主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

タグ:自然描写が美しい映画 ( 53 ) タグの人気記事

f0009381_22375062.jpg監督:斎藤耕一
脚本:中島丈博/斎藤耕一
撮影:坂本典隆
音楽:白川軍八郎・他

出演:
江波杏子 (中里イサ子)
織田あきら (岩城徹男)
中川三穂子 (ユキ)
西村晃 (塚本為造)

    ×     ×     ×

おおおおお、津軽の海がうなっとる!!

久々に映画らしい画面をみせてもらいました。津軽の海に、その沿岸部の村。放置された廃船。ビジュアル的にはすばらしいのひとことです。撮影監督は坂本典隆さん。『約束』で撮影監督デビューみたいですが、あれもビジュアルが良かった。ただ、この人の不幸は物語がいうつもあんまり面白くないことだな・・(苦笑)。

監督は斎藤耕一さん。絵作りはとっても共感もてる人です。ただこの人の特徴は、ことの次第が判明するまでにけっこう時間をかけるのでそれが分かるまでがけっこう退屈・・・。今回も「なんでこんなことになっとん???」というスタートで、始まって20分くらいしてやっと物語の設定がみえてくるのです。それまではけっこうじれったい。いつものこととはいえ、今時の人には見てもらえない映画のつくりですな・・・。
とはいえ、この年のキネマ旬報ベストテン邦画部門第1位はこの作品、あなどりがたし。
実は監督さんがこの人なので永きにわたり放置プレーでしたが、今日たまたま見ることができたのでした。お話は面白いとはいえないけど、画面の力で最後までなんとかたどりつけました。

物語の基本構成は・・・、異文化交流モノということになるのかな・・・。
東京から津軽の寂れた漁村におりたつ男と女。女にとってはそこは故郷だけど男が東京を出たことがないチンピラ。この男、東京でどこやらの組の親分を指したとかで逃亡してて、結局つきあっていた女の故郷にながれついてきた・・という設定。

東京しかしらない岩城徹男(織田あきら)にとっては漁村の暮らしは無に等しい状態。自分になにも価値観がみいだせない。自分が何をやっていいのかも分からない。なにもやれそうなことすらない。とにかくやりきれない。でも、他に行く場所がない。
中里イサ子(江波杏子)はこの村で生まれたので、ここでの不便さもみすぼらしいトタン屋根のあばら家でもぜんぜん平気。「あんたはぶらぶらしてなさい。私が面倒みてあげるから」とバスでしばらくいったところの港町にある飲み屋で波たら働き始める。
なんにもやることのない徹男は目的もなくぶらぶらしてると、盲目の娘ユキ(中川三穂子)と出会う。何事に関しても積極的でない彼女をみてるとついつい虐めてしまいたくなるのだが、その哀れさがたまらなくなりついついやさしくしてしまう。ユキを虐めるけど、結局はほっとけなくて面倒みてしまう徹男はいつしか男と女の関係になってしまう。
またぶらぶらしてると頑固そうな漁師と知り合いになる徹男。この漁師、塚本為造(西村晃)の息子はかつてイサ子と村を捨てて東京に出て行き、今はどこでどうしているのか? そのイサ子が今度は別の男をつれて帰ってきた。そら塚本はあまり友好的には接することが出来ない。・・・が、いつしか徹男の人懐っこさに心をひらき、2人で漁にでるようになる。
しかし、どうやら東京からヤクザの追手がきてるようだと感じた鉄男はこの漁村をでる決心をする。
イサ子が勤めていた飲み屋のもう一人の従業員の女がアリ金を持ち逃げしてしまう。そのなかにはイサ子のためた貯金もあった。漁村をでようにも資金がない。
鉄男は盲目のユキを男に抱かせることで逃走資金を得る。
2人でここを出ようとバス停にむかうが・・・、鉄男の良心がはじけてユキを取り戻しに走る。

塚本と共に漁にでる生活と妻としてユキを抱く生活。徹男にとってはそれはやっとであえた家族であった。
ここちよい労働の疲れで眠っている徹をよそに、出て行くイサ子。

「あんた・・・、故郷が見つかってよかったね」といって出て行くイサ子。

しかし・・・追手は徹男の居場所を突き止めていた。
充実した疲労感とともにユキのもとに帰る徹男。そんな徹男をユキが出迎えにきている。
「あんた・・・、東京からお友達がきてるよ・・・」
by ssm2438 | 2013-07-21 22:40

インソムニア(2002) ☆☆

f0009381_23253211.jpg原題:INSOMNIA

監督:クリストファー・ノーラン
脚本:ヒラリー・サイツ
撮影:ウォーリー・フィスター
音楽:デヴィッド・ジュリアン

出演:
アル・パチーノ (ウィル・ドーマー)
ロビン・ウィリアムズ (ウォルター・フィンチ)
ヒラリー・スワンク (エリー・バー)

     ×   ×   ×

眠れぬ夜のために・・・。

タイトルに反してよく寝られる映画です。クリストファー・ノーランって外した時はすっごく眠たく感じる監督さん。『ダークナイト』なんかはよかったのに、そのあとみた『インセプション』は劇場で気持ちよく寝させてもらいました。この監督さん、こだわるところはすっごくこだわるのは分かるのだけど、観てる人にとってどうでも良いところをこだわりだすと、どうでも良いシーンが延々つづいてしまい睡魔をさそうのである。今回もいいシーンはいっぱいあるんだ。アラスカの風景だけでもすばらしい。あの空気の湿り具合といったらまるで『ツイン・ピークス』『刑事ジョン・ブック』の雰囲気です。ほんと画面の湿り気は感動的です。犯人と間違って相棒を撃ってしまうスモークもくもく感もすばらしい。丸太のところも素敵です。特に水の中におちてからの幻想的な感じはグッドです! 映像的には素晴らしいところはいっぱいあるのです。でも、脳みそが「観続けたい」と思わないのです・・・。

