西澤 晋 の 映画日記

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2010年 10月 04日

スウィート・ムービー(1974) ☆

f0009381_1326198.jpg監督:ドゥシャン・マカヴェイエフ
製作:ヴァンサン・マル
脚本:ドゥシャン・マカヴェイエフ
撮影:ピエール・ロム
音楽:マノス・ハジダキス

出演:キャロル・ローレ (ミス・カナダ)

       *        *        *

「リビドー」と「エロス」の詰まったつまらないけど、すごい映画。

映画の中では2つのストーリーラインが展開されているが、その二つがなぜひとつの映画の中にあるのかまったく意味不明。たぶんないと思われる(苦笑)。

ひとつのストーリーは、84年のミス・カナダに選ばれたキャロル(キャロル・ロール)が、資産家と結婚し、離婚し(劇中では正式に離婚はしてないのかもしれない)、その後ヨーロッパに飛ばされエッフェル塔でメキシコソングを歌う男とエッチをし、膣痙攣をおこし、次に訪れた銀河コミューンで尾下劣なスカトロショーの体感する。
最後はチョコレートを全裸で浴びてそのぬちょぬちょのなかでCM撮影。
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もうひとつのストーリーは、「サバイバル号」の船長アンナ・プラネッタ(アンナ・プルクナル)は、自転車にのって彼女を追いかけてくる水兵(ピエール・クレマンティ)とやがて二人は船上で愛しあい、どこぞでひろったのか子供たちを船に誘い入れてはいかがわしく女を教え込み、どうやら最後は殺したらしい。水夫も砂糖にまみれてアンナとエッチをし、「このまま死ねたらどんなに幸せか・・」ともらすと、砂糖に埋もれたままアンナにナイフで刺され死んでしまう。「サバイバル号」からは少年たちの死体が発見され、アンナと船員のは逮捕される。
(なぜか、最後ではその死んだ子供たちが生き返る・・・、意味不明)。

f0009381_1328273.jpgドゥシャン・マカヴェイエフ『コカコーラ・キッド』を撮ってくれたおかげで私のお気に入りの監督さんの一人にあげられるのだが、壊れている映画はこわれまくっている。この映画もなんというか、ストーリー映画としてはまったくもって意味がない。どういう思考でこういう映画がうまれたのかよくわからないが、理性の壁を突き抜けて、人間の根本的欲求をフィルムのなかで役者たちに実行させたおどろおどろしい映画。

はじまって5分で「これははずしたな」って思ったのだが、なんだかんだと最後までみてしまった。この映画に関しては、やってることははちゃめちゃなのだが、ドゥシャン・マカヴェイエフの映像作家としてのセンスはたぐいまれなるものがあり、どうしてもみてしまうのである。音楽のつけかた、音の入れ方。広角レンズから望遠レンズまで実に効果的につかってくれる。美しく撮ることも出来る。おどろおどろしく撮ることも出来る。期待のさせ方、期待の裏切り方、技術力だけみると「この人は天才だなあ」って思わせてくれる。

・・・でも・・・、個人的にはどうでもいい映画のひとつにはるかな。映画の根底に流れるスピリットに生産性がないので、見ていて面白くない。

by ssm2438 | 2010-10-04 13:33 | D・マカヴェイエフ(1932)
2010年 08月 25日

さよならジュピター(1984) ☆

f0009381_11141798.jpg総指揮:小松左京
監督:橋本幸治
原作:小松左京
脚本:小松左京
撮影:原一民
特技監督:川北紘一

出演:三浦友和 (JS計画主任・本田英二)

       *        *        *

草原の輝き、花の栄光
再びそれは還(かえ)らずともなげくなかれ、
その奥に秘められたる力を見い出すべし。

<ウィリアム・ワーズワース>

大いなる失敗さくである。それは誰もがみとめるところだろう。だからといってこの映画を嫌いにはなれない。この映画には愛すべきパッションがある。この映画には小松左京の執念を感じる。ただ表面がぼろぼろに朽ち果てただけだ。

