西澤 晋 の 映画日記:フレッド・ジンネマン(1907)
2011-08-07T10:12:56+09:00
ssm2438
主観重視で映画の感想を書いてます。ネタバレまったく考慮してません。☆の数はあくまで私個人の好みでかなり偏ってます。エンタメ系はポイント低いです。☆☆=普通の出来だと思ってください。
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ジャッカルの日(1973) ☆☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/12696264/
2011-07-20T21:09:00+09:00
2011-08-07T10:09:02+09:00
2010-01-20T21:09:07+09:00
ssm2438
フレッド・ジンネマン(1907)
監督:フレッド・ジンネマン
原作:フレデリック・フォーサイス
脚本:ケネス・ロス
撮影:ジャン・トゥルニエ
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:
エドワード・フォックス (殺し屋ジャッカル)
ミシェル・ロンズデール (ルベル警視)
* * *
どんな圧迫感のなかでも信念を貫き通す男を描き続けるフレッド・ジンネマン。ドゴール大統領の暗殺を依頼された孤高の殺し屋ジャッカルと、フランス警察の全県を委任されたルベル警視の怒涛の頭脳戦。ルベルの包囲網がどんどん圧迫してくるなか、ひたひたと大統領暗殺のヒットポイントにちかづいていくジャッカル。ここでもジンネマンの圧倒的な圧迫感とそのなかで信念を貫く男の生き様が息苦しいまでにストイックに描かれている。
のちにアメリカのでブルース・ウィリス主演で『ジャッカル』という映画がつくられたが、こっちはただのにぎやかなアクション映画。間違っても同じものだとはおもわないように・・。
この物語の時代背景は以下の通り。
フランスは1954年に始まったアルジェリア戦争の泥沼状態に陥った。アルジェリア民族解放戦線(FLN)の爆弾テロや残虐行為はおさまることなく、フランス国内においても世論は分裂していく。1958年、シャルル・ド・ゴールが大統領に就任、ドゴールは戦費拡大による破綻寸前の財政などを鑑み9月にアルジェリアの民族自決の支持を発表、1961年の国民投票の過半数もそれを支持し、1962年に戦争は終結した。
しかしこれに反対していた現地軍人の一部は秘密軍事組織OASを結成、現地アルジェリアでテロ活動を続け、フランスでも政府転覆を狙って対ドゴール暗殺を企てていた。現役のエリート軍人らによるドゴール暗殺計画はことごとく失敗し、組織の優秀な軍人達は逮捕され銃殺刑に処され、OASの組織も壊滅的な打撃をうけ、その幹部たちは国外に退去していた。
<あらすじ>
1963年、チリー大佐によるドゴール暗殺の失敗、およびチリー大佐の逮捕と処刑の報を聞いたOAS幹部たちは、組織外のプロ暗殺者を雇うことを決める。彼のコードネームは“ジャッカル”。
契約金は50万ドル。その金を用意するためにOASはフランス各地で銀行強盗を決行した。しかしその突然のテロ行為はフランス当局を警戒させるもととなった。「OASがドゴール大統領暗殺のために新たな殺し屋“ジャッカル”を雇ったらしい」という情報を得たフランスの警察機構は、ルベル警視(ミシェル・ロンスダール)と補佐のキャロン(デレク・ジャコビ)に全権を与えるとともに、定期的に治安組織の官僚たちに捜査報告を行うことを求めた。
ルベル警視は、ジャッカルの正体を洗うべく世界中の警察に問い合わせを行い、怪しいイギリス人をつきとめる。その情報を元に、フランス全土の警察・憲兵らを指揮し不審者の入国を阻止しようとするが、ジャッカル(エドワード・フォックス)はすでにアルファ・ロメオの車内に銃を隠し、偽造パスポートで南仏から侵入したあとだった。
