西澤 晋 の 映画日記

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2010年 08月 13日

アンドリューNDR114(1999) ☆☆☆☆

f0009381_13502721.jpg監督:クリス・コロンバス
原作:アイザック・アシモフ
脚本:ニコラス・カザン
撮影:フィル・メヒュー
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演:
ロビン・ウィリアムズ (アンドリュー)
エンベス・デイヴィッツ (アマンダ/ポーシャ)
サム・ニール (リチャード)
オリヴァー・プラット (発明家ルパート)
キルステン・ウォーレン (ガラティア)

       *        *        *

屁がこけること、それが人間の幸せかも・・・

ベタな大河ドラマなんだけど、これが意外といいんだ。『グレムリン』の脚本でデビューしたクリス・コロンバス。その後もスティーブン・スピルバーグが総指揮をつとめる映画の監督などをやっていたが、個人的にはほとんど魅力を感じずにいた。そんなわけで、この映画もしばらくほっておいたのだが、公開から10年くらいたってたまたまテレビでやっているのをみたら、ついつい惹きこまれてしまった。

さすがにロボットの大河ドラマで、原題『バイセンティニアル・マン(200歳男)』があらわすように人間の人生の数倍いきてしまう。未来という設定で人間の寿命がのびたとはいえ、それでも人間の3~4世代分を生きてしまうので、初めに登場した時のロボットをかったリチャード(サム・ニール)も死んでしまうし、その時アンドリューに心開いてくれたアマンダも、死んでしまう。その娘という設定のポーシャを同じエンベス・デイヴィッツが演じていて、彼女が物語のヒロインとなるのだが、途切れそうになる感情移入をなんとかつなぎとめたかたちになっている。物語構成的にはかなり単調なものであることは認めざるを得ないが、それでも、アンドリューの憧れが切れないように工夫をして作られているのが実に好ましい。

しかし、最後はアンドリューが人間として認めてほしいと、人類の評議会の審判をうけるのだが、あれで人間だと認めてしまうのはどうなのかな?って思った。人間の感情というものはもっと複雑なもので、たとえば、好きなのに好きだといえなくって、でも好きだと気づいてほしい・・みたいなものである。好きな人の不幸は、自分がそれで役に立てるいい訳として、けっこう幸せなものであったりもする。そういった複雑な心理がないアンドリューに人権を認めるというのはどうにも「人の軽さ」を感じてしまった。たぶん、もしこれが「人」と呼べるものなら、人間につくられて、そういった複雑な感情も持たないにもかかわらず、人権をもとめててしまう単純さに「やっぱり自分は人間ではないんだ」と判断し、その素直すぎる欲求はロボットの証だとして申請を取り下げるだろう。

この映画は、どこか教育映画的な要素があって、さしあたり非難をうけない映画の作りになっている。そのあたりがかなり物足りなさを感じるのだが、このアンドリューがここまでやって、なおかつなぜか人間だとは認めたくない部分がやっぱり見ている我々の中には存在するはずだ。それこそが人間の人間たるものであり、ロボットのような素直な部分だけではない、人間のもっとも素晴らしいところなのだろう。それを再認識させてくれから好きなんだなあ。
しかし、ここに提示したアンドリューの努力だけでも、単純には感動できると思う。なんだかんだいってもこの映画は嫌いにはなれない。

余談だが、ガタティアはキュートでいい。最後に進化したガラティア(ほとんど人間)をキルステン・ウォーレンが演じているのだが、この人、なかなか素敵だ。最後の看護婦さんとなった彼女はめちゃめちゃ素敵だった。

原作は『ミクロの決死圏』アイザック・アシモフ。1900年代のSFの3人の巨匠といえば、アイザック・アシモフアーサー・C/クラークロバート・A・ハインラインとよく言われたものだが、そのうちにひとりである。

<あらすじ>
近未来。マーティン(サム・ニール)は家事用ロボット、NDR114号(ロビン・ウィリアムス)を購入した。「アンドリュー」と名付けられた彼は、幼いリトル・ミスと友達になり、彼女から人間について学んだ。やがてリトル・ミス(エンベス・デイヴィディッツ)は成長し、結婚していった。アンドリューのほのかな恋心は痛んだ。
娘をおくりだすマーティンとアンドリューが一緒に飲むシーンは実にすてきだ。

いつしか時間がたち、リトルミスも亡くなった。しかしアンドリューはその子供(孫でしたっけ?)ポーシャと知り合う。ポーシャ(エンベス・デイヴィディッツ)はアンドリューがずっとあこがれていたリトルミスそっくりだったのだ。彼女を愛したい、彼女に愛されたいと願うアンドリューは人間になりたい欲求をおさえられなくなっていた。友人となった発明家のルパート(オリヴァー・プラット)からロボットが人間に近づける可能性を知らされると、具体的にそれを現実にしていく。肌を獲得し、味をしる舌を獲得し、生殖器も獲得する。ついにポーシャ(エンベス・デイヴィディッツ=二役)のこころをいとめたアンドリューは彼女と結婚するが、ロボットとの結婚は認められないため、非公式である。どうしても人間と認めてほしいアンドリューはルパートに寿命を与えてくれるように要求する。いつ、どこで命が絶えるかわからない寿命というもの。それを獲得したアンドリューはなんども却下された人間として認めてもらえる申請を再び提出する。
そしてその結論が人類大評議会で出されるその日、その評決をまたずにアンドリューは静に息をひきとっていくのだった。

by ssm2438 | 2010-08-13 13:48
2010年 08月 06日

ジュラシック・パーク(1993) ☆☆☆☆

f0009381_12523872.jpg監督:スティーヴン・スピルバーグ
原作:マイケル・クライトン
脚本:マイケル・クライトン/デヴィッド・コープ
撮影:ディーン・カンディ
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:
リチャード・アッテンボロー (ジョン・ハモンド)
サム・ニール (アラン・グラント博士)
ローラ・ダーン (エリー・サトラー博士)
ジェフ・ゴールドブラム (イアン・マルコム博士)

       *        *        *

おおお、本物の恐竜がうごいてるみたいだ!!

