西澤 晋 の 映画日記

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2010年 06月 01日

沈黙の陰謀(1998) ☆☆☆

f0009381_2325330.jpg監督:ディーン・セムラー
脚本:M・サスマン/ジョン・キングスウェル
撮影:スティーヴン・F・ウィンドン
音楽:スティーヴン・エドワーズ

出演:
スティーヴン・セィーガル (ウェスリー・マクラーレン)
カミーラ・ベル (ウェスリーの娘・ホリー)

       *        *        *

ディーン・セムラーいいぞ! セィーガル映画の中では映画的(画面的・演出的)にもっとも完成度の高い映画だろう。

予想に反してとっても良かった。ま、セィーガルの映画なので誰がとっても同じだろうが、このディーン・セムラーが撮ったこの映画は、映画的に完成度が高い。話はもういじくれないが、その話を映画にしていくプロセスを担当したセムラーの手腕は実に評価に値する。もともとセムラーは撮影監督で、ドゥシャン・マカヴェイエフ『コカコーラ・キッド』ケビン・コスナー『ダンス・ウィズ・ウルヴス』の撮影監督で、絵作りに関しては堅実で効果的な画面を提供してくれていた。以前から才能は感じていたが、この映画で確実に認めてしまった。ちなみに私の好きな『ステルス』もこのセムラーが撮影監督をやっている。
しかし監督となるとこの『沈黙の陰謀』『ファイヤーストーム』の二本だけ。されど、この映画の映画としての質の高さをみると『ファイヤーストーム』も見たくなった。セィーガルファンにしてみれば地味でいただけないかもしれないが、セィーガルの映画のなかでも質的にはもっとも高度な映画になっている。

ただ、話は・・・うむむ、ちょっと地味かな。というより、多分この映画の原作になっている話の主人公はこの映画の主人公ほどマーシャル・アーツの達人でもないはずだ。おそらくハリスン・フォードあたりが主役をやってたら調和のとれた映画になっていたのではないだろうか。この映画のネガティブポイントは、セィーガルがセィーガルでなくてもいい作品をむりやりセィーガルの映画にしたてあげたところで、いつものセィーガル映画を期待した人たちにとってはものたりなさをおぼえたかもしれない。最後の花で解決も安易過ぎるし、もうすこし安直でない解決方法がなかったものかと思うし・・・。

今回登場の子役はなんとカミーラ・ベル。うむむむむ、可愛い。可憐だ。清楚だ。目の輝きがまるでキャロル・ブーケだ。セィーガルの映画に登場する子役のなかでは一番魅力的だろう。『暴走特急』キャサリン・ハイグルもよかったけど、この子役時代のカミーラ・ベルのほうが魅力的に見えた。

全体的に地味で、セィーガル映画としていいか悪いかは別にして、実に見ごたえのある映画に仕上がっている。返す返すもディーン・セムラーの仕事に敬意を表したい。

<あらすじ>
かつて免疫学者としてCIAの秘密研究所に勤めていた医師ウェスリー・マクラーレン(スティーヴン・セガール)は一人の町医者として、娘のホリー(カミーラ・ベル) とともに二人モンタナ州の片田舎に移り住んでいた。そんなある日、町を突然新型ウィルスの猛威が襲う。過激派のリーダー、フロイド(ゲラード・サーテン)の仕業だった。フロイドたちはウィルスを拡散させるまえにワクチンを接種していたが、そのワクチンも病気の進行を於染める力はあっても決定的な解決策にはならないことが判明、フロイドたちも死の恐怖を覚える。しかし、ホリーをはじめ何人かはウィルスに免疫がある者いた。フロイドたちはホリーを捕まえその血液成分を研究しようとするが、ウェスリーは娘を助け逃亡。かつてそこで研究をしていた秘密のCIAの生物研究施設でワクチンの研究を始める。

by ssm2438 | 2010-06-01 14:25
2010年 05月 31日

誓いの休暇(1959) ☆☆☆☆☆

f0009381_19422886.jpg監督:グリゴーリ・チュフライ
脚本:ワレンチン・エジョフ
    グリゴーリ・チュフライ
撮影:ウラジミール・ニコラーエフ
    エラ・サヴェーリエワ
音楽:ミハイル・ジーフ

出演:ウラジミール・イワショフ
    ジャンナ・プロホレンコ
    アントニーナ・マクシーモア

        *        *        *

ソ連の映画には白樺の林が良く似合いますな。これといい、タルコフスキー『ぼくの村は戦場だった』といい。

この映画、実はアニメ向き(実写向きではない)の成熟したスタンダードな演出のオンパレード。レイアウトも自然。狙いすぎた画面もなく、実に素直。この映画とピーター・チャンの監督した『ラブソング』は実に演出教本映画だ。

この映画に驚かされるのは、みんなの演技が自然体なのだ。その昔『鶴は翔んでゆく』をみたときには実にソ連の体制主義の説教映画になっていていやだったのだけど、この映画にはそんな感じは微塵もまい。その自然体で展開する話が実に純朴というか、純粋というか、清らかなのだ。もうほとんど忘れかけてた言葉だ(苦笑)。


敵戦車に追いつめられた少年兵アリョーシャ(ウラジミール・イワショフ)は凹地のとびこみ、そこで偶然みつけた対戦車砲で二台の戦車を戦車砲で砲撃、沈黙させた。その功績により特別休暇をあたえられた。帰郷の途中で、途中この石鹸をうちのやつにとどけてくれと、名も知らない兵士からたのまれ、その石鹸をうけとった。一人暮しの故郷の母に会うことを願って故郷への列車へのったアリョーシャは、一人の負傷兵に会った。戦争で足を失った彼は妻に会うのをいやがって、悩んでいた。しかし彼の妻はプラットフォームに迎えにきていた。涙にくれる二人を残してアリョーシャは旅を続ける。

この映画は戦場を描くのではなく、そのバックグラウンドの側で戦争をさりげなく描いていく。見知らぬ兵士が実家との妻にとどけたいものが石鹸である。実にソ連というか・・その昔『ハドソン河のモスコー』という映画を見たときに(あれは1980年代のソ連だったが)、靴を買うのに列が出来ているのを思い出した。それはソ連といわす日本でもおなじような状況だったのだろう。

