主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

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インソムニア(2002) ☆☆

f0009381_23253211.jpg原題:INSOMNIA

監督:クリストファー・ノーラン
脚本:ヒラリー・サイツ
撮影:ウォーリー・フィスター
音楽:デヴィッド・ジュリアン

出演:
アル・パチーノ (ウィル・ドーマー)
ロビン・ウィリアムズ (ウォルター・フィンチ)
ヒラリー・スワンク (エリー・バー)

     ×   ×   ×

眠れぬ夜のために・・・。

タイトルに反してよく寝られる映画です。クリストファー・ノーランって外した時はすっごく眠たく感じる監督さん。『ダークナイト』なんかはよかったのに、そのあとみた『インセプション』は劇場で気持ちよく寝させてもらいました。この監督さん、こだわるところはすっごくこだわるのは分かるのだけど、観てる人にとってどうでも良いところをこだわりだすと、どうでも良いシーンが延々つづいてしまい睡魔をさそうのである。今回もいいシーンはいっぱいあるんだ。アラスカの風景だけでもすばらしい。あの空気の湿り具合といったらまるで『ツイン・ピークス』『刑事ジョン・ブック』の雰囲気です。ほんと画面の湿り気は感動的です。犯人と間違って相棒を撃ってしまうスモークもくもく感もすばらしい。丸太のところも素敵です。特に水の中におちてからの幻想的な感じはグッドです! 映像的には素晴らしいところはいっぱいあるのです。でも、脳みそが「観続けたい」と思わないのです・・・。

その根本的な問題は、ノーランの問題じゃなくって物語りそのものにあるというほうが正しいかもしれない。実はこの映画、めずらしくノーランは監督だけで脚本は別の人の作品。でも、脚本の問題というよりもやっぱり話そのものに問題があると思うな。観てると息苦しくなる。
原作はノルウェー産の映画で、北欧の映画だなという気はする。
スウェーデンなんかでも作られそうな心のすりきれ感。
この物語のつぼは、主人公が捜査のなかで同僚の刑事を犯人と間違って撃ってしまったことを正直に話せず、隠ぺい工作をしつつ犯人を追うというスタンス。演出としてはまあ、腕の見せ所かもしれないが、見ているほうとしては主人公として診たくないシーンの連打なのでだんだんと見たくなるなるのです。ま、物語の本質としてそれが必要なのはわかるのだけど、だったらもうちょっとなんとか軽めに描くとかできなかったものか・・・。そこをヘビーに描いちゃうから食傷ぎみで脳がそれ以上情報を吸収することを放棄してしまう。同じ北欧の『ドラゴン・タトゥーの女』はぎりぎり描いてくれても面白かったのに・・・。

<あらすじ>
夏の間は太陽が沈まないアラスカの町でその事件は起きた。17歳の少女の死体がゴミ捨て場から発見されたのだ。ロス警察からベテラン警部のウィル・ドーマー(アル・パチーノ)と相棒のハップ(マーティン・ドノヴァン)が捜査の助っ人にやってくる。だがそこには裏の事情もあった。
ウィルは大物を検挙したことも数々あるベテラン刑事だが、その捜査は違法なやり方も数多くあった。彼にしてみれば悪党をあげるにはそれくらい仕方がないと考えていたのだが、内務捜査が始まり、もしその捜査が違法ということになれば、せっかく牢屋に叩き込んだ悪党どもも出てくることになる。その内情をしる同僚のハッブも供述もとめられており、彼は知ってることを話すしかないと考えていた。ウィルにとっては頭のいたいことである。
しかし、それとこれとは別のことだ。被害者の遺留品をえさに容疑者を海辺の小屋に刺す出だすことに成功た警察だが場所に詳しい犯人は地の利をいかして逃亡する。追うウィルたち。濃霧の中で散発的に銃声が響く。ウィルも犯人らしい人影をみて発砲。しかしそれは同僚のハップだった。罪悪感に苛まれながらも、それを告白することができない。そこから偽装工作をしながら犯人を追わなければ成らないウィルの行き詰る捜査がはじまる。

この後がしんどくて・・・。
観ているほうは、この時点から主人公を愛せなくなってしまう。ま、最後は自分の罪を告白してチャンチャンってことにはなるのだけど、主人公が愛せる存在でなくなるとみているのが時間の無駄に感じてきてしまう。主人公というのは、なんだかんだいっても、ぼろぼろでも、やっぱりなにかしら愛される要素を残しておくべきだとおもうのだけど・・・。

やがて容疑者をつきとめたウィル。それはミステリー作家のウォルター・フィンチ(ロビン・ウィリアムズ)だった。一度は彼を追いつめるがにげられてしまうウィル。しかしウィルはフィンチから取引をもちかけられる。ウィルの弱みをしるウォルターは、少女のボーイフレンドを犯人に仕立てようと誘いをもちかける。こころが悪にゆれるウィル。
やがて、フィンチの家を地元の刑事エリー(ヒラリー・スワンク)が訪ね、ウィルはフィンチを射殺。真相をエリーに告白したウィルは、安心して眠りにつくのだった。
by ssm2438 | 2013-01-21 23:25
f0009381_124178.jpg原題:ALL A VI BARN I BULLERBYN
    THE CHILDREN OF BULLERBY VILLAGE

監督:ラッセ・ハルストレム
原作:アストリッド・リンドグレーン
脚本:アストリッド・リンドグレーン
撮影:イェンス・フィッシェル/ロルナ・リンドストレム
音楽:イェオルグ・リーデル

出演:
リンダ・ベリーストレム (リサ)
アンナ・サリーン (アンナ)
エレン・デメルス (ブリッタ)