・・・当時は感動した。確かにCGの技術の発展でこのくらいは当たり前に出来る時代になることはわかってたけど、いわゆる特撮物で、怪獣/恐竜がj記ぐるみではなく、ロボットでもなく、人形でアニメでもないかたちで実に本物のように作られたというのはこれが初めてだったのだろう。
もっともわれわれの子供のころは『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に出てくる気ぐるみの怪獣で十分たのしめたのだが、というか、あれはあれで今でも楽しめるた。あれの面白さは、見ている側のイマジネーションでき「現実にこれがおきたら、こんなふうになるんだろうな」って作り物だと分かっている画面を見ながら頭のなかで補完する部分がとても刺激的だったのだろう。
さすがにいまのようなCGではもう、完全に本物っぽい画面をみせられるので、「ああああ、まるで本物っぽいなあ」でその部分だけ感動しているので、見ている人の補完活動がなくなってしまうのがちと寂しい。ドラマや、映画って、結局この見ている人が、どれだけその物語を寝たにそのうらにメンタルや、トリックを想像するところにあるのであって、全部提示しすぎることがそれほどすばらしいことだとは思えないところもあるのだけど。

原作は『アンドロメダ・・・』『未来警察』マイケル・クライトン。その時代その時代の最先端のアイテムは発想をもとに物語と理詰めでつくってくれるので、基本的にはいつもそこそこ楽しく見せてもらえる。
恐竜の再生に関しても、もっともらしいとんちを働かせているし、その設定ならだまされてもいいなっておもわせる程度の説得力はとりあえずつけてある。あつめられた科学者たちもいろいろ個性的で数学者のイアン(ジェフ・ゴールドブラム)なんかはいい味をだしている。
これは『アンドロメダ・・・』の時もマイケル・クライトンが使っている登場人物の集め方なのだが、かならず一人は、全然関係ないような人を入れ込むというもの。こういった特殊事情で専門分野であればあるほど、見方が一方的になりがちであり、そこに別次元からの意見を挟みこむためには、全然関係がないキャラクターの存在が必要なのだそうが。
個人的にはもうひとりくらいビジュアル的にみてて楽しめるきれい系の女性がほしかったかな。ローラ・ダーンではいまひとつ欲情しない(苦笑)。

スピルバーグの演出はあいかわらず、恐竜の怖さをえがきつつ、それだけではない親近感もあわせて描いているように思う。これはスピルバーグの基本コンセプトなのだろうが、『ET』や『未知との遭遇』のようにはじめてあう異性物に対しても敵対心を抱かないように描くことをすごく大事にしている。そういはいっても恐竜の獰猛性もかかないと面白いわけがないのでそこはそれ、過激になりすぎず、甘くなりすぎないころあいのいいところでまとめている。個人的にはもうちょっところあいをはずしてほしい部分はあるのだけど、お子様から大人までという全方位外交の映画なのでこうなるのはしかたないだろう。

<あらすじ>
恐竜の化石の発掘調査を続ける生物学者のアラン・グラント博士(サム・ニール)と古代植物学者のエリー・サトラー博士(ローラ・ダーン)は、ハモンド財団の創立者ジョン・ハモンド氏(リチャード・アッテンボロー)にのオファーにより、コスタリカ沖のある孤島の視察に向かうことになる。他にも数学者のイアン・マルカム博士(ジェフ・ゴールドブラム)、ハモンド氏の顧問弁護士、それにハモンド氏の2人の孫も招かれていた。

島に到着した彼らの目の前に現れたのは群れをなす本物の恐竜たちだった。ハモンド氏は研究者を集め、古代の蚊から恐竜の血液を取り出し、そのDNAを使い、クローン恐竜を創り出したのだった。

パークの安全制御を担当するコンピュータ・プログラマーのネドリーは、ライバル会社に恐竜の胚の入ったカプセルを売り渡すために陰謀を企てていた。彼が悪さをしたために、恐竜から人間をまもる防護フェンスの高圧電流も止まってしまった。視察にでかけていたグラントたちは巨大なティラノサウルスに襲われ、パークの中をサバイバルしながらコントロールセンターを目指す。
ネドリーはティロフォサウルスに襲われてしまう。グラントたちを捜しに出たエリーは、マルカムを助け、ティラノに追われながらもセンターへ帰還する。システムを元に戻すため一度電源を切り、落ちたブレーカーを戻すためエリーは電気室へ。グラントと子供たちもなんとかコントロールセンターにたどり着き、安全装置と通信機能を回復させる。ヴェロキラプトル2頭についに追いつめられるが、そこにティラノサウルスが現れ、恐竜たちが闘っている隙にグラントたちは、地下室に隠れていたハモンド氏やマルカムと共に島を脱出するのだった。

by ssm2438 | 2010-08-06 12:52 | S・スピルバーグ(1946)
2010年 08月 02日

トイ・ストーリー3(2010) ☆☆☆☆

f0009381_02237.jpg監督:リー・アンクリッチ
脚本:マイケル・アーント
    ジョン・ラセター
    アンドリュー・スタントン
    リー・アンクリッチ
音楽:ランディ・ニューマン

声の出演:
トム・ハンクス/唐沢寿明 (ウッディ)
ティム・アレン/所ジョージ (バズ・ライトイヤー)

       *        *        *

うむむむ、これは良質の純粋Mマインドエンタテーメント映画だ。

物語というのは、どこかしらSMマインドが描かれていなければ面白くないものだが、この映画にはそれが満載だ。このシリーズをはじめてみた時から薄々は感じていたのだが、この映画はSMマインド(特にMマインド)の宝庫であり、受動的にしか愛せない玩具という立場を効果的につかって作られたこの映画。所有され、いじられる悦び。飽きられる哀しさ。そして主人の残酷さを受け入れる玩具たち。そして、相手が主体性のない玩具だからこそ誘発される子供の持つ残忍性=加虐性。
これくらい人間の本質の一部がおそろしく赤裸々に語られた映画なので、見る人の心に深くかたりかけるものがありつづけたのだろう。個人的にはR指定にしたいくらいだ。


17歳になったアンディは、その秋から大学に行く。昔からの荷物やアンディが大事にしていた玩具たちも、ゴミとして捨てるか、屋根裏部屋に残すか、大学にもって行くかの決断をせまられる。今となってはほとんど手にとって遊ぶことのなくなった玩具たちだが、それでもゴミとしては捨てられない。しかたなくアンディはその玩具たちをゴミ袋につめて屋根裏部屋に残すことにする。
ここで主人の残酷さが発揮される。バスもふくめてほどんどの玩具はゴミ袋にいられられ屋根裏部屋に運ばれることになったが、ウディだけは大学へもっていくダンボールの中に区分けされた。みんな一緒とおもっていても、そこには序列というものが存在し、一番愛されていたのはウディであることを他の玩具たちも認めるしかない。その決断に対しては文句を言わない玩具たち。

