西澤 晋 の 映画日記

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2011年 05月 05日

小説吉田学校(1983) ☆☆

f0009381_402643.jpg監督:森谷司郎
脚本:長坂秀佳/森谷司郎
撮影:木村大作
音楽:川村栄二

出演:
森繁久彌 (吉田茂)
高橋悦史 (池田勇人)
竹脇無我 (佐藤栄作)
西郷輝彦 (田中角栄)
小沢栄太郎 (松野鶴平)
若山富三郎 (三木武吉)
芦田伸介 (鳩山一郎)
梅宮辰夫 (河野一郎)
角野卓造 (宮沢喜一)

        *        *        *

自由党入党・総裁就任後の吉田茂は、多くの官僚出身者を国会議員に引き立てた。なかでも1949年(昭和24年)の第3次吉田内閣は、側近として大きな位置を占めたのが官僚出身者を中心とする国会議員たちだた。当時の政治家たちは、これらの集団を「吉田学校」と呼んだ。官僚出身者では、大蔵省の池田勇人、運輸省(元鉄道省)の佐藤栄作がその代表的人物である。現在は、事務次官を経て内閣総理大臣に就任するのは不可能に近い。

『小説吉田学校』
は、第1次吉田内閣から鈴木善幸内閣までの保守政界の権力闘争史を描いた長編小説である。最初は雑誌連載で、その後は単行本の形で第7部までが発表され、1981年に角川文庫に収録されるとともに第8部が書き下ろされて完結した。この映画は、その第一を中心に、ワンマン宰相・吉田茂が、池田勇人佐藤栄作ら「吉田学校」の門下生たちを率いて日本の講和独立を果たした後、鳩山一郎ら党人派との熾烈な権力闘争に挑む姿を中心に、第2次吉田内閣から鳩山内閣成立までを描かれている(エピローグとしては池田勇人内閣誕生、そして池田勇人死去まで)。

私の子供の頃の記憶に残っている総理大臣といえば佐藤栄作である。そのまえの池田勇人は私が2歳のときまで総理大臣を勤めていたが、さすがに2歳の少年の記憶はとどまらなかった。この映画ではこの二人が吉田茂の側近として力を発揮し、佐藤栄作の懐刀として田中角栄の存在があった。

個人的は松本清張『迷走地図』のほうが、状況描写で圧迫していく重さがあったと思う。この映画では、あらましだけが描かれた感があり、映画としてはどうにもいただけなかった。森谷司郎の場合はムードで描く傾向にあり、具体性に乏しい。題材が重厚なだけに、もうすこし具体性を間接描写で描ける人に撮ってほしかった。

<あらすじ>
終戦から3年後の昭和23年、また日本はGHQの影響下に措かれていた。民政局次長チャールズ・ケージスは総理大臣には民自党幹事長・山崎猛が望ましいと伝えたが、党総務会における一年生議員・田中角栄の大胆な発言「日本の総理がGHQに決められるのはおかしい。国家の威信にかかわる」などと発言し、10月15日、第二次吉田内閣が成立した。翌年解散総選挙、民自党は圧勝、吉田派は大量の新議員を誕生させる。彼らは『吉田学校』と呼ばれるようになる。
第三次吉田内閣が発足すると、GHQの支配下からまず独立するこをめざし、外務次官太田一郎を中心とするプロジェクトチームを極秘で結成、平和条約草案を作り上げた。続いて、池田勇人、宮沢喜一の渡米が行われ、表向きは、アメリカの財政・経済の視察であったが、講和独立への下打合せが行われた。26年、朝鮮戦争が勃発、アメリカが執拗に日本の再軍備を要求するなか、同年9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日米安全保障条約を結んだ。これにより、はれて日本はGHQの占領かから開放され、独立国として歩みだすことになった。
その後の日本国内は新しい政治局面へ向って動き始め、吉田自身には鳩山・三木との宿命の対決が待っていた。

by ssm2438 | 2011-05-05 04:02 | 木村大作(1939)
2011年 04月 16日

バーバレラ(1967) ☆☆

f0009381_14595162.jpg監督:ロジェ・ヴァディム
脚本:クロード・ブリュレ他
撮影:クロード・ルノワール
音楽:ミシェル・マーニュ/チャールズ・フォックス

出演:ジェーン・フォンダ (バーバレラ)

        *        *        *

まったくのおバカ映画。しかし愛すべきおバカ映画

ひたすらジェーン・フォンダがさわやかに、いやらしく、エロティックに可愛らしい。
話はほとんどみるところないです。セットもださださです。でもジェーン・フォンダだけは素晴らしい。監督は女ったらしのロジェ・ヴァディムブリジット・バルドーカトリーヌ・ドヌーブときて、このころはジェーン・フォンダとつきあってたからこの映画をとったのでしょうが・・、演出的にはかなりダサいとおもう・・・というか、この映画にかぎらずヴァディムの映画は大した映画はない。でも、女にだけは持てる。まあ、ジェーンフォンダを見せる映画なので、ダサくてもいいといえばいいけど・・。

<あらすじ>
女宇宙士のバーバレラ(ジェーン・フォンダ)は、強力な宇宙破壊光線を完成したデュラン・デュランを探しだす使命をおび、リテオン惑星に向った。地下三千フィートに建設された巨大な夜の都市ソゴに行けばデュラン・デュランがいるという。地下の迷路にもぐったバーバレラは、黒い女王(A・バレンバーグ)が支配するソゴの国で犠牲となった盲目の天使パイガー(J・フィリップ・ロー)と出会い、ソゴに運んでもらう。だが二人はあっというまに捕えられてしまった。女王の前につきだされた二人はいたぶられるが革命グループのリーダーであるディルダノ(D・ヘミングス)が二人を救った。デュラン・デュラン(ミロ・オシー)はすでに彼は発狂しており、黒の女王をひきずりおろして自分が王位につくことを計画していた。デュラン・デュランと革命家グループの間に死闘が展開され、共倒れとなって地下都市ソゴは爆破し、潰滅した。
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by ssm2438 | 2011-04-16 15:02
2011年 01月 15日

