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  <title> 西澤 晋 の 映画日記:ノーラ・エフロン（1941）</title>
  <category scheme="http://ssm2438.exblog.jp/i47/" term="ノーラ・エフロン（1941）" label="ノーラ・エフロン（1941）"></category>
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  <modified>2013-01-07T00:10:42+09:00</modified>
  <author><name>ssm2438</name></author>
  <tabline>主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆＝普通の出来だと思ってください。</tabline>
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    <title>電話で抱きしめて(2000)　☆☆</title>
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    <issued>2010-04-01T04:22:00+09:00</issued>
    <modified>2013-01-07T00:10:42+09:00</modified>
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    <author><name>ssm2438</name></author>
    <dc:subject>ノーラ・エフロン（1941）</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201101/19/81/f0009381_11471394.jpg" alt="_f0009381_11471394.jpg" align="right" class="IMAGE_RIGHT" height="319" width="227" />監督：ダイアン・キートン<br />
脚色：デリア・エフロン／ノーラ・エフロン<br />
撮影：ハワード・アサートン<br />
音楽：デヴィッド・ハーシュフェルダー<br />
<br />
出演：<br />
メグ・ライアン　(次女・イヴァ)<br />
ダイアン・キートン　（長女・ジョージア）<br />
リサ・クドロー　（三女・マディ）<br />
ウォルター・マッソー　(ロウ・モーゼル)<br />
<br />
　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊<br />
<br />
ウォルター・マッソー老けたなあ・・・<br />
<br />
ノーラ・エフロンらしい会話劇だが、もうひとつ盛り上がりに掛けたかな。<br />
やっぱり女性というのは世話をするのが好きな生き物だと思う。先ごろではドラマの中でやたらときびきび働く女性像もみかけるが、やっぱり歳をとってきたとき、女性というのはなにかにつけ、世話をしたがるようになる。世話をするものがなくなると、かなりさびしくなるのだろう。<br />
もちろん、世話をしまくっている時は、けっこうまわりに被害者ぶってるものである。そうしとかないと、自分の価値を認めてもらえないからだ。この映画の主人公イヴは、まさにそんな感じの女性。<br />
<br />
監督はダイアン・キートン。過去何回か監督をやっている。『ツインピークス』（TV）のなかでも監督をやった話がある。監督として特に個性があるわけではないが、彼女が付き合ってきた男がウディ・アレンとかウォーレン・ベイティとかなので、監督のやりかたというのは十分分っている人だと思う。<br />
<br />
＜あらすじ＞<br />
イヴ（メグ・ライアン）は３人姉妹の次女。テレビ・プロデューサーの夫ジョーと一人息子ジェシーの世話をやきつつ、イベントやパーティの企画をしながらロスで暮らしている。姉のジョージア（ダイアン・キートン）は女性誌の編集長を務めるバリバリのキャリアウーマン。妹のマディ（リサ・クードロー）はテレビの昼メロの女優。遠く離れて住む３人を結びつけているのは電話でのおしゃべりだけ。<br />
イヴの父（ウォルター・マッソー）はボケが進行しつつある。昔は映画の脚本家としてならした父だが、母と離婚して以来アルコールに溺れ、世間からだんだんと嫌われるオヤジと化していた。しかしイヴの電話番号だけは忘れないらしく、こまったときはイヴを呼び出してなにかと世話をやかせる。<br />
