西澤 晋 の 映画日記:I ・ベルイマン(1918)
2011-11-01T23:57:41+09:00
ssm2438
主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。
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処女の泉(1960) ☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/14036480/
2011-06-23T15:49:00+09:00
2011-11-01T23:57:41+09:00
2010-06-23T15:49:31+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:ウルラ・イザクソン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:エリック・ノードグレーン
出演:
マックス・フォン・シドー (カリンの父・テーレ)
ビルギッタ・ペテルスン (殺される娘・カリン)
グンネル・リンドブロム (養女・インゲリ)
* * *
いやあああ、ベルイマンの芝居付けに感動!
1961年のキネマ旬報1位がこの作品。お話はたいしたことないのだが、芝居付けがばらしい。
イングマル・ベルイマンが、黒澤明の『羅生門』からインスピレーションを得た映画とう言葉で言われるが、この二人はさりげなくお互いを映画を意識しあっていた感がある。このほかにも黒澤明の『赤ひげ』(1965)のすい臓がん患者の死ぬ前のぱくぱくは、ベルイマンの『沈黙』(1962)のイングリット・チューリンの病床でのもだえシーンを移植したような感じもした。この二人の作品には、「あの映画のあのシーンだが、オレならこのように撮る」という暗黙の駆け引きを感じるのである。しかし、この二人、決定的な違いがある。それは感情移入へのアプローチなのだ。
黒澤明の映画をみても感情移入はほとんど起きない。黒澤の映画というのは、「強さ」とか「弱さ」とかを象徴する芝居を演じさせているが、あくまで記号であって、「そう描かれれば強いことになる」「そう描かれれば弱いことになる」という一般的な理性による解釈なのだ。その記号がダイナミックなのが黒澤映画なのだが、所詮は記号なのでどっか感情移入できない。
ベルイマンの演出というのもダイナミックな芝居付けをする時があり、特にこの『処女の泉』は芝居付けのダイナミズムという点においてはベルイマンのなかでも一番だろう。しかし黒澤明と根本的に違うところは、人間性を描いているところだろう。ベルイマンの演出な感情移入の宝庫なのだ。
この映画の芝居をみると、理性は、“そうすべきではない”と主張するが、感情が“そうしたい!”と叫んでいる、あるいはその反対もあり、内面を表現していることに気付く。その感情のブレているのである。理性と感情の間で、本人がどちらを選ぶかという戦いがそれぞれの登場人物の内部で猛烈にせめぎあっているのだ。
カリン(ビルギッタ・ペテルソン)は、純粋培養されたような無垢で可憐な少女である。彼女が教会へロウソクを届けるために森を通り抜けようとして3人の三人の羊飼いに会った。見た目はいかにも気持ち悪そうな3人だが、おそらくカリン「人を容姿で判断してはいけません」と教えらているのだろう。そんな3人に森の中で食事を施するカリンはまるで天使である。ただ、彼女の心がほんとうにそれを奉仕する喜びとして行っていたとえばそんなことはないだろう。心は「逃げたい」叫んでいたにちがいない。結果として彼女は犯され、頭を殴打されて死んでしまう。
その一部始終をみていた養女インゲリ(グンネル・リンドブロム)。石を握り木陰から飛び出そうするが体は動かない。彼女は、物語の冒頭のほうで、カリンの不幸をオーディーンの神に祈ったくだりがある。だからといって、現実におきていることを望んだわけではなく、おそらく、祈ったそのことが現実に起きてしまい、恐ろしくなって何も出来なかったと解釈するほうが自然だろう。そして後に「あの兄弟は悪くはない。カリンの不幸を神に祈った私が悪い」とカリンの父テーレ(マックス・フォン・シドー)に告白する。
何の因果か、カリンを犯して殺したその3人の羊飼いは、夜露を凌ぐ場所をもとめてカリンの家に泊めてもらうことになる。寝る場所と食事を与えられた3人は、カリンの母メレータ(ビルギッタ・ヴァルベルイ)にお礼として絹の衣をゆずることにする。しかしそれこそはカリンの着ていた服であり、それには血もついていた。さらにインゲリの告白から彼ら3人がカリンを殺したことを知った父テーレは、3人を惨殺する。
ここでもテーレの心は「こいつらでも殺すべきではない」と叫んでいるが、「娘を犯され殺された父が、こいつらを許すべきではない」という理性の主張を受け入れ、彼らを惨殺する。
※世間では彼の惨殺行為を「怒りに任せて」と表現する人も多いが、それは違う。この殺しの場面では、娘をころされた父親の面子(つまり理性)の誘導によって3人を殺したと感じ取るほうが正しいだろう。
理性と感情の間での揺らぎというのは、誰しも経験したことがるものなので、これを芝居の中に挿入されていれば、いやおう無しに感情移入できてしまうのだ。しかし、黒澤映画のように<ブレない記号>になってしまうと、そこに人間性を感じることはなく、作り話のなかのアイテムとしてしか理解されなくなってしまう。
お話のまとめてとして、殺されたカリンの遺体のあった場所からあふれ出る泉。そしてその水を手ですくって顔を洗うグンネル・リンドブロムがとたんに美しく見え始める。本来グンネル・リンドブロムは美しい人の部類にはいるはずなのだが、本編中の彼女はめっぽう薄汚い。それもこのシーンのためにそうしてあったのだとあとから感心してしまった。やっぱりグンネル・リンドブロムは綺麗でないといかん。ベルイマン映画のヒロインのなかでは、彼女が一番すきである。]]>
叫びとささやき(1972) ☆☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/13076337/
2011-02-12T02:51:00+09:00
2011-04-01T11:26:26+09:00
2010-03-12T02:51:51+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
出演:
イングリッド・チューリン (長女・カーリン)
ハリエット・アンデルセン (次女・アグネス)
リヴ・ウルマン (三女・マリア)
カリ・シルヴァン (侍女・アンナ)
* * *
イングマル・ベルイマンの怒涛の演出力を見よ!
スゴイ映画が。人間の内なるおぞましさをさんざんと見せえつけておいて、最後は一番幸せだった時の思い出をひきだしてきて、人間性の美しい部分もみせてくる。これは『野いちご』のラストと同じ構成だとはいえるかもしれないが、・・・すさまじい映画だ。これだからベルイマンはやめられない。実はこの映画と『秋のソナタ』はLDを持っている。この2本は宝物だよ。
19世紀末らしい。長い闘病生活で死期の近づいた次女アグネス(ハリエット・アンデルセン)を見守るために長女カーリン(イングリット・チューリン)と末娘マリア(リブ・ウルマン)、そして侍女のアンナ(カリ・シルヴァン)がつきそっている。そこで語られる人間のもつおぞましさ。そう、この映画は人間のおぞましさをあますところなく存分に描き出している。
長女のイングリット・チューリンは理性の人で、人に触れられることを極端に嫌っている。心からのふれあい、肌のふれあいに嫌悪感をもっているのである。ひさしぶりにあった旦那とセックスするのがいやで、壊れたグラスのかけらで自分の性器を斬り、出血させ、生理を装う。これであなたは私をだけないわよね・・とばかりに股間から流れ出るんちを口のまわりにぬりたく。それじゃあキスもできんだろうなあ。こういう演出がすさまじいい。
イングリット・チューリンが「嫌いなものは嫌い」といってしまえるのに対して、リブ・ウルマンは決して本性を明かさない女。表面的には馴れ合いを求めているようでも、その仮面のしたは、決して自分をみせない卑怯者。表面的には猫のように艶やかで、人間性があるふれるように装っているが、その卑怯さに姉のイングリット・チューリンはリブ・ウルマンを嫌っている。
しして次女のハリエット・アンデルセンは、病魔におかされている。このあえぎ方はベルイマン独特のセンス。『沈黙』でも、病気のイングリット・チューリンがあえぎまくっていたが、後に、黒澤明も『赤ひげ』のなかでこのあえぎを再現していた。この病気もだえ演出は実におぞましい。人間の逃れられない死の恐怖と、それを迎える肉体的な痛みを前面に打ち出している。そういえば『秋のソナタ』にも小児麻痺の女の子がのたうっていた。
そんなおぞましさのなかで、侍女のアンナだけは愛を表現している。このコントラストが実に素晴らしい。
そして、貴族描写もヴィスコンティに負けていない。食事も、ベッドも、装飾品も、総てが貴族風味。そしてイングリット・チューリンの着替えのシーンのすごさ。この重厚さだけでおおおおおおおおおって思ってしまう。こんな服着てたら、そら一人じゃ着替えもできんだろうなって。
さらにもうひとつ、撮影はスヴェン・ニクヴィストに変わっている。白黒時代はグンナール・フィッシャーが多いという印象だったが、カラーになるとスヴェン・ニクヴィストが多いと思う。この人も才の豊かな撮影監督さんだ。
実はこの映画、1973年のアカデミー撮影賞を撮っている。英語圏の映画しか対象にはならないと聞いていたが、撮影に関してはどこの映画でもいいってことなのだろうか・・。
<あらすじ>
時は十九世紀から二十世紀に移る頃の秋である。長年闘病生活をしていたアグネス (ハリエット・アンデルソン)はいよいよ死期を迎えようとしていた。彼女の世話は侍女のアンナ(カリ・シルバン)がしていたが、姉のカーリン(イングリット・チューリン)と妹のマリア(リブ・ウルマン)が駈けつけてきた。
姉のカーリンは人との接触を拒む理性の人。世間には貞淑な妻と見せかけていたが、心は常に冷え切っていた。末の妹マリアも結婚し、子供のいたが、彼女自身大きな子供のようなもので、美しくして人眼をひくことにしか関心を示さず、決して自分をさらすことはなかった。そしてアグネスの主治医であるダーヴィッドと情事をかさねていた。
やがてアグネスは死んだ。カーリンとマリアの旦那が来た。
