西澤 晋 の 映画日記

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2011年 04月 27日

シャーキーズ・マシーン(1982) ☆☆

f0009381_22354853.jpg監督:バート・レイノルズ
脚本:ジェラルド・ディペゴ
撮影:ウィリアム・A・フレイカー
音楽:スナッフ・ギャレット

出演:
バート・レイノルズ (シャーキー)
レイチェル・ウォード (ドミノ)

       *        *        *

ウィリアム・A・フレイカーのコントラストは絶品!!

話はあんまり大したこと80年代前半の刑事ドラマなんだけど、ウィリアム・A・フレイカーの真っ黒な背景がいいんだ。
先ごろはデジタル技術の進歩で、意地でも見せないときがすまないやからがおおいなかで、きちんと黒を黒として撮ってくれる撮影監督さん。しかし、ゴードン・ウィリスのようないってしまってる黒さではなく、ある程度節度をもって、エンタテーメントに画面を処理してくれる撮影監督さんだ。個人的は好きな撮影監督さんの人である。
この『シャーキーズ・マシーン』『ミスターグッドバーを探して』の画調に近いかな。かなり黒い(笑)。しかしそのあと撮った『天国から来たチャンピオン』ではハスケル・ウェクスラーの撮った『ウディ・ガスリーわが心のふるさと』みたいな白のにじみをふんだんに生かした綺麗が画面を、そしての『ウォーゲーム』では、赤や青ののネオン光をさんざんつかったエンタテーメントの画面を披露してくれた。のちに『スペースキャンプ』などもこの路線の照明の使い方だ。私の中では一番エンタテイナーな撮影監督さんという印象の人である。

監督はバート・レイノルズがみずから監督をつとめている。なんでこの映画で・・という疑問もある。それほど本人がこだわらなければならない物語の要でもないのだが・・・、どうしても自分で撮りたかったのだろうか? あるいは、誰もいないから仕方なくやるはめになったのだろうか???ただ、内容的にはそれほどこだわりをもって撮られた映画という印象は、正直受けなかったのだけど・・・。。

話の発端はこんなところだ。
麻薬課のシャーキー刑事(バート・レイノルズ)はドミノ(レイチェル・ウォード)という娼婦を監視するために向かいの建物に部屋をかり四六時中監視をつづける。その結果、彼女をあやつっているのはビクターという名の男(ヴィットリオ・ガスマン)であることが判明する。その部屋には盗聴マイクが仕込まれていてドミノと彼女に関係する男たちの会話が聞こえてくる。その様子も向のビルから覗き見ることが出来る。やがて彼女のアパートを殺し屋が襲い、ショットガンをぶっぱなすのが見えた。シャーキーは、ドミノのアパートに行き、そこで彼女に会う。殺されたのは、ドミノの友人ティファニーだったのだ。彼女を守るため、シャーキーは自分の家にドミノを連れてゆく。

この映画の楽しさは、レイチェル・ウォードとバート・レイノルズとのからみだろう。この映画の素晴らしいところは、主人公の刑事であるバート・レイノルズが、レイチェル・ウォードを抱きたいとう欲望をもっているところ。
ビクターの支配下から逃れなれないドミノは、悔しさを押し殺し、理性を殺すために涙を流しながらコカインを吸い、その男の求めに応じる。彼のまえでストリップをし、彼を欲情させたところで、その前にひさまづきフェラチオをする。それの会話を盗聴しているバートレイノルズ。屈辱感に打ちひしがれている彼女を哀れむのと同時に、あきらかに、その男に嫉妬し、その男に奉仕するドミノの欲望を覚えているバート・レイノルズ。この描写がいいんだ。
それを任務という言い訳で覆い隠しているバート・レイノルズが健気にも意地をはっている。抱きたいのに抱きたいといえない人間味のあるチキンさ、男として普通な感性。お互い反発しながら、レイチェル・ウォードは、バート・レイノルズの痛いところを着く。「あなたも私が抱きたいんでしょう」。
この映画の主人公は、あの悪役と同じ感情で、ドミノという女を抱きたいと思うのである。それは美しい愛とかではなく、いい女に対するただの欲望なのである。それがすばらしい。
これがダーティ・ハリーなんかだったらこういう正直な展開には決してならない。この点が、他の刑事ドラマとこの『シャーキーズ・マシーン』の根本的な違いであり、この映画が愛される理由だとおもう。数々ある刑事ドラマのなかで、映画の良し悪しは別にして、個人的にはかなり好きなほうの映画である。

物語自体は大しておもしろいわけではなく、最後のほうもまどろっこしく、もうちょっとかっこよくてもいいのにと思う後半のまとめ方だ。レイチェル・ウォードとバート・レイノルズの逃避行が終わったところで、この映画の楽しさは終わったといっていい。そのあとはどうでもいいや。。。

by ssm2438 | 2011-04-27 22:37 | W・A・フレイカー(1923)
2011年 04月 20日

ブロンディー/女銀行強盗(1993) ☆☆☆

f0009381_1624682.jpg監督:ラッセル・マルケイ
脚本:ウィリアム・オズボーン/ウィリアム・デイヴィス
撮影:デニス・クロッサン
音楽:ブラッド・フィーデル

出演:
キム・ベイシンガー (カレン・マッコイ)
ヴァル・キルマー (JT)
テレンス・スタンプ (ジャック・シュミット)

       *        *        *

キム・ベイシンガーの美しさに、見ている人の心は見事に盗まれるでしょう。

画面が良い。撮影監督誰だろうってチェックしてみたらデニス・クロッサン。何やってる人って調べてみると、おお、なるほど・・・・・、私がけっこう好きな作品やってる。『迷宮のレンブラント』この人だったのですね。『ラストサマー』も、『エージェント・コーディ』も。大丈夫はわけだ。とっても照明もでしゃばらず、かっこいい。全体的に見やすいしコントラストもいい、ライティングも、黒の絞りも、レイアウトも的確。この人これから要チェックですね。

監督は『ハイランダー』ラッセル・マルケイ。私の好きな作品だと、『渚にて』のリメイク『エンド・オブ・ザ・ワールド』の監督さん。昔はけっこうくせがあったのだけど、最近はスタンダードな映画作りかな。良いことです。