この映画は小松左京の想い入れつまっていた。
ウィキペディアからその制作にいたる過程を抜粋し、まとめてみた。

かねてから日本でも『2001年宇宙の旅』に匹敵する本格SF映画を作りたいと念願していた小松左京は、1977年暮れから、当時の若手SF作家を中心に集合をかけ16回に及ぶブレーン・ストーミングを行なった。参加したメンバーは、豊田有恒田中光二山田正紀野田昌宏鏡明伊藤典夫井口健二横田順彌高千穂遙といった面々で、当時の日本SF界の中核が動員された。1979年に木星に接近したNASAのボイジャー計画による最新の探索データが取り入れられ、また、ハードSFで知られるSF作家の石原藤夫にも声がかかり、映画に登場する天体の軌道計算という考証面で協力した。
1979年半ばにシナリオの初稿は完成。上映時間3時間を越え、外国人俳優数百人を要するというスケールの大きさだった。アメリカでの著作権登録も行なわれた。後に現実にアメリカの映画会社から原作を買い取りたいという申し出があったが、アメリカ人を主役とし、小松を制作には関与させないという契約条件で、合作ではなくアメリカ映画として制作するというものだったため、あくまで日本人の手で本格SF映画が作りたかった小松左京はこれを断っている。
映画化に先駆けて、映画の初稿脚本を原作としたノベライズを1980年から週刊サンケイに連載された。連載中の1981年、小松は本作制作のために、株式会社イオ(個人事務所)を設立し、本作を東宝とイオの共同制作とする。小松は脚本執筆のみでなく、総監督として現場の指揮も執ることになり、映画化の全般に責任を負う体制を敷いた。
1983年3月に撮影用台本は完成。小松の『日本沈没』(1973年)を監督した森谷司郎を再び監督に予定していたが、森谷の死去に伴いその助監督だった橋本幸治を監督に起用。特技監督は、新鋭の川北紘一が務めることになった。

この森谷司郎が死んだ時点で、映画としてのこの作品の命はついえたのかもしれない。橋本幸治ではどだい無理な話だ。ただ、森谷司郎の場合は、本来具体的にみせてほしいところを、雰囲気の描写に逃げてしまう傾向があり、それがちと困ったチャンなのだが、少なくとも当時の監督でこの映画をころがせたのは彼しかいなかったかもしれない。
なお、撮影には『神田川』『優駿』原一民が参加している。第一希望は木村大作だが、彼が出来ないのならこの人しかいないだろう。

<あらすじ>
西暦2125年、マイクロブラックホールが、太陽に衝突するコースをとっている事が判明する。太陽系を救う方法はただ一つ、木星を爆発させてブラックホールに衝突させ、そのコースを変更する事だった。
太陽系外縁の開発に着手していた太陽系開発機構は、計画主任・本田英二(三浦友和)を中心2140年の実現へ向けて「木星太陽化計画」を進めていたが、そのプロセスを応用して木星を爆発させプロジェクトに変更される。
木星爆破計画を進める英二だが、彼の恋人のマリアは、過激な環境保護団体「ジュピター教団」の破壊工作グループのメンバーとなっていた。英二らと銃撃戦となり、マリアは英二の腕の中で死亡。傷ついた本田は木星の爆発とともに死亡。ブラックホールは進路を変えて太陽系外に去っていった。

物語には木星に存在する未確認生命体の存在の手がかりなどがあって、上手に作ればかなり感動する話になっていたとは思うのだが、出来上がった映画はかなり散々な出来になってしまった。
なんでここまでダメだったのか検証してみた。

1、社会性がまるでない。
地球上の人間社会がまるで描かれていないのである。
ブラックホールが太陽の軌道上に飛び込んでくると、人類はおろか地球上の総ての生き物が死に絶える・・という危機をどう乗り切るか・・という話なのに、人類社会が登場しない。原作では木星をある志向性をつけて爆破させ突進してくるブラックホールにぶつけるという計画以外に、わずかでも人類を脱出させようと宇宙船をつくり抽選であたったものだけをその船にのせ外宇宙におくる計画も進行する。2つの巨大なプロジェクトを同時進行させるために、物資がおもいように手に入らずそんな中で、主人公たちは木星爆破計画を実行していくプロセスがおもしろいのに・・。
この物語が面白いのは先の『日本沈没』のように人間が組織としてどうこの危機を乗り越えようとしたかであって、スペクタクルはどうでもいいのである。
それをあの大バカ監督の橋本幸治は・・・。こいつはまったくわかっていない。

2、宇宙に星がある。
『スターウォーズ』のみすぎではないのか? スペースシャトルの写真などをみたら宇宙は漆黒の闇であるのは当然のこと。小学生でも星は昼は見えないことは知っている。宇宙はいつも昼である。なら宇宙で星がみえないのは当たり前である。『2001年宇宙の旅』ではきちんと漆黒の闇として描いていた。あの映画から既に15年くらいたっているかと思うが、いまだにそんな低次元のアニメ的価値観しかいようではどうしようもない。

3、なすかの地上絵や木星の中のジュピターゴーストをまったく生かせていない。
生かせないなら斬るべきだったのでは? じつはこのコンセプトは原作でもあまり上手い具合に機能してないところで、わざわざそれを入れ込む必要はなかったのではないのか? この話なら古代地球におりたった異星人のことなどリアリティを阻害するだけなので排除すべきだった。

4、本田英二とマリアの関係があまりに理解不能。
原作ではかなり無理があるところなで、削除しても良かったのでは? 昔は幼馴染で恋人だった二人が時がたち、マリアはジュピター教団の過激派に属し、英二はJS計画の主任になっている。でもお互いが顔をあわせば恋人同士という、説明して出来ないわけではないがやっかいになりすぎる。

