西澤 晋 の 映画日記

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2009年 11月 08日

テス(1979) ☆☆☆☆☆

f0009381_954890.jpg監督:ロマン・ポランスキー
原作:トーマス・ハーディ
脚本:ジェラール・ブラッシュ
    ロマン・ポランスキー
    ジョン・ブラウンジョン
撮影:ギスラン・クロケ
    ジェフリー・アンスワース
音楽:フィリップ・サルド

出演:ナスターシャ・キンスキー
    ピーター・ファース
    リー・ローソン

        *        *        *

この映画、原作は文豪トーマス・ハーディ『ダーバヴィル家のテス』。フランスのセザール賞は作品賞等、いっぱい取ってます。さすがに文芸大作なのでみてて多少の退屈さはあるのだけど、画面は圧倒的にすばらしい。ロマン・ポランスキーはこの映画ではめずらしく背景をいれこんだ絵作りをしている。ほとんど標準~弱望遠なんじゃないかな。ドラマの背景となる環境をすごくドラマッチックに撮りこんでいて、そのなかで芝居をさせているかんじ。私がこの映画をはじめてみたのは、20年くらい前で、深夜のテレビをつけたらたまたまやってて、そのときなんちゅう高尚な画面の映画だなあってついつい最後までみてしまった。で、あとで調べたら『テス』って映画だった。
撮影のギスラン・クロケジェフリー・アンスワースはどこをどう担当したのか分らないが、二人とも画面の質てきには恐ろしく高尚な人たち。撮影賞の獲得だけなら アカデミー賞撮影賞ゴールデングローブ撮影賞英国アカデミー撮影賞セザール撮影賞ニューヨーク映画批評家協会賞撮影賞ロサンゼルス映画批評家協会撮影賞・・と名だたる映画祭の撮影賞はそうなめ。

ギスラン・クロケをはじめてみたのはこの映画だったかもしれないが、そのごウディ・アレンの『愛と死』をみてるときに「このひと誰だろう、いい画面とるなあ」って感動してあとで名前をしらべてみたら『テス』の撮影監督さんだった。ああ、なるほど、それなら良いわけだ・・って納得したよ。
ジェフリー・アンスワース『2001年宇宙の旅』が一番有名かな。『オリエント急行殺人事件』『キャバレー』『スーパーマン』『遠すぎた橋』『未来惑星ザルドス』など。

<あらすじ>
19世紀の末、イギリスのドーセット地方にある村マーロット。なまけ者の行商人ジョン・ダービフィールド(ジョン・コリン)は、村の牧師からダービフィールド家はノルマンディから渡来した貴族ダーバヴィルの子孫であることを告げた。ジョンからダーバヴィルの子孫であると聞かされた妻(ローズマリー・マーティン)は、早速娘のテス(ナスターシャ・キンスキー)をダーバヴィルの邸に送りこみ、金銭的な援助を受けようと考えた。
家族の為にダーバヴィル家を訪れたテスは、息子アレック(リー・ローソン)に犯せれ彼の情婦になった。両親のもとに戻ったテスは、やがてアレックの子供を産むが、わずか数週間でその子は死んだ。
新しい生活をはじめようと、ある酪農場で働くことにしたテスは牧師の息子エンジェル(ピーター・ファース)に心を惹かれた。彼もテスに恋心を抱き、ある日、彼は正式に結婚を申し込んだ。式を終えハネムーンを過ごすためにやってきた別荘にやってくる。乳白色の湯に手を入れて二人で洗っていると
「どれが自分のてだか分らないな」とエンジェル、

「全部あなたのものよ」とテス。

テスって不運な人生を歩いてきてるけど、自尊心を失わない人。そして潔い人。覚悟を決めたらどこまでも・・の人。魂がとても美しいんだ。

テスはアレックとの過去の一件をエンジェルに告白すると、かれは絶望しテスに別れを告げブラジルの農場に発っていった。絶望にくれるテスは、また農仕事に戻った。そんなある日、アレックがテスを求めてやって来た。彼の申し出を拒むテス。しかしジョンも死に、家賃がはらえず家を追い出され、路頭に迷う家族。テスはアレックのモノになることを受け入れた。
時がたちブラジルから戻ったエンジェルは、テスの居所を探していた。そこでエンジェルが会ったテスは着飾った情婦になりさがっていた。肩を落として立ち去るエンジェル。出発まぎわの列車に乗り込んだエンジェルのまえに姿を現すテス。そのころアレックスの別荘では彼の死体が発見されていた・・・。

とにかくこの映画は美しい。
テスを演じているナスターシャ・キンスキーが美しい。画面が美しい。そしてなによりテスの魂が美しい。

by ssm2438 | 2009-11-08 03:51
2009年 10月 12日

ドア・イン・ザ・フロア(2004) ☆☆☆

f0009381_140456.jpg監督:トッド・ウィリアムズ
原作:ジョン・アーヴィング、
    『未亡人の一年』(新潮社刊)
脚本:トッド・ウィリアムズ
撮影:テリー・ステイシー
音楽:マーセロ・ザーヴォス