姉のジョージアは雑誌の５周年記念号で大忙しだし、マディは犬をおしつけて恋人と休暇旅行中で見舞いにさえ来ない。ショックとイライラで病室を出たイヴは、駐車場でイラン人の医師オマーのベンツに車をぶつけてしまう。父は病院を抜け出したあげく脳卒中を起こして倒れ、ボケがいっそう進んでいるらしい。<br />
へとへとになって家に戻ってみると、マディから預かった犬は受話器をかじっている。受話器はよだれでべとべと。かかってきた電話はまたもやイベント関連のトラブルだ。電話なんてまるで拷問の道具！　とうとうキレてしまったイヴは、家中の電話線を抜いてしまう。<br />
<br />
イブの所属する婦人団体がイベントをひらき、そのゲストに姉のジョージアを呼んで公演をしてもらうことになっていたが、ジョージアはそのスピーチのなかで、病気の父をかえりみず仕事をしてきたことを悔やむコメントを出して周囲を涙にさそう。あまりに現実とかけ離れたパフォーマンスについにイブが切れてがなりあいになっていたとき病院から電話。父が意識不明に陥ったらしい。<br />
病院にかけつけると動かない父がベットでねている。<br />
<br />
「悲しいのは、父を愛しているせいよ」という妹。<br />
「あなたの寛大さにはいつも嫉妬してたわ」という姉。<br />
いつも父に選ばれたのはイヴでだった。]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>めぐり逢えたら(1993)　☆☆☆☆</title>
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    <issued>2009-12-05T09:39:00+09:00</issued>
    <modified>2010-01-15T21:20:59+09:00</modified>
    <created>2010-01-05T10:36:14+09:00</created>
    <author><name>ssm2438</name></author>
    <dc:subject>ノーラ・エフロン（1941）</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201001/05/81/f0009381_10352960.jpg" alt="_f0009381_10352960.jpg" align="right" class="IMAGE_RIGHT" height="269" width="269" />監督：ノーラ・エフロン<br />
脚本：ノーラ・エフロン、デヴィッド・Ｓ・ウォード<br />
撮影：スヴェン・ニクヴィスト<br />
音楽：マーク・シェイマン<br />
<br />
出演：トム・ハンクス、メグ・ライアン<br />
<br />
　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊<br />
<br />
ビリー・ワイルダー亡きあとのルビッチ・イズム継承者といえばノーラ・エフロン。そのノーラ・エフロンが、のちに恋愛映画のゴールデンコンビになるメグ・ライアンとトム・ハンクスを召喚し自ら監督をこなしたのがこの映画。<br />
個人的にはノーラ・エフロンはシナリオだけやって、監督は他のひとに任せたほうがいいと思うだけど、というか、どうしても自分のシナリオ作品を自分でやってしまうと、自分の本を大事にしすぎて本来の自然なドラマのながれを壊しかねない。この作品は成功しているのはデヴィッド・Ｓ・ウォードが書いたシナリオをノーラ・エフロンがいじくって完成させているからで、ほかの作品と見ると、どうしても大事に撮りすぎてもたついてる感がいなめない。最近の二コール・キッドマンで撮った『奥様は魔女』なんかはかなり悲惨だった。<br />
<br />
しかし、この映画、あふれんばかりのノーラ・エフロンのこ洒落た台詞回しが堪能できる。始まって１５分くらいから始まるトム・ハンクスとラジオのパーソナリティの会話はすばらしい。メグ・ライアンは夜の道路を運転しながら聞いているだけ。実はこの台詞もシナリオとは変えてある。もとのシナリオよりもはるかにこちらのほうが染み込むんだ、さすがノーラ・エフロン。<br />
<br />
　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊<br />
<br />
Dr. マルシア（ラジオから流れる声）<br />
「誰かを心から愛した事のある人は、<br />
　また他の誰かをそれ以上に愛せるはずよ。<br />
　死んでしまった奥さんと同じくらい愛せる誰かはいないの？」<br />
<br />
サム（ラジオから流れる声）<br />
「Dr. マルシア・・、それはちょっと考えづらいな・・」<br />
<br />
Dr. マルシア（ラジオから流れる声）<br />
「じゃあ、これからどうするの？」<br />
<br />
サム（ラジオから流れる声）<br />
「うむむ・・毎朝起きてベッドから出る。<br />
