西澤 晋 の 映画日記

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2010年 10月 22日

悪魔の赤ちゃん(1974) ☆☆☆

悪魔の赤ちゃん(1974) ☆☆☆_f0009381_1071676.jpg監督:ラリー・コーエン
脚本:ラリー・コーエン
撮影:フェントン・ハミルトン
音楽:バーナード・ハーマン

出演:
ジョン・P・ライアン (フランク・デイヴィス)
シャロン・ファレル (レノール・デイヴィス)
ジェームズ・ディクソン (パーキンス警部補)

       *        *        *

ホラー映画も禁断の聖域をおかしてしまったか・・・。

いろいろモンスターになりました。昆虫や動物、人間も・・でも、赤ちゃんだけはならないはずなのだけど、それをやってしまうのが異能脚本家、ラリー・コーエン
平凡な夫婦の間にうまれた赤ちゃんが、なんとモンスターだった!! なぜ? なぜでしょう? とにかく殺戮を繰り返しながら帰巣本能で親元をめざす赤ちゃん。そしていよいよ親と再会。こんなモンスターになっても俺の子供なのか・・とどう感情をせいりしていいのかわからない父親。この感情のせめぎ合いが、この映画をB級の名作にのしあげてる(でも、所詮B級だけど・・はは)。

今回は監督もやってます。ラリー・コーエンはB級映画の脚本をかいているころが多いのだけど、私にいわせればB級映画の正しい作り方をする人。はやりものに手を出してちゃらって作るのではなく、予算のない中(B級の宿命)、ありえないシチュエーションを見ている人に納得させるように作っていく。そのなかで、どこかしら感情に訴えるものを注入している。キワモノの一生懸命きちんと作ろうという精神に満ち溢れている人。好きなクリエイターの人ですね。
この『悪魔の赤ちゃん』はこのあと続編が2作つくられることになるのだが、ラリー・コーエンの代表作のひとつでしょう。でも個人的には『殺しのベストセラー』がお勧め。

ラリー・コーエンの映画って愛があるんだよな。『殺しのベストセラー』もそうだったけど、ありえないところに愛を描く、この『悪魔の赤ちゃん』においても、なぜそんな赤ちゃんとして生まれてきたのかは不明だが、殺人モンスターの赤ちゃんだが、自分の子でもある。まず、最初は母親がそのモンスター赤ちゃんを愛で受け入れ、
息子(赤ちゃんにとっては兄貴)も、赤ちゃんは襲おうとはしない。しかし撃ってしまう父親。逃げ延びた赤ちゃんをおってやっと見つける父親だが、もう撃てない。ここでは自分の息子だという概念が勝ってしまい助けようとする。
社会のなかではどんなに忌むべき存在でも、自分個人としてみれば自分の息子である。世間体常識から個人的感情へ思考の根幹が移行する描写がいいんだ。こんな話を考え付くラリー・コーエンはやはりキチガイである。

<あらすじ>
ロサンゼルスに住む、中流階級の平凡な夫婦フランク(ジョン・ライアン)とレノール(シャロン・ファレル)には11歳の息子クリスがいた。そして2人目の子供が生まれようとしてた。レノールは分娩室に運び込まれフランクは待合室で待っていた。そして子供が生まれた。その赤ちゃんは恐ろしい形相の生物であり、お産に立ち合った医師、インターン、看護婦らを惨殺し、分娩室から姿を消した。警察は当初、この事件が生まれたばかりの赤ちゃんの仕業とは信じることができなかった。しかしその日から、身体を引き裂かれるという惨殺事件が次々と起こると、非常警戒包囲網をしいた。
一方、レノールは産後自宅にもどり、息子のクリスはフランクの友人チャーリーの家にあずけられていた。妻の身を案じたフランクは、会社に長期休暇届けを提出すると家もどると、その日のレノールはショックが癒えたのかなんとなく幸せそうだった。不審に思ってレノールを問いつめると、赤ちゃんが帰ってきたことを告白する。
その頃、クリスは両親に会いたい一心でチャーリーの眼を盗んで家に戻ってきていた。そして地下室で恐ろしい形相の弟と対面する。不思議と赤ちゃんは襲いかかる気配はなかった。しかしそのときフランクが銃をもって降りてくる。クリスが危ないと思い発砲、弾丸は赤ちゃんの肩をかすめたらしく、凄まじい叫び声をあげると折り悪しくクリスを追って地下室に入ってきたチャーリーの喉笛を噛み切って闇の中に消える。
血痕は下水道に続いており、フランクと数十名の警官が赤ちゃんを追った。フランクはついに激痛に耐えかねて泣いている赤ちゃんを見つけ銃口を向けたが、どうしても引き金を引くことができなかった。この世のものとも思えぬわが子の哀れな姿に、とめどもない涙を禁じえなかったのである。フランクは赤ちゃんを抱いて家に連れ帰ろうとするが、出口には完全武装の警官が待ちうけていた。赤ちゃんは無惨に撃ち殺される。