出演:ジェフ・ブリッジス
    キム・ベイシンガー
    ジョン・フォスター
    エル・ファニング
    ミミ・ロジャース

        *        *        *

不思議なことなのだが、実はジョン・アーヴィングの原作で映画になったものは全部みていた。『ガープの世界』、『ホテル・ニューハンプシャー』、『サイモン・バーチ』、『サイダーハウス・ルール』、そしてこの『ドア・イン・ザ・フロア』。特にアーヴィングが好きというわけではないのだが、この人の「沁み込ませ方」は圧倒的に上手いと思う。そしてアーヴィングの特徴は、彼の描く物語はいつも「子宮」の臭いがする。そしてアーヴィングの書く話はいつも、深い悲しみがあり、それでも前向きな姿勢がある。

この物語は、子供を交通事故で失った夫婦の再生へむけた歩みをきりとった映画。家の廊下にはなくなった二人の男の子の写真が額に入れて飾ってある。子供の頃から彼らが死んだ17才と15才の時までの写真。妻はそれを見て毎日をすごすだけ。二人を失ってから生んだ娘はベビーシッター任せ。失意のどん底からまだ這い上がれない妻に対して夫がおこなった最後の荒療治。それがこの物語。夫は妻に仮の息子を与えるために、性格は次男に、面影は長男に似た男の子をアシスタントとして雇った。
アーヴィングの話には近親相姦の構図というのはよく出て来るそうだが、この物語ではなかった。しかし、この男の子を通しての仮想近親相姦と見ることはできるかもしれない。

タイトルの「ドア・イン・ザ・フロア」とは、作家である主人公が書いた絵本のタイトル。そのドアの下にあるものは・・女性にとっては、それはこの世界の下にたえず存在するが、見ないことにしている恐怖・・? 男性にとっては、それは現実の世界・・? そしてそのドアとはヴァギナのこと・・? いろんな解釈が出来るし、多分それはひとつの解釈にとどまることはないだろう。いろいろ含みのある映画だ。

トータルな印象としては、それでも他のアーヴィングの作品よりはなんとなくさらさらしてたかな・・という気がした。そのさらさら感がきもちいい。

<あらすじ>
交通事故で二人の息子(17才のトムと15才のティム)を失ったマリアン・コール(キム・ベイシンガー)にはその後に生まれたルーシー(エル・ファニング)もいるのだが、彼女にはほとんど感心をしめせないくらい虚無感に飲み込まれている。ルーシーの世話は雇ったベビーシッターの女の子が担当していた。そんな妻を虚無感からなんとか救い出しと思いたった夫のテッド・コール(ジェフ・ブリッジズ)は、長男のトムによく似た小説家志望の高校生エディ(ジョン・フォスター)をアシスタントとしてひと夏雇うことをきめ、彼との時間を持たせるために別居を申し出る。彼が始めてロングアイランドの家を訪れたときも、自分で出向かず、マリアンを迎えにいかせた。・・・多分その意図は、どこかの時点でマリアンも感づいていたのだろう。

そんなテッドは、仕事に必要なモデルとしてヴォーン婦人(ミミ・ロジャース)をやとい、彼女のヌードを描いている。もちろん情事もかさねているようだ。彼は小説家であると同時に、挿絵を自分で描いているのだ。二コール・キッドマン以前のトム・クルーズの奥さんだった人だが、体形が崩れかけた熟女であり、匂いたつ感じだ。

事情は知らないエディだが、マリアンの美しさに魅了され、彼女を想いながらオナニーにふける。しかしそのシーンをマリアンにみられてしまう。だからといって騒ぎ立てるわけでもなく、彼が自分を想いオナニーをすることを受け入れるマリアン。そして二人の息子の写真をみながらつぶやく。
「二人はしてたかしら? ・・トムは女の子に人気があったらしてたかもしれないわね。ティムは・・シャイだったからしてないわね。 男の子ってしたいものでしょ?」
「はい。死ぬ前には・・」
ブラウスのボタンをはずしていくマリアン。その意図を理解し自分も服をぬぐエディ。マリアンはエディの手をとり自分の股間を触らせるが、エディは興奮のあまりそれだけでイってしまったようだ。ベットにふたり寝そべり、それだけでもう満足してるというエディを、やさしく、きちん最後まで完了させあげるマリアン。