　息を吸って、息を吐いて・・、それを一日中つづける。<br />
　そのうち、別に意識しなくても、毎朝起きて、<br />
　ベッドから出られるようになる。息を吸ったり、<br />
　はいたりしてることも忘れるようになる。<br />
　そんなことをしているとそのうち、<br />
　彼女と一緒にいた時間がどれだけ素晴らしくて、<br />
　美しかったかなんてことを考えることもななくなるだろう・・、そのうちに・・」<br />
<br />
Dr. マルシア（ラジオから流れる声）<br />
「サム・・・、奥さんは何がそんなに特別だったの？」<br />
<br />
サム（ラジオから流れる声）<br />
「うむむ・・・この番組はあと何時間やっているのかな？　<br />
　・・・・そうだね、それは無数にあるたわいもないことさ・・、<br />
　それを全部観ていたら、僕らは一緒になるべきだったもの同士だって分るよ・・。<br />
　でもボクはそれを知っていたのさ。最初に触れたときから。<br />
　・・・それはまるで、自分の家に帰ったみたいだった。<br />
　ただし・・、それは昔知っていた自分のうちじゃないんだけどね・・。<br />
　それはまさに・・、車から出る時、彼女の手をとったあの瞬間・・・・。<br />
　そのとき分ったんだ」<br />
<br />
Dr. マルシア（ラジオから流れる声）<br />
「・・・・」<br />
<br />
サム（ラジオから流れる声）<br />
「それはまるで・・・」<br />
<br />
アニー<br />
「・・魔法みたいに」<br />
<br />
サム（ラジオから流れる声）<br />
「・・魔法みたいに・・・」<br />
<br />
　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊<br />
<br />
さらにこの映画に付け加えるなら、撮影監督はなんと北欧の巨匠スヴェン・ニクヴィストだ！　このひとベルイマンの映画ではよく撮影監督をやる人だが、この人をつれてきたプロデューサーは偉いなあ。とはいえ、アメリカでもけっこう仕事はしている人なので、特筆すべきことではないのかもしれないが、でもスヴェン・ニクヴィストが撮ってくれるというのはすごいことだ。]]></content>
  </entry>
  <entry>
    <title>マイケル(1996)　☆☆</title>
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    <id>http://ssm2438.exblog.jp/12083592/</id>
    <issued>2009-07-08T04:32:00+09:00</issued>
    <modified>2010-01-15T22:06:54+09:00</modified>
    <created>2009-10-08T05:09:51+09:00</created>
    <author><name>ssm2438</name></author>
    <dc:subject>ノーラ・エフロン（1941）</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200910/08/81/f0009381_591288.jpg" alt="_f0009381_591288.jpg" align="right" class="IMAGE_RIGHT" height="256" width="227" />監督：ノーラ・エフロン<br />
脚本：ノーラ・エフロン<br />
　　　　デリア・エフロン<br />
　　　　ピート・デクスター<br />
　　　　ジム・クインラン<br />
撮影：ジョン・リンドレー<br />
音楽：ランディ・ニューマン<br />
<br />
出演：ジョン・トラヴォルタ<br />
　　　　アンディ・マクダウェル<br />
　　　　ウィリアム・ハート<br />
<br />
　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊<br />
<br />
本来ジョン・トラボルタはあんま好きではないのだけど、ノーラ・エフロンが脚本かいてるっていうからしかたなく見に行った作品。全体的には楽しい仕上がりだが、かといって心に来るものがあるかといえばそれほどでもない。私の趣味なのかもしれないが、ノーラ・エフロンは監督やらないほうがいいような気がする。自分の脚本を大事にするあまり、ノリがよくないというか・・・、大事に撮ろうとしてるんだろうね、でも、ちょっともたもたってする感がある。<br />
