西澤 晋 の 映画日記

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2010年 11月 15日

リバー・ランズ・スルー・イット(1992) ☆☆☆☆☆

f0009381_4401697.jpg監督:ロバート・レッドフォード
脚本:リチャード・フリーデンバーグ
撮影:フィリップ・ルースロ
音楽:マーク・アイシャム

出演
ブラッド・ピット (ポール・マクリーン)
クレイグ・シェイファー (ノーマン・マクリーン)
トム・スケリット (マクリーン牧師)
ブレンダ・ブレシン (マクリーン夫人)
エミリー・ロイド (ジェシー・バーンズ)

        *        *        *

この手の映画には弱いんだ。

ロバート・レッドフォードがブラッド・ピットを主演に据えて描いた自然との調和。私のなかでの“自然との一体感映画”は『リバー・ランズ・スルー・イット』『レジェンド・オブ・フォール』『バガーヴァンスの伝説』の三本かな・・。そのうち2本はブラッド・ピット、そのうち2本はロバート・レッドフォード。この二人は貴重な人々だ。
レッドフォードがやってるのは「魂のヒーリング」と「自然との調和」、このふたつ。どの映画においてもそう。この映画は「自然との調和」がメインになってる。

しかし、『リバー・ランズ・スルー・イット』に関しては判る人にしかわからない映画だと思う。判らない人には全然チャンネルが合わない。ほとんどのエンタな監督さんは、シナリオ上で、「こうなって、こうなって、ここでこれを終わらせて、残ってる問題はこれで、こうなってるから、ここでこうしたら物語りは完結する」って物語を閉じるのだけど、レッドフォードが魅せるのはシナリオに書かれている台詞やイベントじゃなくて、その文字と文字の間にある行間。イベントを見せるのではなく、伝えるものを感じさせる演出。伝えるものは劇中で語られない。スピリバーグの映画みたいに、伝えるもを見せてしまう映画に慣れさせられていると、こういう映画は「なにこれ?」ってなる。イベント映画専門の人はパスしたほうがいいだろう。

役者としてはいまいち作品には恵まれなかったほうだとおもう・・。印象にのこるは候補者ビル・マッケイとギャッツビーとサンダンスだけだし・・・でも美貌も図抜けてるし、監督としのて才能は天才的に図抜けてるし。

<あらすじ>
かわらぬ大自然のなかで、あるときは父と息子二人で、あるときは息子二人だけで、そして最後は息子一人だけで釣り(フライフィッシング)をするだけ。。。

なんとすばらしい映画だ。。。

by ssm2438 | 2010-11-15 04:17 | R・レッドフォード(1936)
2010年 10月 27日

レジェンド・オブ・フォール(1994) ☆☆☆☆☆

f0009381_13335039.jpg監督:エドワード・ズウィック
脚本:スーザン・シリディ、ビル・ウィットリフ
撮影:ジョン・トール
音楽:ジェームズ・ホーナー

出演
ブラッド・ピット (次男・トリスタン)
アンソニー・ホプキンス (父・ウィリアム)
エイダン・クイン (長男・アルフレッド)
ジュリア・オーモンド (スザンナ)

        *        *        *

大河ドラマ嫌いの私でもこれは惚れた。大雄大なモンタナの大自然バックに描かれる怒涛の人間ドラマ。叙情的感動巨編! 魂をゆすぶる映画とこはこのことだと思ってしまう。ブラッド・ピットが馬にのってあらわれるだけで、感動してしまう。監督は『きのうの夜は・・・』、『ラストサムライ』、『ブラッド・ダイヤモンド』のエドワード・ズウィック。大好きな監督さんのひとりです。そのエドワード・ズウィックのなかでもこの『レジェンド・オブ・フォール』が最高だろう。
しかし、この人の演出というのは、全部みせてしまう映画、観客が想像する部分をもたせない映画。一方的に情報提出型のスタイルなので、その部分がともするとつまんなく見えることもある。この映画もそういう撮り方ではあるのだけど、見ているものを飽きさせない怒涛のドラマを象徴的にみせている。
物語はブラッド・ピット扮するトリスタンが、生まれてから死ぬまでを描いた作品なので、全部描くとすると膨大な時間が必要になる。しかし映画の時間は2時間10分。作り手はそのなかにドリスタンのドラマを凝縮しなければいかない。エドワード・ズウィックは、総てのシーンを丁寧にとるのではなく、もっとも象徴的に描けるシーンをとことん印象的に、情緒的に、ドラマチックに撮り上げている。そのようなシーンの選択と、ドラマチックな見せ方がとても素晴らしい。

