることが出来た。当時、「素晴らしい」という人と「つまらない」という人の賛否両論あった映画で、私自身は、玄人好みする映画が好きなので、おそらくみたら面白いと感じるのだろうが、話自体に生産性がなさそうだったパスしたのだ。しかし、長年気にはなっていた作品であり、このたび早稲田松竹さんがロベールブレッソン週間を組んでくれたことで、見ることが出来た。こういう映画館は貴重である!

このロベール・ブレッソンという監督、彼を一言で表現するなら、「演出道を極める修行者」だろう。

撮影監督の中には、人工照明やら、フィルターやら、画面分割やらという小細工をやたら使って画面をつくる人もいるが、可能な限りそういったものはつかわず、自然の色だけで画面をつくろうとする撮影監督さんがいる。『天国の日々』のネストール・アルメンドロスがその人だ。
この映画のロベール・ブレッソンは演出という分野において、同じような方向性で物語とつむいでいく玄人好みの監督さんといって良いだろう。かっこつけるだけの演出など一切しない。才能のない人が多用するクイックTBやクイックTUも一切しない。状況説明のためのPANすらない。BGMもない。変化つけるだけの糞口角レンズや、糞手ブレハンディカメラなども一切使わない。ほとんどがFIX(カメラ固定)の画面であり、ときおり必要におおじてカメラを振っているくらいだ。可能な限りの最低限度の情報提供だけでドラマをつくっていく。
その昔、『抵抗』という映画をとっていた。すこぶるストイックな映画で感情的にならずに淡々とそれぞれのシーンを積み重ねていくだけなのだが、見終わってみるとそのリアリティが、妙にこころに染み込んでいるのである。

FIX画面といえば、小津安二郎を思い出すひともおおいだろう。ブレッソンもFIXが多い監督さんだが、小津ほどカメラをふることを嫌っているわけではなく、必要であれば、役者の動きに合わせてカメラを振っていく。そのあたりは多少柔軟だろう。しかし、基本はFIXであり、小津よりも若干画角が狭いレンズを使っていると思われる。

そして、この映画においては「音」の使い方がすばらしい。この映画においてはBMGが使われていない。BGMがない作品というのは演出する側にはかなりしんどい。それがあれば、「ロッキーのテーマ」でも、「ニューシネマ・パラダイス愛のテーマ」でも、『ゴッドファーザー、愛のテーマ」でも流せておけば、見ている人はそれだけで、気持ちがハイになったり、感動したり、みょうにしんみりしたりするものだが、それがこの映画にはないのである。
ウディ・アレン『インテリア』でもBGMを使わないという意図で作られたが、よほど演出力がない人でないと、一般の観客に、そのまま映画を見続けさせることは困難である。『インテリア』の場合は、ゴードン・ウィリスの画面と、ウディ・アレンのシナリオがものをいって緊張感を保っていたが、本作では、環境音を効果的に扱うことでそれをこなしていた。
それまで物静かだった空間が、ドアをあけると急に外部の騒音が入ってくる。
地下鉄の階段を下りていく男達がみえなくなってもカメラは回りづづけ、遠くで列車の発射音がきこえてくる。
ドアの下だけを撮った画面で、足音がひびき、明かりがちかづいてくる。
・・など、音で想像させる演出が多用されている。演出においての最大のポイントは「見せないで魅せる」ことだと、私が主催する演出講座ではよく言っているだが、そのお手本のような演出である。

話は、トルストイの原作を基にしているようだが、ほとんどブレッソンの焼き回しであろう。物語自体も、一人の主人公に感情移入して描くようなエンタメ映画ではなく、一つの理不尽な出来事が、どんどん理不尽さをうみ、その理不尽さを被った主人公が、社会に対してやり返すという話。まさに拡大する理不尽さのデス・スパイラルである。なので、面白くはない。エンタメ映画ファンは避けて通ったほうがいいだろう。しかし、ドラマ産業にかかわる人がみれば、ついついみてしまう話であろう。