5、ジュピター教団をどうとらえていいのか判らない。
教祖のピーターは原作では良い人で(それはこの映画でもそうなのだが)、そこに集まってきた人が集団心理の中で自然保護とかを謳いあげ過激派になっているという、これも複雑な構造。これをきちんと説明するのはかなり難しいと思われる。

結局森谷司郎に出来て無能橋本幸治に出来ないこととは、組織の描写なのだ!
もっとも、橋本幸治には人間個人の描写もできないが・・。このバカのバカさ加減は絶大なるものだ。そこにそのイベントが起きるなら、その必然性を語らないといけないだろうに、その必然性が語られないのだから「なんでこの二人は無常力で“H”してるん??」って疑問をもってしまう。頭の悪い監督というのは結果だけを書いてしまうものだが・・・。

しかし、愛すべき失敗作であることには替わりはない。
「作り直せ!」と声を大にして言いたい。

by ssm2438 | 2010-08-25 11:15
2010年 08月 12日

スール/その先は・・・愛(1988) ☆☆

f0009381_1434798.jpg監督:フェルナンド・E・ソラナス
脚本:フェルナンド・E・ソラナス
撮影:フェリックス・モンティ
音楽:アストル・ピアソラ・キンテート

出演:
ミゲル・アンヘル・ソラ (フロレアル)
ススー・ペコラーロ (フロレアルの妻ロシ)

       *        *        *

相変わらずダークなアルゼンチン映画だが、恋愛劇をからませて見やすく仕上げている・・・ほんとか??(苦笑)

1988年のカンヌの映画祭監督賞フェルナンド・E・ソラナス)をとっている。

80年代につくられたアルゼンチン映画というのは、70年代の軍事政権下でおきた人々の悲劇を描くものがおおい。不当拘束、監禁、暴行、レイプ、人身売買など・・70年代にこんなことが起きているのか!?っとびっくりしてしまう。
私の中では『ナイト・オブ・ペンシルズ』がドツボなアルゼンチン映画代表作として認識されている。この映画では、圧倒的なインフレで生活がくるしくなる散々な経済状況の中、バスの無料通行パスの発行をもとめてデモをした学生たちが、秘密警察につかまり、デモを誘導した人物を探す拷問にかけられ話。結局彼らのほとんどは帰ってくることはなかった。
この『スール/その先は・・・愛』はそれよりもファンタジックな雰囲気があるぶんオブラートにつつまれている(でもファンタジーではないのだけど)。『ナイト・オブ・ペンシルズ』と比べると、軍事政権下での拷問などを直接描写するのではなく、軍事政権下での非人道的暴力がひきさいと一組のカップルの、再生への希望を描くかたちとなっている。

f0009381_14381727.jpg画面は『ダーティハリー』ブルース・サーティースのよにやたらと暗い。ただ、エイドリアン・ラインなどのシルエットとか黒の絞りとかいうよりも、単にローキーという印象があるので、それほどソフィスケイトされた画面だという感じはうけない。でも、悪くもない。

<あらすじ>
軍事独裁政権下で刑務所に拘束されていたフロレアル(ミゲル・アンヘル・ソラ)は、その政権の終焉とともに解放された。
5年前、食肉工場の技師だった彼は組合に関与したことから秘密警察に追われることになる。駅の廃墟に身を隠すが、そこで出会ったマリア(イネス・モリーナ)とつかの間の恋におちるが逮捕されてしまう。
夫の逮捕を知ったフロレアルの妻ロシ(スス・ペコラロ)は、役所や警察、兵舎など方々を尋ね歩き、彼の生存を確かめようとする。一方ロシは、フランス人技師で片足に障害のあるロベルト(フィリップ・レオタール)の愛を受け入れてゆく。そんなロシの告白に、嫉妬し怒り狂うフロレアル。
今、解放された彼のまえに、今は亡き友人や知人が亡霊のように浮かびあがる。死者を自称するかつての友人ネグロから祖国や家族の面倒を見るのは誰かを教えられたフロレアルは、夜明けと共にロシのもとへと向かうのだった。

by ssm2438 | 2010-08-12 14:40
2010年 07月 25日

仮面ライダー第84話:危うしライダー! イソギンジャガーの地獄罠(1972) 

f0009381_14254016.jpg監督:石森章太郎
脚本:島田真之/石森章太郎
撮影:川崎竜治
音楽:菊池俊輔

出演:
藤岡弘 (本郷猛/仮面ライダー)
千葉治郎 (滝和也)
マキ (山田圭子=丘野かおり)