     ×   ×   ×

あ、おれ、アンナと結婚する!
ちょっと三上に似てるかも(笑)。


子供心を描かせたら天下一品のアストリッド・リンドグレーン原作を『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』ラッセ・ハルストレムが監督したこの『やかまし村の子どもたち』。スウェーデンの田舎のひと夏の風景をスケッチしただけの映画なのだけど、子供のみずみずしい感性にあふれていて、なおかつあまり危険がない牧歌的な映画である。
しかし、スウェーデン映画って、なんであんなに映画のレベルが高いんでしょうねえ。こんなファミリー向け映画も、どろどろの『ドラゴンタトゥーの女』でも、どちらも手を抜かずにがっちり撮ってる。人気取りてきな作り手の不パフォーマンスではなく、その物語と伝えるのにどう撮ったら一番効果的かという撮り方をゆるぎなく実践しているっていう感じがする。画角の選択がすばらしく、とても見やすい画面である。

ただ、物語としては総てが平和すぎるのでちょっと刺激がない感じ。その数年前に作られた同じリンドグレーンの『川のほとりのおもしろ荘』では、子供のもつプライドとか意地の張り合いとか、主人と使用人の身分の違いからくる心の摩擦とか・・、心にぴりりと来るところを突いてきていたのに比べると、ややぬるい気がした。

ただ、この映画の楽しいのはその後を想像するときのわくわく感だろうな。このやかまし村には3世帯しかなくて、その3世帯の子供達6人がいつも仲良くいっしょになって遊んでる。さらにおませな所は、すでに彼ら(男の子3人、女の子3人)の中では、誰が誰と結婚するってところまで決めているらしい。そうすれば彼らは大人になってもこの村からでていかなくていいからだという。こういう子供の時間を過ごした彼らが大人になってからどうなるのか・・・、できるならこの映画の5年後がみてみたいですね。
その6人の間で暗黙の了解して出来てるこの協定が、何かの拍子で崩れた時・・・、なんかとんでもなく楽しいドラマが待っていそうな気がする。

あと、夜が素敵!
本編の中では、夜になると水の妖精を見に行くというエピソードがある。しかし画面がいつまでたっても夕暮れなみの明るさで、真っ暗にならない。あの感覚はスウェーデン独特のものだ。北極点に近いので夏は昼がながいのである。時計の針が夜になっていたとしても、あたりは夕暮れモード。子供達にとっては楽しい時間だろう。しかし彼らも大人になると冬のほうが好きになるに違いない。

ちなみに、アンナを演じたアンナ・サリーン(↓)は、いまでは歌手として活躍しているそうな。上の写真の左から3番目の女の子である。
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by ssm2438 | 2012-02-27 01:04
f0009381_0505598.jpg監督:吉田喜重
原作:川端康成
脚本:石堂淑朗/大野靖子/吉田喜重
撮影:鈴木達夫
音楽:池野成

出演:
岡田茉莉子 (水木宮子)
芦田伸介 (夫・水木有造)
早川保 (宮子の愛人・北野)
露口茂 (桜井銀平)

     ×   ×   ×

露口茂って絶対モロボシ・ダンに似てると思う。

『太陽に吠えろ!』のヤマさん以外にほとんど知らない露口茂の若かりし頃の映画。『ウルトラセブン』のモロボシダンを演じた森次浩司をもうちょっと図太くした感じ。良い役者だとおもうのだけど。個人的にはかなり好きな日本人の役者さんの一人である。

石堂淑朗がシナリオを書いている以上、たとえ原作が川端康成でも、観念論的なものになるのは仕方がない。本人は面白いつもりで書いているが、実は傍から見ると面白くないという典型的な作品。ただ、どうも我々からすこしい上の世代だと、こういう作品が好きらしい(苦笑)。
ただ、「何をもって良しとするのか」・・というビジョンが実は見えてこないので、見終わった後に「だから何?」といいたくなる。ま、これは石堂さんの場合はほとんどそうだといえるのだけど。
おそらく、これは私の勝手な推測なのだが、時代的には左派的話がおおい時期で、どこか作品のコアなる部分がそうなっているのだけど、石堂さん自身が保守派だったこともあり、作品で描かれそうになっている左派的観念をどこか否定して書いてしまうがゆえに、「結局なに?」になってしまうのではないだろうか?

吉田喜重の画面もあいかわらずシュールなのにしっかりしているのでここちよい。この人の画面をみるだけでも、みる価値はある。とくに後半の浜辺での難破船(壊れて放棄された船)のあたりの望遠画面はそれだけで絵になる。しかし、物語は生産性というものがない。ま、これはヌーベルバーグや、アメリカン・ニューシネマの特徴のひとつで、この時代の病気みたいなものなので仕方がないともいえる。なので一般的に楽しめるかといえば疑問である。しかし、映像業界に入る人にとっては、見ておかなければならない人の一人だと思う。

<あらすじ>
某一流デパートの営業課長・水木有造(芦田伸介)と結婚して8年になる妻・宮子(岡田茉莉子)は、彼女の家のリフォーム担当のデザイナーの北野(早川保)と不倫関係にある。しかし、何かにつけて感情を投資しようとしない宮子とのセックスに情熱を感じない北野は、「せめてあなたとの思い出がほしい」という。宮子のヌードを撮らせて欲しいというのだ。特に拒否するわけでもなく、「いいわよ」と答える宮子。
しかしネガが出来ると、自分の裸は最初は自分で見たいとと言い、そのフィルムをバックにしまって返って行く。事件が起きたのはその帰り道だった。何者かにつけられた宮子は、迫ってくる男にそのハンドバッグをたたきつけてなんとか逃げて返った。しかし、そのバックは男の手に渡った。やがて男から電話があった。
宮子は、ネガを取り戻すために、その男と会うことにする。彼は桜井(露口茂)という男だった。
宮子はすでに、男に身体を与えるつもりで来ていた。しかし、厄介なことに、愛人の北野が愛なのか正義感なのかわからないが、追いかけてきてしまった。このあたりから物語がこじれてくる。

物語のポイントは、意外と簡単なのである。
開き直ってしまえば、総てはどうでもいいこと。感情を投資しなければ、どうでもいいこと。それに徹しようとする宮子だが、ぎりぎりのところでその決心はいつも出来ない。それが出来なければ弱みをにぎられてしまう。そうすれば、自分はその男(運命といったほうがいいかもしれない)に支配されてしまう。
そのせめぎあいが何度が物語のなかで繰り返される。

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その後、浜辺を歩いていると、映画を撮影している一団のシーンが入る。でも、あれはないほうが良かったなあ。絵もよくなかったし、ちと押し付けがましかったかも。
どこぞの映画スタッフが恋人同士が浜辺で戯れるシーンを撮っているのだけど、主演の女優さんが裸になるシーンでは吹き替え役の人がいて、その人が裸になって海へはいっていく。「あなたは所詮誰かの、何かの代役なのよ」ってことなのだろう。
自分がいなくなれば、世間は困るのではなく、ほとんどの場合は他の代役がいつでもいるものだ。自分がそこにいるのは、そこにいて、自分が居たいからなのだ。しかし、自分をそこに存在させれば、感情も伴う。痛みも屈辱感も伴うことになる。それでもあなたは存在することを選びますか?