貴重な肉のカン詰を看視兵にやって貨物列車にもぐりこんだ彼は、その中に隠れていた少女シューラ(ジャンナ・プロホレンコ)にびっくりする。荷物を放り出し逃げようとするシューらだが、すでに列車はうごきだしており、降りられない。荷物のないまま、アリョーシャとその貨車にとどまる。最初は警戒していたシューラも、やがて彼に好意を抱くようになった。彼女は負傷した許婚者を病院に訪ね、故郷に帰るため秘かに貨車にのったのである。

この話、彼女がでないことにはどうにも面白くない。彼女とのふれあいがあるからこそ、ロードムービーとして成立したのだ。窓の外をながれる白樺の林がじつにすばらしい。
途中水くみに出て列車をやりすごしたりしながら、二人の旅は続く。アリョーシャは戦線で見知らぬ兵から託された石ケンを持って、彼の留守家族を訪ねる。苦しい生活の中で、兵士の妻は他の男と同棲していた。実にせつない。こういう痛みも彼女と分け合えたからこそ素晴らしい映画になったのだろう。
やがてアリョーシャとシューラは、互の住所もしらぬまま別れた。
ほんとにこれで終わりなの・・?って感じで実に名残惜しかった。
そしてまた白樺の林が車窓をながれる。

もう休暇は残り少ない。戦線への帰途の時間を考えるともう余裕はなかった。アリョーシャは母親ともほんの一瞬しか会っていることができなかった。畑で働いていた母は、涙で息子のトラックが遠ざかるのを見送った。そして、アリョーシャの姿は二度と、もう故郷に戻らなかったのである・・。

人生の悲喜こもごもあるのだけれど、実にさわやかな映画だった。
普通の映画なのだけど、実に忘れがたい映画だ。
グリゴーリ・チュフライ、素晴らしい!

by ssm2438 | 2010-05-31 05:35 | G・チュフライ(1921)
2010年 05月 20日

マンハッタン(1979) ☆☆☆☆☆

f0009381_23345362.jpg監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン/マーシャル・ブリックマン
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ジョージ・ガーシュウィン

出演:
ウディ・アレン (アイザック)
ダイアン・キートン (メリー)
マリエル・ヘミングウェイ (トレイシー)

        *        *        *

ダイアン・キートンと付き合ってた頃のウディ・アレン作品は素晴らしい。

ウディ・アレンの画面をきちんと作る才能はほんとに素晴らしいと思う。もちろんこの映画の撮影監督はゴードン・ウィリスなので、誰が監督でもきちんとした絵にはなるのだけど、それでもゴードン・ウィリスが撮影監督でないときも、きちんとした画面構成をいつも構築している。もっともこれは撮影監督の力がかなりあるのだろうが、その撮影監督を見抜くちからもすばらしい。もっとも、このゴードン・ウィリスに撮ってもらってた時代が一番好きだけど、そのあとはカロル・デ・パルマと一緒に仕事をしている。この人はミケランジェロ・アントニオーニの映画をよく撮っていた人だ。そしてゴードン・ウィリスの前の時代で、画面にひきつけられたのは『ウディ・アレンの愛と死』だった。予備知識のないままたまたまテレビをつけたらやってて、「うわあああ、なんかきっちりした画面とってるなあ、誰だ?」っておもったらギスラン・クロケだった。納得。彼は『テス』アカデミー撮影賞をとっている。
ウディ・アレン自身が画面構成能力が恐ろしくしっかりしているので、それが上手い撮影監督が誰なのかも知っているのだろう。

この『マンハッタン』はウディ・アレンが一番輝いていたダイアン・キートン時代の代表作のひとつ。世間では『アニー・ホール』が有名かもしれないが、個人的にはこちらのほうが好きだ。もっとも一番好きなのは『インテリア』だけど。
このころのウディ・アレンの作品には不思議と人を引き込む力がある。それは「ああ、これ分る分る」の要素がいっぱい詰まっているからだろう。確かにアレン自身が主役をやっているので、会話はウディ・アレンのいつもの会話で、本心を隠すための象徴過ぎ的トークがやたらとおおい。固有名詞連打も、その作家たちがもつものを象徴しているのだろう。判る人だけ判ってください的なインテリぶりだが、これも嫌いではない。そしてこの頃の言葉や、しぐさや、ドラマ展開は、胸に沁み込む度合いが80年代からの作品にくらべてディープだ。勝手な想像だが、これってダイアン・キートンを愛していたのだと思う。そのとき入れ込んだ女が彼女だったから、彼女を想った時の心情がおおいに反映されているのだと思う。ウディ・アレンって思いっきり「認められたい人」なので、そのエネルギーが高ければ高いほど、作品もよくなるのだろう。この映画では、男の恋愛のなかでよくあるケースが切実に展開されている。
そんな良くある男の心理描写を、ゴードン・ウィリスの力をかりて、マンハッタンの風景のなかで展開している。ごちゃごちゃっとした都会(ニューヨーク)の雑踏といい、いろいろアイテムがある部屋のなかといい、そして霧にけむるクイーンズボロ・ブリッジをみる二人のシルエットといい、天文ミュージアムのなかの絵作りといい、総てが確かな絵になっている。白黒画面というのはちょっと卑怯かとも思うが、ゴードン・ウィリスのモノクロ映画というのはけっこう珍しいので、そういう意味では貴重な映画でもなる。ま、ゴードン・ウィリルならカラーでもモノクロでもどうとってもカッコいいのだけど。