マリアの旦那は、主治医が昨晩泊まったことをしると、ことの次第を理解した。一方カーリンは旦那と肌を触れあるのを極端に嫌っていた。しかし食事の後にはセックスの時間がまっている。同様でワイングラスを倒して壊してしまう。ドレスを脱ぎ、ナイトドレスに着替えたカーリンは、侍女のアンナを遠ざけ、壊れたグラスのかけらで自らの性器を切り裂き出血させる。これでセックスはお預けである。
カーリンとマリアがアグネスの日記を読むと、そこには友情や神の恵みについての言葉があふれていた。彼女がそれを心から感じていたのか、それともそれらに飢えていたのか・・・。カーリンはマリアへの憎しみを正直に口にしてしまう。大人の態度でなかったことを謝ると、二人は思いの総てを吐き出すように語り合った(・・しかし、マリアはその振りをしていたといったほうがいいかもしれない)。
その夜、侍女の誰かのアンナが泣き声を耳にする。そのほうへ向かうと、カーリンとマリアが魂が抜けたようにたたずんでいた。そしてその部屋に向こうにはアグネスの屍があるがずだったが・・・、彼女が泣いていた。
死んだはずのアグネスが目から涙をこぼしていたのだ。カーリンに救いを求めるが、彼女はアグネスを愛していないと冷たく言い放つ。次に、マリアがアグネスに呼ばれる、最初は愛想をふりまっていたが、死人であるアグネスに抱き疲れると恐怖から突き放してしまう。やはりマリアも彼女を愛してはいなかったのだ。
アンナだけが「私が面倒をみます」といい、二人を締め出してアグネスのベッドにはいる。母親に甘えるようにアンナの膝に頭をもたれて再び永遠の眠りにつ。
カーリンとマリア、そしてその家族がさったとの屋敷でアンナはひとりアグネスの日記を読む。
「姉妹三人が昔のように集まったので、久しぶりにそろって庭を散歩する。明るい日光、明るい笑い。世界中でいちばん近くにいてほしい人が、皆私のそばにいてくれる。わずか数分間のたわむれだが、私にとっては楽しかった。人生に感謝しよう。人生は私に多くのものをあたえてくれた」・・と記されていた。]]>
鏡の中にある如く(1961) ☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/15385742/
2011-01-24T10:31:12+09:00
2011-02-09T12:16:23+09:00
2011-01-24T10:31:16+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
出演:
ハリエット・アンデルセン(カリン)
グンナール・ビヨルンストランド (父ダビッド)
マックス・フォン・シドー (カリンの夫・医師のマーチン)
* * *
風の音、波の音、無伴奏・・・
この映画が、いわゆるベルイマンの神の沈黙三部作:『沈黙』、『鏡の中にある如く』、『冬の光』の1本であり、そのなかでももっともシンプルな映画で、物語の流れもわかりやすい映画です。1961年のアカデミー外国映画賞もとっています。
しかし、この3本がつながってるわけでもなく、同じテーマで描かれたわけでもないので、このような仰々しいくくり方が必要だったのか?とも思えます。だいたい、この3本をみて関連など見当たらない。少なくとも若いころの私にはそうとしか見えなかった。・・・・しかし、大人になるっていいものですね。歳をとって、あるていど分別がついてくると「ああ、なるほど」って思えるようになってしまった。
そのなぞがとけたのは、幼年期自体のイングマル少年とその父との確執を知ったからです。そして、ベルイマンが作っている映画は誰に見せるために作られたのか・・?という疑問に、「それはかれの父である」という答えにたどり着いたからです。
ウプサラの司教さんだった厳格な父。その高圧的は支配。それはほとんど『ファニーとアレクサンデル』で描かれたようなものではなかったのかと予想します。
イングマル少年は幼少時から非常に体が弱く病気がちで、依存心が強く、学齢に達しても登校しようとしなかったとか。そんなイングマル少年を、父は厳しく罰します。暗いクローゼットの中に閉じ込めたり、笞で打つこともあったとか。そして19歳で家を出たイングマルと父との確執はベルイマンが大人になってからもつづいいたそうです。ベルイマンは48歳のとき、父は悪性腫瘍で倒れましたが、このときも父を見舞うことはありませんでした。
イングマル少年がみた父の姿は、それぞれの映画のなかに登場する高圧的な支配者に投影されているのでしょう。生涯を通じて父の非難を描き続けずにはいられなかった、その憎しみのエネルギーとはすさまじいものです。
神の不在なんて、日本人にとっては当たり前のこと。なのでピンとこないのですが、これが見せる対象が「彼の父」だったということが分かると、とたんに映画の意味が見えてきます。
『沈黙』というのは、自分が外の世界と接するときにどう行動するか、それは自分のなかの理性と感情をもとにして、自分の行動を自分で選択していかなければならない。そこには神の声なんて関係ないんだよ!って言っている映画。
『冬の光』では、原爆の恐怖という現実的な恐怖にたいして、具体的にどう対処するのかって時に、宗教というファンタジーは機能しないにもかかわらず、牧師さんはそれをやっていかなければならない哀れな職業なんだよってことを言ってる映画。
そしてこの『鏡の中にある如く』は、精神分裂病の娘の治療に関して、宗教はなんにも役に立たない。むしろ、そのファンタジーこそが、彼女の病状を悪化させたものではないか!と、いう主張。
おそらく、ベルイマンは神の存在は信じてたんじゃないでしょうか。無神論者ではないと感じます。
・・しかし、それが「宗教」という形をとる時、それに対しては懐疑的・・というより強烈なまでに批判的だったのでしょう。
<あらすじ>
作家ダビッド(グンナール・ビヨルンストランド)には二人の子供があいた。17歳の息子ミーナスとその姉カリン(ハリエット・アンデルソン)。カリンは医師のマーチン(マックス・フォン・シドー)と結婚していたが、精神分裂病に悩まされていた。ダビッドはマーチンと海に網打ちに出たとき、カリンの病状を聞くが、結果は悲観的なものだった。そんなダビッドは、カリンの行動やそれについての分析を日記にまとめていたが、ある夜カリンがそれを読んでしまう。ファンタジーに逃げ込んでいる自分と、現実の自分を強制的に認識させられた瞬間だった。
それからというもの、カリンの情緒はさらに不安定になっていく。
ダビッドとマーチンは町へ買いだしに出かけた留守中、カリンは雨宿りに寄った捨てられた朽船のなかで弟の体を求めてしまう。でその罪の意識でカリンはまたも乱れて衰弱していく。やがて彼女はヘリに乗せられ町の病院へと搬送されていく。
ベルイマンの映画のなかでもストーリーが分かり安い映画が、一番ピンとこない映画でもある(苦笑)。
最後は姉と弟の近親相姦になるのだが、これ自体もそれほど罪の意識を感じるようなことではなく、まあ、なちゃったら仕方がないよねって思ってしまう程度のもの。太古の人間社会はよくあったことで、生命の本質からははずれているわけではない。ただ、より安全な種を発展を考えたときには不安定になるので確率的にしないほうがいいというだけの話である。
『山の焚き火』という映画の中でも姉と弟の近親相姦がテーマになっていたが、あれなんかきわめてほほえましい映画だった。
この映画においても、弟と姉の在り方を見てると、お互いの肌のぬくもりを求めたとしてもそれは自然であり、幸せになることはあっても、不幸になるとはとても思えない雰囲気なのである。
ベルイマン映画にん出ている彼女のなかで、それほど綺麗だとはいえないハリエット・アンデルセンが一番自然で綺麗みえたのは、この映画の弟と戯れている時なんじゃないだろうか(『不良処女モニカ』とか『叫びとささやき』の時の彼女はかなり醜悪である)。
しかしこの二人の自然な求め合いに罪悪感を感じるようになっていることが、宗教的妄想に犯されているカリンの精神状態からうまれる悲劇なのだ。
「悪魔が自分の体にはいってくる」というカリン。そもそも「悪魔」というのはなんだ?ってことになるのだが、これは神を肯定するためのアンチテーゼとして作られたもので、「悪魔」(吸血鬼でもいいんだけど)とい概念をつくった時点で純粋な信仰は勢力争いのプロパガンダに成り下がったのだと思う。これがベルイマンの非難している「宗教」というものなのじゃないだろうか。
とにかくベルイマンの映画の解釈というのは、世間一般で書かれていることがどこまで本当なのかかなり疑問である。どうみても、私の解釈が一番まともにみえてくるのだが・・・(はは、あいかわらず自画自賛の独りよがりレビューであった)。]]>
不良少女モニカ(1952) ☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/15379129/
2011-01-23T02:49:00+09:00
2011-02-09T12:16:23+09:00
2011-01-23T02:49:30+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:グンナール・フィッシェル
音楽:エリック・ノードグレーン
出演:
ラーシュ・エクボルイ (ハイリ)
ハリエット・アンデルセン (モニカ)
* * *
常識を一度破壊するための映画・・なのかも。
誰の? もちろん・・・・・・・・
私の大好きなイングマル・ベルイマン。この人の映画は、人間の業、愛と憎しみ、支配と独立、理性と感情のせめぎあいを、口から手をつっこみ、胃袋を内側から握り、ひっくり返しながら引き出したようなどろどろした精神面をみせてくれる。ストーリーは最低限あれば充分で、そのせめぎあいこそが最大の魅力となる。しかし、この『不良少女モニカ』は、ストーリーがあるほうだ。観てて気持ちの良い映画ではない。もっともベルイマンの映画でみてて気持ちのいい映画などほとんどなないのだけど(苦笑)。
最初にこの映画を見たときは、モニカちゅうのはなんちゅう非常識で無責任な女だ!って思った。自分が産んだ子供に愛を注がない母親、こんな女けしからん!! こんな女の話なんか見るか!って何度も止めようと思ったが、なんとか頑張最後までだとりついた。そんなモニカに恋する男の子ハリーはなんという不運なくじをひきあててしまったのか・・・・、これはもう立松和平原作の『遠雷』の中で、カエデ(横山エリ)をひいてしまったジョニー大倉の悲運さと似ています。まさに「不運なくじをひいてしまった」という感じなのだ。
しかし、ある程度のおちついて映画をみるようになってくると客観的な見方も出来るようになる。そもそもこの映画は誰にみせるための映画だったのだろう? こんな映画誰にみせても不快感しかないはず。なのになぜ・・・???