全国の国境やホテルから毎日届けられる入国者・宿泊者リストを洗い、南仏一帯で何度もジャッカルらしき者を追い詰めるが、ジャッカルは寸前で逃げ、何度も偽造パスポートを取り替えて変装を変えパリを目指す。ルベル警視はおそらく、ジャッカルがOASの極秘の連絡網を利用して、治安トップの報告会の内容やルベル警視たちの対策を全て知っているのではないかと疑い治安官僚総ての電話を盗聴する。そしてOASのスパイの女性とそれとは知らずに愛人関係を持ったひとりの官僚を突き止める。
捜査もむなしく、ジャッカルはパリに入り、意外な姿に変装して忍びながらその日を待った。パリでは全国の警察力とユニオン・コルスまで総動員し、裏町の隅から隅まで情け容赦ない大ローラー作戦を行うが、ジャッカルは見つからない。
8月25日のパリ解放記念式典。ジャッカルは傷痍軍人を装い、警官を安心させて非常線を通り抜け、大統領の式典が行われるモンパルナス駅前の1940年6月18日広場を見渡せるアパートにもぐりこみ、住民の老婆を傷つけ、狙撃の場を確保した。ジャッカルは松葉杖に偽装した狙撃銃を組み立て、大統領に狙いをださめた・・・。]]>
地上(ここ)より永遠に(1953) ☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/12675489/
2011-07-17T02:13:00+09:00
2011-08-07T10:12:56+09:00
2010-01-17T02:13:28+09:00
ssm2438
フレッド・ジンネマン(1907)
監督:フレッド・ジンネマン
原作:ジェームズ・ジョーンズ
脚本:ダニエル・タラダッシュ
撮影:バーネット・ガフィ
出演:
モンゴメリー・クリフト (プルーイット)
バート・ランカスター (ウォーデン曹長)
デボラ・カー (カレン)
フランク・シナトラ (マッジオ)
ドナ・リード (ロリーン)
* * *
フレッド・ジンネマンといえば村八分モノという印象があるが、この映画もそうである。エリア・カザンの『波止場』もジンネマンに撮らせればよかったのに・・。そしたらもっと村八分度があがっていたんじゃないだろうかって思う。
この映画、1953年のアカデミー作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞他・・、けっこう取っているのだが、映画的にはまあまあだったかな・・という印象。軍のプルーイットに対する村八分攻撃とそれに頑固にたえるプルーイットの描写はいいのだけど、できるならその溜めた憤懣を放出するエピソードをなんとか入れてほしかった。一応フランク・シナトラを殺したアーネスト・ボーグナインをナイフで殺すところはあるが、今ひとつ発散しきれない。・・でもそれがなくてもプルーイットの吹く、トランペットの音色には感動した。あれに総てをこめたのだろうな。いつもながら信念を曲げないキャラクターを描くジンネマンだが、この映画の主人公プルーイットは、融通の利かない愚か者感のほうが強い(苦笑)。
あと思うのが、日本人にとってアメリカとの太平洋戦争は必死の戦争だったのだけど、アメリカにとって日本との戦争は片手間だったのだろうな・・ってこういう映画をみていると思いしらされる。この映画の最後は真珠湾の奇襲攻撃なのだが、それすらも、劇中ではあまり深刻なことではなく、ただプルーイットを後ろから仲間の兵に撃たせるための環境作りでしかない・・。さすがアメリカ映画・・。
<あらすじ>
第二次大戦直前の1941年夏、ホノルルのスコーフィールド兵営にロバート・E・プルーイット(モンゴメリー・クリフト)とが転属してきた。新しい部隊の中隊長ダナ・ホルムズ大尉(フィリップ・オーバー)は、ボクシングに夢中で、プルーイットが以前、軍隊でのミドル級のチャンピオンであったことを知って、下士官に昇進を条件に彼にチーム入りをすすめた。だが、プルーイットはかつて試合中に戦友を失明させて以来、2度とボクシングはやらないと誓いをたてていた。実質上中隊の支配者であるウォーデン軍曹(バート・ランカスター)は、プルウに反抗はやめろと警告したが、強情なプルウは聞き入れなかった。そのためホルムズ大尉のプルーイットに対するイジメは次第に強くなり、彼は過剰なシゴキを受け始める。