       *        *        *

この話数、たまたまみたのですが、なんだか画面がすごい! まるで映画のような仮面ライダーだなあと思ったらなんと原作者の石森章太郎が一本だけ監督した話数。
他の話数とは明らかにテイストが違います。全体の流れのテンポの悪さがきわだっているのですが、それ以上に望遠レンズの画面がすごくかっこいい! ヘリコプターも登場、あれ、レンタルするだけでもかなりお金がかかっただろう。そのヘリを使ったのか、ヘリからの空撮もばんばんはいる。フカンの映像がやたらと多いのだけど、それがなかなかカッコいい。おこさまむけテレビシリーズとしてはありえない話数でした。

おまけに私の大好きな丘野かおり嬢(当時の芸名は山田圭子)がゲスト出演。うれしい! 麻丘めぐみといい、丘野かおりといい、どうもこの手の顔にはよわいらしい(苦笑)。

f0009381_1433357.jpg<あらすじ>
空撮とナレーションで始まるプロローグ。ブラック将軍の声に激され怪人イソギンジャガー登場。しかしそこをたまたま通りかかった釣り人(石ノ森章太郎)に姿をみられ、これを抹殺。つづいて父の行方を捜している女性マキ(山田圭子丘野かおり)をさらうイソギンジャガー。
「滝がいながらなんてことだ!」とおやっさん。少年ライダー隊に連絡するためのハトがいっせいにはなたれる。画面だけはなんだかかっこいい! でも、電話したほうが早いと思うのは私だけ?

どこからかヘリをチャーターしてきた滝(千葉治郎)。なんとかゲルショッカーの車みつけ追う本郷(藤岡弘)。爆弾攻撃をうけるライダー、ジャンプするサイクロンのストップモーションでアイキャッチへ。
その行く手からあらわれるゲルショッカーの戦闘員。無音効果やカット割り、大胆な望遠レンズなど、テンポの悪さを気にしなければ映画的な演出が充分たのしめる(苦笑)。やがてゲルショッカーのオートバイ部隊を蹴散らしたライダーに、イソギンジャガーとの決戦第一弾。イソギンジャガーの触手攻撃に苦しむライダーだが、キックで脱出。おおまたも無音演出!

追っていた車のなかからマキを助け出す滝、一方なにがどうなったのか、変身の解けた状態で海岸の岩場に倒れていた本郷。目を覚まし、同じく岩場に倒れているマキ(実はダミーの人形)に気づいてふらふらになりながらも近づいていく。上空にはマキをのせた滝が操縦するヘリ。
本郷もろとも爆発。「本郷!」と悲痛な顔で叫ぶ滝だが、心配したのもつかの間、「大丈夫だ!俺はここにいるぞ!」と本郷さんの声。見ればヘリにライダーがぶら下がっている仮面ライダー。なんだか絵にならないのだが・・・。

f0009381_14265771.jpgマキさんのお父さんがイソギンジャガーだと分かった仮面ライダーは、頭の変身装置だけを破壊するため、ライダーポイントキックを放ちます。キックをうけたイソギンジャガーは波打ち際に着地する。つづいてライダーも。フレームの端にたち向かう会うイソギンジャガーと仮面ライダー、その間を波が打ち寄せる間。これも望遠でとっているのでカッコいい。
そこにかけよるマキ。これも砂場を走るマキのうしろにうちよせる波。これもがつんな望遠。おお、すばらしい!
ブラック将軍の声が聞こえ、さらに戦いを挑もうとするがばたりと倒れるイソギンジャガー。そしてイソギンジャガーはマキのお父さんへと戻っていったのでした。。

話はいまいち、テンポ最悪なれど、かっこいい望遠画面はいっぱいです。
コアなファン、必見の『仮面ライダー』84話でした。

by ssm2438 | 2010-07-25 14:34
2010年 07月 19日

狂っちゃいないぜ(1999) ☆☆

f0009381_23563832.jpg監督:マイク・ニューウェル
脚本:グレン・チャールズ/レス・チャールズ
撮影:ゲイル・タッターサル
音楽:アン・ダッドリー

出演:
ジョン・キューザック (ニック)
ビリー・ボブ・ソーントン (ラッセル)
ケイト・ブランシェット (ニックの妻)
アンジェリーナ・ジョリー (ラッセルの妻)

       *        *        *

うむむむむ、どのジャンルにいれていいのか悩ましい映画だが、妙に忘れがたい作品ではある(苦笑)。

管制官を扱った作品というのはそんなにあるわけではない。私のかすかな記憶だと、キーファー・サザーランド『乱気流/グランド・コントロール』(1998)というのがあるくらいで、これは個人的には意外と好きな映画だった。『乱気流・・・』がTVMなのに対してこっちは一応劇場公開のつもりでつくった映画。なるほどキャストはじゅうじつしている。天下のアンジェリーナ・ジョリーはでてるし、ケイト・ブランシェットもいる。一応ジョン・キューザックビリー・ボブ・ソーントンもメジャーなところだ。このころビリーとアンジーはラブラブだったのだろうな・・きっと。