それは、見せる対象に不快感を与えるために撮った映画だからでしょう。誰に・・・・? そんなのあいつにきまってるじゃないですか。あいつです。そう、ベルイマンの父。
ベルイマンの映画というのは、そのほとんどが父にたいする復讐心から発生したものだと考えていいだろう。幼い頃のイングマル少年の感性を押さえ込んだベルイマンの父。宗教と理性と体罰で総てを支配しようとしたベルイマンの父。そんな自分の父親の概念に戦いを挑むこと、そしてそれを粉砕すること、それこそがベルイマンの映画を作る時の潜在的な目的だったのだろう。この映画も、ベルイマンの父がもっていた概念をまっこうから破壊するための一つのアイテムだったと私は思うのでした。
あなたが常識だと思っていることはホントに常識なのか?
ほんとにそうあるべきことなのか?
生命とはほんとにそんな理性的なものなのか?
『冬の光』では、宗教でも理性でも解決できない問題をつきつけられ、何も出来ない神父=父を哀れむことによる柔軟な攻撃をみせた。それに対してこの『不良少女モニカ』は、真っ向から「お前の持っている概念はほんとに正しいのか!?」とその破壊を目的とした能動的な攻撃のようにみえる。
この映画の持っている意味を判らないままみると、かなり辛い映画でもある。
<あらすじ>
ストックホルムの下町の瀬戸物店で配達係をしている青年ハリイ(ラルス・エクボルイ)は、モニカ(ハリエット・アンデルソン)という17歳の少女と知り合った。彼女は家庭的にめぐまれず、無責任と衝動こそが彼女の行動原理だった。モニカはある夜、酔って帰った父と口論して家をとび出しハリイの許に走った。
まともに頼られたことが嬉しいハリイはもニカと一緒に家を出る。そして父の持つモーターボートの中で暮し始める。二人は狭い船室で恋の喜びに身をまかせ、夏の間奔放な生活をつづけた。そのうちモニカは妊娠したが、ハイリにとってはそれは健全な悦びでだった。しかし二人は食糧不足に苦しむようになる。
モニカはある別荘に食べ物をぬすみに行くが、ハリイが臆病な態度をとったことから、二人の仲は気まずいものになった。夏の終わりにストックホルムに帰った二人は結婚し、モニカは女の子を生んだ。ハリイは工場に職を得て真面目に働きはじめた。しかしモニカは終日赤ん坊と暮す貧乏な生活には堪えられず、ふたたび以前の不良とつきあいはじめ、子供の面倒などまったくみない。ハリイは彼女と離婚し、子供をひきとって自分で育てようと決意するのだった。]]>
秋のソナタ(1978) ☆☆☆☆☆
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2010-09-20T21:43:00+09:00
2011-02-09T17:57:11+09:00
2009-09-03T21:43:39+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
出演:イングリッド・バーグマン
リヴ・ウルマン
* * *
イングマル・ベルイマンの映画は難解だといわれることもあるが、正確には「難解なものもある」が正しいような気がする。すくなくとも私にはすごく判り易い映画がおおい。そしてそのなかでももっとも判り易いのがこの『秋のソナタ』ではなかろうか。また彼の映画は女性を描いた映画が多く、本作のように母と娘、あるいは『沈黙』のように姉と妹のような精神的支配-被支配関係のものが多いが、これも実は、ベルイマンと彼の父との関係をそのままのシチュエーションで映像化するのがてれくさく、女性に置き換えたというだけのような気がする。そんなベルイマンだが、最後の『ファニーとアレクサンデル』では<支配的な牧師の父>と<その子供>という多分ベルイマン自身の一番コアのシチュエーションに帰化している。
『ファニーとアレクサンデル』のパンフレットを読むとやはりベルイマンとその厳格だったウプサラの大司教の父との関係に触れている箇所があったような・・。結局ベルイマンの映画は、高圧的な支配の中で、おし押し殺させそうな自我のサバイバルが行われていたのだろうと予想される。
そんなベルイマンの父と、ベルイマン本人の人間関係を母と娘に置き換えたのがこの『秋のソナタ』という映画の基本コンセプトであり、ほとんど総てのベルイマン映画の基本コンセプトだといっても過言ではない。
しかし、これがベルイマン自身におきた特有のイベントだったかといわれるとそうではない。子供の頃は支配される立場が多いだろうが、大人になるにつれて支配的な立場もおおくなる。誰もがどちらの立場をも経験することになる。そうなった時、支配されているときの不満を思い出すとともに、支配している側の欲望を抑えることも難しいことを知る。
動物として、もっとも基本的な親の欲求としては、「子供を自分のコピーにしたい」という決して否定できない本能的願望がある。しかし子は親の情報だけを吸収していきていくわけではなく、親が子供時代に経験しなかった要素まで経験しながら大きくなる。どんなに親がそう思っても子供の自我は親の願うものと同じものにはならない。
『秋のソナタ』のなかに描かれた高圧支配を強いた母と、その母の環境下で育った娘の関係は、特別なものではなく親と子の関係において根源的なものだと思う。この母親が良いとか(そんな意見はほとんどないだろうが)悪いとかいうのでなく、支配する側としこういう要素は誰もが持っているものだということを認識することがとても大事なのだ。「私はこうじゃない」って言えるならそれは嘘だ。
私がこの映画をすごいと思うのは、「私はこうじゃない!」って言えない自分を認識させる強制力をもっているところなのかな・・と思う。認めたくない自分のダークサイドを強制的にみさせるのがベルイマン映画のすごいところ。感情移入の極致の映画だ。
感情移入というのは早い話、メンタルの共有性を感じることだ。ベルイマンは、誰もがもっているメンタルの共有特性をとことんまで追求している人物だろう。それは一般人が「ああ、これわかる、わかる」のレベルではない。それを越えて、「判りたくない、認めたくない」という部分をぐりぐりえぐりだす。
この映画で描かれていることは、この映画のような人物の関係によってのみに表意面化することもかもしれないが、誰もがもっている人の心の深淵になる共有性なのだ。この誰もがもっている共有性、つまり人間の本質を追求しているのがイングマル・ベルイマンだと思う。]]>
沈黙(1962) ☆☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/11622738/
2010-07-25T08:29:00+09:00
2010-08-02T01:16:15+09:00
2009-07-29T08:29:47+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
出演:グンネル・リンドブロム
イングリッド・チューリン
ヨルゲン・リンドストロム
* * * *
『鏡の中にある如く』『冬の光』に次ぐ、イングマル・ベルイマン<神の不在>三部作の三作目。ただこの映画がすべて関連性があるわけではなく、あくまでどれも神の不在をテーマにしたというもの。そしてベルイマンの作品のなかでは一番私が好きな作品である。・・・と同時に一番分かり易い作品だとも思う。
人がなんらかの行動を起こすとき、そこにはモチベーションがある。そのモチベーションの基本になるのが<知識>と<感情>。しかしここでいう知識とはどこからきたのだろうか? 知識といわれるものは自分のそとからきたものなのだ。
「うちに帰ったら手をあらいましょう」「人のものを盗んではいけません」「車は左、人は右」「朝起きたら歯をみがきましょう」・・など。これらはすべて両親であったらい、友達であったり、先生であったり、あるいは本屋や映画の一説から自分の知識として構築されたものだ。つまり、自分のなかの他人の言葉なのだ。
ではなにが自分の本当の言葉なのか?と考えるとそれは自分が感じること、心からそうしたいと思う欲望、それこそが本当の自分だということになる。
しかし現実問題として総てが欲望のままに行動するわけではない。それを実行したらそれで自分は社会的に抹殺されるということも知識として理解し、それが制御してくれるので感情と知識との間で自分の判断はゆれることになり、最終的に自分が「こうする!」と決めなければならない。
この映画は<知識・理性>を象徴するものとして姉のエステル、<感情・欲望>を象徴するものとして妹のアンナをその中央にヨハン<自分>を配置している。はたしてこの映画の<自分>はどう判断して、なにを選んでいくのだろうか・・・?