その画面をフィルムにやきつけたのはジョン・トール。この人のとる大自然はいつも素晴らしい。『シン・レッド・ライン』でみせた戦場の舞台となる自然の美しさ。『ウインズ』で見せたヨットレースの豪快な海の輝き。この人のダイナミックは自然描写は素晴らしい。
この映画は、エドワード・ズウィックのゆるぎない演出と、ブラッド・ピットの魅力と、ジュリア・オーモンド存在と、馬と熊とモンタナの大地が一体化し、そこにジェームス・ホーナーの音楽がかさなり、それをジョン・トールが一本のフィルムにまとめた奇跡のコラボレーション。ひたすら酔える。

f0009381_13383833.jpg<あらすじ>
アメリカがインディアンを押しのけてその勢力を拡大していた20世紀初め、その戦いに疑問と後悔をもった騎兵隊大佐のウィリアム・ラドロー(アンソニー・ホプキンス)は脱退、忌まわしい侵略の記憶から逃れるため、モンタナに牧場をひらき、定住して3人の息子たちの成長を見守っていた。中でもインディアン・イズムにもっとも傾倒した次男トリスタン(ブラッド・ピット)に、ことのほか愛情を注いだ。ウィリアムの妻イザベルは、過酷な自然環境に耐えられず彼と別居して街に住んでいた。時は流れ、ハーバード大で学んでいた末っ子サミュエル(ヘンリー・トーマス)が、婚約者スザンナ(ジュリア・オーモンド)を連れて帰郷した。そんなスザンナの美しさには長男のアルフレッド(エイダン・クイン)も、そしてトリスタンも魅了された。
やがて第一次大戦が勃発し、ドイツの侵略に対して祖国イギリスが戦っている状況にあり、長男アルフレッドと末っ子のサミュエルはカナダから義勇兵として出兵するといいだす。国家のためにの名目で国の為に戦いインディアンを殺戮した経験をもつ父はそれには強く反対した。その夜トリスタンは、サミュエルの出征に反対するスザンナに「行くなと言え」と言うが、それも無理なこと、「サミュエルを守って」とトリスタンにすがりつくしかないスザンナ。こうしてトリスタンも「サミュエルをかならず守る」と約束して出征していく。

ヨーロッパ戦線でサミュエルはトリスタンの目の前で敵兵に撃たれ死亡、弟を守りきれなかったトリスタンは、サミュエルの体から心臓を取り出し、足を負傷して帰国を余儀なくされたアルフレッドにその心臓を預け故郷にもちかえらせる。復讐の念にもえるトリスタンは、夜になるとドイツ兵を襲いのどを切り裂き、殺した兵士の数だけ頭の皮を剥い持ち帰る。血みどろの様相に見方の兵士たちも息を呑んだ。
悲しみにくれるスザンナに長男アフルレッドが愛を告白する。しかし、彼女の心の中にはトリスタンがいた。半年が過ぎたある日ふらりと帰ってくる。サミュエルの墓標の前で一人泣いているトリスタンに、スザンナが寄り添ってくる。その夜、2人は結ばれ、同じく彼女を愛していた長男のアルフレッドは家を出て、街で事業に乗り出して成功する。
モンタナの牧場でスザンナと幸せに暮らしていたトリスタンだが、弟を救えなかった罪の意識にくわえ、その弟の婚約者であったスザンナと幸せになることに耐えられなくなり、「永遠に待つわ」というスザンナを残して放浪の旅に出た。数年したある日、旅先から「もう待つな、俺たちの愛は終わった」という手紙をうけてとり絶望するスザンナ。

十年近くが経ち、心を浄化させたトリスタンは馬のひづめの音とともにモンタナに帰ってきた(このシーンだけでも感動してしまう)。父は半身付随になり、スザンナはアルフレッドと結婚していた。今では議員になって豪邸に住んでいるアルフレッド邸をおとずれるとスザンナがいた。

「なんで帰ってくるのよ、帰ってくるんだったら待ってるのに、言ったきりならそれっきり帰ってこないでよ・・・(また愛してしまう)」という押さえ切れない想いが湧き上がるスザンナ。それが2度目の絶望なら3度目の絶望はそのトリスタンが、ネイティヴ・アメリカンとの混血で、使用人の娘であるイザベル(カリーナ・ロンバード)と結婚したという話を聞かされたときだ。スザンナが次にトリスタンに会ったとき、トリスタンは妻であるイザベルとサミュエルと名づけた息子と一緒にいる時だった。自分がほしかった幸せがそこにあった。
その頃、トリスタンは禁酒法に逆らうように酒の販売の商売を行っていたが、ある日、警察の待ち伏せに遇い、威嚇射撃の流れ弾でイザベルが命を落とす。発砲した警察官を怒りのあまり殴り倒してしまい、30日間の禁固刑が科せられるトリスタン。そんなトリスタンの面会におとずれるスザンナ。

「私は夢をみるの。あの子たちの母が私であるような・・・。彼女(イザベル)の死も願ったわ。それだけじゃない、サミュエルの死も・・」
・・・こんな言葉が書けるなんてすごい。映画史上にのこる名シーンだと思う。

その夜、スザンナは自殺した。トリスタンは、銃を撃った警官とそのボスたちに復讐を遂げた。スザンナの遺体はモンタナに運ばれ、再会したアルフレッドはトリスタンに、「私は神と人間のルールに従ってきた。お前は何事にも従わなかった。しかし皆はお前を愛した」と言う。トリスタンは、兄に子供を預かってくれるよう頼み旅立っていく。