そんな二人がつくった映画がこれなのだけど、物語はシンプル。狩り出所してきた女泥棒のカレン・マッコイ(キム・ベイシンガー)が昔の仲間に子供のを人質にとられ、銀行強盗をするという話。物語的には特になにも目新しいものはないのだが、こういうときこそキム・ベイシンガーの美貌が炸裂。いやああああ、見てるだけでいいですな。みとれてしまいます。
この映画は、ほとんどキム・ベイシンガーを鑑賞するための映画であって、その邪魔になりそうな行き過ぎ演出も行き過ぎバイオレンスもありません。行き過ぎお色気がないのがちょっと寂しいですが、服をきた彼女でも、充分美しさを感じ取れます。
この人、若い頃はヤクザの娼婦専門でしたが、歳取ってからの美貌のほうがはるかによいです。この撮影の時は39か40という歳なのですが美しい。私が見た中では一番良かった。そしてこのあと『L.A.コンフィデンシャル』でガツンな存在感のある女優の仲間入りをすることになります。デビュー当時からシャローな美しさだけはピカイチの人だったけど、美しいがゆえにアカデミー賞なんかとるはずがないと思ってました。それが『L.A.コンフィデンシャル』では助演女優賞とってしまいました。あれは誰しも文句ないでしょう。それまで美貌だけにとらわれていた世間がやっと彼女の本当の存在感に気づいたってことでしょう。

<あらすじ>
女銀行強盗のカレン・マッコイ(キム・ベイシンガー)は、その誘いを断ったためにアトランタの大物ギャング・ジャック(テレンス・スタンプ)にはめられに刑務所に入れられた。6年の時がたち、狩り出所というかたちで出てきたカレン。離婚した夫にあずけていた息子のパトリックに会おうとするが、息子には「母親は既に死んだ」と言ってあるという元夫。
会わないで帰るカレンに再びジャック・シュミットが接触してくる。カレンが銀行強盗に戻る気がないのがわかると、パトリックを誘拐、強制的にカレンを計画に巻き込んでいく。1800万ドルのお金が保管されている大銀行は超堅固な警備体制をしいていたが、巧みな計画でみごとに金庫は開けられた。ジャックや彼の手下たちが夢中で札束をつかんでいる時、彼らを金庫に閉じ込めたかれんは、ジャックの屋敷からパトリックを助け出し、家族で海外へ脱出するのであった。

by ssm2438 | 2011-04-20 16:21
2011年 04月 13日

インテリア(1978) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

f0009381_12381882.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス

出演:ジェラルディン・ペイジ
    ダイアン・キートン
    メアリー・ベス・ハート
    クリスティン・グリフィス

        *        *        *

ウディ・アレンイングマル・ベルイマン信者であることは誰もが知っていることだが、この映画はアレンが、どうしてもベルイマンを一度やってみたかったのだろう、そしてやってしまった映画。しかし・・・本家に勝るとも劣らない素晴らしい映画に仕上がっている。この分野でエンタテイメント性というのもおかしな話だが、少なくともベルイマンの映画よりはそれはある。ウディ・アレンの中では一番好きな映画である。

ベルイマン映画のなかでは、常に高圧的支配者が登場する。『秋のソナタ』ならイングリットバーグマン演じる母。『沈黙』ではイングリット・チューリン演じる姉。『野いちご』では、やはりイサクの母。『ファニーとアレクサンデル』では義父の神父。そういった支配的環境のなかでいかに自己を守っていくか、あるいは嫌われないために自己を放棄していくか・・、そういったアイデンティティの存続を描けた戦いが描かれている。

ウディ・アレンが作った『インテリア』のなかでは、3姉妹の母がその高圧的な支配者となっていた。その環境下で育った3姉妹が、大人になった時、そしてその母が以前より弱くなっていったとき、彼らがどう対処したか・・それが描かれている。この映画では、支配的な立場いた母の影響力が弱体化してきてるなか、本人はまだそれをもっていたいと思っているが、そうではない現実がある。この状況ではかつて支配者だった母ですらも彼女のアイデンティティの崩壊の危機にたたされている。

そして、人が社会の中で生きていく以上は、被支配的立場と支配的立場の両方を経験することになる。そういう意味ではここに登場する誰にでも感情移入できる部分があるはずだ。あるときは母の立場に・・、あるときは長女レナータの立場に、そしてある時は次女ジョーイの立場に・・・、そしてあるときは、父の立場に・・・。

<あらすじ>
ロングアイランドの海岸ぞいにたつモダンな白い家。富裕な実業家アーサー(E・G・マーシャル)が、インテリア・デザイナーである妻イブ(ジェラルディン・ペイジ)と30年間すごした家である。彼らには3人の美しい娘がいた。長女のレナータ(ダイアン・キートン)は、売れっ子の女流詩人。次女のジョーイ(メアリー・ベス・ハード)姉レナータにライバル意識をもっているが、自分になにがむいているのか分らないで苦しんでいる。三女フリン(クリスティン・グリフィス)は恵まれた容貌と肢体を生かしてとりあえずTV女優として活躍していた。

その日3人の娘のまで父は、妻イブと別居したいと話す。自分なりの美意識と創造力で家庭を支配してきたイブの生き方には耐えられなくなった、というのだ。イブは家を出ていった。イブの生き方は、まさにインテリアデザイナーなのだ。それは家族の人もそのように配置する。「これはこうあるべき」「それはそこがいちばんにあっている」、ゆるぎない完全主義者なのだ。その影響かで育った長女のレナータは、もっとも母の期待にこたえた人だろう。そんな姉にどうしてもかなわなかった次女のジョーイ。彼は常に劣等感を持って生きていた。どんなにがんばっても姉のようにはなれない。母の期待には応えられない・・・。三女のフリンは姉と知能で対決することは避けて美貌で人生を切り開いた。といっても、有名女優には程遠い。