あそこの映画撮影スタッフのシーンがなくても、もう一つか二つあとのシーンで、露口茂の台詞にこういうのがある。
「結局、ボクが惚れてたのは、この写真の中の女だった。あなたじゃない」
男が愛するの女というのは、代用可能なのだ。理想の女は常に男の中に在り、実在する女は、その理想の女を投影するための題材でしかない。彼にとって実存する女であることを選ぶなら、彼の求める女になるしかない。代用品の女になるなら、今までのように感情を投資なければいい。
物語のなかで、彼女の旦那にとっても、愛人の北野にとっても、宮子は代用可能な女だったのでしょう。おそらく、代用不可能な女になるために、彼女は桜井に抱かれたのでしょう。

でも最後は断崖から落っことしてしまう。結局総てを捨てるということは出来なかったらしい。そのために殺人を犯してしまった。ホテルに帰ってみると、東京から夫が迎えに来ている。結局ばれちゃったのに・・・。そして帰りの列車にのると・・・、あらら、あんたは生きてたのね・・・ちゃんちゃん。

一応物語のポイントはあるのだ、結局どっちつかずの展開に、波の間でゆらゆらゆらめいただけ・・みたいな話でした。
by ssm2438 | 2012-01-31 01:04
f0009381_0275051.jpg監督:吉田喜重
脚本:石堂淑郎/吉田喜重/高良留美子
撮影:鈴木達夫
音楽:一柳慧

出演:
入川保則 (松谷静雄)
岡田茉莉子 (母・松谷静香)
山形勲 (橋本伝蔵)
浅丘ルリ子 (娘・橋本ゆみ子)
弓恵子 (芸者・花絵)

       *        *        *

男はみんな、女の息子である。

大島渚篠田正浩らとともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手と呼ばれたのがっこの吉田喜重。個人的にはこの3人の中では一番好きかもしれない。とはいっても、見始めたのはつい最近だけど(苦笑)。ヌーヴェルヴァーグとかアメリカン・ニューシネマとかが嫌いな私にとっては、ちょっと食わず嫌いのところがあったのですが、『秋津温泉』を境にみはじめてみるとけっこう面白い。ただ、60年代の、それまでの保守的なものにやたらと対抗して変なものだけどに走った感のある時代だけに、諸手をあげて「これは素晴らしい!」と言える物ではないことも重々承知の上で見てるつもりである。

本作のポイントのひとつは脚本家の石堂淑郎さん。作品的には左派的な思想の作品におおくかかわっているので、個人的にはあんまり近づきたくはないなという印象があったのだが、調べてみると、本人は保守派らしい。ただ、時代が左派的映画の脚本を要求してた時代と言えるだろう。
なのでひとつわだかまりがとけた。
石堂淑郎の脚本は、どこかあたまでっかちで、理屈だけをやたらとこねるきらいがある。実相寺昭雄の『無常』『曼陀羅』もこの人の脚本だ。さらにその流れで、フリーの脚本家となってからはテレビでの活動が増え、『マグマ大使』『シルバー仮面』『怪奇大作戦』『帰ってきたウルトラマン』などの特撮ヒーローもの、『必殺仕掛人』『子連れ狼』といった時代劇、SFドラマ『七瀬ふたたび』、銀河テレビ小説の第1回作品『楡家の人びと』などさまざまなジャンルの作品を手がけている。
左派的な流れの作品を描きながら、それに流されないスタンスがあったのだろう。
しかし、考えてみれば、このような人が子供向けの番組をしっかり書いていてくれたことは素晴らしいことだ。その内容も、私もうっすらとしか覚えていないが、子供を子ども扱いしないスタンスで物語を作っていたと思う。そして我々が子供の頃にはそれをみて、「こういう物語はおもしろいんだ!」とどこか納得していたものなのだ。そんな石堂淑郎スピリットが、知らず知らずのうちに心に刻み付けられているのだろう、どこかこういう映画をみると、子供の頃の特撮ものの出来が良かった回を何気に思い出してしまう・・・。

監督は吉田喜重、主演はこの時すでに吉田と結婚をしていた岡田茉莉子。岡田茉莉子には「丸顔のでぶなおばさん」というイメージがあり(申し訳ない!)、それが原因で避けていたこともあったのだが、このころの岡田茉莉子はかなりきれいである。食わず嫌いはするものではないなと思ってしまった。

この物語は、主人公の父親は身体が弱く、早くに他界した。そんな父に付き添う母は、美しい人に見えたが、実はそのころからすでに別の男がいて、その愛人であった。そのことに徐々に気づいていく息子の話。
母回帰ものといっていいのだろうか、「所詮男は、女の子供なのよ」という話かもしれない。母と息子の近親相姦へ転びいそうなにおいは全編にあるのだが、そこにはいかな・・・こともないか、いや、あれはやっぱりそこまでいってるつもりで撮ってるのかもしれない。どっちにせよ母親を「女」とはみとめなくわない、男にとっては壊されると心に痛い概念を描いている根源的なところを描いている映画である。
おそらくアンドレイ・タルコフスキー『鏡』と同じ精神構造の話なのだろう。