この映画で“自然の化身”としてのトリスタンを演じたブラッド・ピットは、ロバート・レッドフォード『リバー・ランズ・スルー・イット』でも“自然の化身”を演じているが、この二つのブラッド・ピットは実に素晴らしい。この“自然の権化”を愛してしまう不幸になっていくジュリア・オーモンドが実に不憫でまたいい。実にいい映画だ。

by ssm2438 | 2010-10-27 11:14 | E・ズウィック(1952)
2010年 10月 19日

アドベンチャー・ファミリー(1975) ☆

f0009381_8402659.jpg監督:スチュワート・ラフィル
脚本:スチュワート・ラフィル
撮影:ジェラルド・アンカン
音楽:ジェーン・カウアー/ダグラス・ラッキー

出演:
ロバート・F・ローガン (スキップ・ロビンソン)
スーザン・D・ショウ (パット・ロビンソン)
ホリー・ホルムズ (ジェニー・ロビンソン)
ハム・ラーセン (とビー・ロビンソン)

       *        *        *

自給自足の生活が正しいあり方だとは思わないのだが・・・。

この映画に先立つ1974年から『大草原の小さな家』というテレビシリーズが始まっていた。日本でもNHKで放映され本国でのシリーズは9年にも及んだ。それは西部開拓時代の話で、大草原に一家を構えた家族の物語だった。次女のメリッサ・ギルバートがなかなかチャーミングでよかった(笑)。
それに目をつけた映画会社が「じゃあ、うちでも一発」とばかりにこの映画『アドベンチャー・ファミリー』を作ったのではないかと想像する。

ただ、こちらが現代である。都会の空気で体をこわした娘のためにロッキーの山の中で自給自足の生活をはじめるた一家の話。ただ、こちらの物語はは他人との接触がきわめて弱い社会であることが実に物語を面白くなくしてしまっているような気がする。無線機はある。郵便は水上飛行機が運んでくれる。近所と呼べるのは40キロ離れたブーマー爺さんくらい。そんな中での生活。この映画は3作がつくられるのだけど、最終的にはロッキーに残ろうといことで落ち着く。物語のどこでも「やはり都会にもどるのか、それともここで生きるのか?」という問は常になされているのだが、そこで自給自足の生活をすることがほんとに正しいことなのだろうか?という疑問がつねにある。
だいたい、子供の教育はどうするのだろう? 勉強だけなら教科書を空輸してもらえればいいが、社会性の部分はどうなのだろう? さらに恋愛は? これも人間としては重要な要素だろう。男の子にしてみれば、好きな女の子ができ、その子のハダカをみたいと想像するのは健全なことだが、その家では母と姉しかいない。そんな環境で正しい男の子が育つのだろうか?

さらに、物語を語る上で、恋愛関係のないドラマというのがほんとに面白いのだろうか? この映画シチュエーション的には『不思議な島のフローネ』に似ている。あれも、脳内で恋愛活動がおきないドラマだった。おかげでどうにもときめかなかった。個人的には家族だけの空間で処理する物語というのにまったく面白さを感じないのだが・・・。
ちなみに『大草原の小さな家』では、それでも他の人たちとのコミュニケーションはあった。なんだかんだと近所というものは存在していたのだ。それがあったから物語は成り立っていたのだが、この『アドベンチャー・ファミリー』は・・・どうもいただけなかった。

ただ・・・熊に襲われるところは怖かった。あそこだけは『グリズリー』モードだった(苦笑)。

<あらすじ>
ロッキーの大自然を見下ろしながら飛行機が飛んでいる。やがてその飛行機は着水し、4人の一家とおじさんがひとり現れる。娘の健康を考え、大都会ロスアンゼルスを離れ空気のきれいなロッキーの山奥で自給自足の生活をすることに決めたロビンソン一家だった。山での生活はスキップ(ロバート・ローガン)の夢であり、子供達にも大自然の中ですくすくと成長してほしいと考えていた。一家をのこしてj飛行機は湖面から飛び去っていた。無線機はある。郵便物や子供たちの教科書は飛行機が運んでくれる。はてしなく広がるロッキーの大自然、人里離れた生活が始まった・・。
親熊をなくした小熊を連れて帰ってきたり、ピクニックにいくと人懐っこい熊にあったりもした。しかし近所の(40キロはなれているが一番近い)のブーマー爺さんからは凶暴な人食い熊いるから気をつけろと忠告をうける。それでも山での生活は楽しかった。しかしジェニーが熱にうなされるようになり、医者を呼ぼうにもすると無線機は壊れている。医者を呼ぶためにいかだをつくり河を下っていくスキップ。
一方その晩残された一家は熊に襲われる。しかし森で仲良くなった別の熊が現れサンダ対ガイラ状態。凶暴な熊は追い払われ、朝になるとスキップがなんとか医者をつれてもどってきた・・。
やはり、都会へ戻るべきなのか・・、スキップは考えたが、一家はロッキーに残ることにする。

by ssm2438 | 2010-10-19 08:59
2010年 10月 19日

続アドベンチャー・ファミリー/白銀を越えて(1978) ☆

f0009381_1052519.jpg監督:フランク・ズーニガ
脚本:アーサー・R・ダブス
撮影:ジョン・ホラ
音楽:ダグラス・ラッキー/ジェーン・カウアー

出演:
ロバート・F・ローガン (スキップ)
スーザン・D・ショウ (パット)
ヘザー・ラトレイ (ジェニー)
ハム・ラーセン (トビー)

       *        *        *

今度は冬越えだ!