しかし、発想はよかったのだけど、もうちょっとなんとかならんかったかなあ。どこかがなんか違ったらけっこう快作になっていたのに。まあ、いまのままでも、妙作ではあるが・・。

管制官にとっては、二つのアイコンが重なり合った時は恐怖の時間。それは航空機のニアミス、最悪の場合は空中衝突を意味する。そんな危険をはらみながら5分おきに着陸してくる航空機を一列にならべ、じゅんぐりに空港におろしていかなければならない。そんなスリリングな職業を映画しようと考えたのはいいのだけど、
うむむむむ・・・もうちょっとどうにかならなかったのかああ。どこでどう感情移入していいのかわからなかった。おまけになにをもって物語の目的としてみるべきか判らなかった。。。

とにかく、主人公ジョン・キューザックよりも、ライバルのビリー・ボブ・ソーントンのほうが人間的にできているのである。いままで自分が一番だと想っていたジョン・キューザックが、自分より大きな人間にである映画であるのだが、相手の妻と“H”をしてしまうという変な展開になってくる。おまけに自分の妻はビリー・ボブ・ソーントンに迫れても“H”はしてほしくない(あたりまえだが)という人間的なエゴが垣間見られる映画で、男心にはみみがいたい話である(苦笑)。
この映画を見ると、主人公のジョン・キューザックも自分も、まだまだ人間ができてないなあ・・と痛感する。まあ、いつまでたっても出来た人間になれるとはおもってないが・・。

しかしなかなか忘れられない映画である。

<あらすじ>
ニューヨークの航空管制局でNo.1を自認していた航空管制官ニック(ジョン・キューザック)。しかし地方から転勤してきたやり手の新入りラッセル(ビリー・ボブ・ソーントン)に立場はゆらいでくる。ラッセルに対して強烈なライバル心を燃やすニック。しかし、強引かつ冷静な判断で機を着陸させるラッセうのほうがやや分があるように見える。
そんな時、ふとしたきっかけで知り合ったラッセルの妻メアリー(アンジェリーナ・ジョリー)と“H”をしてしまうニック。しかしここでも優越感を罪悪感にさいなまれる。ましてや等価原理のほうそくなら、ラッセルに「妻をだかせろ」と言われても文句が言えない立場のニックは、ラッセルに対して負い目を感じてしまう。ストレスを抱え込んだニックは神経をすり減らす。そんな矢先の雪の日、空港に爆弾が仕掛けられるという大事件が発生。必要な誘導人員は2名。かくして、わだかまりを持ちながらもラッセルとニックはコンビを組んで、互いのプライドと妻をも賭けた難事に挑んでいくのだった。

最後はラッセルの心の広さに、なんとかストレスから解放されるニック・・という図式。
甲斐性のない主人公の映画でした。

by ssm2438 | 2010-07-19 23:56
2010年 07月 18日

死刑執行人もまた死す(1943) ☆☆☆

f0009381_1235164.jpg監督:フリッツ・ラング
脚本:ベルトルト・ブレヒト
    フリッツ・ラング
    ジョン・ウェクスリー
撮影:ジェームズ・ウォン・ハウ
音楽:ハンス・アイスラー

出演:
アンナ・リー (マーシャ)
ブライアン・ドンレヴィ (スヴォボダ)
ウォルター・ブレナン (マーシャの父)

       *        *        *

うむむむ・・・確かにシナリオのこねくり方が上手い! が・・・。

大昔の映画修行時代にみた映画だが、最近になって今一度見直してみた。実に解釈にこまる映画である。
1946年のヴェネチア国際映画祭特別賞を受賞しているこの映画、制作されたのは戦時中のアメリカであり、監督はオーストリア出身のフリッツ・ラング、脚本のベルトルト・ブレヒトはドイツからの亡命者で共産主義者だった。時代が時代だけに反ナチのプロパガンダ映画である。特に前半の展開は、何を持って「よし!」とするかという自分なりの価値観が確立できないまま進んでいくので、重苦しい展開だけが感性を刺激してくる。

舞台はナチス占領下のプラハ。「ハングマン(死刑執行人)」と呼ばれ市民に恐れられていたラインハルト・ハイドリッヒ保護領副総督が暗殺される。秘密警察ゲシュタポは、チェコ市民400人を人質にとり、暗殺者が名乗り出るまで1日数人を銃殺していくという報復にでる。
暗殺の会った日の夜、挙動不審の男をかくまうことになってしまったマーシャ・ノヴォトニー(アンナ・リー)の父(ウォルター・ブレナン)も人質にとられていた。マーシャはその男スヴォボダ(ブライアン・ドンレヴィ)に自首を懇願する。スヴォボダも自分が自首しようとするが、抵抗運動の組織はそれを許さない。
一方人質にとられれ、死を待つだけの人々の間でも意見は分かれる。犯人は自首するべきだと言う人もいる。しかし、マーシャの父、ステファン・ノヴォトニーは、「犯人が自首してもナチは我々を殺し続ける」という。名前を呼ばれ、潔く連れて行かれるチェコ人たち。そんな彼らを合唱で送り出す残された囚人たち。

