西澤 晋 の 映画日記

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2009年 02月 12日

ボウリング・フォー・コロンバイン(2002) ☆☆

ボウリング・フォー・コロンバイン(2002) ☆☆_f0009381_059565.jpg監督:マイケル・ムーア
脚本:マイケル・ムーア
撮影:ブライアン・ダニッツ
    マイケル・マクドノー
編集:カート・エングフェール
音楽:ジェフ・ギブス

     ×     ×     ×

物語はこのようなマイケル・ムーアのモノローグから始る。

「1999年4月20日、アメリカ合衆国は普段通りの穏やかな朝を迎えた。人々は仕事に励み、大統領は国民が名前さえ知らない国に爆弾を落とし、コロラド州の小さな町では2人の少年が朝6時からボウリングに興じている。何の変哲もない予定調和な1日のはじまり…。このあと、2人のボウリング少年が悲劇的事件を起こそうとは、いったい誰が予想しただろう。その日、アメリカは旧ユーゴスラビアのコソボ紛争における最大規模の爆撃を敢行した。その1時間後、あのコロンバイン高校銃乱射事件、別名トレンチコートマフィア事件が起きたのだ。事件の舞台はコロラド州リトルトンのコロンバイン高校。そこの生徒である2人の少年が、高校に乗り込み銃を乱射。12人の生徒と1人の教師を殺害したのち、自殺するという衝撃的なものだった…」

一言でいうとこの映画は、ムーアからのアメリカ銃社会への批判なのである。 深く考えなければとっても面白い作品だし、アメリカが嫌いな人にとっては、ムーアはその旗ふり人としての役目は十分果 たしている。へんなデブのアメリカ人が、強者である政府なりライフル協会なりを攻撃している。やれやれ~~ってなもんです。 ただ、そこに行く前に、この映画が面 白いドキュメンタリーとして出来ていることも事実なのである。 その分析もしっかりしている。


‥‥銃による悲劇的な事件がおきると必ずその街にはチャ-ルトン・ヘストン『ベン・ハー』『猿の惑星』などで有名な彼は、全米ライフル協会の会長もやっている)がやってくるらしい。銃規制の運動が起こりそうなところに先回りして、「銃が人を殺すんじゃない、人が人を殺すんだ。我々は銃を渡さない」と高らかに唱え銃規制の運動を牽制する集会も開く。 ただ、実際に「銃が人を殺すんじゃない、人が人を殺すのだ」という提言は外れている訳ではないようだ。この映画のなかで、具体的に銃による年間の平均犯罪件数を国別 にだしている。
ほかの先進国、ドイツ、フランス、イギリス、韓国、カナダ、での犯罪件数はほどんどが2桁、イギリスなんかで3桁にのってるような数字。日本はもちろんその中では最小39件(これは銃が規制されているのだから当り前のように思える数字だが)。ただアメリカだけは1万1000件を越えている。しかし、同じように銃が自由にもてるカナダでは、銃による犯罪件数はその他の先進国なみに少ない。なぜカナダでは少なくてアメリカではこれだだけ銃による犯罪がおきるのか…。 そこでマイケル・ムーアが辿り着いたのは「恐怖感染症」セオリー。

「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ。特にアメリカ人がアメリカ人を殺すのだ、もっと言えばアメリカン・コケイジャンがそれ以外の人種を…」。移民の国アメリカ。多民族の国アメリカ。黒人の奴隷を輸入しそれを労働力に築き上げた今の地位。その支配と建設の歴史の中で、白人系アメリカ人の無意識に刷り込まれてきた踏み台にしてきた者達への恐怖心がある。この「恐怖症」は感染し拡大するのだ。恐怖心から「ヤられる前にヤれ!」って防衛本能が過敏になり銃を必要とする。もし相手がその徴候に陥っているなら「じゃあそれより先に…」ってな先手必勝競争になるのが、この「呪い」の怖いところ。その「呪い」にも似た強迫観念こそが問題なのだ…とするムーア。
実に正しい見解だと思う。 で、最後はチャ-ルトン・ヘストンの自宅に取材を敢行。 あたかも『悪』の象徴のように、そのときの取材テープを最後に流す。 この映画、ドキュメンタリーという形式をとりながら、実に面 白くつくられている。分析も確かだ。
でも、なにかうさん臭いものも感じる。それは何? それが今回のテーマ。 結局それは、<You shouldn't do that>のスピリットなのだろう。

『アリー my love 』ファーストシーズンの8話にリチャードのこんな台詞がある。

I realize employees will always gripe. It's part of being an employee.
  It's the nature of an employee to complain.
Anybody who isn't happy, leave. If you all go,
  John, we'll just have to start another firm. So there's always another one.

