主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。


by ssm2438

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教授と美女(1941) ☆☆☆

f0009381_1145894.jpg原題:BALL OF FIRE

監督:ハワード・ホークス
原案:ビリー・ワイルダー
    トーマス・モンロー
脚本:チャールズ・ブラケット
    ビリー・ワイルダー
撮影:グレッグ・トーランド

出演:
ゲイリー・クーパー (バートラム・ポッツ言語学博士)
バーバラ・スタンウィック (シュガーパス・オーシィエ)

     ×   ×   ×

ヤムヤム・・・素敵!

しかし、物語の基本設定だけですでに素晴らしい。
モノネタは『白雪姫と7人の小人』。それを大人の世界にアレンジしているロマンチック・コメディ。

ある財団が、新しい百貨辞典を作るために8人の学者をあつめる。ゲイリー・クーパー扮する主人公のポッツ博士は言語学者。他にも、数学者、生物学者、歴史学者、植物学者、法律学者‥など、それぞれの専門分野をカバーする7人のご老人学者たちがあつめられている。しかし、あまりにも長い間世間から隔離された環境で仕事に従事してたため、世間知らず状態に陥ってる。
そこに登場するのがゴミ回収業者の男。彼の話すスラングをきいていると、ポッツは今自分が取り組んでいる言葉が既に流行おくれの言葉になりかけていることに気づく。これではいけない!と街にととびだすホップ。
街角で働く人々や若者の言葉をメモしてあるくうちに、あるミュージック・ホールに入り込む。そこの歌姫バーブラ・スタインウィックの言葉使いに魅了される。ポッツは彼女の楽屋をたずね、現代のスラングに関して研究しているので、一度屋敷にきてくれと頼む。しかし、そんなことに興味のないオーシィエは名刺だけうけとって返してしまう。

ゲイリー・クーパーとバーバラ・スタンウィックはフランク・キャプラ『群衆』でも共演していた。この映画のバーバラ・スタンウィックはかなり勢いのある新聞記者で好感度が高かったのだが今回はショーダンサー。おっとおおおお!!なんだか当時としてはかなり色っぽいぞ! 
実は戦前~戦中のハリウッドの女優さんの中では彼女が好きなのである。すっごい華やかさや気品があるわけではないのだが、親しみ易い素直さがあると感じる。そんな彼女が今回はショーダンサーなんぞやって、やたらと肌の露出もおおい服をきているので年甲斐もなくどきどきしてしまった(笑)。
しかし『ブレードランナー』のようなショーンヤングの髪型はいただけない。ま、当時はそれがお洒落だったのかも知れないが・・・、今見るとかなりはずしてた(苦笑)。ただ、中盤からは普通にみられる髪型なのでしょっと安心。。

オリジナル脚本と脚本はビリー・ワイルダールビッチ譲りの軽妙なトークが約束されている。この作品の素晴らしいところは、下世話なトークというのではなく、洗練された構成と上品な言葉で展開されるシチュエーションコメディのきもちよさ。
監督のハワード・ホークスは、ハードボイルド系からスクリューボール・コメディまでこなす職人肌の監督さん。どの話もきわめてまじめにきちんとつくるという印象である。ただ、この人のスクリューボール・コメディはまじめというか、誠実というか・・、悪く言えばちょっと退屈なのである。『ヒズ・ガール・フライデー』などは彼の代表作と言われるスクリューボール・コメディのひとつだが、個人的には、後々製作される『フロント・ページ』『スイッチング・チャンネル』とくらべると今ひとのりが良くないと感じてしまう。
おそらくそれは、ホークスが感情移入を引き出す能力にやや欠けているからだと思う。ホークス自身も「自分を職人監督だと割り切っており、ストーリーを語っているに過ぎない」と述べているそうだが、その登場人物になりきって感情をひきだそうという見せ方ではなく、シナリオで提示されている状況をフィルムに置き換えていくだけの監督さんという印象なのだ。
本作は、ビリー・ワイルダーのシナリオが素晴らしいのだけど、ゲイリー・クーパーがバーバラ・スタンウィックに惚れていく過程が感情移入できないまま、そうなってしまったので「あれれれ・・」とちょっと感情がおいけぼり状態。物語自体の面白さで愉しく見られるが、フランク・キャプラだったらもうちょっと感情移入を引き起こした状態で物語を面白くできたんじゃないかと思ってしまった。

<あらすじ>
言語学者のポッツ博士(ゲイリークーパー)は、百科事典をつくるためにある財団に雇われ、他の7人の博士たちとその制作に携わっていた。もう何年もそれぞれの専門分野に没頭し、俗世間とは距離をおいた彼等は純正培養の「いい人」たちだった。そんな環境の中にミュージックホールで、ブギ(boogie)を歌う俗人オーシィエ(バーバラ・スタンウィック)が居候することになる。

しかし彼女は、ある殺人事件の容疑者であるギャングのボス、ライラックの婚約者だった。その殺人事件の偽装工作に彼女のガウンが使われていたため警察も彼女は、ライラックの言割れるままにしばらく身をかくさなければならなり、選んだ潜伏先がポッツたちの屋敷だった。
長年女性との付き合いなどなかった7人の初老学者たちはささやかに色めきたつ。それはポッツとて同様であり、彼女の自由奔放な態度にどぎまぎしてしまう。規律正しい生活が彼女のために狂わされていく。このままでいけないと感じたポッツは、理性をはたからせて彼女に出て行ってもらうことにするが、事情がそれを許さないオーシィエはヤムヤム攻撃でポッツの理性を撃沈。舞い上がったポッツは彼女にプロポーズしてしまう。
オーシィエは重要参考人であり、各方面に指名手配されているのだが、ギャングのボス・ライラックはこのシチュエーションを利用して、オーシィエを隣の州に脱出させる。「病気で動けない母のもとでの結婚式をあげようとしている女性、それも夫になるのは学者先生、その友人たちは世間知らずのおじいちゃん学者たち」なら州境のガードマンも甘くなるだろうというのだ。作戦は成功した。
やがてライラック登場・オーシィエは彼とともに去っていく。総ては偽装工作だと知らされたポッツと7人の学者たちは現実に引きもどされる。絶望したポッツたちはふたたび百科事典の制作に取り掛かろうとしたときライラックの部下の2人が彼等の銃をもって乱入してくる。
すでにポッツの誠実さに心を動かされていたオーシィエは、ライラックとの婚姻を拒絶しているらしい。ライラックは、もし結婚しないならポッツたちを殺すと脅しているようだ。
銃でおどされて身動きとれない教授たちだが、彼等には分らない専門用語を巧みに使い、意思疎通を図り、逆襲の計画を準備し実行していく。このプロセスが実に楽しい。ライラックの部下2人を倒したポッツと7人の学者達はオーシィエの結婚式の会場に乱入、警察もかけつけ一件落着となる。
by ssm2438 | 2012-03-18 11:57 | ビリー・ワイルダー(1906)

浮雲(1955) ☆☆☆☆☆

f0009381_21341734.jpg監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子『浮雲』
脚本:水木洋子
撮影:玉井正夫
音楽:斎藤一郎

出演:
高峰秀子 (幸田ゆき子)
森雅之 (富岡兼吾)
山形勲 (伊庭杉夫)
加東大介 (向井清吉)
岡田茉莉子 (向井の妻・おせい)

     *      *      *

この映画をみたのは20代の時だったが、たまたまケーブルでやっていたのでついつい見てしまった。大人になると少しは見方が変わるものだ。はやり成瀬の最高傑作といわれるだけあってスゴイ映画だ。生理的に好きになれる映画ではないが、映画作りの技術力と、描かれた業(ごう)と性(さが)の深さでは傑作だと思う。

日本屈指のメロドラマ!