# by ssm2438 | 2010-10-22 10:07
2010年 10月 21日

ピクニック at ハンギングロック(1975) ☆

ピクニック at ハンギングロック(1975) ☆_f0009381_14525839.jpg監督:ピーター・ウィアー
脚本:クリフ・グリーン
撮影:ラッセル・ボイド
音楽:ブルース・スミートン

出演:ミランダ (アン・ランバート)
       *        *        *

ミステリアスな雰囲気だけはあるが・・それだけだというよく判らない映画(苦笑)。

やっぱりオーストラリア人の監督ってどこは変だ(苦笑)。ある種の惹きはあるのだけど、でも、だからいい作品かといわれるとどうなんって答える。とにかく見せられるだけの映画なのでひたすら退屈なのである。世間ではけっこう評判は良いのだが、彼等がほんとにこれが云いと思ってるかどうかかあり疑問である。タルコスフキーの映画が好きだとかいいつつ、映画館にいったら寝てる人を良く観るのと同じ。感情は退屈だ!っと信号をおくっているのだけど、理性のどこかでは「肯定しないといけない」という強迫観念を与える映画のひとつ。

画面は・・・もうちょっとディフュージョン・フィルターかけるとデビット・ハミルトンになりそうなところを、頑張って素で撮りつつ、画面の美しさを表現してる。そこにフルート(?)のミュージックがかぶせられなんだか観ていて気持ちがいい。でも画面のなかにはトカゲやら昆虫やらもでてくる怪しさも同時にある。ニコラス・ローグ『ウォーカバウト/素晴らしき冒険旅行』に近い雰囲気があるかもしれない。

<あらすじ>
ピクニック at ハンギングロック(1975) ☆_f0009381_21132761.jpg1900年2月14日、オーストラリアの寄宿制学校アップルヤード・カレッジの生徒たちが岩山ハンギングブロックにピクニックに出かけた。アップルヤード校長は孤児セイラの参加を許さなかった。食事のあと、ミランダ(アン・ランバート)、アーマ、マリオンは岩山を散歩することにした。三人の後からでぶの不平屋イーディスもついて行く。イーディスがとめるのも聴かず、何かに惹かれるように三人はのぼって行った。
イーディスが全身すり傷だらけで下山してきたが三人は帰ってこなかった。数学教師マクロウの姿も見えなくなっていた。・・・なぜ??

お姉ーちゃんが綺麗なのはここまで。そのあとは男の子二人が彼女等を探しに行き、疾走した3人女子学生のひとりアーマを見つける。彼女は記憶をうしなっていた。ミランダをしたっていたセイラ(残された女の子)は深く沈んでいた。級友は真相を話せと責めたてられるアーマはヨーロッパに行くことになる。授業料滞納で孤児院に戻すと宣告されていたセイラが屋上から落ちて不審な死をとげた。その後、しばらくして校長も不思議な死をとげた。

結局みたいと思う欲望になにも答えをだしてくれないのがこの映画。
ミランダを演じたアン・ランバートがあまりに美しく、彼女をみたい、話なんかどうでもいいから彼女を見たい!と思うのに、それがかなえられない歯がゆさ。で、結局彼女をもう一度みたと思いながら「いつ観られるんだ、いつになったら出てくるんだ?」って思ってたら結局出てこなかった。

# by ssm2438 | 2010-10-21 21:06 | ピーター・ウィアー(1944)
2010年 10月 21日

続・個人教授(1976) ☆☆☆

続・個人教授(1976) ☆☆☆_f0009381_11412036.jpg監督:ジャン=バティスト・ロッシ
脚本:ジャン=バティスト・ロッシ
撮影:エドモン・リシャール
音楽:エリック・ドゥマルサン

出演:
フランス・ドゥーニャック (クロチルド)
オリヴィエ・ジャラジャラス (ドニ)

       *        *        *

どこからの「続」なんだ???