全体主義のために個人を犠牲にすることを高らかにうたい上げる映画のスピリットに、勇ましさというよりも、なにかしらの目に見えない恐怖みたいなものを感じた。この脚本を書いたブレヒトは共産主義者であり、最初の脚本ではその精神が色濃くでていたらしい。フリッツ・ラングがそれを弱めることを望み、ウェクスリーが問題部分のカットと潤色を施したという。ちなみにウェクスリーも共産主義者であった。
この映画は、アメリカで制作された反ナチ映画ではあるが、精神構造的には<非道なナチ>vs<美しき全体主義=共産主義>の色合いが強いと思う。そのあたりが私の感性にストップをかけて、手放しでこの映画を賞賛できないにおいを感じさせているのだと思う。

物語は後半からがらりと変わる。多分このあたりからフリッツ・ラングが変更を加えていき、重苦しくないサスペンスにしてしまったのだろうと勝手に推測する。

チェコの抵抗組織は、その中の一人チャカ(ジーン・ロックハート)というチェコ人男性がゲシュタポのイヌであることを知る。そして彼を犯人に仕立て上げていく。そこにはお互い顔もしらないチェコの市民が一つの目的のために嘘をついていく。ゲシュタポのイヌだったチャカはゲシュタポに殺され、チェコ人たちの抵抗運動は高らかに賞賛されるのであった・・・。

by ssm2438 | 2010-07-18 12:36
2010年 04月 21日

哀しみのベラドンナ(1973) ☆☆

f0009381_20144686.jpg監督:山本暎一
原作:ジュール・ミシュレ
脚本:福田善之/山本暎一
作画監督:杉井ギサブロー
音楽:佐藤允彦
ナレーター:中山千夏

声の出演:長山藍子/高橋昌也

        *        *        *

シュールな映画だが・・・面白くはない。しかし、「この映画知ってる?」って誰かにいってみたくなる映画。

『千夜一夜物語』、『クレオパトラ』に続く虫プロ=ヘラルド映画提携のちょっとアダルト・テイストなアニメの三作目。先の2本よりはさらにシュールな絵作りになっている。クリムトような雰囲気かな。ちょうど60年代のフランスチックは雰囲気をイラストにして、それをたまに動かしたりする感じの映画。日本のアニメというより、ヨーロッパのアニメに感覚はちかいかな。絵も当時の60年代のフランス文化をみるようなイラスト画で、一枚絵をみるとしたら実にいい感じの絵。ただ、時間軸で流してみるとつまらないと感じるのが正直な感想だろう。予告編だけみていれば十分ともいえる。人には奨めてはみたいが、自分が全部みるとなるとしんどい映画(苦笑)。
私がアニメーターをはひめてしばらくしてこの映画を見たのだが、全部みるのは正直つらかった。当時は勉強と思ってみたのだが、頭の中で「これは良いんだ」と思いたい自分と「これってやっぱりつまらんぞ」って思う自分とが葛藤してなかなか答えがだせないような映画だった。
シュールといえば聞こえはいいが、表現手段として手抜きを「らしく魅せた」といっても過言ではない。これ全部それらしいアニメーションでやったら果たして見ている人を説得できたか・・?といわれるとかなり疑問だ。これはこの程度でおわらせているからアーティスティックな雰囲気があるのであって、たぶん、正面切ってやったらはずれてただろう。見る人の「贔屓目加味」の映画だろう。