成瀬巳喜男の描き方はとても上手いと思う。魅せ方も、芝居付けも、画面作りも、白黒映画時代の日本の監督さんのなかでは際会って上手い。フランス映画誌『カイエ・デュ・シネマ』では、成瀬を小津、溝口、黒澤に次ぐ日本の「第4の巨匠」と讃えた。私的には、この4人のなかだったら一番映画作りが上手い人だと思う。ただ、作る映画のテーマは・・・どうなんだろう。。。。
この『浮雲』にしても、映画としての完成度はすばらしい。技術的にはまったく私の好みなのだが、映画の内容はどうなんだろう・・、少なくとも私の好みではない。たぶんこの人の映画の中身をそれほど好きになれる人はあんまりいないんじゃないだろうか・・。
溝口健二に言わせると「あの人のシャシンはうまいことはうまいが、いつもキンタマが有りませんね」・・だそうな。まったくたしかにそうなのだ。男がかっこよくない。成瀬巳喜男は理想とかロマンとか、夢とか、憧れとか、そういう意味での映画を撮らない。話が生産性を欠いているのだ。それが見てるとつらくなる。

この映画の主人公の富岡という男も、実にキンタマのついてない男なのだ。とにかく頑張らない。意志力がない。言葉は道徳的だが、その言葉を実行する力はない。つねに自分が全部悪いんだって先に言ってしまう、本質的無責任男なのである。それでも女にはもててしまう。多分この人といると頑張る必要がないからだろう。そう、「頑張らなくていい」というのはかなりの安らぎである。その安らぎに女は揺らぐのだろう。
これらの男の描き方は、成瀬自身の価値観にもよるかもしれないが、この映画に関しては原作の方向性も大きな要因だろう。そして成瀬の感性がそれに近いものだということなのだろう。こも話は女性脳で描かれた話だといっていいだろう。男にはかけない。男は夢をみるものだが、この映画には現実しかない。いかに目の前にある現実を処理しながら、自分が安らげる状況をもとめるのか・・と、そういうテーマで書かれているような気がする。

f0009381_21351728.jpg<あらすじ>
第二次世界大戦も真っ只中の1943年、農林省のタイピストとして仏領インドシナ(現ベトナム)へ渡った幸田ゆき子(高峰秀子)は、そこで同じ農林省の技師として赴任してきていた富岡兼吾(森雅之)に会う。富岡は既婚者だったが2人は男女の関係を結ぶ。終戦を迎え、妻との離婚を約束した富岡は先に帰国する。しかし、遅れて東京に帰ってきたゆき子が富岡の家を訪れると、富岡は妻とは別れていないことが判る。失意のゆき子は米兵の情婦になる。それでもゆき子と富岡の関係は終わらなかった。
終戦後の混乱した経済状況で富岡は仕事が上手くいかず、世を捨てるつもりでゆき子を伊香保温泉へさそう。ゆき子も米兵と別れてついて行った。当地の「ボルネオ」というパブの主人・向井清吉(加東大介)と富岡は意気投合し、2人は店に泊めてもらう。清吉には年下の女房おせい(岡田茉莉子)がおり、彼女に魅せられた富岡はおせいと仲良くなってしまう。ゆき子はその関係に気づき、東京に戻ると富岡とも別れた。
しかし、ゆき子は妊娠しており、再び富岡を訪ねるが、彼はおせいと同棲していた。再び絶望するゆき子はかつて貞操を犯された義兄の伊庭杉夫(山形勲)をたずね、借金をして中絶する。術後の入院中、ゆき子は新聞報道で清吉がおせいを絞殺した事件を知る。退院したゆき子は富岡を訪ねる。富岡はまだおせいと同棲していた彼女の部屋にいた。

あんな女にまけるなんて悔しい。
もしあの女の幽霊がいるなら言ってやる。私はこの男と一生はなれないって。

ふたたび伊庭の囲われ者になったゆき子のもとを富岡が訪れ、妻の葬式のために2万円(今の価値だと20万くらい?)貸してくれという。ぽんと貸し出すゆき子。やがてなんとか雑誌に記事をかくことで仕事をみつけた富岡にゆき子から電報がどとく。伊庭から30万を盗み出し、逃げてきたというのだ。しかし富岡は屋久島で仕事を見つけて近々そちらに行くというのだ。引き帰すことの出来ないところまできているゆき子に、「このままではだめだ。別れよう。きみは伊庭のところに返るほうがいい」といつもの無責任言葉をやさしくなげかける。

私はどこへ帰るのよ? どこへも行くところがないでしょ。

結局ふたりは汽車にのり、鹿児島へ向かった。鹿児島では雨がふり、屋久島への船は出ないという。そんなとき身体の不調を感じていたゆき子の病状が悪化する。屋久島行きをしばし延期して医者に見てもらうゆき子。そこでも富岡は「君はここから帰ったほうがいい」と言う。
船内で医者からは屋久島行きを止められるが、ゆき子は無理強いをする。船を乗り換え小雨のなか屋久島にむかう二人。現地の官舎に落ち着き、島の人もよくしてくれる。ある豪雨の日、勤務中の富岡に急変を知らせが届くが、駆けつけた時には既にゆき子は息絶えていた。その夜、みんなを帰した後、富岡はゆき子に死化粧を施した。富岡は彼女のために始めて泣いた。

f0009381_21354630.jpgとにかく富岡という男、ひたすらな甲斐性なしなのだ。ゆき子が妊娠した時も、堕ろしてほしいと思っていても(そんなことは微塵もみせないのだが)、「産んでいいよ。なんとかするから」と言う。30万円を盗んできて戻れないのに、「君は伊庭のところにもどったほうがいい」と言う。屋久島までついてきたゆき子に「体が良くなったら東京にかえったほうがいい」と言う。
たぶん本心では「いて欲しい」と思っているのだろうが、本心がそう感じていることを理性が感知しないのだろうな。平気な顔して道理的な言葉を語る。自分から求めないことが、自分が傷つかない最良の手段だということを知っている。その生き方が身についていて、それが自然にできてしまう。世間からみると善い人なのだど、実際は恐ろしいほどの臆病者。そして相手の女が自分のためにそれを行ってくれることをひたすら待っている。

超最低男である。
・・しかし、男が持てる要素がここにあるのかもしれない。
by ssm2438 | 2011-07-02 21:41
f0009381_1352149.jpg監督:ピーター・メダック
脚本:フィン・テイラー
ジェフリー・D・ブラウン
撮影:トーマス・クロス

出演:テッド・ダンソン
メアリー・スティーンバージェン

     ×     ×     ×

ある日自分の愛車、ポンティアックがあと◯◯マイルで地球と月との距離を走り切る事になるこを発見した小学校の理科の教師テッド・ダンスンは、アポロ11号の打ち上げと同時に出発し、アポロ11号が月に着陸するのと同時にその距離を走破しようという試みを息子と一緒にやってしまうハートウォーミングなお話。 映画的にはそれほど完成されてるわけではないんだけど、とにかくセリフが熱い。もうライターのパッションだけで書きなぐってるようなお話。 冒頭の会話をちょっと紹介しよう。もうこれだけのこの映画の紹介は十分だとおもうんだけど、じゃん!