グレート・ブルー(1988) ☆☆

f0009381_1239428.jpg監督:リュック・ベッソン
脚本:リュック・ベッソン/ロバート・ガーランド
撮影:カルロ・ヴァリーニ
音楽:エリック・セラ
製作顧問:ジャック・マイヨール

出演:
ジャン=マルク・バール (ジャック・マイヨール)
ロザンナ・アークエット (ジョアンナ・ベイカー)
ジャン・レノ (エンゾ・モリナーリ)

       *        *        *

氷の下をアメーバのようにただよる気泡群の描写は名シーンのひとつだと思う。

実在の人物ジャック・マイヨールの自伝をもとに、リュック・ベッソンが映画化、公開当時はあまり人気の出なかった映画だが、一部の根狂的な信者を獲得した映画。その4年後、92年に完全版として『グラン・ブルー』として再び公開、このときにはすこぶる人気がでた。

映像はとても気持ちのいいものなのだが、映画としてはかなり弱い・・というのが正直な感想。残念ながらドラマとしてはあまり見ごたえがある話ではない。
このジャック・マイヨールがやっているフリー・ダイビングというのは、素潜りのこと。アクアラングやなんやかやをつけないでそのまま錘をもって深海に潜っていく。この記録をどんどん塗り替えていくのはこのジャック・マイヨールなのだけど、この才能というのは人間が努力して勝ち取れるものではな。これはもうその人がうまれついてもっている特異体質で、たとえば、フリーダイビング中のマイヨールの脈拍が毎分26回になっていることや赤血球が著しく増加しているなど、通常の人間では考えられないこと。つまり、普通の人が努力しても、この分野においては勝ち目がない相手なのである。

「通常の人がどんなに努力しても勝ち目のない人間」というのは、映画にしてみると見ている人に疎外感をあたえてしまうので、ドラマになりづらい。この映画も、主人公の人間ドラマというようりも、主人公のありかたを多少デフォルメして描いている、自伝的映画で、そこになんとか映画的な要素をとりいれようと、ジャン・レノ扮するエンゾというフリーダイビングのライバル的存在の男と、ロザナ・アークエット扮するジョアンナ・ベイカーをからませている。エンゾに関しては、主人公のジャックが神がかり的にすごいので、どんなにがんばって努力しても勝てない悲哀を感じてしまう。過剰移入は主人公にするのではなく、彼にしてしまうのだ。この二人がきわめて人間なので、申し訳程度にドラマのような雰囲気

そして、このときのロザナ・アークエットは実にいい。この女優さん、『ロングウェイ・ホーム』のころから知っているのだけど、あるいみ変な顔なのだけど、とってもチャーミングなのだ。おまけに胸のけっこうある。大好きな女優さんのひとりだ。

<あらすじ>
保険調査員ジョアンナ・ベイカー(ロザンナ・アークエット)は、氷原で起きた事故調査のため、アンデス山脈にあるローランス博士の研究所を訪ねる。そこでボンベも背負わずに氷の下の深い湖に潜っていくダイバー、ジャックに出会う。彼は潜水中の人間生理を研究する博士に協力してダイビングを繰り返していた。
コート・ダジュールに戻ったジャックは、20年ぶりにエンゾ(ジャン・レノ)と再会、エンゾは10 日後にシチリアで開催されるフリーダイビングの大会に参加するよう告げ、ジャックの前に航空券を置いて去る。一方、アンナはローランス博士からジャックが大会に出場することを聞きつけ、上司を騙しシチリアへと向かう。いよいよ大会が始まり、ジャックは108メートルの潜水を成功させ、世界の頂点に立つ。その夜、ジャックとジョアンナは初めて愛を確かめ合うが、深夜ジョアンナが目を覚ますとジャックの姿はなく、海でイルカと泳いでいた。そんな彼を見てジョアンナはニューヨークに戻ることを決意する。
ジャックへの対抗心に燃えるエンゾは、無謀なダイビングに挑み、命を落としてしまう。その魂にひかれるかのように、ジャックもまた大海原に一人乗りだしていく。彼を愛し、彼の子を宿したジョアンナを残して。やがて、人間の限界を超える深海に達したジャックの目の前に一匹のイルカが現われ、彼を底知れぬ深淵へと連れ去っていくのだった。

※冬のアンデスの湖、氷のしたを進むジャック(↓)
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by SSM2438 | 2011-01-15 12:40
2011年 01月 08日

SF/ボディ・スナッチャー(1978) ☆☆☆

f0009381_14374882.jpg監督:フィリップ・カウフマン
原作:ジャック・フィニイ
脚本:W・D・リクター
撮影:マイケル・チャップマン
音楽:デニー・ザイトリン

出演:
ドナルド・サザーランド (マシュー・ベネル)
ブルック・アダムス (エリザベス・ドリスコル)
レナード・ニモイ (Dr.デヴィッド・キブナー)
ジェフ・ゴールドブラム (ジャック・ベリチェック)