そんなプルーイットの唯一の味方が一等兵のアンジェロ・マッジオ(フランク・シナトラ)だった。週末の外出に、マッジオはプルウを慰安所に連れていった。プルーイットはその店でロリーン(ドナ・リード)という女と知り合い、恋に落ちた。
真珠湾攻撃直前のある日、マッジオが無断外出して酒に酔い、MPに逮捕されて営倉入りとなった。普段プルーイットに味方しているマッジオはその腹いせに営倉係のジェームス(アーネスト・ボーグナイン)にひどい暴行を受け、なんとか逃走してプルーイットの許に逃げのびたが、極度の内出血のため絶命した。プルーイットは心に固く戦友の復仇を誓い、町かどでジェームスとナイフで決闘した。ジェームスを殺したプルーイットだが、自らも重傷を負ってロリーンの家に身を隠した。
12月7日の朝、日本軍は真珠湾を攻撃した。プルーイットは帰隊すると云い張り、ロリーンの必死の引き留めを振り切って外へ出た。よろめく足をふみしめて兵営に向かった途中で警備兵に発見され、射殺されてしまう・・。なんじゃそれは・・・!?]]>
わが命つきるとも(1966) ☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/12963873/
2011-04-27T19:45:00+09:00
2011-07-04T01:59:35+09:00
2010-02-27T19:45:56+09:00
ssm2438
フレッド・ジンネマン(1907)
監督:フレッド・ジンネマン
脚本:ロバート・ボルト
撮影:テッド・ムーア
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:
ポール・スコフィールド (トーマス・モア)
ロバート・ショウ (ヘンリー八世)
* * *
それでも自分の信念を貫く男
この映画は政治家・弁護士の守護聖人として歴史に名を残したトーマス・モアの伝記映画である。官僚で最高位の大法官の地位にあったトーマス・モアだが、ヘンリー8世が離婚問題がおき、これを承認できないと信念を貫き通し、王への反逆罪にとわれ死刑になった。
常に信念を貫く男を描くフレッド・ジンネマン、作品のどこをとってもフレッド・ジンネマンの金太郎飴のような映画である。1966年のアカデミー賞(作品賞、主演男優賞、監督賞、脚本賞、撮影賞、衣装デザイン賞)をとったこの作品、もちろん英国アカデミー賞もほぼ同様の賞をとっている。
『ジャッカルの日』や『ジュリア』など、フレッド・ジンネマンは好きな監督さんなので、見せ方としては十分楽しめたのだが・・・、お話として面白いかと言われると・・・・どうなんだろう? 多分普通の人にはかなりしんどいと思う。正直な話、ジンネマン好きの私でも前半の1時間はつらかった。というか、最後の裁判になるまでつらかった。
ただ・・・、ほんとにこれが正しい生き方なのかどうかは、私的にはかなり疑問を感じる。私が思うに、人は、常に決断をしなければ行けない生き物だが、それは現実と理想の間でつねに揺れ動くものだ。そしてそれはその人の経験値による価値観で決定させる。そういう決断を迫られた時に「聖書にそう書いてあったから、こうだ」とか「そう決まっているからこうだ」っていうのは正しい答えなのだろうか? たしかに物理学的にそう決まっているもは受け入れるべき真実だが、宗教のように人間が作り上げた概念はその範疇に入らないと思う。
私が思うにこれは自分の価値観を放棄していることになるとおもうんだ。自分が真実を学ぶ時間が長かろうが、それは本人の価値観であるので、それを代表して語るのは自分の責任であり、それ以外のところから答えを持ってくるのは同なのだろうと思う。もちろん、自分が学んだ中に聖書があったとして、自分の人生とてらしあわせながら総合的に判断するのはいいと思うのだけど、自分の人生を放り出して、聖書に書いてあるから「これでいいんだ」って言うのは多分違うと思う。