ウディ・アレンの映画というのは、なかなかストーリーにはいりこめないものが多いのだが、それはウディ・アレン自身が主役を演じ、それもモテる男を演じているからだ。本人はもてるとおもってるのかもしれないが、やっぱりあまりビジュアル的にもてるとは思えない。なので映画のなかでウディ・アレンがもててると、そこで「なんか違う・・」って思ってしまうのだ。しかし、これは仕方がないので、「この映画の主人公は見た目はウディ・アレンなのだが、実はもてる男優さんのだれかなんだ」と思ってみることにしよう。
そしてウディ・アレンの映画のなかで役者さん的にみて一番すきなのはこの映画だ。ダイアン・キートンは昔からのファンなのだが、マリエル・ヘミングウェイも実にいい。
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<あらすじ>
ニューヨーク、マンハッタン。コメディ番組の放送作家、アイザック・デイビス(ウッディ・アレン)はトレーシー(マリエル・ヘミングウェイ)という17歳の女子学生と同棲中だった。どちらかというとトレイシーの方が積極的だった。二度の離婚経験があるアイザックは、彼女と付き合いながらも、どこか距離を置こうとしていた。
近代美術館を見物中のアイザックとトレーシーは、アイザックの友人エール会うが、彼は女を連れていた。彼女の名はメリー・ウィルキー(ダイアン・キートン)、雑誌ジャーナリストだ。ベルイマンを表面的にしか理解しない“えせインテリ”ぶりにウンザリだったが、偶然あるパーティでメリーと再会し、意気投合してしまったアイザックは、2人で夜のマンハッタンを長々と散歩することになる。

思えば、ダイアン・キートンとデートするシーンをゴードン・ウィリスにとってもらい、その映画が世に残るなんてうらやましことだ。

結局“H”にいったったアイザックとメリー。トレーシーに別れを告げ、彼女にロンドン留学の話を勧めるアイザック。しかしメリーはやはりアイザックの友人エールを愛しているという。おい! これだから女は困るんだ。男はつかの間の夢見て、期待して、そして裏切られるとやっぱり居心地のいい女のところにもどっていくのである。

「マンハッタンの人々に関する短編のアイデア・・、
 彼らはいつも不必要な精神的問題をつねに想像している。
 なぜならそれらの問題が、さらに解決不可能でさらに恐ろしい宇宙の諸問題から逃れるための
 有効な手段だからだ。
 ふむう・・、楽天的であるべきだ。・・そうだ、人生はなぜ生きる価値があるのか?
 うん、これがいい質問だ。確かに人生を価値のあるものにしてくれるものがいくつかある。
 たとえばどんな? うむむ、そうだなあ、ボクにとっては・・
 グルーチョ・マルクス、ウィリー・メイズ、
 ジュピターの第二楽章、ルイ・アームストロングの『ポテトヘッドブルース』、
 フロベールの『感情教育』というスウェーデン映画、マーロン・ブランド、フランク・シナトラ
 セザンヌの『林檎と梨』、中華料理店のカニ料理・・・・・
 ・・・・・トレーシーの顔」

電話をかけても話中でつながらない。トレーシーのアパートに走るアイザック。しかし彼女は既にロンドン行きを決めており、荷造りを終えてこれから空港に向かうところだった。よりを戻したいアイザックは、今までのお飾りトークではなく、わがままきわまりない本心を彼女につたえていく。彼女のロンドン行きの決意は変わらない。「半年したら帰ってくるから。変わらない人もいるわ」といい、旅立っていくトレーシーだった。
「二兎を追うものは一兎もえず」ストーリーと言われるが、この最後からはトレーシーはロンドンに短期間留学するだけで、トレーシーを失ったわけではないと思う。ただ・・、夢の狩人たる男の性はトレーシーも理解しただろうし、一時の冷めた感情のままロンドンなんかにいくと、ふらっと別の男になびきかねなくもない(彼女は「代わらない人もいるわ」と言っているが)。この一連の別れ話騒動で、トレーシーのアイザックに対する憧れは消失しただろうし・・。
それでも、これで許されるならそれは男の夢だろう。そしてそれを暗示しているエンディングが実に素直でよい。ここでおわらせるのがなかなかおつな展開だなと思った。

by ssm2438 | 2010-05-20 23:35 | ゴードン・ウィリス(1931)
2010年 05月 20日

コカコーラ・キッド(1985) ☆☆☆☆☆

f0009381_2124146.jpg監督:ドゥシャン・マカヴェイエフ
脚本:フランク・ムーアハウス
撮影:ディーン・セムラー
音楽:ティム・フィン

出演:エリック・ロバーツ
    グレタ・スカッキ
    ビル・ケアー

     *     *     *

この監督さんドゥシャン・マカヴェイエフ、この人の名前知ってたらかなりディープな映画ファンです。 だいたい名前からしてもう怪しい(笑)。
ドゥシャン・マカヴェイエフ‥‥。ユーゴスラビアの監督さんなのですが、かなり毒をもったアヴァン・ギャルドな映画をとります。イデオロギー的な体制批判の味をもち(個人的には体制批判は大嫌いなのですが)、性的/根源的な欲求を展開させつつ、風刺的な要素で支配され、一般的概念をぶち壊しにかかってきます。映画をみてても、“この人は何をもって「よし!」としてるのだろうか??”って疑問に思ってしまうシーンもしばしば。ただ、彼は大学で心理学をやってたせいか、人の心に何がひっかかるのか、知ってる人なんですよね。
描いてることは、かなりの赤裸々(肉体的にも、精神的にも)、別 の言葉でいうとお下劣。しかし演出力は飛び抜けて高い。画面 の作り方もけたたましく完成度の高い画面 をつくります。たまにある“H”なシーンだと、SEXに至るまでの見せ方が異様に艶っぽい。“なに、この人の見せ方は!?”って思ってしまう。 頭の奥の方で映画を見る人というか、この人の場合はそれも心の奥の方で映画を感じる人のための映画というか、にくらしいまでに感性を刺激するんです。
表面的にはかなりカルトでもそこに確かな技術があるから、そのアンバランスさが妙に魅力的、一言で言うなら体制批判的・お下劣・インテリジェント・風刺映画を撮る人です。 興味があったら一度ネットで検索かけてみてださい。で、その体制批判的・お下劣・インテリジェント・風刺映画の中でも、一番見易いかなって思われるのがこの『コカコーラ・キッド』。お下劣度があんまり高くない。一番さらりと綺麗に見られます。 ただ、彼の映画を見ようと思うと、まあほとんどのレンタルビデオ屋にはおいてないと思うので、ネットで中古ビデオを探すしかないんじゃないかなあ。