       *        *        *

ラストにもう一発ムンクの叫び
「くうぉぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


侵略SFの古典、ジャック・フィニイ『盗まれた街』の映画化。渋くこわい。この、耐えられそうで耐えられないれないところをついてくる地味さがこの映画の味なのだろう。

最初に映画化されたのは1956年で、『ダーティーハリー』『アルカトラズからの脱出』などで知られるドン・シーゲルが監督した映画。当時はもちろん白黒なのだけど、白黒で描くSFというのには、妙にマッチしていたSFだなあって思った。この映画、色がついてきたりやたらと照明をこりまくったりするとなんかダメになる。
1978年にリメイクされたこの映画だが、こののちも同じ原作から2度映画化されている。ただ、表面的な派手さがホラー感覚度を増してきている印象があるのだが、どうも、あんまりそっちにふってほしくない題材ではあるな。個人的にはこの2回目の映画化のフィリップ・カウフマンのバージョンが一番好きだ。
・・・でも、人面犬は・・・なかなか笑えた。

サンフランシスコを舞台に、宇宙からの侵略者が、一般市民の肉体をジャックしていくとうSFスリラー。とはいっても、『遊星からの物体X』みたいな体を裂いてエイリアンが出てくるぞ、どばああああああああああんっと映画ではない。エイリアンも、肉食のエイリアンというイメージではなく植物性なのだ。エイリアンののっとられた人間たちは、意志を喪失するのだが、どちらかというと蟻とかミツバチのような集団意識隊のなかの一個の固体になるという、社会主義がいくとこまでいくとこうなりますいよ・・みたいな提示。
それまではやたらと感情をだしていた人間がエイリアンに体をスナッチされてしまうとそこにいる個体は個性を失ってきわめておとなしいう、決して感情を出すことはなく(もっとも失っているので出ないのだけど)、怒りなどの衝動的な行動もおこさなくなる。それだけで人類に世界平和をもたらすためにきたエイリアンともいえなくはないが、でも、それだと、進化しない生命になっちゃうよって感じ。

この体をスナッチする方法もまた異様。人々が寝ると、どこからともなくツタような触手が窓からから侵入してきて、体にまきつき、データを収集しているのだろう、家の外にはエンドウマメのような繭があり、そのなかで同じ姿をした、でも感情をもたない別の個体が作られていく。コピーがおわると、もとの肉体はしなびてこの世から消え去る。でも、次の日、同じようにその人は行動するのだけど、感情がなくなっている。でも、具体的にどこかが変というだけでなので最初は何が起きているのかわからない。しかしそうしているうちに、人々が寝て間にどんどんどんどん、体がスナッチされていき、最終的には町全体の人間がスナッチされた固体の集合体になってしまう。
この血みどろ感のないところがこの映画のツボなのです。

さらに、この「眠たいのに寝られない」という、アニメーターの宿命を一般人にわからせるにもいい映画でしょう(苦笑)。

<あらすじ>
サンフランシスコ。その町では、ある時から感情を表にださない人間がさりげなく増えていく。
州公衆衛生調査官であるエリザベス(ブルック・アダムス)の恋人もその一例だった。それを同僚のマシュー(ドナルド・サザーランド)相談するが、反対に精神科医につれていかれるしまつ。しかしマシューも、行きつけのクリーニング店の主人から妻が別人のようになったと訴えられ、ことの異常さを理解し始める。ある日、美容風呂を経営しているジャック(ジェフ・ゴールドブラム)の店で不思議な物体が発見された。駆けつけたマシューがみたものは、異様なマユ状物質の中の胎児のような粘着性をもつ、ジャックの顔をした死体"であった。マシューはエリザベスに電話するが、何か様子がおかしい。駆けつけると、彼女の家でも、睡眠中のエリザベスの間隙を衝いて、彼女になり変わろうとするエリザベスの未完成体をつつんだ繭が発見された。
知らないうちに街のほとんどの人は見えないエイリアンの体をすりかえられていた。その中で生きていくには、感情をださずに生活することだ。今、信用できるのはマシューとエリザベス、ジャックとその妻だけだ。それでも眠らないわけにはいかないので、その時はだれかが起きていて、怪しいツタがよってこないかみはるしかない。それでも、徐々に体力が蝕まれていく。感情なき個体群はそんな4人をおいつめていく。

未来がないとわかっていても、やっぱり人間でいたいと思ってしまう人間の性。<無駄なあがき映画>の傑作のひとつだと思う。それも静かなる侵略というコンセプトがよい。

・・・しかし物語には関係ないが、怪しいのは実は主人公たち男優陣で、およそ感情がありそうにないドナルド・サザーランド、まだハエになっていないジェフ・ゴールドブラム、耳がとんがってないレナード・ニモイ。この3人って素で宇宙人にみえるのだけど、この3人が人間やってるってことがなんだか不思議なキャスティング。こいつらをみたら、宇宙人だって「すでに体をのっとられているにちがいない」と勘違いしても仕方がない。だから選ばれたのだろうか・・・。

by SSM2438 | 2011-01-08 14:40
2010年 12月 08日

川のほとりのおもしろ荘(1979) ☆☆☆

f0009381_22443024.jpg監督:ゴーラン・グラフマン
原作:アストリッド・リンドグレーン
脚本:アストリッド・リンドグレーン
撮影:ヨルゲン・ペルソン

出演:
ヨンナ・リリエンダール (マディケン)
モニカ・ノルドクヴィスト (マディケンの母)

       *        *        *

どこをきっても宮崎駿金太郎飴。

『濡れた唇』モニカ・ノルドクヴィストがお母さんになって帰ってきた!
しかし、『濡れた唇』の時にすでに27歳、それから12年たっているのでもうかなり老けて見えてしまった。当時は若かったからか、そんなにベッピンさんではないのだけど、あの妖艶さに惚れてしまいました。さすがにこの映画のときは39歳・・・、うむむ、ちょっと辛かったかな。数字よりも老けて見えてしまった。
39歳といえば、『帰郷』の時のジェーン・フォンダそのくらいだったかな。まだまだ女としていける年だとは思うのですが、本作のなかではすっかりお母さんになってしまってたのがちと残念。