その根本的な問題は、ノーランの問題じゃなくって物語りそのものにあるというほうが正しいかもしれない。実はこの映画、めずらしくノーランは監督だけで脚本は別の人の作品。でも、脚本の問題というよりもやっぱり話そのものに問題があると思うな。観てると息苦しくなる。
原作はノルウェー産の映画で、北欧の映画だなという気はする。
スウェーデンなんかでも作られそうな心のすりきれ感。
この物語のつぼは、主人公が捜査のなかで同僚の刑事を犯人と間違って撃ってしまったことを正直に話せず、隠ぺい工作をしつつ犯人を追うというスタンス。演出としてはまあ、腕の見せ所かもしれないが、見ているほうとしては主人公として診たくないシーンの連打なのでだんだんと見たくなるなるのです。ま、物語の本質としてそれが必要なのはわかるのだけど、だったらもうちょっとなんとか軽めに描くとかできなかったものか・・・。そこをヘビーに描いちゃうから食傷ぎみで脳がそれ以上情報を吸収することを放棄してしまう。同じ北欧の『ドラゴン・タトゥーの女』はぎりぎり描いてくれても面白かったのに・・・。

<あらすじ>
夏の間は太陽が沈まないアラスカの町でその事件は起きた。17歳の少女の死体がゴミ捨て場から発見されたのだ。ロス警察からベテラン警部のウィル・ドーマー(アル・パチーノ)と相棒のハップ(マーティン・ドノヴァン)が捜査の助っ人にやってくる。だがそこには裏の事情もあった。
ウィルは大物を検挙したことも数々あるベテラン刑事だが、その捜査は違法なやり方も数多くあった。彼にしてみれば悪党をあげるにはそれくらい仕方がないと考えていたのだが、内務捜査が始まり、もしその捜査が違法ということになれば、せっかく牢屋に叩き込んだ悪党どもも出てくることになる。その内情をしる同僚のハッブも供述もとめられており、彼は知ってることを話すしかないと考えていた。ウィルにとっては頭のいたいことである。
しかし、それとこれとは別のことだ。被害者の遺留品をえさに容疑者を海辺の小屋に刺す出だすことに成功た警察だが場所に詳しい犯人は地の利をいかして逃亡する。追うウィルたち。濃霧の中で散発的に銃声が響く。ウィルも犯人らしい人影をみて発砲。しかしそれは同僚のハップだった。罪悪感に苛まれながらも、それを告白することができない。そこから偽装工作をしながら犯人を追わなければ成らないウィルの行き詰る捜査がはじまる。

この後がしんどくて・・・。
観ているほうは、この時点から主人公を愛せなくなってしまう。ま、最後は自分の罪を告白してチャンチャンってことにはなるのだけど、主人公が愛せる存在でなくなるとみているのが時間の無駄に感じてきてしまう。主人公というのは、なんだかんだいっても、ぼろぼろでも、やっぱりなにかしら愛される要素を残しておくべきだとおもうのだけど・・・。

やがて容疑者をつきとめたウィル。それはミステリー作家のウォルター・フィンチ(ロビン・ウィリアムズ)だった。一度は彼を追いつめるがにげられてしまうウィル。しかしウィルはフィンチから取引をもちかけられる。ウィルの弱みをしるウォルターは、少女のボーイフレンドを犯人に仕立てようと誘いをもちかける。こころが悪にゆれるウィル。
やがて、フィンチの家を地元の刑事エリー(ヒラリー・スワンク)が訪ね、ウィルはフィンチを射殺。真相をエリーに告白したウィルは、安心して眠りにつくのだった。
by ssm2438 | 2013-01-21 23:25
f0009381_124178.jpg原題:ALL A VI BARN I BULLERBYN
    THE CHILDREN OF BULLERBY VILLAGE

監督:ラッセ・ハルストレム
原作:アストリッド・リンドグレーン
脚本:アストリッド・リンドグレーン
撮影:イェンス・フィッシェル/ロルナ・リンドストレム
音楽:イェオルグ・リーデル

出演:
リンダ・ベリーストレム (リサ)
アンナ・サリーン (アンナ)
エレン・デメルス (ブリッタ)

     ×   ×   ×

あ、おれ、アンナと結婚する!
ちょっと三上に似てるかも(笑)。


子供心を描かせたら天下一品のアストリッド・リンドグレーン原作を『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』ラッセ・ハルストレムが監督したこの『やかまし村の子どもたち』。スウェーデンの田舎のひと夏の風景をスケッチしただけの映画なのだけど、子供のみずみずしい感性にあふれていて、なおかつあまり危険がない牧歌的な映画である。
しかし、スウェーデン映画って、なんであんなに映画のレベルが高いんでしょうねえ。こんなファミリー向け映画も、どろどろの『ドラゴンタトゥーの女』でも、どちらも手を抜かずにがっちり撮ってる。人気取りてきな作り手の不パフォーマンスではなく、その物語と伝えるのにどう撮ったら一番効果的かという撮り方をゆるぎなく実践しているっていう感じがする。画角の選択がすばらしく、とても見やすい画面である。

ただ、物語としては総てが平和すぎるのでちょっと刺激がない感じ。その数年前に作られた同じリンドグレーンの『川のほとりのおもしろ荘』では、子供のもつプライドとか意地の張り合いとか、主人と使用人の身分の違いからくる心の摩擦とか・・、心にぴりりと来るところを突いてきていたのに比べると、ややぬるい気がした。

ただ、この映画の楽しいのはその後を想像するときのわくわく感だろうな。このやかまし村には3世帯しかなくて、その3世帯の子供達6人がいつも仲良くいっしょになって遊んでる。さらにおませな所は、すでに彼ら(男の子3人、女の子3人)の中では、誰が誰と結婚するってところまで決めているらしい。そうすれば彼らは大人になってもこの村からでていかなくていいからだという。こういう子供の時間を過ごした彼らが大人になってからどうなるのか・・・、できるならこの映画の5年後がみてみたいですね。
その6人の間で暗黙の了解して出来てるこの協定が、何かの拍子で崩れた時・・・、なんかとんでもなく楽しいドラマが待っていそうな気がする。