イブは自分の存在意義に自身をうしないガス自殺を企るが、一命はとりとめた。一方、アーサーは既に新しいパートナーを見つけ、彼女と再婚することを娘たちに話す。彼女はパール(モーリン・スティプルトン)といい、母とはまったく正反対のタイプので、ひとことで言えば、「彼女からは劣等感を感じそうにない女性」だった。娘たちは、特にジョーイは強く反対した。
彼女にしてみれば、母は確かに高圧的な人で、姉と比較されればいつも惨めなのは自分だったのだが、一番認めてほしい存在は確かに母だったのだ。しかし、父が連れてきた新しい母になるであろう人には、自分を認めてほしいと思えないのだ。こんな人をなぜ・・!!と思うジョーイ。

父はイブに正式離婚を申したて、パールと結婚した。父の願いを入れて結婚式に列席した3人の娘たちだが、式後のパーティでは空虚しか感じられなかった。その夜、みんなが寝静まったロングアイランドの家にイブがそっとやってきた。ひとり寝付けなかったジョーイが母と話最後の人となった。
ジョーイは、母の期待に応えたくても応えられない、姉と比べられ劣等感と無力さのなかで常に苦しんでいたことを告発する。そんな自分を一度でも理解してくれようとしたのか? 愛すべき母なので、憎くくてしかたがなかったことを・・。
自己満足の為に家族を支配してきたことを痛烈に批判されたイブは絶望し、自己を肯定する要素をすべて失ってしまった。そしてその早朝、一人灰色の海へ入っていくのだった。


この映画は、自己の劣等感と真剣に戦っている人に捧ぐ同士の詩だ。

そして最後にもうひとつ、この映画にはBGMがない。言葉と息づかいだけで物語が進行する。それを氷のフィルターを持つ男=ゴードン・ウィリスが的確な画面としてきりとる。そのレイアウトの完成度の高さはまさにインテリア・デザインを彷彿させる、研ぎ澄まされてバランス感覚の画面だ。このゴードン・ウィリスのカメラなしにこの映画は成り立たなかっただろう。

by ssm2438 | 2011-04-13 11:24 | ゴードン・ウィリス(1931)
2011年 02月 28日

私の教え子(2007) ☆☆

f0009381_4382051.jpg監督:オーリ・サーレラ
脚本:ミカ・リパッティ
撮影:ロベルト・ノードストローム
音楽:トゥオマス・カンテリネン

出演:
クリスタ・コソネン (サリ)
カリ・ヘイスカネン (ミッコ・グローマン助教授)

画面の質は高いが・・・話は面白くない。

表紙のクリスタ・コソネンをみて、ついつい借りてしまったが、お話の展開はきわめて退屈。困った映画だ。実際彼女自身もうごいているのをみると、水泳をやっているらしく、肩幅のがっちりとした大柄美人で、色気はない。しかし、やっぱり魅力はある。ヌードもわずかながら披露してくれる。
そしてこの映画の画面、質感、色味、画面構成、雰囲気作りなど、透明感のある、清涼とした感じが実にきもちをおちつかせてくれる。物語だけなら☆ひとつだが、この雰囲気が実に良い。タルコフスキーに耐えられる人だけに勧める。個人的にはタルコフスキーよりも画面は素敵だと思う。

大学にはいったばかりのサリ(クリスタ・コソネン)は、フランス近代詩の父・ボードレールをこよなく愛するミッコ・グローマン助教授(カリ・ヘイスカネン)の講義に魅了されていた。一方グローマンも、「『垂直方向の関係』とは、以前は神と人間との関係だったが、ボードレールは人と俗世との関係引き落とした。神を関係から排除したのだ」という彼女の鋭い指摘に感化される。そんなグローマンは夫婦関係がぎくしゃくしており、妻の不倫相手が認識されたことで家を出てホテル住まいになる。一方サリは新しい部屋に越したばかりで、ルームメイトを探しており、二人の利害が一致し一緒に住むことになる。最初はただのルームメイトだった二人だが、いつしかお互いを求め合うようになる。『垂直な関係』から『水平な関係』への移行だった。

ボードレールは若くして美術批評家として文壇にデビューを果たし、特に当時、物議を醸していたロマン主義画家のドラクロワに対する熱心な弁護と評価を行った。的確な指摘と同時に、美術批評を介して独自の詩学を打ち出すという「詩人による美術批評」の先鞭をつけた人物。彼の講義の中で、この『垂直方向の関係』と『水平方向の関係』に関してグローマンが講義している内容とさりげなくからめながら、二人の関係を描写していく。当時の美術界はロマン主義から印象派へと変わっていく過渡期だった。

やがて二人は仲たがいするが、物語の最後には再び再構築される(・・ということだったのだと思う)。

by ssm2438 | 2011-02-28 04:42
2011年 02月 24日

ライアンの娘(1970) ☆☆☆

f0009381_6133954.jpg監督:デヴィッド・リーン
脚本:ロバート・ボルト
撮影:フレディ・ヤング
音楽:モーリス・ジャール

出演:
サラ・マイルズ (ロージー・ライアン)
ロバート・ミッチャム (チャールズ)
クリストファー・ジョーンズ (将校ランドルフ)

      *        *        *

この映画の主人公ロージー(サラ・マイルズ)をどうみるかで、好きにも嫌いにもなる映画

撮影、音楽ともに『アラビアのロレンス』と同じフレディ・ヤングモーリス・ジャール。私の趣味で言わせてもうなら、画面はデヴィット・リーンのなかでは一番好きだ。アイルランドの未開の土地的な風景は実に素晴らしい。それをデヴィット・リーンのいつものロングショットでとってくれるから、雄大な大地に雲の影が流れるなど、ビジュアル的にはとても楽しめる映画だ。後半の怒涛の波打ち際のしぶきはむちゃくちゃ迫力がある。それにフォギーフィルターかけてるので、白がにじんでこれがまた美しい。画面の良さで☆ひとつおまけ。

ただ内容的にはあんまり気持ちよくみられる映画ではない。前半であれほど尊敬し結婚したはずのロバート・ミッチャムをあっさりと裏切り、別の男と情事にはげんでしまう。まあ、わからんでもないけど、どうもあまりに予測していたキャラクターと違ってきてしまった。はじめのころのシーンをみてると、どうしても「どんな苦労があろうとも、私はロバート・ミッチャムを愛していきますよ」みたいな展開を予想してたのに、「え、え、え、そっちの男にころんじゃうんですか????」みたいな。相手は年寄りなんだし、そんな満足するような“H”を望むのもむりというもんでしょう。これでは単にロージーがその時その時の気分にながされる尻軽女にみえてしまう。