内容的には「ディス・イズ・ザ・宮崎駿」のような映画。どこをきっても宮崎駿金太郎飴。それが実写だというだけ。子供達の感情表現やら意地のはりかたやら、まったくもって宮崎テイスト。宮崎駿のルーツをみたおもいがしました。きっと宮崎さんはこの原作者のアストリッド・リンドグレーンの話をしこたま読んでしってたんでしょうね。
ちなみにアストリッド・リンドグレーンは、『長靴下のぴっぴシリーズ』とか『ロッタちゃんシリーズ』とか、ラッセ・ハルストレムが監督した『やかまし村の子どもたち』などの原作者。ちなみにこの『やかまし村の子供たち』はこの『川のほとりのおもしろ荘』の続編にあたり、主人公もこの物語のマディケンだとか。

しかし・・・、スウェーデン映画というのは、いいですね。映像レベルは極めて高く、洗練されている。なおかつ世界観が実におおからで、セックスに関してすっごく寛容なお国柄だなあって思う。
この映画でも始まってすぐ、いきなり主人公とその妹の全開ヌード。ぎょおおおおおおおお!!! こんなの日本でやったらアグネス・チャン怒鳴り込んできますよ(苦笑)。でも、まったくいやらしさはなく、朝おきて着替えるシーンなのだけど、寝衣を脱いだらそのしたはスッポンポン。そんなの平気でふたりして着替えてるところをのままうつしてる。胸もないけど、股間の毛もない。それも全然モザイク無しだからいやらしくもない。これはもうスウェーデンという国のある種の性的なおおらかさですね。そのあとも、幼女4人であたまについたシラミを駆除してもらうときに、これまたスッポンポンで水浴び。ロリーファンにはたまらん映画かもしれないですね(まったくいやらしさはないけど)。しかし、こういう健全な映画はいつまでもこのままにしておいでほしいものです。

あと、隣の家のマディケンが好きな男の子のお父さんが仕事もしないのんべえ。この描写も「ゆりかごから墓場まで」というスウェーデンの極端化福祉国家ならでは描写でしょう。しかし、この国というのは、ある種独特の文化の発展をしている国ですよね。

<あらすじ>
マディケン(ヨンナ・リリエンダール)とリサベットの姉妹は、新聞記者のお父さんと優しいお母さん(モニカ・ノルドクヴィスト)、そしてメイドのアルバと一緒におもしろ荘と呼ばれる家すんでい隣にはマディケンの好きなお男の子アッベの家族が住んでいてる。そんなアッベに新しく勝ってもらった赤い靴をみてもらいたくて、祭りにその靴をはいていくマディケン。しかし学校でいつもマディケンに敵対心をもやすミーアに難癖をつけられ片方のくつをぽいって投げられてしまう。
「どろんこにするから、新しい靴ははいてっちゃいけません」ってお母さんにいわれてたのに、アッベにみせたくて履いていってしまい、その結果が片方の靴をミーアに捨てられてなくしてしまうとい・・実に子供心のポイントをついたエピソードだなあって思った。

f0009381_22414257.jpgそんなミーアは学校でも意地っ張り。決して謝ることが出来ない彼女がじつに素敵。そんなミーアと意地をはりっこしてしまい、勇気があるなら校舎の屋根を上を歩みせろってことになる。しかし、これが心臓に怪我は得ているマディケンは、やってしまう。づづいてミーア。しかしミーアは怖さにまけて断念。
降りてきたミーアが「き今日はお腹がすいててめまいがしただけよ。今度なら出来るわ」といって去ってくあたりが実に素敵なミーア!!

子供のころの完成が実に丁寧におりこまれていて、ああ、そうだそうだ、子供ってこんな感覚だって思えてしまう。ミーアとの意地の張りっこで、学校の屋根の上を歩マディケンのガツンな望遠が実に印象的だった。

マディケン萌えの男って世界中にいるんだろうなあ・・(笑)

by ssm2438 | 2010-12-08 22:45
2010年 11月 21日

フルメタル・ジャケット(1987) ☆☆☆

f0009381_9494041.jpg監督:スタンリー・キューブリック
脚本:スタンリー・キューブリック
    マイケル・ハー
    グスタフ・ハスフォード
撮影:ダグラス・ミルサム
音楽:アビゲイル・ミード

出演:
マシュー・モディー (ジョーカー)
ヴィンセント・ドノフリオ (パイル)
R・リー・アーメイ (ハートマン軍曹)

       *        *        *

相変わらず、一本の映画を作るのはド下手なキューブリックだが・・

スタンリー・キューブリックの中では意外と一番好きかもしれない。
キューブリックという監督さんは、1シーン1シーン、1カット1カットでは変質的なまでに猛烈なこだわりをみせるのだが、総合的にそれをまとめるという点においては全く疎い不思議な性格。嫌いではないし、実にスゴイと思うが、上手いとはまったく思えない監督さんである(苦笑)。そんなわけで、この人の作品は映画として一つのストーリーを愉しむことはほとんど出来ないのだが、その変質的なこだわりに重点をおいて見るしかなくなってしまう・・・。
この映画も、なんでそうなったのかよく分からないのだけど2部構成。前半の<訓練キャンプ時代>と後半の<戦場>はまったく別の映画といっていい。