あと、夜が素敵!
本編の中では、夜になると水の妖精を見に行くというエピソードがある。しかし画面がいつまでたっても夕暮れなみの明るさで、真っ暗にならない。あの感覚はスウェーデン独特のものだ。北極点に近いので夏は昼がながいのである。時計の針が夜になっていたとしても、あたりは夕暮れモード。子供達にとっては楽しい時間だろう。しかし彼らも大人になると冬のほうが好きになるに違いない。

ちなみに、アンナを演じたアンナ・サリーン(↓)は、いまでは歌手として活躍しているそうな。上の写真の左から3番目の女の子である。
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by ssm2438 | 2012-02-27 01:04
f0009381_17133070.jpg監督:吉田喜重
脚本:吉田喜重
撮影:成島東一郎
音楽:林光

出演:
岡田茉莉子 (新子)
長門裕之 (河本周作)
日高澄子 (お民)

       *        *        *

おおおおおお、岡田茉莉子が異様に美しい。

この映画が公開されたのが1962年6月15日、私が生まれる25日まえのことだった。

監督の吉田喜重は、後の『煉獄エロイカ』をちらと見たことがあったのですが、やたらと気をてらった画面作りばかりだったので、実相寺昭雄みたいにつまらないものだと思い込んで、そのまま放置プレーしておりました。ヒロインもやたらと奥さんの岡田茉莉子ばかりなので、あえてこの人の映画をみようという気はなかったのですが、このたびみてみたら・・・・・、大変失礼しました。とてつもなく面白かった。
『秋津温泉』・・・、傑作ですね。

この舞台になったのは、岡山県の奥津温泉。映画では「秋津温泉」ということになっているが、このネーミングの響きが素晴らしい。奥津は小学校のバス旅行で人形峠に行った時に通過したことだけは覚えているのだけど、風景がなぜか懐かしい。山の尾根のリズムなのかな・・・。これが不思議と中国地方の山々だと、「自分は思っているヤマの尾根のラインの凸凹はこういうものだ」というのが知らず知らずに根付いていて、その波長が合うのだろう。これは『男はつらいよ・寅次郎恋やつれ』を見たとき、なぜか懐かしい気がした。舞台になったのは島根県の津和野あたりだったのだけど、なぜか風景が懐かしいのである。

そんな奥津を舞台にしたこの映画なのだが、とにかく風景がいい。渓谷の間に立てられた温泉旅館は階段や坂があり、それだけで絵になってしまう。吉井川にかかる橋もまたいい。これらの自然の風景をキレイに切り取ってくれる画面がいい。そしてコントラストもいい。これはでしゃばらないけど、きちんと意図して演出してるライティングのおかげだろう。なにからなにまで好みである。
と同時に不思議なきもした、後の撮ることになる『煉獄エロイカ』などはなんであんなカッコつけただけの画面になってしまったのか・・・。60年後半から70年初頭はアメリカン・ニューシネマだとかヌーヴェルバーグだとか、すぐ旧くなる表面的な奇天烈さに走った糞映画がやたらと多い時代だったが、その影響をはやりうけたのだろう。

しかーし、この映画の素晴らしさは画面の素晴らしさだけではない。そんなものは添え物すぎない。
この映画の素晴らしさは想いの出し入れのタイミングのずれ、そしてそこから発生するもどかしさだろう。恋愛経験がある人なら誰しもわかるだろう。“どうして「うん」といって欲しい時に言ってくれないの”という、あのもどかしさが全編に展開されている。求められて、ついついかわしてしまう。すると自分が求めた時にかわされてしまう。求められた時の全部に「いいよ」と言ってしまえば総てがうまく行ってたかもしれないのに・・・。
この感情のやりとりの切実さに恐ろしくリアリティを感じてしまうのである。

さらに女性原理を見事に描いた傑作だといえる。
男にとって「機能性がある、役に立つ」ということは、自らの存在意義にほかならない。しかし、女性の場合はそうではない。女性の場合は「世話してあげる=必要とされる」ということこそが存在意義になっている。

本来コテコテの恋愛ものというのは、完全無欠のヒーローと完全無欠のヒロインのラブロマンスではない。
ダメ男とそんな彼を世話して上げられる女の物語である。
しかし、この2人をくっつけると物語りは描きたい部分ではなく、経済的なところから破綻していくものだ。
ダメ男と結婚した女はさんざん世話をやくはめになる。作り手にしてみれば、ドラマとしてはもってこいの展開である。しかし、男が甲斐性なしすぎると、経済的に破綻してくるので、そっちの流れもフォローしなければならなくなる。そんなことをしていると、あれよあれよというまに貧困に呑み込まれる2人のドラマになってしまう。
この映画の上手いところは、ダメ男はそのままに、女の経済基盤をそれとは別のところに別けたところにある。その結果、ダメ男をを世話するだけという、女にとっては一番酔えるシチュエーションだけをとりだして、一本のストーリーラインに落とし込むことに成功している。

<あらすじ>
f0009381_17324916.jpg昭和20年の夏、東京の学生だった河本周作(長門裕之)は、岡山の叔母を頼ってやって来たが、空襲でやられていた。結核に冒されていた彼は、親戚のある鳥取に向かう途中病に倒れ、岡山県県北の秋津温泉の“秋津荘”担ぎ込まれる。結核のため離れに床をかりた河本を看病したのが17歳の新子(岡田茉莉子)だった。終戦の時を向かえ新子は泣いた。自暴自棄になっていた河本だったが、心が健康似反応する新子をみていると、なんとなく生きてみようかと思えるようになる。

それから3年、ふたたび河本は秋津を訪れる。作家をめざし地道に活動していた河本だったが、未来が開けない状況に身も心もすさんでいた。「一緒に死んでくれ」と頼む河本に、「私がホントに好きならいいわよ」と心中を決意する。睡眠薬を飲み、お互いの身体を一緒に縛って水に飛び込こむはずだったが、彼女を抱き寄せると、くすぐったいとけたけたと笑い始める新子の屈託のない反応に、自殺するきもさめてしまう河本だった。