その夏エディはマリアンと60回セックスをしたという。
そして、マリアンは二人の写真とネガをもって出て行った。


この映画をみて、思い立ったのが、その前にみた『恋愛症候群』のなかにある言葉。

「誰も自分の感情にはさかられないのよ・・」

マリアンは娘を捨てて、二人の写真だけとネガだけをもって消えたのだ。夫のテッドは「俺の息子たちでもあるんだぞ、半分は残していってもいいだろう。ルーシーはどうなる。親権を放棄するのか?」
彼女の心の傷は、理性など入り込むスキもないのだ。そのくらい壊れている。
こういうひとつひとつの言葉と描写が、見てる人の心にじわああああああっと沁み込む、凍えるのよに冷たく、美しい映画だ。

by ssm2438 | 2009-10-12 14:03
2009年 10月 06日

青い珊瑚礁(1980) ☆☆

f0009381_1123262.jpg監督:ランダル・クレイザー
脚本:ダグラス・デイ・スチュワート
撮影:ネストール・アルメンドロス
音楽:ベイジル・ポールドゥリス

出演
ブルック・シールズ (エメライン)
クリストファー・アトキンズ (リチャード)

        *        *        *

ブルック・シールズの美しさと、ネストール・アルメンドロスの撮った南海の島の美しさを鑑賞する映画。ネストール・アルメンドロスは『天国の日々』などで露骨なフィルターとかを使わない玄人好みの美しさを撮る人。お話はたいしたことないのだが、「好きな女のこと無人島にながされたい」というシンプルな夢を具現化してくれた映画。ずっと二人でいられたらいいのにね・・。
男と女が無人島に流されて・・って話はよくあるが、これもその一つ。個人的にはオルネラ・ムーティ『二人だけの恋の島』が好き。というか、ムーティが好きってだけだけど。

<あらすじ>
f0009381_1201890.jpg南太平洋の広大な海上を一隻の帆船が火災に見舞われ、父とはぐれた8歳のリチャード(グレン・コーハン)は従妹で7歳のエミリーン(エルバ・ジョゼフスン)と料理番のパディ(レオ・マッカーン)と脱出。目覚めてみると、目に別天地のような美しい島影がうつった。
その島は無人島で、過去に漂流してきたらしい人々のガイコツと酒だるがころがっていた。2人はパディから毒のある木の実の見分け方、縄の結び方など生きるために必要なことを教わるが、ある朝、そのパディが事故で死んでしまう。
それから数年後。女らしく成長したエミリーン(ブルック・シールズ)と青年になったリチャード(クリストファー・アトキンズ)は、エデンの園のアダムとイブのような毎日を送っていた。二人は初めて愛を意識し結ばれた。そしてエミリーンは妊娠し、苦しい出産を終え、子どもとの新しい生活がはじまった。それから間もなくして、息子たちを探しつづけていたリチャードの父アーサーの捜索船が島にやって来た。しかし2人はその船に背を向けた・・・。

by ssm2438 | 2009-10-06 00:57 | N・アルメンドロス(1930)
2009年 09月 29日

ストーカー(1979) ☆☆☆

f0009381_1191062.jpg監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:アルカージー・ストルガツキー
    ボリス・ストルガツキー
撮影:アレクサンドル・クニャジンスキー
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ

出演:アレクサンドル・カイダノフスキー
    アナトリー・ソロニーツィン
    アリーサ・フレインドリフ

        *        *        *

実はタルコフスキーの映画の中でかなり好きな映画である。

もとちろんタルコフスキーの映画なので誰も明確な答えなどだせないだろう。本人さえ出せてるかどうか疑問である。そのときはそれでいいと持っていたが、後になって考えると「あそこはああするべきじゃなかった」「あそこはこうするべきだった」などという箇所はかならず出てくるもであって、完成した映画に作り手が100%満足することなどありえないものだし・・。
なのでこれはあくまで私のかってな解釈。かなりシンプルなのできっともっと真剣に考えておられる方ならいろいろいいたいこともあるかもしれませんが、ま、私の戯言なので・・。

f0009381_1243422.jpg「ストーカー」とは、別れた女をつけまわす男のことではありません。この映画の「ストーカー」は、ゾーンと呼ばれる立ち入り禁止区域があり、その地域に足を踏み入れることをゆるされた道案内人のこと。誰にゆるされたかといえば、多分ゾーンにだろう。
ゾーンの奥地には、そこに行けばどんな望みをかなえられるという不思議な部屋があるという。政府はその地域に軍隊を送ったが、だれも生還しなかった。そしてその地域は立ち入り禁止区域になっていた。そこに二人の男がストーカーの男をたずねてくるところから物語りは始まる。その二人の男とは、ひとりが学者、一人は作家であった。

いくつか問題点、思考ポイントを整理してみました。今後見る人の参考になればよいのだが・・。

◇そもそもその人たちは(あるいはどの人でもいいのだが)、人はいったい何を望んでいるのか?

f0009381_1251931.jpg普通の人間は、自分が望んでいることはいくつもあり、どれが一番だなんてなかなか決定付けられない。ましては、ホントはそれを心が望んでいたとしても、理性がどう判断するかは微妙な問題。つまり・・、このゾーンの設定がどういう設定なのかはかなりアバウトなわけだ。ただ、もし、この物語の設定を鵜呑みにするのなら、ゾーンの中心部にあるといわれるその部屋に行くまでに「自分がなにをのぞんでいるのか?」ということを明確に整理しておく必要があのかもしれない。・・・しかし、それが可能な人間がはたしているのだろうか?