<物語り冒頭の息子のモノローグ>   

ママが言ってた。   
昔エジプト人は星の移動する音を聴いて『天空の調べ』と呼んでいたって‥‥。   
今も満月になると鳴るけど、人が聴くことを忘れてしまったそうだ。   
パパは迷信だと言う。   ‥‥たぶんパパが正しのだろう。   
パパは事実を重んじ、いつもなにかを調べている。総てを解く答えを探してるみたいだ。
パパは‥‥他の人とは、どこか違ってる‥‥。

<小学校の理科の時間> おもむろに話しはじめるその少年の父(テッド・ダンスン)。  

「人間の男性が射精するとき、2億もの精子が放出される。いいか、2億だぞ!
 2億っていったらアメリカの人口に匹敵する数だ。その精子が争うように卵子を目指す。
 たどり着けるのはそのなかのたった100で、授精を果 たすのはそのなかの1つだ。2億のなかのたった1つだ。
 その競争に勝ち残るの確率といったらまさに天文学的数字だ。
 君達は1人ひとりが2億の分の1の勝者なんだ」  

「そこで我々が学んでいる『種の起原』だが、   
 ダーウィンの説に拠るなら“私は何故ここにいるのか?”   
 “君達は何故、生まれて来たのか? 何故この世の中に存在している?”   
 紙切れを書き散らすためか?(といって、テスト用紙を宙にばらまく)   
 ちがう、ちがうんだ!! そこにななにか大きな目的があるはずだ。   
 今ここに存在すうこと自体が謎なんだ‥‥」

<別の日の理科の時間>  

「人類は下等動物から進化を重ねて来た。
 そして我々の頭脳はついに、33万4400キロ彼方の月へ到達する乗り物をつくり出したのだ。
 そこで、君達に質問だ、この大いなる挑戦はなんのためなのか?
 危険を犯し、命をかけて、なぜ月に行こうとするのか?」

ある生徒が手を上げて答える。
「人類のためになる鉱物資源を発見するため?」  

「うん正解だ、それも1つの理由だろうな。いろいろな理由があげられる。
 ロシアに勝つためだとか‥‥、ほかにもあるだろう‥‥。
 しかし、そんなのは全部口実だ!   
 彼等が月に行くのは、   
 それは、まだ誰もやってないからだ! 面 白いからだ! 危険だからだ! 胸が踊るからだ!!
 それが挑戦の動機であり、進化の原動力だ」  

「君達は人生のなかでどんな挑戦がしたいのか?   
 どんなことに命をかけれるのか? それが今日のテーマだ。   
 25分で作文をかいてくれ(といって、紙をくばりはじめる)。   
 忘れるなよ、君達1人ひとりは、2億の分の1の勝者なんだから。   
 ‥‥どんな挑戦を描き出すのか、期待している!」  

「彼等が月に行くのは、それは、まだ誰もやってないからだ!」 もうこれを言い切ってしまうハイパーさが素敵。 ほかにもこの映画、もえる言葉がいっぱいあります。

この映画には、<やってしまえる人間>のパッションがいっぱいつまっているんです。 彼等がこの映画のなかでやってしまったことは、実はだれでも出来ることで、大した事ではないんです。 ただ、この誰にでも出来ることを、やって確認してみることが、その人自信につながっていくんです。 やって確認しないと、そこには“もしかしたら出来ないかも知れない”って可能性がのこされるわけで、それが自信をなくさせるんです。

私が東京から中央町まで歩いて帰ってみたのも、実は誰でも出来ることなんです。 アニメーターになってしまったのもも、実は誰にもで出来ることなのです。 ためしに、アニメーターになりたいって思う人がいたら、朝おきて朝食をとるように、寝る前に誰かの漫画(上手い人限定)の2~3ページを3年間模写 し続ければ、アニメーターになりうるだけの画力なんて身につきます。 同窓会だってそう、“どうやったら出来るか”なんて誰だって安易に想像できます。それをやってみて「ああ、できるんだ」って確認するだけのことです。

そしてもう1つの『真実』、<やりたいな~の人>は、<やらない人>のカテゴリーに入ると言う事。 だってこの世の中には、<やりたいな~の人>と<やってしまえる人>の2種類しかいないんですから。 私はこの映画を当時みてえらく感動して、さきごろもう一回みようとおもったらもうどこ探してもレンタル屋においてない。 しかたがないので、ネットであっちこっち中古の映画販売サイトをあさってやっとみつけて購入したんですが、 どうやら<観たいな~の人>には決してみる事の出来ない映画かもしれない。
by ssm2438 | 2010-12-11 14:02
f0009381_944446.jpg監督:バリー・レヴィンソン
脚本:ミッチ・マーコウィッツ
撮影:ピーター・ソーヴァ
音楽:アレックス・ノース

出演:
ロビン・ウィリアムズ (エイドリアン・クロンナウア)
フォレスト・ウィッテカー (ガーリック一等兵)
チンタラ・スカパタナ (ベトナムの少女・トリン)
トゥング・タン・トラン (トリンの兄・ツアン)

        *        *        *

ベトナム従軍した米軍放送の実在した人気DJの話。基地の放送コード無視のハイテンション型破DJエイドリアン・クロンナウアの役どころでは、ここぞとばかりにロビン・ウィリアムズがその才能を爆発させている。ロビン・ウィリアムズといえば、どうしても過剰な親近感とサービス精神で作品によってはけっこううざいのだが、この映画のウィリアムズは悪くない。いつもこのくらいでやってくれてたらいいのになあって思う。ロビンウィリアムズのマイベストは『ハドソン河のモスコー』か、この『グッドモーニング,ベトナム』だろう。

泥沼のベトナム戦争、前線に向かう兵士たちを乗せたトラックとすれ違い、その場で即興のDJ、兵士の何人かをネタに笑いをふりまいていくクロンナウア。ほんのひと時の安らぎをむねに戦場にむかっていく兵士を見送るクロンナウア・・・、あのシーンは泣けるね。
そしてヴェトナムでの惨劇の映像のバックで流れるサッチモ『what a wonderful world』・・・。 こういうの〇〇技法っていうんだとか(忘れた)。悲惨なシーンに穏やかな音楽を流すとか、ギャグシーンに悲しい音楽をつけるとか、正反対の音楽をつける事で複雑な感情の染み込みを演出する技・・・。この映画も効果的につかわれている。