この映画をみて思っていたのは、この下のフレビューに書いた田沼意次と松平定信の政治理念の問題。私は松平定信の方向性が正しいとは思えないのだ。この映画をみててどうもここで描かれているトーマス・モアが松平定信に見えてしまって・・、あまり共感がもてなかった・・。人はモラルと現実との間で揺れ動くものであり、だからこそ人の世界に流動性があるのであり、どちらかにこち固まることが正しいとは思えなかったのだ。そんなわけで、映画の技術論から言えばまったく素晴らしい映画だと思うのだけど、どうも今ひとつ、どっか覚めた目でみてしまった映画だった。
もうひとつ、撮影は良かった。実にイングランドのいい感じの風景を画にしていた。撮影監督は私の大好きな『オルカ』のテッド・ムーア。ほかにも『007/ロシアより愛をこめて』なんかもとってる。でお、個人的にはこの撮影監督さんの一番いのは『オルカ』だと思ってる。
<あらすじ>
1528年、英国。当時の王はヘンリー8世(ロバート・ショウ)は女王カテリーヌと離婚し、アン・ボーリンと結婚しようとしていた。英国はローマ・カソリックの国であったから、離婚にはローマ法王の許しを得なければならなかった。王の2度目の結婚を法王に弁護出来る者はサー・トマス・モア(ポール・スコフィールド)だけだった。
モアはハンプトン宮殿へ召喚され、枢機卿からヘンリー8世と女王の離婚を法王が承認するよう取りはからってくれと頼んだ。しかしモアはそれを拒否した。その1年後、トマス・モアは大法官となった。モアは王に忠誠を誓ったがローマ・カソリックの信者であるため、王の離婚には賛成しなかった。国王はローマ法王に対する忠誠を放棄し、自ら英国教会の主となる、と発表された。モアは大法官の地位を辞職した。やがて王はカテリーヌと離婚し、アン・ボーリンと結婚した。モアは逮捕され、ロンドン塔に閉じこめられた。反逆の罪で彼はウエストミン・ホールの裁判に引き出され死刑の宣告を受けた。]]>
真昼の決闘(1952) ☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/13192361/
2011-02-24T15:52:00+09:00
2011-04-01T11:20:37+09:00
2010-03-24T15:52:46+09:00
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フレッド・ジンネマン(1907)
監督:フレッド・ジンネマン
脚本:カール・フォアマン
撮影:フロイド・クロスビー
音楽:ディミトリ・ティオムキン
出演:
ゲイリー・クーパー (ウィル・ケイン保安官)
グレイス・ケリー (ウィルの妻・エイミー)
* * *
ヒロイックな西部劇と思ったら大間違い!
それまでカッコいいヒーロー像が多かったゲイリー・クーパーを主演にしたこの映画だが、この主人公は決してヒロイックではない。ごくごく普通の人間であり、怖いものは怖い。等身大の人間としての怖さを認識しつつ、やっぱり監督はフレッド・ジンネマンなので意地張っちゃうわけだ。
ドラマは、最近の『24』のようにほぼリアルタイムで進行する。かつてゲイリー・クーパーに逮捕された荒くれ者が、刑務所をでて町に帰ってくるという知らせが舞い込んでくる。彼らは復讐にやってくるのだが、その町に来るまでの間に、町にのこって戦うか、逃亡するか、プライドを撮るか実利をとるか、選択しなければならない。これがクリント・イーストウッドのマカロニ・ウェスタン・ヒーローなら恐れることなどないのだが、この主人公は等身大の主人公なのだ。復讐に来るとなれば恐ろしい。町のモノは、逃げたほうがいいといってくれる人もいる。しかし、反対に保安官を差し出して、荒くれ者のご機嫌をとったほうがいいと考える人もいる。クーパーは逃げ出すことをやめ、一緒に戦ってくれる人を探してあるのだが、なかなか一緒に戦ってくっる人はいない・・。そんな八方塞のなか、びくびく主人公クープが意地を張り通す映画なのだ。