<あらすじ>
パリの高校生が友達に借りた借金を返すために、ある写真屋で偽札を使いお釣りの分だけ利益を獲得した。偽札をつかまされたと後に気づいた店の主人だが、そこに着た燃料配給職員のイヴォン(クリスチャン・パティ)に、代金としてその偽札を渡してしまう。そんなこととは知らないイヴォンは食事をとるためにカフェでその札を出してしまうのだが、そこで偽札と見破られてしまう。そこからイヴォンの人生は地獄へと転がり始める。
先の写真屋さんに行けば、「そんな奴は知らない」と嘘をつかれ、執行猶予付きの有罪。会社はクビになる。じ
銀行強盗に加わり再び逮捕され、3年の宣告で獄に入れられてしまう。外の世界にのこしてきた子供は病気のために死に、妻は新しい人生を始めると、彼から去っていった。絶望したイヴォンは自殺を試みたが、なんとか一命を取り留めた。そのころ、偽札の件で偽証をした当時の店の店員が入所してくる。彼は脱獄を計画してた。「お前はオレに借りがある」と、脱獄計画に参加することを強要。しかしいざその時になると、同室の聖人囚人に説き伏せられ脱獄は中止。しかし、あの男は脱出したようだった。
つねに自分だけが損なくじをひくイヴォン。

刑務所を出たイヴォンは、世の中に復讐を誓い、夜泊ったホテルの主人と妻を殺し金を奪った。町でふと目のあった老婦人の後をつけ、婦人の世話をうけるイヴォン。殺人を告白するイヴォンに驚きの表情一つ見せない婦人。彼女は家族の面倒を一手に引き受け一人で働いている。夜、一家を次々に惨殺したイヴォンは、斧を手に婦人の室に入った。
その後カフェにはいって酒を一杯飲むイヴォン。彼は居あわせた警察官達にホテルの殺人と今までの犯行を自白するのだった。

by ssm2438 | 2012-02-04 14:24
2011年 10月 12日

舞妓 Haaaan!!!(2007) ☆☆☆

f0009381_17471734.jpg監督:水田伸生
脚本:宮藤官九郎
撮影:藤石修
音楽:岩代太郎

出演:
阿部サダヲ (鬼塚公彦)
堤真一 (内藤貴一郎)
柴咲コウ (大沢富士子/駒富士)
小出早織 (駒子)

       *        *        *

高校の修学旅行で京都を訪れ舞子にはまってしまった鬼塚公彦(阿部サダヲ)の夢は、いつか舞子はんと野球拳をすること。そんな公彦に京都支社への転勤の指令が下る。彼はあっさりと同僚の恋人・大沢富士子(柴咲コウ)を捨てて京都入り。「仕事で結果を出せばお茶屋に連れて行ってやる」というい社長・鈴木大海(伊東四朗)の言葉に猛烈に奮起する鬼塚はオリジナルカップ麺を開発し、これが大ヒット、かくして初の舞子遊びが現実する・・。

この映画はダメな人には徹底的にダメだと思う。芝居付けは吉本テイストのどたばたギャグの連打なのでうんざりしてしまう。そういう私もこのての映画とくか、語り口には嫌悪感を感じるほうで、前半はかなり我慢してみてた。ところが、ある程度この世界観になれてくるとなんとか見られるようになり、ついついほろりとさせられるシーンもある。シナリオ構成的にテクニカルな宝庫みたいなお話である。この映画でOKな人はこれでいいが、ダメ人でも勉強になるところはかなりある作品だと思う。おそらく、度を越えたギャグは排除して、『天国から来たチャンピオン』ウォーレン・ベイティのノリとテイストで作ってくれたらハリウッドでも通用するかもって思った。主演は若かりしころのマイケル・J・フォックスだろう(笑)。