この映画を見ていて思うのは、アメリカ人のもつある種のおおらかさというのは、やはり精神的なゆとりからきているのだろうなって思う。英会話やってても、とりあえずはウェルカムなスタンスを提供する紳士的な態度。あれには感嘆する。で、なぜあれが出来るのかっていうと、アメリカ人ってアウェイで戦わない人種なのかなって思った。アウェイのところでさえもホームを持っていく。いちど沖縄の嘉手納基地の中に入れてもらったことがあったのだがあそこはまさにアメリカだった。広大な土地に緑の芝。日本人のいないめずらしい外国。きっとベトナム戦争の時もアメリカの基地内はアメリカだったのだと思う。
この映画ではアメリカによる他国への一方的な価値観の押し売りをゆるやかに批判している部分があるが、生きることは戦いだし、そのなかで勝ち抜いていくには、一番の正攻法なのだろうなって思った。

f0009381_9441437.jpg余談だが、ベトナムの少女トリンを演じたチンタラ・スカパタナChintara Sukapatana)はじつに可愛らしかった。タイの女優さんらしい。

<あらすじ>
1965年のサイゴン(現ホーチミン市)。本国から米軍放送の人気DJ、エイドリアン・クロンナウアー(ロビン・ウィリアムズ)が赴任してくる。迎えに来たのはガーリック一等兵(フォレスト・ウィテカー)。
そして放送開始の時、

「ぐうウウウううううううううううううううううううううううううううううううううっモおおーーーーーにんヴィいええっとなあああああああああああむううううう!」

の大絶叫から始まるマシンガントーク。上司となるディカーソン軍曹(J・T・ウォルシュ)とホーク少尉(ブルーノウ・カービー)は動転したが、100万のベトナム米軍は絶大な拍手をもって彼を迎えた。
一方街にでたクロンナウアはいつぞや見かけたベトナムの美少女トリン(チンタラ・スカパタナ)を追いかけ、彼女の通う英語学校に入り込み、軽妙な英語を教えて人気者になる。怪しいアメリカ人として警戒していたトリンやその家族も少しづつ親近感を持つようになり、いつしかトリンの兄ツアン(トゥング・タン・トラン)とも親しくなった。
ある日、サイゴンのカフェにいるとツアンが現れ、クロンナウアを外へ連れ出す。するとさっきまでいたカフェが爆発炎上した。偶然の一致か、なんとか難を逃れたクロンナウアはそのテロ事件のことを放送で話してしまう。しかしニュース内容は軍の統制化で放送禁止でり、彼は降ろされてしまう。後を継いだホーク少尉のDJはまったくなまぬるいもので、反感の投稿が山のようによせらてくる。前線に向かう兵士たちの激励を聞き、再びマイクに向かったクロンナウア。
f0009381_9473670.jpgしかし軍情報部が、ツアンはベトコンの活動家であることをキャッチ。ベトコンと友達だったということで本国へ送還されることが決定したクロンナウア。信じられないクロンナウアはトリンを通じてツアンと会い、真相を知ろうとする。そしてベトナム人のもつ反米感情も知る。ふたりの間にはうめられない溝があった。
最後の日、英語学校のベトナム人たちとお別れのソフトボールをやった。ボールがないのでウリをボールにみたてた。そこにはクロンナウアを受け入れてくれる人々の笑顔があった。クロンナウアはサイゴンを去って行った。翌日の放送室のマイクの前にはガーリック一等兵が座っていた。放送開始のサイン。

「ぐうウウウううううううううううううううっモおおーーーーーにんヴィいえっとなあああむうう!」

ノリはいまいちよくないが、クロンナウアの魂を引き継いだ一声だった。
by ssm2438 | 2010-01-31 09:51
f0009381_4333910.jpg監督:イワン・プイリエフ
原作:フョードル・ドストエフスキー
脚本:イワン・プイリエフ
撮影:セルゲイ・ウロンスキー

出演
ミハイル・ウリヤーノフ (長男ドミトリー)
キリール・ラウロフ (次男イワン)
アンドレイ・ヤミコフク (三男アリョーシャ)
リオネラ・プイリエワ (グルシェンカ)
スヴェトラーナ・コルコーシコ (カテリーナ)
ワレンチン・ニクーリン (スルメジャコブ)

        *        *        *

原作の物語をかなり忠実に再現しようとしている映画。ただ、いかんせん原作が原作なだけに、あれを映画にするのは無謀なこと。232分の映画なれど、どうしてもストーリーだけを追うようになってしまう。私の場合は、原作をよみはじめたのだが、情報量が膨大なため、とりあえずアウトラインをつかむために、一度この映画を観ることにした映画。
映画的にはかなりのっぺりとした映画。見せ方もきわめて普通。ライティングなどはほとんどかんがえられておらず、ぴーかん天気のあかるい部屋のなかでのドラマになっている。もうすこしムードを出す証明の使い方とかあったのではないだろうか。ま、監督はそれまでミュージカルをやってた人らしく、こてこての説明演出。ひとことでいうと下手。アニメでも下手な人がコンテを描くと、こんな感じになるのだが、説明しないで説明するすべを覚えてほしいものだ。
それでも、イワンの語るパンのシーンは印象深いものだ。

<あらすじ>
地主フョードル・カラマーゾフには性格がお互いにまったく異なる4人の息子がいた。親譲りの性格により、予備大尉の身を放縦な毎日に埋没させている長男ドミトリー(M・ウリヤノフ)、神を否定する大学出の秀才の次男イワン(K・ラヴロフ)、清純な魂と深い信仰を持つ三男アリョーシャ(A・ミヤフコフ)、フョードルの使用人で、その息子であるとは認められていないスメルジャコフ(V・ニクーリン)。

長男のドミトリーは婚約者カテリーナがありながら、ある老商人の世話になっているグルーシェンカ(L・プィリエワ) に惹かていた。そのグルーシェンカが借金に苦しんでいるのを幸いに、五十を過ぎてもなお、肉欲にとりつかれているフョードル・カラマーゾフョードルが自分のものにしようとしていた。だった。知的な次男のワンは、ドミトリーの婚約者であるカチェリーナのことを愛しており、カチェリーナを冷たくあしらう兄ドミートリイに憤る。皆に愛される性格の敬虔な三男アレクセイは敬愛する老僧ゾシマに導かれ、修道院での生活を始める。
ドミトリーは、グルーシェンカのために金の工面に奔放したが、都合はつかなかった。ついに彼は、スメルジャコフの手びきにより、父親を殺す流れにのせられてしまう。そして逮捕された。本質的な犯人はスメルジャコフだったのが、彼は自殺してしまい決定的な証言もないまま、裁判は進行した。アリョーシャの証言もグルーシェンカの愛情も役にはたたなかった。彼はシベリア送りと決定した。雪の広野を行く囚人の一行。その後を、行く一台のソリ。ドミトリーとの愛に生きる決心をしたグルーシェンカだった。