ちなみにこの物語はフランク・クインラン(ウィリアム・ハート)とドロシー（アンディ・マクドウェル）の恋愛物ってことになるのかな。　あんまり恋愛関係が似合いそうにない二人だけど（苦笑）。というか、アンディ・マクドウェルが、どうも恋愛にむいてないようなきがして・・、彼女がでると恋愛もなにかしら策略的にみえてしまうのは私だけだろうか？　けして嫌いな女優さんではないのだけど、どうも個人的にはあわないかな。。<br />
<br />
＜あらすじ＞<br />
元一流紙の敏腕記者フランク・クインラン(ウィリアム・ハート)はシカゴの三流タブロイド紙に記事をかいていた。ある日、「うちには天使が住み着いています」という読者からの手紙に興味を覚えた彼は、友人のヒューイ(ロバート・パストレッリ)とスパーキーという犬、そして新人女性記者ドロシー（アンディ・マクドウェル）を伴って取材に向かう。アイオワ州のモーテルに着いた一行は、手紙の主で経営者のパンジー(ジーン・ステイプルトン)と天使マイケル（ジョン・トラボルタ）に対面。しかし彼は煙草をくわえ、でっぷりと太り、シリアルに砂糖を山のようにかけて食べ、下品なジョークをとばす。どこから見ても天使とはほど遠いが、背中には確かに大きく白い羽根が2枚生えていた。<br />
<br />
翌朝、パンジーが発作を起こして急死してしまう。葬儀を終えた一行は、シカゴにマイケルを連れて帰ることに。野次馬精神が旺盛なマイケルは途中、雄牛と決闘したり、レストランで女たちから熱い視線を投げかけられ、嫉妬した男の客たちとケンカして刑務所に入れられたり。ケンカの裁判もマイケルが女性裁判長(テリー・ガー)に魔法を掛けて無罪放免・・とそんな調子。<br />
またも寄り道してモーテルに一泊。夕食時、マイケルにせかされてマイクをもつドロシーには自作のカントリー曲をステージで披露する。彼女にフランクはすっかり魅了され、2人はそのまま熱い一夜を共にする。翌朝、ヒューイの犬スパーキーが一行の眼前でトラックにひき殺された。泣き崩れるドロシーを前に、マイケルはスパーキーを生き返らせるが、彼自身がみるみる衰弱する。そしてシカゴへ着いたとたん、彼は空へ帰ってしまう。<br />
シカゴに帰ると、フランクは彼女と気まずくなり、しばし疎遠になってしまう。離れてみてお互いを必要としていることがわかった2人。ある日、マイケルらしい人影を追って走ったフランクは、ドロシーと鉢合わせ。彼らはようやく互いの気持ちに素直になれ、結婚を決意した。それを見届けたマイケルは、パンジーと一緒に陽気に踊って祝った。<br />
<br />
・・・なんでも、結婚ってのはこのマイケルが考えたらしい。]]></content>
  </entry>
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    <title>ユー・ガット・メール (1998)　☆☆☆</title>
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    <issued>2009-07-07T19:33:00+09:00</issued>
    <modified>2010-01-15T22:07:03+09:00</modified>
    <created>2009-10-07T20:31:25+09:00</created>
    <author><name>ssm2438</name></author>
    <dc:subject>ノーラ・エフロン（1941）</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200910/07/81/f0009381_20294957.jpg" alt="_f0009381_20294957.jpg" align="right" class="IMAGE_RIGHT" height="310" width="227" />監督：ノーラ・エフロン<br />
脚本：ノーラ・エフロン<br />
　　　　デリア・エフロン<br />
撮影：ジョン・リンドレー<br />
音楽：ジョージ・フェントン<br />
<br />
出演：メグ・ライアン<br />
　　　　トム・ハンクス<br />
<br />
　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊<br />
<br />
『めぐり逢えたら』(1993)につづいてノーラ・エフロン＋メグ・ライアン＋トム・ハンクスというゴールデン・ラブコメ・トリオによる２本目の映画。１９４０年に作られたエルンスト・ルビッチの『桃色の店』の手紙のやりとりを今風のメールに置き換えたリメイクである。ただ、このときはトム・ハンクスがデブでちょっといただけなかった。気のせいか、メグ・ライアンもいまいちテンションさがりぎみに見えた。トム・ハンクスがもっとスマートだったら普通に見られたのに・・。<br />
