西澤 晋 の 映画日記

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2010年 04月 26日

ペーパー・チェイス(1973) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ペーパー・チェイス(1973) ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆_f0009381_17115363.jpg監督:ジェームズ・ブリッジス
脚本:ジェームズ・ブリッジス
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:ティモシー・ボトムズ
    リンゼイ・ワグナー
    ジョン・ハウスマン

     *     *     *

リンゼイ・ワグナーつながりでもうひとつ。私の大好きな『ペーパーチェイス』『ふたり』とともに見たくて見たくてしかたがなかった映画であるが、こちらは幸いにしてVHSが発売された。20代の頃の私はこの映画をレンタルビデオ屋で見つけてどれだけ幸せになったことか。しかし、そのときはこの映画の価値など理解してもいなかった。ただ若き日のリンゼイ・ワグナーが出てる映画というだけしか興味はなかったのだが、みてみて驚いた。良い!! 恐ろしいまでにツボだった。いろんな意味でツボにはまった。

まず第一に、私はお勉強映画というのがけっこう好きだ。本作品は時代が時代だけにアンチ権力、アンチ権威的な匂いもしないではないが、それでもそれと戦うには最低限度の力をつけなければ何も出来ない。それを見せ付けてくれる。実力がなければなにもいえない世界。何かを主張したいのなら実力をつけなければならない。その厳しさがきちんと描かれていてることがとってもうれしかった。

第二に、リンゼイ・ワグナーがやっぱり美しい。私が知っていた彼女は『バイオニック・ジェミー』の彼女であり、この映画はそれより何年か先につくられている。がゆえに私がそれまで知っていた彼女よりも若いのだ。残念ながらグラマーなたいぷではないが、それでもかのじょがもつゴージャスさは十分にかもしだされていたし、どんな服装をしてみ素敵だった。そして彼女が出ている映画が「良い映画」だったってことがうれしかった。

そして第三にゴードン・ウィリスの画面。この映画ほど「氷のフィルター」をつけた感じの映画はないだろう。キングスフィールドの講堂、冬の公園やスタジアム、レッドセットの棚。とくにこの図書館に代々保管されているという教授のノートが保管してあるレッドセットの棚。あの赤さは素敵だ。この映画はキューブリック『2001年宇宙の旅』とさりげなくリンクしていると感じるのだが、あのコンピュータHALとこの映画のレッドセットの棚は実に同じ空気を感じる。もちろん作っている当事者はそんなことはきにかけてもいなかっただろうが、偶然にしてもあの同じように冷たく赤いあの感じは素敵だ。

最後に、そこに描かれている人間性。どうも私はあのくらいの人間と人間の距離感がすきらしい。ちかすぎてべたべたするのもあんまり好きではないし、かといって離れすぎてクールすぎるのもいまいち好きになれない。ちょっと距離をおいたつながり・・というのだろうか。あの空気感が好きだ。
結局のところ、この映画のもってる空気感が肌にあうのである。

そしてもうひとつ記しておきたいことがある。この映画実はイングマル・ベルイマンがシナリオを書いた『もだえ』と実にシチュエーションがにているのだ。こちらはラテン教師なのだが、『ペーパーチェイス』に出てくる完全無欠の歩く法律キングスフィールドは、あのラテン教師がベースに違いないと勝手におもいこんでいたりする。


この物語は主人公のハート(ティモシー・ボトムズ)はハーバード大学法学部の学生、そんな彼もキングスフィールド(ジョン・ハウスマン)の講義初日にその甘さをしたたかにうちのめされる。寮に帰るとトイレにはいり絶叫を便器にぶちまける。一筋縄では蹴落とされることを初日に心にきざむことになったハートは、向かいの部屋の血筋のよさげなフォード、巨漢で傲慢な部分があるベル、のちにアリーマイラブでアリーの父親役をやるケビン、常にマイペースでスマートに総てのことをこなしていくアンダースンたちとスタディグループをつくる。そこでは各自が講義の担当を決めてその講義に関しては責任を持ちノートをまとめ、テスト前にはそれを交換しあう約束をかわす。そのなかでハートはあえて強敵キングスフィールドの契約法の担当に自ら名乗りをあげる。