最近は続編がつくられると『・・・・2』とか『・・・・3』というほうが普通だが、以前は『続・・・・』とか『新・・・・』とかのタイトルがつけられていた。確かにきちんとその続編として描かれたはなしもあったのだけど、全然関係ないのに「続」とつけられるこもよくあった。この作品もまさにそう。ナタリー・ドロンの出ていた『個人教授』とはまったく違う話。
そもそも、あれは現代のパリを舞台にしてつくられた話だが、この『続・個人教授』は第二次世界大戦中の話。どこをどうしてもつながりなどない(苦笑)。こういう場合は『新・・・・・』ってつけるのだけど、実はすでに『新・個人教授』というのがあった。同じくナタリー・ドロンで撮られた映画だが、『個人教授』とは主人公の名前もなにもかも違う全然違う話なので『新・個人教授』とつけられたのだろう。文言の使い方としては正しい。そんなわけで、そのタイトルがすでにつかわれてしまっていたので、まったくなんのつながりも関係もないのだが、こんなタイトルがつけられてしまったのだろう。タイトル的にはかなり不幸である。

物語的には『個人教授』よりもこちらのほうが好きなのだが、どうもに主役の男の子がちょっとダメだなあ・・。
もうちょっと他の誰かいなかったのだろうか・・。 クロチルドを演じたフランス・ドゥニャックもそれほど好みというわけではないのだが、尼さん姿から普通のワンピースの服になるとすっごく開放感を感じさせる。さらに、尼さんルックがあたりまえの時に見せる彼女の下着姿・・とか、尼さんルックのコスチュームのもつ味を最大限に有効利用している。

そして、疎開後の開放感。戦時中で他のひとたちは命をかけて戦っているのに、自分たちはこんな片田舎でラブラブしているという罪悪感がありながらも、やめられない蜜の味。これ、傍からみると許せない二人だっただろう。「うちのとーちゃんは戦争にいってるのに、おまえらはー!!」みたな絶対許せない感情がわきあがってくるに違いない。それでもやめられない甘美な二人だけの時間。その背徳感にそむいてまでも一緒にいたい盲目的な溺愛。この世間と「自分たち」のコントラストは実にいい。
これで、戦争という背景がなかったら二人の付き合いもそれほど罪悪感はなく、インパクトがよわいものになっていたに違いない。

この手の作品のなかではモラル的に一番けしからんが、一番好きな映画である。
一番「けしからん」と思えるのは、きっと一番「うらやましい」ってことなのだろう。これくらい「うらやましい」を描いてくれた作品もそうざらにはない。貴重である。

<あらすじ>
第二次世界大戦、ドイツ占領下のフランス。14歳のドニ(オリヴィエ・ジャヤジャ)が病院へ慰問に行った時、美しい修道女クロチルド(フランス・ドゥニャック)に出会う。彼女は女子寮の先生もしていた。
自分の家とはまったく方向の違う彼女を送ったり、彼女のボタンを手に入れては大切にしまっておく。そんないじらしい想いを感じながらも、彼女は十歳も年上であり、神に生涯を捧げている身。その想いには応えられないのは分かっているが、ドニはにラテン語を教えるようになる。
※一応これで『個人教授』というタイトルには合致するようになる(苦笑)。

そんなラテン語の勉強をきっかけにして二人はより深く求めるようになる。日曜の昼下り、ドニが彼女の部屋を訪れた時、彼女の下着姿をみてしまう。腕を伸ばし、抱きしめ、やがて二人は結ばれた。

町に爆弾の落ちた日、息子の身を案じた両親はドニをひとり疎開させることを決意、クロチルドは、彼女の母の家で面倒をみると偽り田舎に疎開する。戦争が始まってから誰もいなくなった家は、二人にとって愛の巣となった。夏の明るい陽ざしの中で愛をむさぼる二人。修道服をドレスに換えたクロチルドは美しかった。そんな二人の仲が村人達の好奇の目にさらされるようになった頃、フランス解放の日が訪れた。
村の噂でやって来た院長の逆鱗にふれるクロチルド。しかし彼女の想いは消せない。神に捧げた誓いの指輪を返すクロチルド。しかし、ドニをクロチルドから引き離そうとする両親は、ドニを遠い寄宿学校に入る事にする。出発の日、友人の知らせで駅に駆けつけたクロチルドは、「私のことをわすれないで」となんどもドニを抱きしめる。