そこで手違いがあり、お母さんがそのゴミ袋を要らないものだ思いゴミ回収に出してしまう。なんとか危機一髪逃げ出した彼らだったが、「自分たちは捨てたれた」と認識した彼らはサニーサイドと呼ばれる託児所に寄贈されるダンボールに紛れ込み、新しい主人をもとめてアンディのもとを去ることに。
ここでもウディは、アンディはみんなを捨てたわけではないと誤解をとこうとする。我々はアンディのものなのだから、戻ってやがてアンディが子供をつくり、その子たちと遊べる暇で屋根裏部屋で待つべきだと主張。けなげである。

そのあとはサニーサイド幼稚園のエピソード。はじめは幸せいっぱいの世界にみえたが、子供たちはビーストであり、玩具たちは過酷な労働をしいられる。しかしその一方で、玩具たちのリーダー、ピンクの熊のぬいぐるみ・ロッツォとその仲間たちは、お行儀の良いお子様クラスでしあわせそうに可愛がられていた。夜はドアに鍵がかけられ逃げることも出来ない。そんななかでウディがかれらを助けにもどり、みんなで脱獄する話が展開される。
お子様たちはここが楽しいのかもしれないが、個人的にはここはもっとカットしてほしかったかな(苦笑)。

結局脱獄したがごみ焼却場におくられ、絶対絶命のピンチ。燃え盛る炎をまえに死を覚悟してみんなが手をとるあたりは実に感動演出。その後は都合よくピンチを脱出し、アンディのもとにもどる玩具たち。そして最後の玩具とお別れシーン。結局玩具たちはサニーサイド幼稚園に通う引っ込み思案だがイマジネーションゆたかな女の子のもとに送られることになる。
ダンボールのなかから、玩具たちとりだしては愛ちゃくをもって紹介していくアンディ。もうこのあたりからぼろぼろ涙がでてくる。新しい玩具の主人となる女の子と一緒に、玩具たちと最後の夢想の世界をたのしんだアンディは、彼らをゆだねて去っていく。


実に完成度が高い映画である。
・・・しかし、<受身の愛>というコンセプトが心地よいけど、それだけだとちと哀しいかな。だからこそこの映画が面白いのは百も承知だが、私の好きなテリトリーとは違う分野だったてことだろう。

どうも私は主体性=エゴから発生する愛が好きらしい。人は大人になり、与える側にならなければいけないものであり、そのためには己を成長させていかねばいけない宿命にあり、私の好きな話は、見ている人が、その与える力をもてるようになる背中を押してあげる方向性の映画なのだろうな。それが描けるのがピクサーのなかでは『Mr.インクレディブル』『レミーのおいしいレストラン』をつくったブラッド・バードだけなのだ。

ジョン・ラセターアンドリュー・スタントンらのオリジナルなピクサーのメンバーは、子供の立場になり(与えられる立場になり)、“こういう愛し方をする親がいたらいいな”・・みたいな大人にならない者たちの夢を描いてくれる。それに対して、ブラッド・バードだけは、大人社会(与える立場の者たちの社会)の現実を描きつつ、“こういう大人になっていきたいね”・・という、大人になっていく子供たちへのメッセージを提示してくれている。
そのあたりが、世間にはうけるピクサーの映画の中にあってひとり大人の映画を作る外様のバードの特異性なのだろうな・・。

頑張れ、ブラッド・バード! 負けるな、ブラッド・バード
少なくとも私は君の次回作を期待しているぞ!

by ssm2438 | 2010-08-02 00:20
2010年 08月 01日

浮浪雲(1982) ☆☆☆☆

f0009381_9231813.jpg監督:真崎守
絵コンテ:真崎守/川尻善昭
原作:ジョージ秋山
脚本:大和屋竺
作画監督:富沢和雄
画面構成:川尻善昭
設定:丸山正雄

声の出演:
山城新伍 (浮浪雲)
熊谷真実 (お亀)
加瀬悦孝 (新之介)
井上真樹夫 (坂本竜馬)
古谷徹 (一文写兵庫)

       *        *        *

西は「ヲワェシテ」じゃ!

日本のカタカナ英語だと西は「ウェスト」なのだけど、それを「ヲワェシテ」と表現したのにけっこうびっくり。その音をカタカナにするセンスを感じたものである。イヌは「わんわん」だけど英語だと「バウバウ」、ぶたは「ぶーぶー」だけど英語では「オイックオイック」。日本の動物の鳴き声の擬音は、どこか観念的なものがはいっているが、英語の音はその音をなんとか具現化しているように思う。「オイックオイック」はかなりすごいと思った。
その感動にも似た「ヲワェシテ」というカタカナ表記。・・・・うむむ、すばらしい。

ま、そんなことはおいといて、世間ではほとんどこの作品のことは知られていないのだけど、原作の『浮浪雲』のゆるい感じといい、村野守美による大迫力の竜馬暗殺シーンといい、新之介の子供の持つ未完成のすばらしさといい、とてもファンタスティックに出来上がっている。確かに今見ると、作画的に弱いところも多々あるが、お話の出来がとてもここちよい。

原作は「ビッグコミックオリジナル」に連載されたジョージ秋山『浮浪雲』。1978年に放映された渡哲也主演の実写TVシリーズが好評だったことを背景に企画製作された。私もこのテレビシリーズは好きでした。

舞台は幕末。主人公の浮浪雲は元々は武士であったが、現在は品川宿の問屋「夢屋」の頭(かしら)。仕事は二の次でいつも遊んでばかりで、無類の女好きだが人を惹きつける魅力があり、誰からも愛されている。空に浮かぶ雲のごとく、小事にこだわらず自由気ままに生きている柔軟な精神力の持ち主であるが、実は居合いの達人。滅多にその刀をぬくことはないが、たまに両刃の仕込み杖を使った剣術を見せる事がある。
また、東海道五十三次の命知らずの雲助(宿場や街道において荷物運搬や川渡し、駕篭かきに携わった人足)たちを意のままに動かす人望もある。

あらすじは・・、あんまりないかな(苦笑)。
この映画自体には確固たるゴールがあるわけではなく、いくつかあるエピソードごとに雲さんと新之介がそれぞれの人間性をみせるという話。時代背景が幕末であるだけに、新撰組の実在の人物や、勝海舟坂本竜馬も登場。このアニメでとりあげられた話では、ある茶屋で坂本竜馬にたまたまであった新之介が感化され、大いなる大志をいだくが、気持ちだけ空回り、そんな中憧れの対象だった竜馬暗殺の知らせが江戸にもとどく・・というもの。そんな中で、いつもはダメなぐーたらオヤジなのだが、ときとして父親愛をはっきする雲さんはけっこうかっこいい。

