西澤 晋 の 映画日記

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2010年 09月 21日

別れの曲 (1934) ☆☆☆☆

別れの曲 (1934) ☆☆☆☆_f0009381_21391158.jpg監督:ゲツァ・フォン・ボルヴァリー
脚本:エルンスト・マリシュカ
撮影:ウェルナー・ブランデス
音楽:アロイス・メリハル

出演:
ジャン・セルヴェ (フレデリック・ショパン)
ジャニーヌ・クリスパン (コンスタンティア)
リュシエンヌ・ルマルシャン (ジョルジュ・サンド)
ダニエル・ルクルトワ (フランツ・リスト)

       *        *        *

フランツ・リストとの連弾は燃える!

『未完成交響楽』1933)におくれること1年、音楽家ショパンの伝記映画もできあがりました。

ショパンがショパンたる理由は、自らも銃をもって祖国ポーランドの独立のために戦う決意をしていたという、その精神的な覚悟だろう。われわれからみれば、音楽家として才能があるのだがらそんな危ない部分にはクビを突っ込まないで、音楽家としての才能を発揮して欲しいと思うのだが、彼はどうではなkったようだ。この映画をみていていても、そんな彼は戦場に向かうことも辞さない態度をとるのが気がきではなかったものだ(苦笑)。

しかし、ショパンのもと彼女コンスタンティアはあまりに無下に扱われているのがかなり気になった。
これってもうちょっとなんとかならなかったものだろうか? こんな入れ方するのだったらドラマに登場させない方向性でつくれなかったものかと思ってしまった。
部分部分はすっごくいいのである。ただ、トータルな印象が・・・、「こいついい加減だなあ」って感じなのだ。それは前半で(上にも書いたが)、戦いも辞さず・・の決意があったにもかかわらず、最後はパリでのほほんとくらしてしまったし、ポーランド時代に彼をあれほど想っていたコンスタンティアをあっさりと忘れてしまってる流れといい、映画的にはもうすこし気持ちよくまとめてほしい気がした。

<ショパンをとりまく時代背景>
1810年、ショパンはポーランドのワルシャワで生まれる。当時のポーランドは隣国プロイセン、オーストリア、ロシアに国土は分割支配され、自国を持たなかった。ポーランドが自治を復活されるのは第一次世界大戦後の話である。
16歳でワルシャワ音楽院に入学、19歳でワルシャワ音楽院を首席で卒業後、彼はウィーンに向かう。しかしこの頃ポーランドのワルシャワ蜂起(ロシア帝国の支配に対する武装反乱)が起こる。ロシア帝国軍の陸軍士官学校に所属する若い下士官たちが、ピョトル・ヴィソツキに率いられて蜂起したことが発端となった。まもなく、蜂起にはポーランド社会の大部分が参加した。
しかしオーストリアは、ロシアとプロイセンとでポーランドを分割支配していたため、ウィーンでは反ポーランドの風潮が高まり、ショパンは十分な演奏の機会も得られなかった。そのためショパンは父の故郷フランスに移住する。ウィーンを去りパリへ向かう途上、ワルシャワ蜂起失敗の報に接し『革命のエチュード』を作曲したといわれる。

ショパンは、後半生は大部分をフランスで過ごしたが、望郷の思いは終生止むことがなく、死後心臓が遺言によりポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会に埋葬されたという。そんなわけで、彼の音楽には故郷ポーランドを支配する列強への反発心と不屈の精神が強くきざみこまれているのである。

<あらすじ>
1830年、ポーランドの青年達はロシアの支配に反抗し祖国の独立運動を画策していたピアノに向って精進するフレデリック・ショパン(ジャン・セルヴェ)も祖国愛は火と燃えて、時到らば白い手に剣を取る決心も固められていた。ショパンの音楽教師エルスナーはショパンの芸術のためにこれを憂え何とかして彼を国外へ送ろうと考え、ショパンの恋人コンスタンティア(ジャニーヌ・クリスパン)を訪れて力を貸してくれる様たのんだ。ショパンが成功したらエルスナーは必ずコンスタンティアをパリへ連れて行くと約束した。ショパンが故郷を離れる日、コンスタンティアは涙でこれを見送った。
パリへ着いたショパンだが、故国の戦いを聞いた彼は一向に興が乗らない。彼の求めるのはもっと烈しい強い曲なのだ。ショパンは遂に彼の情熱をピアノに打ちまけた。血みどろの戦いのエチュードが場内に拡がる、場内は青ざめた、こんなむき出しな情熱を今までパリの人は聞いた事がなかったのだ。演奏が終わった時ある者は烈しく拍手し、ある者は呆然と顔を見合せた。
後にショパンの恋人となる女流作家ジョルジュ・サンド(リュシエンヌ・ルマルシャン)はショパンの天才を知り当時名声の高いフランツ・リスト(ダニエル・ルクルトワ)に彼の後援を頼んだ。
オルレアン侯爵婦人邸に於てリストの演奏会が催された夜、ショパンも招かれて出席した。ロウソク一本の薄暗の中に美しい音楽が流れ出した。こんなに美しくピアノを奏でられる人はパリにリスト一人しかない筈だ。しかし、サンドがかかげた灯にほのかに浮び上ったのはピアノに向ったショパンとその側に立って静かに聴き入っているリストの姿だった。パリはショパンを認めた。ショパンの成功を知ってパリへ出て来たコンスタンティアは彼がジョルジュ・サンドと恋仲であるのを知り、淋しく彼をあきらめて故郷へ帰った。

by ssm2438 | 2010-09-21 21:43


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