◇物語の初めと終わりで何か違ったことはあったか?

f0009381_1254715.jpg物語はその二人の男をストーカーの男が案内してゾーンのその場所へと案内していく。この二人が現れる前と、彼らがゾーンから帰って来た後では、どんな変化が起きたのか? つまり、それがソーンに行った人の願いということになるのではないだろうか・・(あくまで私の推測ですか)。・・では、なにが起きたのか? 

彼らがゾーンに向かう前=「列車の揺れで水のはいったコップが動いた」
彼らがソーンから帰った後=「少年の念力(?)で水のはいったコップが動いた」

◇ゾーンの中の進み方

ストーカーは、ナット(だったかな)に白いリボンかハンカチのようなものをつけて、それを投げ、その落ちたところに進みます。でも、その行為はいったい何? ちなみにそのコースを外れると・・・なにやら行けないような雰囲気におちいるみたいです。
「ストーカー」に関する記事をネットであら捜ししてると「あれは卵子にむかう精子にみえる」といった発言がありました。おお、確かにそうかも・・・。しかし、卵子は精子一人しか受け付けないものだけど・・、どうなるんだ??

f0009381_1273641.jpg3人はその部屋の入り口にたどり着きます。しかしその一人は爆弾をもっていて、そこを破壊するために来たと言います。もし邪悪な心を持った人がここを訪れて、彼の望みが叶うようならそれは世界の滅亡をいみする。ここは破壊したほうがいいというのが彼の考えでした。ストーカーの男はそれを止めます。
「俺にはここしかない、これが壊されたら、自分の存在価値がなくなってしまう」
結局3人は何もしないまま・・・帰ったのでしょう(帰りに段取りは描かれていない)。


そして最後に水の入ったコップを動かすストーカーの男の子供のカット。

誰が、何を望み、どうなったのでしょう・・・。
それは皆さんが勝手に考えてくださいって映画。


そういう私は、人の<進化>を肯定したいかな・・・って思った。
誰かにとって都合のいいこととか、都合の悪いこととか、その人の望むことであって、人の、あるいは生命の根本的な望みというのは・・、進化かなって。

ま、これはあくまで私の解釈ですが・・・。

by ssm2438 | 2009-09-29 01:29 | A・タルコフスキー(1932)
2009年 09月 27日

鏡(1974) ☆☆☆

f0009381_2522158.jpg監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:アレクサンドル・ミシャーリン
    アンドレイ・タルコフスキー
撮影:ゲオルギー・レルベルグ
音楽:エドゥアルド・アルテミエフ

出演:マルガリータ・テレホワ
    オレグ・ヤンコフスキー

        *        *        *

まったく・・・意味不明映画である。それでなくても睡魔を誘うとよく言われる(実はわたしは全然ねむくなったことおがないのだが世間ではそうらしい)タルコフスキーのなかで、もっともわけの分らない映画である。わけの分らないところは私も同感である。

実はこの映画、私がはじめて買ったDVDであった。よりにもよってよくこんなわけの分らないものを買ったものだと思う。そしてそのご3~4年は放置してからなんとなく見た映画、もっとも始めてみたのは〇〇ロードショーで、そのときの解説の人はだれだったか・・、忘れたが一番基本的なことを教えてくれていた。
「この映画を判りづらくしているひとつの原因は、一人の人が二つの役を演じているからだ。それも二人」・・だそうだ。・・ほら、もう判らない(苦笑)。

この映画現実の世界で<妻と息子><昔の母と子供の頃の自分>を同じ女性と子役がやっているのだ。・・ほら、これでもまだ判らない。なんでこんなことをしたのか・・というところがポイント。

f0009381_3201186.jpgその鍵を私はあるアメリカのポルノ映画に発見した。
ポール・トーマスという監督がとった『シークレット・パーティ』という映画だ。この映画の主人公は既に結婚して妻(ジュリア・アン)もいるが、いつもあこがれの女性の夢をみる。ビーチを歩いていると向こうからシースルーのなかいドレスをきたスタイルとのよさそうな、美しそうな若い女性がこちらに歩いてくる。かなり近づくのだがいつも彼女の顔は確認できない。そんな彼がホームパーティをやり家のそこらウ中でエッチをしている人がいる。そんなホームパーティもおわって妻とのエッチ。妻が彼のものを咥える。結合してピストン運動し、フィニッシュは顔射をしたいと強引に彼女の顔を引き寄せるが拒否される。そんな妻がしばらく出張で家をあけることになると、友達のホームパーティに行く主人公、そこでまたエッチをするが、やっぱり彼の欲求はみたされない。実はそのなかには妻も仮面をつけて参加してたりもするが・・これはあまり関係がない。主張(嘘)からかってきた妻が帰ってきて、へたってる主人公をみるとやさしくなぐさめて、フェラチオをしてくれる。のときいあのイメージの人がだんだんと近づいてくる。その女性とは・・・シースルーの衣をまとったその向こうには美しい裸体がみえる。主人公の男は妻(ジュリア・アン)の顔に射精する。そしてビーチの女をカメラが足元からパンアップしていくと・・・・、自分をみおろす母の顔があった。