やはり新之介と雲さんのコントラストがいいのだろう。いつもゆるい生き方をしている雲さんに対して、息子の新之介は正反対で志が高く、真面目。余裕がないのである。二人の関係は、まるで会社の実力のない上司と実は実行力のある部下の関係。息子の新之介は父の緩い態度にたいしていつも説教しているのだが、父親の雲さんは「はいはい」って聞き流している。たしかに、雲さんのように余裕かましてゆるく生きられればそれが一番なのだが、人生そんなことはありえないので、ほんとの憧れだな・・という感じ。

新之介以外にも、新撰組の一文写兵庫(おそらく創作されたキャラ)という青年が登場、坂本竜馬の命を狙っているなのだが、雲さんの前ではしゃかりきになっている小僧にみえてしまう。
そんな風に生きられたらいいなあ・・と憧れるのだけど、普通の人は決してそんなふうには生きられない生き方。それが『浮浪雲』の魅力なのだ。

しかし、このドラマで一番いいのは息子新之介の憧れ力だろう。この一生懸命さが素敵なのだ。なにか素晴らしいものに感化される少年時代、でも、背伸びしてもどうにもならない現実。でも憧れる。そんな子供心の憧れが実によく描かれている。
劇中では、日本人にして既に世界を相手に思想をもって行動している坂本竜馬に憧れる新之介。そんな竜馬から竜馬の聞き記した英単語本をもらって勉強する新之介。自分ああなりたい!!って憧れがほとばしっている。しかしその竜馬が暗殺される。こうしてはいらないない、自分もなにかせねば!っと思ったのか、「死すとも帰らず」と置手紙をして竜馬がころされた京に向かって東海道をひたはしる新之介。
しかし、結局は心細くなって箱根の山に入る前で泣いていると雲さんが迎えに来る。

「男が男に惚れるというのはすばらしいことです。
 でもその人にかわりになることはないざんす。人はだれもが主人公なのですから」

とさとす雲さん。ああ、素敵。


ただ、既に世捨て人になっていつも余裕のある雲さんよりも、今はまだつぼみの状態だが、可能性がみちている息子の新之介をほうが好きである。それに、力と余裕のある雲さんだが、以前はやはり志を高くもっていたのだと勝手に想像するのだが、それがどの時点で挫折し世捨て人になったのか・・・、そのドラマのもとを知りたいものだ。

しかし・・、人知れずDVD出ていたのですね。VHSもずっとほしいと思っていたのですが、これがまた発売されず、大昔にテレビから録画したVHSが手元にあるだけだったのですが、これがDVDで発売されたというのはとても素晴らしいことです。
これも、坂本竜馬ブームの一環ですかね。まあ、なにはともあれいいことです。おもわずネットで買ってしまいました。でも、ほとんどのところはメーカー取り寄せなので、私が買ったところもあるのでしょうか? ちょっと不安です。

by ssm2438 | 2010-08-01 09:24
2010年 07月 31日

バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985) ☆☆☆☆

f0009381_2315997.jpg監督:ロバート・ゼメキス
脚本:ロバート・ゼメキス/ボブ・ゲイル
撮影:ディーン・カンディ
音楽:アラン・シルヴェストリ

出演:
マイケル・J・フォックス (マーティ・マクフライ)
クリストファー・ロイド (ドク)
リー・トンプソン (ロレイン・マクフライ)

       *        *        *

普通に面白い!

『ジョーズ』『未知との遭遇』などで、ヒットメーカーになったスティーブン・スピルバーグ。ころころから、メガホンは他の人にまかせて製作総指揮という立場になって映画をつくりはじめている。そのときメガホンをまかされた監督さんは、『グレムリン』ジョー・ダンテ『ポルターガイスト』トビー・フーパー『グーニーズ』リチャード・ドナーなどがいるが、一番出来が良く、なおかつ普通に楽しめるものをつくっていたのがこのロバート・ゼメキスだと思う。

この『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も、いまとなってはもう25年もまえの作品だが、タイムスリップモノのエンタテーメントとしてみると実に巧みで面白い。冒頭のテロリストとかがでてきてドンパチになり、ドクも撃ち殺されてしまう(実はそうなることをうすうすしっていたドクは防弾チョッキをきていて助かっているのだが)のは、ちときな臭くていまひとつそぐわない感じがしたが、ま、それは過去にいくためのいい訳、多めに見るしかないのだろう。そいて過去にいってしまうと、未来を知っていることで、それが過去の世界ではパワーになる。もろもろの複線の張り方などは実にきっちしまとめられており、素直に楽しめる。続編がつくられたが、それを込みこみで考えるとちと印象が悪くなるが、この一本だけなら素直に楽しめる作品だと思う。

しかし、このころはリー・トンプソンがもてはやされていた時代だったが、いまはどうしているんだろう?

<あらすじ>
通称ドクと呼ばれるブラウン博士(クリストファー・ロイド) はプルトニウムを燃料にするタイムマシン・デロリアンを開発した。しかし実験のときに、そのプルトニウムをねらってリビアのテロリストが現れドンパチに。高校生マーティ(マイケル・J・フォックス)はデロリアンに逃げ込み、車を疾走させるが140キロ/時を超えてしまいタイムスリップしてしまった。1985年10月25日の夜のことだった。
ついた所は1955年。マーティは未来にかえろうとしたがデロリアンの燃料がない。彼は若き博士をたずね、次の土曜の夜に街の大広場にある時計台に落雷があったことを思い出し、それを博士はデロリアンのエネルギーにしようと準備を始めた。一方、マーティはその間に昔のママとパパと出会う。ところが、そのママがマーティに一目ぼれしてしまった。ママがパパを好きにならないと、マーティはこの世に存在しなくなってしまう。ダンスパーティの夜、なんとか二人の仲をとりもち、現在にもどってくる。

by ssm2438 | 2010-07-31 23:03
2010年 07月 21日

アメリカ上陸作戦(1966) ☆☆☆

f0009381_21594787.jpg監督:ノーマン・ジュイソン
脚本:ウィリアム・ローズ
撮影:ジョセフ・バイロック
編集:ハル・アシュビー
音楽:ジョニー・マンデル