そしてまた3年がたち、再び河本が秋津にやってくる。作家仲間の妻の兄・松宮(宇野重吉)が文学賞を受賞したというのだ。自分だけがおいてけぼりになった河本は傷心した心を癒すために秋津を訪れる。傷心の旅に自分を訪れ、元気になって返って行く河本をみるのが好きだった新子だが、女中のお民から河本が結婚していることを聞かされる。

翌年、ふたたび秋津を訪れる河本。2人が出会ってから10年の年月がたっていた。新子は死んだ母をついで“秋津荘”のお上となっていた。今度河本が来たのは、別れを告げるためだった。松宮の紹介で東京の出版社に勤めることになったのだ。その夜二人は初めて肉体の関係を持った。翌朝の新子は幸せに満ちていた。一人でひっそりと帰ろうとする川本に無理やりついていき、津山の鶴山公園で2人の時間をもうすこし愉しむ。しかし、川本の出発時刻が近づくと無口になっていく新子。最終の岡山行きの改札が始まると、おもわず川本を連れ出してしまう。汽車の発車音が聞こえる。「もう帰れない」という河本。2人は駅の近くのホテルに泊まることになる。たしかに引き止めたのは新子だった。しかし、河本の妻のことを考えると罪悪感に襲われ、感情を殺すしかなくなる新子。それでも、河本は新子の身体を求めてくる・・・。

昭和37年、最初の出会いから17年が過ぎていた。河本は作家として大成した松宮の取材旅行の随行員として再び岡山にもどってくる。そして秋津を訪れた。新子は魂の抜け殻のようになっていた。10年前、津山駅の4番ホームでもう戻ってくることはない河本を見送ったとき、新子の生きがいは消滅したのだろう。
新子は“秋津荘”を売り、かつて、結核の河本を介抱したあの離れに住んでいた。その離れも2日後には取り壊されるという。肌を合わせる河本に「一緒に死んで欲しい」という新子。
翌日、強引に河本の見送りについていく新子は、かみそりをとりだし、一緒に死んで欲しいと再び迫る。とりあえずその場を収めた河本は、煩わしいものにはもうかかわりたくないというようなそぶりで、ありきたりの言葉を残し去っていく。その河本の後姿をみながら、新子はかみそりで手首を切るのだった。

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PS:確かに音楽はうるさいも・・・、もうちょっと効果的に使えば良いのに。『レザレクション・復活』モーリス・ジャールを思い出した・・(苦笑)。でも、画面作りが異様に確りしているので、それほどの不快感にはならなかった。
あと「ストレプトマイシン」の名前を久々に聞いた(笑)。ああ、そういえば結核の特効薬として世に出た最初に抗生物質だった。この言葉一つで「ああ、戦後なんだ~」と思えてしまうレトロな季語である。

津山駅の待合室なんて、懐かしかったなあ。
もっとも、この映画が撮影されたころは私はまだ受精卵くらいの時で、実態は存在してなかったのですが、子供の頃みた津山駅はあんな感じでした。汽車が出る10分前くらいから改札に駅員さんがたって切符をきるのです。津山線は4番ホームで、SLとディーゼルが併用されてました。SLはC-51だったと記憶してます。
by ssm2438 | 2012-01-21 17:34

南極物語(1983) ☆☆

f0009381_2153127.jpg監督:蔵原惟繕
脚本:蔵原惟繕/野上龍雄/佐治乾/石堂淑朗
撮影:椎塚影
音楽:ヴァンゲリス
ナレーション:小池朝雄

出演:
高倉健 (潮田暁)
渡瀬恒彦 (越智健二郎)
夏目雅子 (北沢慶子)
荻野目慶子 (志村麻子)

       *        *        *

そこを描いちゃうと実話にならんでしょう・・・。

昭和32年2月、南極の昭和基地ですごした第一次越冬隊員が第二次隊員が交替する時が来た。観測船「宗谷」から昭和基地へ第二次越冬隊をヘリで空輸する計画だったが、天候があれ第二次越冬隊の計画はキャンセルされることが決定。15匹の犬たちは鎖につながれたまま置き去りにされ、第一次越冬隊員たちだけが宗谷に戻り日本へ還ってくる。犬係の潮田(高倉健)と越智(渡瀬恒彦)は第三次越冬隊が組織されることをニュースを知ると、進んでその隊員に加えて貰うよう志願し、再び南極に降り立つ。ヘリで昭和基地に着いた二人は、鎖につながれたまま死んでいる犬たちを見つけるが、タロとジロだけは生き延びていた。

このロケをしたエネルギーに☆ひとつおまけするけど、どうにもバランスが悪い。確かに実話をもとにしてるらしいが、人間が南極を離れた後はフィクションの部分なので、あそこカットしてくれないかなあ。つまり、隊員たちの話にするのか、犬の話にするのか、そこを明確にしてほしかった。スタンスをきめたらブレない。人間のドラマにするのだがった、南極に置き去りにした犬の話はなしにすべきだ。それをとるなら、犬達を擬人化したようなナレーションで物語を作るのもありだが、人間にはスポットをあてないでほしい。

・・・で、個人的には罪悪感に感じる人間の話だけでよかったと思う。構成を変えればもっとしっくりきたものになってたんじゃないのかな・・・。
私だったらこのようにする。

悪天候のために、鎖でつながれた犬を置き去りにして南極を離れる悲劇のシーン。
日本にもどっても非難をあびる隊員たち。
その樺太犬を供出してくれた人々を訪ね謝罪の旅をする潮田。
「どうしてリキを連れて帰って来なかったの!」と激しく怒りをぶつけてくる少女・麻子。
第三次越冬隊が組織されることをニュースで知った潮田と越智は隊員に志願する。
麻子との和解。そこで物語前半にあった、観測旅行にでかけ遭難しかけた時、タロとジロの鎖を解き、基地に救助をもとめたエピソードを回想シーンとして入れてやる。
最後、昭和基地に着いた二人は、鎖につながれたまま死んでいる犬たちを見つけ慟哭する。しかしタロとジロだけは生き延びていた! 喜ぶ二人!