そして最後は父親の罪をかぶって村人から集団暴行をうける。裸にされて髪をきられぼこぼこに殴る蹴るのリンチ。そんなぼこぼこにされたロージーを、それでもかばうロバート・ミッチャム。これがあるがゆえに、ロージーの最初の浮気が道徳的にどうにも許せなくなってしまう。
ちなみに、このシチュエーションは『マレーナ』でもジュゼッペ・トルナトーレが使ってた。

<あらすじ>
1916年、イギリス支配から独立しようとするアイルランド。ダブリンから大西洋海岸の寒村キラリーへ帰って来た年老いた教師チャールズ(ロバート・ミッチャム)はロージー・ライアン(サラ・マイルズ)の激しい愛情を受けて結婚した。村の人々は二人の結婚を祝ったが、二人の性生活は初夜からつまずいた。チャールズは新妻の激しい求愛に応えられなかった。ロージーは、その物足りなさをコリンズ神父に告白してしまう。さらにプライドを傷つけられたチャールズとの関係もぎくしゃくしてくる。
そんなロージーの前に第一次大戦で足を負傷したイングランド人将校ランドルフ(クリストファー・ジョーンズ)が現れる。戦争で傷ついた心と満たされぬ心が森の中で情事となる。チャールズは妻の態度の変化に不信を抱くが、不貞の行為など考えてもみなかった。ロージーの不義は続くが、二人の情事は村人と知るところとなり、ロージーは姦婦として村人の視線を浴びる。

1ヶ月後、アイルランド独立運動のための武器が運ばれてくるが、海は猛烈なしけでうけとれない。武器は陸上輸送に変更されるが、その前にランドルフのイギリス軍が立ちはだかる。計画は失敗する。実はロージーの父ライアンがわずかなお金と引き換えにその情報を漏らしてしまったのだ。
さらにロージーはランドルフとの情事をチャールズに見られてしまう。チャールズ二日も家に帰らなかった。
村人達は祖国を裏切ったのはロージーに違いないと判断し、彼女をリンチにかける。しかし彼女は父の犯行だと判っていたが自ら罪をかぶる覚悟を決めた。着物を剥がれ、頭をそられるロージーを見てチャールズが庇い身代わりとなり、リンチを受ける。が、コリンズ神父が現われて蛮行は中止させられた。
ランドルフは自殺した。ロージーとチャールズはいまわしい村人達の視線のなか、村を去っていった。

by ssm2438 | 2011-02-24 06:13
2011年 02月 16日

ウホッホ探険隊(1986) ☆☆☆☆

f0009381_752985.jpg監督:根岸吉太郎
原作:干刈あがた
脚本:森田芳光
撮影:丸池納
音楽:鈴木さえ子

出演:
十朱幸代 (榎本登起子)
田中邦衛 (榎本和也)
藤真利子 (美際良子)
陣内孝則 (定岡勉)
斉藤慶子 (定岡みどり)
柴田恭兵 (景浦選手)

        *        *        *

「・・・・趣味は?」
「どんなものを?」
「美内すずえ作『ガラスの仮面』」


食品会社の研究所員である夫の仕事の関係で、夫と離れてくらしている主婦十朱幸代が、ある日突然、「実は女ができたんだ」と夫からいわれてショックを受ける。その後展開される子供のささやかな心使いと、残酷さを見事に台詞におこしている。監督は根岸吉太郎、『遠雷』『キャバレー日記』も好きだが、実はこの映画もかなり好きだ。とにかくシナリオがとても繊細だ。本音の部分と、本音を隠す部分のコラボレーションがとても素晴らしい。

女が出来たという話をきかされて数日、再び夫の田中邦衛から、彼女と会って欲しいと連絡がくる。行ってみるとまだ彼女は来ていない。しかたなく先にふたりで焼肉を食べることにする。十朱幸代が冷蔵庫をあけるとが肉があるのだがにんにくが浸してある。

「これ大丈夫かしら・・・、後から来る人に迷惑じゃないかしら・・・」

これから夫の愛人と会うというのに、にんにくの臭いをさせて会うなんて・・とか気にするあたりがとても繊細でいい。相手の女があらわれ、感情をおさえて厳かに挨拶を交わすと、彼女は無理にテンションをあげたように、「私も飲もう」って洋酒をグラスについで一気に飲む。だんだんとテンションがあがっていき、二人の女性の声は大きくなってくる。酒もあおる。結局愛人女性は酔いつぶれてしまう。酔いつぶれた彼女をふたりでベットにはこんであげる。

「この人、重いわね」
「え、そんなことないよ」

さりげない会話が楽しい。うちに帰って食事をしてると、子供たちと食事をしていると「お父さんとどんなことはなしたの?」って聞かれてしまう。ついつい「つまんないことよ」と言葉を濁すと、長男は「そんな言い方するなよ、なんで僕らがはなすことは全部つまんないことなんだよ」とぐれる。次男は料理のなかのにんじんがが大きい。〇〇君のところのにんじんはもっと小さく切ってあってほとんどとろけてるようだという。ぐさぐさである。
めいってしまった十朱幸代は

「どうしてあなたたちはそんなに敏感なの? お母さんだっていろいろあるのよ。たまには知らない振りしてよ」

・・・・こういう台詞がとてもいいんだ。

画面も素晴らしい。気持ちのいい望遠も多用されているし、室内の取り方も立体的に構成されたセットを十分に利用している。手前のナメ方もいいし、他の作品ではこれだけいいとはかんじなかったのだけど、この作品のカメラは素晴らしい。同じ根岸監督の作品で『遠雷』や『キャバレー日記』ではこれほどの完成度はみなかった。これは撮影監督丸池納の力だろう。ただ、この人のほかの作品がいいかというとそうともいえない。『ノーライフキング』なんてのはひどかった。こうしてみると、監督の趣味に合わせる人なのだろうが、本作品の画面構成文句なく素晴らしい。間違いなく根岸監督作品のなかでも図抜けて画面の安定感がある映画だと思う。