画面はすこぶるカッコイイ。
初期の実相寺昭雄みたいな画面と言って良いかもしれない。『曼陀羅』移行は広角レンズの表面的なチャラチャラ感だけに汚染されると見る気がしなくなるのだが、吉田喜重の画面はあの頃のアバンギャルドではあるが、きちんと望遠で、映画の画面として構築されている。
レイアウトで映画を見たい人は、一度はチェックするべき監督さんだと思う。

<あらすじ>
幼い頃、父を心臓病でなくした松谷静雄(入川保則)は美しい母静香(岡田茉莉子)と二人暮しの平凡な銀行マンだった。しかし静雄は、大企業の実業家・橋本伝蔵(山形勲)の娘・ゆみ子(浅丘ルリ子)との結婚がきまっていた。橋本伝蔵は、若い頃から女にことかかないやり手の男だった。自分の娘と結婚しよういう静雄に芸者の花絵(弓恵子)を紹介して抱かせたりもする。
ある日、静雄が机の引き出しをあけると、怪しい封書があった。それには、橋本伝蔵と母の静香が出来ているといういのだ。嫌がらせの手紙をかいた男はすぐに見つかったが、静雄の婚約をねたんだものだった。しかし、過去の記憶をひもといていくおもいあたる筋がある。
成り行きに逆らわぬまま伝蔵の娘と結婚した静雄だが、彼女を心の底から愛する気にはなれない。もしかしたら、自分は父の息子ではなく、橋本伝蔵の息子かもしれない。そうすれば、ゆみ子は、自分の妹かもしれない・・・。しかしそれは差ほど問題ではない。心からにくいのは、自分の人生が橋本伝蔵に所有されていることなのだ。そして伝蔵と母の関係は一次途絶えていたものの、いまだに続いている事を知る静雄。
総てを放棄し、ゆみ子とも別れ、会社も、昇進も捨てた静雄は、母の家を訪ねた・・・。


後半、やたらとイメージ映像つかうようになってからは、今ひとつ退屈なのだけど、前半はけっこう面白い。

余談だが、『男はつらいよ』のりりーさんしかイメージがなかった浅丘ルリ子が、みょうに健全にみえた。あんなにがりがりではなく、この映画の浅丘ルリ子はとても健康的に綺麗である。
by ssm2438 | 2012-01-30 00:28
f0009381_12514340.jpg原題:BEING THERE

監督:ハル・アシュビー
原作:イエジー・コジンスキー
脚本:イエジー・コジンスキー
撮影:キャレブ・デシャネル
音楽:ジョニー・マンデル

出演:ピーター・セラーズ
    シャーリー・マクレーン
    メルヴィン・ダグラス

        *        *        *

原作はイエジー・コジンスキー『BEING THERE』、昔英語の原書を本屋でみつけて読んでみたのだが、短編で英文も難しくなく終わりまで読めた。

いつの頃から彼がそこに住んでいるのかもわからない。その屋敷の主人は彼に自分の部屋を与え、庭師としてそこに住まわせていた。彼の唯一の楽しみはテレビをみることだけで、塀の外には出たこともない。そこにはたらくメイドも詳しい素性はしらない。ただそこにいたというだけの男チャンス(ピーター・セラーズ)。

そんな屋敷の主人がある朝亡くなった。やがて管財人に屋敷を出て行くように言われたチャンスは生まれてはじめて塀の外に出る。見るもの、出合ううものが総てが珍しい彼が、彼には悪意とか不安とかという普通の人が持つ概念は存在しない。喧嘩をうられてても、からかわれててもその意味がわからない。つねに穏やかな紳士なのだ。そんなチャンスが俗世間の有様に気をとられていると、出発しようとした1台の高級車に足をはさまれてしまう。中に乗っていた婦人イブ・ランド(シャーリー・マクレーン)は手当てをしたいので家に寄って欲しいと言われた。名を問われ、庭師チャンスと名のるが、彼女はそれをチャンシー・ガードナーと聞き違えた。その後彼はチャンシー・ガードナーという人物であると勘違いされていく。

その車は経済界の大立物ベンジャミン・ランド(メルビン・ダグラス)の大邸宅にはいっていく。イブは彼の妻だった。ランドは高齢で健康状態もすぐれなかったが、チャンスの子供のような無垢さと、何事にも動じず、虚栄心のまったくないその穏やかな態度に気持ちが安らぐのを感じた。数日後、ランドを見舞いにやって来た大統領と会う時にもチャンスを同伴した。彼らは停滞するアメリカ経済をどう再生させるかという話をしていたが、ランドはチャンスにも意見を求めた。経済のことなどまったくわからないチャンス。そんな彼は、四季を通じて移り変わりながらも少しづつ成長を遂げる庭に接していた体験を穏やかに話す。
翌日大統領はTV放送のスピーチでチャンスの言葉を引用し、それをきっかけに彼の名は一躍全米に知れ渡るようになる。大統領も意見を仰ぐチャンシー・ガードナー。それから政治経済の知識人としてチャンスのTV出演などの奇妙な生活がはじまる。しかし活字もよめないチャンス。どこの新聞を読みますか?とのマスコミの問いに「私はテレビが好きです」と答えるチャンス。「著名人のなかで新聞を読まないと公言したのは彼がはじめてです!」と祭り上げられる。
あまりの影響力にCIAもチャンスの素性調査に乗り出すが彼の正体はまったくつかめない。
やがてランドが大往生を遂げる。後ろ盾を失った現大統領では選挙が戦えないと次期候補を模索する政界。
そこにチャンシー・ガードナーの名前が挙がってくる。
政治的に利用されるようになることを知ってか知らずか、チャンスは姿を消していくのだった。

庭師チャンスは多分<天使>か何かなのだろう。決して悪意を持つことのない精霊・・? しかし、本人もそのことを知らないようだ。

「育てる」ということは、庭の木々を育てるのも、人材を育成するのも、国の経済を育てるのも同じこと。この映画はコメディではなく、宇宙の真理をといた映画。

そしてこの穏やかなドラマを高品位で映像化したのがキャレブ・デシャネル『ワイルドブラック』『ライトスタッフ』『ナチュラル』『グース』など、数は多くないがきわめて気品のある画面を提供してくれるシネマトグラファー。彼の画面はほんとにすばらしい。大好きな撮影監督のひとりだ。
by ssm2438 | 2011-10-06 11:35 | C・デシャネル(1944)
f0009381_21233718.jpg監督:イ・ジェハン
原作:辻仁成
脚本:イ・ジェハン
    イ・シンホ/イ・マニ
撮影: キム・チョンソク
美術: チェ・ギホ
音楽: ソ・ジェヒョク