この流れで充分感動できるとおもうのだけど・・・。
by ssm2438 | 2011-10-17 21:53

八甲田山(1977) ☆☆☆☆

f0009381_21463099.jpg監督:森谷司郎
原作:新田次郎「八甲田山死の彷徨」
脚本:橋本忍
撮影:木村大作
音楽:芥川也寸志

出演:
高倉健 (徳島大尉)
北大路欣也 (神田大尉)
三國連太郎 (山田少佐)

      *       *       *

やはり健さんには雪が似合う。

原作は『劔岳 点の記』新田次郎。ちなみに『鉄道員(ぽっぽや』浅田次郎。よく間違える(苦笑)。

この物語、意外ととっつきにく。「天は我々を見放したああああ」という台詞だけは有名だが、なぜ、彼らがあの雪山にいなければならなかったのか・・というその目的が希薄なため、凡人感情としてなかなか物語として実に捕らえづらいのだ。
そもそも彼らは八甲田山を越えて雪の中を歩いていたのは、雪の中を歩くためであり、どこかにたどり着くためではない。日露戦争を目前にして陸軍は中国大陸で起こりうる寒冷地での戦闘に慣れておくために、耐寒訓練として八甲田のふもとをを舞台にして雪中行軍を行った。しかし雪山の知識が乏しく、訓練に参加した兵士たち210名のうち199名が死亡した。この物語は、この事件を基にして作られたフィクションであり、戦うためではなく、訓練のために死亡した兵士たちの物語である。

なお映画では、弘前歩兵第31連隊青森歩兵第5連隊との競争意識のなかで雪中行軍がおこなわれているが、実際はそうした競争意識のなかで行われたものではないらしい。また映画に登場する人物も、それに相当する人物は存在するが、その名前の人物は存在しない。あくまで実話をもとにしたフィクションとして作られている。

雪山での撮影は困難をきわめ、それは画面からも伝わってくる。確かにつらそうな撮影だ。撮影監督は『劔岳 点の記』の監督/撮影をつとめた木村大作。この人のとる怒涛の望遠画面はいつもながら素晴らしい。木村大作は、宮川一夫斉藤孝雄の撮影助手として付いていたが、もっとも影響をうけたのは黒澤明だと述べている。黒澤作品においては撮影助手としての参加となっているが、一本立ちしてからは本作の監督、森谷司郎作品が多い。そのご東宝を退社してからは降旗康男深作欣二といった監督との付き合いが多いようだ。
私がもっとも影響を受けた映画人はこの木村大作だろう。私にとっては世界一のシネマトグラファーである。

<あらすじ>
日露戦争開戦を目前にした明治34年末。軍部は、ロシア軍と戦うためには、雪と寒さに慣れておく必要があると判断、耐寒訓練として冬の八甲田山を軍行する計画をたてた。神田大尉(北大路欣也)の青森第5連隊と徳島大尉(高倉健)の弘前第31連隊がこれに参加することに決まった。双方は青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという進行が大筋で決った。翌年1月20日、徳島率いる弘前第31連隊は、雪になれている27名の編成部隊で弘前を出発した。一方の神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐(三國連太郎)に拒否され210名という大部隊で青森を出発した。

神田の青森第5連隊の実権は大隊長山田少佐に移っており、神田の用意した案内人を山田がことわってしまう。神田の部隊は、低気圧に襲われ、磁石が用をなさなくなり、白い闇の中に方向を失い、次第に隊列は乱れ、狂死するものさえではじめた。一方徳島の部隊は、女案内人を先頭に風のリズムに合わせ、八甲田山に向って快調に進んでいた。体力があるうちに八甲田山へと先をいそいだ神田隊。耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。狂暴な自然を征服しようとする210名、自然と折り合いをつけながら進む27名。
出発してから1週間がたち、徳島隊はついに八甲田に入った。天と地が咆え狂う凄まじさの中で、神田大尉の従卒の遺体を発見。神田の青森第5連隊の遭難は疑う余地はなかった。そして徳島は、吹雪きの中で永遠の眠りにつく神田と再会。青森第5連隊の生存者は山田少佐以下12名。徳島の弘前第31連隊は全員生還。のちに山田少佐は拳銃自殺。そしてこの訓練に参加した全員が日露戦争戦死することになる。
by ssm2438 | 2011-07-01 20:39 | 木村大作(1939)
f0009381_1745970.jpg監督:ボー・ウィデルベルイ
製作:ヴァルデマール・ベリエンダール
脚本:ボー・ウィデルベルイ
撮影:ヨルゲン・ペルソン

出演:
ピア・デゲルマルク (エルヴィラ・マディガン)
トミー・ベルグレン (スパーレ中尉)

        *        *        *

憧れに酔いきって、現実から切り離されてしまった男女の話

雰囲気が美しい映画。映像的にめちゃめちゃすばらしい撮り方をしているというわけではないのだが、黄金色そた草原に金髪をなびかせたピア・デゲルマルクがいるだけで絵になってしまう。これは誰がどうとっても(あほな広角レンズさえ使わなければ)美しい絵になる映画。いろんな意味で、「美しさ」に☆ひとつおまけ。

お話的にはかなりシンプルなストーリー、サーカスの綱渡りの芸人ピア・デゲルマルクにほれてしまった軍人さんが、妻も家庭も捨てて二人で逃避行。軍の友人が現われ、残された妻や子供の悲しみを語り、男の行為を責めるが、彼にとっては彼女はすべてのものに勝る価値観のもの。「もう好きなんだから仕方ないじゃないか」理論をまともに実行してしまい、そのままゴールまで突っ走るしかない。二人は逃走の旅を続ける。結局お金がなくなり、逃亡兵なので職にも就けない。
恐ろしいまでに「憧れ」が理性をねじふせ、没落へのみちのりをころげおちるような映画。普通ならお金がなくなると二人が自然といがみあってきたりするものだが、この映画はそれもない。しかしストーリーの流れは現実離れしているわけでもない。逃亡生活のみすぼらしさはきわめて現実的であり、住む家もなく、最後は野宿生活。最後は美しく身だしなみをととのえて楽しいピクニック、そしてズドン。ズドンと森に響きわたる銃声2発。

f0009381_1765076.jpg物語自体は「憧れ」に覚えれ現実逃避するお話で、あんまり個人的には肯定できないのだが、やはり逃亡中の森の中で選択ひもをさりげなく綱渡りの感覚を確かめているところは実にすばらしい。技をやってみることで、現実の悲惨な状況を認識しないためなのか、それとも。いつか現実に戻った時にまだやれるように、体をうごかしてみたのか・・、どちらの解釈もあるだろう。ただ、こういうシーンを差し込んでくれることがおしゃれでにくい。
死ぬ間際のピクニックも美しい。