出演:
カール・ライナー (ウォルター)
エヴァ・マリー・セイント (ウォルターの妻)
アラン・アーキン (ソ連上陸部隊隊長ロザノフ)
ジョン・フィリップ・ロー (ソ連兵アレクセイ・コルチン)
アンドレア・ドローム (ベビーシターのアリソン)

       *        *        *

なかなかの拾い物であった。さすがノーマン・ジェイソン

それはまだ、ソ連がキューバに核ミサイルを設置しようとする前の話。ソ連潜水艦の乗組員たちが、敵国と教えられたアメリカという国を見てみたいと、アメリカの北部のある島に接近、すると運悪く座礁してしまう。なんtかその場をはなれないソ連の潜水艦乗組員は、潜水艦を海へ引き戻すために、島のどこかにあるだろうボートを一時借用することにした。そして9人の乗組員がアメリカに上陸する・・という話。
まあ、コメディなので重苦しい雰囲気にはならないが、これがなかなか楽しいのである。

監督は『夜の大捜査線』『屋根の上のバイオリン弾き』ノーマン・ジェイソン。編集にはのちに『帰郷』『チャンス』などをとるハル・アシュビーが編集で参加。主演のカール・ライナーは、『恋人たちの予感』の監督ロブ・ライナーの父親である。

懐かしいところでは、『バーバレラ』の盲目の天使ガイパーを演じたジョン・フィリップ・ローがアメリカ人女性に恋する純粋なソ連兵として登場。というか、この映画のロシア兵はみんな良い人なので特別すごいわけでもないのだけど。そしてジョン・フィリップ・ローが恋に落ちるアメリカ人女性がアンドレア・ドロム(Andrea Dromm)というCM出身のモデルさん。ちょっと風貌がアメリカのポルノスター、サバンナ嬢ににてたので気になってチェックしてみたが、映画にでているのは3本だけ。この映画と『スタートレック』(1966)と『カム・スパイ・ウイズ・ミー』(1967)の3本だけ。もうちょっと大画面でみたかった役者さんだった。

映画は、登場する人物みなさん良い人なので血なまぐさいことにはならない。立場の違いと、潜在的な恐怖からどたばたがだんだん肥大していく。多分スピルバーグが監督した『1941』もこんな感じにしたかったんじゃないだろうか・・ってひそかに思った。

f0009381_227232.jpg<あらすじ>
ある夏の日、アメリカ北東部ニュー・イングランド地方のある島の沖合にソビエトの潜水艦が座礁。艦長(セオドア・バイケル)は座礁した潜水艦を海に引き戻すためにボートの略奪(拝借)を副官のロザノフ(アラン・アーキン)に命令、8人の水兵を連れて上陸する。
夏の休暇をこの島で過ごすブロードウェイの脚本家ウォルト(カール・ライナー)は妻のエルスパス(エヴァ・マリー・セイント)と朝食の卓についていたがそこへロザノフたちが現れて、ボートはないかと問いただす。最初はノルウェー人だと言っていたが息子が声もあらわに「ロシア人だ!」といってしまい、仕方なく銃をつきつけ南京市、車を拝借、アレクセイ・コルチン(ジョン・フィリップ・ロー)を見張りにのこしてボートがある街へ向かっていく。
ロシア人が上陸して飛行場を占領した、という噂がまたたく間にひろまった。島の男たちはライフル銃に身をかためて自警団を結成して、飛行場攻撃に出かけた。
なんとかコルチンの銃を奪い、街にロシア人の上陸を知らせるために自転車をはしらせるウォルトル。そんなウォルトのことが心配になった妻も息子を連れて街へ行く。残されたのはまだ幼子の共助とベビーシッターのアリソン(アンドレア・ドローム)。そんな彼の家にコルチンがもどってきた。しかし・・、お互いは惹かれあい仲良くなってしまう。

島はロシアの連中のために電話線が全部切断された。潜水艦は折りからの満潮であっさりと離礁してしまう。上陸させた兵士を乗船させてソ連に引き上げたいソ連潜は港へと侵入。捉えられたロザノフを救うために街に砲塔をむけておどす。島の保安官は、「お前らは平和な街を混乱に落とし込み、電話線を切断し、銃を発砲し一部市民を軟禁、島民を戦争への恐怖に陥れた。よって逮捕する」とアメリカ人の司法を守る立場として断固として立ち向かう。

いやああ、はっきりいってここはかっこよかった。

そんな両軍対峙しているなかで、この騒ぎを教会の屋上から見学していたお子様が屋根からおっこち、のきさきにひっかかってしまう。そうなるともう両軍どうでもよくなって、ソ連兵も島のひとたちも今日協力してピラミッドをつくり、少年を救いみんな仲良くなったとさ・・・・。


個人的には可笑しかったのは、島で唯一の電話局、そのおばさんと一緒に縛られてしまった主人公のカール・ライナーがなんとか脱出しようと、もがいているところ。最初は背中合わせにして縛られていたのだが、それだとコミュニケーションがとりづらいということで、なんとか体をねじりあって向かい合わせの状態にしたのだが、その状態でぴょんぴょんはねながら移動すると・・・・・・・・・、たしかに相手はデブのおばさんだけど、あれってやっぱり股間がしげきさせてしまうんじゃないだろうか・・って思ってしまった。どうみても背中合わせの状態のほうがよかった気がするのだけど。。

by ssm2438 | 2010-07-21 22:07
2010年 07月 04日

高校生心中 純愛(1971) ☆☆

f0009381_2205278.jpg監督:帯盛迪彦
脚本:柴田久恵
撮影:喜多崎晃
音楽:伊部晴美

出演:
関根恵子 (宇野洋子)
篠田三郎 (丘谷由夫)

       *        *        *

前半の同棲時代の楽しいそうなこと・・、うらやましいかぎりだ。

監督は『高校生ブルース』帯盛迪彦。しかし原作があるわけではなく、あれほどのインパクトはない。関根恵子篠田三郎で倒産間近の大映を乗り切ろうといしてとりあえず作った感じの映画だが、のちのそのテイストが引き継がれる大映テレビのコアな部分が全部この映画にはつまっていた(苦笑)。どこをとっても大映という映画であった。