前半<訓練キャンプ時代> ☆☆☆☆

ヴェトナム戦争に出て行く兵士を鍛える海兵隊新兵訓練基地。ジョーカー(マシュー・モディン)はデブでのろまのパイル(ヴィンセント・ドノフリオ)たち新兵は、訓練教官ハートマン(リー・アーメイ)から罵声を浴びせられながら8週間にわたる厳しい訓示を受ける。

f0009381_9442537.jpgひとりのミスが部隊全体を危機に陥れる可能性のある戦場をかんがみ、規律違反をしたものの罰は他のメンバーが受けるように指導する教育システム。何をやらせても不器用なデブのパイルは常に教官からも部隊の仲間からも常に非難の的になり次第に精神を圧迫されていく。時間にドーナツを食べたことが発覚したパイルのおかげで他の訓練兵たちは腕立て伏せの懲罰、そのなかで、パイルだけはドーナツを食べることを命じられる。怒りが頂点にたっし仲間たちは、その夜パイルをリンチにかけてしまう。

この逃れようのない精神的な追い詰めかたが実にキューブリックらしい。ぼこぼこにされたパイルは次の日どんな顔をして訓練参加すればよかったのか・・・、その羞恥心と劣等感は恐ろしいものだっただろう。

そんなパイルだが射撃の腕だけは軍を抜いていた。自分のライフルに女性の名前をつけてこよなく愛するパイルにはジョーカーもぞっとするものを覚えるようになる。遂に卒業前夜にトイレで狂気にとりつかれたパイルは、自分を散々いじめまくってきた教官のハートマンを撃ち殺し、自らも銃をくわえて絶命する。

ここでの撃たれる教官のハートマンも実にみていて辛い。多分本人もこれは撃たれるだろうな・・てことは予測していたと思うが、それで教官としてリンとした態度を護り続けている。個人的にはこのときの教官に一番感情移入してしまい、ここは見ていてとても恐ろしかった。


後半<戦場> ☆☆

1968年1月。ジョーカー(マシュー・モディン)は成績優秀だったため、後方のダナン基地において報道隊員として比較的のんびりとした生活を送っていた。そんな彼も戦場カメラマのお供で最前線に同行することになる。廃墟と化したフエ市。偵察中、対面の廃ビルにひそむ凄腕の敵の狙撃兵に一人が狙撃される。
ここからの狙撃兵との戦闘がまた陰湿でいい。

その狙撃兵は、負傷した兵士に致命傷を与えないように手足を狙撃しさらにいたぶる。たまらず救出に飛び出してきた兵士を狙撃する。この人間性の痛いところをついていたぶる狙撃兵が実に冷血でよい。そしてたった一人の狙撃兵に、部隊の半数以上を殺されてしまう。
決死の復讐を誓った生き残ったジョーカーたちは、狙撃兵のいるビルになんとか侵入、狙撃兵を撃って瀕死の重傷をおわせるがまだ年端もいかぬ少女兵であることを知って呆然とする。


勝手な推測だが、本来導入部であるはずの<訓練キャンプ時代>を入れ込んでしまって猛烈なシーンになってしまったのだが、そのシーンに愛着ガ在りすぎて切るに切れなく(きらなくて良かったけど)、もうこのままいっちゃえと、そのバランスが悪いまま行ってしまった感じ。
後半部はべトナムにいってからの主人公、マシューモディンのみたエピソード。またこれもバランスが悪い。ほとんどの見せ場はベトナム少女による狙撃兵との戦いのところだが、ここだけがクローズアップされすぎてて、他のところが映画として機能してないのである(苦笑)。

世間では、「人を狂気に導く戦争を描いた反戦映画」というように評する人もいるが、きっとキューブリックに反戦思想などはまったくないのだろう。そんな表面的な小奇麗さをキューブリックが発言したいとは到底思えない(苦笑)。この人はただ、狂気していく人を描くことがひたすら好きなだけなのだ・・・。
良くも悪くも愛すべき気狂い監督である。

by ssm2438 | 2010-11-21 09:45 | S・キューブリック(1928)
2010年 11月 21日

博士の異常な愛情(1964) ☆

f0009381_6465642.jpg監督:スタンリー・キューブリック
脚本:スタンリー・キューブリック/ピーター・ジョージ
    テリー・サザーン
撮影:ギルバート・テイラー
音楽:ローリー・ジョンソン

出演:ピーター・セラーズ
(マンドレイク/マフリー大統領/Dr.ストレンジラブ)

       *        *        *

ブラックユーモアの映画に名作無し!

世間で「これがいい」って言う人は、ほんとにそう思ってるのだろうか???
個人的にはほとんど笑えるところはなかった。

観るべきモノといえば、B52の描写と円卓の作戦司令室のビジュアルと、最後の核爆弾の連続爆裂シーンだけ。その資料映像にしかならない。スタンリー・キューブリックが監督なだけにこだわりのある映像にはなっていて、そんなこの人の<こだわり力>は大好きなのだが・・・、うむむむむ、駄目だった。
タルコフスキー・アンゲロプロス症候群を引き起こしやすい映画のひとつである。