監督は『刑事マルティン・ベック』ボー・ウィデルベルイ。ゲリラ的小手先の演出はしない、きわめて王道の演出をする人といえば、聞こえがいいが、胆に地味ともいえなくはない(苦笑)。ただ、いやらしさもなく、観客に媚もうらず、現実的な見せ方で、まるでファンタジーのようなお話を映像化しているので、個人的にはす好きなほうだ。
by ssm2438 | 2011-05-09 16:42
f0009381_1837270.jpg監督:山田洋次
脚本:山田洋次/朝間義隆
撮影:高羽哲夫
音楽:山本直純

出演:渥美清(車寅次郎)
    いしだあゆみ(かがり)
    片岡仁左衛門(陶芸家・加納)

       *        *        *

あじさいのように淡い話だったが・・・。

いしだあゆみ演じるかがりにもう少し、求めている描写がほしかったかな。この物語の展開だとあまり寅さんを好きになるという方向性にはいかないような状況設定。寅さんを好きになるには時間が短すぎるのである。どちらかといと、それまで付き合っていたと思った人が急に別の女と結婚するといいだし、とたんに孤独を感じたというシチュエーションだろう。そのシチュエーションで、孤独だから誰でも良かった。誰でも良かったけど、その中でも寅さんが良かった・・みたいな、そんな哀愁が描ければこの話もっともっとよくなったのに。でも、誰でも良かったのだがら、あとになると寅さんじゃなくてもよくなるはずって思ってたけど・・・・ほうが話がずっしりきてよかったのに。。。

しかし、それでもやっぱりすごい山田洋次演出がここにもある。今回の映画の最大のみどころはいしだあゆみ演じるかがりの実家にとまることになり、母親は産婆の仕事で出て行ってしまい二人っきりになるところ。
ちまたのこの映画の解説を見ると、寅さん枕元にしのびよるいしだあゆみ・・と書かれていることもあるが、そのシーンは、娘のランドセルをとりにいくときに、寅さんの寝ている部屋を通らなければならないというシチュエーション。彼女にはエッチしたい欲求はまるでない。ただし、勘違いされたくない欲求はあっただろう。
結論的にはなんでもないシーンなのだが、お互いが意識すればそれが意味をもったシーンになる。

かがりにしてみれば、
男の人が寝ている部屋に一人ではいっていくなんて・・・、でも、ランドセルとりにいくだけだし、万が一にもそんなことはないだろうけど、間違って寅さんが男になったらどうしよう・・・、でもそれはないわよね。でも、明日のあさ、どう話そう。どう話しても言い訳に聞こえそうだし・・・みたいな。

一方寅次郎にしてみればもっとシンプル、彼女の目的がわからないのだから、もうちょっとときめいたかもしれない。最後のふすまをしめるときにいしだあゆみに足元のカットは絶品である。きっとあのとき寅次郎は
“彼女がふすまを開けて入ってきたときに普通に「どうしたんだい?」と声をかけて、もうちょっと飲んでもいいかな・・みたいな展開に持っていくのもありだったかなと思うかもしれない。あそこで寝てる振りしちゃうと、もう手も足も延長戦もないじゃないか”と思ったに違いない。

もうひとつ、この映画で圧倒的にすばらしいのが、いしだあゆみ演じるかがりの実家の設定。ここは丹後半島の伊根漁港で、この風景だけで情緒に浸ってしまう。この港をみていると、なにか・・・、ミケランジェロ・アントニオーニに撮ってほしいと思わせる雰囲気なのだ。まるで日本のベニス、それも新しい日本のベニスではなく、ミケランジェロ・アントニオーニが『さすらい』でみせたようなノスタルジーをがただよう情緒あふれるベニスなのだ。個人的には朝霧のたつ伊根港を見てみたかった。残念ながらこの映画は暖かい時期にとられた映画らしく、そんなシーンはでてこないのだが、ここを冬場のロケ地にしたらどれだけ感動的な画面ができるころだろう。画面の色彩設計はアンドリュー・ワイエスにお願いしたい(笑)。f0009381_11192646.jpgf0009381_11193563.jpgf0009381_11194663.jpg

<あらすじ>
京都の葵祭、出店をだしてたい寅次郎が仕事を切り上げて宿に帰ろうとすると、老人が下駄の鼻緒が切れて困っている。いつもの軽妙なトークをまじえつつ手ぬぐいを裂いて下駄をなおしてやる寅次郎。その夜は上品な茶屋でその老人に付き合って飲まされた寅次郎。目が覚めてみるとそこは加納(片岡仁左衛門)という有名な陶芸家のうちだった。そこで家事手伝いをしている30半ばの女性かがり(いしだあゆみ)に会う。
彼女は夫をなくしたあとここで働いているのだが、加納の一番弟子の蒲原恋仲になっていた。しかし、蒲原は他の女性と結婚するとい話をきかされ二人の関係は破談になってしまう。そんなかがりをみて加納は「いつも他人の顔色ばっかりうかがっていてはいかん。ほんとにほしいものがあるのなら求めないと」と歯がゆそうに語るのだが、かがりは地元の丹後に帰ってしまう。
それからしばらくして、彼女のことが心配だという加納の言葉に、寅次郎は次の行商を丹後方面にもとめることにする。丹後の彼女の実家にいってみると、5歳くらいの娘の産婆をしている母と3人で住んでいた。ここでも寅次郎の存在がかがりの心を癒していく。しかし、そんな会話に夢中になていると帰りの船を逃してしまう。しかたなくその晩は彼女のうちにとめてもらうした寅次郎。さらにその晩は近所の誰かが産気づき母も出てしまう。娘を寝かしつけると、気がつけば二人だけの夜。静かな緊張が支配する夜になる。たぶんかがりは、よりそって話したかったのだろう。しかし、自分の恋にはチキンの寅次郎は早々とひとり床についてしまう。