出演:
中山美穂 (真中沓子)
西島秀俊 (東垣内豊)
石田ゆり子 (尋末光子)

    *      *      *

中山美穂と石田ゆり子は、キャスト入れ替えてやってほしかったかな。

中山美穂って基本的には怖い顔なので、どぎついメメイクをするとドンビキしてしまう。その点石田ゆり子は、どこか幼さが残る顔立ちなので、こういう人にどぎついメイクをすると、いかにも意地張ってそうで素敵な雰囲気になる。

物語は『スウィート・ノベンバー』みたいな感じ。赴任先のタイで知り合った沓子オリエンタルホテルのスイートルームで暮らす謎の女。その女に魅了されてしまった主人公。そして情事。自分だけが彼女にとって特別なj人間なんだと思っていたら、どうやらそれは順ぐりにやってくるめぐり合わせのようなものだった。その実態をしると萎える主人公。でも、やめられない。でもなんとか別れることにするのだが、どうやら彼女のほうも「これはいままでの遊びとは違う何かだ・・」と思い始めたらしい。

その他大勢のなかに一つだと思ってたら、ひつは特別な一つだった・・ってよくあるストーリー。もちろん、良くあるストーリーで悪いことはない。奇をてらったストーリーのほうが悪いことのほうが多い。なので、良くあるストーリーはいいのだけど・・・、うむむむ。それでもちょっと喰い足りないのは、それぞれが選ばれる理由が今ひとつはっきりしないのがダメなのかな。その結果、「べたべたしてくれる女のべたべたしてたけど、時期が来て別れ、25年の月日を経てあってみたらまた懐かしくなった」ってことで終わりそうな話になってしまった。
もうすこし、それぞれが特別だったことを印象付けて欲しかったなあ。根本的にムードだけでおしてるので、「タコ焼きにはいってるタコが小さいぞ!もっと大きくしろ!」って言いたくなる。

でも画面はけっこうしっかりしてる。望遠でとるところは望遠でとってるし、ハンディでしかとれないところは、そうとる理由付けをしてあるし(たとえば本人目線であるとか)、レンズの使い分けもしっかり出来てて、画面だけで最後までみさせてもらえる映画です。特に突出する点をあげるとしたら、カメラ前の<ブック>の使い方が以上に上手い! みてソンはない映画である。
最近の日本の監督さんにこんなレンズワークが使える人がいなくなっているので、以前からすると当たり前のことでも、今の時代だとすごいことのようにもみえる。しかし・・・ほんとに今の日本の監督さんってレンズの意味や視点の意味をまったく理解してない素人がおおい。このままいくと日本映画は崩壊するんじゃないかと思ってしまう。

<あらすじ>
1975年、タイ、バンコク。イースタンエアラインズ社の若きエリート東垣内豊(西島秀俊)がバンコク支社に赴任してくる。彼は東京に残してきた美しく貞淑な婚約者、尋末光子(石田ゆり子)との結婚を控えていた。だが、彼の婚約を祝う祝宴に現れた真中沓子(中山美穂)の艶やかな美貌と官能的な魅力に支配された豊は、体を重ねるようになる。結婚式が近づき、別れなければならないと知りつつも、沓子への気持ちを抑えられない豊か。一方、恋愛を遊びと割り切ってきた沓子は、豊への気持ちが本心であることに気付く。25年後、光子と結婚し、副社長に昇進した豊は商談で再びバンコクを訪れる。かつての想いを胸に、オリエンタルホテルに足を踏み入れた彼の前に現れたのはそのホテルのVIPの接待をまかされていた沓子だった。

--このあたりから燃えてくる。
以前の沓子は感性のままに言葉をはき、しかしそこには真実はないようだった。思いつきの言葉ばかり、しかし、その言葉が、総てを理性で生きている豊かにとっては新鮮だったのかもしれない。そんな沓子との再会。そしてホテルの従業員となった沓子に案内されたあのスイートルーム。そんな沓子をそしておもわず抱きしめてしまう豊。ここからの沓子の台詞が素晴らしい。
いままですべてはぐらかしてきたような沓子の言葉はいまわなく、お客様に接する従業員のビジネストークなのだが、その口調で「ずっとずっと会いたかった」・・と彼女の心情を語るのである。上手い!!!!
一緒に食事にいくと、メニューをみるのにふたりとも老眼鏡をかけないと見えない。おもわずふきだしてしまう二人・・・。上手い!!

そのあとは一度東京に戻って、総てを捨てて、今一度タイにもどってくる豊かだが、案の定沓子は癌におかされていた・・・。
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by ssm2438 | 2011-08-18 21:24
f0009381_22413572.jpg監督:アラン・パーカー
脚本:アラン・パーカー
撮影:マイケル・セレシン
音楽:トレヴァー・ジョーンズ

出演:
ミッキー・ローク (ハリー・エンゼル)
ロバート・デ・ニーロ (ルイ・サイファー)
リサ・ボネ (エピファニー・プラウドフット)
シャーロット・ランプリング (マーガレット)