とにかく前半部がなかなか入っていけない。舞子にあこがれるという感覚を共有できないので物語が遠いものになっている感じなのだ。それを、「ま、この話の求心力はこういうことなのだから・・」と理解すれば見られるのだが、なかなかそういうった大人になれないものである。
しかし、そこを乗り越えていくとけっこう楽しめる作品であることが判ってくる。

社長につれられて初めてお茶屋デビューを果たした鬼塚だったが、その席で泥酔したプロ野球のスター選手・内藤貴一郎(堤真一)に乱入され、さらにお気に入りになりかけていた駒子(小出早織)という舞子さんのスポンサーになるという。

「駒子のスポンサーにはオレがなる!」と、この時から鬼塚のなかで<内藤越え>というテーマが確立される。鬼塚は、毎日バッティングセンターに通い、手に血豆がくさるほどできるまで打ち込んでいた。そして社長に球団を買うことを進言。社長もこの話を悪いことではないと考え、球団を購入、京都をフランチャイズに球団経営を始めた。このプロジェクトを先導していた鬼塚はあっさり辞表を提出、選手としてフィールドに立った。そして球団は鬼塚の活躍でリーグ制覇に驀進する。

いやはや、この辺の展開はまさに『天国からきたチャンピオン』なのである。それまでこの映画のギャグテイストが嫌だったのだが、この『天国から来たチャンピン』スピリットが展開され始めると一気に見る気になってしまった。ただ、ここでやめといてほしかった。
そのあとは、の本シリーズで内藤と鬼塚の対決が実現するかと言うときに、ひじの故障をもっていた内藤はあっさり引退、芸能界に入って『山猿』なる映画の主演をつとめ大ブレイク。鬼塚も芸能界に転進。しかし内藤は格闘家→有名ラーメン店のオーナー→京都の市長と転々と職を変えていく。内藤にライバル心むき出しの鬼塚だが、さすがに京都の市長選挙にはまけてしまい席を同じくすることが出来ない。

さすがにここまでくると『天国からきたチャンピン』の不屈の闘志ものはギャグと化し、見る気を失いかけるのだが、内藤と駒子、鬼塚と駒富士(実は昔の恋人富士子)との人情劇もあり話にあきさせない。

もう一回観ようとは思わないし、映画スタイルとして好きじゃないけど、面白い作品であった。

by ssm2438 | 2011-10-12 17:47
2011年 08月 01日

チャイナタウン(1974) ☆☆

f0009381_219338.jpg監督:ロマン・ポランスキー
脚本:ロバート・タウン
撮影:ジョン・A・アロンゾ
音楽:ジェリー・ゴールドスミス

出演:
ジャック・ニコルソン (私立探偵ジェイク・ギテス)
フェイ・ダナウェイ (殺されたモーレイの妻、イブリン)
ジョン・ヒューストン (イブリンの父、ノア・クロス)

        *        *        *

ロサンゼルス近郊の砂漠地帯にできるだろうダムを巡り、その後沸騰するであろう土地の利権をめぐるサスペンス。その地域にダムを建設されることをみこして安い土地を買いあさった地元の有力者ノア・クロス(ジョン・ヒューストン)にとって、ダム建設に反対だった建築技師ホリス・モーレイはやっかいな存在。そんなモーレイに不倫疑惑をきせ、自殺にみせかけて殺す。その謎をおっていく私立探偵ジェイク・ギテス(ジャック・ニコルソン)のハードボイルド・サスペンス。

なかなかいい雰囲気なのだが、一言でいうと「ムードだけの映画」。ジョン・A・アロンゾが撮った画面の色調はとてもいい。1930年代を再現した美術もすばらしい。ジェリー・ゴールドスミスの音楽もいい。アクションもいい。ヒロイックな記号的なアクションではなくも見合うだけのようなより本物にちかいアクション。黒澤明『野良犬』の最後の格闘シーンをおもいおこさせるような普通のアクションでありすごく真実味がある。
・・・・・しかし、語り口が下手なのだろうな、話が分らない。登場人物の顔と名前が一致しないまま物語を進めていくので、話がみえないのである。