<あらすじ>
多分第二次世界大戦のさなか、異国を旅する列車のなかのコンパートメントにエステル(イングリット・チューリン)とアンナ(グンネリ・リンドブロム)の姉妹が言葉少なげに向かい合って座っている。お互いに目をあわそうとはしない。しかし姉のエステルが発作を起こし苦しみだすと、アンナは息子のヨハン(ヨルゲン・リンドストロム)をコンパートメントの外に出ているようにと促しす。廊下にでたヨハンが窓のそをとみると、沢山の戦車をせた列車みえる。外の世界の脅威を表しているのだろう。
なぜ彼女らが旅をしているのか? これは物語のなかほどで明らかになるが、どうやらこの姉妹の実家に子供をしばらくの間疎開させることになったようだ。
ふたりは言葉も通じないどこかの国のホテルに宿をとることになったようだ。
ホテルに着くとベットによこになる姉エステル。その隣の部屋でやたらと動いているアンナ。そして床にすわってそんなアンナの足を見ているヨハン。バスルームにはいったアンナはやはりその中をいったりきたりしているが、最後は裸になって一方へ消えていく。そしてなかから声が、
「ヨハン、背中を流して」。
うれしそうに浴室へと駆け出すヨハン。
ここでのポイントは、ヨハンが自分の母親を<女>として意識している部分があることだ。そして後のシーンをみてわかるのだが、エステルにはその感情をもっていない。ヨハンに女として見られないエステルは、ある種の劣等感を感じているのかもしれない。
風呂から出たヨハンは母親にクリームをぬってもらいベットにもぐり込む。しばらくするとその手前に裸のアンナが寝そべり、乳房がベットと体の間でふくよかにつぶされる。エステルは隣の部屋で翻訳の仕事をしているが、ふたりが寝込むのを感じるとふたりの部屋にはいっていき、うつぶせに寝たアンナの背中をながめながらベットのそばに腰をかける。しばらくみているがアンナの髪をなでる。そしてヨハンの髪も・・・。
このシーンの意味が、そのとき分からなかったのだが二回目に見るとすごく意味があることに気づく。これも後の会話で判明するのだが、この姉妹は以前はお互いの体を慰めあった関係にあったことがわかってくる。しかし今は、妹のアンナはその関係をたち、姉はそれでもまだ求めていることが匂ってくる。
この映画ではそれを直接みせることはない。あくまで匂いで感じとならければならない。
自分のベットにもどったエステルはタバコをふかしながらアルコールを飲み干し、給仕を呼びアルコールをもとめる。年老いた給仕が現れる。・・英語は? フランス語は? ドイツ語は? どれもだめらしい。言葉が伝わらないながらも身振り手振りでなんとかコミュニケーションを成立させているエステル。給仕も極力愛想よくふるまおうとしている。
目を覚ましたヨハンだがアンナはまだ昼寝をしていたいとベットにはいったままだ。退屈になったヨハンは服をきて、玩具の銃をもって、ホテルの内部を探検にでかける。
廊下に出ると、はしごをもって廊下を横切るおじさん。どうやら廊下のシャンデリアを修理するらしい。はしごの上で修理をしているおじさんに向けて銃を構えて発砲(パシッと音がするだけで弾はでない)。無言でヨハンを見るおじさん。
廊下を歩いているとさっきの老給仕が昼寝をしている。しばらく眺めていると目を覚ましてヨハンに気づいく。愛想いい作り笑いで近づいてくるが、恐ろしく感じでその場を走り去ってしまうヨハン。
廊下にある大きなえを見てると小男(ホルモン異常で大人なのに体が子供くらいしかない)が廊下のむこうを通り過ぎようとしてヨハンにきずき、かるく手をあげてあいさつする。
とそのときさっきの給仕が「うわっ」と子供を脅かすようにうしろから捕まえる。びくっとおびえるヨハン。また走り去る。老給仕にしてみればなんとか子供に愛想を振りまこうとしているのだが、どうも裏目にでているようだ。それでもヨハンにしてみれば悪魔のような怖さなのだろう。
そんなことをしているとさっきの小男たちがいる部屋に入り込む。かれらは遊技団らしい。今日の出し物の打ち合わせをしているようだ。その中の一人を玩具の拳銃で狙って撃つと、ちゃんと撃たれた振りをしてくれる。ヨハンも楽しくなって一緒にワイワイとやっているのだが気づけば女の衣装を着せられている。
この一連の描写ではヨハンが未知なる物に対して笑顔で受け入れたらいいのか、それとも恐怖して逃げたらいいのか、怒って喧嘩を売るべきなのか、判断が出来ないような状況なのだ。それでも彼はどうするかを判断しなければならない。このあたりから「沈黙」というタイトルの意味が少しずつみえはじめる。
目を覚ましたアンナはそのふくよかな乳房を洗面所であらい、いろっぽそうな服をみにつけ、「ちょっと歩いてくるは」と一声かけて出て行く。ドアのしまる音がすると叫びだしたい気持ちを必死でおさえるエステル、それでもうめき声がもれる。酒をあおってもえずくだけ。
「惨めな気持ちだわ・・・、た得られない、惨めよ・・・うくくくくうううう」 もだえながらベットから転がり落ちる。
「冷静にならなきゃ・・・、理性を失いたくないわ・・・」
この時点ではこのシーンの意味もわからないのだが、のちにふたりの関係が分かってくると、このシーンの言葉の意味がわかってくる。以前は自分をもとめていたはずの妹が、今では他の男を求めるようになっている。それだけではなく、その屈辱感をわざと自分に感じさせている。そのことがこの「惨めよ・・・」になっているのだ。
そんな取り乱したエステルにやさしくしてくれるのは老給仕だけだ。
一方アンナの存在とそのしぐさは明らかに町の男たちの欲を刺激することに成功しているようだ。
冷静さをとりもどしたエステルは部屋にもどったヨハンと食事をしている。この時この旅が実家に向かっているたびだと分かる。同時に、ヨハンはエステルには女を感じていないことも・・。
ある小劇場にアンナが入るとヨハンが出会った小男たちが劇を披露している。しかしその後ろの席では男と女が愛欲の行為にふけっている。たまらなくなり出て行くアンナ。
戻ってきたアンナは服を脱ぎ洗面所に向かうと後ろに姉がたっている。脱ぎ捨てられた妹の服に泥がついていることを確認すると、なにも言わずに自室へ戻っていくエステル。一間おいてエステルの部屋にアンナがやってきて、「私のすることをいちいち詮索しないでほしいわ」と言ってドアをしめる。その口ぶりが許せないエステル。
夜になると露出のある服をきて「出かけてくるわ、ヨハンに本でも読んであげて」と言いドアへ向かうアンナ。
「・・私をおいて?」
立ち止まるアンナ、一瞬間をおいてきびすを返えし、覚悟したようにいすに座るアンナ。
「ヨハン、ちょっとアンと話があるの」とエステル。
「廊下にでてて」とアンナ。
・・・このへんの会話からすこしづつふたりの関係がみえかくれしてくる。
ヨハンが外にでると、
「昼間どこへ行ってたの?」と姉。
「散歩よ」とアンナ。
「ずいぶんながかったのね」
「・・・詳しく話す?」
嘘とも本当ともとれるストーリーで姉にジャブをあびせる妹。
「寝ないの?」とアンナ。
「寝るわ」とエステルがベッドによこになると
「・・・・私と一緒に寝てよ、ちょっとだけ」
その間にアンナがベッドのよこに腰をかけていたらしい。起き上がるとすぐそばに座っているアンナの首筋があり、息のかかるくらいのちかさにいる。すぐにも首筋に口づけ出来る距離なのに、理性で必死にこらえてるエステル。
「その男と会うの?」
「・・・・・」
「会わないでよ・・・・今夜はよして・・・・つらいわ」
「・・・・・なぜ?」
「・・・なぜって・・・・・私がみじめよ」
「・・・・・」
「嫉妬してるんじゃないのよ」
「・・・・・」
我慢できずアンナのほほに唇をおしつけるエステル。
「行くわ」っとアンナ。
一点をみつめるエステル、やがて目を閉じる・・・。バンと大きな音がして出て行くアンナ。
この一連の台詞と芝居でこのふたりの過去の関係が明白になってくる。この映画は画面でも言葉でも本当のことを言わないので、みている人が感情移入して二人の関係を認識していくしかない。
隣の部屋に男をつれこむアンナ。それをみてしまうヨハン。
「私たちふたりともママが好きね」と悲しげにおでこをあわせるエステルとヨハン。
情事の最中、アンナはエステルがドアの外にいることに気づき中に入れる。姉に見えつけるように愛撫をうけている妹。愛撫をうけながら「姉さんは自分が中心にいなければ我慢できないのよ」とののしるアンナ、
「ずっと私はお姉さんを見習ってたのに、お姉さんは私が憎かったのよ」
「そんなことないわ」とエステル。
たぶんそれはホントで嘘なのだろう。
エステルにとってアンナはまもってあげたい、そして自分が支配したい妹だったのも確かだし、自分が理性を基本として生きているのに対して、妹は感情を基本としていることを許せなかったのだろう。妹にとっての姉は独裁者であり、矯正者であり、偽善者であり、本来愛したいのに憎しみの対象になっていたのだろう。
これは総てのベルイマン映画に通じるコンセプトといえる。
泣きながら言ってしまう妹、