なにもない夜をすごした寅次郎は東京へ帰るが、それから数ヶ月して《とらや》にかがりが友人と一緒に訪れる。何かを期待するがやっぱりなにもなく帰っていくかに思われたかがりが、そっと寅次郎のひざの上の手に手紙を滑り込ませる。その手紙には明日鎌倉のあじざい寺で待っているという言葉がしたためられたいた。

かがりにしてみれば、スーパー大覚悟で行った行為なのだろう。その場に人には知られずに寅次郎にだけわかるように手紙を忍ばせたのである。たぶんいままで一度もそんなことはしたことがあったとは思えない。にもかかわらずチキン寅次郎は甥の満男をつれてあじさい寺にでかけていく。・・・・大ばか。
ひたすら無駄な時間が過ぎていく。・・・・大ばか。
そしてなにもなく一日が終わる。かがりにとっては気持ちを伝えたいと思い、ありったけの勇気をふりしぼって作った大事な覚悟の時間だったのに・。・・・大ばか。
by SSM2438 | 2011-03-19 18:40 | 男はつらいよ(1969)
f0009381_8571254.jpg監督:山田洋次
脚本:山田洋次/朝間義隆
撮影:高羽哲夫
音楽:山本直純

出演:
渥美清 (車寅次郎)
中原理恵 (木暮風子)
渡瀬恒彦 (トニー)
佐藤B作 (福田栄作)
美保純 (桂あけみ)

       *        *        *

絵はいいぞ! 
ミケランジェロ・アントニオーニの『さすらい』みたい。


『男はつらいよ』史上、もっとも画面的にかっこいい映画はこれでしょう。舞台になっているのは北海道の霧多布湿原。だだっぴろい釧路の大地と、タイトルにもあるようにとにかく霧の描写が素敵。そしてその霧のなかで描かれる恋愛模様もとてもアダルト。
ただ、残念なことに、最後の熊騒動のエピソードはそれまでの気持ちよさを全部ぶち壊しにしてしまう寅さん史上最低の演出であり、最高と最低が交錯して、でも最後のシーンの最低印象が非常に強く、かなり損をしている作品です。

話が全部がひと段落して、今回のマドンナの風子の披露宴会場に寅次郎が来るというエピソード。場所は北海道。一山こえればすぐなんだけど、バスでまわると4時間くらいかかってしまう。なので寅次郎は山をこえることにしたらしい。ところがここのところ熊が出るというのでみんなちょっと心配。で、山からおりてきた寅次郎の後ろに熊のぬいぐるみをきた人がいて、おおさわぎ。でも、あれが熊のつもりでやっているらしいので、どこまで本気にして解釈すれば良いのかまったくわからず、ただただおばかなアトラクションになってしまったというエピローグ。
作り手の気持ちとしては、『奮闘編』の最後のと同じで、「寅さんが死んじゃったのかもしれない・・」って一瞬思わせといて、みなさんに寅次郎の存在を大事におもってる自分発見!というよくある演出手法なのだけど、完全にギャグになってしまったのですべりまくり。この映画はかなりムードをアダルトに振っているだけに、あれが最後のエピソードがそれまでのムードをぶち壊しにしてしまった。
編集でカットできなかったものかと悲しくなってしまった。

しかーし、しかし、その最後のところは最低なれど、それだけのこの映画をダメと決め付けるには捨てがたい魅力がこの物語にはあります。

寅次郎が釧路で知り合った、福田栄作(佐藤B作)というサラリーマン。実は1年前に妻に逃げられて不憫な生活を送っていたが、このたびその妻の居所がわかり、連れ戻しに釧路まできたという。寅次郎にプッシュされながら勇気をふりしぼってその妻がいるという家までいってみると、他の男と子供までつくって幸せそうにくらしている。栄作はそのまま黙って帰ることにする。
これは#43『寅次郎の休日』で後藤久美子演じる泉ちゃんが、女の人とくらしているというお父さんに会いにいって、あまりにも自然にくらしている二人をみて、「戻って欲しい」といえなくなってそのまま返っていく・・というエピソードと同じパターン。
パターンなのが分っていてもぐぐっと来るものがある。

そして、今回のマドンナ木暮風子(中原理恵)との恋愛劇もちょっと大人の世界。釧路で知り合った風子は理容師の免状を持っていて、床屋に勤めるのだがどこでも長続きしない。伯母の住む根室へもどった風子は、寅次郎について出かけていった常盤公園の祭りの会場でオートバイショウの花形スター・トニー(渡瀬恒彦)にさりげなくアプローチされる。寅次郎とそのまま旅をしたいという風子だが、寅次郎はカタギな生活をしろよとさとす。やがて根室の散髪屋で職についた風子をあとに寅次郎は東京にもどっていく。

柴又にもどった寅次郎は福田栄作の訪問をうける。彼は東京で風子に会い、借金を申し込まれ断ったという。金がなくてお金を貸せなかったという栄作を罵倒し追い返してしまう寅次郎。風子が東京にいるが何処にいるかもわからない。しかもお金に困っているらしい。心配で仕方がない寅次郎は新聞の尋ね人欄に広告を出す。そんなとき、トニーが《とらや》を尋ねてくる。風子がトニーの所で寝込んでいるというのだ。旭印刷の車を借りて風子を引き取りに行く寅次郎。近所の散髪屋に理容師の求人があるとかで、風子がそこで働けないかと段取る《とらや》の人々。そんななか、寅次郎はトニーの所に会いにいき「風子から手をひいちゃくれねーか」と話にいく。
「女の子とで人に指図なんかされたかないな」というトニー。
「オレもお前の渡世人どおし、分るだろう、あの娘は無理しちゃいるがカタギになれる娘だ」と続ける寅次郎。
「東京についてくるっていったのはあの娘のほうなんですよ」というトニー。
「だからこうして頭をさげて頼んでいるじゃないか」といって頭をさげる寅次郎。
「あんた、純情なんだな」といって去っていくトニー。