前回ロッキーに居つくことに決めたロビンソン一家が、ロッキーで初めて冬を越えるエピソード群。

今回はさりげなく娘のジェニー役がヘザー・ラトレイに変わっている。ほかはみんな一緒。しかし違和感はほとんどない。というのも、この続編が作られる前に、『ロッキーを越えて』(1977)という映画がな時スタッフでつくられており、このときの主演の女の子はヘザー・ラトレイだった。その流れでこの映画のときみ、ジェニー役はヘザー・ラトレイになってしまったのだろう。

ちなみに『ロッキーを越えて』は、あたからさまに『大草原の小さな家』と同じ西武開拓時代にしてあり、雪山を越えるサバイバルものとして描かれている。そんなわけで、私の認識のなかでは『大草原の小さな家』=アドベンチャー・ファミリー』=『ロッキーを越えて』になっている(苦笑)。

<あらすじ>
ロッキーに越してきて半年がすぎたロビンソン一家。ジェニー(ヘザー・ラトレイ)も元気になった。そんな彼らの前にロッキーの冬が迫っていた。は野生生活の大先輩のブーマーじいさん(ジョージ・バック・フラワー)はロッキーの冬の厳しさを語ってきかせる。彼は、狼など食物を求めてさまようけものたちの危険性を強調したが、それが現実になった。鶏小屋が襲われる。やがてロッキーは雪に覆われる。そして冬の間の食料として貯蔵していた肉が夜のうちに狼に奪い去られ、スキップが食料を求めて猟に出なければならなくなる。
今度の話は狼相手の話。数々の災難が続いたが、一家の友人であり担当医師のマイクやブーマーなどの協力で、無事にきりぬけり春を迎える。

by ssm2438 | 2010-10-19 06:25
2010年 07月 18日

ヒマラヤ杉に降る雪(1999) ☆☆☆☆☆

f0009381_22205793.jpg監督:スコット・ヒックス
脚本:ロン・バス
    スコット・ヒックス
撮影:ロバート・リチャードソン
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード

出演:イーサン・ホーク/リーヴ・カーニー
    工藤夕貴/鈴木杏
    リック・ユーン
    マックス・フォン・シドー

        *        *        *

この映画、イーサン・ホークのせつなさがとてもいい。好きで好きでたまらない女が別の男と結婚・・という実にありがちなシチュエーションの映画なのだが、そのせつなさがいたいほど伝わる。ピーター・ウェアー『いまを生きる』といい、この映画といい、こういうみずみずしいタッチの主人公には彼はあっていると思う。
そしてスコット・ヒックスの演出がまたしみじみとしていい。スコット・ヒックスのなかではこの作品が一番好きだ。この人の映画って、前作の『シャイン』、このあとの『幸せのレシピ』にしても、がんばって生きてきた人の心にシップ薬をやるようなひんやりと心地がいいやさしさがあるんだよね。大好きな監督さんの一人だ。今回の映画も、まさにしんしんとふりつもる雪がイーサン・ホークの魂の熱い叫びを封じ込めてるような感じ。恋愛感情としてホットな部分を完全に覆い隠してる演出だからこそ、この映画が素敵なのだろう。それをフィルムに記録しているのが『モンタナの風に抱かれて』などのロバート・リチャードソン。彼の画面は清涼として素敵だ。
工藤夕貴も実にあってた。これ、公開当時工藤夕貴が主演してるえいが・・というイメージ売ってしまったがためにいまいち受けなかったとおもうのだが、“『シャイン』のスコット・ヒックス”というアプローチならもっとうけたのではなかろうか。

<あらすじ>
第二次世界大戦が終わって10年がたとうかというワシントン州(アメリカ西海岸の一番北)。サン・ピエドロ島で第一級殺人の裁判が開かれる。容疑者は日系人のカズオ。漁師のカールを殺した罪に問われているのだった。
傍聴席に座る新聞記者のイシュマエル(イーサン・ホーク)。彼は少年時代にカズオの妻・ハツエ(工藤夕貴)と愛し合う仲だったが、太平洋戦争が二人を引き裂きハツエはカズオと結婚。イシュマエルも戦争で片腕を失っていた。日系人に対する差別が渦巻く法廷で、カズオは孤立していた。しかし独自の調査でイシュマエルはカズオが無罪だという証拠にたどりつく。ハツエをいまだに愛している自分、自分を裏切って他の男と結婚した彼女への封印している憎しみ。良心と過去の傷がイシュマエルをいたばさみにする。
男と恋愛至上主義な心のメカニズムと、女の情況支配主義的な心のメカニズムのきしみを描いた心の痛い映画。女にはこの痛みはわからないんだろうなあって思った。

映画自体は法廷サスペンスにあたるのかもしれない。でも、そんなことはどうでもよくって、描かれているのはイーサン・ホークのかなわぬ愛だ。ああ、切ない。

by ssm2438 | 2010-07-18 21:54
2010年 07月 18日

狼は天使の匂い(1972) ☆☆

f0009381_137341.jpg監督:ルネ・クレマン
脚本:セバスチャン・ジャプリゾ
撮影:エドモン・リシャール
音楽:フランシス・レイ

出演:
ジャン=ルイ・トランティニャン (トニー/フロギー)
ロバート・ライアン (チャーリー)
レア・マッセリ (シュガー)
ティサ・ファロー (ペパー)
エマニュエル・ベアール(アイスを食べるソバカス少女)