・・この映画をみたとき、すげえと思った。
所詮は男の理想の女性は母なのだ。多少不満があったとしても、それを後天的にモディファイドしていったものであって、所詮は母親ベースでしかない。そして男は母のように愛してくれる女を求めているものだ。この赤裸々な暴露をしたポール・トーマスはえらいと思った。


・・・で、話をタルコフスキーの『鏡』にもどすが、やはり彼も妻も子供もあるのだろうが、その妻には母親を重ねてみているのだろう。でもそれは決して重なることのないイメージ。
男が女を愛するのは、その女自身をあいしているわけではない。男が愛しているのは、自分の中にある理想の女性=母、もしくは母からの進化系のなにか。そして自分の理想・母をその女に投影して、もしかしたらこの人が母になってくれるかもしれない・・と期待している間は夢をみられる生き物なのだ。
その女が、きっと自分の理想なのだと期待できるときはその女を愛していると思うのだが、その期待が消え去ると愛は消える。
(※実はそれもちょっとちがうのだが(苦笑)。男も場合は女とそんなことで別れたとしても「もしかしたら・・接し方が違えば彼女こそが・・その人なのかもしれない」と勘違いしなおしたりする)

この『鏡』という映画は、たぶんそういうことをベースにして作られた映画なのだろう・・と私は思う。でも、それを露骨にはかけないので、母の回想とか、自分のもっている母のイメージを今の妻に重ねているって映画になったのだと思う。
タルコフスキーはテレ屋さんなのだ。

・・あくまで私の解釈です。
この映画は10人いたら10人なりの解釈ができるだろうし、そのどれもが完全に正しいということはない映画なので、あまり真剣に考えずに映像ネタ映画としてみておけばいいのでは・・。

by ssm2438 | 2009-09-27 03:35 | A・タルコフスキー(1932)
2009年 08月 13日

夏に抱かれて(1987) ☆☆

f0009381_1475486.jpg監督:ロベール・アンリコ
原作:フランソワーズ・サガン
脚本:ロベール・アンリコ
    ジャン・オーランシュ
    ディディエ・ドゥコワン
撮影:フランソワ・カトンネ
音楽:フィリップ・サルド

出演:ナタリー・バイ
    クリストフ・マラヴォワ
    ピエール・アルディティ

        *        *        *

ロベール・アンリコの映画はフランス映画なのになぜだか見やすい。すうう~~~~っと心に不自然なく入ってくる。本質的に映画のコマの流れを知っている人なのではないかと勝手に思い込んでいるのだが・・。

ただ・・・、物語としてはきわめて普通の出来。悪くはないけど、それほど面白くもないというところか。個人的にはナタリー・バイを見たさにこのVHSを買ったのだが、同時期に買ったフランソワ・トリュフォー『緑色の部屋』の彼女のほうがいい。この映画のナタリー・バイからはほとんど恋愛力が感じられないというか・・、男からは求められているのだろうが、彼女のほうはどこまで好きという感情をもっているのか疑問、要するに誰も好きに見えないところが恋愛映画として盛り上がりにかけるとこかもしれない。

1942年ドイツ占領かのフランス。ヨーロッパのユダヤ人はゲシュタポの秘密警察によって捕らえられている時代。アリス(ナタリー・バイ)とジェローム(ピエール・アルディティ)は彼の幼友達シャルル(クリストフ・マラヴォワ)のもとを突然に訪れる。ドイツ支配への抵抗活動に加わっている二人は、ユダヤ人を国外に脱出させるための一時の避難場所としてシャルルの家を利用しようとしていた。
シャルルはその地区に自営の靴工場をもっており、地域の人々の雇用を支えていたが、妻は別の男とアメリカに逃避行。しかし悲壮感は微塵もなく、会社の女の子とよろしくやっているのん気者で、社員からも好かれていた。
ジェロームの突然の訪問を歓迎するシャルルはアリスに惹かれていく。ジェロームはわざとシャルルとアリスとの時間をつくっているようにも感じられる。そんなアリスもジェロームとは違って陽気でのびのびとしたシャルルに心の安らぎを感じ始めている。
ある日ジェロームは断りもなくユダヤ人一家をシャルルの家に連れてくる。初めてムッとするシャルル。しかしこれを拒否することは、彼らは別の場所を探して出て行くことであり、それはアリスも出て行くことを意味していた。「ジェロームは切り札として君をつれてきんだね」と、事の次第を理解するシャルル、
「分ったよ、君がここにいてくれるなら何でもする」と白旗。