最後の別れのシーンはけっこう好きである。
ホームの内と外を隔てるサクを間にはさみ、お互いの顔をみえて抱きしめあう二人。カメラはドニの背中からクロチルドのアップを撮るいちからうごかない。ドニの後方からドニを連れ去る男たちが近づいてくるのが見えるのはクロチルドだけ。それでもカメラは男たちなど映さない。あと数秒のこの時間が終わると分かったクロチルドは「お願いキスして」とふたたびキスをせがむ。「来た?」と聞くドニもふりかえらない。そのままキスする二人。その状態が2~3秒すると男たちがフレームにはってきてドニをクロチルドから引き離す。
この最後の瞬間までキスしていたい・・というこのけっこうお気に入り演出であった。

# by ssm2438 | 2010-10-21 11:58
2010年 10月 20日

個人教授(1968) ☆☆

個人教授(1968) ☆☆_f0009381_10103956.jpg監督:ミシェル・ボワロン
脚本:クロード・ブリュレ/アネット・ワドマン
    ミシェル・ボワロン
撮影:ジャン=マルク・リペール
音楽:フランシス・レイ

出演:
ルノー・ヴェルレー (オリヴィエ・フェルモン)
ナタリー・ドロン (フレデリク・ダンピエール)

       *        *        *

おお、ランボルギーニ・ミウラ!

70年代によくある、男の子の歳上の人との恋愛ものの走りで、おそらくは最初の口火をきった作品かと思われる。これを皮切りに、イギリスでは『早春』、ドイツでは『初恋』、イタリアでは『青い体験』などはどどどどどっと登場した。

特に『早春』や『初恋』で主演をつとめたジョン・モルダー=ブラウンはヨーロッパのみずみずしい子供から大人に変わっていく(それも初期段階)の男の子を演じ、ヨーロッパでは人気を博していた。美少年といえば『ベニスに死す』ビヨルン・アンデスセンが有名だが、個人教授(1968) ☆☆_f0009381_10125367.jpgこのジョン・モルダー君(→)のほうが、くちびるのぽっちゃり感がたぶん親しみやすかったのだろう。
残念ながらこの映画の主役のルノー・ヴェルレー君はさほど人気はでなかった(苦笑)。

その彼は恋するの相手がナタリー・ドロン。風貌的にちょっと冷たさを感じるクールビューティ。ご存知アラン・ドロンの元奥さんである。結婚する前の芸名はナタリー・バルテルミーで、フランス人とイタリア人の混血。女優を続けたいと願う思っていた彼女は夫と対立、やがて離婚となった。

ついついタイトルから下世話なエロを想像してしまいがちだが、この映画はかなり健全なつくりだと思う。ただ、まじめなつくりゆえに後半のまどろっこしさがちょっといらいら、スキー場での展開はもうちょっとサクって行ってほしかったな。家族の登場もあんまり必要ないし、ベットインしたにもかかわらず彼から電話が入りおあずけ、それでも翌日もうやってしまうってのは・・・なんか流れが気持ちよくない。あそこはベッドインじゃない状況で、二人で楽しくやっていてキスしかけたくらいのところで、邪魔が入るくらいの展開にして、最初のベッドインは気持ちのいい流れで見たかった。

ただ、ビジュアルはおいしいところをおさえているのである。
ランボルギーニ・ミウラにのるナタリー・ドロン。原付の二人乗りで走るパリのまち。そして雪山のコテッジ。そこに展開されるドラマを演出するフランシス・レイの音楽。うむむむむ~~、やはりわれわれの時代の人にはこのフランシス・レイの音楽は実に映画の雰囲気をかもし出してくれる。穏やかにやさしく心にしみこむのである。