       *        *        *

お話だけがつまらない映画。・・じゃあ全部ダメじゃん・・という人もいるだろう・・、しかし・・・。

しかし・・、見るべきところはいっぱいある映画である。
問題はこの御伽噺のスタイルをうけいれられるかどうか・・というところで見る人の分岐点が別れると思う。私はダメだ。よってお話には最初から最後までのめりこめなかった。映画の冒頭、『不思議の国のアリス』の作者、ルイス・キャロルの台詞の引用から始まる。映画も御伽噺なのである。

では「御伽噺とはなんなのか?」という問題が持ち上がってくる。普通の物語は、自然の摂理に従ってあるかそうな出来事やキャラクターを想像し、それを自然界の普通の法則のなかで展開していく。しかし御伽噺というのはその世界をつかさどるルールそのものを作者が作り上げることが出来る。なのでその世界は、金正日のように、作者が好きにできるのである。そうなると物語りはなんでもありの世界になってしまい私なんかは面白さを感じなくなってしまう。この映画も実はその傾倒の映画で、御伽噺が好きな人にとっては受け入れられガ、それが出来ない人にとってはつまらない映画になる。
普通の映画は、見ている人がその映画のなかの誰かに感情移入しつつ、その物語は自然の摂理に従って展開しているにしたがって、自分の感情移入したキャラクターがなんらか勝利をえるように期待できるものである。しかし、御伽噺の場合は、そのキャラクターが勝利するかどうかは、作者の気分次第できまるのである。ゆえに私は御伽噺が嫌いなわけだ。

映画は、ある少年の子ども時代の回想から始まる、その回想でおわる。

その少年は「友達をつくってきなさい」と母親に送り出され、見知らぬ街で、見知らぬ子供たちと接点を持とうとする。しかし最初のグループには拒否される。そのあとに接触したグループには、男が4人、女が2人がいて、彼らにその少年は歩み寄っていく。少年は、ビニールの網にいれたビー玉を「これ、あげるよ」というように仲間の和の中に入ろうとするが、その仲間のリーダーらしき男の子は、そのビニール袋をナイフで斬り、いくつものビー球が階段をはねて落ちていく。物語の最後では、その男の子は、リーダーの男の子と別れを惜しむように別れていく。
そこに何があったかは定かではないが、それは本編で語られているのだろう。そこでの構成メンバーとトランティニャンが合流する一味のメンバー構成が微妙に一緒なのだ。野球のボール持ってる男もいるし・・。そして最後に手を振りながら別れる二人の少年は、本物語の中でのジャン=ルイ・トランティニャンロバート・ライアンの行く末を暗示しているかのようにも思える。

<あらすじ>
写真家のトニー(ジャン・ルイ・トレンティニヤン)は、セスナ機を借りて撮影中に事故を起こし、その期待が群衆の群れに墜落、数多くの犠牲者をだした。その群衆の何人かはトニーに復讐を近い、彼を追い回していた。

パリから逃亡したトニーは、ニューヨークからモントリオールへ逃げた。その追っ手から逃げ延びるために別の一味に合流するトニー。一味のボス、チャーリー(ロバート・ライアン)で、その情婦シュガー(レア・マッサリ)、マットン(アルド・レイ)、リッツィオ(ジャン・ガバン)、パウルその妹ペッパー(ティサ・ファロー)がいた。
身を守るためにトニーは、その一味の一人一人の信頼関係を気付き、仲間に溶け込んでいく。
やがてチャーリーが計画している大仕事に誘われる。あるギャングの大親分が近く法廷で裁かれることになっているが、彼を有罪にする証人の女の子で誘拐するというのだ。彼女は成人女性ながら、13歳で知能の成長がとまっており、警察病院で保護されていた。
綿密に計画をたて進入した警察病院、しかし、彼女は自殺してすでにこの世の中には存在していなかった。
仲間が逮捕されるなか、ペッパーとともに味とにもどったトニーたちだが、警察の包囲網は迫る。ペッパーを逃がすと、トニーは味とにもどり、チャーリーとビー玉をかけて警察舞台にむけて発砲するのだった。

ただ・・、現実逃避のために、自分たちの法則で現実を空想に置き換えるそのやり方は・・オウム真理教と同じであり個人的には好きではないな。そんなスピリットがこの物語の根底にあるので多分私はこの映画があまり好きになれないのだと思う。

by ssm2438 | 2010-07-18 01:37 | ルネ・クレマン(1913)
2010年 07月 12日

栗色のマッドレー(1970) ☆☆

f0009381_21354473.jpg監督:ロジェ・カーヌ
脚本:パスカル・ジャルダン/ロジェ・カーヌ
撮影:ジョルジュ・バルスキー
音楽:フランシス・レイ

出演:
アラン・ドロン (ジュリアン)
ミレーユ・ダルク (アガート)
ジェーン・ダヴェンポート (栗色のマッドレー)

       *        *        *

ミレーユ・ダルク、綺麗!