ただ・・・、配役とドラマとがあっていたのかといえばちょっと疑問がのこる。ヒロインはその後モナコ王子と結婚したグレイス・ケリー。ヒッチコックが好きそうなクールビューティだ。ゲイリー・クーパーも暑苦しくないハンサムガイなのだ、このようなリアルでおどおどしつつも意地をはってしまう主人公というのは、今ひとつ喰い合わせが悪いような気がした。このような美男美女カップルをだすとなるとどうしてもハーレクイン・ロマンス的なドラマを期待してしまう(苦笑)。
<あらすじ>
西部の町ハドリーヴィルでは、この町の保安官ウィル・ケイン(ゲイリー・クーパー)がエイミー(グレイス・ケリー)との結婚式を挙げていた。彼は結婚と同時に保安官の職を辞し、他の町へ向かうことになっていた。そこに電報が届いた。ウィルが5年前に逮捕したフランク・ミラーが保釈され、正午到着の汽車でこの町に着くという知らせだった。停車場にはミラーの弟ベンと彼の仲間の2人が到着を待っていた。時計は10時40分をさしていた。
エイミーは予定通り町を去ろうと言い、ウィルもエイミーと共に逃げようとするが、思い直して引き返す。エイミーはひとり正午の汽車で発つ決心した。ウィルは無法者たちと戦うため、助っ人を探しはじめる。判事は早々に町から逃げ出した。保安官補佐のハーヴェイはウィルの後任に自分が選ばれなかった恨みもろもろの因縁もあって協力を断る。酒場の飲んだくれ達はウィルよりもフランク一味を応援している始末。教会では意見が分かれて議論になるが、結局ウィルが町を去るのが一番良いという結論が出る。保安官仲間たちは居留守や怪我を理由に辞退する。結局一人も集まらない。彼は1人で立ち向かう決心をして遺言状を書きつづった。
時計が12時を指すと共に汽笛がきこえミラーを乗せた汽車が到着した。入れ替わりにエイミー乗るが、銃声を聞くといたたまれず汽車から降り、町へ走る。ウィルは2人を倒しており、エイミーの助けもあってあとの2人も射殺した。戦い終わって町の人々がおそるおそる集まってくると、胸のバッジをすててウィルはエイミーと立ち去るのだった。]]>
氷壁の女(1982) ☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/14837898/
2010-10-22T15:56:00+09:00
2010-10-23T11:22:10+09:00
2010-10-22T15:56:20+09:00
ssm2438
フレッド・ジンネマン(1907)
監督:フレッド・ジンネマン
脚本:マイケル・オースティン
撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽:エルマー・バーンスタイン
出演:
ショーン・コネリー (ダグラス)
ベッツィ・ブラントリー (ケイト)
ランベール・ウィルソン (ガイドのヨハン)
* * *
こらジンネマン、おまえが執着心を否定する映画を撮ってどうする!
ジンネマンにはいつまでもジンネマンでいてほしかった・・・。電池のきれたジンネマンのような映画だった。
アルプスにやってきた初老のイギリス人男性と、彼とはちょっと不釣合いな若い女性、そこにスイス人ガイドがからみ、水面下のメンタル劇が進行するとともに、その夏の5日間が描かれる。何度か山に登りながら二人の関係が回想としてかたられる。
『ジュリア』や『ジャッカルの日』、『わが命つきるとも』など、怒涛の圧迫感んもなかで己を通す主人公描く名匠フレッド・ジンネマン。大好きな監督さんの一人ではあるが・・、これはちょっとどうだったかな。悪くはないけど・・・ジンネマン作品のなかではちょっと物足りなさを感じてしまった。やっぱりこれはいつものジンネマン・怒涛のボディプレス圧迫感がないせいか・・(苦笑)。
雪山ものといえば・・・どうしてもクレバスが怖い(苦笑)。その雪の橋が渡れるのかどうか、いつもそんなシーンでどきどきしてしまう。そしてあるのかなのか微妙ななかでの三角関係。ほのかな殺意が芽生えそうでもあるシチュエーション。いつものような怒涛の圧迫感はないのだけど、さりげない真理サスペンスにはなっている。でも、結果的には・・・残念な展開だったかな。ジンネマンの作品のわりに「執着心」が弱いのである。