おおまかなあらすじを紹介すると、

「問題解決に有能な営業マンベッカ-を派遣。進学と経営学の学位 有り。  彼の話を聞け。怒るな。恐れるな。そして、驚くな」 のテレックスと同時にはオーストラリアのコカコーラ支社に派遣されてきたベッカ-(エリック・ロバーツ)。 彼女の秘書につくことになったのがテリー(グレタ・スカッキ、実は私のけっこう好きな女優さんの一人です)。 そして市場をちょうさしてると、コーラの売れられて無い地域があったりする。
「なぜ、ここではコーラが売られてないのか? 喉があること、飲み物は必要だ」問題の地域アンダーソン峡はジョージ・マクドウェル男爵の領地で、古くからの製造方法でコカコーラとよく似たソフト・ドリンク、マクコークというのを売り出していて、コカコーラを完全街ぐるみで閉め出している。かくして強大企業に対抗する地元産業の抵抗という販売競争図式はできあがり、ベッカーはコカコーラの大軍団を率いてアンダーソン峡に乗り込んで行くのだった‥‥。

最終的には、ジョージ・マクドウェルは自分の工場に火をはなって戦争集結、 ベッカーはそれをみて、競争社会から足を洗うってことになるんだけど、まあ、それはいいや。 ドゥシャン・マカヴェイエフの映画の魅力はストーリーよりも、シーンごとの見せ方が味。 ノーマルな絵のなかにアブノーマルな部分を入れ込む。あるいはアブノーマルな世界感のなかで一人だけがノーマル感覚でいたりする。 “こう見えてるこの世界がほんとに当たり前だと思っているのか? うん?”みたいな、 実は既成概念の挑戦的な破壊、しかし抜かりなくユーモアというオブラートに包んで、観ている人に受け入れやすく味付けしてある。
映像も基本的にオシャレ。オーストラリアの支社で、今後の運営方針を説明するベッカ-。部屋の電気を落し、シュワ~~~という音とともにグラスに注がれたコーラ。その広報から光を当てると、聞いてる人々の顔に暗褐色のコーラ色が投影され、彼等の顔のうえに炭酸の泡の影がたちのぼり、炭酸のはじけるジュワワワワ~~~~って音だけがかなりのボリュウムで流される。それだけで、コーラの味を思い出して、口のなかに生唾がでてきそう。こういう所では『フラッシュダンス』『ナインハ-フ』エイドリアン・ラインばりのCM的オシャレ画面 をみせてくれる。
そしてグレタ・スカッキがとっても素敵。ほんとに健康的に色っぽい。 SEXに至る時にあの艶っぽい見せ方は、ドゥシャン・マカヴェイエフ天下無敵。 いやらしくなく、でも色っぽく、爽やかに肉欲を描いてしまう。
基本的には<抑圧された環境(使命)からの魂の解放>がこの人のコアで、生産性は無い。 実に魂が消費者。 たぶんこのドゥシャン・マカヴェイエフ、この映画のグレタ・スカッキのテリーに代表されるような、 汐に流されるままのクラゲのような固執することない生き方を理想としてるんじゃないかと思う。 だからスピリット的には好きになれない人なんだけど、 でも、技術力とか頭の良さはとにかく凄い。

by ssm2438 | 2010-05-20 03:35 | D・マカヴェイエフ(1932)
2010年 04月 26日

ペーパー・チェイス(1973) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

f0009381_17115363.jpg監督:ジェームズ・ブリッジス
脚本:ジェームズ・ブリッジス
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:ティモシー・ボトムズ
    リンゼイ・ワグナー
    ジョン・ハウスマン

     *     *     *

リンゼイ・ワグナーつながりでもうひとつ。私の大好きな『ペーパーチェイス』『ふたり』とともに見たくて見たくてしかたがなかった映画であるが、こちらは幸いにしてVHSが発売された。20代の頃の私はこの映画をレンタルビデオ屋で見つけてどれだけ幸せになったことか。しかし、そのときはこの映画の価値など理解してもいなかった。ただ若き日のリンゼイ・ワグナーが出てる映画というだけしか興味はなかったのだが、みてみて驚いた。良い!! 恐ろしいまでにツボだった。いろんな意味でツボにはまった。

まず第一に、私はお勉強映画というのがけっこう好きだ。本作品は時代が時代だけにアンチ権力、アンチ権威的な匂いもしないではないが、それでもそれと戦うには最低限度の力をつけなければ何も出来ない。それを見せ付けてくれる。実力がなければなにもいえない世界。何かを主張したいのなら実力をつけなければならない。その厳しさがきちんと描かれていてることがとってもうれしかった。

第二に、リンゼイ・ワグナーがやっぱり美しい。私が知っていた彼女は『バイオニック・ジェミー』の彼女であり、この映画はそれより何年か先につくられている。がゆえに私がそれまで知っていた彼女よりも若いのだ。残念ながらグラマーなたいぷではないが、それでもかのじょがもつゴージャスさは十分にかもしだされていたし、どんな服装をしてみ素敵だった。そして彼女が出ている映画が「良い映画」だったってことがうれしかった。

そして第三にゴードン・ウィリスの画面。この映画ほど「氷のフィルター」をつけた感じの映画はないだろう。キングスフィールドの講堂、冬の公園やスタジアム、レッドセットの棚。とくにこの図書館に代々保管されているという教授のノートが保管してあるレッドセットの棚。あの赤さは素敵だ。この映画はキューブリック『2001年宇宙の旅』とさりげなくリンクしていると感じるのだが、あのコンピュータHALとこの映画のレッドセットの棚は実に同じ空気を感じる。もちろん作っている当事者はそんなことはきにかけてもいなかっただろうが、偶然にしてもあの同じように冷たく赤いあの感じは素敵だ。

最後に、そこに描かれている人間性。どうも私はあのくらいの人間と人間の距離感がすきらしい。ちかすぎてべたべたするのもあんまり好きではないし、かといって離れすぎてクールすぎるのもいまいち好きになれない。ちょっと距離をおいたつながり・・というのだろうか。あの空気感が好きだ。
結局のところ、この映画のもってる空気感が肌にあうのである。