ジェロームは外で仕事をしている。その仕事に従事しているアリス、しかしアリスが一緒にいる時間が長いのはシャルル。そんな環境下でシャルルとアリスの心的関係が徐々に近づいていく。

by ssm2438 | 2009-08-13 00:57 | ロベール・アンリコ(1931)
2009年 07月 24日

イルカの日(1973) ☆☆☆

f0009381_5244915.jpg監督:マイク・ニコルズ
原作:ロベール・メルル
脚本:バック・ヘンリー
撮影:ウィリアム・A・フレイカー
音楽:ジョルジュ・ドルリュー

出演:ジョージ・C・スコット
    トリッシュ・ヴァン・ディーヴァー 
     *     *     *

「ふぁあああああああああ~~~~~」
「ぶぃいいいいいいいいい~~~~~」
「ぷぁあああああああああ~~~~~」
この映画を見た後はやたらとこんな音をだしたくなるのです。

さきごろハルストレムの『HACHI 約束の犬』が公開されたが、動物ものの卑怯なところはあの純粋さですね。彼らの世界には「嘘」という概念がないのでここがドラマになるところでしょう。なにかの本で読んだことがあったが、「<嘘>というのは言葉に帰属する概念だ」というようなことが書いてあった。言葉がなければ<嘘>も存在しないというわけだ。まさにその通り。
だからといって言葉がない世界がいいのか?」といわれればネガティブだ。私は嘘が入り込んだとしても言葉のある世界のほうが好きだ。これは<心>の問題とよくにている。よく動物愛護団体なんかは「動物は必要なぶんしか殺さないが、人間は必要以上のものを殺す」という発言をするものだ。っこんなことをきくと「・・・だから人間がけしからんのか?」と聞き返したくなる。
なんでも人間が心を持ったのは紀元前500万~800万年まえ(ちとウル覚え、ちがってたらすいません)だそうで、なんでもそのころから死んだ人猿が埋葬されたけいせきがあるそうだ。つまり心をもたない動物であるなら、死体もそのままにしておいたはずだ・・ってことなのでしょう。もしかしたら腐って悪臭をはなつから土をかぶせただけかもしれないすが・・、とりあえずその学者の話では、そのころをもって人が心をもった時期と設定しているとか。理解できる解釈です。人ザルは心をもったゆえに未来に関して恐れだすのです。もしかして食べるものがあと一週間なかったらどうしよう・・とか。だったら必要以上に捕っておくべきだという発想になるのは当然でしょう。
それ以上に優越感も重要なポイントだろう。本来1対1では勝てないライオンなんかを相手にして、銃という文明の利器を手にした人間はそれを使用して食べないのに殺す、快楽のために殺す、虚栄心のために殺す・・というのも心をもったからだ。
さらに心をもった人間は月に旗をもっていった。旗ですよ。象徴です。これらも総て心をもったからそういう行動にでたのであって、進化の過程では不可避な進化だったのだろうと考える。そしてそれにともなう<嘘>という概念が発生することも、受け入れるべきことだと思う。なので嘘の存在しないイルカの世界が純粋だと思えても、それが人間の世界より素敵なものだとは全然思えないのが私の感じるところだ。


それでもこの物語はこのツボをヒットしている。
ある財団からフィナンシャルな援助を得て海洋動物学者のジェイク・テリル博士(ジョージ・C・スコット)は、ある島でイルカに人間の言語をわからせる研究をしていた。そのなかで一匹のアルファー(通称ファア)と呼ばれるイルカが言葉の認識と舌足らずのかわいい声で単純な言葉ならはなせるようになっていた。
しかしその財団の目的はイルカに命令し、爆弾を背負わせ、大統領のクルーザーに爆弾をしかけあんさつしようとする計画をたてていた。そのためにイルカに人間の言葉を理解させる研究に興味をしてしていたのだ。

ファーはもう一匹のメスのイルカベータ(通称ビィー)と一緒に飼われていた。
あるとき財団の上層部の人間たちがやってきて研究の成果をみているとき、冗談で「このプールにはサメがいるぞ」っというろビーはおどろいてネットをとびこえ沖へと逃げ出してしまう。「ファー、ビーを連れ戻すんだ」と命令するテリル。
結局ファーがビーを連れ戻してその場は事なきをえたのだが、ファーがぼそっと「人間・・、ないことを言う」と語りかえる。イルカたちも言葉を覚える以上だんだんと嘘も覚えるのだろう思われるが、この物語の時点では純粋さだけが輝いている。