・・・しかし、これから映像業界に進みたい人は、一度はみておいてほしい映画のひとつだ。

<あらすじ>
中世フランスの美しい農村。ジャンとジャンヌは結婚式を挙げた。当時のしきたりとして、結婚の儀には、領主のもとへ貢ぎ物を送るというのが習わしになっていた。金貨を献上しに行ったジャンとジャンヌだったが、領主はジャンヌの魅惑的な姿態と清楚な美しさ欲情をかきたてられ、ジャンヌの肉体をもとめた。一晩領主のなぐさみものになったジャンヌは翌朝、無惨な姿で城から帰って来た。
一方、村では飢饉が広まり、領主の無暴な重税取り立てにより人人は苦しんだ。ジャンの家では、ジャンヌとジャンヌの糸を紡むぐおかげでなんとか税金を払えていた。そんなジャンヌを村人はねたみの目でみていた。一方ジャンは、税金の取立て役に任命されていたが金は思うように集まらず、領主の怒りを買い、左の手首を切り落されてしまった。
ほとんどの男たちが出兵してしまった後で、ジャンヌは村の経済を一手に握ってしまった。戦争から帰って来て人々もジャンヌを尊敬した。しかしそれに怒った領主は、ジャンヌに魔女の烙印を押した。村から逃れたジャンヌは原野をさまよった。その頃、ヨーロッパ全土を黒死病が襲った。ジャンヌがベラドンナという毒草から作った薬で救われた。ジャンヌのもとへ人々が押しよせた。一方、城にも黒死病はしのび寄った。領主はジャンを使って何とか、毒落しの製造法を聞き出そうとしたが、ジャンヌは堅なに拒否した。ジャンヌは火あぶりの刑を宣告された。十字架にはりつけにされたジャンヌに火がはなたれた。思わずジャンは、刑場にとび出て領主に罵倒を浴びせた。その瞬間、槍がジャンの胸をつらぬいた。苦しげに虚空をつかむジャンの姿に、炎につつまれたジャンヌの表情がかすかに動いた。「ジャン」といったのかもしれない。
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by ssm2438 | 2010-04-21 20:15
2010年 04月 16日

SFソードキル(1984) ☆☆

f0009381_1551730.jpg監督:J・ラリー・キャロル
脚本:ティム・カーネン
撮影:マック・アールバーグ
音楽:リチャード・バンド

出演:
藤岡弘 (多賀ヨシミツ)
ジャネット・ジュリアン (クリス)

        *        *        *

「日本刀で斬る」描写がしっかりしていてちょっと感激!

それまで日本刀で斬るシーンといえば、『水戸黄門』みたいに斬っても血が出ないものが当たり前だと思っていた。また『椿三十郎』のようにぶしゅ=========っと血がでる描写はあっても、斬り口をみせるものはなかった。しかし、この映画では斬られた傷をしっかり描いているのである。それをみたときは、日本のチャンバラ映画に慣らされていた私は、「おおおおお!」って思ってしまった。

また、サムライを描く海外の映画は変な描写が多いものだが、この映画で描かれたサムライはかなりまともにみられた。かなり日本文化のスーパーバイジングができていたのではないかと思われる。

しかし映画はかなり奇想天外で、当時『アイスマン』みたいに原始人の現代復活モノ映画はあったが、それを今度はサムライでやってみようといった趣旨の映画。遠い昔、氷漬けになっていたサムライが、現代のLAで蘇生され、町を闊歩するという異文化交流もの。一見キワモノっぽい映画だと思うかもしれないが、実際そういうB級テイストはあるのだが、それでも真剣にこのシチュエーションを映画にしようとどりょくしているスタッフの意気込みはかんじられる作品だ。
日本語しか分らないサムライを、どう現代のLAで活躍させるのかな?というのが見る前の疑問だったが、日本文化に詳しい人物の配置やスシバー、日本の古美術商など、蘇生したサムライが心を通じあえる場所をみせることで、コミュニケーションをきちんと図っている。B級なれど上手いなあって思った。

<あらすじ>
戦国時代の武将・多賀ヨシミツ(藤岡弘)は敵に捕われた妻チドリ(ミエコ・コバヤシ)を救出しようとするが、湖に転落する。やがて冷たい雪国の湖は氷に覆われ、400年の時が流れた。やがてスキーヤーによって発見された氷漬けのサムライの遺体はアメリカに送られ、「カリフォルニア低温外科医療法研究所」の蘇生実験によって現代のロサンゼルスに蘇った。
女性記者クリス(ジャネット・ジュリアン)はそんなヨシミツに興味を示し、彼に惹かれていく。研究所のリチャーズ博士はヨシミツを実験材料としかみなさいが、彼を人間としてせっするクリスにヨシミツも心を許していく。突然現代の、それもアメリカという異文化の中で目をさましたヨシミツは、自分の刀を取り戻そうとして、そのさい所員を斬り殺してしまう。言葉もわからないLAをサムライ姿で逃亡するヨシミツ。
チンピラに襲われていたウィリー(チャールズ・ランプキン)に出くわしたヨシミツは、持ち前の剣術でウィリーを救う。その後ウィリーは彼をスシ・バーに連れていくのだが、そこでやっと日本語分る相手と、日本文化に触れ、心をなごませる。