なんでこのときトム・ハンクスがあんなにデブだったかというと、同時期にロバート・ゼメキスの『キャスト・アウェイ』という映画をとっており、この映画が、航空機事故でどこかの島に一人流されてサバイバルするというもの。島に流されるまでの前半～中盤はデブでなくてはいけなくって、それから半年間撮影は中止、その間にトム・ハンクスは２０～３０キロの減量をし、後半部の撮影にはいる契約になっていたとか。で、そのデぶな時期に撮影がかちあってしまったのがこの『ユー・ガット・メール』。おかげでのこの映画のなかのトム・ハンクスはデブだったそうな。<br />
<br />
このころになるとメールでのやり取りは社会に浸透していて、だれもが見知らぬ人とメールでやりとりをしてみるということをしていた時代。私もこの映画がはやるすこしまえくらいから、当時のニフティ・サーブでパソコン通信と言われるものをやっていて、ネットでメルトもをみつけてメールを書いていた。楽しかった。当時のニフティはまだ実名表記だったので、言葉に責任もある。そのなかでのメールのやり取りだったのでその後７～８年続いた人３～４人はいた。それ以降は現在のようなハンドルネームでやり取りをしあう形が主流になってきて、そこで知り合った人たちとはほとんど長続きしなかった。おかげで今でもハンドルネームでのやり取りは嫌いである。<br />
<br />
そうはいっても、見知らぬ人との言葉のやりとり、そしてその人と会ってみようかってことになったときに喜び、で、あってみるとほとんどの場合はイメージと違ってメールはそれっきりになる夢の終わりは現実・・。あれは相手を勝手に自分で想像していたから楽しかったのだ・・と知る。<br />
しかし、この映画はあってからも、つづいていく話。でもそのシチュエーションの作り方が上手い。さすがノーラ・エフロン。<br />
<br />
ノーラ・エフロンの脚本は実におもしろい。『恋人たちの予感』『めぐり合えたら』『マイケル』など。センス・オブ・ヒューモアにあふれてる。気軽に見たいときはこの人の物語は最高にいい。最初にみたのは『恋人たちの予感』だったが、最初みたときはそれほどでもなかったのだ、でも、何年かたつとなかなか忘れがたい映画であることにきづいた。それ以降、この映画の評価は私のなかでは高い。それ以降は脚本だけではなく監督もやるようになっていて、この『ユー・ガット・メール』も監督・脚本をこなしている。最近はニコール・キッドマン主演で『奥様は魔女』作っていたが大ハズレ。あれはみてないことにしよう（苦笑）。<br />
<br />
＜あらすじ＞<br />
ニューヨークのある街角。亡き母から受け継いだ小さな絵本の店を経営するキャスリーン(メグ・ライアン)はインターネットで知り合った顔も知らないある相手との交信に心ときめかせていた。一応恋人フランク(グレッグ・キニア)がいるが二人はいまいち停滞気味。ある日、彼女の見せの近所に大手チェーン店＝フォックスの巨大な本屋が出現することになる。彼女はその見せに行ってみるが、そこの御曹司ジョー(トム・ハンクス)と反目し合う。しかし彼こそ例の交信相手だった。ジョーもまた編集者の恋人パトリシア (パーカー・ポージー)よりも、未知の相手との交信に安らぎを覚えていた。<br />
やがて二人は会ってみようということになる。しかしキャサリンは待ち合わせの店で待っているがそれらしい相手は来ない。そうこうしてるとライバル店の御曹司ジョーがあらわれる。「なに待ち合わせ、相手が来るまで話していようか」てな展開に・・・。<br />
<br />
その後に出てくるエレベーター・エピソードはあっちこっちの映画やドラマでもときどきみられることになる。<br />
ジョーが乗っていたエレベーターが突如停止、ここから救出されるのかどうかもわからない。もしかしてケーブルがおちらそれで終わり。その中に乗り合わせた人々はそれぞれ決意表明していきます。その中の一人の男は「俺はここを出られた彼女に告白しにいく」って。それを聞いてジョーも決意する。]]></content>
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    <title>奥さまは魔女(2005)　☆</title>
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    <issued>2009-04-01T09:30:00+09:00</issued>
    <modified>2010-01-15T22:30:43+09:00</modified>
    <created>2009-10-13T09:50:14+09:00</created>
    <author><name>ssm2438</name></author>
    <dc:subject>ノーラ・エフロン（1941）</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200910/13/81/f0009381_9493385.jpg" alt="_f0009381_9493385.jpg" align="right" class="IMAGE_RIGHT" height="322" width="227" />監督：ノーラ・エフロン<br />