ナタリー・ドロンと離婚したあとにアラン・ドロンが付き合いはじめたのがこのミレーユ・ダルク。当時j、ナタリー・ドロンと別れてどんな女とひっついたんだ??って思っていたが、ミレーユ・ダルクの美しさをみると納得させられた。実はこの映画しか彼女はみたことがなかったのですが、綺麗だった印象がやたらとのこっている。
映画のなかでは、アラン・ドロンと、ミレーユ・ダルクの関係のなかに黒人女性のマッドレーがはいってきて、その関係が崩れていく。私生活でのアラン・ドロンとナタリー・ドロンの私生活に割って入った自分をマッドレーに投影し、ナタリー・ドロンの立場を演じているミレーユ・ダルク。
実はこの作品の原案はミレーユ・ダルクであり、ミレーユ・エグローズのペンネームで書いた彼女の原作をロジェ・カーヌパスカル・ジャルダンが脚本としてまとめ上げたのはこの作品。
作品の性質上、ミレーユ・ダルクの自己肯定がかいまみられるような気がした。

画面も美しく、フランシス・レイの音楽も素敵だった。しかし余談だがモンサンミッシェルをこの映画ではじめて知った。とおい昔、まだ水野晴郎さんの水曜ロードショーであった。
今一度みてみたい映画のひとつである。

f0009381_21361528.jpg<あらすじ>
古美術品の収集家でバイヤーもあるジュリアン(アラン・ドロン)とアガート(ミレーユ・ダルク)は、歴史をしのばせる邸宅からは想像出来ない現代的な愛で固く結ばれていた。ジュリアンは彼女との生活に満足しながらも、夜毎、キャデラックを乗り廻し、ナイトクラブに出没していた。アガートは、そんな彼を責めるるどころか、逆に浮気をすすめるのである。たとえ、どんな女と遊んでも、最後には必ず、彼が自分のところに戻ってくると信じていたからである。
しかし、マッドレー(ジェーン・ダヴェンポート)の場合は違っていた。カモシカのように美しい黒人女性にジュリアンもアガートも魅せられた。やがて、マットレーと肉体関係を打ったジュリアンを見てアガートは彼のいままでの浮気とは違うと直感した。敗北感を感じるアガートは耐えきれずついに姿を消した。
しかし残されたジュリアンもアガートを忘れることが出来ない。そんなジュリアンでは満足できないマッドレーもまた彼の前から姿を消した。
再び再会したジュリアンとアガート。元通りの二人だけの生活を取り戻し、幸福なはずのに、なぜかもう一つ何かが欠けてしまっていた。それはマッドレーのいない空虚感だった。そして、いつしかまたマッドレーが、二人の生活に入り込んできた。3人は仲良く暮らしさとさ・・・。

ミレーユ・ダルク、彼女の一番有名な写真がこれだろう(↓)。
f0009381_2139045.jpg


by ssm2438 | 2010-07-12 21:41
2010年 06月 23日

朝やけの詩(1973) ☆

f0009381_19264677.jpg監督:熊井啓
脚本:山内久/桂明子/熊井啓
撮影:岡崎宏三
音楽:松村禎三

出演:
関根恵子(春子)/仲代達矢(作蔵)/北大路欣也(朝夫)

       *        *        *

うむむむむ、申し訳ないがかなり退屈。その退屈な映画のなかで関根恵子だけがまばゆいまかりに美しい。

しかし、やっぱり都会生活の関根恵子というイメージがあり、この映画だとちょっと場違いなきがしないでもない。そうはいっても、ジーパン姿で、ノーブラでシャツを着てる関根恵子は他のどの作品よりも健康的で美しい。映画の冒頭、森の湖での水浴シーンも美しく撮られていて画面はとても綺麗だ。

物語は、日本アルプスの大自然を背景にして、破壊されてゆく原生林、緑の広野、離散する開拓村の人々を描いている。開発が進むにつれて、そちらに加担する村人もでてきて、村の中は分裂状態。結局開発業者が自然を犯してくという流れの話だが、村の人たちにも、映画の趣旨にもあまり賛同できないかな。たんに開発業者を敵にまわしたやっかみ映画にしてしまった感がぬぐえない。仲代達也の演じる作蔵も、村に残ろうとする人たちも、見ていてほとんど共感できない。カメラはいいのだけど、熊井啓の見せ方は実にたいくつで、関根恵子がでてなければ誰も最後までみないんじゃないだろうか。

<あらすじ>
日本アルプスを展望する信濃高原。春子(関根恵子)は、この開拓村で牧場を夢みる一徹な父親・作蔵(仲代達矢)を手伝い、貧困に負けて逃げた母親・八重子に代り、二人の弟妹の面倒をみていた。
アポロ観光社長・神山は、地元の有力者稲城と結託し、この高原地帯にレジャーランドの建設を奨めていく。春子の恋人・朝夫(北大路欣也)は、稲城に反感を抱いたが、自分の父が稲城の死んだ兄であるということを知り、「開拓村に手をつけない」という条件でアポロ観光の現場主任を引き受けた。しかし朝雄の言葉など無視され、アポロ観光の測量が開始された。激怒した作蔵は測量を妨害したため、警察に逮捕された。この事件を契機に村は、開発賛成派と反対派の二つに分断されていった。
数百万円の立退き料が村人に渡された。ただ一人作蔵だけが頑なに、アポロ側との交渉を拒否していた。そんなある日、作蔵の馬を初め、他の家の家畜も原因不明のまま死んでしまった。アポロ観光の現場事務所が何者かに放火され、その嫌疑が作蔵にかかった。しかし事務所に放火したのは、神山たちで、作蔵をおとししれる謀略だった。作蔵は証拠不充分で釈放されたが、村を出る決心をする。
幼ない弟妹は八重子が引きとることになった。作蔵は春子を朝夫のもとに送ると、村の最後を見届けるために森にもどっていく。作蔵のまえで轟音をたててダイナマイトが爆発、山の自然が汚されていく。