人間の記憶が成立するのは、一つのことが、別のことと関連した時である。英単語を覚えるにのも、その単語の意味を調べただけで認識されない。その単語を覚えているうちに、別の文章のなかでその単語に出会い、その関連性が一致した時にはじめて「その単語を覚えた!」ということになるのである。
物語を語るのも同じ。一人の登場人物が登場し、そこで名前が判り、後のシーンでも同様にその人が〇〇という人なのだとわかれば、登場人物の顔と名前が認識される。この映画はそれがなされないまま進むのである。映画やドラマを作る側になりたい人、ぜひとも覚えておいてほしいポイントだ。

具体的に言うと、撮られるべきアップが撮られてないというのが問題なのだ!!!

たとえばダム建設技師ホリス・モーレイの顔のアップがない。
浮気調査を依頼されたジェイク・ギテス(ジャック・ニコルソン)がホリス・モーレイの素行調査をおこなっていく。しかし、スクリーンにその人が映っていても、それがホリス・モーレイだと確認・認識できないのである。調査を調べていくと、どうやらそのモーレイらしき人物は、白いブラウスをきた若い女の子と楽しそうな時間をすごしているシーンが出てくるが、ここでもアップ一つが抜かれないので、それがほんとにモーレイなのかどうか認識できない。
あとからネット等であらすじをしらべてみると、それが確かにモーレイであるということで物語りは進行しているが、見ているときはそれが誰かわからないのだ。

同様に一緒いる若い女はキャサリンといい、後にモーレイのホントの妻、イブリン・モーレイ(フェイ・ダナウェイ)の娘(モーレイの立場から言うと妻の連れ子)であることがわかる。しかしこのシーンでもキャサリンのアップがないために、後に登場した時に「それがあのときのモーレイと一緒だった女だ」とは認識しづらいのである。

これらの問題は、浮気調査の依頼をする時に、モーレイの顔写真のアップをひとつ抜いてやれがいいことだし、キャサリンとのボートにのっている時のシーンも、岸から事務所のほかのスタッフが望遠レンズで盗み撮りしてきちんとアップをいれればいいだけのことだ。

ほかにもいっぱいある。
本物のミセス・モーレイの家を訪れるてみると、池の中に何か光るものを発見する。ここでもアップが一つないので、何が、それなのかわからない。
地元の有力者ノア・クロス(ジョン・ヒューストン)とホリス・モーレイが一緒にうつっている写真があるが、ここでもふたりのアップがないために、既にクロスとモーレイが口論しているところを移された写真が登場していたにもかかわらず、それがノア・クロスとモーレイなのか確実に認識できない。
偽のミセス・モーレイはアイダという女性なのだが、この人はのちに殺されて発見される。このときも、殺されたアップがないので、ほんとにあの偽者ミセス・モーレイなのかどうか見ている人に認識されない。

「この人がこの人である」を確立しないまま物語を展開するのが、この映画の最大の欠点だ。おかげでサスペンスとしての謎解きのわくわく感がまったく機能していない。ゆえに見続ける緊張感が失われてしまう。劇場でみないと途中リタイヤする映画。私なんか3回にわけてみてやっと終わりまでたどり着き、そのあとさらにネットでストーリー確認してから、さらにもう一度登場人物の名前を顔を一致させながら見て、やっと事の流れがわかった。
そもそも、サスペンスで「この人がそうなのかなあ~」はサスペンスでは「その人でない可能性がある」を意味する。現に最初にミセス・モーレイは偽者だったのだから。