彼らにとって<女>は禁物だといわれている。女に割く時間があれば勉強したほうがいい。ペースの乱れが総てを台無しにしかねない。ハートもそれをわきまえてこつこつを勉強していくうちにキングスフィールドの講義でも徐々に頭角をあらわしてく・・が、ある晩ピザを買いにでかけたよるスーザン(リンゼイ・ワグナー)と知り合い付き合うようになると、勉強のペースがみださてていく。そして実は彼女がキングスフィールドの娘であることにきづく。
この物語の基本構造は、人間性ゼロの法律マシン=キングスフィールドと人間性の必要性をとくちょい甘のスーザンとの間でゆれるハート・・・という構成になっており、結局のところ人間性をもちつつキングスフィールドの知識も得る方向性でまとめあげている。

勉強のほうも少しずつ落ちこぼれていくものも出てくる。ケビンもその一人だ。
キングスフィールドのクラスにおいてはソクラテス方式の講義が行われている。Q&A、Q&Aの繰り返し、そのなかから自分なりに体系的にまとめ思考することを養っていく。しかしケビンは写真的記憶力にたより、思考することを得意としなかった。それがそれまでの彼の勉強スタイルだったのだろうがここではまったく通用しない。ことごとく総てのテストで落第点をとり、仲間からも大事にされない存在になり、自殺をはかろうともする。それは未遂に終わるが最終的には挫折して大学をさることになる。

一方と意外と大胆な行動力をみせるハートは早朝の図書館に忍び込み、一般には閲覧することが出来ない教授たちがのこしたノート=レッドセットを覗き見ることに成功する。そこで発見したものは・・・、自分たちが受けている講義とまったく同じ内容がそのノートにかかれているという事実だった。キングスフィールドの講義内容も彼自身のアドリブではなく、彼がうけた講義の転写でしかないのだ。その棚に並ぶレッドセットと呼ばれるノートはまるでデータとしてのこされたコンピュータのメモリのようであり、人から人へと受け継がれながら未来へおくられていく進化しないデータでしかないのだ。

そうしてキングスフィールドの思考体系を理解しつつあるハートは、講義のあとに呼び止められ、彼自身の仕事を手伝ってくれないかと要請をうける。認められた感をもったハートはその仕事を引き受けるが、その反面スーザンとのデートをすっぽかすはめになる。結果はハートの手に余る仕事であり、期限までに間に合わせることが出来なかったハート。もう少し時間が欲しいと申し出るが、キングスフィールドの言葉は冷たく「すでに上級生に頼んだ、君のはもう不要だ。帰って休め」と言うだけのものだった。

父は人間的な感情では付き合えない人なのだというスーザン、しかし何かしら期待をかけてもらっていると信じているハート。最終試験においても猛勉強のすえ高得点をえる。最後の講義の後「あなたの講義は素晴らしかった。おかげで力がついたと思います」と一言感謝の言葉をつたえるハートだったが、キングスフィールドの言葉は「・・・・君はだれだったかな」。その法律の伝道師はハートのことなど記憶すらしていなかったのだ。

成績が発表されるまでの間、ハートとスーザンはとある岬で休暇をとていた。そしてとどけられる成績通知書。ハートは中味を読まずにそれで紙ヒコーキを作り、海に向けてそれを飛ばし、それは波間に消えていった。


私が思うに、男という生き物は<認められたい生き物>なのだ。どんなに努力して自分が自分を認めたとしても、自分以外の誰かに認められなければその努力むなしいと感じる。
この物語は、<認められたい>と思い、それに挑んだが、その相手は認める能力すらないメモリーマシンだったというある種の悲劇なのだが、しかし、それは実際の世界ではここまで徹底的に認められないことはないまでも多かれ少なかれあることであり、その認められるための努力がその人を作っていくのだと思う。

PS:このキングスフィールドの演技でジョン・ハウスマンアカデミー助演男優賞を獲得した。

画像あつめてきました。
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by ssm2438 | 2010-04-26 03:29 | ゴードン・ウィリス(1931)


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