ただ、シナリオはぬるく、物語の展開的に「それはないだろう」ってところが一杯ある。その展開にしたいのはわかるが、そうならもっと観客を納得する説明をしてほしいものだ。これは物語作りをしているとよくあるのだけど、映画会社やプロデューサーサイドは「無理やりにでもこんなシーンをいれたい」と要求し、展開的に不自然な流れを強請してくる。それが実力のある人が脚本を書いていると、ある程度はつじつまをあわせられるのだけど、ほとんどの人はできないものである。というよりも、きちんと書ける人のほうが苦手かもしれない。上手い書き手は総てが整合するようにドラマを組み立てているものであり、そこに無理な展開を入れるとそこで書けなくなるもである。ふと『ガメラ3』があたまをよぎった。
で、そのまま、無理やりな展開がシナリオとなり、それを撮ってしまうとこのような映画になる。最後も、二人が心中する必要性がないのでいまひとつぴんとこない。あと“H”シーンもなくても良かったのに。むりやり宣伝効果としていれこんだようだが、どうせ撮るならきちんとした物語の風景のなかでとってほしかった。夢でもないのに、いきなりそこだけイメージシーンなのはしらける。

しかしこの映画の関根恵子はとても天真爛漫で可愛い。彼女の若さと明るさが全面に出た映画だろう。

<あらすじ>
高校2年生の丘谷由夫(篠田三郎)と宇野洋子(関根恵子)は、夢と希望を語り合う爽やかなカップルだった。しかしある日、赤軍派とつながりを持ち始めた由夫の兄が、日ごろから思想的に対立のあった刑事の父親を殺し警察に逮捕される事件がおきた。さらに母も急死した由夫は学校をやめて兄の裁判費用のためにはたらくという。洋子は、「殺人犯の家族」という理由で由夫との交際を禁じたられた。
由夫が両親のお骨を持って郷里の信州に帰ると聞いた洋子は駅にかけつけ、そのまま乗り込んでしまう。それから二人は兄妹ということで、信州に部屋を借り暮らし始める。なにからなにまで幸せな日々だった。しかし、宇野家からの捜査願いによって由夫は誘拐犯人として逮捕され、洋子は家に連れもどされる。
兄の裁判の日、傍聴席で再会した二人は、洋子の家族に会い、交際の許可を求めるが、洋子は部屋に軟禁され、追いかえされてしまう。
親が勧める交際相手の仲本は洋子をドライブに誘うが、このチャンスに由夫のもとに行こうとする洋子を見て嫉妬、「自分と付き合えないなら、このまま崖から落ちて死ぬ」と車を猛スピードで走らせる。車内でもみあいになり間一髪車から飛びだす洋子だが、仲本の車はガードレールを突っ切ってがけ下に落ちてしまう。仲本は死亡。伊豆あたりの作業現場で働いていた由夫がそのニュースをラジオから聴く。そこに洋子が現れる。
「私も仲本君を殺してしまった」という洋子。自首するという洋子。
「神さはま、オレから愛する人を総て奪っていく。父も、母も、兄も・・。そして今度は洋子まで・・。もう誰にも奪わせない」と覚悟をきめる由夫。二人は思い出の信州を訪れ、「もうさよならは云わなくていいのね」と、降りしきる雪の中を山奥深く消えていった。

by ssm2438 | 2010-07-04 22:10
2010年 07月 01日

成熟(1971) ☆☆☆

f0009381_23132560.jpg監督:湯浅憲明
脚本:高橋二三
撮影:喜多崎晃
音楽:菊池俊輔

出演:
関根恵子 (加納ゆう子)
篠田三郎 (笹尾隆二)
菅野直行 (坂井正夫)
八並映子 (小谷ミキ)
伴淳三郎 (笹尾吾助)

       *        *        *

関根恵子のオッパイは出ない。でも十分見る価値ある。

もしかしたら関根恵子の映画のなかでは一番みていて楽しい映画かもしれない。いろんな意味で勘違いしてるのだが、それがすべて幸せ方面にむかっているという、まるで『ボギー!俺も男だ』の逆バージョンのような映画。世間にころがっているあらすじだけをみるといたって普通の青春映画にみえるが、この映画の魅力ははかりしれないものがある。

山形県庄内平野の鼠ケ関は、古くからみこし流しという行事が行われており、「みこしを担いで海に入る男たちの濡れた体は将来を誓い合った娘以外は拭いてはならない」という言い伝えがる。万一、体を拭いた娘と拭かれた若者が結婚しないと竜神の崇りで二人とも必ず不幸になるというものだった。そんな言い伝えのある中、水産高校の笹尾隆二(篠田三郎)の濡れた背中を農業高校の加納ゆう子(関根恵子)がふいてしまう。二人にしてみれば、伝説などどうでもいいことだったのだが、それがどんどん波紋をひろげていく。

普通の映画は、二人の感情は求め合う。理性ははなれるべきだと考える。環境は二人を引っ付かないようにうごく。そのなかで二人はやっぱり求め合う・・ってのが映画だし、それが盛り上がる普通の流れなのだ。この映画が可笑しいのは、二人の感情は求め合ってて、二人の理性は否定しあって・・ここまでセオリーどおりなのだが、環境が二人を引っ付けるようにながれていくのだ。これが実に可笑しい。二人は理性的に「この恋はあきらめるべきだ」とかんがえているにもかかわらず、周りがふたりがひっつくほうに、ひっつくほうにながしていくのである。そんな環境のなかで、ふたりだけは、深刻ぶってるが、よくよく考えると二人ともとっても幸せな方向にながされているとしか思えないという・・、すべてが幸せ映画なのだ。
初期の関根恵子映画というのは、関根恵子に不幸はふりかかることばっかりだが、この映画に関しては彼女に幸福ばかりがふりかかっていく、なんともおかしな、たぶん作り手としてはかなりとんちんかんな作りの映画ににしてしまったことは確かなのだが、このとんちんかん振りがすべてにおいてさわやかで幸せいっぱいな映画がこの『成熟』なのである。

f0009381_2313587.jpg<あらすじ>
農業高校の写真部に属するゆう子(関根恵子)は「みこし流し」のイベントを撮るために、気軽に見知らぬ青年笹尾隆二(篠田三郎)の体を拭いたことから騒動が持ち上ってしまった。隆二の父親(伴淳三郎)はどうしてもその女をみつけだして息子の嫁にすると言い出し、ゆう子の家まで押しかける。しかし、ゆう子には既にきまった相手がいた。加納ゆう子は農家の一人娘であり、田んぼを続けるためには婿養子をもらわなければならなかった。さいわい、加納の家にはいってもいいという坂井正夫(菅野直行)という男がいて、既に二人の家ではその話はまとまっていた。ゆう子も特にそれに反発するわけでもなく、そうなる人生を普通に受け止めていた。
そんな二人だが徐々にお互いに惹かれて行く。隆二が漁師になって外洋にでるようになると田んぼの世話は出来ない。そうなるとゆう子一人では田んぼば無理だ。そんな二人だが、思い出作りのために二人で過ごす1日デートを楽しむ。