ジョージ・C・スコット・・・、この人はこんな役がいいね。パットン将軍とかさ。『ハードコアの夜』のあのとーちゃんはどうも違和感があった・・・。

<あらすじ>
精神に異常をきした司令官が突然「R作戦」を発令する。対ソ連の緊急かつ最高の報復作戦である。基地は完全に封鎖され、厳戒態勢がとられた。また哨戒飛行機の全機も通信回路が遮断され、基地からの指令だけしか受けられない。50メガトンの水爆を搭載、直ちにソ連内の第1目標に機首を向けた。

f0009381_6473280.jpg国防省の最高作戦室では、大統領(ピーター・セラーズ)を中心に軍部首脳と政府高官が事態の処理をめぐって激論を交わしていた。議長のタージッドソン将軍(ジョージ・C・スコット)は時間の緊迫を訴え、編隊の呼戻しが不可能な以上、全力をあげソ連に先制攻撃をかける以外道のないことを説いた。
大統領はソ連大使に事態を説明、撃墜を要請した。しかしあらゆる困難をきりぬけ、キング・コング少佐(スリム・ピケンズ)は核ミサイルにまたがり、たったかたああああああっとモスクワに向かって飛び立っていくのだった。地球上のあらゆる場所を核爆発の閃光が彩っていった…。

by ssm2438 | 2010-11-21 06:49 | S・キューブリック(1928)
2010年 11月 12日

男と女(1966) ☆☆☆☆

f0009381_21342875.jpg監督:クロード・ルルーシュ
脚本:ピエール・ユイッテルヘーベン/クロード・ルルーシュ
撮影:クロード・ルルーシュ/パトリス・プージェ
音楽:フランシス・レイ

出演:
アヌーク・エーメ (アンヌ)
ジャン=ルイ・トランティニャン (ジャン・ルイ)

       *        *        *

この映画、男と女の業を語るような映画ではない。

見る前は(もう20年以上も昔のことだが)、すっごくロマンチックな映画だろうって思ってたら、意外やかなりリアリティのありそうな、子持ちの片親同士の恋愛模様の映画だった・・。

しかし、映画のなかでは、リアリティのありそうな話をサラリと流してしまう。物語と物語の語り口のバランスの悪さを、いったん頭の中で解体し、そのうえで並べなおし、それをお洒落に撮っているというかなり変な映画である。ストーリーの本質などはどうでもよく、そこを追求しないで、全体としてムードに浸る映画べき映画としてつくられている。 宇多田ヒカルの音楽みたいなものです。歌詞はあるのだろうがさほどどうでもよくって、その全体の雰囲気をなんとなくさらりと耳のなかにながしこむような・・あの感じ。

この映画の一番印象にのこるのはなんといってもフランシス・レイのあの『男と女のテーマ』だろう。ただ、この曲がこのドラマの世界観にあっているのだろうか・・?と考えるとちょっと違うような気がする。ドラマ性と音楽との不一致なのである。

考えてみればタイトルも不可思議だ。男と女というよりは、お父さんとお母さんなのだ。離婚したわけではない片親同士のふたり。男はレーサーで、嘗て事故を起こした時、ショックを受けて妻は自殺した。女も夫もなくしているが、いまだに彼を想っている。ドラマは、冒頭にも書いたのだが、夫と死に別れ、働きながら子持を育てているアヌーク・エーメと、同じく妻に先立たれた子持ちジャン=ルイ・トランティニャンが、お互いの子供の存在を交えながら、大人の恋愛をしていくという話。ただ、子供という存在があるがゆえに、彼等がドラマのなかで求める相手は「現実」をシェアできる相手であること。さらに、男はレーサー、女は一般人である。おかげでロマンスなんてものはどこかにとんでいきそうなかみ合いの悪さ。
さらに、映像もでたらめに白黒画面がはいってくる。望遠と広角が入り混じる。そこに特に法則性こうちくしようとはしていいな。見る前はかなり不安を抱いていたが、見てみるとそれほど邪魔くさくはなかった。

ラリーのあと、アヌーク・エーメと二人の子供のもとに車を走らすジャン=ルイ・トランティニャン。そして桟橋のシーン。3人をみつけたのだろう、桟橋を車を走らせるシーンから、浜辺で遊ぶ3人を手前にかなりのボケをかまし、その後方にのりつけるジャン=ルイ・トランティニャン。この望遠のカットはすばらしい!
そのあとライトをパッシングさせるところは広角で、また、そのライトの点滅に気づいてジャン=ルイ・トランティニャンのもとに駆け出す3人は望遠である。このアンバランスさが、不思議なほど悪くない。

この映画はコラージュなのである。物語の断片や、不規則な撮り方を、ぺたぺたぺたと一つの敷紙にはりつけ、その上からフランシス・レイの音楽でオブラートで包む。本来愛称の割りそうな断面も、フランシス・レイの音楽が暖衝剤になっていて、さりげなくまろやかにつながってしまう。ストーリーを追うような話ではなく(一応あるのだが)、雰囲気を味わう映画だ。

<あらすじ>
ある日曜日、寄宿舎にあずけてある娘の面会でつい長居してしまい、職場であるパリにもどる列車をのがしてしまったアンヌ(アヌーク・エーメ)。そんなアンヌに声をかけたのはジャン・ルイ(ジャン・ルイ・トランティニャン)だった。彼も息子を訪ねた帰りだった。アンヌはジャンのいうとおり、パリに向かう車に同乗させてもらう。
アンヌの面影を忘れられなかったジャンは、「次の日曜も自分の車でドービルへいかないか」と電話をかけた。アンヌとジャン・ルイ、そしてそれぞれの子供たらの四人は和やかな時間を過ごした。
レースを終えたとき、ジャン・ルイはアンヌからの電報を受けとった。それには「愛してます」と書いてあった。彼はすぐに車を駆ってパリへ、そしてドービルへ。その夜は安宿のベッドに裸身をうずめた。だがアンヌは死んだ夫の幻影を思い出す。二人は黙々と着物を着た。アンヌは汽車で、ジャン・ルイは自動車でパリへ向った。しかしアンヌを忘られぬ彼は車で彼女の列車を追った。駅のホームに降りたアンヌはジャン・ルイを見つけ二人は口づけを交わした。

by ssm2438 | 2010-11-12 20:25
2010年 11月 08日

思春の森(1977) ☆☆

f0009381_22201264.jpg監督:ピエル・ジュゼッペ・ムルジア
脚本:ピエル・ジュゼッペ・ムルジア
撮影:ローサー・エリアス・スティッケルブル
ックス
音楽:ピッポ・カルーソ