<あらすじ>
榎本登起子(十朱幸代)はある雑誌のインタビュア・ライターで、中学生の太郎と小学生の次郎という子供がある。夫の榎本和也(田中邦衛)は食品会社の研究所員で、人里はなれた地方の研究所に詰めている。そんな和也が家に戻って来た。久々に家族揃って食事し、公園にも出かけた。翌日、子供達を学校に送り届け登起子と二人きりになると、和也は「女がいる。一度会って欲しい」と告白する。
次の週末、子供達を母親に預け、登起子は和也のもとを訪れた。和也の同僚で愛人の美際良子(藤真理子)も遅れて和也の部屋にやってきた。三人は飲みながら自分の信じる主張をぶつけていく。誰の主張もそれぞれ理解できる本音であり、それがささやかな虚栄心にオブラートされている。
東京に戻った登起子は、ロック・ミュージシャン定岡勉(陣内孝則)にインタビューするが、彼の傍若無人ぶりに呆れかえる。家族の問題をゆっくり考えようと決意した登起子は暫く仕事を休むことにした。だが、家に一日中いると何をしたらいいかわからず、子供達の部屋を片付けたりもしてみたが、逆に息子たちはにしかられる始末。
精神が不安定になっているところに、定岡の妻・みどり(斉藤慶子)から電話がかかってきた。定岡の自宅に女を連れ込んでいちゃついているというのだ。「私だっていろいろあるのに、なんでこんなところにいるのよ」と登起子はみどりを家に連れ帰り泊めた。翌日の朝食はみどりがつくった。これが上手いとほめられついつい幸せになるみどり、「私、料理とセックスしか取り得がないから」と。

日曜日、登起子は太郎と次郎を連れて公園へ出かけ、キャッチボールをした。その夜、彼女は離婚する決意を子供達に打ち明けた。二人ともショックをうけたようだった。太郎は和也のもとを訪ね、良子とも会話を交わした。

「はじめまして」
「こちらこそ」
「・・・あの趣味は?」
「読書」
「どんなものを?」
「美内すずえ作、『ガラスの仮面』」
「ねえお父さん知ってる? 僕知ってるよ」
(急に盛り上がる太郎と良子)

子供たちは気丈に登起子の離婚はお母さんにまかせるという。登起子は離婚届を提出した。いちもあっさり受理された。不思議なくらいに・・。
和也も良子に離婚したことを伝える。それを知った良子は
「私は和也さんを愛していたけど、奥様から奪おうとは思ってなかった。私はこれ以上望まない。
 今度は、私が奥様の立場になるのは嫌です・・・」と涙ながらに訴えた。

彼女のもとに、以前インタビューした野球選手、景浦からホームランの贈り物をすると電話がかかってきた。嬉しがる母親をはやしたてる太郎と次郎。そこに和也から電話で登起子と子供達に会いたいと言ってきた。その日はまるで初デートの時のようなうきうきした気持ちで和也にあった。和也は良子と別れたと告げた。


ちなみにこのシナリオは森田芳光である。個人的にはこの人の映画はそれほど面白いとはおもわないのだけど、この映画だけはよかった。個性の違う根岸吉太郎森田芳光のコラボとして大成功した例だと思う。
あと、斉藤慶子がめっちゃかわいい。

by ssm2438 | 2011-02-16 07:53
2011年 02月 12日

叫びとささやき(1972) ☆☆☆☆☆

f0009381_2514694.jpg監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト

出演:
イングリッド・チューリン (長女・カーリン)
ハリエット・アンデルセン (次女・アグネス)
リヴ・ウルマン (三女・マリア)
カリ・シルヴァン (侍女・アンナ)

        *        *        *

イングマル・ベルイマンの怒涛の演出力を見よ!

スゴイ映画が。人間の内なるおぞましさをさんざんと見せえつけておいて、最後は一番幸せだった時の思い出をひきだしてきて、人間性の美しい部分もみせてくる。これは『野いちご』のラストと同じ構成だとはいえるかもしれないが、・・・すさまじい映画だ。これだからベルイマンはやめられない。実はこの映画と『秋のソナタ』はLDを持っている。この2本は宝物だよ。

19世紀末らしい。長い闘病生活で死期の近づいた次女アグネス(ハリエット・アンデルセン)を見守るために長女カーリン(イングリット・チューリン)と末娘マリア(リブ・ウルマン)、そして侍女のアンナ(カリ・シルヴァン)がつきそっている。そこで語られる人間のもつおぞましさ。そう、この映画は人間のおぞましさをあますところなく存分に描き出している。

長女のイングリット・チューリンは理性の人で、人に触れられることを極端に嫌っている。心からのふれあい、肌のふれあいに嫌悪感をもっているのである。ひさしぶりにあった旦那とセックスするのがいやで、壊れたグラスのかけらで自分の性器を斬り、出血させ、生理を装う。これであなたは私をだけないわよね・・とばかりに股間から流れ出るんちを口のまわりにぬりたく。それじゃあキスもできんだろうなあ。こういう演出がすさまじいい。
イングリット・チューリンが「嫌いなものは嫌い」といってしまえるのに対して、リブ・ウルマンは決して本性を明かさない女。表面的には馴れ合いを求めているようでも、その仮面のしたは、決して自分をみせない卑怯者。表面的には猫のように艶やかで、人間性があるふれるように装っているが、その卑怯さに姉のイングリット・チューリンはリブ・ウルマンを嫌っている。
しして次女のハリエット・アンデルセンは、病魔におかされている。このあえぎ方はベルイマン独特のセンス。『沈黙』でも、病気のイングリット・チューリンがあえぎまくっていたが、後に、黒澤明『赤ひげ』のなかでこのあえぎを再現していた。この病気もだえ演出は実におぞましい。人間の逃れられない死の恐怖と、それを迎える肉体的な痛みを前面に打ち出している。そういえば『秋のソナタ』にも小児麻痺の女の子がのたうっていた。
そんなおぞましさのなかで、侍女のアンナだけは愛を表現している。このコントラストが実に素晴らしい。