そしてもうひとつ記しておきたいことがある。この映画実はイングマル・ベルイマンがシナリオを書いた『もだえ』と実にシチュエーションがにているのだ。こちらはラテン教師なのだが、『ペーパーチェイス』に出てくる完全無欠の歩く法律キングスフィールドは、あのラテン教師がベースに違いないと勝手におもいこんでいたりする。


この物語は主人公のハート(ティモシー・ボトムズ)はハーバード大学法学部の学生、そんな彼もキングスフィールド(ジョン・ハウスマン)の講義初日にその甘さをしたたかにうちのめされる。寮に帰るとトイレにはいり絶叫を便器にぶちまける。一筋縄では蹴落とされることを初日に心にきざむことになったハートは、向かいの部屋の血筋のよさげなフォード、巨漢で傲慢な部分があるベル、のちにアリーマイラブでアリーの父親役をやるケビン、常にマイペースでスマートに総てのことをこなしていくアンダースンたちとスタディグループをつくる。そこでは各自が講義の担当を決めてその講義に関しては責任を持ちノートをまとめ、テスト前にはそれを交換しあう約束をかわす。そのなかでハートはあえて強敵キングスフィールドの契約法の担当に自ら名乗りをあげる。

彼らにとって<女>は禁物だといわれている。女に割く時間があれば勉強したほうがいい。ペースの乱れが総てを台無しにしかねない。ハートもそれをわきまえてこつこつを勉強していくうちにキングスフィールドの講義でも徐々に頭角をあらわしてく・・が、ある晩ピザを買いにでかけたよるスーザン(リンゼイ・ワグナー)と知り合い付き合うようになると、勉強のペースがみださてていく。そして実は彼女がキングスフィールドの娘であることにきづく。
この物語の基本構造は、人間性ゼロの法律マシン=キングスフィールドと人間性の必要性をとくちょい甘のスーザンとの間でゆれるハート・・・という構成になっており、結局のところ人間性をもちつつキングスフィールドの知識も得る方向性でまとめあげている。

勉強のほうも少しずつ落ちこぼれていくものも出てくる。ケビンもその一人だ。
キングスフィールドのクラスにおいてはソクラテス方式の講義が行われている。Q&A、Q&Aの繰り返し、そのなかから自分なりに体系的にまとめ思考することを養っていく。しかしケビンは写真的記憶力にたより、思考することを得意としなかった。それがそれまでの彼の勉強スタイルだったのだろうがここではまったく通用しない。ことごとく総てのテストで落第点をとり、仲間からも大事にされない存在になり、自殺をはかろうともする。それは未遂に終わるが最終的には挫折して大学をさることになる。

一方と意外と大胆な行動力をみせるハートは早朝の図書館に忍び込み、一般には閲覧することが出来ない教授たちがのこしたノート=レッドセットを覗き見ることに成功する。そこで発見したものは・・・、自分たちが受けている講義とまったく同じ内容がそのノートにかかれているという事実だった。キングスフィールドの講義内容も彼自身のアドリブではなく、彼がうけた講義の転写でしかないのだ。その棚に並ぶレッドセットと呼ばれるノートはまるでデータとしてのこされたコンピュータのメモリのようであり、人から人へと受け継がれながら未来へおくられていく進化しないデータでしかないのだ。

そうしてキングスフィールドの思考体系を理解しつつあるハートは、講義のあとに呼び止められ、彼自身の仕事を手伝ってくれないかと要請をうける。認められた感をもったハートはその仕事を引き受けるが、その反面スーザンとのデートをすっぽかすはめになる。結果はハートの手に余る仕事であり、期限までに間に合わせることが出来なかったハート。もう少し時間が欲しいと申し出るが、キングスフィールドの言葉は冷たく「すでに上級生に頼んだ、君のはもう不要だ。帰って休め」と言うだけのものだった。

父は人間的な感情では付き合えない人なのだというスーザン、しかし何かしら期待をかけてもらっていると信じているハート。最終試験においても猛勉強のすえ高得点をえる。最後の講義の後「あなたの講義は素晴らしかった。おかげで力がついたと思います」と一言感謝の言葉をつたえるハートだったが、キングスフィールドの言葉は「・・・・君はだれだったかな」。その法律の伝道師はハートのことなど記憶すらしていなかったのだ。

成績が発表されるまでの間、ハートとスーザンはとある岬で休暇をとていた。そしてとどけられる成績通知書。ハートは中味を読まずにそれで紙ヒコーキを作り、海に向けてそれを飛ばし、それは波間に消えていった。


私が思うに、男という生き物は<認められたい生き物>なのだ。どんなに努力して自分が自分を認めたとしても、自分以外の誰かに認められなければその努力むなしいと感じる。
この物語は、<認められたい>と思い、それに挑んだが、その相手は認める能力すらないメモリーマシンだったというある種の悲劇なのだが、しかし、それは実際の世界ではここまで徹底的に認められないことはないまでも多かれ少なかれあることであり、その認められるための努力がその人を作っていくのだと思う。

PS:このキングスフィールドの演技でジョン・ハウスマンアカデミー助演男優賞を獲得した。

画像あつめてきました。
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by ssm2438 | 2010-04-26 03:29 | ゴードン・ウィリス(1931)
2010年 04月 16日

黄昏(1981) ☆☆☆☆

f0009381_10431.jpg監督:マーク・ライデル
脚本:アーネスト・トンプソン
撮影:ビリー・ウィリアムズ
音楽:デイヴ・グルーシン

出演:
ヘンリー・フォンダ (ノーマン)
キャサリン・ヘプバーン (イーセル)
ジェーン・フォンダ (娘・チェルシー)

        *        *        *

死を感じるようになった親とその子どもとのコミュニケーション。

これはドラマの中だけでなく、長年父ヘンリー・フォンダと仲たがいをしていた娘ジェーン・フォンダの心の再構築にもなった作品。といっても、世間でいわれているほど、それが出たかどうかは疑問だが。しかし、「それも父親の人生だったんだな」と彼女にしてみれば思えたのかもしれない。