そんなヨシミツをみて「あれは誰だ?」と「ミフネ!」という会話がたのしい。彼らにとってはサムライ=ミフネみたいんだ。

そんな和やかなムードも、お札参りにきたチンピラによってぶち壊される。そのチンピラを斬殺するヨシミツ。警察もヨシミツを追うようになる。クリスは彼を日本人の古美術商の店にかくまうが、リチャーズ博士らが来て、スタンガンで彼を倒す。ヨシミツを闇に葬り去ろうとするリチャーズだが、クリスの頑張りで逃亡。ヨシミツは牧場で白馬を盗み、クリスを乗せて森の中を逃走する。上空には警察のヘリが追ってくる。最後はリチャーズをばっさりと斬り殺すが、警察の銃弾を浴び、「武士道とは死じゃ」とつぶやき、再びヨシミツは湖に転落していった。

by ssm2438 | 2010-04-16 01:56
2010年 04月 01日

くもとちゅうりっぷ(1942) ☆☆☆☆☆

f0009381_8551779.jpg演出:正岡憲三
脚色:正岡憲三
原作:横山美智子
動画:桑田良太郎/熊川正雄
撮影:政岡憲三
作曲:弘田龍太郎

        *        *        *

80年代のどこかで戦中のアニメがでてきたというのでニュースになり、それが一般ロードショーされた。それが『桃太郎 海の神兵』とこの『くもとちゅうりっぷ』だ。ほんとは『桃太郎 海の神兵』をみたさに劇場に足を運んだのだが感動されられたのはこっちのほうだった。

戦中につくられた映画だが、こちらは戦意高揚映画ではなく、普通の短編アニメーション映画。16分くらいである。内容は、童謡にあわせて絵をうごかしているだけ。
てんとう虫のお嬢ちゃんがクモに狙われ逃げていると、チューリップさんが花びらの中に入れて助けてくれる。しかしそのチューリップさんをクモさんはぐるぐるまきにしばってしまい、でられなくする。そうしていると風が強くなり、雨が降り始める。森の木々はなびき、折れるものもある。クモの巣も雨と風に半壊してしまい、クモさんもとばされてしまう。雨がやみ、太陽があらわれるとクモの巣についた水玉が美しくかがやいている。

前半ははっきりいってたるいのだけど、雨がふってきてからは怒涛の迫力。水面におちる雨の描写とか、風になびく枝、そしてそれが折れるところのリアルさ。今これだけのリアリティを描き出せる本物のアニメーターが何人いるのだろうか? 自然物を動かすのが好きな私としては、この後半はとりはだもので感動してしまいました。

by ssm2438 | 2010-04-01 08:55
2010年 04月 01日

桃太郎 海の神兵(1945) ☆☆

f0009381_810330.jpg演出:瀬尾光世
脚本:瀬尾光世
撮影:瀬尾光世
音楽:古関裕而

        *        *        *

日本の海軍省より国策アニメ映画製作の命を受け1944年に松竹動画研究所によって製作され、戦時下の1945年4月12日に公開された国産長編アニメ(白黒、74分)。映画はミュージカル仕立に構成されており、これは監督である瀬尾光世が、1940年にアメリカで公開されたディズニーの長編アニメーション映画『ファンタジア』を参考とし、たとえ戦意高揚が目的であっても、ファンタジアのように子供たちに夢や希望を与えるような作品にしようとしたからだという(ウィキペディアより抜粋)。

制作は松竹動画研究所。おおお!! 東映以外にもアニメ制作に携わるスタジオがあったのですね。てっきり東映動画が作ったものだとばかり思っていた。『ファンタジア』をもでるにしているだけあって、動画はフル・アニメーション。すごい!!!
映画の1秒は24コマで構成されており、ディズニーの映画やこの『桃太郎 海の神兵』はその24コマ総てを動いた絵でつらねてアニメーションにしてみせる手法。あまりに手間隙かかりすぎるで普段は使わない。原題でも劇場版のアニメでも2コマ撮りが普通で、テレビでは3コマ撮りが主流となっている。
ちなみに2コマ撮りというのは、1秒間を12枚の絵で動かし、それぞれの絵を2コマづつ撮影していくことで帳尻を合わせる方法。3コマ撮りは1秒間に8枚の絵で、それを3コマづつ撮影していう方法。この方法が開発され製作コストは格段に下がり、一般テレビアニメとして制作が可能になってきたという。それをはじめたのが手塚治虫だとか。いまでこそ当たり前になっているが、当時動くのがあたりまえだった絵を、3コマ同じ絵を撮影して1秒間の動きを8枚にしようと考え付くのはかなり斬新な考えだったと思う。

映画は戦意高揚であり、南方戦線のセレベス島・メナドへの日本海軍の奇襲作戦を題材に海軍陸戦隊落下傘部隊の活躍を描き、当時の日本政府の大義であった「アジア解放」を主題にした大作。桃太郎が鬼が島へ行き、そこで隷属されている動物たちを解放し、日本語の読み書きを教えていくと、森の熊さんや狸さんたちは幸せになるというもの。当時の国産アニメとしては74分という長編作品であり、当時の日本政府、海軍より270,000円という巨費と100名近い人員を投じて制作されたという。

by ssm2438 | 2010-04-01 08:11