       *        *        *

映像だけはハートがこもってたのだが・・・

あとリサ・ボネのスレンダーな身体を撮ったカメラにもハートがこもっていたな(苦笑)。

80年代を席巻したイギリス出身の映像派監督といえばリドリー・スコットとかエイドリアン・ラインがメジャーだが、この一人、アラン・パーカーのその一人。特に映像だけならこの『エンゼル・ハート』はかなり凝った画面をつくっている。しかし、困ったことにお話がどうにもまどろっこしいというか、どうもいいというか、オチさえなければまだ納得できたのに・・って話。そういえば最近でもジュリアン・ムーアの映画でこんなのがあった。なんだっけ・・??? そう、『フォーガトン』
交通事故で死んだはずの息子が、実は存在しなかったことになっていく・・ってサスペンス。サスペンスだったらその謎解きが面白いんだけど、最後にちゃぶ台ひっくり返して「実は宇宙人の仕業でした」って・・・、おい! だったらいままでの謎謎ストーリーはなんだったんだ?? それが人間の理屈で作ってあてそれが暴かれるから映画として納得できるのに、「宇宙人でした」とは何事か!?」って、皆さんが激怒した映画。実はその『フォーガトン』に先立つこと10数年前、アラン・パーカーこの『エンゼル・ハート』で肩透かしをくらわせていたのでした。

<あらすじ>
戦前の人気歌手ジョニーを探してほしいという依頼をうけた私立探偵ハリー・エンゼル(ミッキー・ローク)。依頼人は爪を長くのばしたルイ・サイファー(ロバート・デ・ニーロ)。ジョニーが占い師とつきあっていたことをつきとめ、彼女の行方を追ってニューオリンズへやってきたエンゼル。安ホテルにとまり、その占い師のマーガレット(シャーロット・ランプリング)に会い、ジョニーのことを聞き出そうとするが失敗する。ジャズクラブでかつてのジョニーの同僚ツーツ・スイート(ブラウニー・マッギー)に話をきこうとして叩き出され、ジョニーの愛人だった黒人女性宅を訪ねると、その娘エピファニー(リサ・ボネー)に「母は死んだ」と聞かされる。ジョニーの行方を追うエンゼルの回りでは人がどんどん死んでいく。ジョニーの担当だった医師。元恋人のマーガレット。愛人だった黒人女性とその娘。
ニューオリンズでルイ・サイファーに会い、彼が実は「ルシファー」、つまり悪魔であることが判明。そしてジョニーを探していたエンゼルこそがジョニーであり、これまでの殺人事件はすべてジョニー=エンゼルがしてきたことだとわかる。本当のハリーもジョニーに切り刻まれて、とうの昔に死んでいた。そしてエピファニーの死体を前に、ジョニーは「俺の娘だ」という。

ジョニーは悪魔と契約してハリー・エンゼルとなったのだが、この「悪魔」というコンセプトさえなければこの映画も少しは面白いものになったに違いない。「オチ」が総てをぶち壊したという悲しい映画の一つだ。それまでみてきたハラハラドキドキがすべて無意味なものにされ、ふ~~~~~~~~~ん、それで、なにが面白いん???って感じだった。

話の内容的には☆一つなのだけど、ムードと映像がカッコいいので☆ひとつおまけ。
特にリサ・ボネとミッキー・ロークの“H”のシーンはなかなかよかった。雨のなか、ホテルの一室で“H”をしてるのだけど、雨水が部屋のなかにたれてきてる。それがだんだん料が増えてきて、やがて血にかわっていく。なんで・・・?って謎解きよりも、ひたすらムード先行だった(苦笑)。

ちなみにシャーロット・ランプリング死んだときはおっぱいだしてたけど、これはラバーのような気がする(↓)。ほんとのオッパイはリサ・ボネのそれだけだったような・・・。残念。貧乳でもシャーロット・ランプリングのオッパイはそれだけで価値があるのに・・・。
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by ssm2438 | 2011-07-24 22:44

処女の泉(1960) ☆☆☆☆

f0009381_15451262.jpg監督:イングマール・ベルイマン
脚本:ウルラ・イザクソン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:エリック・ノードグレーン

出演:
マックス・フォン・シドー (カリンの父・テーレ)
ビルギッタ・ペテルスン (殺される娘・カリン)
グンネル・リンドブロム (養女・インゲリ)

       *        *        *

いやあああ、ベルイマンの芝居付けに感動!

1961年のキネマ旬報1位がこの作品。お話はたいしたことないのだが、芝居付けがばらしい。

イングマル・ベルイマンが、黒澤明『羅生門』からインスピレーションを得た映画とう言葉で言われるが、この二人はさりげなくお互いを映画を意識しあっていた感がある。このほかにも黒澤明の『赤ひげ』(1965)のすい臓がん患者の死ぬ前のぱくぱくは、ベルイマンの『沈黙』(1962)のイングリット・チューリンの病床でのもだえシーンを移植したような感じもした。この二人の作品には、「あの映画のあのシーンだが、オレならこのように撮る」という暗黙の駆け引きを感じるのである。しかし、この二人、決定的な違いがある。それは感情移入へのアプローチなのだ。
黒澤明の映画をみても感情移入はほとんど起きない。黒澤の映画というのは、「強さ」とか「弱さ」とかを象徴する芝居を演じさせているが、あくまで記号であって、「そう描かれれば強いことになる」「そう描かれれば弱いことになる」という一般的な理性による解釈なのだ。その記号がダイナミックなのが黒澤映画なのだが、所詮は記号なのでどっか感情移入できない。
ベルイマンの演出というのもダイナミックな芝居付けをする時があり、特にこの『処女の泉』は芝居付けのダイナミズムという点においてはベルイマンのなかでも一番だろう。しかし黒澤明と根本的に違うところは、人間性を描いているところだろう。ベルイマンの演出な感情移入の宝庫なのだ。
この映画の芝居をみると、理性は、“そうすべきではない”と主張するが、感情が“そうしたい!”と叫んでいる、あるいはその反対もあり、内面を表現していることに気付く。その感情のブレているのである。理性と感情の間で、本人がどちらを選ぶかという戦いがそれぞれの登場人物の内部で猛烈にせめぎあっているのだ。

f0009381_15453134.jpgカリン(ビルギッタ・ペテルソン)は、純粋培養されたような無垢で可憐な少女である。彼女が教会へロウソクを届けるために森を通り抜けようとして3人の三人の羊飼いに会った。見た目はいかにも気持ち悪そうな3人だが、おそらくカリン「人を容姿で判断してはいけません」と教えらているのだろう。そんな3人に森の中で食事を施するカリンはまるで天使である。ただ、彼女の心がほんとうにそれを奉仕する喜びとして行っていたとえばそんなことはないだろう。心は「逃げたい」叫んでいたにちがいない。結果として彼女は犯され、頭を殴打されて死んでしまう。

