西澤 晋 の 映画日記

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2010年 11月 08日

思春の森(1977) ☆☆

思春の森(1977) ☆☆_f0009381_22201264.jpg監督:ピエル・ジュゼッペ・ムルジア
脚本:ピエル・ジュゼッペ・ムルジア
撮影:ローサー・エリアス・スティッケルブル
ックス
音楽:ピッポ・カルーソ

出演:
ララ・ウェンデル (ラウラ)
エヴァ・イオネスコ (ファブリツィオ)
マルタン・ローブ (シルヴィア)

       *        *        *

思っていたより全然良い・・・。

この映画が公開された当時映画少年だった私は『スクリーン』という映画雑誌を毎月買っていて、双葉十三郎さんの「ボクの採点表」というコラムが大好きだった。☆=20点、★=5点で、映画の評価をしつつ、双葉さんがコメントをかいていたのだが、ほとんどの映画は☆☆☆(60点)以上で、たまにそれを下回るものもあったが、せいぜい☆☆★★★=55点くらいのもだった。そのなかでこの映画は☆☆=40点という見たこともない最低の点がついていた(苦笑)。
実際みてみると・・・、そんなでもない。人間性を分かっている上で作られて映画だなあと正直関心する部分や、どき!っとするような残虐性を発揮するシーンもあり、決してそれほど悪くない。子供の持つ残虐性を描いた映画なら最近の『隣の家の少女』のほうが突き抜けてしまっていっている感があり、かなりみてて不愉快。『隣の家の少女』では、14歳の少女を地下室に監禁して縛り上げ、裸にして、殺人暴行~殺人まで言ってしまっている。こちらは子供の遊びに親が出てきて、その親が指揮って少女メグをいたぶり倒していてるのだが、それにくらべたらこちらままだ子供の遊びの範囲にとどまっている。この子供の遊びの範囲で残虐性ってのが表現されているのでいいのだろうなあって思った。

児童ポルノということで世間がやたらと敏感になっているが、少なくともララ・ウェンデル(ラウラ)とエヴァ・イオネスコ(ファブリツィオ)に関してはかなり年が上だと思う。
ウィキペディアでララ・ウェンデルの生年月日をチェックすると、1965年3月29日生まれとなっている。この映画が公開されたのは77年だが制作されたのは76年。もしこの数字が正しいとしたら、当時11歳ということになる(苦笑)。ありえない。画面から見た印象ではどうみても15歳前後に見える。男の子もそのくらいか、ちょっと上か・・。ただ、シルヴィアを演じたエヴァ・イオネスコのデータは1965年7月18日生まれであり、これは本当かもしれない。

エヴァ・イオネスコは、女流写真家のイリナ・イオネスコの娘であり、5歳の頃から母親の撮影する写真のモデルをつとめたという。1977年にイリナ・イオネスコの写真集「鏡の神殿」(Temple aux miroirs)が出版された事により、ヨーロッパを代表するロリータ・スターになった。ほとんどお父ちゃんのヌードモデルを務める『エスパー魔美』状態だったのだろう。

ただ・・、エヴァ・イオネスコの裸のシーンはあるり、彼女のロリータヌードを売り出すというプロモーションとしては一役かった映画ではあるが、内容的にはさほど重要ではない。やはりこの映画のポイントは子供のもつ残虐性なのだ。そしてその残虐性をも「遊戯」として取り込んでしまえる子供の感性の柔軟さというか、プライドの未成熟さ。それがこの映画の魅力だろう。

<あらすじ>
少女ラウラ(ララ・ウェンデル)は家族とともに、夏になると避暑地としてその山の別荘を訪れていた。そしてその村で知り合った少年ファブリツィオ(エヴァ・イオネスコ)と山で遊んでいた。そんな二人も成長して性への感心を持つ年頃になった。そんな夏のお話。

夏の間だけそこを訪れるラウラにとって森は未知の世界(アウェイ)だが、ファブリツィオにとっては庭(ホーム)なのだ。そしてラウラはファブリツィオにかまってもらいたいという欲求がある。精神的にファブリツィオが強者なのである。森の中でかくれんぼをして、そのままいなくなったりして、ラウラを不安がらせ愉しんでいる。そんなイジメにあってもラウラはやっぱりファブリツィオにに触ってもらいたい、キスしてもらいたい、相手してもらいたいという願望をつねにもっている。そして“H”もしてしまう。
ただ、自分のことを想ってはくれるが、突き抜けてくれないラウラにストレスを感じるファブリツィオは、別の別荘に滞在する金髪の少女シルヴィア(イリナ・イオネスコ)に惹かれていく。彼女はファブリツィオの想いのとおり突き抜けてくれるのだ。かまってほしいラウラは、二人の付き人的立場を受け入れ。

これが、子供の世界というものなのか・・・、彼女はそれをままごとのように受け入れられるのである。

二人は弓矢で鳥を射て遊ぶ。絶えられないラウラはその場から立ち去ろうとするが、今度はラウラを獲物として追ってくる二人。彼女の足元や、倒れた彼女の股間に向けて矢を射る。間違って彼女にささったらどうするんだ??って思ってしまう。「あそび」といえどもほとんど死と隣り合わせの遊びなので観ている私としては怖くてたまらない。それを子供のあそびだとして、どこか許しているラウラという少女はあまりにも健気で愛らしいのである。
その後の二人のまえで放尿を強要されるラウラ。でも、あそびという範囲でそれを受け入れてしまう。かくれんぼをして、鬼になったラウラが二人を探していると、ファブリツィオとシルヴィアはセックスをしている。「あら、みつかっちゃったわね、あなたはそこでみてなさい」と二人はセックスをするのを、そばで見せ付ける。そんなこんなも全部遊戯としてうけいれるラウラなのである。

最終的には、夏が終わると帰っていくしかないシルヴィアだが、彼女を返したくないとおもいはじめたファブリツィオは、そんな彼女を山奥の移籍跡に連れて行く。帰りたいのに帰れないシルヴィアはそれまで傲慢な態度は何処へやら、不安に泣け叫ぶ女の子になり、ラウラがそれをよしよしよしよしってして上げる。それで『かえる、かえる」ともうるさいシルヴィアを最後はファブリツィオがプスってナイフで刺し殺してしまう。

そんなファブリツィオに「一緒に帰りましょう」とやさしく言うラウラ。でも残るというファブリツィオ。


・・・・ドラマとしては決して悪くない。低予算ならがら、コンセプトはかなりきちんとしてる映画の部類だ。すっごく良いわけではないが、ぼろくそに言うほどの作品では決してない。

by ssm2438 | 2010-11-08 22:23


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