ヘンリー・フォンダは生涯で5度結婚している。最初の妻のマーガレット・サラヴァンとは1931年に結婚するも1933年に離婚。1936年にニューヨーク社交界の大物シーモア家の娘で弁護士のフランシス・シーモア・ブロカウと結婚し、ジェーンとピーターの二人の子供をもうける。しかし精神病を患ったフランシスは1950年に自殺。フォンダは子供達を動揺させないために母親は心臓発作で死んだと教えたという。その後も結婚と離婚を繰り返すようになるヘンリーにだったが、母親の死の真相を知った二人の子供たちと父親の関係は次第に悪化。そんな父に反発をしてフランスに渡ったジェーン・フォンダロジェ・ヴァディムとの結婚、しかしそれを父に知らせないままだったとか。弟のピーター・フォンダも父を憎悪しながらも同じ俳優になるわけだが、ハリウッドに反発し、ドラッグやバイクにのめり込み、『イージーライダー』みたいな映画をとってしまったわけだ。
そんなヘンリー・フォンダのバックボーンを知ってしまっているがゆえに、この映画のなかで展開される父と娘の心の再構築のドラマは、なぜかこころにしみてしまう。

原題は『オン・ザ・ゴールデン・ポンド』、原作のアーネスト・トンプソン自身が脚本も書いている。監督のマーク・ライデルは後にトム・ハンクスサリー・フィールドのスタンダップ・コメディアン映画『パンチライン』を撮っている。これも私の好きな映画だ。

そしてこの映画は湖畔の描写がとても美しい。撮影監督のビリー・ウィリアムズは、1981年のアカデミー撮影賞にノミネートはされたが、残念ながら『レッズ』にもっていかれてしまった。しかし翌年の『ガンジー』でみおとアカデミー撮影賞ゲット! しかし、これはなんか・・、本来『黄昏』であげておくべきところを、別の作品にあげてしまったアカデミーのメンバーが、その功績をたたえて、『ガンジー』であげたようなきがした。
ときどきそんなことあるよね。『ガンジー』のおかげでアカデミー賞をもっていかれてしまった『評決』ポール・ニューマンが次の作品『ハスラー2』でアカデミー賞とったり・・。あれも、本とは『評決』で主演男優賞をあげるべきだったとおもうのだけど・・。

<あらすじ>
もうすぐ80歳をむかえるノーマン・セイヤー(ヘンリー・フォンダ)は、妻とイーセル(キャサリン・へッブバーン)と共に「ゴールデン・ポンド」と呼ばれる湖のほとりの別荘にやってくる。夏の間がその別荘で過ごすのが彼らの習慣だった。ノーマンは心臓が悪く、物忘れもひどくなっており、なおかついこじであり、死への恐怖は増すばかりだった。そんななにかと手のかかるノーマンをイーセルはおだやかな愛情をもって支えていた。
そんな二人のもとを、ひとり娘チェルシー(ジェーン・フォンダ)が、孫のビリーと新しいボーイフレンドのビルを伴ってやってきた。離婚経験があるチェルシーは、母のイーセルとは素直に接することができるが、父ノーマンとは相変わらずかみ合わない。新しい恋人のビルにまで皮肉を言うノーマンを許せないチェルシー。チェルシーがビリーをあずけ、ビルと共にヨーロッパへと旅立った。
独り残されたビリーだが、最初は付き合いづらいと思っていたノーマンと心を通わせていく。一方、ブリュッセルでビルとの結婚式を済ませて帰ってきたチェルシーは、息子のビリーと父ノーマンがすっかり仲良くなっているのにびっくり。ノーマンに関しては毒説をはくチェルシーだが、イーセルは「彼は私が愛した人よ。なのにあなたは彼の愛情深い人柄をまだわからないの」と語る。
「普通の父と娘のような関係になりたい。パパと仲良くなりたい」と願うチェルシーは勇気を奮い立たせ、父を接することに挑んでいくのだった。

こじれた関係を修復していくには、その一歩を踏み出す勇気が必要だ!

by ssm2438 | 2010-04-16 01:00
2010年 04月 06日

ロリータ(1997) ☆☆

f0009381_7281815.jpg監督:エイドリアン・ライン
原作:ウラジミール・ナボコフ
脚本:スティーヴン・シフ
撮影:ハワード・アサートン
音楽:エンニオ・モリコーネ

出演:
ドミニク・スウェイン (ロリータ)
ジェレミー・アイアンズ (ハンバート)
メラニー・グリフィス (シャルロット)
フランク・ランジェラ (キルティ)

        *        *        *

スプリンクラー、しゅっしゅっしゅっしゅっしゅっしゅっ

原作自体があまりおもしろくないので、キューブリックが撮ろうが、エイドリアン・ラインが撮ろうが、あんまり面白くなるとは思えない作品。あえて、キューブリックの『ロリータ』とエイドリアン・ラインの『ロリータ』を私の好みをいうなら、エイドリアン・ラインのこっちのほうかな。それも、ドミニク・スウェインのほうがまだいいかなって好みだけで。どちらも、あんまり「これこそは!」という大人になりかけの少女の艶っぽさがあるとはいえないような。個人的な好みでは、ルイ・マルのやった『プリティベイビー』の時のブルック・シールズ辺りにやってほしかったかな(苦笑)。
あと、こちらは私が生理的に好きになれないジェレミー・アイアンズがハンバートをやっている。生理的には嫌いなのだけど、主人公的には、キューブリック版のジェームズ・メイソンよりはジェレミー・アイアンズのほうが神経質そうであっていたような気はするけど。あと、特筆すべきは、キューブリック版は、原作者のウラジミール・ナボコフ本人が脚本を書いている。でもまったく面白くないけど。

ただ、女性の本質は良くかけているかな。男としては認めたくないけど。
ハリウッドもののヒロインはどうしても男性が憧れるヒロインとして描かれるのがふつう。これは、男は女を愛するから、女も男を愛する生き物だと思っているがゆえに出来上がったヒロイン像。しかしこれがヨーロッパ映画になると、もっと女性の本質をつきつめたヒロインが描かれることがおおいような気がする。その代表なのがミケランジェロ・アントニオーニモニカ・ヴィティ演じるヒロインだろう。
女は男を愛するようにはできていないのだ。女が愛するのは男の機能性であり、それは別の男でも取替えがきくならその男でなくても別にかまわない。ミケランジェロ・アントニオーニの描く女性には「まず女には男を愛する機能がない」という前提で描かれている。そして、愛していないにもかかわらず、つなぎとめておこうとする。そのために愛想をふりまく。男に期待をさせる。
ウラジミール・ナボコフも、同じように女を分析しているのだろう。