その一部始終をみていた養女インゲリ(グンネル・リンドブロム)。石を握り木陰から飛び出そうするが体は動かない。彼女は、物語の冒頭のほうで、カリンの不幸をオーディーンの神に祈ったくだりがある。だからといって、現実におきていることを望んだわけではなく、おそらく、祈ったそのことが現実に起きてしまい、恐ろしくなって何も出来なかったと解釈するほうが自然だろう。そして後に「あの兄弟は悪くはない。カリンの不幸を神に祈った私が悪い」とカリンの父テーレ(マックス・フォン・シドー)に告白する。

何の因果か、カリンを犯して殺したその3人の羊飼いは、夜露を凌ぐ場所をもとめてカリンの家に泊めてもらうことになる。寝る場所と食事を与えられた3人は、カリンの母メレータ(ビルギッタ・ヴァルベルイ)にお礼として絹の衣をゆずることにする。しかしそれこそはカリンの着ていた服であり、それには血もついていた。さらにインゲリの告白から彼ら3人がカリンを殺したことを知った父テーレは、3人を惨殺する。
ここでもテーレの心は「こいつらでも殺すべきではない」と叫んでいるが、「娘を犯され殺された父が、こいつらを許すべきではない」という理性の主張を受け入れ、彼らを惨殺する。

※世間では彼の惨殺行為を「怒りに任せて」と表現する人も多いが、それは違う。この殺しの場面では、娘をころされた父親の面子(つまり理性)の誘導によって3人を殺したと感じ取るほうが正しいだろう。

理性と感情の間での揺らぎというのは、誰しも経験したことがるものなので、これを芝居の中に挿入されていれば、いやおう無しに感情移入できてしまうのだ。しかし、黒澤映画のように<ブレない記号>になってしまうと、そこに人間性を感じることはなく、作り話のなかのアイテムとしてしか理解されなくなってしまう。

お話のまとめてとして、殺されたカリンの遺体のあった場所からあふれ出る泉。そしてその水を手ですくって顔を洗うグンネル・リンドブロムがとたんに美しく見え始める。本来グンネル・リンドブロムは美しい人の部類にはいるはずなのだが、本編中の彼女はめっぽう薄汚い。それもこのシーンのためにそうしてあったのだとあとから感心してしまった。やっぱりグンネル・リンドブロムは綺麗でないといかん。ベルイマン映画のヒロインのなかでは、彼女が一番すきである。
by ssm2438 | 2011-06-23 15:49 | I ・ベルイマン(1918)
f0009381_18392015.jpg監督:和泉聖治
脚本:石井隆
撮影:佐々木原保志
音楽:一柳慧

出演:
高樹沙耶 (北村沙耶)
名高達郎 (カメラマン・橋口裕)
土屋昌巳 (ビニ本編集者・神崎繁)
加賀まり子 (神崎の母親)

        *        *        *

高樹沙耶がすばらしい。彼女のベスト1の映画。

このときの高樹沙耶はむちゃくちゃすばらしい。美しい。ミステリアス。なのにこの後の映画はなんだ! 彼女を無駄使いしただけの映画ばっかり。唯一この映画だけが彼女を生かして撮れている映画。監督の和泉聖治は・・・・、正直な話、これ以外の映画はどれもしょぼい。なんでこの映画だけがまともにとれたのはいまだに謎だ。

原作はすばる文学賞の受賞作品。今では死語になってしまった『ビニ本』の写真家がある日出合った沙耶という女性。しかし、彼女は感じない身体をだった。それでも付き合うようになっていく主人公の写真家と沙耶。なぜ、彼女がそんな精気のない人間になってしまったのか・・・その訳を紐解いていく心理サスペンス。

やや、ヤン・デ・ボンににてるかもしれない照明も実にわざとらしくていい感じ(苦笑)。石井隆のシナリオがいいのか、はたまた原作がいいのか、どっちもそれなりにいいのだろうな・・、ミステリアスな雰囲気はとてもいい映画だ。隠れた名作だと私は思っている。

<あらすじ>
ビニ本のカメラマン橋口(名高達郎)は、編集者の神崎(土屋昌巳)から沙耶という女性(高樹沙耶)を紹介される。彼女は都内のデザイン会社のアーティストだった。神秘的な表情に心魅かれ、ホテルへ誘い込むが、「私、感じないんです」としらけたムードに、橋口もやる気をなくす。沙耶が置き忘れたスケッチブックには、男の性器がケロイドで被われた春画風のデッサンが描かれていた。数日後、伊豆ロケに行った橋口は、神崎が連れて来た沙耶と再会する。神崎と沙耶のなにかありそうな関係がさりげなくきになる橋口。そしてみてしまう、神崎の太股にある焼けどのあと。神崎は事故の原因は母親で、自分に彼女が出来た時に母親が嫉妬でお湯をかけたからだと説明した。
その夜再び沙耶を抱く橋口。たとえ女が感じてなくても男はセックスは出来る。沙耶は橋口に神埼との出会いを語る。分裂症で入院していた病院で、精神を病んでいる神崎の母親と会い、それが原因で神崎と知り合ったことを告げる。橋口と沙耶の関係は順調にいき一緒に暮らし始める。
一方神崎は裏本の製本で逮捕されてしまう。
橋口と沙耶の生活もギクシャクすることがおおい。沙耶がぐれている時は何を言っても仕方がない。沙耶は橋口が何を言っても返事をせず、食べることも拒否しだした。途方にくれた橋口は沙耶との関係を絶った。一カ月後、裏本で逮捕された神崎は出所した翌日、橋口を呼びだした。かねてからの「視姦」のビニ本を作ろうとうのだ。
呼び出されたマンションの一室にいってみると沙耶が裸で横たわっていた。となりにはバイブレーターがうにょうにょ動いていた。雨の降る屋上で神崎は、橋口にケロイドの真相を語る。母を見舞いにいった精神病院で出会った沙耶と付き合い始めた神崎だったが、沙耶は『性』が愛を裏切ると神崎を拒もうとした。ならば自分の性欲を殺すと、沙耶の眼の前で神崎は自分のペニスに熱湯をかけたのだった。二人の間には入っていけないと感じた橋口は、部屋に戻り敗北宣言。苦しみのシェアができた沙耶ははじめて橋口の前に笑顔をみせる。そのすがすがしさに感動した橋口は思わずカメラを構えシャッターをきったとき・・、おくの窓を落下する神崎の姿が映った。
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by ssm2438 | 2011-05-29 18:40

