西澤 晋 の 映画日記

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2010年 05月 23日

トリコロール/赤の愛(1994) ☆☆☆☆

トリコロール/赤の愛(1994) ☆☆☆☆_f0009381_1059671.jpg監督:クシシュトフ・キエシロフスキー
脚本:クシシュトフ・ピエシェヴィッチ
    クシシュトフ・キエシロフスキー
撮影:ピョートル・ソボチンスキー
音楽:ズビグニエフ・プレイスネル

出演:
イレーヌ・ジャコブ (バレンティーヌ)
ジャン=ルイ・トランティニャン (ジョゼフ・ケルヌ元判事)

        *        *        *

『ふたりのベロニカ』理論ここにもあり・・とみた!

フランス国旗を構成する三つの色をモチーフ(自由・平等・博愛)に、クシシュトフ・キェシロフスキーが監督した『トリコロール3部作』の最終作。今回のテーマは赤=博愛。

全米批評家協会賞ニューヨーク映画批評家協会賞ロサンゼルス映画批評家協会賞で、外国語映画賞を受賞した。3部作の中では一般的にもっとも人気の高い作品であり、クシシュトフ・キェシロフスキーの遺作でもある。余談だが、私は『トリコロール/青の愛』が一番好きである。

第一感は「これはイレーヌ・ジャコブのための映画だ!」ということ。彼女無しにこの映画は考えられないし、クシシュトフ・キェシロフスキーでなければイレーヌ・ジャコブは輝かない。難しいことを抜きにして、イレーヌ・ジャコブの愛を見ればいい映画であることは間違いない。この映画の彼女は、心の病んだ人たちを安らぎといたわりで包み込む。慈善的愛を存分に体現している。この3部作総てに登場する、空き瓶を回収箱にいれようとする腰の曲がった老女、この『・・・/赤の愛』だけはイレーヌさんが手を貸してあげる。しかし、それだけではおわらないのがクシシュトフ・キェシロフスキーの映画だ。

この映画には『ふたりのベロニカ』理論が織り込まれている。それはキェシロフスキーが仕切るファンタジーの世界なのだが、そこでは、その世界の創造主が「もう一人の自分」を別のところに創造しているというものだ。物語に神秘性を織り込むにはかなり有効な手段だ。
『ふたりのベロニカ』では同じような人間を、時間軸は一緒だが、フランスとポーランドというヨコ位置に存在させていた。それをこの『・・・/赤の愛』では、同じ場所で、時間軸を変えてタテ位置に存在させている。それは司法試験を目指している若者・オーギュストと盗聴が趣味というジョゼフ・ケルヌ元判事だ。

問題はその意図である。・・・分らない。

演出法から言えば、ケルヌ元判事の過去のエピソードを、本人の口から回想シーンという形で引き出すのではなく、同じような境遇の人間を現実の時間軸で描いておく。そして見ている人に「ああ、こういうことがケルヌ元判事の過去にあったのだろうな」と想像させるというものだ。
しかし・・・、もうすこし突っ込んで、見ている者が補完してみたい気にさせるような作りになっているのも事実だ。『ふたりのベロニカ』理論に基づいて、勝手に補完させてもらうなら・・・、

姿形は違えど、魂が一緒の二人の同一人物ジョセフ・ケルヌとオーギュストが30年の時間のずれを隔てて存在していた。先に生れたジョゼフは、愛する女に裏切られ、判事という裁けもしないのに人を裁く仕事についてしまい、心が煤けていった。30年遅れてうまれてきたオーギュストは同じように愛していると思っていた女に裏切られる。しかし、ここで一人の愛をもった女に出会う。ジョゼフは心がすすけた後に、オーギュストは心がすすける前に・・。

勝手な想像だが、シナリオを起こす前にの制作ノートの一番初めには、そのようなことが書かれていたのではないだろうか・・・。

『ヴァンゲリオン』が、ダーウィンの進化論ではなく、聖書の天地創造を基本にして世界観が構築されていることに気付けばその霧が晴れるように、この映画も、この映画もクシシュトフ・キェシロフスキーが創作した『二人のベロニカ』理論の基に構築されているということに気付けば、霧が晴れるのだろう。

<あらすじ>
パリに住むスイス人女性のバレンティーヌ(イレーネ・ジャコブ)はモデルの仕事をしながら、イギリスにいる恋人と電話だけがたよりの遠距離恋愛をしている。ある夜犬をひいてしまい、その犬の首輪にかかれた住所からその飼い主のジョゼフ・ケルヌ(ジャン=ルイ・トランティニャン)と知り合う。退官判事だった。彼は、過去において、愛していた女性に裏切られ、また人を裁く判事という仕事のなかで心がすりきれてしまい、退官した今では近所の人たちの盗聴が唯一の愉しみだった。秘密の愉しみを知られてしまったケルヌだがなんの臆することもなく、「必要なら、私が盗聴していることを彼らに教えてやれ」とバレンティーヌ言う。
数日して、元判事が盗聴をしていた!という記事が新聞にのる。「自分がばらしたのではない」と伝えに彼の家を訪ねると、「そんなことは知っている」と彼はいう。彼は、自ら盗聴していた事実を近所の人たちと警察に文書で書いて送ったのだ。自暴自棄と潔さが混在するジョゼフ・ケルヌとバレンティーヌの心の距離が縮まっていく。

by ssm2438 | 2010-05-23 11:01 | K・キェシロフスキー(1941)


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