<あらすじ>
仏文学者ハンバート・ハンバート(ジェレミー・アイアンズ)となった彼は、教授の職を得て米国に渡る。ニュー・イングランドの小さな町に来た彼は、シャルロット(メラニー・グリフィス)という未亡人の家に下宿する。そして彼女の娘、、12歳になるロリータ(ドミニク・スウェイン) に釘付けになる。シャルロットととりあえず結婚をし、ロリータと接する密度と機会を増やしていく。ある日、夫の本心をを知ったシャルロットは逆上し、自宅の前で不慮の事故死を遂げる。ハンバートは、サマーキャンプに向かい、ロリータに母の死を告げる。
身寄りのなくなった彼女を連れ、ハンバートはアメリカ放浪の旅に出た。やっとロリータとふたりっきりの時間をえたハンバートだったが、“おあずけ”をくうばかりでいらいらもたまり、彼女にあしらわれている感がしてならない。やがてキルティ(フランク・ランジェラ)という男の存在がみてくる。そのたびの間も、ロリータはキルティと何度となく密通していたのだ。やがて、なぶりものにされ、妊娠したロリータがもどってくる。逆上したハンバートはキルティに復讐を遂げるが、ロリータは「私が愛したのはキルティだけだった」と言う。すべては一人相撲だったことに絶望するハンバートだった。

by ssm2438 | 2010-04-06 07:28 | エイドリアン・ライン(1941)
2010年 04月 01日

グース(1996) ☆☆☆

f0009381_592685.jpg監督:キャロル・バラード
脚本:ロバート・ロダット/ヴィンス・マッキュウィン
撮影:キャレブ・デシャネル
音楽:マーク・アイシャム

出演:
アンナ・パキン (エイミー・アルデン)
ジェフ・ダニエルズ (トーマス・アルデン)
ダナ・デラニー (スーザン・バーンズ)

        *        *        *

『ウインズ』『ワイルド・ブラック/少年の黒い馬』キャロル・バラードがてがけたファミリー向け映画。ストーリー的にどうなんかな?って思うところもあるが、映画としてはきちんとまとまっており、盟友キャレブ・デシャネルの画面もあいかわらず素晴らしい。
キャロルバラードは、あんまり本数はないのだけど、作っている映画はかなり良質である。といっても私も、これと、先に上げた2本しかみてないのだが・・、ファミリー向けながら、映画術は恐ろしくきちんとしており、最強のカメラマン、キャレブ・デシャネルの画面もあり常に上質の映画に仕上がっている。

どうも私は「もうオレは飛べない、しかしお前には未来がある、お前は私を残し、飛んでいけ」ストーリーに弱い。『さよなら銀河鉄道999』もそんなにいい話だとはおもわないが、冒頭の999号に乗るとこまではけっこう感動した。この映画では親子で雁たちをリードしながら、渡りをとおしえるという物語だが、途中父親ののる軽飛行機が墜落。しかし父親は、「お前なら一人でも飛べる」と背中をおしてやる。もおう、これだけで泣けるんだな。感動をもたらす一つのポイントとして「伝える」という要素がある。想いが伝わる、使命を引き継ぐ、命が継がれる・・など、何かが引き継がれた時には、なんだか無性に感動してしまうものだ。

<あらすじ>
自動車事故で母を失っ14歳の少女エイミー(アンナ・パキン)は、父親のトーマス(ジェフ・ダニエルズ)に引き取られ、カナダ・オンタリオ州の農場に移る。父親は奇妙な彫刻を作る芸術家で、趣味はグライダーで空を飛ぶこと。それにスーザン(ダナ・デラニー)という恋人もいて、エイミーは新しい暮らしになじめないでいた。
ある日、彼女は森で親を亡くした雁(グース)の卵を見つけ、それを育てることにする。やがて卵がかえり、16羽のヒナたちが顔を出した。うまれて最初にみたエイミーを“ママ"だと思い込んだ彼らは成長していく。残念ながらそのうちの1羽は不具合があるらしく他の雁たちが飛べるようになってもみんなについていけない。
やがて彼らが南に渡る季節が近づいた時、父娘はグースたちに飛ぶことを教え、越冬地まで連れていかなければならないことを知る。トーマスはエンジン付きグライダーを開発し、それを使ってグースを先頭にたてて、彼らを南に渡らせようと考える。エイミーもグライダーの操縦をおぼえなければならなかった。
父とエイミーの乗る2機のグライダーは成鳥になったグースたちを扇動して南にむかう。途中、空軍基地に緊急着陸したり、ハンターたちに狙われたりといったアクシデントを乗り切って旅を続けるうち、彼らはマスコミの報道を通じて全米の注目の的になっていく。だが、目的地を目の前にして“パパ・グース号"が故障し、墜落。負傷したトーマスは、残りの行程を独りで飛ぶようエイミーを勇気づける。やがて、エイミーは一羽も欠けることなく無事に送り届けるのだった。

さすがに相手が鳥なので、望遠の画面がおおいことはとてもうれしい。
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by ssm2438 | 2010-04-01 00:01
2010年 01月 30日

ドリーム・ラバー(1985) ☆☆

f0009381_1391118.jpg監督:アラン・J・パクラ
脚本:ジョン・ブアスティン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:マイケル・スモール

出演:クリスティ・マクニコル

        *        *        *

何を勘違いしたのか1986年のアボリアッツ国際ファンタスティック映画祭でグランプリをとってしまった作品。対抗馬といえば『第五惑星』くらいだったみたい。
だいたいパクラの映画がアヴォリアッツに出展されるということ自体不可思議なこと。この映画を見たことのある人はそういない思うが、個人的にはそれほど悪くないと思った。まあ、パクラファンなのである程度贔屓目は入っているし、ヒロインはクリスティ・マクニコルだし、撮影はスヴェン・ニクヴィストだ。普通はゴードン・ウィリスがパクラ作品の常連なのだけど、きっとなんらかの仕事があって手が空いてなかったのだろう。いやいやしかし、だからといってベルイマン御用立つのスヴェン・ニクヴィストをつれてくるか・・!?って感じでした。