「可愛そうなアン」といってなんとか自己を肯定して出て行く姉。
勝ち誇ったように笑う妹。そんなアンナを愛撫しつづける男。笑おうと努力しているのに涙があふれ出るアンナ。
一夜があけて、ベッドには昨晩の男がまだ寝ている。服をきて部屋を出ようとするとドアの向こうでエステルが倒れている。ずっと一晩中そこにいたのだろう。愕然とするアンナ。
エステルのかたわらには老給仕がいて世話をしている。
アンナはヨハンと2時の列車で行くと告げる。
* * * *
余談ではあるが、ベルイマンの演出するうめき声、もだえはすごい。
この作品の3年後に黒澤明の『赤ひげ』が公開されることになるのだが、すい臓がんの患者が死ぬときの絶え絶えの息づかいは、この『沈黙』を見ると、このエステルのうめきをコピーしているように思われる。
そしてベルイマンの『処女の泉』は黒澤の『羅生門』からインスパイアされたと言われている。このふたりは、お互い会うことはなくとも、フィルム上でお互いを意識しあってたのではないかと思えるのは勘違いだろうか?]]>
冬の光(1962) ☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/13525408/
2010-04-25T10:57:00+09:00
2010-04-26T08:00:42+09:00
2010-04-25T10:57:47+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:ヨハン・セバスチャン・バッハ
出演:
グンナール・ビョルンストランド (牧師・トーマス)
イングリッド・チューリン (女教師・マルタ)
マックス・フォン・シドー (漁師・ヨナス)
グンネリ・リンドブロム (ヨナスの妻・アンナ)
* * *
現実をファンタジーで理解していかなければならない牧師の苦悩・・・
「神の沈黙」三部作の2本目。ちなみに一作目は『鏡の中にある如く』、三作目は『沈黙』。しかし物語的にはまったく関連性はなく、あえてこのくくりを3本の映画にほごこすことはないと思っているのだけど・・・。しかし、そもそもこの「神の沈黙」とはいったいなんなのだろう?
私なりに解釈すると、神のいうファンタジーが機能しない問題を映画にしている3本ということになる。神の名において説教しようとしても無駄なこと・・、それがこの3本のテーマなのだと思う。
ベルイマン自身は、ウプサラの司教の息子として生れたが、父とはまるっきり相容れなかった。ベルイマンの母は出産の際にスペイン風邪にかかっており、ベルイマンは生まれたときすでに瀕死の状態で、このためベルイマンは幼少時は非常に体が弱く、常に病気がちで、依存心が強く、学齢に達しても登校しようとしない子供だったそうです。そんなベルイマンを父のエーリックは、暗いクローゼットの中に閉じ込めたり、笞で打ったりと、非常に厳しい体罰でしつけたそうです。結局ベルイマンは19歳の時に家出、その後4年間、両親と会うことはなく、父との確執は大人になってからも消えることはなく、悪性腫瘍で倒れた父を見舞うこともなかったといいます。この父への反発と、父の職業だった牧師とい仕事(宗教)への不信感が、その後のベルイマンの映画をとる基本原理になっているしょう。
私にいわせるなら、ベルイマンの映画は父に対する復讐だったのでしょう。ベルイマンの映画にはこの父の亡霊がいつくもでてきます。それはあるときは母になり、あるときは姉になり、あるときは神父になり高圧的な態度をとってきます。しかしこの映画では、いつもの高圧的な父の亡霊は影をひそめ、逆に父の哀れさを強調しているといえるでしょう。
本作のなかでは、中国の原爆実験のあと、書くの潜在的な恐怖に悩む男が牧師に相談するのだけど、そんな問題牧師に解決できるわけがありません。もちろん解決することなんか誰にも出来ないのだけど、牧師というのは、ファンタジーで人の心を癒すのが仕事です。しかしその仕事すら出来ない哀れな牧師さん・・、そんな主人公を描いたのがこの映画なのです。
1963年度国際カトリック映画局でグランプリ受賞、同年ウィーン宗教映画週間で最優秀外国映画賞を受賞。
ちなみに、原爆の潜在的恐怖映画としては、黒澤明の『生きものも記録』、タルコフスキーの『サクリファイス』などがあるが、正直なところどれも面白いとはいえない。ただ、他の2作が巨匠の映画なれど全然つまらないのに対して、この『冬の光』はまだ脳内刺激的に面白い。
世間には宗教を必要とする人がいて、それはアニオタがアニメを必要としているよなもで、ゆえにそれを配給する側もくだらないと分っていてもやめさせてもらえない現実がある。人のころは笑えないな・・・。
<あらすじ>
冬のスウェーデン、小さな町の日曜日の朝。無事ミサを終えた牧師トマス(グンナール・ビョルンストランド)は、漁師の妻のカリン(グンネリ・リンドブロム)から話を聞いて欲しいと言われる。彼女の夫・ヨナス(マックス・フォン・シドー)が中国も原子爆弾を持つというニュースを新聞で読んで以来、核戦争の恐怖でふさぎこんでいるというのだ。しかしトマスは最愛の妻に先立たれてから失意のどん底にあり、彼らの悩みを真剣に聞いて上げられる状態ではなかった。
そんなトマスのことをあれこれと気遣ってくれているのが、地元の小学校の女教師マルタ (イングリット・チューリン)だった。しかし彼女の愛は押し付けがましく、息苦しい思いさえしていた。
再び訪ねて来たヨナスと向きあったが、常識以上のことは何もいえず、ヨナスには何の力にもならなかった。ヨナスはそれから間もなく、河辺でピストル自殺で命を絶った。一方マルタも、彼の煮えきらない態度に決断を迫り、ヒステリックな言葉のやりとりかわすことになる。
それから数時間後、礼拝堂にたつトマス。しかしそこには町の人はだれもきいない。それでも型通りの式を進めていく牧師トマス。たった一人の聴聞者は別れたばかりのマルタだった。
ファンタジーで世界を解釈することにした彼、どこまでそれを貫くしかない。たとえむなしくてもそうするしかないのが彼の人生なのだろう・・・。三つ子のたましい・・というが、ベルイマンの父への憎しみと復讐心を感じる映画だった。
・・・しかし、なんでこんな宗教に懐疑的な映画に、宗教関係の団体は映画賞をあげたのだろう? ・・・わからん。]]>
鏡の中の女(1975) ☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/13513489/
2010-04-23T23:29:00+09:00
2010-04-24T10:59:39+09:00
2010-04-23T23:29:55+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:チェービー・ラレティ
出演:
リヴ・ウルマン (精神科医・エニー)
エルランド・ヨセフソン (産婦人科医・トーマ)
グンナール・ビョルンストランド (祖父)
* * *
ベルイマン映画なれど・・・、これは新鮮さを感じなかったなあ。
とりあえずいつものねたを配置し、物語として一本にした・・という感じ。しかし、感情部分の説得力が余りにないので、イベントだけがいつものベルイマンしてる感じで、どうにも物語りが心に定着しなかった。ベルイマンファンの私でもこういう現象におちいるのだなと、ちょっと残念なきがした。
この映画は、一応よくある心の謎解きモノなのだが、その起点となるのが、養父母から受けた幼児虐待の記憶。主人公のエニー(リヴ・ウルマン)は子供の頃良心をなくし、祖父母によって育てられたが、そこでの祖母の虐待によるトラウマとなっているというもの。ただ、これ自体がそれほどのインパクトがなく、とってつけたような理由付けになってしまってるのがいたい。主人公が精神科医にもかかわらず、別の精神科医もどき(本編では産婦人科にを相手に話すことになる)を欲するシチュエーションになるのだが、内面を告白するシーンが必要なら、その相手を精神科医にすればいいいのであって、本人を精神科医に設定すること自体がどうも意味をもたないというか、見る側にしてみればなんだかしっくり来ない感じ。
いろんな意味でご都合主義で出来てる感がぬぐいきれない映画だった。。。
<あらすじ>
ストックホルムの総合病院の精神療法医エニー・イサクソン(リヴ・ウルマン)は、家族にも恵まれ、何不自由なく生活していた。そんな彼女は、幼ない頃両親を事故で失ない、その後は祖父母に育てられたのだった。しかし、祖父母からは子供の頃虐待をうけており、大人になっったいま、なんとか祖父母と仲良くしようとするが、心の中ではそれを拒絶する願望があったりする。そんなストレスを常にかんじていたエニーだった。そして病院では、マリヤの話を聞いていたが、一向に快復する様子がなく医者の無力さを感じていた。
主任医師の家で開かれたパーティで、エニーはトーマ(エルランド・ヨセフソン)という婦人科医と知り合い、食事を誘われる。承諾したエニーは二人で明け方まで語りあった。