砂の女(1964) ☆☆☆☆☆

f0009381_22534998.jpg監督:勅使河原宏
原作:安部公房
脚本:安部公房
撮影:瀬川浩
音楽:武満徹

出演:岡田英次(仁木順平)/岸田今日子(砂の女)

       *        *        *

砂がなかったら、私なんか誰も相手にしてくれねー。

アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』で、ゾーンを破壊しにきた政府のこうさくいんに対して、ストーカー(ゾーンの案内人)が行ったの言葉が、これに近い意味のことばをはいている。「もし、ゾーンがなくなったら、オレは誰にも必要とされなくなる」。切実である。

1964年キネ旬邦画部門ベストテン第1位カンヌ国際映画祭審査員特別賞アカデミー外国映画賞ノミネート、全世界で絶賛された不条理サスペンス(?)の最高傑作。ちなみにこの年のアカデミー外国語映画賞はヴィットリオ・デ・シーカ『昨日・今日・明日』。申し訳ないが、こちらの『砂の女』のほうがはるかにスゴイ。あちらを選んだ選考員の方々はきっとあまりに衝撃的すぎてどう解釈していいのか分らなかったのだろう。

この映画、まだ20代のころリバイバル上映され、劇場でみさせていただいた。個人的には生産性のない不条理物というのは大嫌いな映画のうちなので、この作品もどうなるか心配だったのだか、いやいやいやいや、さすがにすごい。ミステリアスは雰囲気とエロチシズム、不条理の中で語られる<自由>の考察、必要とされることと存在意義、それらが抽象的な表現でがしがし描かれている。見てる間中緊張感と好奇心と頭脳労働で思想と五感がフル回転。実に素晴らしい映画のような映画で、傑作中の傑作である。

8月のある日、一人の教師・仁木順平(岡田英次)が昆虫採集にある砂丘地帯を訪れた。のんびりとした時間のなかで、浮世の煩わしさから解放された男はその開放感に寄っていたが、帰りのバスをやりすごしてしまい、日はおちていく。その部落の老人が「この村にゃあホテルなんかはないが、あんた一人くらい泊めてくれる家くらいある。都合つけてやろう」といい、ある家を紹介される。その家はすり鉢上の砂の中にあり、一方が湿った砂でできた切り立った崖になっていた。そこに滑車があり、下に下りていくという仕組みになっていた。
そこには30代の女性(岸田今日子)が一人住んでいた。その女は夜になると砂の浸蝕から家を守るため砂かきを始めた。翌朝目覚めた男が見たものは、素裸で砂にまみれて寝ている女を姿だった。外に出てみると上に登るための縄梯子は消えていた。そのとき男は、自分が砂かきのための労働力として囚人になったことを知る。

その女のヌードも出てくるし、砂にまみれた乳首もでてくるのだが、岸田今日子のそれではないようだ。しかし、岸田今日子がなんと妖艶なことか。通常はもんぺ姿なのだが、雰囲気があまりにエロいのである。女は自分の家を砂から守るために男を必要としていた。その労働力のかわりに、彼女は身体を与えることはいとわない。生活に必要な物資は部落の男が週になんどか届けてくれる。そんな外の世界から隔離されたこのアリ地獄。

「なぜ、ここから出て行こうとはしないか?」と男は問う。
「だって私の家だから」
「砂が憎くないのか?」
「この砂がなかったら私なんか誰からも相手にされない」

男はさまざまな手段を講じて脱出を試みる。滑車がある湿った砂の崖は、昇ろうとしてもすぐ崩れ落ちてしまう。そこでない方角はアリ地獄のように砂がスロープをつくり、登ろうとしても砂ごと滑り落ちてしまう。カラスをつかまえて伝書鳩にしようと試みるが失敗。
やがて錆びたはさみをロープの端にくくりつけて、滑車のほうに投げてみる。引っかかった。男はそれを昇り脱出した。しかし、運悪く底なし沼におちてしまい、部落の住人を呼ぶ始末。結局また穴の中に連れ戻されてしまう。しかし、カラスを捕まえるためにほった穴から水が湧き出していることを発見、水の心配をしなくてすむようになるとこころが豊かになる。
その後女は子宮外妊娠で腹痛のおそわれ、担架にのせられて外の世界に運び出される。そのとき縄梯子が放置されたままになり、男は苦もなくそとの世界に戻れる。
しかし嬉しくない。あれほど囚われの身で欲していた自由なのだが、いざ取り戻してみると何も感じない。男は再び砂の世界に戻っていくのである。

この映画のなかの「自由」は、それが得られないときは切望するのだが、得てしまうとおもしろくもなんともない・・という、実に矛盾のような真実を描き出している。そのむかしサン=テグジュペリは『夜間飛行』の中で、「自由とは責任の中にある」と書いていた。「責任」だけが「自由」を買える唯一の価値であり、「責任」の存在しない自由などはただただ空しいだけなのだ。たぶんこの『砂の女』という映画も、そのポイントこそがコアなのだろう。
抽象主義的映画、アート映画、そういう本来私が大嫌いなジャンルの中で、この映画はこれ以上にない傑作として存在している。

もうひとつ、おそらく実相寺昭雄がめざしていたのはこのような映画だったのだろう。しかし結果的に最後までたどり着けなかった映画。おそるべし勅使河原宏
by ssm2438 | 2011-05-19 22:54