さらに、肝心なところがあいまいだ。
殺されたホリス・モーレイの妻イブリン・モーレイ(フェイダナウェイ)は、子供の頃父ノア・クロス(ジョン・ヒューストン)に犯されて子供を生んだ。それがキャサリン。その後イブリンはメキシコに家出。追ってきてくれたノア・クロスのパートナーであるホリス・モーレイのやさしさに感化されたのか、彼と結婚したというのが裏の話だが、これが物語りにまったく生かされていない。

表向きは「ダム建設に反対するパートナーだったモーレイが邪魔になり殺した」ということだが、実は「自分が愛して子供までうませた娘イブリンを寝取った男としてモーレイが許せなかった」という意味で殺しただった・・ならドラマとして成立する。
あるいはキャサリンにふってもいいだろう(こちらのほうがいいかもしれない)。「娘の連れ子キャサリンと仲良くなったモーレイに嫉妬したノア・クロス、実は、娘だけでなく孫娘まで手にかけようとしていた。それを守ろうとしたイブリン」・・、このスタンスでまとめるのもいいだろう。

どっちにしろ、ドラマのなかで、その男を殺す動機を二つ提示するなら、一つはダミーでもう一つが本命だったってところをきちんと表現してくれない以上、ドラマとして不完全としかいいようがない。
雰囲気がいいだけに、もったいない映画だ。
私がプロデューサーなら「作り直せ!」と言いたい。

by ssm2438 | 2011-08-01 19:27
2011年 06月 18日

今夜はトーク・ハード(1990) ☆☆

f0009381_852750.jpg監督:アラン・モイル
脚本:アラン・モイル
撮影:ウォルト・ロイド
音楽:クリフ・マルティネス

出演:
クリスチャン・スレイター (マーク)
サマンサ・マシス (ノーラ)

       *        *        *

これって、よくみるとブログの起源のような映画だ。

1990年前後で、ラジオのDJを扱った映画はいくつかある。個人的には、こういう「語り」で見せる話は脚本家の力量をそのまま見せるものになるのでついついフォローしてしまう傾向にあった。この物語はラジオのDJを扱った学園青春物のカテゴリーに入るだろう。主人公は高校生で、よなよな彼の高校の生徒を対象に海賊放送のDJをやっているという話。なので他のDJもとのは違い、物語りはきわめて限定的な地域での話しなのだ。しかしこの時代にはそんな文化ははったしていない。そんなわけで、彼は自室に無線放送のシステムを構築し、学校内で起きたことなどに対して自分の意見や、学校の秘密を暴露していくというもの。
スケールを小さくしたフランク・キャプラの『群衆』ににてるところもあったりする。最後のシーンでは最後の放送中に警察に取り押さえられ、プラグを抜かれて声が届かなくなる。

今の時代でいうなら、匿名でブログを書いているようなものだ。この男の子が主人公でいられたのは、ラジオの放送システムを構築できる技術をもっていることからくる優位性であり、彼だけは匿名という立場で、自分の意見を発信できた。攻撃されない立場からの、無責任は意見発信。きらくなものだ。現在のインターネットの匿名でないと言葉も語れない連中の憧れはこのあたりから始まっているのだろう。
話はそれるが、今のインターネットの書き込みを全部実名登録にしてくれたら、どれだけネットは浄化させるだろとつくづく感じる。
ゆえに、どうも私はこの映画のスタンスをそれほど肯定的に見られないので、台詞勝負の話ではあるがそれほど感動を覚えたというわけではない。

しかし、だからといって面白くないというわけではない。どうしても子供の頃というのは、大人の社会に対し反骨精神を持っていたいとおもうものだ。そしてそれが出来ていると、自分に自身ができたように勘違いも出来る。60年代にはやった学生運動もそんな精神状態からの暴走だったのだろう。それから30年して、大人の社会に反抗する子供のあり方はこのような形に変わったのだ。そしていまは、ブログという文化になり、ソーシャルネットワークとなって発展してきている。この映画も、パーソナルなラジオ放送という形で自己の情報発信するが最後は警察に取り押さえられて終了。しかし、同じような試みをする人たちがアメリカ各地にひろがってき、個人の意見をみんなに広げる欲求の輪がひろがっていくという形で終わる。
ブログをやり始めてみたらおもしろかったのでやり始めた・・みたいなものだ。