<あらすじ>
学生のオリビエ(ルノー・ヴェルレー)は、一方通行の出口でオレンジ色のミウラをエンストさせているフレデリク(ナタリー・ドロン)をみつける。いとこから車の扱いを習っていた彼は「ボクが替わりましょう」と車に乗り込みエンジンを始動させ、バックで一通のでぐちまで移動させると、そのまま彼女を送っていくことになる。彼女の夫が有名なイタリア人レーサーのフォンタナで、空港まで送っていった帰りだという。しかしその言葉は嘘だった。実は愛人でしかなかった。
彼が出場するインディ・レースの実況を見たいというフレデリクのためオリビエはテレビを工面する。さらに英語の翻訳をたのんだりして彼女との接点も重ねていく。一途な彼の想いを感じながらもフォンタナへの想いは消えない。しかし、いつまでも彼と一緒にいて未来があるのかどうかも分からない。
スキー場で二人はベットを共にした。パリに帰ってからも二人の関係は続いた。しかしフォンタナが帰って来た。アパートで二人の姿をみたオリビエは、自分たちの愛が終ったのを知った。

結局、フォンタナは、求めるがゆえに不安定にもなる存在だが、オリビエは求めないから不安にならないですむ存在。まあ、それを自覚してしまったオリビエはそこで降りたのでした。彼女は不安にまけて彼の元を去り、しばしねじれの進行があるのだが、オリビエ君のはからいで、元の鞘に戻るでしょう・・・。オリビエ君はひとり寂しさっていくのでした。

# by ssm2438 | 2010-10-20 10:14
2010年 10月 20日

コラテラル・ダメージ(2001) ☆☆

コラテラル・ダメージ(2001) ☆☆_f0009381_6593757.jpg監督:アンドリュー・デイヴィス
脚本:デヴィッド・グリフィス/ピーター・グリフィス
撮影:アダム・グリーンバーグ
音楽:グレーム・レヴェル

出演:
アーノルド・シュワルツェネッガー (ゴーディー)
フランチェスカ・ネリ (セリーナ)

       *        *        *

爆弾テロで、妻子を失った消防士が、その首謀者であるテトリストに復讐していく話。

主人公が消防士という設定だが、多分普通の消防士だったらこの話は成り立たないだろう(苦笑)。基本コンセプトとして主人公=アーノルド・シュワルツェネッガーがあり、「・・・じゃあ職業はなににしようか??」ってあとから決まったよう気がする。で、何故か消防士。確かにいつものように元特殊部隊の〇〇というのはもうあきあきしているし、ちょっと変化球をなげてみたくなったのだろう。個人的には「元特殊部隊の〇〇」でいったほうがしっくり来るとおもったのだけど・・。

演出的にはかなり本格派の演出がなされている。監督はアンドリュー・デイヴィス『沈黙の戦艦』とか『逃亡者』『守護神』などをてがけた監督だが、アーノルド・シュワルツェネッガーの作品のようなアバウトさはなく堅実な見せ方をしてる。でも、ストーリー的にはご都合主義的展開がおおい。
最後に裏切るテトリストの女も、どこまで芝居で何処からが本性なのかもよく判らない。シュワちゃんを欺くための芝居をしているはずのところが、どうみても本性的な描き方をしていて、それは観客を欺くためには必要なことなのだろうけど、策士が自分の策を管理しきれなくなっている感はいなめない。どこかに矛盾点を感じのだが・・・まあ、真剣にそれをみつけだすほど熱もいれられる作品でもないので、そこは流してしまう。

<あらすじ>
ロサンゼルス。コロンビアのテロリスト“ウルフ”(クリフ・カーティス)のしかけた爆弾テロで、妻子を失った消防隊長のゴーディー(アーノルド・シュワルツェネッガー)。しかしCIAやFBIは何週間経っても捜査を進めようとしない。自らの手で犯人を捕まえると決意したゴーディは単身コロンビアに乗り込む。ゲリラの本拠地に近い小さな村に潜伏したゴーディは、そこに暮らす若き女性セリーナ(フランチェスカ・ネリー)と、その息子マウロに出会う。しかしセリーナはウルフの妻であった。
ウルフの行動についていけなくなった彼女は、ゴーディーに協力し、息子をつれてゴーディとともにコロンビアから脱出する。セリーナから次のテロの標的がワシントンであるということを知らされる米情報局だが、実は彼女こそがテロリストの侵入分子だった。すんでのところで彼女の正体に気づいたゴーディはセリーナ&ウルフと対決し、彼らを倒した。

# by ssm2438 | 2010-10-20 07:01