これまでのジンネマンの作品というのは譲れない想い、絶対的な執着心があったのだけど、この映画では、その執着心を自ら否定しようとする人たちの映画になっている。おかげでいつものジンネマン・モードにはいたらずなにか肩透かしをくったような印象で終わってしまった。
この映画が成立するためには、個々の圧倒的な(いつものジンネマンの)執着心が根底にないといけないのだと思う。それを、それぞれの立場の人が理性で考えて「いや、この執着心はおさえなければならない」と個々のなかで葛藤すればもっと話は深刻で深みがあるものになっていただろう。
ショーン・コネリーにしても、自分はもう老い先短いおとなだし、いつまでもこの娘を自分につなぎとめておくわけには行かない・・ってのは充分にわかるし、だから執着心を表現しづらい立場にいる。女性のベッツィ・ブラントリーも、この人はずっと憧れての人だけど、現実的には私のもとめるべき人ではないのだろうと思いつつ、今の時間を愉しんでいる。このふたりのあり方が実に普通で、映画になりづらいというか・・、もっと「そんな理性的なことはわかっているのだけど、でも今は二人でいたいのよ」のパッションが出てたらドラマ自体がなっとくできるものになっていたのに・・。
もうちょっと踏み込んで作れなかったものか・・・。
<あらすじ>
1932年。スイスアルプスの小さな駅におりたつ初老の男と若い女。ダグラス・メレディス(ショーン・コネリー)とケイト(ベッツィ・ブラントリー)である。ダグラスはケイトの叔父にあたる。ケイトは子供の頃からずっとダグラスを想っていたのだ。ダグラスは結婚していたが、やがて二人は関係をもつようになったのだ。
食堂にガイドのヨハン(ランベール・ウィルンン)がやって来て、メレディスと明日の登山の打ち合わせをする。
2日目はならしの登山。途中雨がふりはじめ、岩壁の下で雨宿りをつつ、初エッチのときの回想。
3日目は、いよいよ雪山にトライ。クレバスをジャンプして越そうとするがダグラスは跳躍に失敗してスリップ。ヨハンにひっぱりあげられる。そのときピッケルを落としてしまい、。ヨハンがピッケルを探しにおりていくと、そこで氷に埋まっていた人間を発見。死体は40年ほど前に、婚礼の前日に行方不明になった男だった。
夕方、ケイトはヨハンに「私はダグラスの妻ではない」と告げる。
4日目の朝、ヨハンが部屋まで迎えにきてベットのなかのダグラスとケイトを見る。ケイトのことを想い始めていたヨハンは心中穏やかではない。その夜は山小屋ですごすことになる。女性用のベッドにしのんで来るダグラス。ヨハンはそっと小屋を出る。やがてケイトも外へでてきた。
5日めの早朝。ヨハンとダグラスは山に登り、ケイトは山小屋に残る。山頂で、ヨハンはダグラスに「貴方はケイトさんを幸せにできない」と言い揉み合いになる。ダグラスにしてみれば大きなおせわなのだ。ぶぜんとしたまま2人は厳しい処女峰を降りてゆくが、落石に遭う。戻ってきたのはダグラスだけだった。葬儀が行なわれ、査問会で足留めされるダグラスが「待っててくれるかい?」と問うと、ケイトは首を振り去ってゆく。]]>
ジュリア(1977) ☆☆☆☆☆
http://ssm2438.exblog.jp/12674968/
2010-01-17T00:09:00+09:00
2010-01-20T22:07:12+09:00
2010-01-17T00:09:02+09:00
ssm2438
フレッド・ジンネマン(1907)
監督:フレッド・ジンネマン
原作:リリアン・ヘルマン
脚本:アルヴィン・サージェント
撮影:ダグラス・スローカム
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:
ジェーン・フォンダ (リリアン・ヘルマン)
ヴァネッサ・レッドグレーヴ (ジュリア)
ジェイソン・ロバーズ (ダシール・ハメット)
* * *
私の好きな面子がそろっております。監督フレッド・ジンネマン、音楽ジョルジュ・ドルリュー、脚本アルヴィン・サージェント。これだけそろえばハズレが出来るわけはない!