そして、貴族描写もヴィスコンティに負けていない。食事も、ベッドも、装飾品も、総てが貴族風味。そしてイングリット・チューリンの着替えのシーンのすごさ。この重厚さだけでおおおおおおおおおって思ってしまう。こんな服着てたら、そら一人じゃ着替えもできんだろうなって。

さらにもうひとつ、撮影はスヴェン・ニクヴィストに変わっている。白黒時代はグンナール・フィッシャーが多いという印象だったが、カラーになるとスヴェン・ニクヴィストが多いと思う。この人も才の豊かな撮影監督さんだ。
実はこの映画、1973年のアカデミー撮影賞を撮っている。英語圏の映画しか対象にはならないと聞いていたが、撮影に関してはどこの映画でもいいってことなのだろうか・・。

<あらすじ>
時は十九世紀から二十世紀に移る頃の秋である。長年闘病生活をしていたアグネス (ハリエット・アンデルソン)はいよいよ死期を迎えようとしていた。彼女の世話は侍女のアンナ(カリ・シルバン)がしていたが、姉のカーリン(イングリット・チューリン)と妹のマリア(リブ・ウルマン)が駈けつけてきた。
姉のカーリンは人との接触を拒む理性の人。世間には貞淑な妻と見せかけていたが、心は常に冷え切っていた。末の妹マリアも結婚し、子供のいたが、彼女自身大きな子供のようなもので、美しくして人眼をひくことにしか関心を示さず、決して自分をさらすことはなかった。そしてアグネスの主治医であるダーヴィッドと情事をかさねていた。
やがてアグネスは死んだ。カーリンとマリアの旦那が来た。
マリアの旦那は、主治医が昨晩泊まったことをしると、ことの次第を理解した。一方カーリンは旦那と肌を触れあるのを極端に嫌っていた。しかし食事の後にはセックスの時間がまっている。同様でワイングラスを倒して壊してしまう。ドレスを脱ぎ、ナイトドレスに着替えたカーリンは、侍女のアンナを遠ざけ、壊れたグラスのかけらで自らの性器を切り裂き出血させる。これでセックスはお預けである。
カーリンとマリアがアグネスの日記を読むと、そこには友情や神の恵みについての言葉があふれていた。彼女がそれを心から感じていたのか、それともそれらに飢えていたのか・・・。カーリンはマリアへの憎しみを正直に口にしてしまう。大人の態度でなかったことを謝ると、二人は思いの総てを吐き出すように語り合った(・・しかし、マリアはその振りをしていたといったほうがいいかもしれない)。
その夜、侍女の誰かのアンナが泣き声を耳にする。そのほうへ向かうと、カーリンとマリアが魂が抜けたようにたたずんでいた。そしてその部屋に向こうにはアグネスの屍があるがずだったが・・・、彼女が泣いていた。
死んだはずのアグネスが目から涙をこぼしていたのだ。カーリンに救いを求めるが、彼女はアグネスを愛していないと冷たく言い放つ。次に、マリアがアグネスに呼ばれる、最初は愛想をふりまっていたが、死人であるアグネスに抱き疲れると恐怖から突き放してしまう。やはりマリアも彼女を愛してはいなかったのだ。
アンナだけが「私が面倒をみます」といい、二人を締め出してアグネスのベッドにはいる。母親に甘えるようにアンナの膝に頭をもたれて再び永遠の眠りにつ。

カーリンとマリア、そしてその家族がさったとの屋敷でアンナはひとりアグネスの日記を読む。
「姉妹三人が昔のように集まったので、久しぶりにそろって庭を散歩する。明るい日光、明るい笑い。世界中でいちばん近くにいてほしい人が、皆私のそばにいてくれる。わずか数分間のたわむれだが、私にとっては楽しかった。人生に感謝しよう。人生は私に多くのものをあたえてくれた」・・と記されていた。

by ssm2438 | 2011-02-12 02:51 | I ・ベルイマン(1918)
2011年 01月 26日

ジェレミー(1973) ☆☆☆☆

f0009381_14542893.jpg監督:アーサー・R・バロン
脚本:アーサー・R・バロン
撮影:ポール・ゴールドスミス
音楽:リー・ホルドリッジ
    ジョセフ・ブルックス

出演:
ロビー・ベンソン (ジェレミー)
グリニス・オコナー (スーザン)

     *      *      *

This is the wispiest movie I've ever seen!

「wispy」というのは、ジェレミーとスーザンがはじめてエッチをしたあとの帰りのタクシーのなかで、今の気もをきかれて答えた形容詞。辞書でひいてしまいました。リーダーズの辞書が一番ロマンチクにこの意味をいいあててた。

wispy:
 小さく無造作に束ねた、ほっそりとして弱々しい(草など)、
 かぼそい、かすかな、わずかの、まばらな(髪などが)・・・・おい、それは余計だろう!、
 かすみのような、星雲状の、

いまが幸せすぎて不安になってる感じがじつにせつなくつたわてくる。。。

70年代の前半というのは、大人になりかけの青春物というのがやたらとはやっていた時期で、一番年端もいかないのは『小さな恋のメロディ』でしょう。それがイギリス。フランスは『フレンズ』(製作はイギリスだけど、舞台は南仏。そしてアメリカはこの『ジェレミー』でしょう。80年代になると『リトルロアンス』ってのがイタリア舞台にありました。コレもよかった。そのなかでもっとも切ない映画が『ジェレミー』。気分がグリニス・オコナー懐古にふれているので、ここはひとつ一番感動ものの『ジェレミー』に登場いただこうかなと。この切ない語り口がすばらしすぎて、監督のアーサー・R・バロンは73年のカンヌの映画祭で新人監督賞をとってしまった。でも、じつはこの映画だけ。恐ろしいまで一発やでした。