by ssm2438 | 2010-06-23 19:23
2010年 06月 15日

次郎物語(1987) ☆☆☆☆

f0009381_0433863.jpg監督:森川時久
原作:下村湖人
脚本:井手雅人
撮影:山崎善弘
音楽:さだまさし/渡辺俊幸

出演:
加藤剛 (次郎の父)
高橋恵子 (次郎の母)
泉ピン子 (次郎の育ての親・お浜)
伊勢将人 (次郎)

       *        *        *

さだまさしの「男は大きな河になれ」が泣ける。すっごく力を与えてくれた歌だった。

この映画が放映された年に私は東京から故郷の岡山県久米郡中央町(今の美咲町)まで歩いてかえったことがある。しかし最初の1週間は悲惨だった。さすがに歩きなれてないのに突然そんなことをはじめたものだがかかとは悲鳴をあげるが、足の裏は水ぶくれで血まみれ。ついに小田原で医者にかかった。そこで予定外に2日も休み、そこからなんとか歯を食いしばって熱海まで歩いたがもうそこでも2日休んだ。その熱海での二日目の午後、なんぞ時間でもつぶすことはないかと映画館にはいった。そこでみたのがこの『次郎物語』。泣けたね。映画も良かったが、さだまさしのモルダウを編曲した『男は大きな河になれ』の歌詞が実に沁み込んだ。

なぜこの映画があんなに良かったのだろうと考えた。さして特別な、映画的なイベントがあるわけでもない。でも良い。で、一つの答えが出た。それは・・登場人物一人一人が自分に誠実だからなのだ。人生の中には思い通りにいかないことも多い。でも、自分への誠実さをすててまで楽をしたいとは考えない。自分への誠実さを誰もが大事にしている。それがいいんだろうな。
     
<あらすじ>
次郎は、母親のお民(高橋恵子)が病弱だったためにお浜(泉ピン子)の家に預けられて幼少の時代をすごした。そんなお民がほぼ回復し、次郎を実家に引き取ることになったが、次郎の実家本田家は、古くから続いた由緒正しい家柄で、士族の格式を守り子供たちの躾も厳しかった。そんな本田家に合わない次郎はたびたびお浜のうちに逃げ帰っては連れ戻された。自分に懐いてくれない次郎がお浜に懐いているのがいたたまれないお民はお浜に辛らつにあったった。お浜、次郎がほんとの母ではなく自分に懐いていることに罪悪感をかんじていた。
10歳になった次郎(伊勢将人)は、ようやく本田家の毎日に馴染むようになったが、その頃から、悪いことが続くようになった。次郎を可愛がってくれた祖父、恭亮が死に、その看病疲れからお民も発病、そして本田家の破産。一家は町に移り慣れない商売を始めたが、次郎は正木一家でお民の看病をすることになった。同じ頃、お浜の一家も夜逃げ同然に故郷を離れ、消息が知れなくなっていた。お民の病は重かったが、一所懸命看病する次郎にお民もうちとけ、二人の間にはようやく母と子の愛情が通じ合うのだった。夏になり、浮立の踊りに参加する次郎の衣裳を縫いあげ送り出しすお民。そんなお民の様態の悪化をききつけたお浜がお民のもとに駈けつけたてきた。お浜にこれまでの非礼を詫びるお民。「男の子は、ただ愛してやればいいんやね」って言う言葉が泣ける。浮立連の中で踊っていた次郎だが、そのころお民の息をひきとった。


そして流れるエンディング。

男は大きな河になれ ~モルダウより~
作詞:さだまさし/作曲:スメタナ・補作曲:さだまさし

せつないことがあったなら 大きく叫んで雲を呼べ
それでも雲でおおえぬほどの 男は大きな宇宙(そら)になれ
嬉しい時は腹から笑え 笑えば嬉しい花が咲く
心の花でうすめてみせろ 女は優しい風になれ

苦しい時ほど意地をはれ 目をそらさずに雨を見ろ
泣かずに雨を集めてそして 男は大きな河になれ
寂しいのは一人だけじゃない 歩けば転ぶ怪我もする
そこで捨てたら負けになる 男は大きな夢になれ

喜びは人と分かち合え 悲しみは人に預けるな
許せる限り受け止めてやれ 女は大きな海になれ
寂しいのは一人だけじゃない 歩けば転ぶ怪我もする
泣かずに雨を集めてそして 男は大きな河になれ 男は大きな河になれ