なんだか、こんなことを考えて書いてるとおかしくなる。子供の頃、夏休みの宿題で日記をつけるというのがあったが、人には絶対みられたくなかったものだ。それが観られることは自分の恥を全部さらすようなと思えるくらい屈辱的なことだったはずなのに、時代が変わると当たり前のようにみんながブログを書き、自分の日常を世間に提示していくようになっている。誰にも見てもらえない日記ほどつまらないものはない・・ってことなのだろうか。そう、書く以上は誰かに知ってほしいのである。それが自己顕示欲であり、自分の存在価値の提示でもあるからだろう。

<あらすじ>
アリゾナ郊外のハンフリー高校の生徒たちは、夜中の10時からラジオから流れてくる海賊放送を楽しみにしていた。どうもその放送はハンフリー高校の生徒が流しているらしい。彼のトークは、今の生活に納得がいかないが、為す術を持たない生徒たちの気持ちを代弁していた。そして教師の不正を放送で暴露し、学生たちのカリスマ的存在になっていく。
その放送をしているのはマーク・ハンター(クリスチャン・スレイター)。学校の理事の息子で、普段は無口な優等生だが、マイクの前では雄弁になる。その教師の不正をあばけたのも、父の持つ資料を見ることが出来たからだ。
ある日、自殺予告の手紙が配達され、マークは番組の中で彼と電話で話す。しかしジョークで励ますうちに電話は切られ、翌日、英語教師ジャン(エレン・グリーン)は彼が自殺した事を伝えた。彼は電波に乗せた言葉の重さと責任感を感じ始め放送をやめる決意をする。

その後は、彼の熱烈なファンのノーラ(サマンサ・マシス)がついに彼の正体をみつけだし、一緒に協力してくれるようになる。しかし警察も違法放送を取り締まるべく出動、マークとノーランは送信機を車につんで警察と教師たちを翻弄しながら最後の放送をはじめる。

by ssm2438 | 2011-06-18 08:53
2011年 06月 16日

JFK(1991) ☆☆☆☆

f0009381_123817.jpg監督:オリヴァー・ストーン
脚本:オリヴァー・ストーン/ザカリー・スクラー
原案:ジム・キャンベル
撮影:ロバート・リチャードソン
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:ケヴィン・コスナー (ジム・キャンベル検事)

       *        *        *

こいつが犯人だ!と言い切るオリヴァー・ストーンの潔さが素敵。

ケネディ大統領が暗殺されたのは私が生まれた翌年、1963年のことだ。リー・ハーヴィー・オズワルドという男が犯人として逮捕されたが、事件の2日後、移送途中にダラス市警本部の地下通路でジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)に射殺された。ケネディ大統領が頭部を打たれたときの映像をみると、前方から狙撃されたように見えるが、オズワルドがいた場所は、大統領ののった車の後方の建物でだった。
はたして誰が、何の目的で大統領を暗殺し、オズワルドに罪をなすりつけたのか? その後各方面の隠ぺい工作も行われ真実が見えないまま現状に至っているわけだ。
そんな事件をオリヴァー・ストーンが自分なりに解釈し、その思想を世間に提示したのがこの映画だといる。

ケネディ大統領暗殺計画の主犯は誰かという疑問に対して現在2つの説がある。

サム・ジアンカーナを中心としたマフィア主犯説。
サム・ジアンカーナは、ケネディ家と古くから深いつながりを持っており、ケネディの当選の陰の功労者であることが明らかになっている。
だけでなく、暗殺の黒幕の一人とも言われている。しかし、ケネディ政権が弟のロバート・ケネディを中心にしてマフィアに対する壊滅作戦を進めたことを「裏切り」と受け取ったジアンカーナらを中心としたマフィアが、「裏切り」への報復と壊滅作戦の停止を目論んで行ったとするもの