そのむかし、健さんが出ていたCMで、「男は男に生まれない、男になるんだ」ってせりふがありました。しかし、男になる前だって、自分にこれっぽっちの自信がなくったって、やっぱり女の子を好きになるのです。この自分に自信のないときに想う相手ほど心にのこる人はいないものです。そのころの想いがかなったらそれはもう幸せすぎておそろしいにちがいありません。このジェレミー(男の子です)は、そんな想いをいだいた女の子スーザンを想って想って、その結果エッチにいたってしまいます。超、超、超、超幸せすぎて怖いくらい・・、そんな感じが実にでてます。
もっとも、そのエッチのあとスーザンが家にかえると、父の引越し話がきまってて2日後には引っ越すという事実をきかされ、二人の恋愛はこの段階で一区切り、映画のなかでは唐突におわってしまいます。でも、追いかけていけない。高校生なんでしょうがないでしょう。このあたりが、まだ自分のちからではどうしよもない現実がある青春時代の恋愛物のせつないところでしょう。あの現実さが素敵なのです。しかし、その物語の何年後にはふたたびジェレミーはデトロイトまで会いにいってるでしょうね。別にこれが最終な別れではないのだけど、それほどに感じてしまうところが実にすばらしいんな。

f0009381_15181988.jpg<あらすじ>
チェロ演奏家になる夢をもつ15歳のジェレミー(ロビー・ベンソン)は、普段は黒ぶちおじさんメガネをかけていてる内気の少年。そんな彼が同じ音楽学校に通う、スーザン(グリニス・オコナー)のバレエの練習風景をちらっとみてしまう。(思えば『小さな恋のメロディ』のトレーシー・ハイドも黒のレオタードでバレエをやってましたね)。ジェレミーはそんな彼女に一目ぼれ。しかしスーザンには彼氏がいた。おちこむジェレミー。そんなジェレミーだが、演奏会のときスーザンの訪問をうけたりして二人の気持ちはさりげなく共鳴していく。

最初のデートのあと、スモークながれる通りをわたる二人のカットから、白桃いろの噴水のシーン。いいんだなあ。あ、その前に公園でワンちゃんたちに詩をきかせるジェレミーってカットってのもありましたね。あと、競馬場の望遠とか・・、二人がニューヨークの町並みを歩くシーンを望遠でとるだけでえになってしまう。
そこに切ない音楽、主題歌の「ブルー・バルーン」も「ジェレミー」これらの歌詞がながれてくるとそれだけでせつなくなってしまう。

雨の降るある夜に室内でチェスをしてるところから、視線がからみあってキスをかわし初めてのエッチ。ブラのホックをはずそうとしてもなかなか外れない。そうしてるとスーザンが体をはなす。あれ、ぐれちゃったかなっておもってるとおもむろにきていたセーターを脱いでブラも自分ではずして再びジェレミーの上に体をかさねる。

ストーリーはシンプルなのだけど、彼女の肌に触れるときジェレミーの手つきに愛を感じてしまう。それはもう、『未完交響楽』のシューベルトが質屋で自分のバイオリン手放すときにあの愛なのだ。

私の記憶だとエッチシーンは普通に演じているのだが、グリニス・オコナーがきちんと乳房をみせてくれたのは『カリフォルニア・ドリーミング』までなかったとおもう『ビリー・ジョー愛のかけ橋』で、川から上がったとすけたシャツのしたに乳首がみえたシーンあったかもしれないが、あれも直接的ではないし・・。なのでわれわれにとっては『カリフォルニア・ドリーミング』の彼女の乳房は待望のシーンだったのだが、いかせん映画がカス過ぎた。残念。

・・で、タクシーのなかの幸せすぎて・・・のシーン。そして帰ってみると案の定、まるで原作者がそうしたかったからそうしたかのように突然の別れ。おもいっきり唐突なわかれなのだが、こんな別れでもあのブルー・バルーンが流れてくるとせつなくなって胸がきゅうとなってしまう。
70年代の青春映画の傑作のひとつである。

by SSM2438 | 2011-01-26 14:58
2010年 11月 15日

リバー・ランズ・スルー・イット(1992) ☆☆☆☆☆

f0009381_4401697.jpg監督:ロバート・レッドフォード
脚本:リチャード・フリーデンバーグ
撮影:フィリップ・ルースロ
音楽:マーク・アイシャム

出演
ブラッド・ピット (ポール・マクリーン)
クレイグ・シェイファー (ノーマン・マクリーン)
トム・スケリット (マクリーン牧師)
ブレンダ・ブレシン (マクリーン夫人)
エミリー・ロイド (ジェシー・バーンズ)

        *        *        *

この手の映画には弱いんだ。

ロバート・レッドフォードがブラッド・ピットを主演に据えて描いた自然との調和。私のなかでの“自然との一体感映画”は『リバー・ランズ・スルー・イット』『レジェンド・オブ・フォール』『バガーヴァンスの伝説』の三本かな・・。そのうち2本はブラッド・ピット、そのうち2本はロバート・レッドフォード。この二人は貴重な人々だ。
レッドフォードがやってるのは「魂のヒーリング」と「自然との調和」、このふたつ。どの映画においてもそう。この映画は「自然との調和」がメインになってる。

しかし、『リバー・ランズ・スルー・イット』に関しては判る人にしかわからない映画だと思う。判らない人には全然チャンネルが合わない。ほとんどのエンタな監督さんは、シナリオ上で、「こうなって、こうなって、ここでこれを終わらせて、残ってる問題はこれで、こうなってるから、ここでこうしたら物語りは完結する」って物語を閉じるのだけど、レッドフォードが魅せるのはシナリオに書かれている台詞やイベントじゃなくて、その文字と文字の間にある行間。イベントを見せるのではなく、伝えるものを感じさせる演出。伝えるものは劇中で語られない。スピリバーグの映画みたいに、伝えるもを見せてしまう映画に慣れさせられていると、こういう映画は「なにこれ?」ってなる。イベント映画専門の人はパスしたほうがいいだろう。

役者としてはいまいち作品には恵まれなかったほうだとおもう・・。印象にのこるは候補者ビル・マッケイとギャッツビーとサンダンスだけだし・・・でも美貌も図抜けてるし、監督としのて才能は天才的に図抜けてるし。

<あらすじ>
かわらぬ大自然のなかで、あるときは父と息子二人で、あるときは息子二人だけで、そして最後は息子一人だけで釣り(フライフィッシング)をするだけ。。。

なんとすばらしい映画だ。。。

by ssm2438 | 2010-11-15 04:17 | R・レッドフォード(1936)
2010年 11月 12日

天国から来たチャンピオン(1978) ☆☆☆☆☆

f0009381_1552930.jpg監督:ウォーレン・ベイティ
    バック・ヘンリー
脚本:エレイン・メイ
    ウォーレン・ベイティ
撮影:ウィリアム・A・フレイカー
音楽:デイヴ・グルーシン