<あらすじ>
フルート奏者の学生キャシー・ガードナー(クリスティ・マクニコル)はアパートに侵入してきた男もみ合いになり、彼が落としたナイフを拾って背後から刺し殺してしまう。事実を父に話すが、正当防衛が通用しないと判断した父は、キャシーに偽証させる。失意のキャシーは家を出てピアニストの友人ケヴィンと暮らすことにするが、それからというもの、彼女は悪夢に悩まされ、不眠症となっていく。
そんなキャシーに声をかけたのがある研究機関のマイケル・ハンセンだった。調べてみるとキャシーは夢を見ている間にも筋肉が反応する、珍しい体質だった。そして夢の中で彼女は殺人鬼と化していた。やがて夢でみたことを実行するようになるキャシー。夢と現実の区別がつかなくなってきた彼女は、やって来た父を、自分が殺した男と混同して父に襲い掛かる。

・・・このての話はあんまりパクラには似合わない。パクラの場合は、主人公の住む世界が、ぐいぐい主人公を圧迫していくところが面白いのだけど、この映画はどっちかというとその反対、内側にあるものが主人公をおいつめていく話。・・しかし、そういってしまえば聞こえはいいが、夢に見たことを実行していく主人公が目が覚めてから夢遊病に苦しむだけの話であり、マクニコルの過去になにかもっと深いダークサイドのトラウマがないとダメだったかも。

by ssm2438 | 2010-01-30 01:39
2010年 01月 30日

デビル(1997) ☆☆☆

f0009381_05208.jpg監督:アラン・J・パクラ
脚本:ケヴィン・ジャール
デヴィッド・アーロン・コーエン
ヴィンセント・パトリック
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:
ハリソン・フォード (トム・オミーラ)
ブラッド・ピット (ローリー・ディヴァニー)

        *        *        *
何を撮ってもおもしろくないアラン・J・パクラの、世間では面白くないといわれてるけど、個人的には嫌いではない作品(苦笑)。パクラの映画は主人公に感情移入しすぎず、ストイックな立場でカメラを回してるのがいんだよね。ま、なんだかんだといってもやっぱり嫌いになれない監督さんの一人でして・・。
しかし、この監督さんの映画は主人公感情移入系のドラマではないので、あんまりブラッド・ピットとかハリスン・フォードとかを使う意味もないのだけど・・。これがアラン・J・パクラの遺作となってしまった。

この映画は、あんまり評判良くなくて、私もパクラファンのひとりだけど、けっこう疎遠にしてた映画。しかし『ゴルゴ13』の26話「冷血キャサリン」でIRAがらみの話をつくることになり、雰囲気だけは知っておこうかとその関連の映画を見たときの一本。アニメのコンテを描くとき、私の場合は雰囲気重視なのでどうしても何本かそれらしい映画をみてから描くことにしている。ちなみにもう一本は二ール・ホモ・ジョーンダンの『クライング・ゲーム』。正直なところどっちもそれほど参考にならなかったのだが・・(苦笑)。

映画自体も悪くもないが良くもない、無難な映画だったと言えるだろう。
この物語はもともとはブラッド・ピット主演という形で物語が作れるスタンスで始まったらしい。当時彼は飛ぶ鳥落とす勢いだった。彼のもとにきたシナリオを読んだピットは、準主役となるだろうニューヨークの警官をハリスン・フォードはどうだろうと提案したそうな。ただ、ハリスン・フォードを使うとなると準主役ではなく、主役扱いでないとダメだということになり、その役をもっと人情的に書き込むことになったらしい。これは映画会社の主張なのかハリスン・フォードの主張なのかはわからないが、個人的には悪くない方向性で進んだと思える。
お互いが、一個人同士だと愛せる人なのに、その人のバックボーンを知れば知るほど相容れない立場だということになる。客観的には対立構造だが、主観的には愛せるキャラクターという、ドラマではここちよい物語の構成になっている。
ちなみに、監督はそのあと決まる。ハリスン・フォードの提案により、アラン・J・パクラにきまったそうな。なので、この作品彼主導の作品ではなく、パクラ自信がリーダーシップがとりづらかったのだろう。
ストーリーが決まらないまま撮影に入ったこの作品の撮影はどんどん遅れ、とにかく早く上げて次の仕事につきたいブラッド・ピットはそんな状況に不満を公言するようになる。そんなわけで映画制作の現場でも荷台俳優がギクシャクした関係になり、雰囲気のわるい現場になったそうな・・・。

ただ・・・、パクラが撮るなら、『ジャッカルの日』のようなストイックな作品としてあげてもよかったのではないかなとも思う。もうすこしハリスン・フォードの役どころを抑えて、目的を果たすためにIRAのエージェントというだけのほうがかなりスリリングだったのではないかな・・・と。

<あらすじ>
8歳のフランシス・マグワイヤーは、IRAに協力的だった父を眼前で殺された。それからというもの北アイルランドの独立運動に身を投じ、冷徹なテロリストとなった。SI5(英国秘密調査局)に襲撃され、仲間の大半を失った彼はローリー・ディヴァニー(ブラッド・ピット)という偽名でNYに渡る。
ローリーが下宿することになったのは、NY市警察官トム・オミーラ(ハリソン・フォード)の家だった。家族と一緒にすごすトムはローリーを祖国から来た純朴な青年として、家族同様に迎えたが、ローリーはマフィアとセ色、武器と資金調達のために動いていた。
英国から来た捜査官からローリーの正体を聞かされたトムは、激しい怒りを覚える。一方ローリーはマフィアの一味を倒し、ミサイルを手に入れた。ミサイルを積んで出航したローリーの改造船に飛び乗り二人は最後の対決となる・・。

by ssm2438 | 2010-01-30 00:52 | ゴードン・ウィリス(1931)