最後はいつもの「シベリア送りになる男についていく女」・・のパターンだ。
どうここれこそがドストエフスキーの思い描く愛の形なのだろう。
by ssm2438 | 2009-12-28 04:34
f0009381_140456.jpg監督:トッド・ウィリアムズ
原作:ジョン・アーヴィング、
    『未亡人の一年』(新潮社刊)
脚本:トッド・ウィリアムズ
撮影:テリー・ステイシー
音楽:マーセロ・ザーヴォス

出演:ジェフ・ブリッジス
    キム・ベイシンガー
    ジョン・フォスター
    エル・ファニング
    ミミ・ロジャース

        *        *        *

不思議なことなのだが、実はジョン・アーヴィングの原作で映画になったものは全部みていた。『ガープの世界』、『ホテル・ニューハンプシャー』、『サイモン・バーチ』、『サイダーハウス・ルール』、そしてこの『ドア・イン・ザ・フロア』。特にアーヴィングが好きというわけではないのだが、この人の「沁み込ませ方」は圧倒的に上手いと思う。そしてアーヴィングの特徴は、彼の描く物語はいつも「子宮」の臭いがする。そしてアーヴィングの書く話はいつも、深い悲しみがあり、それでも前向きな姿勢がある。

この物語は、子供を交通事故で失った夫婦の再生へむけた歩みをきりとった映画。家の廊下にはなくなった二人の男の子の写真が額に入れて飾ってある。子供の頃から彼らが死んだ17才と15才の時までの写真。妻はそれを見て毎日をすごすだけ。二人を失ってから生んだ娘はベビーシッター任せ。失意のどん底からまだ這い上がれない妻に対して夫がおこなった最後の荒療治。それがこの物語。夫は妻に仮の息子を与えるために、性格は次男に、面影は長男に似た男の子をアシスタントとして雇った。
アーヴィングの話には近親相姦の構図というのはよく出て来るそうだが、この物語ではなかった。しかし、この男の子を通しての仮想近親相姦と見ることはできるかもしれない。

タイトルの「ドア・イン・ザ・フロア」とは、作家である主人公が書いた絵本のタイトル。そのドアの下にあるものは・・女性にとっては、それはこの世界の下にたえず存在するが、見ないことにしている恐怖・・? 男性にとっては、それは現実の世界・・? そしてそのドアとはヴァギナのこと・・? いろんな解釈が出来るし、多分それはひとつの解釈にとどまることはないだろう。いろいろ含みのある映画だ。

トータルな印象としては、それでも他のアーヴィングの作品よりはなんとなくさらさらしてたかな・・という気がした。そのさらさら感がきもちいい。

<あらすじ>
交通事故で二人の息子(17才のトムと15才のティム)を失ったマリアン・コール(キム・ベイシンガー)にはその後に生まれたルーシー(エル・ファニング)もいるのだが、彼女にはほとんど感心をしめせないくらい虚無感に飲み込まれている。ルーシーの世話は雇ったベビーシッターの女の子が担当していた。そんな妻を虚無感からなんとか救い出しと思いたった夫のテッド・コール(ジェフ・ブリッジズ)は、長男のトムによく似た小説家志望の高校生エディ(ジョン・フォスター)をアシスタントとしてひと夏雇うことをきめ、彼との時間を持たせるために別居を申し出る。彼が始めてロングアイランドの家を訪れたときも、自分で出向かず、マリアンを迎えにいかせた。・・・多分その意図は、どこかの時点でマリアンも感づいていたのだろう。

そんなテッドは、仕事に必要なモデルとしてヴォーン婦人(ミミ・ロジャース)をやとい、彼女のヌードを描いている。もちろん情事もかさねているようだ。彼は小説家であると同時に、挿絵を自分で描いているのだ。二コール・キッドマン以前のトム・クルーズの奥さんだった人だが、体形が崩れかけた熟女であり、匂いたつ感じだ。

事情は知らないエディだが、マリアンの美しさに魅了され、彼女を想いながらオナニーにふける。しかしそのシーンをマリアンにみられてしまう。だからといって騒ぎ立てるわけでもなく、彼が自分を想いオナニーをすることを受け入れるマリアン。そして二人の息子の写真をみながらつぶやく。
「二人はしてたかしら? ・・トムは女の子に人気があったらしてたかもしれないわね。ティムは・・シャイだったからしてないわね。 男の子ってしたいものでしょ?」
「はい。死ぬ前には・・」
ブラウスのボタンをはずしていくマリアン。その意図を理解し自分も服をぬぐエディ。マリアンはエディの手をとり自分の股間を触らせるが、エディは興奮のあまりそれだけでイってしまったようだ。ベットにふたり寝そべり、それだけでもう満足してるというエディを、やさしく、きちん最後まで完了させあげるマリアン。

その夏エディはマリアンと60回セックスをしたという。
そして、マリアンは二人の写真とネガをもって出て行った。


この映画をみて、思い立ったのが、その前にみた『恋愛症候群』のなかにある言葉。

「誰も自分の感情にはさかられないのよ・・」

マリアンは娘を捨てて、二人の写真だけとネガだけをもって消えたのだ。夫のテッドは「俺の息子たちでもあるんだぞ、半分は残していってもいいだろう。ルーシーはどうなる。親権を放棄するのか?」
彼女の心の傷は、理性など入り込むスキもないのだ。そのくらい壊れている。
こういうひとつひとつの言葉と描写が、見てる人の心にじわああああああっと沁み込む、凍えるのよに冷たく、美しい映画だ。
by ssm2438 | 2009-10-12 14:03
f0009381_242279.jpg監督:ダグラス・デイ・スチュワート
脚本:ダグラス・デイ・スチュワート
撮影:フレッド・J・コーネカンプ
音楽:デヴィッド・フォスター

出演:カーク・キャメロン
    ジェイミー・ガーツ
    ロイ・シャイダー
    ティム・クイル
    アマンダ・ピーターソン

     *     *     *

実はこの1年、私に多大な影響を与えてくれた英会話学校の先生が1年後の留学(予定)を控えて辞めてしまい、とっても残念な気持ちになってしまってる最中。プライベートでも仲がよかったのでほんとに淋しい思いをしてる。
彼女は‥‥、私が“アニメーターになるぞ!”って思たち、それを成し遂げたように、大学の間に英検1級を取ってしまった人。それも海外留学の経験などなくて、国内の勉強だけでそれを成し遂げしまった人。 1つの目的を成し遂げるとは、こういうふうにするんだ。こうしたら出来るんだ‥って知ってる人。
“これを成し遂げたい”って思い立ったら、その時はもう、その人のなかにそれを成し遂げるだけの力は存在してる。あとは、そこまでの道のりを具体的にイメージして、それを1つ1つ成し遂げて行けば、最後にはそれが出来てしまうんです。何かを成し遂げた人は、そのことを確かめだけ。誰もが出来ることを、自分も出来るんだって確かめただけ。私が東京から、岡山まで歩いて帰ってみたのも、誰もが出来ることを、自分も出来るんだって確かめてみただけ。 そのことを彼女も知ったんです。そんな彼女の事を想うと、やっぱりマイナーだけどこの映画は紹介しとかないといけないかなって思ってしまった。
今回はほんとにマイナー中のマイナー映画、この映画を知ってる人がいたら、かなりの目が肥えてる人だといって間違いないでしょう。 この映画、公開されたときは『青春!ケンモント大学』。 ビデオ発売になってか原題どおり『リッスン・トゥ・ミー』に変更されてます。 東京でもマイナーな公開で、銀座の映画館1館だけ、それでもどうしても観たくて行って、 えらく感動して、最終日にもう1回見に行ってしまいました。