出演:ウォーレン・ベイティ
    ジュリー・クリスティ
    ジェームズ・メイソン

     ×     ×     ×

しかし、いつからウォーレン・ビューティはウォーレン・ベイティになったんでしょう? 『ディック・トレイシー』のあたりかな? 我々の時代には、どうしてもウォーレン・ビューティのほうが馴染むのになあ。 どうも好かんですね。

ま、そんなことはさておきストーリーは、ロサンゼルス・ラムズのクウォーター・バックのジョー(ウォーレン・ベイティ)は、ある日交通事故に遭ってしまい、天国にめされてしまった。しかし、その判断は新米天使のはやとちりと判明、ジョーは即刻地上に舞い戻ることになったがすでに彼の肉体は火葬された後だった。
しかたなくジョーと天使長ジョーダンは、ジョーの魂のために新しい住処を物色しはじめるが、クウォーター・バックをやれそうな身体の持ち主はなかなかみつからない。そんなわけで、内縁のもつれから妻に殺される運命にあった大富豪の青年実業家、レオ(ウォーレン・ベイティ)の身体にしばらく間借することになる。そのレオが経営する会社は英国の田舎街に工場を作ろうとしているのだか、「公害ともたらす」と地元住民の反対にあい、その抗議団体の代表者としてベティ(ジュリー・・クリスティ)がレオ邸を訪れていた。

彼女に感銘をうけた(一目惚れした)ジョ-は会社の役員会議で工場建設計画を放棄決定、ベティーもそれまで憎しみの対象でしかなったレオに対してとまどいながらも恋愛感情を抱くようになる。二人の気持ちが出来上がってしまった以上、もうこの身体を放棄することはできない。そんなわけで、「もう、新しい身体探しはいい、この身体でスーパーボウルを目指す」と方針変更、ジョーはかつてラムズの時に世話になったトレーナーをよびよせ、豪邸内にジムを作り、使用人たちを相手に広い庭で体力強化。
まるで英会話を再起動させた私のように、がっつんがっつんやり始めるわけです。 「出来ない」なんて考えない。 それが目標なら、そこまでの道筋をひとつひとつクリアしていけばいいだけ! この世の中の総てのことは、もう出来るように出来ているのです。 ただそこに到達するには、ちょっと時間がかかるものと、かなり時間がかかるものとの違いがあるだけ。

やがて身体も出来てきて、いよいよラムズのクウォーター・バックとしてのテストの日。 グランドにはかつてのオーナーが苦虫噛み潰しています。  「あのやろう、『ラムズが欲しいんだが、いくらなら売る?』   というから◯◯◯◯万ドルだとふっかけたら、払いやがった」 ジョーはラムズを買い取り、オーナー特権でクウォーター・バックとしての入団テストをうけてるわけです。 でも、そんなの現場の人間にしてみれば受け入れられるわけもなく、オフェンス、ディフェンス一緒になってジョーをぼこぼこにしていく。
「お前たちの気持ちはわかる。時間を省かせてやる。一度でいい、ボールをきちんとまわせ。それでダメなら諦める」 で、ジョーにボールを渡してみるとこれが、出来ちゃうんですよ。 「あれ、やるじゃん。もしかして使えるかも‥‥。こりゃすごいや‥‥」、ついにラムズのクウォーター・バックの地位 を手に入れてしまう。

総てが上手くいっていたそのとき、天使長ジョーダンが再びあらわれ、その身体はもうすぐ使えなくなることを告げる。彼の妻とその愛人が再び殺人計画をねっていて、彼はその銃弾にたおれる運命にあるそうな。 事の次第をベティに話すジョ-だが、理解されるわけもない。「もし君が、次に恋をするとしたら、きっと彼はクウォーター・バックだ‥‥」 静かにわかれたあと、豪邸に銃声がこだまする。主人のいなくなったレオ邸、刑事がきて関係者に聞き取り調査をおこなってる横に、魂の存在となったジョ-と天使長ジョーダンもいる。テレビではスーパーボウルを放送しているが、誰もきにしてはいない。その場にはいれないトレーナーの◯◯だけがそのテレビをみていると、ラムズのクウォーター・バックが試合のさなか負傷、タンカでフィールドのそとに運ばれて行く。アナウンサーの声も心配そう。 お互いに顔をみあわせるジョ-と天使長ジョーダン。ぴくりとも動かないそのクウォーター・バック。 心配する場内の総ての人々‥‥、が次の瞬間、何事もなかったかのように起き上がりフィールドにもどっていくクウォーター・バック。 どよめくグランド‥‥。それを観ていたベティは、なにかを感じ取ってグランドにタクシーをとばす‥‥。

この映画、ほんとにいいですね~~。 ウォーレン・ベイティのなかでは最高傑作だと思います。 ファンタジックなシチュエーションですが、しっかり出来ている。 殺人とかもあるけど、どこかコケティッシュにつくられていて、そこに暗さはない。 とにかく前向きに、そしていつも走っているウォーレン・ベイティがとっても素敵。
そしてもう1つこの映画を美しく魅せてる要因があって、それは撮影のウィリアム・A・フレイカー。 この人の画面も好きです。 とくにこの『天国から来たチャンピオン』は美しい画面 をつくっていますが、 ほかにも、 『イルカの日』 『ウォーゲーム』 『シャーキーズ・マシーン』 『ミスター・グッドバーを探して』 『未知との遭遇』 『ローズマリーの赤ちゃん』…etc、 色をめりはりをつけつつ渋い画面 をつくります。 ついつい渋い画面 づくりといえば、『マトリックス』みたいな彩 度をおとしてコントラストを強くした画面 ってイメージがあるますけど、ウィリアム・A・フレイカーは色をみせつつ、なおかつ軽くしないテクをもっているような‥‥、そんな気がしますね。この人の画面 はとっても格調があるのに見易いのです。素晴らしい。

by ssm2438 | 2010-11-12 04:58 | W・A・フレイカー(1923)