雇われてるものはいつだって不平を言う。それは被雇用者の一部みたいなもんだ。
  それこそが、雇われているものの性だ。
もし、自分が不幸だと思うものがいたら、出ていってくれ。
ジョン、もし、誰もいなくなったら、オレたちはまた新しいファームを作ればいいだけだ。
  何時だって次の選択肢があるさ。

‥‥たぶんね、自分が何かに対して不平を言う時、それは自分がそのものの従属者になっている時なのだろう。
まず誰かが何かをして、それに対して働きかける二次的存在。 それが自分に有利なものなら文句は言わないが、不利益だと判断すると文句を言う。
‥‥でも、もし、その誰かが何もしなかったら、自分は何をするの?

人は結局<I want to do this>person と<You shouldn't do that>person に別れてしまう。
たしかに<You shouldn't do that>person は楽だ。 自分から自分の欲望をみせなければ人から非難されることもない。良い子で居られる。 でも、ずっとそれをやっていたら、知らず知らずのうちに自分が自分でなくなってしまう。 自分が自分でなくなってしまうから、自分が自分であり続ける人に嫉妬してしまう。彼等も<自分>を失わせたいとさえ思うようになる。そこれこそが危険なのだ。
もし、今の時代が最高のもので、それを維持することが我々の命題なら、それでもいいかもしれない。でも、実際はそうじゃない。その時代の人にとってはその時代が最高なのかもしれないが、たとえば、私達の子供の世代にとっては、我々が今生きているシステムは苦痛になるに違いない。そして彼等はそれを変えて行くべきなのだ。たとえ古い世代にとってそれが辛いことでも。
今在る世界はなぜこうなのかと聞かれたら、それは総べて<I want to do this>スピリットが<You shouldn't do that>スピリットより、ほんのすこし勝っていたから小さな細胞から人類にいたるまでの進化がなされてきたのだろう。
100万の<You shouldn't do that>の言葉より、ほんの1つの<I want to do this>の言葉のほうが遥かに貴重なのだ。少なくとも私はそう思う。

なぜ、チャ-ルトン・ヘストンは、そこまで叩かれながら、銃を守らればならないのか? かれが守ろうとしてるのは決して全米ライフル協会の利益じゃないんだと思う。それはアメリカ人、ひとりひとりがもつ、<I want to do this>のスピリット、そのもっとも根源的なもの<強くなりたい>のスピリットなんだろうなあと思う。
より高い理想をかかげる人は、それに至らない自分を感じて悔しいと思う。それが出来ない自分にいたたまれなくなくなる。だからといって、じゃあ、高い理想を求めないで、その悔しさを感じないために自分をごまかして、プレッシャーから逃げつつける生き方でいいのか?
みんながみんなそれをやる必要はないけど、アメリカはそう在って行こうよって、それがアメリカの誇りなんだし、自分達はそれをキープして行こうよ。より大きな勝者が生まれれば、そこにはより多くの敗者があり、そこから憎しみもうまれ、それに対する恐怖も生まれる。それでも、その十字架を背負ってもアメリカはアメリカの誇りを守って行こうよ…、そう思ってるのだと思う。
そう、これは彼が勝ち組だから言えることでもあるんだけど、じゃあ、負け組は勝ち組をなんでもかんでも非難していいのかって疑問に思う。そこからくる嫉妬心が、正義を顔をするとき、なんか無性にうさん臭いものを感じてしまう。アメリカっていうのは、善くも悪くも、そうやって、より多くの痛みを抱えながら生きて行かなければならないのだと思うなあ。それを非難する人は今の状況ではおおいのだろうが、ひとつくらいそんな生き方をしてる国があってもいいと思う。
アメリカがほかの国と一緒じゃつまんない。
腐ってもアメリカという国は好きなニシザワでした。。。

by ssm2438 | 2009-02-12 06:21


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