西澤 晋 の 映画日記

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2011年 12月 01日

情事(1960) ☆☆☆☆☆

情事(1960) ☆☆☆☆☆_f0009381_14425274.jpg原題:L' AVVENTURA/THE ADVENTURE

監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
原案:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ
    トニーノ・グエッラ
    エリオ・バルトリーニ
撮影:アルド・スカヴァルダ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ

出演:
モニカ・ヴィッティ (クラウディア)
ガブリエル・フェルゼッティ (サンドロ)
レア・マッセリ (大富豪の娘・アンナ)

       *        *        *

素晴らしき哉、アントニオーニ・マジック!

ローマの上流階級のひとり娘アンナ(レア・マッサリ)には若い建築家のサンドロ(ガブリエレ・フェルゼッティ)と付き合っているが、その恋愛にも行き詰まりの感がただよっている。アンナは女友達のクラウディァ(モニカ・ヴィッティ)をさそい、上流階級の友人たちとヨットの旅にでる。しかし立ち寄った小島でアンナが行方不明になり、捜索隊を呼び寄せることになる。しかし死体も見つからない。
彼女は死んだのか、自殺したのか、それとも失踪したのか・・・、全ての可能性があるのだが、どれも確実ではない。結局捜査は打ちきられるが、サンドロとクラウディアは生きているかもしれない、彼女が生きている可能性をもとめて彼女の行方を捜すたびに出る・・・。

今回はあまり暗くないモニカ・ヴィッティの役どころは、ルネ・クレマン『太陽がいっぱい』アラン・ドロンのような立ち位置から始まる。
彼女の友達のアンナは上流階級の娘であり、若手建築家のサンドロという恋人もいる。しかし二人の恋愛には倦怠感がただよっているのだけど、それでも、「彼氏がいるという優越感」をクラウディアはいつもみせつけられている。おそらく、クラウディアは、サンドロのことを方面にはださないまでも、気にしているのだろう。多分アンナもそれを知っていて、「これは私のものよ。多少不誠実なことをしたとしても、彼は私をもとめることをやめないわ」みたいな態度をとっている。
クラウディアをまたせておいて、アンナはサンドロの部屋に行き、クラウディアを待たせるのは悪いと思っているサンドロに、強引に自分をだかせる。下で待っているクラウディアにも二人がベットでエッチしていることがわかるように、窓からちらっと見えるように行動する。
自分がないがしろにされていることを、笑顔で知らないふりをするしかないクラウディア。このシチュエーションはまさに『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンのようなものだ。ちなみに『太陽がいっぱい』も1960年の作品であり、同時期に同じようなシチュエーションで展開する。

この映画の中にも、「アンナになりかわりたい」というクラウディアのささやかでしぶとい願望があるようにみえる。ただ、それはほとんそ表面的には見えない。それが垣間見られるのが、アンナが失踪した翌日、彼女の父親が島に来た時。前日の雨でぬれた服の変わりにアンナの服をきているところを父親にみられて、どぎまぎと言い訳をする。別に大いなる意味があったわけではないのだろう。しかし、自分のかすかな想いが具現化してることに、はたときずぎ、その服がアンナのものだということを知っている彼の父に対しては、ある種の罰の悪さが表面化したのだろう。
こういうさりげないところの演出がアントニオーニはすばらしい。

アンナの失踪の様子もこれまた不確実性の表現ですばらしい。
突然いなくなったアンナ。落ちたら死ぬな・・というような断崖をみせる一方で、誰もいないと思われていた島には小屋があり、その管理人が時々来ている事実がある。さらに、突然たんたんたんたんたんたん・・とボートのエンジン音。でもそのボートはみえない。のちにそれは密輸業者が小船でその島のまわりを通っていて、その船に乗せたられたかもしれない・・という可能性提示しておく。

アントニオーニの「見せないで魅せる」手法は、他の人よりもかなり見せない。なので見る人が感受性を繊細にしておかないと気づかない。というか、見ている人というのは、それに気づいたとしても、それがなぜそうなのか理解できないと忘れてしまうように出来ている。そうでなければ、その不確実な信号に不愉快さを感じて観続けることをやめてしまう。アントニオーニはそんな人を置いてけぼりにしてしまう。

アンナが失踪した翌日、潮の流れにそって捜索隊と一緒にさがしてみるというサンドロと、ヨットのなかでつかぬ間の二人だけの時間。よくわからないけど、それがあたりまえのように、キスをもとめられるクラウディア。でキスしてしまう二人。
これ以降二人の感情がすこしづつ表面化していく。

人によっては「こんな突然なのはありえないいー」と思うかもしれないが、私はこの流れはきわめて自然に見えた。多分サンドロも、アンナとエッチをしているときに、いつもアンナと一緒にいるクラウディアを抱くところをを想像したことがあったはずだ。理性で考えるとありえないことなのだが、それをわかる人にだけ納得するように、最小限の説明で見せるのがアントニオーニのすごいところだ。

そのあと、大富豪の娘が失踪したというニュースが新聞で公になると、彼女を観たかもしれないという情報もはいってくる。一方j警察も密輸業者のチンピラを捕まえていた。これらのことから判断すると、一概に彼女が死んだとは言えないように思えてくる。そしてサンドロとクラウディアは彼女の目撃情報をたよりに彼女を探すたびに出る。
旅の間、二人のきもちはどんどん接近する。その旅は、アンナを見つけるためのものではなく、アンナはいないんだということを確信するための旅になっていた。情事の旅を続けながらアンナのイメージは二人の念頭から薄らいで行った。あるパーティの夜。友人たちは当然のようにこの新しいカップルをむかえた。その夜、酔ったサンドロは見知らぬ女を抱いた。不安の一夜を明かしたクラウディアはそんなサンドロの姿を発見して絶望する・・・。


この映画をみて思い出されるのが『欲望』のなかのダンスホールのシーン。
BGMはハイテンポなのだが、うごきはスローーーーーーーーーーーーーーで見せるあのシーン。あるいは黒澤明『野良犬』の最後の格闘シーンのバックに、近くの保育園かどこかからきこえてくる童謡をBGMでながすシーンがある。一般的には「対位法」と呼ばれる手法である。
画面内で行われていることと正反対のBGMを重ねて演出する手法なのだが、アントニオーニはこの映画では、BGMを操るのではなく、ふたりの感情を描く時に、それとは正反対の環境をつねにセッティングしているように思える。おそらく確信犯であろう。この相容れない不条理な構成が、揺れる人間の感情を妙にリアルに演出してしまう。

これは60年代のアントニオーニのなかでも最高傑作だと思う。
彼の演出は、複雑で繊細で、きわめて戦略的だ。恐るべし、ミケランジェロ・アントニオーニ

by ssm2438 | 2011-12-01 14:45 | M・アントニオーニ(1912)


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