そうしているとテリルたちは財団に呼ばれしばらく研究施設から離れた隙に、彼らはファーとビーを略奪、2匹のイルカの背中に爆弾を背負わせ大統領のクルーザーの船底にそれを設置してくるように命令をだして送りだしていた。
ま、それこはそれ、悪人たちの悪巧みは失敗におわる。
そしてテリル博士のもとにもどってきたファーとビーにテリルは、お前たちはふたりで海へ出て行け、そして二度と人間と話すな、と命令する。離れようとしないファーは「ぷぁあああああああああ、ぷぁあああああああああ」と切なく呼ぶ。そんなイルカたちに振り向くことなく「パー、イズ・ナット!(パパはもういない)」といい去っていく。それでも「ぷぁああああああああ、ぷぁああああああああ」と呼ぶイルカ。振り向きたいのをこらえてさるテリル夫妻。せつない。。。

あきらめて海へでていくファーとビー。
やがて財団は生き残ったテリル夫妻を処分するために殺し屋たちを乗せた飛行機が着水して研究所のあるしまえ近づいてくる。


正直なところ、ちょっと大統領暗殺にイルカを使うという発想はかなり無理があり、それを博士の言葉で大逆転、犯人たちのクルーザーに爆弾をつけて作戦をひっくりかえしてしまうストーリーにもむりかあるのだが、このさいその辺のおおざっぱさは眼をつぶろう。
ポイントは<嘘>のないイルカの世界と言葉と嘘を使い分ける人間の世界の対比だったのだろう。ストーリーはちょっと無理があるが、一見の価値のある映画だと思う。

by ssm2438 | 2009-07-24 22:50 | W・A・フレイカー(1923)
2009年 07月 14日

風が吹くまま(1999) ☆☆☆☆

f0009381_1935269.jpg監督:アッバス・キアロスタミ
製作:アッバス・キアロスタミ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:マームード・カラリ

出演:ベーザード・ドーラニー
    ファルザド・ソラビ
    バフマン・ゴバディ

        *        *        *

アッバス・キアロスタミの映画というのは確実に素人っぽい。普通の大学生の自主映画的かなって思う。今まで『オリーブの林をぬけて』『桜桃の味』『クローズアップ』は見たがはっきりいってつまらない。どのくらいつまんないかというと、「『どですかでん』とどっちを無人島にもっていく?」って聞かれたら答えに迷うくらいつまんない。まあイランの映画だからある程度の技術力のとぼしさには目をつぶるいうのはわからなくもないが、世間で過大評価されすぎてる。で、きっとこれもつまんないんだろうなって思って見に行った。

・・・・びっくり。良かった。
でも、何が良かったかっていうと画面がすばらしく良かった。まるで印象派の絵画でもみているかのような画面、セザンヌが画面構成考えたんじゃないかって思えるくらい完成度の高い画面だった。以前の映画でこのような感覚を得た覚えがないので、たぶんこれはアッバス・キアロスタミの力ではなく撮影監督のマームード・カラリがセンスあるのではないかと思っている。ほかのキアロスタミの映画はカラリが撮っているわけではないので。
というわけで、今、マームード・カラリが他の監督とやった『オフサイドガールズ』という映画を取り寄せている最中。これみたら分ると思う。きっとこの人がセンスいんだと思うな。
ホントにこの映画の画面はすばらしい。映像だけみるだけでも価値はある。

しかし・・・話は、正直どうでもいい。アッバス・キアロスタミの監督作品の話なんてどれもにたようなもんで、あるようなないような・・。はは・・ひで。

by ssm2438 | 2009-07-14 19:15
2009年 06月 28日

ワイルド・ブラック/少年の黒い馬(1979) ☆☆☆☆

f0009381_144439.jpg監督:キャロル・バラード
脚本:メリッサ・マシスン
    ウィリアム・D・ウィットリフ
    ジャンヌ・ローゼンバーグ
撮影:キャレブ・デシャネル
音楽:カーマイン・コッポラ

出演:ケリー・レノ
    ミッキー・ルーニー
    テリー・ガー

        *        *        *

これ、画面いいですよ。しびれます。さすがキャレブ・デシャネル!! 画面の質感がいい。
前半の無人島でのシーンはほとんど馬と少年を撮っているだけ。青い海と白い砂、そここを少年をのせて走る馬。もうそれだけで絵になってしまいます。そしてアメリカにもどってからは、狭い厩を抜け出して都会を闊歩する馬。
通常世界に異物が飛び込んできた異物・・都会に存在するゴジラとか、猿の惑星に存在するテイラーとか、ロンドンの町を裸で歩くスペースバンパイヤ=マチルダ・メイとか・・、これはドラマづくりの基本ですね。この町では1946年のニューヨークに出現した野生の馬。