脚本：ノーラ・エフロン、デリア・エフロン、アダム・マッケイ<br />
撮影：ジョン・リンドレー<br />
音楽：ジョージ・フェントン<br />
<br />
出演：ニコール・キッドマン<br />
　　　　ウィル・フェレル<br />
　　　　シャーリー・マクレーン<br />
<br />
　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊　　　　　　　　＊<br />
<br />
これはひどかったね。ノーラ・エフロンだからきっとそれなりに楽しくなってるとおもいきや、ひさびさにぼこぼこに裏切られた。全然面白くない。やっぱり彼女が監督やるとテンポが悪すぎる。とくにこれはそれが前面にでてた。編集でもっときびきびできなかったものかなと思ってしまう。いや、それ以前に、話の根本的な構成がどうだったのか・・。ふたりの愛で乗り越えるべき困難がなく、小手先のじゃれあいだけで済ませてしまったシナリオが敗因だろう。まさか、ノーら・エフロンでｌここまで失望させられるとは思っても見なかった。<br />
<br />
魔女のイザベル・ビグロー(ニコール・キッドマン)は、ほんとの恋を見つけるためにロサンゼルスに舞い降りてきた。父ナイジェル(マイケル・ケイン)の心配をよそに一人暮らしを始めたイザベル。彼女の前に一人の男性が現われた。元トップスター俳優、ジャック・ワイヤット(ウィル・フェレル)。<br />
テレビドラマ『奥さまは魔女』のダーリン役で復活を図りたい彼は、自分を目立たさせる奥さま役として、無名の新人女優を探していた。そこで白羽の矢が立ったのがイザベル。撮影現場での自分勝手なジャックの態度に怒りを募らせるイザベルだが、自分の思いをジャックにぶつけると彼は素直に考えを改めはじめた。母親役のアイリス(シャーリー・マクレーン)に反対されながらも、ふたりは惹かれあっていく。イザベルは魔女であることをジャックに告白。ショックを受けたジャックは一次いざベルを避けるようになるが、結局は億忘れられずにおゴールイン。2人は新居に引っ越すのだった。]]></content>
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    <title>恋人たちの予感(1989)　☆☆☆☆</title>
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    <id>http://ssm2438.exblog.jp/10658138/</id>
    <issued>2009-02-19T16:48:00+09:00</issued>
    <modified>2009-12-16T03:36:15+09:00</modified>
    <created>2009-03-29T16:49:33+09:00</created>
    <author><name>ssm2438</name></author>
    <dc:subject>ノーラ・エフロン（1941）</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[<img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/200908/20/81/f0009381_110951.jpg" alt="_f0009381_110951.jpg" align="right" class="IMAGE_RIGHT" height="375" width="266" />監督：ロブ・ライナー<br />
脚本：ノーラ・エフロン<br />
撮影：バリー・ソネンフェルド<br />
音楽：ハリー・コニック・Ｊｒ<br />
<br />
出演：ビリー・クリスタル<br />
　　　　メグ・ライアン<br />
　　　　キャリー・フィッシャー<br />
　　　　ブルーノ・カービイ<br />
<br />
　　　　　×　　　　　×　　　　　×<br />
<br />
若き日のメグ・ライアンをラブコメの女王として地位を確立した作品。<br />
これを機に、メグ・ライアンのこの手のラブコメ作品が何本もつくられるようになったのですが、やっぱり相性的にはノ－ラ・エフロンの脚本のものがいい。 というか、ノ－ラ・エフロンの脚本がいい。 その後、メグ・ライアンとノ－ラ・エフロンの話をみてみると、 『恋人たちの予感』(1989) 『めぐり逢えたら』(1993) 『ユー・ガット・メール』(1998) 『電話で抱きしめて』(2000) など。<br />
基本的にスーパーヒットな作品ではないんですが、２度目にみるとついついみいってしまう作品といいましょう、肩の力を抜いてみると心地よい作品なんですね。<br />