鶴岡市の天神祭り、別名お化け祭りの日がきた。お化け祭りと顔を布で隠した女たちが、徳利と盃を持って見物人に酒を飲ませるという祭りである。昼間から酒を飲まされた正夫は、その女がゆう子だと勘違いして押し倒してしまう。女は素直に抱かれた。しかしこの女は小谷ミキ(八並映子)であり、ひそかに正夫を想っていた。この正夫の行動がどこでどう誤謬されたのか、ゆう子が隆二の子を妊娠したという噂となって広まっていく。追いつめられた二人は、故郷をすて東京へ出ていく決心をする。
翌朝、駅に急ぐゆう子は、田んぼに稲の伝染病が発生しているのを知りそのまま放置することができず、町の人々に知らせに戻ってしまう。ゆう子の一報で農家の人々は農薬を散布し事なきをえるが、隆二との駆け落ちは中止になってしまう。
しかし、水産高校と農業高校の対抗意識は頂点にたっし乱闘寸前、そんななか、ゆう子のクラスメイト小谷ミキが真相を告白する。正夫に想いをよせていたミキは、隆二とゆう子をひっつくように仕向け、正夫には酒をもり自分を抱かせたというのだ。

結局正夫とミキは仲良くなってしまい、ゆう子と隆二も立場をこえて結ばれることを助言する。隆二が外洋に出るときは、俺たちがゆう子の田んぼを手伝うというのだ。ふるい因習を乗り越えて二人は結ばれるのだった。

おおおおおおおお、なんというさわやかな青春勘違い映画だろう。素晴らしすぎて感動してしまった。
監督・湯浅憲明、脚本・高橋二三八並映子主演(?)で作られた『ガメラ対深海怪獣ジグラ』を見直してみたくなった(苦笑)。

by ssm2438 | 2010-07-01 23:14
2010年 06月 25日

ウォー・ゲーム(1983) ☆☆☆☆☆

f0009381_3413661.jpg監督:ジョン・バダム
脚本:ローレンス・ラスカー
    ウォルター・F・パークス
撮影:ウィリアム・A・フレイカー
音楽:アーサー・B・ルビンスタイン

出演:マシュー・ブロデリック
    アリー・シーディ

       *       *       *

80年代の映像クリエイターたちはリドリー・スコット『エイリアン』『ブレードランナー』をさまざまな分野でコピーしまくったのだが、実はそれ以上に彼らにインパクトを与えた映画がある。それがこの『ウォー・ゲーム』だ。
この映画はリドリー・スコットの先にあげた2本の映画のようにヘビーテイストではないので軽んじられてるが、この映画のなかで提示されたことは、それ以降の映画やアニメに多大な影響を与えている。大パネルがある司令室も、結局この映画からほとんど進化してないし、パソコンオタクの描写も結局この当時のままだ。もちろん今ではもっと部品が少なくなっている分、昔のほうが専門的にみせやすいという部分もあるだろうし。

そして監督がジョン・バダム。専門分野の小技をきちんとみせつつ、誰にでも分かるように見せてしまう。この専門分野の理解し易さこそがこの人の持ち味なのだ。そして物語りもヘビーすぎる、軽すぎず、ころあいのいいところできちんと料理されている。たしかにアカデミー賞には程遠い人だが、庶民がなにを見たがっているのか、その欲求をきちんと理解し、それを提示してくれる。よくもわるくも職人なのだ。

<あらすじ>
吹雪の中1台の車が人気のない山間の小屋に到着する。車からおりたふたりの男は家に中に入り、鏡に向かってなにやらIDらしいものをみせるとドアがひらく。その山小屋はミサイル発射のコントロール室の入り口なのだ。そして中にいた二人と交代。その直後に緊急信号がはいってくる。二人は命令書で暗号を確認、ミサイル発射命令だと認識しる。核ミサイルはコントロールルームの二人が一緒にキーをまわさなければ発射されない。一人は「何かの間違いだ、センターに確認する」といい、もう一人は「そのような肯定はない」と銃を向ける。カウントダウンがゼロにちかづいていく。前者の隊員は「私には出来ない」とキーから手を離す。
後にわかるのだがこれはミサイル発射の模擬訓練だった。この結果22%の兵士は命令にしたがわなかったことが判明。マッキントリック博士はコンピュータWOPRに総ての工程をまかせ、発射までのプロセスから人間を取り除くことを提案する。

シアトルの高校生デビッド・ライトマン(マシュー・ブロデリック)は、学業の方はたいしたことはないがパソコンに関しては天才少年だった。授業態度を注意され校長室に呼ばれると、学校のコンピューターの今月のパスワードを盗み見、自宅にかえると自分のパソコンを学校のパソコンにログオンして生物の成績をF(落第)からC(水準)に変えてしまう。
電話代はどこぞの電話会社のコンピュータに進入していじくったらしく常時接続も可能にしているし、飛行機のチケットもパソコンで予約をいれほうだい。海外のホテルだって予約しほうだい。
なにせ25年まえにこれを見せられた私にしてみれば「コンピュータというのは何でも出来るんだ!」と感動したものだ。
たしかに今となってはコンピュータといういいわけをすれば何でも出来るという約束事になってしまい<パソコン使って何でも出来る>というコンセプトは、ダサいストーリーの典型になってしまってはいるが、当時ではまさにカルチャーショックだった。

そんな彼がどっかのメーカーが出す最新の戦略ゲームを先取りしたいと思い、片っ端からそれらしい電話を掛け捲り、偶然国防省の戦略コンピュータWOPRにアクセスしてしまう。いくつかのゲームがリストにならんでいるがログオンの仕方が分からない。大学のパソコンオタクたちに知恵をかりるデビッドは「製作者は自分だけはすぐプログラムに入れるように裏口を作っているはずだ。そこから入れるかも」とアドバイス。
「でも製作者がだれかもわからない」と聞くと
「ゲームリストのなかに<フォルケンの迷宮>というのがある。それが製作者じゃないか?」