当時の日本の内角は海部内角時代(だったと思う)。その海部首相が大学時代にディベート部だったってことが話題になったことがあったけど、この映画はそのディベート部の話。
当時‥‥というか、今もそうですが、私はシナリオ回しで見せてくれる映画が好き。裁判ものなんかは大好きでした。大袈裟なアクションも無ければ、ミラクルもない。ひたすら台詞回しだけで見せて行かなければならない、ライターさんの技量 次第ってところが大好き。この映画、裁判ではないけれど、似たようなものですよね。 監督は『愛と青春の旅立ち』のシナリオライターだったダグラス・デイ・スチュワート。 メガホンを取るのはこれが始めて。 “あの映画の脚本家の人が監督やって、それもディベートが題材なら意地でも見なければ‥‥”って思って観たのがこの映画。
観た感想は、とにかく言葉が熱い! 燃える! あと、お金、無かったのね‥‥(苦笑)。
キャストみても、ほとんどの出演料はロイ・シャイダーが持って行ってるんじゃ無いかと思うし、たぶんそうだろうし。 できるなら、主演の女の子はもうちょっと別 嬪さんにしてほしかった‥‥かな。


夏休みが終り新学期がはじまったケンモント大学に、ディベートの奨学生としてタッカー(カーク・キャメロン)とモニカ(ジャミー・ガーツ)が入学してくる。タッカーのルームメイトの上級生ガースン(ティム・クイル)、ディベート(弁論)部のエース。しかしそんな彼の本来の夢は作歌になる事で、ディベートは政治家である彼の親が、彼に跡を継がせようと試みてるその準備段階でしかなかった。
親の呪縛から逃れられないガ-スン、他人からみれば総てを持っているかにみえた彼は、「自分には何も無い」と嘆き、酔った勢いで強引にモニカに安らぎを求めるが、拒まれ、それがもとでタッカーとこずき合いになり、あげくの果てにガースンは道に飛び出して車にひかれ、命を落とす。大会の最終弁論は、タッカーとモニカが名門ハーバード大学に挑むことになる。テーマは妊娠中絶問題。押され気味の中、土壇場にモニカが14才の時のレイプ体験を告白、形勢を逆転した。最終弁論はタッカーが怒濤の熱弁、ダグラス・デイ・スチュワートの言葉力炸裂。

とにかく言葉が熱い映画でした。
それぞれのディベートのシーンで発するそれぞれのキャラクターの言葉に力があり、個性があり、熱い。 この映画をみてると、最近の『小説家を見つけたら』の最後で、ショーン・コネリー扮する伝説の作歌が朗読する主人公の作文を、台詞なしの音楽だけをかぶせて、雰囲気だけで見せてしまったあの逃げ腰演出とくらべると、全然インパクトが違った。やっぱり文字を書く人は、言葉で感動させないといかん!!って思ってしまったよ。 (そうはいっても『小説家を見つけたら』>はそれほど嫌いではない映画ですけど) 以下は、タッカーが入学してディベート部で始めて弁論するシーンの台詞。

帽子のなかにある紙切れを取ると、そこにテーマが書いてあってそれにそって演説するというもの。
彼のひいた紙には『人生の選択』(台詞だと“Character is Destiny”と言ってるように聴こえた)と書いてあった。

この紙には『人生の選択』と書いてある。
ワトンガ出身の田舎者流に解釈させてもらうなら、
人生には性格を選択する時が来る。
いつかは判らない、‥‥15歳か、50歳かもしれない。
たとえば道端に10ドル札が落ちていたとする。
神様以外は誰もあなたを観ていない。‥‥どうする?
ネコババするか、それとも落とし主を探すか‥‥、
決めた瞬間からあなたの性格は形作られて行く。
それが人生なのだ。 (ききほれるガースン、および一同)

貧乏な同級生が居て、古タイヤで作った靴を履いていた。
服は<慈善家の施し>というブランド。
貧困ダイエットで高1の時<くる病>にかかった。
公衆電話から金を盗み、彼は捕まった。
そして高2のほとんどを少年院で過ごした。
精神科医も見離した。
しかし彼が復学すると学年で最高の成績を取り、
有数の名門大学に引き抜かれた。奨学生だ。

(ガ-スンが合の手を入れる)
“Tell me, Country bay. How did he make his change?”
  
(タッカーが答える)
“One dark night, in a smelly cage for animals,
he decided to stop listening to all the negative voices
and all the negative people,
instead of believing his own potential was infinite.”

[‥‥総ての否定的な意見に耳を傾けるのを止め、総ての否定的な人に耳を傾けるのを止め、 その代わりに信じることにした、自分の可能性は無限であること] ‥‥この台詞はしびれましたね。

それを信じることは出来ないかもしれないけど、信じる事にする事は出来る‥って。 当時、この台詞はどうしても知りたくて、ビデオが発売されたらすぐ買ってしまいました。 今となってはどう考えてもDVDにはしてくれそうもない映画なので、私にとってはめっちゃくちゃ貴重な映画になってます。
この映画自体は、金が無くてチープなパッケイジングになっててて、宣伝もろくにしてもらえず、ほとんどの人に知らてない超マイナーな映画。それでも私の中では、この台詞だけで10点満点あげちゃいます。
そしてドラマの最後、タッカーの最終弁論の最後は、 これが卑怯にもドストエフスキーの言葉でしめくくるんだ。 やるなあ、ダグラス・デイ・スチュワート。見事にしてやられました‥‥って感じでした。
by ssm2438 | 2009-07-20 15:33

アリスの恋(1974) ☆☆☆

f0009381_5354189.jpg監督:マーティン・スコセッシ
脚本:ロバート・ゲッチェル
撮影:ケント・L・ウェイクフォード
音楽:リチャード・ラサール

出演:エレン・バースティン
    アルフレッド・ルッター
    クリス・クリストファーソン
    ジョディ・フォスター

        *        *        *

はは、ほんとにミサエとしんちゃんだ。ジョディ・フォスターわかい!