『ある結婚の風景』のカップルの再現だが、こちらは今ひとつ深みを感じなかった。とどのつまりは、子供の頃の幼児虐待を原点として、そのことをあたかもなかったかのようにふるまることでなんとか自己を確立してい彼女だったが、それが彼女の人生総てに無感動な状態を引き起こしていた・・というものなのかな。本質をみることなく、ありきたりの処理でなんとか社会との摂政をおこなってきた彼女だったが、そんな人生よりも、傷ついて心がいたい人生であっても、やっぱり本質をみていきたいな・・というベルイマンのメッセージを感じる映画。なので物語の背骨はきちんとしていると思う。しかし・・・ちょっと作り損ねたイージーな映画になってしまった。残念。]]>
野いちご(1957) ☆☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/12018245/
2010-03-10T05:16:00+09:00
2010-03-10T05:26:36+09:00
2009-09-27T23:49:20+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:グンナール・フィッシェル
音楽:エリック・ノードグレーン
出演:
ヴィクトル・シェストレム (イサク・ブログ)
イングリッド・チューリン (義娘・マリアンヌ)
グンナール・ビョルンストランド (息子・エーヴェルド)
ビビ・アンデルセン (サラ/ヒッチハイクの少女)
ジュリアン・キンダール (家政婦・アグダ)
グンネル・リンドブロム (シャーロット)
マックス・フォン・シドー (ガソリンスタンドの男・アカーマン)
* * *
ラストの「・・・鍵はかけないでおきます」
・・・これがいいんだ。これですべてが救われる。受け入れられるということ。すばらしい。こういう受け入れてもらえる人というのをもてることが人生のすべてかもしれない。
そのまえのビビ・アンデルセンの「イサク、私はあなたが好きよ。今日も、明日も、ずっと・・」
これも、じいいいいいいいいいいんときたなあ。
ベルイマン映画のなかで唯一見て幸せになれた映画。ベルイマンにしてはとてもやさしい映画だ。ぐりぐりどろどろのベルイマンの映画の中にあってこれだけ人をやさしくつつむ映画があったとは・・。見直してみて再確認した。すごい。これ、歳をとてからみるれば見るほど、どんどんやさしが染み込んでくる映画だ。
この物語はベルイマンにしては珍しくロードムービーである。あ、『第七の封印』も考えて見ればロードムービーかもしれないが・・。
医者のイサク(ヴィクトル・シェーストレム)は76歳になり、50年にわたる医学への献身によって、名誉博士の称号をうける式典に出席することになる。息子エーヴェルドの妻、マリアンヌ(イングリッド・チューリン)がその会場までおくってくれる。そのとちゅう、青春時代をすごした家にしばしよることした。そこは野いちごがみのっていた。野いちごを摘む可憐なサラ(ビビ・アンデルセン)のイメージがうかびあがる。彼女はイサクのフィアンセだったが、弟に寝取られてしまう。その後、別の女と結婚したのだが、彼女も他の男と浮気をしてしまう。かといってなにも言わなかったイサク。
このイサクという人物、多分ひたすら現実と戦うことを裂けてきた人なのだと思う。好きな女がいて、長年のつきあいからフィアンセという立場になってはいたが、彼女がうばわれようとしているとき抵抗もしなかった。たぶん現実的な問題として考えるなら、女が別の男を好きになったらそれはもう終わりだと思うが、そんなことはどうでもいい、自分の本心を表現するということをしなかった。みっともなくても求めることをしなかった。それを行動として表現しなかった。たぶん彼の人生はずうっとそんな感じだったのだろう。
物語の冒頭でのべられるように、彼が「人生がむなしい」と思うことは、彼が彼の心を表現しないまま、終わろうとしているからだ。
ここから3人の若者を同乗させることになる。その一人がサラに似ている。この時点では彼らとのイベントはさほどあるわけではないのだが、名誉小を受賞した後、彼らがイサクを訪問し「おめでとう」って言ってくれる。それがまたいいんだ。特にその一人がサラに似てるとこうことが、喜びをほんのすこしだけプラス・アルファしてくれる。もっとも同じビビ・アンデルセンが演じているのだから似てるはずだ。
彼らは廻り道をして、96歳の老母を訪ねる。彼女は他人にも自分にも厳しく、親族は誰も寄りつこうとしない。死さえも彼女をさけているようだ。ここでベルイマンがいつも登場させる高圧的支配者キャラを登場させている。彼女の影響下で感情を抑えることになれてしまったのだろう。
そしてその姿勢は息子にも受け継がれていることを、義娘・マリアンヌから聞かされる。マリアンヌは妊娠したが、夫の(イサクの息子)のエーヴェルドは産む事に反対した。エーヴァルドは自分がイサクの息子なのかどうかも疑っていた。そしていつも喧嘩をしていた父と母をみて育った。そんな環境になることがわかっていて子供は持ちたいとは思わないという。
このシーンに先駆けて、3人の若者をのせたあと、一組の夫婦を乗せるエピソードがある。お互いささやかにののしりあい、相手を貶めることで自分を肯定しようとしている夫婦。マリアンヌが「降りてください」といって車を止める。夫婦はささやかに礼をいって降りていく。あの時なんでマリアンヌがあんな態度に出られたのか・・っと思ったら、ここでその心情が語られてる「未来の私たちを見たくなかった」。
それはきっとイサクの過去でもあったのだろう。
マリアンヌを通して息子の想いをしらされたイサクはさらにめいってしまう。
彼にとって仕事とは現実からめをそらすための言い訳でしかなかった。悔しい時に悔しいともいえず、だから仕事に没頭することでそれから逃げてきた。悔しい時に悔しいといえない人間は、嬉しい時も嬉しいといえないものだ。そしてそれも多分彼の人生のなかにはなかったのだろう。その結果として与えられた今回の名誉賞。それにどれだけの意味があるのか・・・・。
しかしそれは幸せなイベントも引き寄せてくれた。先に出会った若者3人が会いにきてくれたのだ。ビビ・アンデルセンの面影を垣間見ることもできた。そして最後、ずっと世話をしてくれている家政婦のおばちゃんに
「もう長年の付き合いだから、名前で呼んでもらえんかね」と言うと
「いいえ、先生は先生です。つつしみは必要です」と返される。ちょっと寂しいきもちになっているとこに、
「鍵はあけておきます。御用の時はいつもおいでくさい。おやすみなさい」って言葉をかけてもらえる。
じいいいいいいいいいいいいいいんなのだ。
さらに追い討ちをかける。昼間乗せた3人の若者が窓の下でお祝いの歌をうたってくれる。彼らはハンブルグへ旅立つという。そして立ち去る前にビビ・アンデルセンがこういい残す。
「私はイサクが好きよ。今日も、明日も、ずっと・・・」
じいいいいいいいいいいいいいいいいいいいんである。その言葉を胸にねむりにつくと、再び子供の若き日のサラ(ビビ・アンデルセン)があらわれる。そして彼女はイサクの手を引き、かつて、イサクの両親が幸せな時間を過ごしているその一シーンをおもいおこさしてくれる。
じいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいんである。そして幸せそうに眠りにつくイサク・・・。
これは、ベルイマンの『フィールド・オブ・ドリームス』である。
まさに人生の癒し映画の傑作だ。]]>
愛のレッスン(1954) ☆☆
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2010-03-08T19:11:31+09:00
2010-03-08T19:11:32+09:00
2010-03-08T19:11:32+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:マルティン・ボーディン
音楽:ダーク・ヴィレーン
出演:
グンナール・ビョルンストランド(ダビッド)
エヴァ・ダールベック (妻・マリアンヌ)
ハリエット・アンデルセン (娘・ニクス)
* * *
これは退屈だった。。。一応ベルイマン風の舞台劇的ラブコメなのだろうが、どうにもぴんとこない。
自分は恋愛事情の戦略家だと思っている主人公の婦人科医ダビッドが、愛人をつくってよろしくやっていると家庭が壊れかけ、どうやら妻が浮気していることもわかってくる。で、策を練ってた妻のとの関係を修復していく話。ことがそれほどディープにも思えず、ベルイマンの映画にしては底があさかったような気がした。主要登場人物はほぼ同じ役者でそろえた翌年の『夏の夜は三たび微笑む』のほうがはるかに出来が良い。
お手軽につくった映画という印象がしたのは私だけ?? ベルイマンの映画のなかではハズレの一本といっていいだろう。
<あらすじ>