《とらや》に帰ってそのことを話す寅次郎だが風子は
「私とトニーのことでしょ、なんで頼まれもしないのにそんなことするの!」激怒。
「話あったってしょうがねーじゃねえか、あんな遊び人と」と寅次郎。
「遊び人だったら寅さんだってそうでしょ、渡世人同士だって今自分でいったじゃないか!」と勢いで返す風子だが、言った後に悪かったと思う風子。

風子は風子なりにトニーのことを愛していたのである。
一緒にいて幸せにならないと分っていても、どうしようもない恋愛というのもある。

「さよなら」と頭をさげて雨の中に飛び出していく風子。
あとにはいや~~~な沈黙が残る。

その後、二人がどうなったかは描かれていないが、風子が別の男と結婚するということから推測すると、きっとトニーも寅次郎の言葉をうけとり、寄り付いてきた風子を突き放したのだろう。見えないところで大人のやり取りが展開しているお話でした。


・・・・・で、最後はコメディのぶち壊し演出。そこまでが良かっただけに最後はほんと残念で仕方がない。

ちなみにこの作品からタコ社長の娘・あけみ(美保純)が登場。いきなり結婚式である。で、ささやかにほろっとさせてくれる。いやあああ、美保純はほんとにいいキャラクターだね。この人の存在はこの映画においてとても貴重な存在となる。40作目になると美保純がでなくなると、なんだかとても寂しいのである。
by ssm2438 | 2011-03-15 12:30 | 男はつらいよ(1969)
f0009381_1239428.jpg監督:リュック・ベッソン
脚本:リュック・ベッソン/ロバート・ガーランド
撮影:カルロ・ヴァリーニ
音楽:エリック・セラ
製作顧問:ジャック・マイヨール

出演:
ジャン=マルク・バール (ジャック・マイヨール)
ロザンナ・アークエット (ジョアンナ・ベイカー)
ジャン・レノ (エンゾ・モリナーリ)

       *        *        *

氷の下をアメーバのようにただよる気泡群の描写は名シーンのひとつだと思う。

実在の人物ジャック・マイヨールの自伝をもとに、リュック・ベッソンが映画化、公開当時はあまり人気の出なかった映画だが、一部の根狂的な信者を獲得した映画。その4年後、92年に完全版として『グラン・ブルー』として再び公開、このときにはすこぶる人気がでた。

映像はとても気持ちのいいものなのだが、映画としてはかなり弱い・・というのが正直な感想。残念ながらドラマとしてはあまり見ごたえがある話ではない。
このジャック・マイヨールがやっているフリー・ダイビングというのは、素潜りのこと。アクアラングやなんやかやをつけないでそのまま錘をもって深海に潜っていく。この記録をどんどん塗り替えていくのはこのジャック・マイヨールなのだけど、この才能というのは人間が努力して勝ち取れるものではな。これはもうその人がうまれついてもっている特異体質で、たとえば、フリーダイビング中のマイヨールの脈拍が毎分26回になっていることや赤血球が著しく増加しているなど、通常の人間では考えられないこと。つまり、普通の人が努力しても、この分野においては勝ち目がない相手なのである。

「通常の人がどんなに努力しても勝ち目のない人間」というのは、映画にしてみると見ている人に疎外感をあたえてしまうので、ドラマになりづらい。この映画も、主人公の人間ドラマというようりも、主人公のありかたを多少デフォルメして描いている、自伝的映画で、そこになんとか映画的な要素をとりいれようと、ジャン・レノ扮するエンゾというフリーダイビングのライバル的存在の男と、ロザナ・アークエット扮するジョアンナ・ベイカーをからませている。エンゾに関しては、主人公のジャックが神がかり的にすごいので、どんなにがんばって努力しても勝てない悲哀を感じてしまう。過剰移入は主人公にするのではなく、彼にしてしまうのだ。この二人がきわめて人間なので、申し訳程度にドラマのような雰囲気

そして、このときのロザナ・アークエットは実にいい。この女優さん、『ロングウェイ・ホーム』のころから知っているのだけど、あるいみ変な顔なのだけど、とってもチャーミングなのだ。おまけに胸のけっこうある。大好きな女優さんのひとりだ。

<あらすじ>
保険調査員ジョアンナ・ベイカー(ロザンナ・アークエット)は、氷原で起きた事故調査のため、アンデス山脈にあるローランス博士の研究所を訪ねる。そこでボンベも背負わずに氷の下の深い湖に潜っていくダイバー、ジャックに出会う。彼は潜水中の人間生理を研究する博士に協力してダイビングを繰り返していた。
コート・ダジュールに戻ったジャックは、20年ぶりにエンゾ(ジャン・レノ)と再会、エンゾは10 日後にシチリアで開催されるフリーダイビングの大会に参加するよう告げ、ジャックの前に航空券を置いて去る。一方、アンナはローランス博士からジャックが大会に出場することを聞きつけ、上司を騙しシチリアへと向かう。いよいよ大会が始まり、ジャックは108メートルの潜水を成功させ、世界の頂点に立つ。その夜、ジャックとジョアンナは初めて愛を確かめ合うが、深夜ジョアンナが目を覚ますとジャックの姿はなく、海でイルカと泳いでいた。そんな彼を見てジョアンナはニューヨークに戻ることを決意する。
ジャックへの対抗心に燃えるエンゾは、無謀なダイビングに挑み、命を落としてしまう。その魂にひかれるかのように、ジャックもまた大海原に一人乗りだしていく。彼を愛し、彼の子を宿したジョアンナを残して。やがて、人間の限界を超える深海に達したジャックの目の前に一匹のイルカが現われ、彼を底知れぬ深淵へと連れ去っていくのだった。

※冬のアンデスの湖、氷のしたを進むジャック(↓)
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by SSM2438 | 2011-01-15 12:40