これはシナリオ回しが上手い映画になるだろう。主人公のアリスと息子のトムの会話が絶妙。そしてアリスが働き始めたレストランでの同様のウェイトレスとのやり取りや、恋人となるデビッドとのやりとり、そして極めつけは最後のプロポーズ。まさに台詞で魅せた映画だ。

<あらすじ>
夫の交通事故で突然未亡人になってしまった32歳のアリス(エレン・バースティン)。ほとんど会話もなく、いらつくとどなりちらすだけの夫、そんな夫におびえてすごした結婚生活。お世辞にも幸せとはいえないこの場所、アリスは「もう二度とここへは帰らない」と決意をし、息子のトム(アルフレッド・ルッター)をつれて故郷のモンタレイへ帰り、子供のときからの夢だった歌手として出直すことを決意する。

とにかく息子のトムがじつにしんちゃん。しんちゃんよりかなり年上だけど、精神年齢はあのくらい。さらにやっかり。二人とやりとりもじつに子供じみていていいのか悪いのか、まあしつけが行き届いてないなあって感じ。あのまま大人になったら社会はこまるだろうなあ。

ただ葬式で所持金を使い果たしていたので、モーテルに泊まりながら、途中のバーで稼ぐしかない。歌い手ということで売り込むがなかなか仕事はなく、結局レストランのウエイトレス。しかし、そこでデビッド(クリス・クリストファーソン)なる男に出会う。彼は店によく顔を出し、あのきかん坊トムと仲良くなり、休暇は自分の農場に連れていった。その縁でデビッドとの間にロマンスが芽ばえた。一方トムはギターの練習で一緒だったおしゃますぎる少女オードリー(ジョディ・フォスター)と仲良くなる。一緒にワインを呑んだり、ギターの弦を万引きしたり・・。
休暇でデビッドの家にいき、パーティをやろうかという時、トムはデビッドに徹底的に反抗した。多分母が彼と仲がいいのが少し気に入らないかったのだろう。あまりに反抗てきなトムに腹を立てたデビッドは、思わず彼を殴りつけてしまった。どんな理由があろうと、自分の息子への暴力は許さないアリス。デビッドに絶交を告げ、トムのあとを追った。そんなアリスにも、トムは悪態をついて一晩帰ってこなかった。
翌朝、警察からの電話で、トムが酒の呑みすぎで補導されたことを知る。とうとうアリスは故郷へ帰ることを決心した。だがデビッドが店にやってきて、みんなの前でアリスにプロポーズ、おの素朴なプロポーズがまた感動できてだった。それはみてのお楽しみ。

『恋人たちの予感』といい、この『アリスの恋』とい、洋画のプロポーズの台詞はイカス!!
by ssm2438 | 2009-07-09 05:09
f0009381_20294957.jpg監督:ノーラ・エフロン
脚本:ノーラ・エフロン
    デリア・エフロン
撮影:ジョン・リンドレー
音楽:ジョージ・フェントン

出演:メグ・ライアン
    トム・ハンクス

        *        *        *

『めぐり逢えたら』(1993)につづいてノーラ・エフロンメグ・ライアントム・ハンクスというゴールデン・ラブコメ・トリオによる2本目の映画。1940年に作られたエルンスト・ルビッチ『桃色の店』の手紙のやりとりを今風のメールに置き換えたリメイクである。ただ、このときはトム・ハンクスがデブでちょっといただけなかった。気のせいか、メグ・ライアンもいまいちテンションさがりぎみに見えた。トム・ハンクスがもっとスマートだったら普通に見られたのに・・。
なんでこのときトム・ハンクスがあんなにデブだったかというと、同時期にロバート・ゼメキス『キャスト・アウェイ』という映画をとっており、この映画が、航空機事故でどこかの島に一人流されてサバイバルするというもの。島に流されるまでの前半~中盤はデブでなくてはいけなくって、それから半年間撮影は中止、その間にトム・ハンクスは20~30キロの減量をし、後半部の撮影にはいる契約になっていたとか。で、そのデぶな時期に撮影がかちあってしまったのがこの『ユー・ガット・メール』。おかげでのこの映画のなかのトム・ハンクスはデブだったそうな。

このころになるとメールでのやり取りは社会に浸透していて、だれもが見知らぬ人とメールでやりとりをしてみるということをしていた時代。私もこの映画がはやるすこしまえくらいから、当時のニフティ・サーブでパソコン通信と言われるものをやっていて、ネットでメルトもをみつけてメールを書いていた。楽しかった。当時のニフティはまだ実名表記だったので、言葉に責任もある。そのなかでのメールのやり取りだったのでその後7~8年続いた人3~4人はいた。それ以降は現在のようなハンドルネームでやり取りをしあう形が主流になってきて、そこで知り合った人たちとはほとんど長続きしなかった。おかげで今でもハンドルネームでのやり取りは嫌いである。

そうはいっても、見知らぬ人との言葉のやりとり、そしてその人と会ってみようかってことになったときに喜び、で、あってみるとほとんどの場合はイメージと違ってメールはそれっきりになる夢の終わりは現実・・。あれは相手を勝手に自分で想像していたから楽しかったのだ・・と知る。
しかし、この映画はあってからも、つづいていく話。でもそのシチュエーションの作り方が上手い。さすがノーラ・エフロン

ノーラ・エフロンの脚本は実におもしろい。『恋人たちの予感』『めぐり合えたら』『マイケル』など。センス・オブ・ヒューモアにあふれてる。気軽に見たいときはこの人の物語は最高にいい。最初にみたのは『恋人たちの予感』だったが、最初みたときはそれほどでもなかったのだ、でも、何年かたつとなかなか忘れがたい映画であることにきづいた。それ以降、この映画の評価は私のなかでは高い。それ以降は脚本だけではなく監督もやるようになっていて、この『ユー・ガット・メール』も監督・脚本をこなしている。最近はニコール・キッドマン主演で『奥様は魔女』作っていたが大ハズレ。あれはみてないことにしよう(苦笑)。

<あらすじ>
ニューヨークのある街角。亡き母から受け継いだ小さな絵本の店を経営するキャスリーン(メグ・ライアン)はインターネットで知り合った顔も知らないある相手との交信に心ときめかせていた。一応恋人フランク(グレッグ・キニア)がいるが二人はいまいち停滞気味。ある日、彼女の見せの近所に大手チェーン店=フォックスの巨大な本屋が出現することになる。彼女はその見せに行ってみるが、そこの御曹司ジョー(トム・ハンクス)と反目し合う。しかし彼こそ例の交信相手だった。ジョーもまた編集者の恋人パトリシア (パーカー・ポージー)よりも、未知の相手との交信に安らぎを覚えていた。
やがて二人は会ってみようということになる。しかしキャサリンは待ち合わせの店で待っているがそれらしい相手は来ない。そうこうしてるとライバル店の御曹司ジョーがあらわれる。「なに待ち合わせ、相手が来るまで話していようか」てな展開に・・・。

その後に出てくるエレベーター・エピソードはあっちこっちの映画やドラマでもときどきみられることになる。
ジョーが乗っていたエレベーターが突如停止、ここから救出されるのかどうかもわからない。もしかしてケーブルがおちらそれで終わり。その中に乗り合わせた人々はそれぞれ決意表明していきます。その中の一人の男は「俺はここを出られた彼女に告白しにいく」って。それを聞いてジョーも決意する。
by ssm2438 | 2009-07-07 19:33 | ノーラ・エフロン(1941)
f0009381_16443938.jpg製作総指揮:アーロン・ソーキン
脚本:アーロン・ソーキン