中年の婦人科医ダビッド(G・ビエルンストランド)と妻マリアンヌ(エヴァ・ダールベック)との)結婚生活は16年になる。二人の間にはニクス(H・アンデルソン)とペルレという二人の子供があり、平凡だが、円満な生活をおくっていた。ところがダビッドは診察に来た若い人妻スザンヌと関係をもつようになり、そのことをうすうす気づいた妻とはギクシャクしてくる。ダビッドが家庭や愛情の問題について、娘と真剣に話し合っているうちに、マリアンヌも不倫していることが分かってしまう。相手はダビッドとは無二の親友だった彫刻家カーラダムだった。
ここからがこの映画のありえないというか、映画的にあんまりありそうにない展開になる。家庭の危機を感じたダビッドは、スザンヌとの情事を清算した。いろいろ策を講じて妻とよりを戻すわけだ。普通はこのまま分かれる展開になるのだろうが、そこはそれ、舞台劇的な記号主義的映画なので、さくっと戻ってしまうわけだ。]]>
夏の夜は三たび微笑む(1955) ☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/13040741/
2010-03-08T09:03:00+09:00
2010-12-09T07:47:43+09:00
2010-03-08T09:03:32+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:グンナール・フィッシェル
音楽:エリック・ノードグレーン
出演:
グンナール・ビョルンストランド (フレデリック・エーゲルマン)
エヴァ・ダールベック (フレデリックの元愛人・デジレ)
ウーラ・ヤコブソン (フレデリックの新妻・アン)
ビルギッタ・ヴァルベルイ (フレデリックの息子)
ハリエット・アンデルセン (メイドのペトラ)
ヤール・キューレ (マルコム伯爵)
マルギット・カールキスト (マルコムの妻・シャーロッテ)
* * *
『秋のソナタ』や『ファニーとアレクサンデル』などをてがけたスウェーデンの巨匠イングマル・ベルイマンのロマンチック・コメディ。ベルイマンといえばメンタル・スプラッタ映画って印象なれど、こういう洒落たコメディも撮っている。でも、面白いと思えたのはこれだけ。期待しすぎも禁物。前年に撮った『愛のレッスン』は全然つまんなくて、そのあとに見たものだから多少良く見えたってところもあったかも。
不思議なもので、この映画をみているとウディ・アレン映画をみてるきになってしまった。ある夏の夜に、郊外の別荘に集まった男女数組の心の機微を描いたシチュエーション・コメディで、良くも悪くも、ウディ・アレンのベースはベルイマンなんだろうなって感じさせてくれる映画。
しかし・・この映画、舞台劇的ラブコメスタイルをとっていて、感情移入が実に難しい。これは描き方だけでなく、文化の違いからくるものだろう。そんなに割り切れた妻と愛人と男の関係があるのか・・って思ってしまう。さすがスウェーデン。それでもふしぶしにツボを突く言葉や演出がある。さすがベルイマン。
マルコム伯爵が愛人のデジレ宅にいってみると、フレデリックがいる。ふんがいして正妻シャールロッテのところに戻って、妻にむかって、
「妻ならまだしも、愛人を寝取られたら虎になる」
・・と言ってのける。まさにおおおおおおおおおおおお!!!??である。
この潔さに感動してたら最後、今度は愛人デジレにむかって
「愛人ならまだしも、妻を寝取られたら虎になる」と言いやがる。こんなの言われたら最初の言葉の感動がなくなってしまうじゃないか!馬鹿たれ!ここは大不満でしたね。
ベルイマン映画の常連で美女的役割のハリエット・アンデルセンが脇をかためてているが、主役はエヴァ・ダールベック。マルコム伯爵の妻シャーロッテを演じるマルギット・カールキストは、美人なのかそうでないのかいまいち判断しきれないのだが、本編ではやたらときりりとしててかっこよく見える。撮影は『野いちご』のグンナール・フィッシャー。画面構成は実にスタンダードは画作りをするひとだ。ちなみに、夜が夜に見えないのは「白夜」だそうな。確かにスウェーデンの夏の夜は白夜でなかなか暗くならないし、あっというまに明るくなってしまう。
あとひとつ気になったのは、ゴシップ記事だと、ハリエット・アンデルセンとベルイマンは『不良少女モニカ』以来恋人関係だったのだが、この『夏の夜は三度微笑む』の撮影中に破局したらしい(苦笑)。主人公弁護士フレデリック・エーゲルマンの新妻がやたらと元気なのと、その妻が結局息子とひっつき駆け落ちしてしまうくだりは・・、もしかしたらハリエット・アンデルセンを思うベルイマンの気持ちがこんなんだったのかなってかんぐってみたくなる。当時ベルイマン37歳、ハリエット・アンデルセン23歳であった。こんな小娘にてをつけるなんざあ、けしからん奴だ、まったく。。。
登場人物と立ち居地をざっくり整理しておこう。
●フレデリック・エーゲルマン弁護士(グンナール・ビョルンストランド)
アンと結婚したが、想いを大事にするあまりまだ“H”もしていない。そんな彼が一番居心地のいいのはデジレである。
●フレデリックのかつての愛人デジレ・アームフェルト(エヴァ・ダールベック)
いまでもフレデリックが一番一緒にいてらくな相手。しかし今の立場はマルコム伯爵の愛人。
●フレデリックの新妻・アン(ウーラ・ヤコブソン)
フレデリックと結婚したが、大事に思われすぎてまだ抱かれてもいない状態に物足りなさを覚え、の息子ヘンリック(フレデリックと前妻の子供)に退かれるものを感じている。
●フレデリックの子供・ヘンリック(ビヨルン・ビェルヴヴェンスタム)
牧師志望でまじめな青年。経験豊富なメイドのペトラ(ハリエット・アンデルセン)の色香によろめいてるが、相いつもお預け、実はからかわれているだけなの。しかし、潜在的には父の再婚相手アンに惹かれるものがある。
●デジレの愛人マルコム伯爵(ヤール・キューレ)
●伯爵を愛しながらも報われない伯爵の妻・シャーロッテ(マルギット・カールキスト)
・・・そんな状況のなかでデジレは考える。
今の愛人マルコム伯爵を妻シャーロッテのもとに返し、フレデリックの新妻とヘンリックと引っ付け、自分は再びフレデリックと一緒になろう!・・と。かくして、この壮大な(?)計画をたてる。関係者をデジレの母の家にまねき夏の夜の一夜をみんなで過ごすというのだが・・・。]]>
ある結婚の風景(1974) ☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/11946577/
2009-06-16T19:54:00+09:00
2009-09-20T13:52:56+09:00
2009-09-16T20:22:03+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:オウェ・スヴェンソン
出演:リヴ・ウルマン
エルランド・ヨセフソン
* * *
これはマジでお互いのしゃべりっこなので、ベルイマン映画の楽しみ方を知らない人には不向き。二人が会話する言葉に耳をかたむけつつ、“自分たちはどうなのだ?”って自問自答して見なければいけない映画。夫婦一緒には絶対見ないほうがいいと思う。
その昔、鎌田敏夫脚本で『男女七人夏物語』なるドラマがあったが、そのなかの池上季実子の台詞のなかで
「桃子の家庭はみんながすこしづつ嘘を付き合ってるんだと思う。だから上手くいってるんだ」ってのがあった。やっぱり結婚してても人は人、ひとつの形を保持するためにある程度の帳尻合わせは必要になってくるのだろう。これは結婚だけではなく、共同体なら会社にしろ、学校にしろ、どれでもあてはまることなのだけど。
恋愛というのはお互いに期待できてる期間の関係であり、結婚となると期待の限界値はみえてきており、それ以上期待しなくなる。無理して期待すると壊れると本作品のように壊れることになる。・・がそれも悪いとは定義していない。
安定を保っていたヨハン(エルランド・ヨセフソン)とマリアンヌ(リヴ・ウルマン)の夫婦。42歳のヨハンは応用心理研究所の助教授、35歳のマリアンヌは親族法・民法の弁護士で、二人の間の娘二人と共に安定した暮しを送っていた。理想的に見えるこの夫婦は、ある朝取材の女性記者のインタビューを受け、マリアンヌは夫婦関係について初めて語った。数日後、夫婦の共通の友達夫婦を夕食に招くと、彼ら二人はお瓦いにののしりはじめた。その夫婦に唖然としながら仲介をするのだった。
その晩夫に自分たち夫婦の在り方を話そうとしたマリアンヌに、しかしヨハンは耳を傾けようとはしなかった。ヨハンは研究室で実験し、マリアンヌは法律事務所で依頼人の相談に応じるという相変らずの毎日が過ぎてゆくが、遂にそのバランスが崩れる時を迎える。
その後この物語は、別居、また再会、離婚、お互い再婚もするがやっぱりに理想とはいかない。そしてまた再会。そんななかでお互いの心情を暴露しあう映画ではあるが、最後の再会のときに二人はとても穏やかでピースフルな感じで良かった良かった。]]>