出演:
ララ・ウェンデル (ラウラ)
エヴァ・イオネスコ (ファブリツィオ)
マルタン・ローブ (シルヴィア)

       *        *        *

思っていたより全然良い・・・。

この映画が公開された当時映画少年だった私は『スクリーン』という映画雑誌を毎月買っていて、双葉十三郎さんの「ボクの採点表」というコラムが大好きだった。☆=20点、★=5点で、映画の評価をしつつ、双葉さんがコメントをかいていたのだが、ほとんどの映画は☆☆☆(60点)以上で、たまにそれを下回るものもあったが、せいぜい☆☆★★★=55点くらいのもだった。そのなかでこの映画は☆☆=40点という見たこともない最低の点がついていた(苦笑)。
実際みてみると・・・、そんなでもない。人間性を分かっている上で作られて映画だなあと正直関心する部分や、どき!っとするような残虐性を発揮するシーンもあり、決してそれほど悪くない。子供の持つ残虐性を描いた映画なら最近の『隣の家の少女』のほうが突き抜けてしまっていっている感があり、かなりみてて不愉快。『隣の家の少女』では、14歳の少女を地下室に監禁して縛り上げ、裸にして、殺人暴行~殺人まで言ってしまっている。こちらは子供の遊びに親が出てきて、その親が指揮って少女メグをいたぶり倒していてるのだが、それにくらべたらこちらままだ子供の遊びの範囲にとどまっている。この子供の遊びの範囲で残虐性ってのが表現されているのでいいのだろうなあって思った。

児童ポルノということで世間がやたらと敏感になっているが、少なくともララ・ウェンデル(ラウラ)とエヴァ・イオネスコ(ファブリツィオ)に関してはかなり年が上だと思う。
ウィキペディアでララ・ウェンデルの生年月日をチェックすると、1965年3月29日生まれとなっている。この映画が公開されたのは77年だが制作されたのは76年。もしこの数字が正しいとしたら、当時11歳ということになる(苦笑)。ありえない。画面から見た印象ではどうみても15歳前後に見える。男の子もそのくらいか、ちょっと上か・・。ただ、シルヴィアを演じたエヴァ・イオネスコのデータは1965年7月18日生まれであり、これは本当かもしれない。

エヴァ・イオネスコは、女流写真家のイリナ・イオネスコの娘であり、5歳の頃から母親の撮影する写真のモデルをつとめたという。1977年にイリナ・イオネスコの写真集「鏡の神殿」(Temple aux miroirs)が出版された事により、ヨーロッパを代表するロリータ・スターになった。ほとんどお父ちゃんのヌードモデルを務める『エスパー魔美』状態だったのだろう。

ただ・・、エヴァ・イオネスコの裸のシーンはあるり、彼女のロリータヌードを売り出すというプロモーションとしては一役かった映画ではあるが、内容的にはさほど重要ではない。やはりこの映画のポイントは子供のもつ残虐性なのだ。そしてその残虐性をも「遊戯」として取り込んでしまえる子供の感性の柔軟さというか、プライドの未成熟さ。それがこの映画の魅力だろう。

<あらすじ>
少女ラウラ(ララ・ウェンデル)は家族とともに、夏になると避暑地としてその山の別荘を訪れていた。そしてその村で知り合った少年ファブリツィオ(エヴァ・イオネスコ)と山で遊んでいた。そんな二人も成長して性への感心を持つ年頃になった。そんな夏のお話。

夏の間だけそこを訪れるラウラにとって森は未知の世界(アウェイ)だが、ファブリツィオにとっては庭(ホーム)なのだ。そしてラウラはファブリツィオにかまってもらいたいという欲求がある。精神的にファブリツィオが強者なのである。森の中でかくれんぼをして、そのままいなくなったりして、ラウラを不安がらせ愉しんでいる。そんなイジメにあってもラウラはやっぱりファブリツィオにに触ってもらいたい、キスしてもらいたい、相手してもらいたいという願望をつねにもっている。そして“H”もしてしまう。
ただ、自分のことを想ってはくれるが、突き抜けてくれないラウラにストレスを感じるファブリツィオは、別の別荘に滞在する金髪の少女シルヴィア(イリナ・イオネスコ)に惹かれていく。彼女はファブリツィオの想いのとおり突き抜けてくれるのだ。かまってほしいラウラは、二人の付き人的立場を受け入れ。

これが、子供の世界というものなのか・・・、彼女はそれをままごとのように受け入れられるのである。

二人は弓矢で鳥を射て遊ぶ。絶えられないラウラはその場から立ち去ろうとするが、今度はラウラを獲物として追ってくる二人。彼女の足元や、倒れた彼女の股間に向けて矢を射る。間違って彼女にささったらどうするんだ??って思ってしまう。「あそび」といえどもほとんど死と隣り合わせの遊びなので観ている私としては怖くてたまらない。それを子供のあそびだとして、どこか許しているラウラという少女はあまりにも健気で愛らしいのである。
その後の二人のまえで放尿を強要されるラウラ。でも、あそびという範囲でそれを受け入れてしまう。かくれんぼをして、鬼になったラウラが二人を探していると、ファブリツィオとシルヴィアはセックスをしている。「あら、みつかっちゃったわね、あなたはそこでみてなさい」と二人はセックスをするのを、そばで見せ付ける。そんなこんなも全部遊戯としてうけいれるラウラなのである。