この歌詞が、そのあと歩いている間どれだけ勇気をあたえてくれたことか・・。
ふと気付くとこの歌詞をくちづさんでいた。

苦しい時ほど意地をはれ 目をそらさずに雨を見ろ
泣かずに雨を集めてそして 男は大きな河になれ ・・・である。
だあああああああ、今思い出しても涙が出てくる。

by ssm2438 | 2010-06-15 00:45
2010年 06月 02日

ダンス・ウィズ・ウルブズ(1990) ☆☆☆☆

f0009381_20382250.jpg監督:ケヴィン・コスナー
脚本:マイケル・ブレイク
撮影:ディーン・セムラー
音楽:ジョン・バリー

出演:
ケヴィン・コスナー (ジョン・ダンバー/狼と踊る男)
メアリー・マクドネル (拳を握って立つ女)
グレアム・グリーン (蹴る鳥)

        *        *        *

滅んでいくものの哀愁を見よ、怒涛のタタンカ狩りは最後の神聖な祭りか・・・。


きわめて良心的な異文化交流ものである。ただ、インディアンたちの文化力が、西洋文明には及ばなかったこもの事実であり、力ないものは敗走していくしかないのも事実。古の文化と共に滅びるも一つの選択しだし、西洋文明の中に溶け込むのも生きるための選択だし、非情だが本人たちの納得のいくように終わったのだろう。

この映画を見てつくづく感心するのが、アメリカ人のコミュニケーション能力。これは英会話をやっててもおもうのだけど、彼らの世界ではヒスパニック系がいたり、イタリア系がいたりで、アメリカ社会のなかでも言葉が通じない人が社会の中にいる。それでもそこにコミュニケーションがある。言葉の壁がある人たちと話そうとする意志を感じてた。この映画も、そのコミュニケーション力を感じるんだなあ。
『愛と哀しみの旅路』とかでも、アメリカに移住した日本人のタムリン・トミタデニス・クエイドのラブストーリーだが、やっぱりアメリカ人は積極的に日本人の家族とせっしようとしてくれる。反対に日本人をみると、そこまで「伝えたい」と思って行動するシーンはあまりない。「伝わらなければいいや」で終わってしまう。本作でも、タタンカが来ることを教えようとしてバッファローのまねをするケビン・コスナーがいるが、ああいう「カッコなんか考えない、伝えるんだ!」って意志力が実にいい。
ただ、これは日本人が分ってもらうことに貪欲ではないというわけではないと思う。多分、日本人は全部分ってほしい、それが完結してはじめて理解しあえると思っているのだろう。でもアメリカ人は、「そんなの他民族なんだから完全に分かり合えることはない。でも部分だけでも分り合おう」と考えるから、積極的にコミュニケーションができるのだろうって思った。

映画としてはそれほどインパクトのあったアカデミー賞受賞作品か・・?と問われれば、私にとってはどっちかというと印象の薄いほうの作品なのだけど、ケビン・コスナーいい仕事をしたなって思えた。個人的にはそのあとラジー賞を連打された『ポストマン』のほうが好きなのだけど(苦笑)。

<あらすじ>
1863年、南北戦争。やけくそな自殺劇から北軍を勝利にみちびいてしまった北軍中尉ジョン・ダンバー(ケヴィン・コスナー)は殊勲者として勤務地を選ぶ権利を与えられた。彼が選んだのはサウスダコタのセッジウィック砦。見渡す限りの荒野であり、砦とは名ばかりで、廃屋でぽつんとあるだけだった。
インディアンとコンタクトを取りたいと望んでいたダンバーは、軍服を来て星条旗を掲げてインディアンの集落をめざした。途中で1人の目の青いインディアン女性((メアリー・マクドネル))が倒れているのを助け、集落まで送り届けた。この事件がきっかけとなり、数日後数人のインディアンがダンバーの砦に返礼にやってきた。ダンバーは精一杯にもてなし、やがて、彼らは頻繁に行き来するようになる。
ダンバーが助けた“女拳を握って立つ女”(メアリー・マクドネル)は、幼い頃に拾われてスー族に育てられた白人女性だった。彼女を通訳に少しづつインディアンとのコミュニケーションをとっていくダンバー。ある夜、バッファローの大軍が砦の傍らを走り抜けてゆくのを目撃したダンバーは、シスコを駆って蹴る鳥たちにいちはやく知らせた。翌日、ダンバーも参加してバッファロー狩りが行われる。それは、毛皮目当ての白人の狩猟とは違い、神聖で心躍る儀式であり、ダンバーは、これまで味わったことのなかった調和と安らぎを覚える。
やがてダンバーは、“女拳を握って立つ女”と結婚、集落に自分のテントを持つようになり、“狼と踊る男”というインディアン名前をもらった。
冬が近づき、スー族とともに冬ごもりの土地へ移動する決意をしたダンバーだったが、克明に綴っていた日記が騎兵隊に見つかり、ダンバーは反逆罪に問われ、処刑を目前にした時。そんなダンバーを助けるためにスー族の勇者たちが急襲、彼は救われた。しかし、インディアンを追い立てる合衆国軍はそこまで迫っていた。インディアンたちは、ダンバーが同行しないことを提案、ダンバーは“拳を握って立つ女”とともに一族を離れ彼らを見送った。

by ssm2438 | 2010-06-02 20:39