フレッド・ジンネマンといえば、常に信念を貫く人物を描きつづけてきた。環境からの圧迫や妥協のささやきにはめもくれず、ひたすら自らの信念を貫き通す、そんな主人公ばかり描いている。この映画においてもジェーン・フォンダ演じるリリアン・ヘルマンは、ジュリアに対する裏切れない信頼のために、圧倒的な恐怖のなかにとびこんでいく。とくに後半からの後半からのドイツへの列車の旅の圧迫感はすさまじい。あまりに重苦しい雰囲気なのでおもわずテープ(当時VHS)を止めようと思ったことがどれだけあったことか・・。あの圧迫感こそフレッド・ジンネマンの真骨頂であり、それを信念で突き抜けてしまう登場人物の頑固さがすさまじいものだ。
フレッド・ジンネマンは、1953年の『地上より永遠に』と1966年の『わが命つきるとも』でアカデミー監督賞を受賞している。
本作の主人公、リリアン・ヘルマン(1905年6月20日 - 1984年6月30日)は、アメリカ合衆国の戯曲作家であり、人生の大半の期間、左翼思想との関係を維持してきた。また私生活では、ミステリー作家・ハードボイルド作家であったダシール・ハメットと30年ものあいだ恋人関係を保っていた。ダシール・ハメットは米国共産党員であり、赤狩り時代、そのことを掴んでいた非米活動調査委員会はヘルマンを召喚して共産党加入者の友人の名前を尋ねられるが、これを拒否、長期にわたってハリウッドの映画産業界のブラックリストに掲載されることとなっていた。
<あらすじ>
ジュリアは、金持ちの上流家庭に生まれた美しい娘であったが、特に金持ちの祖父母を嫌っていた。早くから文学や詩に親しんでいたジュリアは、ひっこみがちなリリアンをリードし、年頃になった2人の友情と愛情は深まっていった。オックスフォード大学に入ったジュリア(バネッサ・レッドグレープ)は、その後ウィーンへ行き、フロイトから教えを受けることになったが、ここで反ナチの地下運動に関係することになる。
パリに旅行したリリアン(ジェーン・フォンダ)は、ウィーンで起こった暴動で200名の人が殺されたという新聞記事を読みウィーンに行く。ジュリアは入院していて全身包帯で巻かれており、ベッドに横たわったまま言葉を交わすことも無かった。翌日ふたたびジュリアのもとを訪れるリリアンだったが、ジュリアは既にいなくなっていた。
35年、アメリカに帰ったリリアンは、舞台劇を書きそれが大ヒットする。
37年、モスクワの演劇フェスティバルに招かれたリリアンは、途中のパリでヨハン(マクシミリアン・シェル)という若い男に、ベルリンにいるジュリアに5万ドルの金を届けることを頼まれる。
ここからの見えない恐怖の圧迫感は並大抵ではない。目には見えないが水面下に存在するナチの恐怖がおそりしいまでに演出されている。かつてこれほどまでの環境の圧迫感を感じさせた映画があっただろうか・・。
リリアンは、空路モスクワへ行く予定を変更、ドイツのベルリン経由の列車でいくことにする。フランスからドイツへ行く列車の旅はひどく不安なものだった。見る人総てがナチの手先にみえる。同じコンパートメントに乗り合わせた2人の女はジュリアの仲間らしいが、それ自体を口にすることはない。恐怖が想像のなかで恐ろしいまでに増幅されていく。なんとか無事にベルリンに着き、そこで再会したジュリアは義足をつけ松葉杖に頼る身となっていた。ウィーンでのあの病人は確かにジュリアだったのだ。毛皮の帽子にかくされた5万ドルの金を渡すリリアン。ふたりで一緒にいられる時間はほとんどないが、ジュリアには女児があり、フランスのアルザスのパン屋に預けてあるという。いずれニューヨークへ帰るが、その時子供も連れていき、以後リリアンに育ててもらいたいと言った。
しかしジュリアはナチに殺される。リリアンは、子供をひきとりにアルザスにいき、パン屋をかたっぱしからたずねあるく。結局子供はみつからず(映画の中では、もしかしたらここにいるので・・は臭わせてある)、一人でダシール・ハメット(ジェイソン・ロバーズ)の待つアメリカにのもとに帰るのだった。]]>
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