最終的には、夏が終わると帰っていくしかないシルヴィアだが、彼女を返したくないとおもいはじめたファブリツィオは、そんな彼女を山奥の移籍跡に連れて行く。帰りたいのに帰れないシルヴィアはそれまで傲慢な態度は何処へやら、不安に泣け叫ぶ女の子になり、ラウラがそれをよしよしよしよしってして上げる。それで『かえる、かえる」ともうるさいシルヴィアを最後はファブリツィオがプスってナイフで刺し殺してしまう。

そんなファブリツィオに「一緒に帰りましょう」とやさしく言うラウラ。でも残るというファブリツィオ。


・・・・ドラマとしては決して悪くない。低予算ならがら、コンセプトはかなりきちんとしてる映画の部類だ。すっごく良いわけではないが、ぼろくそに言うほどの作品では決してない。

by ssm2438 | 2010-11-08 22:23
2010年 10月 22日

悪魔の赤ちゃん(1974) ☆☆☆

f0009381_1071676.jpg監督:ラリー・コーエン
脚本:ラリー・コーエン
撮影:フェントン・ハミルトン
音楽:バーナード・ハーマン

出演:
ジョン・P・ライアン (フランク・デイヴィス)
シャロン・ファレル (レノール・デイヴィス)
ジェームズ・ディクソン (パーキンス警部補)

       *        *        *

ホラー映画も禁断の聖域をおかしてしまったか・・・。

いろいろモンスターになりました。昆虫や動物、人間も・・でも、赤ちゃんだけはならないはずなのだけど、それをやってしまうのが異能脚本家、ラリー・コーエン
平凡な夫婦の間にうまれた赤ちゃんが、なんとモンスターだった!! なぜ? なぜでしょう? とにかく殺戮を繰り返しながら帰巣本能で親元をめざす赤ちゃん。そしていよいよ親と再会。こんなモンスターになっても俺の子供なのか・・とどう感情をせいりしていいのかわからない父親。この感情のせめぎ合いが、この映画をB級の名作にのしあげてる(でも、所詮B級だけど・・はは)。

今回は監督もやってます。ラリー・コーエンはB級映画の脚本をかいているころが多いのだけど、私にいわせればB級映画の正しい作り方をする人。はやりものに手を出してちゃらって作るのではなく、予算のない中(B級の宿命)、ありえないシチュエーションを見ている人に納得させるように作っていく。そのなかで、どこかしら感情に訴えるものを注入している。キワモノの一生懸命きちんと作ろうという精神に満ち溢れている人。好きなクリエイターの人ですね。
この『悪魔の赤ちゃん』はこのあと続編が2作つくられることになるのだが、ラリー・コーエンの代表作のひとつでしょう。でも個人的には『殺しのベストセラー』がお勧め。

ラリー・コーエンの映画って愛があるんだよな。『殺しのベストセラー』もそうだったけど、ありえないところに愛を描く、この『悪魔の赤ちゃん』においても、なぜそんな赤ちゃんとして生まれてきたのかは不明だが、殺人モンスターの赤ちゃんだが、自分の子でもある。まず、最初は母親がそのモンスター赤ちゃんを愛で受け入れ、
息子(赤ちゃんにとっては兄貴)も、赤ちゃんは襲おうとはしない。しかし撃ってしまう父親。逃げ延びた赤ちゃんをおってやっと見つける父親だが、もう撃てない。ここでは自分の息子だという概念が勝ってしまい助けようとする。
社会のなかではどんなに忌むべき存在でも、自分個人としてみれば自分の息子である。世間体常識から個人的感情へ思考の根幹が移行する描写がいいんだ。こんな話を考え付くラリー・コーエンはやはりキチガイである。

<あらすじ>
ロサンゼルスに住む、中流階級の平凡な夫婦フランク(ジョン・ライアン)とレノール(シャロン・ファレル)には11歳の息子クリスがいた。そして2人目の子供が生まれようとしてた。レノールは分娩室に運び込まれフランクは待合室で待っていた。そして子供が生まれた。その赤ちゃんは恐ろしい形相の生物であり、お産に立ち合った医師、インターン、看護婦らを惨殺し、分娩室から姿を消した。警察は当初、この事件が生まれたばかりの赤ちゃんの仕業とは信じることができなかった。しかしその日から、身体を引き裂かれるという惨殺事件が次々と起こると、非常警戒包囲網をしいた。
一方、レノールは産後自宅にもどり、息子のクリスはフランクの友人チャーリーの家にあずけられていた。妻の身を案じたフランクは、会社に長期休暇届けを提出すると家もどると、その日のレノールはショックが癒えたのかなんとなく幸せそうだった。不審に思ってレノールを問いつめると、赤ちゃんが帰ってきたことを告白する。
その頃、クリスは両親に会いたい一心でチャーリーの眼を盗んで家に戻ってきていた。そして地下室で恐ろしい形相の弟と対面する。不思議と赤ちゃんは襲いかかる気配はなかった。しかしそのときフランクが銃をもって降りてくる。クリスが危ないと思い発砲、弾丸は赤ちゃんの肩をかすめたらしく、凄まじい叫び声をあげると折り悪しくクリスを追って地下室に入ってきたチャーリーの喉笛を噛み切って闇の中に消える。
血痕は下水道に続いており、フランクと数十名の警官が赤ちゃんを追った。フランクはついに激痛に耐えかねて泣いている赤ちゃんを見つけ銃口を向けたが、どうしても引き金を引くことができなかった。この世のものとも思えぬわが子の哀れな姿に、とめどもない涙を禁じえなかったのである。フランクは赤ちゃんを抱いて家に連れ帰ろうとするが、出口には完全武装の警官が待ちうけていた。赤ちゃんは無惨に撃ち殺される。

by ssm2438 | 2010-10-22 10:07