マーティン・シーン(バートレット大統領)
ジョン・スペンサー(レオ・マクギャリー主席補佐官)
ブラッドリー・ウィットフォード(ライマン次席補佐官)
リチャード・シフ(トビー・ジーグラー広報部長)
アリソン・ジャネイ(CJ・クレッグ報道官)
ロブ・ロウ(サム・シーボーン広報部次長)
デュレ・ヒル(チャーリー・ヤング私設秘書)
ストッカード・チャニング(バートレット大統領夫)
ジャネル・モロニー (ドナ・モス=ジョシュの秘書)

     *     *     *

『アリー my Love』の次にはまったのが『ザ・ホワイトハウス』(原題:The West Wing)(1999~2003)にすることにしました。年代は実は第4シーズンまでの年代の表記にしてあります。というは、脚本・総指揮のアーロン・ソーキンが第4シーズンまでで降りてしまったので、このドラマもそこまでで良いかなって思って。

原題になっているウエスト・ウィングというのは、ホワイトハウスの本館の西側の棟。大統領執務室 (Oval Office)、閣議室、国家安全保障会議室のほか、副大統領、首席補佐官、大統領補佐官、報道官、法律顧問、上級顧問などの上級スタッフのオフィスなどが入っており、ここがアメリカ政府の中枢になる場所。
ちなみに東の棟はイーストウィングと呼ばれ、ファーストレディー執務室とそのスタッフのオフィス (The Office of the First Lady)、およびホワイトハウス社会事業室 (White House Social Services) が入っている。また地下は核シェルター機能を備えた大統領危機管理センター (Presidential Emergency Operations Center) となっている。
中央のメインハウスは「レジデンス (Residence)」とも呼ばれ、大統領とその家族が暮らす公邸であるほか、外国首脳や議会関係者など要人との会談や、条約や重要法案の調印式、上級公職の任命会見、重要な記者会見、招待者との会見、晩餐会やレセプション、その他の公的な行事が行われる場所でもある。(ウィキペディア参照)
ちょっと気になって調べてみたのだが、ホワイトハウスの南側は円形のバルコニーがあり、通りに面した北からみると四角い入り口になっている。どちらも正面に噴水が在るので似通ったイメージがあるのでちょっと迷うのだが、丸いバルコニーの見える時にはウエストウィングは左側にある棟ということになる。

脚本・総指揮のアーロン・ソーキンはそれほど多くの映画にからんでいるわけではないようだ。『ア・ヒュー・グッドメン』『冷たい月を抱く女』『アメリカンプ・レジデント』くらい。基本的には政治・裁判モノが好きらしい。この3つの映画全部みているのだが、どれもそれほどぱっとする訳ではなく、やはりデビット・E・ケリーと同様、映画ベースよりもテレビベースのほうが馴染む人だ。少なくともこの『ザ・ホワイトハウス』はすごいドラマになった。エミー賞4年連続取っただけのことはある優れものだ。
ドラマのシナリオはシーズン4まではソーキンが書いているのだが、それぞれの話数のディレクターは何人かで持ち回っている。が、やはりトーマス・シュラムが演出した話数は良い。何気ない会話のはずが思わずぞわぞわっとこみ上げて来る感動が在る。間がいいんだ。私もコンテマンにコンテをお願いする時に、「それぞれのキャラを台詞のたびにUPで撮らないように、UPで撮るなら黙っている時にしてくれ」と良く云うのだが、これをみてるとつくづくそう思ってしまう。黙ってる男のUPは良い。

このドラマのポイントは「プライド」の扱いなのだろう。アメリカ人の持つ、お互いのプライドを認めつつのせめぎ合い、これが日本人にはやたらとかっこ良く見えるだと思う。相手のプライドを傷つけないように退かせる交渉術。うむむ~~、大人の世界。
どうしても日本の社会だと、「能力のない人間はプライドも高く持つべきではない」という認識があるようだが、あちらのドラマ、社会というのは、「あなたはいっぱい勉強して判断を下す立場にいるけど、あなたが偉いわけではないのよ。もちろん社会のなかではその判断を下す人ということリスペクとはするけど‥‥」という共通認識があるような気がする。『アリー my Love』なんかをみてもそう思うかな。<弱者もプライドを持つ! 弱者にもプライドがあることを認める>ということがアメリカ社会ではとっても大事な事なんだなあって思う。
これが出来ないうちはまだまだバーバリアンのうちなのかもしれない。

ちなみに今日見たのはシーズン3の2話。いよいよバートレットが選挙戦に打って出る話。行く手にはMS(多発性硬化症)の隠蔽疑惑に関する諮問委員会が待っている中、どう考えても不利な状況で再選を目指して一同が団結する。話数の前半では新しく選挙運動に加わったスタッフとの確執やら、MSを隠されていた事へのスタッフの中にある不信感やら、バートレット大統領とそのファーストレディとのぎくしゃくやらがあって、こりゃたいへんそうだなあ‥‥っていうのを見せつつ、選挙戦はじまるぞ!っていう最初のイベントの前に、バートレットはスタッフを前にMSを隠していた事をスタッフに正式に謝罪する。そしてこう続ける。

You can win if you run a smart disciplined campaine.
...if you studiously say nothing.
Nothing that causes you trouble, nothing that's a gaffe,
nothing that shows you think a wrong thing,
nothing that shows you think...
But it isn't worthy of us, is it?

It isn't worthy of us or America. It isn't worthy of a great nation.
We're gonna write a new book, right here, right now.
This very moment today.

勝つ為には、抜け目のない戦略をたてる事ともうひとつ、‥‥なるべく口を開かない事だ。
トラブルや批判を招くような事は云わない。
何を考えているのか明かさないようにする。そうすれば勝てるだろう。
‥‥だが、それは我々にふさわしい闘い方か?

そうとも、我々にも、アメリカにもそんな闘い方はふさわしくない。
歴史の1ページを今日、ここから作ろう。たった今、この瞬間からだ!

     *     *     *     *

いや~~~、いいですねえ。そうだそうだ、ソクラテスなんてくそくらえだ!って思ってしまったよ。
きっとソーキンも嫌いだと思うなあ。
議論に勝とうと思ったら自分は何もしゃべらず、相手に発言させどっかでぜったい失言するからその時に揚げ足をとればいい。
だけどじゃ、相手がいなかったらお前は何を語るのだ!?
というわけで、個々に<ソクラテスは嫌い@西澤=ソーキン同盟>が成立したのでした。

しかし、ここは以外と日本語のほうがかっこ良く聞こえたりした。
『ザ・ホワイトハウス』(原題:The West Wing)に関してはけっこう日本語訳っていうのは大事なのである。事が事だけにかなり内容が複雑なので字幕だとちょっと思考が追いつかない事が在る。かといって、日本語音声だけだとほんとの内容が解らない。私はこのドラマのDVDを見るときは最初に日本語音声+日本語字幕にしてみて、それから日本語音声+英語字幕、最後に英語音声+英語字幕にしてみる。なんかい見ても飽きないからいい(笑)。
by ssm2438 | 2009-06-22 14:11