ノ－ラ・エフロンの脚本って、穏やかな心地よさがあるのです。もしかしたら映画みたいなフィールドよりテレビシリーズの脚本をかかしたらめちゃめちゃ上手いんじゃないかと思ったりもする。『アリー my love』のデビット・Ｅ・ケリーがテレビサイズだとあんなに面 白いのに、映画だとダメなようなあんな感じ。<br />
ただ、そののち彼女が監督したニコール・キッドマンの『奥様は魔女』ははずしたけど。<br />
<br />
<br />
大学を卒業しらハリ－（ビリー・クリスタル）とサリー（メグ・ライアン）は友達の紹介で一緒に、ニューヨークまで一緒にドライブすることになる。その道すがらビリーはこの物語の大命題を提示する。 「男と女は友達になれない。 　男は、その女性が素敵だと思った瞬間“Ｈ”したいと思う。　だから男と女は友達にはなれない」 それに対して、メグ・ライアンは 「じゃ、その女性が素敵じゃなかったら友達になれるの？」「ううん、素敵じゃなくても寝たい」ときりかえすビリー。さりげなくおかしい（笑）。<br />
しかし、男女間の＜友達＞の概念はつねに語られる命題なのだろう。 でも、ここで常に解決されない大問題が１つ。男と女は話す言葉は一緒でも、違う意味で話してるってこと。 男が思う＜友達＞とはキャプテン・ハ－ロックが言うよう（ほんとにそう言ったシーンがあるかどうかは不明）に「決して裏切ってはいけないもの」。 でも女は思う＜友達＞とは「“Ｈ”至らない仲のいい男」。 もっと簡単な違いを言えば、男のいう友達は、「裏切ってはいけない人」、女のいう友達は、「裏切ってもいい人」。 そう、これは、実は友達と恋人の定義になのだ。<br />
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友達は裏切ってはいけないもの、 恋人は裏切ってもいいもの。恋愛相手っていうのは、実は全部相手を信頼するものではなくて、相手に好かれる為に、本来の自分自身を裏切ること。あるいは、そのはんたいに、自分の欲求をみたすために、相手に相手の本来ある姿を裏切らせること。これは秘かな裏切り合いなのだ。 友情にはそれがない。<br />
お互いが独立したスタンスで、利害関係は存在せず、物質的に、経済的に必要でもないのに、意識している。尊重してる。時には負けたくないたいライバルにもなる。 だから、女がいう友達＝「“Ｈ”至らない仲のいい男」は友達にはならないのである。 そこにはＳＥＸへの欲求があり、それを「おあずけ！」させてるのだから精神的優位 性は全然イコールではない。 これをもって「友達」といのなら、その人は「友達」のなんたるかを全然知らない人ということになる。 うむむ～～、かなり悲しいことだ。 我が友ニーチェは「女に友情を育む能力はない！」っていいきちゃってますけどね。<br />
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その昔私が監督をした『ヒカルの碁』のＯＰで、“君が居て、僕がある。僕がいて、君がいる、お互い助け合っていこうね”みたいな意図の歌詞があったけど、あれはもう後悔残りまくり。もっと事前に説明すべきだったと今でも後悔してる。あの二人はお互いを確かに必要としてる存在なんだけど、二人は精神的には独立してて、必要としてる部分をお互いの摂政のなかに持ち出しちゃいけないし、持ち出してないし…、なのにあの歌詞は「必要」って政治的概念を入れ込んじゃった。その言葉をつかったら友情じゃなくなるのに…。 そう、恋愛なら「必要」って概念が組み込まれるのはいいだけど…。<br />
では男女間で「友達」が成立するにはどういうときなのだろう？私が思うにそれは、『ヒーセッド、シーゼット』みたいな、ケビン・ベーコンとシャロン・ストーンとの関係みたいな、男がＳＥＸをもとめて、女が「うん、いいよ」ってあっけらかんと言えるとき、 ＳＥＸが男女間で精神的利害を生み出さない時、その時にしか生まれないんじゃないかと思う。たまにそういう状況も起るよね。 私の人生のなかでも、数少ないけど、そういう状況があった。でも、そういう時って男も実際に“Ｈ”をしたいっていう衝動までは沸かないんだけどね。<br />
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で、話を『恋人たちの予感』にもどすと、それから１０年がたち、そのなかで、出会っては別 れ、また出会い、 ふたりは友達になり、恋人になったって話。 とにかくノ－ラ・エフロンの脚本は穏やかで、軽やかでユーモアがあって素敵。 オシャレな英語のフレーズの勉強アイテムとしても最適。 メグ・ライアンをつかってない作品（『マイケル』なんかもけっこうたのしい）もいくつかあるので、あとでチェックして、ビデオ屋で手にとってみてください。<br />
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