<あらすじ>
地中海北アフリカ沖。考古学者である父(ホイト・アクストン)と共に船であちこち周っている少年アレック・ラムジー(ケリー・レノ)は、ある港で積み込まれた一頭の黒い馬に目を奪われた。あるの夜、突然嵐が起こり、船は転覆し、アレックは、海に投げ出された。そしてもう一つの影が嵐の海の中に飛び込むのが見えた。
気がついてみると、アレックは、ある無人島に流されていた。アレックは、ロープが岩にはさまれ、もがいているあの馬ける。自由を取り戻したその馬は海岸線に向って走り出した。馬に親しみをこめて近づくのだったが、野生の馬はそれを拒否した。ある日、アレックは浜辺でコブラに襲われかかるが、あの黒馬に助けられた。馬は少年の手から海草を食べ、やがて少年を背中に乗せ、波打際をしっそうする。
6カ月たったある日、イタリア漁船が偶然島を通りかかり、アレックは馬とともにニューヨークに戻った。アレックは、黒馬にブラックと名づけ、可愛がるが、文明生活にはなかなか馴れず、近所で問題ばかり起こしとうぼうしてしまう。都会に凛として存在する馬というう画面がなかなか素敵。

その後は、某調教師にみいだされ、競走馬としてかつやくするブラック。その当時の最強馬、サイクロン号とサン・レイダー号。激しいレースが展開された。出足は不調だったブラックも、先を行く馬ににじりより、じわじわと実力を発揮、そして、ムチも手綱も使わないアレックのリードに従うブラックは、遂に先行馬を追い抜き、栄光のゴールを踏むのだった。

by ssm2438 | 2009-06-28 01:49 | C・デシャネル(1944)
2009年 06月 08日

ウインズ(1992) ☆☆☆☆

f0009381_0323445.jpg監督:キャロル・バラード
脚本:ルディ・ワーリッツァー
撮影:ジョン・トール
音楽:ベイジル・ポールドゥリス

出演:マシュー・モディーン
    ジェニファー・グレイ

        *        *        *

『ワイルドブラック/少年の黒い馬』の監督キャロル・バラード、制作フランシス・フォード・コッポラのコンビが再び結成された作品。キャロル・バラードはとにかくすがすがしくてとてもいい。のちに『グース』もとっているが、これもすがすがしい。残念なのはこの作品に関してはキャレブ・デシャネルが撮影監督してないことだ・・ああ、残念。
しかし、ジョン・トールの画面がダメかといえばまったくそんなこともない。この人も撮れる人で、キラキラ透明感のある画面は彼にむいている。後にテレンス・マリック『シン・レッド・ライン』の美しすぎる画面を撮っている。

主演のふたり、マシュー・モディンジェニファー・グレイも実にさわやかでいやらしさがなくて良い。以前肉体関係にあった二人が別かれた後、それぞれに別の相手が出来ている状態でふたたび一緒になりレースに挑む姿勢がとてもいい。一度負けたアメリカズカップのクルーたちが再び再挑戦する話。技術面だけでなく恐ろしいほどのお金がいる。それをどうカバーするのかというとこも物語りにもりこまれているし、CGもテレビ放送の時のそれぞれの艇の位置をみせる画面だけで、風をきって滑ってるヨットは全部本物。今見ると貴重だ。たぶんもうこれだけの映画は撮れないだろう。

ただ、これはあくまでフィクションであって、素材的にはノンフィクションで作ってほしかった内容。
ずうっとアメリカズカップはアメリカが勝ってきていたのだけど、その年ははじめてアメリカが負けて、4年後の次の大会でリベンジした話は有名。ほんとの彼らの想いを考えると、こういう内容にそのエピソードが置き換えられるのはちょっと不本意かもしれない。

<あらすじ>
ウィル(マシュー・モディーン)とケイト(ジェニファー・グレイ)は幼い頃から何事にでも一緒に挑戦してきた人生最高のパートナーとお互いに認め合っている。ウィルは富豪のモーガン(クリフ・ロバートソン)にさそわれアメリカズカップのヨット・クルーに迎えられる。ケイトも練習艇のタクティシャンとして迎えるが、モーガンのクルーの幹部からケイトをヨットから下ろすように言われる。アメリカズカップの本番では、ウィルがタクティシャンを勤めることになっていたからだ。ケイトは去っていった。
数ヵ月後、アメリカ、ニューポートで行われたアメリカズカップでウィルが操舵するアメリカチームは歴史上初の敗戦となってしまった。それまでアメリカチームはこの大会で負けたことがなかったのだ。
半年後、ユタ州にあるハイザー(ステラン・スカースガード)の研究所にいるケイトのもとを訪れたウィルは、ケイトにアメリカズカップ再挑戦の話を始め、興味を持ったハイザーを交え、3人で新しいヨットの設計を始める。ウィルはモーガンの娘アビゲイル (レベッカ・ミラー)から資金の提供を受け、数々の困難を乗り越えながらクルーを集め、ついにヨットジェロニモ号を完成させた。オーストラリアのフリーマントル。再挑戦の時が来た。アメリカズカップは前回同様オーストラリア艇との争いとなり、ケイトの設計した新しいセイルと彼女の絶妙なテクニックにより風を完璧にとらえたジェロニモ号は、見事優勝を果たすのだった。

by ssm2438 | 2009-06-08 00:04