◆軍産複合体の意を受けた政府主犯説
ケネディはその大統領就任中に、ベトナム戦争からの早期撤退を計画したが、急進的なベトナム戦争撤退の方針が産軍複合体の利害と対立して、ケネディ暗殺につながったという一説がある。

この映画ではあ、後者にほう。そしてこの映画のきもちのいいところは、軍事産業にからんでいた実業家のクレー・ショーが主犯であるといいきってしまう気持ちよさであろう。

主人公はニューオリンズ州の地方検事ジム・ギャリソン、当時飛ぶ取り落とす勢いだったケヴィン・コスナーが演じた(まだ髪もあった)。好感度ナンバーワンの俳優を主人公に据えるのも、自分の解釈を世間に受け入れ安くするひとつの重要な手段だったろう。この映画は、この問題に取り組むギャリソン検事と、その家庭事情を描きつつ物語は展開していく。
オリヴァー・ストーンだけにとにかく情報量がおおい脚本になっていて、それが延々3時間ちかくつづく。かなりしんどい。この人も映画はとにかく観客に情報を与えることがすべてて、彼らにそれを浸透させ、理解してもらう時間をなかなか与えない。観ている人の脳を一休みさせたり、しばし高揚感にひたらせるような気持ちの緩みをいれるともうすこし観やすくなるのだが・・・・。
先ごろ公開された『ソーシャルネットワーク』の脚本家、アーロン・ソーキンもこの手の脚本を書く人。政治的知識をベースに脚本を書く人というのは、どうしてもこの手に方向性におちいりやすい。映画作りの手法としてはあまり上手いとはいえないが、それでも怒涛のように与えられる情報はとても見ごたえがあり、見終わった後どどどどどと疲れを感じる。観るのに体力の要る映画である。
個人的には、ありきたりの「アメリカのお父さんはこうあるべき」シーンを削ってもらえるともっとコンパクトにまとまったのではないかとおもった。ま、それをやっちゃうと、この映画はほんとに事件解明物だけになってしまい、個人の意見を押し付けるだけの映画になるのが嫌だったのだろうが、でも、オリヴァー・ストーンの映画ってのはだいたいいつもそうなのだからいまさら・・ってきもした。

<あらすじ>
第35代大統領ジョン・F・ケネディが暗殺され、犯人としてオズワルド(ゲイリー・オールドマン)が逮捕された。しかしそのオズワルドもマフィアの関係者によって移送中に射殺される。ジム・ギャリソン地方検事(ケヴィン・コスナー)は一連の経過に疑問を抱きはじめる。
副大統領だったリンドン・ジョンソンが第36代の大統領となる。その背景で、ケネディがあのまま大統領を続けていれば撤退していたはずのヴェトナム戦争はますます泥沼化していた。ギャリソンは身近なスタッフと共に捜査を開始する。捜査が真相に近づくにつれギャリソンはマスコミの攻撃や政府からの脅しを受け、妻(シシー・スペイセク)や子供たちとの私生活も危機に見舞われる。
やがてギャリソンは、軍の極秘任務によりキューバ侵攻のゲリラ作戦を進めていた元FBI捜査官ガイ・バニスターやデヴィッド・フェリーらが暗殺を図ったことと、首謀者は実業家として知られるクレー・ショー(トミー・リー・ジョーンズ)であることを突き止めた。
この事件は軍やFBIや CIAをも巻き込んだクーデターであることを知らされ、遂にクレー・ショーを暗殺の共謀罪で告訴する。だがクレー・ショーは無罪に終わった。全ての真相が明らかになるには、オズワルドやジャック・ルビーについての非公開の極秘報告書が公表される2039年まで待たなければならない。

by ssm2438 | 2011-06-16 12:02