デビッドは1週間も学校を休んでフォルケンという人物を調べ始める。裏口があったとして、そこをくぐるにはパスワードが必要になってくる。そのパスワードになりそうな言葉を捜しているのだ。全然学校にあらわれないので女友達のジェニファー(アリー・シーディ)が心配して彼を訪ねてくる。散らかっている書類のなかからフォルケンの事故で死んだ子供の記事をみつけるが、デビッドはその子の名前がパスワードではないかと思いつく。<ジョシュア>といれてエンターキーをたたくと見事にログオン。
そしてオンラインで全面核戦争ゲームを開始、デイヴィッドはソ連側をせんたく、ためしにラスベガスを攻撃するように設定する。

しかし国防省ではいきなりモニター画面にミサイルの軌道が提示され、その先にラスベガスがある。緊急事態を宣言するが、そのミサイルの予測軌道はぷつっと途切れる。l狐につままれたような一同。

FBIはそれがデビットの仕業であることを突き止め彼を北米防空司令部に連行する。
「アクシデントでそうなっただけだ」と主張するデビッドだが信じてもらえない。その間にもWOPRはさらなるシュミレーションをしている。メインスクリーンにはソ連のミサイル原子力潜水艦がそれぞれの攻撃ポイントに終結していく様子が映し出されている。それを信じている国防省は迎撃体制をとるが、ソ連からは大統領あてに「無意味な挑発はするな」と連絡がはいっているらしい。

自分の言葉を信じてもらえないデビッドは、フォルケン教授をつれてきて説明してもらうしかないと判断、北米防空司令部からの逃亡をはかるのだが・・・。


とにかくパソコンオタクの専門的知識とテクを披露するマシュー・ブロデリックがすごいすごい。それが実際可能なことなのかどうかは疑問だけど、それでもそれを納得させるだけのジョン・バダム小技演出が洒落ている。

そしてジョン・バダムの要求する画面を実にテクノな照明でたたせるウィリアム・A・フレイカー。この人の使う赤や青のネオン光の照明はじつにかっこいい。そしてそれを引き締める露出アンダーの黒。スピルバーグの『未知との遭遇』もこの人の撮影だが、巨大スクリーンが並ぶ北米防空司令部のライティング、ミサイルの軌道は迎撃する戦闘機をあらわすモニターの色づかい、フォルケン教授の家の中の映写機をまわしながらのライティングやそのあとのヘリコプターの照明。そしてきわめつけのモニター上だけの戦争。この人の重厚でメリハリの効いた派手なライティングはこういったドラマには実に合う。

そしてヒロインのアリー・シーディ。この3年あとに『ショートサーキット』でもジョン・バダムの作品に出ているが、彼もアリー・シーディのことを気に入っていたのだろう。こおころの彼女はホントに元気娘でみていて実にきもちがいい。

by ssm2438 | 2010-06-25 01:48 | ジョン・バダム(1939)
2010年 06月 04日

ヒー・セッド、シー・セッド/彼の言い分、彼女の言い分(1991) ☆☆

f0009381_20223886.jpg監督:ケン・クワピス/マリサ・シルヴァー
脚本:ブライアン・ホールフェルド
撮影:スティーヴン・H・ブラム
音楽:マイルズ・グッドマン

出演:
ケヴィン・ベーコン (ダン)
エリザベス・パーキンス (ローリー)
シャロン・ストーン (リンダ)

       *        *        *

おおおお、シャロン・ストーンが健全(?)に綺麗だ。

この映画で珍しくヒロインしてたのがエリザベス・パーキンス。この人、今ひとつビッグに当たらなかったなあ。それも理解できるけど、けっこう私は好きな役者さんなんだけど。
この人をはじめてみたのは『きのうの夜は・・・』デミー・ムーアとルームシェアしてた女の子。けっこう辛らつなことをいってたけど、なかなか可愛いと思った。そのあと見たのが『ビッグ』。なんとここではトム・ハンクスの相手役。それも恋人役である。どっちかというと二枚目半的な女優さんなんだけど、この映画ではいけてるクールなキャリアウーマンという役柄。ま、そのうちトム・ハンクスに影響されてだんたんと人間が丸くなってくるんだけど、この役は良かった。あと印象にのこってるのは・・・あんまりないか。アラン・ルドルフ『探偵より愛をこめて』、これはトム・ベレンジャーの相手役立ったけど、なかなかチャーミグングだった。あとは・・・『わが心のボルチモア』かな・・・。これ見たときは一気に老けたなって思った(苦笑)。服装のせいか、おそろしいほどあの年代に似合っていた。でも年代的には、この『ヒー・セッド、シー・セッド』の前に撮られた映画なのだけど。そんなわけで、この映画は私の中ではエリザベス・パーキンスの輝いた最後の映画・・という位置づけになっている(苦笑)。
下にもひとつ写真を張り付けておいたが、この映画のエリザベス・パーキンスのスチール写真は妙にクラシックな女優っぽくていい感じなのである。

制作スタンスとしては、男性側の言い分を描くときは男性監督が撮り、女性側の言い分を描くときは女性監督が撮ったとうこの映画・・、どうなんですかね? あんまり機能してたとはおもわなかったけど。話題づくりだけだったのかも。

f0009381_20244376.jpgこの二人はあるテレビ番組のコメンテイターであり、ニュースが起きるとそのニュースに関して男の視点と女の視点からそれぞれコメントする。そんなやり取りが人気となって番組は高視聴率を確保。そんな二人は既に付き合って同棲している。しかし、ある日、日ごろの鬱憤がたまってついに番組のなかでローリーがマグカップをダンに投げつけ、生放送の最中にもかかわらず退席してしまう。いつも肝心なことは「グランドパーの言葉によると・・」という風に自分の言葉として発言しない態度にローリーが切れたのだった。

物語はそんな番組のあとの控え室から、ダンの回想として二人のドラマが語られていく。映画の前半はダン(ケヴィン・ベーコン)からみた二人のドラマ、後半はローリー(エリザベス・パーキンス)からみた二人とドラマ、双方の視点から、まったく同じシーンで展開させていく構成。かし初デートの記憶は、ダンから見ればときめくデートでも、ローリーにはとってはダンが強引な男だったとしか残っていなかったりする。男と女の価値観の違いなのか、同じことなのだけど、それぞれの解釈がまったくちがってたりする。そう、男と女の話す言葉は同じ言葉でも違うのである。

ちなみにダンの不倫相手、というか、セックスも出来る気楽な女友達の役がシャロン・ストーン。ドラマの最後では、このシャロン・ストーンとのもっとのいごこちのいい関係を捨てて、ダンはローリーを選ぶのであった。

by ssm2438 | 2010-06-04 20:27