もだえ(1944) ☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/11865288/
2009-03-04T06:42:00+09:00
2009-09-20T14:04:52+09:00
2009-09-04T07:55:14+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:アルフ・シェーベルイ
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:マルチン・ボデイン
出演:スティーグ・イェレル
マイ・ゼッタリング
アルフ・ケリン
* * *
この作品、イングマル・ベルイマンの作品群のひとつのように感じているし、そう考えてもあながち間違いではないのかもしれないが、ベルイマンのやくどころは脚本と助監督である。しかし、いつも出てくる高圧的な人物はこの映画でも登場しておりベルイマンの存在を強く感じる。
そしてこの高圧的な教師は、のちの『ペーペーチェイス』のキングスフィールドにイメージベースになったのではないかと勝手に思っている。ただ、根本的にちがうのは、キングスフィールドがあくまで法律の分野での情報伝達の一部に特化したキャラクターであるのにたいして、この『もだえ』に登場するカリギュラはベルイマン的な高圧的な人間としてのキャラクターだといえるだろう。
そしてこの映画、ベルイマンの脚本のわりにはサスペンステイストのエンタテイメントなドラマにもなっている。
青春ものテイストあり、好きな女に付きまとう見えない男の影あり、そういう意味ではベルイマン物の中ではもっとも親しみ易い映画ではないかと思う。
ついついベルイマンベースで見てしまったが、この監督のアルフ・シェーベルイもスウェーデンでは名匠のひとりであり、カンヌでパルムドール賞を2度うけている。ひとつはこの『もだえ』(この年は複数の作品が賞をもらっている、それも12作品)、もうひつとは『令嬢ジュリー』(1951)。この年にはビットリオ・デ・シーカの『ミラノの奇跡』も同時受賞。パルムドールは複数受賞することが初期のころは多かったのだ。
この文章を書くのにパルムドール賞の歴史をしらべてみると、いやいや、少なくとも1980年代まではきちんとしているなあと思った。残念ながら90年代~現代にいたっては「なんでこんなのがパルムドールなん??」と首をかしげることがおおく、個人的には評価に値しない賞とおもっているのだが・・。
<あらすじ>
ヤン・エーリク(アルフ・チェリン)の通う八年制高校に、カリギュラと呼ばれる厳格でサディスティックな教師(スチーグ・イェレル)がいた。ヤンもヤリ玉にあげられる。
学校の前に雑貨屋があり、そこにベルタという娘(マイ・セッタリング)が働いていた。その夜、親友と映画を見ての帰えり、ヤンは酒に酔ってフラフラのベルタを見つけ、彼女の住居へ送って行った。見すぼらしい部屋、酒瓶とコップがあるだけでベルタが荒んだ生活をしていることが判った。ヤンエーリクが帰ろうとすると彼女は「あの人がまた来るかもしれない、怖いわ」といって引止めた。ベルタが恐れる男とはカリギュラのことである。彼女はベルタの愛人であり、彼女を攻めることで嗜虐的な欲望を満足させていたのだ。
やがて荒廃した部屋で死んでいるベルタを見つけるヤン。そして廊下にカリギュラがいて「ぼくがしたんじゃない!」と頭を抱えている。彼女は強酒をあおってこの結果になったのだとまことしやかに述べたるカリギュラをヤンは殴り倒し退学になる。そんなヤンに失望するヤンの父。そんな家をとびだすヤン。一方カリギュラは社会的制裁をうけて孤立無援になっていた。
ベルタの部屋に一人住むヤンエーリクのもとへ校長が訪れ、やさしく帰宅を勧めた。
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ファニーとアレクサンデル(1982) ☆☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/12603787/
2008-11-04T05:00:00+09:00
2010-01-31T18:08:07+09:00
2010-01-04T04:59:53+09:00
ssm2438
I ・ベルイマン(1918)
監督:イングマール・ベルイマン
脚本:イングマール・ベルイマン
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
音楽:ダニエル・ベル
出演:
バッティル・ギューヴェ (アレクサンデル・エクダール)
ペルニラ・アルヴィーン (ファニー・エグダール)
エヴァ・フレーリング (エミリー・エグダール)
ヤン・マルムシェー (ヴェルゲルス主教)
* * *
人には決して勧めないが、イングマル・ベルイマンの集大成の映画だろう。集大成すぎて、ストーリーとしての求心力がないことだが・・、これは目をつぶろう。
しかし、それぞれのシーンの完成度は恐ろしいまで高く、なにもかもが濃縮還元ベルイマン・ジュースとして作りこまれている。演出もエピソードの、登場人物のキャラクターも、どこをとってもベルイマンのエッセンスにあふれている。「ベルイマンとはこんなもんだ」・・という彼の性格や思いや、語りたいものや、彼自身の人生経験や・・そんなもの総てがもっともコンパクトに集約されてた映画だといっていいだろう。
5時間と言うとてつもない時間の映画だがその長さをまったく感じさせない映画だった。間にインターミッションはあったが、見せ方がすごいのだろう、目が離せないというか・・、見る人の脳みそに確実に飽きさせない何かを画面のなかに練りこんだ演出なのだろう。感情移入と期待、陶酔‥、そういうものが無意識のうちにつづれ折られており、それがつねに見ている人の感性を刺激しているのだと思う。その極意が何なのか、死ぬまでには見極めたいものだ。
ベルイマン映画のコアともいうべきリブ・ウルマンが出てないのは淋しかったが、それでも彼女が出てないことがベルイマン過ぎずに良かったと思える。もしあの母親役をウルマンがやっていたら親近感がありすぎていやらしいものになっていたような気がする。エヴァ・フレーリングの母親役はこの映画にとって絶対不可欠な要素だったのではないだろうか。夫を亡くした葬儀のときは平然としている未亡人を演じていた彼女が、よるになり誰もいなくなった棺を「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお、ううああああああああああああああああ」と嗚咽のような叫び声を下ながら行ったりきたりする映像は今でも心にやきついている。この映画のなかでいいシーンはいっぱいあるが、あそこが一番好きだ。
1983年のアカデミー外国語映画賞やセザール外国映画賞を初め、この年の外国映画賞や 撮影賞のほとんどこの映画がもっていった。
<あらすじ>
スウェーデンの地方都市ウプサ。大邸宅の一室でただ一人、人形芝居に興じる少年アレクサンデル・エクダール(バッティル・ギューヴェ)。物語に憧れる彼は、ベルイマン自身を投影しているのだろう。その父オスカル・エクダール(アラン・エドヴァル)のはとてもおおらかでやさしい人柄であり、俳優でもあり劇場主でもあった。この父親はベルイマンのそれとはまったく正反対のものだった。
二月上演の『ハムレット』を劇場でリハーサルしていたオスカルは、過労のため突然倒れ、死んでしまう。ヴェルゲルス主教(ヤン・マルムシェー)の手で盛大に葬儀が行なわれた。それから1年、アレクサンデルは、母エミリー(エヴァ・フレーリング)がヴェルゲルス主教と再婚することきかされる。妹ファニー(ペルニラ・アルヴィーン)と共にエクダールの家を去り、主教館に移るアレクサンデル。エミリーと子供たちは、この主教館をつつむ暗い空気に驚く。さらに華美に生活することを恐れる主教は、彼女たちに質素な生活と精神生活を強いた。ヴェルゲルス主教こそがベルイマンの父親のイメージなのだろう。宗教の教えをかさにきて強圧的に総てを圧迫支配する人物像。それは総てのベルイマン作品に登場する、ベルイマンが戦うべき相手なのだ。
翌年、別荘でくつろぐ親族のもとにエミリーが訪れ、結婚は失敗だった、離婚したいが夫が許さないと、苦悩を訴えた。アレクサンデルとファニーは屋根裏部屋にとじ込められ、エミリーの世俗社会への復帰を許さない人質となっていた。親族の協力を得て、子供たちは脱出させるエミリー。ここはもうサスペンス映画モードになっていた。子供たちに去られ、離婚をほのめかされた主教はエミリーに心情を吐露する。理性に生きた男があふれだす感情をコントロールできなくなっている。彼女は主教の飲物に睡眠薬を入れ、彼は眠りに陥った。その頃、叔母の部屋のランプが倒れ、館は火に包まれた。主教も焼死する。]]>
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